12.01.2019

[film] Sorry We Missed You (2019)

12月だねえ。
11月28日、水曜日の晩、CurzonのBloomsburyで見ました。 今年のカンヌでパルムドールを獲った作品。 邦題は..  外れていないとは思うもののそれを言ったら終わりじゃないの、だと思う。ストレートに「ごめん我々にあなたは見えなかった」とかでもよかったのでは。

“I, Daniel Blake” (2016)に続いて、監督Ken Loach、脚本Paul Lavertyによる今の英国社会のどん詰まり諸問題を描いていて、見ていてとても辛い。 “I, Daniel Blake”と同様、はじめは真っ黒の画面の奥から会話だけが聞こえてくる。夢から目覚めるときのような。これは夢じゃないから、と言われているような。

冒頭、イギリスの郊外に暮らすRicky (Kris Hitchen)は宅配ドライバーになろうとしていて、フランチャイズだから雇用契約はないよ、定額の給与も年金も保障もない、機器類は貸し出し、でも働けば働くだけ収入になる、それでいいか? と言われて、そのオファーを受ける。彼の妻Abbie (Debbie Honeywood)はパートで訪問介護の仕事をしていて、Rickyが仕事用の車を買うので彼女は自分の移動用の車を売らなければならなくて、バスでの移動はしんどいけど、がんばるしかない。 ふたりにはストリートアーティストになりたいらしい息子のSebとよい娘のLisaがいて、子供達は苦労している両親のことはわかっているものの、そういう年頃でもあるSebはなんでそんなに無理して苦労してるんだ?..  って素行が悪くなっていく。行動の選択に幅があってそうなるのではなく、他に動きようがない状態で身動きがとれなくなっていく、ということ。

2008年の金融恐慌以降、社会の隅々にまで広がっていった自己責任型の社会意識が生み出す泥沼地獄の具体的なさまをこれでもか、と描きだす。 時間とコストの効率化を際限なく強いるサービス化社会の末端で、サービスを買った人とそれを提供する人の間で(どっちも人間なんだから起こって当たり前の)いろんな摩擦に衝突が、(それがそのまま収入にはねるので)人々を疲弊させ、結果として家族を壊していく。 そういうシステムの元で回っている経済、それを回している社会、そうやって隣の人たちを羊みたいに叩いて追って囲いこんでいく社会って、いいのこのままで?

“I, Daniel Blake”にもあったし、この作品では襲われて怪我をしたRickyが病院に行くシーンにもあるけど、このシステムは人間のベースを壊れない機械(壊れるのは自分の責任)と想定しているので、いったん自身の体が壊れてしまうとどうしようもない(代替を据えておわり) - そして本来ならそこを支えてくれるはずのシステムとしてのNHSもまた..  いくら家族の絆が..  とか想いが.. とか言ったってどうすることもできないんだよ、わかってる? にっぽんの「絆」が大好物なにっぽんじんたち?

あまりに生々しいしきついし、これってそういう境遇にある人たちを取材してドキュメンタリーとして纏めた方がよかったのでは、と思うかもしれないけど、ここでKen Loachが描きたかったのは単なる距離やギャップの問題ではなく、それでも傍に立って寄り添おうとするひとりひとりの姿や眼差しだったのではないか。だから老婆の皺だらけの指がAbbieの髪を梳くところとか、最後車を運転しながら子供のように泣きだしてしまうRickyとか、Lizaの心配そうな顔、底抜けの笑顔を見るべきなの。 その辺がシネフィルの人たちからは甘さとかくどさに見えてしまうのかもだけど、でももうそんなこと言ってもしょうがないくらい、今の厳しさって感傷込みでも抜きでもとにかく広げていかないといけない - 特にカンヌに来るような連中にはね - 性質のものなのではなかろうか、って。

あと、にっぽんの場合ここに、親の言うことには従え、とか、大黒柱、とか、世間の目、とか、トラッドに刷り込まれた地獄が重なって襲ってくるので更にしんどくなるよね。

例えば10年前と比べて、世界は本当によくなっていると言えるのかしら? “Sorry We Missed You”の”We”が意味するところの多層化・多重化などなども含め、2010年代の終わりに考えてみるのに丁度よい題材ではなかろうか。

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