10月のその他の、まだぜんぜん書けていないのがいっぱいなのだが、いくつかを。
Islander: A New Musical
21日、月曜日の晩、Southwark Playhouseで見ました。今年のEdinburgh Festivalで好評だったというので。 客席が舞台を取り囲むかたちで、各辺は3列くらい、ほぼ真四角でとても小さい。マイクスタンドふたつとごろごろのついた台がひとつ、エフェクター&ミキサーの箱がひとつ。
出てくるのはBethany TennickとKirsty Findlayのふたりの女性。最初はアカペラで、マイクを手にしてからはループをかけた手拍子から鼻息から踏み鳴らしまで、楽器音なしで歌いまくる。内容はスコットランドの孤島にひとり残された Islander - 女の子Eilidh(Bethany Tennick)とその友達とか祖母とか周囲の自然 - クジラとかいろいろな対話。 スコットランドのオークニー諸島の民話とか妖精の話がベースにあるそうで音楽(by Finn Anderson)はすこしケルトの民謡ぽいかんじ。とにかくふたりの歌の絡みがすばらしいし歌はうまいし、それだけ聴いていても楽しいの。
Tim Walker: Wonderful Things
12日の土曜日、V&Aでの個展。Tim Walkerというとウサギさん、だったのだが最近のはややぎらぎらしすぎててどうなっていくのかしら、ていうタイミングでこれまでの作品たちを振り返る展示。
セレブのポートレートからクラシック(バロック、ロココ..)をネタにしたインスタレーション作品まで、素材も含めたモダンと古典、理知と野性の組み合わせやコラージュはすごく尖がっているかんじはしなくて、ちょっとキャンプでファンタジーとロマンに溢れていて、ひとりでに踊りだすような楽しさがある。たぶん彼、Cecil Beatonがやっていたようなことをやりたいのかしらん。
Dalí & Magritte
16日、ブリュッセルに出張した時、オフィスに向かう途中で雨に降られた、ということにして(実際ひどい雨だったし)王立美術館に入った。
Bruegelを含むOld MastersのコレクションはBoschもCranachもあるし溜息しかないの。
ベルギーの画家、というとMagritteよりもDelvauxの方だし、Daliもべつにとくにそんなにー、なのだが、なんとなくお得そうだったので。
両者の絵が明確にわかるふうでなく並んでいて、見る前はふたりの違いなんてすぐわかるじゃん、と思っているとそうでもなくて、似たタッチやテーマのものが結構あるのが新鮮だった。目に見えているその表面をひたすら磨いて滑っていってつい我々の眼球をも滑らせておっとっと、になる楽しさ。 頭を抱えている子供たちがそこらじゅうにいておもしろかった。
Steve Reich/Gerhard Richter
23日、水曜日の晩、Barbicanで見て、聴いた。
この晩、19:30と21:30の2回上映/演奏があって、この日は再びブリュッセルに日帰りで行っていてたので、Eurostarの電車の駅から直行して間に合った。
はじめにReichの“Runner” (2016)をBritten Sinfonia (指揮: Colin Currie)が演奏して、これはいつものReichで、その後オーケストラが14-pieceに減って、背後のスクリーンも使った”Reich/Richter”が演奏・上映される。スクリーンには始めに”Movie”とだけ文字で出たような。European Premiereとあったけど本当かしら。
そんなにどぎつくないカラーの横縞が緩やかにその幅を変えながら揺らめいていて、そこに傷のように縦のギザギザが入って広がり、横の隊列が乱れて縦横のセーターみたいになり、その模様が更に変態して電子曼荼羅みたいな極彩色展開になっていく。 Richterの最近の絵にそんなBridget Rileyふうのカラフルなパターンのはあるのは知っていて、でもここではそれが動いて時間と共にゆっくり変化していく。Richterの作家性にこんなふうななんでもあり、を置くのはいつものこと(どうでもいい)なのだが、これがReichの音楽とどこまで同調して移ろっていくのかはまた別の話で、これなら狂ったように緻密なエレクトロなドラッギーなやつにした方がおもしろくなったのではないか。Reichの音楽パートは、それはそれでよかったのでなおのこと。単にReichとRichterを並べてみたかっただけなのかもだけど。 上演前にSteve Reich氏のトークがあったようで、そこではどんなことを語ったのかしらん。
Nam June Paik
26日の午後、Tate Modernで見ました。なんで今Paik ? なのかは不明。
TVやVideoを使った環境とかマスを意識した後期のインスタレーション作品よりもFluxusの頃とかJoseph Beuysとやっていた頃の方が断然おもしろい。いま彼がいたらインターネットやSNSを使ってどんなことをやっただろうかねえ、とたまに思うけど、なんか外してしょんぼりになっちゃう気がする。 PaikもFluxusもプリント- ガリ版文化の人たちで、よいわるいではなくて、世界がぜんぜんちがうような。 デジタルじゃないの。デジタルなんてどーでもいいの。
Philip Glass Ensemble: Music with Changing Parts (1970)
30日、水曜日の晩、Barbicanで見て、聴いた。
演奏はPhilip Glass Ensembleに、Tiffin ChorusとLondon Contemporary Orchestraが加わって、鍵盤は指揮者のところにあるのも入れて5台、なかなかの大編成。 置いてあったパンフには、最近若いアンサンブルがこの曲を演奏しているのを耳にしてなにかが湧いてきて、コーラスとブラスのパートを大幅に書き足したのだそう。 まったく途切れのない1曲90分。
機械の旋律(段々で時折つんのめる)が渦を巻きながら昇っているのか降りているのかわからないエッシャーの運動を延々繰り返している傍で、コーラスとブラスが溜息のような歓声のような呻きのような息を吹きこんで、そのいろんなぶつかり合いが分厚い地層を縦に割ったり斜めに裂いたり。そのおもしろさとスリルが後半に向かうにつれてどんどんアナーキーになって収拾つかなくなって、でも建物全体は揺るぎない。
こないだの”The Bowie Symphonies”も悪くはなかったが、これを聴いてしまうとエネルギーの凝り固まりようがぜんぜん違うかんじ。
もう10月もおわりだねえ。 あと2ヶ月で10年代もおわりだねえ。
10.31.2019
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