28日、水曜日の晩、SOHOのCurzonで見ました。
21時開始で、上映前に監督ふたりの挨拶とQ&Aがあるというので、ホールにはDJが入ってパーティスタイルになっていた。
挨拶と言ってもロックスターであるところのJosh Hommeさんであるからこれまでに見てきたそういうイベントとはぜんぜん違ってわーわーきゃーきゃーで質問もお行儀よく挙手して指名、の前に勝手に声かけちゃうは酔っ払いはクダ巻いてるはで、なかなか大変だった。
もう1人の監督Andreas Neumannさんの言うところによるとある日突然Joshから電話が入って、明日から砂漠に来れるか? というのでそれに応えて行ったのが始まり、と。 その時点では現地にIggy Popがいるなんて知らされていなかった、って。
Q&Aのやりとりは制作のプロセスとか考え方に関するものがほとんどだったが、もうびっくりするくらいにふつうのきちんとした、想定通りの答えしか返ってこなくて、この人は不良でかっこつけているようで、やっぱりほんとに真面目で誠実な努力のひとなんだな - こういう外見のひとってそうであることが多いけど - としみじみ感動した。 Iggy Popという巨人への憧れ、畏れとリスペクト、彼と競演・共同作業をすることの自分にとっての意味、達成点、プレッシャー、リスク、それらは映画の中でも語られているが、自分史のなかでも決して小さなものではないのできちんとジャーナルを記して、こうして映像として残そうと思った、と。このようにして撮られた(ライブも含めて)40時間分のマテリアルを編集してできたのがこのドキュメンタリーで、ポスターに腕組みした二人が写っているようにIggy Popひとりにクローズアップしたものではなく、それなりに成功してイメージを確立し、自身のやりたいことをそれなりにやれるようになったミュージシャンであるところのJosh Homme氏が予測・制御不能な老人・猿人・巨人であるところのIggy Poo翁を彼の砂漠のスタジオに呼び寄せて迎え撃ち、レコーディングしてライブに出て、やんやの喝采と賞賛を浴びるまで。
なんといっても映像に登場しただけでやばい臭気、雰囲気が漂ってしまう被写体Iggy Popのすごさ - 皺にシミ、皮のたるみ、その裏と奥でなにが蠢いているんだか - これを眺めるためだけに見にいってもいい、それくらいの異物感、変な人は変なことするから変なんじゃなくてそこにいるだけで変なんだっていっぱつでわかるから。 これがAmerican Valhalla - 歌詞のなかでは”I don't know”とか”I’ve Nothing”とかばかり言っているが、そういうのが一番こわいんだから。
そんな天然IggyとかっちりかっこつけのJoshの和かに微笑みながらとぐろを巻く真剣勝負がはらはらでおもしろいの。
ああそれにしても、”Gimme Danger” (2016) 見たいよう。 こっちではとっくにDVDになってるのに。
陰が射してざわざわするのがレコーディングの最中に突然入ってきたBowieの訃報で、唯一ここだけとても生々しく、こちら側にも繋がってくる。
レコーディングが終わったあとの後半はツアーの日々となるのだが、ライブシーンはおおっ! ってなってもすぐに切られてしまうところがきつい。ライブフィルムでないことがわかっていても、このバンドのライブを目撃できなかった悔しさがじわじわと、後からだけどくる。
Q&Aでも - すばらしかったありがとう - と何度か言われていたLondonのRoyal Albert Hallでのライブがクライマックスででてくる。
あーあーあーあー、ったらない。
唯一わかんないのが聞き手として出てくるAnthony Bourdainなんだけど。 なんでこいつなの?
6.30.2017
[film] The Graduate (1967)
25日の夕方、SOHOで”The Seasons in Quincy: Four Portraits of John Berger”を見たあとにBFIに移動して見ました。 “The Seasons..”が終わったのが17:54で、これの開始は18:15で、地下鉄の駅まで走っていって目の前で扉を閉められたときにはぜったい無理だと思ったのだが、Waterlooで下りてから走って駆けこんだら丁度始まる手前で、席に座ってDustin Hoffmanみたいににーっ、て笑った。
BFIではDustin Hoffmanの特集上映をやってて、そのなかの目玉が、これの4Kリストア版。これだけは他の映画館でもリバイバル上映されている。「卒業」 ← よい邦題ね。
中学校のときに映画館で見て以来で、そのときはS&Gの音楽を聴く、ていうのが大義名分としてあったりして(うそつき)、内容についてははらはらどきどきだったわけだが、そののち自分がこの歳になって、BenではなくてMrs. Robinsonの年齢目線で見るようになったり … そんなはずはないのだった。
大学を輝かしい成績で卒業して西海岸の実家に戻ってきたBen Braddock (Dustin Hoffman)は、歓迎パーティーの晩にMrs. Robinson (Anne Bancroft)に激しく誘惑されて、その晩はなんとか逃れたものの結局押し倒されてやられて関係ずぶずぶになって、でも彼女の娘のElaine (Katharine Ross)に出会ったらそっちにめろめろになって揺れまくって、どうするんだ、になるのだがやっぱりElaineだ、てなったらMrs. Robinson は激怒して娘は別のと結婚させるから、て言われてBenは ..
