10月15日、火曜日の晩、BFIのMaurice Pialat特集から、これはJean-Claude Brisseauの監督作。 タイトルはフォークナーと関係あるのかないのか。英語題は”Sound and Fury”。
13歳のBruno (Vincent Gasperitsch)は母の暮らす団地に籠入りのカナリアと一緒に移ってくるのだが仕事が忙しいらしい母親はママっぽい台詞をメモ書き伝言しているだけで最後まで姿を現さず、転校生として学校に入るものの学年レベルは下だし、だいたいの時間は同じ団地の同じ棟の悪ガキ- 家族揃ってろくでなし - のJean-Roger (François Négret) とつるんで悪いことしたり、でも少しだけ目にかけてくれる学校の女の先生に放課後に補講して貰ったりする。
Bruno自身もなにがしたいのか、これからどうしたいのかどうなりたいのかよくわかっていない半透明な状態でいつもぼーっとしていて、Jean-Rogerの仲間や家族がもたらす悪い世界と、学校の先生が教えてくれる遠くの広い世界と、いつも不在のママが示す空っぽと、たまに部屋の奥に現れる女神みたいな天使みたいな不気味なやつが投げやりに交錯していって、最後に世界の終わりというか世界が終わるというのはこういうことだ、みたいなことが一瞬で沸騰したかのように起こる。「響きと怒り」と共に。
最近のフランス映画にもよく出てくる郊外の団地に住む若者たちの焦燥とか野蛮とか荒廃がわかりやすく- 本人たちが何を考えているのか全くわからないという形で示されるわかりやすさ - 描かれていて、これって日本でも世界のどこでもある傾向だと思うのだが、やっぱりフランスのが強いねえ、と思ってしまうのは”Les Quatre Cents Coups” (1959) - 『大人は判ってくれない』があるからだろうか?
L’Enfance nue (1968)
2日、土曜日の午後、BFIのPilalat特集で見ました。 これがPialatの長編デビュー監督作。
英語題は”Naked Childhood” - 邦題は『裸の幼年時代』。プロデューサーにはFrançois TruffautやClaude Berriの名前がある。
10歳のFrançois (Michel Terrazon)は養子に出されていた家で黒猫を階段から落としたり(あれはやめようね)悪いことをしたので斡旋所に返品されて、今度はより年寄りの夫婦と少し年上のRaoulがいるThierry家に引き取られて、そこでは細めに面倒を見て貰ったりおばあちゃんのNanaがいるので少しはよいこになったかに見えたのだが、でもやっぱりだめでー。
親がいない - 捨てられたり戻って来なかったりの - 放置されてきた少年が(おそらくは)善悪の見分けのつかない状態で悪いことをしてしまう - 本人にはどこがどうしていけないのかわからないので悪びれることもなくて、困った子として孤立して、本人もどうせひとりだし、と向こうに行ってしまう。というありそうな物語は本当にそういうものなのか? っていう問いがここにはあって、そのレベルで納得したりさせたりって、映画がやってはいけないことではないか? と、Pialatの映画は問うている気がする。子供は天使ではないし悪魔でもないし(女性もね)、ひとりひとり名前があるし気にかけている人は必ずいるし、そういう目で家族のありようを見つめることから始まったPialatの映画、いいな。
11.08.2019
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