今だとここで描かれる挙動のあれこれにセクハラ - パワハラ - 童貞喪失 - ストーキング、といったラベルを貼ってしまうのは簡単なのだが、これらはあくまでもBenが自分を発見して「卒業」するための「通過儀礼」としてあって、40年前の西海岸はそんなふうだったんだから、とかいわれてもちっともおかしくない。
というか、そういった人と人の交錯よりも、プール(の底)、プールサイド、ランニング、夜のホテル、クラブ、夜の通り、動物園、などのイメージが昔に見たときよりより鮮烈に映って、これらの場面場面が演劇の書き割りとしてかっちりBenの逡巡にはまるように機能していて、この辺は我々の知る青春映画のそれ - 主人公たちのエモが画面を作ったり壊したり - とはちょっと違うかも、て思った。
そういう、60年代アメリカ西海岸のエスタブリッシュメントの(演劇)ドラマとして見てみるとめちゃくちゃ面白くて、実際客席はみんなげらげら笑いながら見てて、昔はみんなしーんとして見てたよねえ(なんでだ?) って。
60年代の西海岸、プール、とかから、ここにLBGTを絡めてみる、ていうのは今ならありかも、とか、同様の女(達)と少年を巡る物語である"20th Century Women"の続編 - Jamieのその後 - をこのプロットで撮ってみることは可能か、とか、今これをリメイクするとしたら誰が誰? とかいろいろ想像して遊ぶことができる。でもDustin Hoffmanみたいな演技 - むっつりいきなり乳を揉む、とか - ができる俳優、いそうでいないかも。
脚本のBuck Henryさんがホテルクラーク役で出てる。
前にLincoln Centerでの"The Owl and the Pussycat" (1970)のトークのときにこれのことを言っていたなあ、って。
音楽、”The Sound of Silence"が何度か流れて、大好きな曲なのだけど、この映画のトーンというか色味とはちょっと違うよねえ、とこれは昔も思ったかな。"Mrs. Robinson"はとてつもない、といまだに思うけど。
BFIではDustin Hoffmanの特集上映をやってて、そのなかの目玉が、これの4Kリストア版。これだけは他の映画館でもリバイバル上映されている。「卒業」 ← よい邦題ね。
中学校のときに映画館で見て以来で、そのときはS&Gの音楽を聴く、ていうのが大義名分としてあったりして(うそつき)、内容についてははらはらどきどきだったわけだが、そののち自分がこの歳になって、BenではなくてMrs. Robinsonの年齢目線で見るようになったり … そんなはずはないのだった。
大学を輝かしい成績で卒業して西海岸の実家に戻ってきたBen Braddock (Dustin Hoffman)は、歓迎パーティーの晩にMrs. Robinson (Anne Bancroft)に激しく誘惑されて、その晩はなんとか逃れたものの結局押し倒されてやられて関係ずぶずぶになって、でも彼女の娘のElaine (Katharine Ross)に出会ったらそっちにめろめろになって揺れまくって、どうするんだ、になるのだがやっぱりElaineだ、てなったらMrs. Robinson は激怒して娘は別のと結婚させるから、て言われてBenは ..
今だとここで描かれる挙動のあれこれにセクハラ - パワハラ - 童貞喪失 - ストーキング、といったラベルを貼ってしまうのは簡単なのだが、これらはあくまでもBenが自分を発見して「卒業」するための「通過儀礼」としてあって、40年前の西海岸はそんなふうだったんだから、とかいわれてもちっともおかしくない。
というか、そういった人と人の交錯よりも、プール(の底)、プールサイド、ランニング、夜のホテル、クラブ、夜の通り、動物園、などのイメージが昔に見たときよりより鮮烈に映って、これらの場面場面が演劇の書き割りとしてかっちりBenの逡巡にはまるように機能していて、この辺は我々の知る青春映画のそれ - 主人公たちのエモが画面を作ったり壊したり - とはちょっと違うかも、て思った。
そういう、60年代アメリカ西海岸のエスタブリッシュメントの(演劇)ドラマとして見てみるとめちゃくちゃ面白くて、実際客席はみんなげらげら笑いながら見てて、昔はみんなしーんとして見てたよねえ(なんでだ?) って。
60年代の西海岸、プール、とかから、ここにLBGTを絡めてみる、ていうのは今ならありかも、とか、同様の女(達)と少年を巡る物語である"20th Century Women"の続編 - Jamieのその後 - をこのプロットで撮ってみることは可能か、とか、今これをリメイクするとしたら誰が誰? とかいろいろ想像して遊ぶことができる。でもDustin Hoffmanみたいな演技 - むっつりいきなり乳を揉む、とか - ができる俳優、いそうでいないかも。
脚本のBuck Henryさんがホテルクラーク役で出てる。
前にLincoln Centerでの"The Owl and the Pussycat" (1970)のトークのときにこれのことを言っていたなあ、って。
音楽、”The Sound of Silence"が何度か流れて、大好きな曲なのだけど、この映画のトーンというか色味とはちょっと違うよねえ、とこれは昔も思ったかな。"Mrs. Robinson"はとてつもない、といまだに思うけど。
6.28.2017
[film] The Seasons in Quincy: Four Portraits of John Berger (2016)
25日、日曜日の午後にSOHOのCurzonでみました。
タイトルの通り、今年1月に亡くなったJohn Bergerの肖像を4つの短篇を重ねつつ浮かびあがらせたもの。
日本だと『見るということ』とか『イメージ—視覚とメディア』を中心にどうしても学術の人として語られてしまいがちだが、こっちでは彼自身がTVプログラムに出ていたこともあってとてもポピュラーな存在で、2〜3月はどの書店でも追悼で彼の本が平積みになっていた。
70年代からフランスの山奥の村Quincyに移り住んだJohn Bergerをいろんな人が訪ねて対話をしたり、過去と現在を重ねたり。
"Four Portraits"の4編は"Ways of Listening" 〜 "Spring" 〜 "A Song for Politics" 〜 "Harvest”で、冬 - 春 - 夏 - 秋の順番で、それぞれ監督もばらばらなのだが、見事な統一感があって、それは四季ごとに表情は異なるのにその土地の空気の感じや光の感触が変わらないのと同じようで、それはつまりJohn Bergerという人がそう人なんだろうな、と。
http://seasonsinquincy.com/
Tilda Swintonさんがナレーションしたり顔を出したりしていて、彼女とJohn Bergerは80年代からの付き合いで、同じ誕生日で、同じロンドン生まれで、Tildaさんがリンゴの皮を剥いたりしながら対面でとりとめなくいろんな会話をしていく"Ways of Listening"がすばらしい。
ものを見ること、話を、声を聴くこと、ものを、あるいは/例えば美術作品を見る、それも正しい見方で見る、というのはどういうことか、それが何故大切で必要なことなのか、ということを彼は繰り返し説いていて、それは聴くことについても同様で、美を味わうという体験の本質はそこにあるのだと、そしてそれはひとと話す・語るというところにも繋がってくるのだな、ということがようくわかる。 70年代の"Ways of Seeing"のアーカイブ映像でこちらに語りかけてくる彼も、3つめのエピソード"A Song for Politics"で政治について語る彼も、"Ways of Listening"でTildaと話をする彼も、その目と語り口はおなじように真っ直ぐで、変わらない。
"Play me Something" (1989)で共演しているTildaとJohnの切り返し映像が一瞬挿入されて、なんだか泣きたくなる。
"Spring"は農場に住むいろんな動物のお話で、彼らの姿を見ること(すばらしい豚さん)、考えることからStory Tellingのほうに話は転がっていって、これってこないだのTateでのDonna Harawayの"Story Telling for Earthly Survival"に繋がる気がしたのだが、ふたりの間に交流とかなかったのかしら?
"Harvest"は、監督がTildaで、Quincyを訪れたTildaの子供たちとJohnの息子との間の交流と対話があって、それは最初の"Ways of Listening"のエコーにもなっている。 こうして季節は移ろって少し膨らんで次に継がれていくよ、ということなのだろうが、ここで一番印象に残るのはTildaの子供みたいに素敵な笑顔なの。
全編でうねる見事なストリングスはSimon Fisher Turner、製作はDerek Jarman Lab。
ある意味イギリス的な美が凝縮されているようでたまらない。舞台はフランスなのだが。
日本でも公開されてほしい。
日本のJohn Bergerっていうと誰になるのだろう? やっぱり吉田 喜重かなあ。
John Berger関連で、もうひとつ。
26日、月曜日の晩にBFIの"Architecture on TV"のシリーズのラストで、"Berger on Buildings" ていうタイトルの上映があった。 彼が建築について語っているTVやフィルムを3本集めたもの。
- The Visual Scene (1969) 31min
- A City at Chandigarh (1966) Dir Alain Tanner. 44min
- 10 Thousand Days, 93 Thousand Hours, 33 years of Effort (1965) Dir Michael Gill. 28min
このうち、Alain Tanner監督による"A City at Chandigarh"がおもしろかった。ル・コルビュジエが設計した都市や建物のコンセプトや詳細には一切立ち入らずに全編にインドの音楽をがんがん流して、彼らの生活、学校、家族形態、などを紹介して、その断面断面にル・コルビュジエの建物やデザインしたなにかが映りこむような、そういう撮りかたをしている。 建築を撮るっていうのはそういうことでしょ、と。
もういっこの、"10 Thousand Days, 93 Thousand Hours, 33 years of Effort"は、郵便配達人のFerdinand Chevalがフランスの田舎に33年かけて作り上げた彼のパレス = 理想郷の紹介。 Berger自身がパレスのなかに入って彼が構築したぐちゃぐちゃな宇宙のすばらしさを解説してくれる。
でっかいNFT1での上映だったのだが、結構埋まっていて熱心にメモを取っているひとが多かった。
この後、NFT1ではトルコの猫映画"Kedi"のPreviewが。 ついにやつらがやってくる。
タイトルの通り、今年1月に亡くなったJohn Bergerの肖像を4つの短篇を重ねつつ浮かびあがらせたもの。
日本だと『見るということ』とか『イメージ—視覚とメディア』を中心にどうしても学術の人として語られてしまいがちだが、こっちでは彼自身がTVプログラムに出ていたこともあってとてもポピュラーな存在で、2〜3月はどの書店でも追悼で彼の本が平積みになっていた。
70年代からフランスの山奥の村Quincyに移り住んだJohn Bergerをいろんな人が訪ねて対話をしたり、過去と現在を重ねたり。
"Four Portraits"の4編は"Ways of Listening" 〜 "Spring" 〜 "A Song for Politics" 〜 "Harvest”で、冬 - 春 - 夏 - 秋の順番で、それぞれ監督もばらばらなのだが、見事な統一感があって、それは四季ごとに表情は異なるのにその土地の空気の感じや光の感触が変わらないのと同じようで、それはつまりJohn Bergerという人がそう人なんだろうな、と。
http://seasonsinquincy.com/
Tilda Swintonさんがナレーションしたり顔を出したりしていて、彼女とJohn Bergerは80年代からの付き合いで、同じ誕生日で、同じロンドン生まれで、Tildaさんがリンゴの皮を剥いたりしながら対面でとりとめなくいろんな会話をしていく"Ways of Listening"がすばらしい。
ものを見ること、話を、声を聴くこと、ものを、あるいは/例えば美術作品を見る、それも正しい見方で見る、というのはどういうことか、それが何故大切で必要なことなのか、ということを彼は繰り返し説いていて、それは聴くことについても同様で、美を味わうという体験の本質はそこにあるのだと、そしてそれはひとと話す・語るというところにも繋がってくるのだな、ということがようくわかる。 70年代の"Ways of Seeing"のアーカイブ映像でこちらに語りかけてくる彼も、3つめのエピソード"A Song for Politics"で政治について語る彼も、"Ways of Listening"でTildaと話をする彼も、その目と語り口はおなじように真っ直ぐで、変わらない。
"Play me Something" (1989)で共演しているTildaとJohnの切り返し映像が一瞬挿入されて、なんだか泣きたくなる。
"Spring"は農場に住むいろんな動物のお話で、彼らの姿を見ること(すばらしい豚さん)、考えることからStory Tellingのほうに話は転がっていって、これってこないだのTateでのDonna Harawayの"Story Telling for Earthly Survival"に繋がる気がしたのだが、ふたりの間に交流とかなかったのかしら?
"Harvest"は、監督がTildaで、Quincyを訪れたTildaの子供たちとJohnの息子との間の交流と対話があって、それは最初の"Ways of Listening"のエコーにもなっている。 こうして季節は移ろって少し膨らんで次に継がれていくよ、ということなのだろうが、ここで一番印象に残るのはTildaの子供みたいに素敵な笑顔なの。
全編でうねる見事なストリングスはSimon Fisher Turner、製作はDerek Jarman Lab。
ある意味イギリス的な美が凝縮されているようでたまらない。舞台はフランスなのだが。
日本でも公開されてほしい。
日本のJohn Bergerっていうと誰になるのだろう? やっぱり吉田 喜重かなあ。
John Berger関連で、もうひとつ。
26日、月曜日の晩にBFIの"Architecture on TV"のシリーズのラストで、"Berger on Buildings" ていうタイトルの上映があった。 彼が建築について語っているTVやフィルムを3本集めたもの。
- The Visual Scene (1969) 31min
- A City at Chandigarh (1966) Dir Alain Tanner. 44min
- 10 Thousand Days, 93 Thousand Hours, 33 years of Effort (1965) Dir Michael Gill. 28min
このうち、Alain Tanner監督による"A City at Chandigarh"がおもしろかった。ル・コルビュジエが設計した都市や建物のコンセプトや詳細には一切立ち入らずに全編にインドの音楽をがんがん流して、彼らの生活、学校、家族形態、などを紹介して、その断面断面にル・コルビュジエの建物やデザインしたなにかが映りこむような、そういう撮りかたをしている。 建築を撮るっていうのはそういうことでしょ、と。
もういっこの、"10 Thousand Days, 93 Thousand Hours, 33 years of Effort"は、郵便配達人のFerdinand Chevalがフランスの田舎に33年かけて作り上げた彼のパレス = 理想郷の紹介。 Berger自身がパレスのなかに入って彼が構築したぐちゃぐちゃな宇宙のすばらしさを解説してくれる。
でっかいNFT1での上映だったのだが、結構埋まっていて熱心にメモを取っているひとが多かった。
この後、NFT1ではトルコの猫映画"Kedi"のPreviewが。 ついにやつらがやってくる。
6.27.2017
[film] Transformers: The Last Knight (2017)
ネタばれしてるからね。
24日の土曜日の夕方、BFIのIMAXで見ました。 いっぱいにはなっていなかったけど、"The Mummy"の公開直後よりは入っていた。
3DのIMAXカメラで撮ったというのでどんなかなー、とかそれくらい。 シリーズ5作目(なんだって)で、前作で恐竜ロボみたいのが出てきたあたりでもういいかげんにしてほしい、になっているので、機械系のぐじゃぐじゃをどこまで映像としてジャンクなぐじゃぐじゃとして見せることができるのか、しか興味はないのと、あと米国での反応がなんかひどいようなので、どれくらいひどいのかしら、と。
... なるほどなー。
オープニングは今から1400年前、中世の英国の戦争ばっかしやっていた時代に魔術師マーリンが洞窟に潜んでいたTransformerと取引をして、そのおかげでアーサー王は勝つことができた、みたいな話があって、そこから話は現代に飛んでOptimus Prime は宇宙を放浪してて、Transformerは一切御法度で、それらを取り締まる組織が暗躍してて、でもCade Yeager (Mark Wahlberg)とか子供たちはアンダーグラウンドでカウンターしてて、ある日救えなかった年寄のTransformerからYeagerが古代のメダルみたいのを貰ったらそれが実はやばいやつで、追っかけっこが始まって、その由来と謎を知る英国の教授Anthony Hopkins が動き出して、宇宙では Optimus Primeが女王ロボみたいなのに捕まって洗脳されて、やっぱり地球と地球人は全滅させないと、ってでっかい船団組んでやってきて、と、あれこれてんこ盛りの150分。 とにかく長い。
要するに人類の戦争の歴史は、Transformerたちの代理戦争だったので、自分たちの歴史を取り戻せ! って宇宙の極右Transformerたちが叫んで地球に押し寄せてきたもんだから人類は絶体絶命で、そんななか、最後の希望(Last Knight)としてクローズアップされたのがどんな危機が襲ってきても"Oh Shit!" しか語彙がないアメリカ人で、こんなので大丈夫なのか人類? なのだが。
戦争をやって勝ったほうが強い・偉い・正しい、という考え方がベースにあると歴史修正主義とか神話化とかフェイク、みたいな話は必ず出てくるもので、それを宇宙全体に敷延して、地球で行われてきた全ての戦争をこの流れのなかで正当化しようとする。 で、更についでに、そこにやっぱしアメリカがいないとね、みたいな流れに持っていこうとするプロパガンダ映画で、そこまでは考え過ぎじゃないの、かも知れないけど、でもこの映画(フランチャイズ)の舞台になっているとこでは戦争は永遠になくならない - まだ続編ありそうだし、どれだけ地面や建物が崩れても飛ばされても主人公たちは無傷で死なないし、女性はみんなあんなふうな恰好してるし。 もちろん、そんなこと言いだしたら最近のハリウッド映画なんてみんなこんなのじゃん? なのかもしれないけど、まあここまで露骨にバカバカしく開き直ったのってないよね。 やっぱしあの大統領のせいなの?
映像的には目の前の場面と俯瞰した場面がちゃんと繋がっていかないので、がーがーがちゃがちゃどかどかやっているだけ、お金は掛かっているけど右翼の街宣と同様のやかましさしかない。
でも、こういうのが(案の定)こういう時代に出てきた、というのを確認しとくために見る、ていうのはあるかも。
こういう挑発は適当に流しておくのが一番、なんだろうけど、あまりにうざいからさー。
でも、この150分に2000円以上(?)払うんだったら、名画座で2本立てのほうがぜんぜん。
英国のシーンで、Sir John Soane's Museumの内部が一瞬出てきて、そこだけおお! でしたわ。
24日の土曜日の夕方、BFIのIMAXで見ました。 いっぱいにはなっていなかったけど、"The Mummy"の公開直後よりは入っていた。
3DのIMAXカメラで撮ったというのでどんなかなー、とかそれくらい。 シリーズ5作目(なんだって)で、前作で恐竜ロボみたいのが出てきたあたりでもういいかげんにしてほしい、になっているので、機械系のぐじゃぐじゃをどこまで映像としてジャンクなぐじゃぐじゃとして見せることができるのか、しか興味はないのと、あと米国での反応がなんかひどいようなので、どれくらいひどいのかしら、と。
... なるほどなー。
オープニングは今から1400年前、中世の英国の戦争ばっかしやっていた時代に魔術師マーリンが洞窟に潜んでいたTransformerと取引をして、そのおかげでアーサー王は勝つことができた、みたいな話があって、そこから話は現代に飛んでOptimus Prime は宇宙を放浪してて、Transformerは一切御法度で、それらを取り締まる組織が暗躍してて、でもCade Yeager (Mark Wahlberg)とか子供たちはアンダーグラウンドでカウンターしてて、ある日救えなかった年寄のTransformerからYeagerが古代のメダルみたいのを貰ったらそれが実はやばいやつで、追っかけっこが始まって、その由来と謎を知る英国の教授Anthony Hopkins が動き出して、宇宙では Optimus Primeが女王ロボみたいなのに捕まって洗脳されて、やっぱり地球と地球人は全滅させないと、ってでっかい船団組んでやってきて、と、あれこれてんこ盛りの150分。 とにかく長い。
要するに人類の戦争の歴史は、Transformerたちの代理戦争だったので、自分たちの歴史を取り戻せ! って宇宙の極右Transformerたちが叫んで地球に押し寄せてきたもんだから人類は絶体絶命で、そんななか、最後の希望(Last Knight)としてクローズアップされたのがどんな危機が襲ってきても"Oh Shit!" しか語彙がないアメリカ人で、こんなので大丈夫なのか人類? なのだが。
戦争をやって勝ったほうが強い・偉い・正しい、という考え方がベースにあると歴史修正主義とか神話化とかフェイク、みたいな話は必ず出てくるもので、それを宇宙全体に敷延して、地球で行われてきた全ての戦争をこの流れのなかで正当化しようとする。 で、更についでに、そこにやっぱしアメリカがいないとね、みたいな流れに持っていこうとするプロパガンダ映画で、そこまでは考え過ぎじゃないの、かも知れないけど、でもこの映画(フランチャイズ)の舞台になっているとこでは戦争は永遠になくならない - まだ続編ありそうだし、どれだけ地面や建物が崩れても飛ばされても主人公たちは無傷で死なないし、女性はみんなあんなふうな恰好してるし。 もちろん、そんなこと言いだしたら最近のハリウッド映画なんてみんなこんなのじゃん? なのかもしれないけど、まあここまで露骨にバカバカしく開き直ったのってないよね。 やっぱしあの大統領のせいなの?
映像的には目の前の場面と俯瞰した場面がちゃんと繋がっていかないので、がーがーがちゃがちゃどかどかやっているだけ、お金は掛かっているけど右翼の街宣と同様のやかましさしかない。
でも、こういうのが(案の定)こういう時代に出てきた、というのを確認しとくために見る、ていうのはあるかも。
こういう挑発は適当に流しておくのが一番、なんだろうけど、あまりにうざいからさー。
でも、この150分に2000円以上(?)払うんだったら、名画座で2本立てのほうがぜんぜん。
英国のシーンで、Sir John Soane's Museumの内部が一瞬出てきて、そこだけおお! でしたわ。
[film] Ma Loute (2016)
23日、金曜の晩、BloomsburyのCurzonで見ました。 英語題は"Slack Bay"。
自分にとっては血も涙もない鬼畜系の監督 - "Twentynine Palms" (2003) とかいまだにトラウマ - Bruno Dumontの「コメディ」だという。
確かに笑えないこともないのだが、なんかわけわかんないけどおかしい、ていうよりは、わかんないことはないけどどう受けとめたらよいのかわかんないので笑うしかない、という、そういう系の笑い - かと言ってブラックなかんじでもないの。
フランスの海岸 - たぶんこれがSlack Bay = 閑散とした入り江 - でムール貝を採ったり、観光客の浜辺や入り江の横断を担いだり船で渡したりして暮らしているBrufortの家があって、父母がいて、Ma Loute (Brandon Lavieville) はそこの長男で、彼の下に幼いガキ共3人がいる。
そこを見下ろす高台の別荘に毎年恒例の避暑にやって来たのが貴族でお金持ちっぽいVan Peteghemの一族で、André (Fabrice Luchini) とIsabelle (Valeria Bruni Tedeschi) の夫婦と子供たちとかで、後からAude (Juliette Binoche)もやってきて、いつもからから陽気でかしましい。
あと、この浜辺の近辺で人が消えたり行方不明になったりしている、というので巨デブの捜査官Machin (Didier Desprès)とその部下たちが現場周辺をいつも捜索してまわっている。
ていう3つの集団の動きとその間でぽつんと咲いたMa LouteとAudeの娘Billie(Raph)との恋 - をひと夏の浜辺の上で追っていて、爽やかな夏の思い出が残る、というよりは浜辺で立ち尽くしてぼーぜん、系の。
たぶんそうだろうな、と思っていたとおり、まともな人がほとんど出てこない。「まとも」っていうのはそれはちがう、とかそっちじゃない、とか、そういうことよ、とか突っ込みも含めて交通整理のようなことをしてくれるひとをいうのだが、そういうのがなくて、いるとしたら天を仰いで嘆き悲しんでばかりのIsabelleくらいなので、ことの成り行きを見ているしかない - どんなことが起こっても- ヒトがヒトを食べたって、ヒトが空を飛んだってそういうもんなんだ、と受けとめるしかない。
というわけで、由利徹が憑依したとしか思えないAndréのやばい動きがあり、絶えずきゅうきゅう音を立てて風船のように移動したり転がったりしているMachinがいて、すっかり豪快な大阪のおばはんに変貌してしまったので目を合わせられないJuliette Binocheがいて、そういう外から来た人々の反対側に無表情で殆ど喋らず、目配せのみで不気味に動いて「仕事」をしていく地元のBrufortの家の人たちがいて、その間で、たまに男装をしたりするBillieとMa Louteが動物のように出会って動物のようにふうぅって引っ掻きあって離れて、こんな場所に神はあるのか、と嘆くといないこともないよ、ほれ、とか。
そんなふうに見ているしかないのだったらしょうもないんじゃないの、かというとそうでもなくて、これまでもフランスの田舎の不寛容で冷酷非情な光景(with 宗教)を切り取ってきたBruno Dumontは、ここの入り江の光景にこれらの半腐れした人々の表情や挙動を的確に置いたりスラップスティックに飛ばしてみたり、見て楽しい一枚の絵にしている。 シュルレアリスムの絵にこんなのあったよな、みたいな。
シネマヴェーラの「妄執・異形の人々」特集への数年後のエントリーは絶対確実なやつで、だから、原題の"Ma Loute"よりは場所を示した英語題の"Slack Bay"のほうがよいかなあ、とか思った。
なにが起こるか予測つかないので最後まで釘づけ、というとこはあんまコメディぽくなかったかも。
最後に"FIN"が出るとなんかほっとしたし。
自分にとっては血も涙もない鬼畜系の監督 - "Twentynine Palms" (2003) とかいまだにトラウマ - Bruno Dumontの「コメディ」だという。
確かに笑えないこともないのだが、なんかわけわかんないけどおかしい、ていうよりは、わかんないことはないけどどう受けとめたらよいのかわかんないので笑うしかない、という、そういう系の笑い - かと言ってブラックなかんじでもないの。
フランスの海岸 - たぶんこれがSlack Bay = 閑散とした入り江 - でムール貝を採ったり、観光客の浜辺や入り江の横断を担いだり船で渡したりして暮らしているBrufortの家があって、父母がいて、Ma Loute (Brandon Lavieville) はそこの長男で、彼の下に幼いガキ共3人がいる。
そこを見下ろす高台の別荘に毎年恒例の避暑にやって来たのが貴族でお金持ちっぽいVan Peteghemの一族で、André (Fabrice Luchini) とIsabelle (Valeria Bruni Tedeschi) の夫婦と子供たちとかで、後からAude (Juliette Binoche)もやってきて、いつもからから陽気でかしましい。
あと、この浜辺の近辺で人が消えたり行方不明になったりしている、というので巨デブの捜査官Machin (Didier Desprès)とその部下たちが現場周辺をいつも捜索してまわっている。
ていう3つの集団の動きとその間でぽつんと咲いたMa LouteとAudeの娘Billie(Raph)との恋 - をひと夏の浜辺の上で追っていて、爽やかな夏の思い出が残る、というよりは浜辺で立ち尽くしてぼーぜん、系の。
たぶんそうだろうな、と思っていたとおり、まともな人がほとんど出てこない。「まとも」っていうのはそれはちがう、とかそっちじゃない、とか、そういうことよ、とか突っ込みも含めて交通整理のようなことをしてくれるひとをいうのだが、そういうのがなくて、いるとしたら天を仰いで嘆き悲しんでばかりのIsabelleくらいなので、ことの成り行きを見ているしかない - どんなことが起こっても- ヒトがヒトを食べたって、ヒトが空を飛んだってそういうもんなんだ、と受けとめるしかない。
というわけで、由利徹が憑依したとしか思えないAndréのやばい動きがあり、絶えずきゅうきゅう音を立てて風船のように移動したり転がったりしているMachinがいて、すっかり豪快な大阪のおばはんに変貌してしまったので目を合わせられないJuliette Binocheがいて、そういう外から来た人々の反対側に無表情で殆ど喋らず、目配せのみで不気味に動いて「仕事」をしていく地元のBrufortの家の人たちがいて、その間で、たまに男装をしたりするBillieとMa Louteが動物のように出会って動物のようにふうぅって引っ掻きあって離れて、こんな場所に神はあるのか、と嘆くといないこともないよ、ほれ、とか。
そんなふうに見ているしかないのだったらしょうもないんじゃないの、かというとそうでもなくて、これまでもフランスの田舎の不寛容で冷酷非情な光景(with 宗教)を切り取ってきたBruno Dumontは、ここの入り江の光景にこれらの半腐れした人々の表情や挙動を的確に置いたりスラップスティックに飛ばしてみたり、見て楽しい一枚の絵にしている。 シュルレアリスムの絵にこんなのあったよな、みたいな。
シネマヴェーラの「妄執・異形の人々」特集への数年後のエントリーは絶対確実なやつで、だから、原題の"Ma Loute"よりは場所を示した英語題の"Slack Bay"のほうがよいかなあ、とか思った。
なにが起こるか予測つかないので最後まで釘づけ、というとこはあんまコメディぽくなかったかも。
最後に"FIN"が出るとなんかほっとしたし。
6.26.2017
[film] Our High-Rise Heritage (1978 - 1988)
19日、月曜日の晩にBFIで見ました。
6月いっぱいどっかで開かれているLondon Festival of Architectureの一環としてBFIで"This Was Tomorrow: Broadcasting the arts - Architecture on TV"ていう過去の建築に関するTV番組アーカイブを束ねた特集上映をやっていて、そのなかの1つ(3本の短編をまとめて)。 そういうイベントがあるのも特集をやっているのもこれを見にきてから知ったのだが。
King's Collegeの教授で “Brideshead and the Tower Blocks” (1988)の監督でもあるPatrick Wrightさんによるイントロがあった。
ここでは英国の二次大戦後の建築、というより住宅政策のふたつの相反する方向性とそれが作りだした都市のイメージについて考察しています、ここにこの間発生したGrenfell Towerの火災を重ねてみると、いろいろなことが見えてくるはず、などなど。
Brideshead and the Tower Blocks (1988) by Patrick Wright. 40min.
イーヴリン・ウォーの『ブライヅヘッドふたたび』が出たのが1945年、戦後、その舞台となったBrideshead Castleを始めとする横に長く伸びる貴族の栄華を象徴する住居建築は(貴族そのものと一緒に)凋落の一途を辿り、かわりに縦に長く伸びたタワーブロックが都市部の住宅政策のなかから登場して、これと並行してNational Trustとかが主導する旧型の住宅を文化遺産として壊さずに保護修復しながら使い続ける動きもあって、その結果としてものすごく古い外観の建物の周辺を高層のタワーブロックが囲む、そういう形の都市が形成されてきている。 それぞれが抱えるいろんな問題を関係者証言と共に記録している。
Hackney Marshes (1978) by John Smith. 32min
ハックニー地区の原っぱとかサッカーグラウンドを見下ろすところに建てられた高層住宅コンプレックス - というか日本だと団地群、の住民へのインタビューとかその暮らしをスケッチしたもの。
こういうの、いつの時代のどこの場所の、なに聞いてもおもしろい。 不満不平とかが噴出するのは当然として、それでもこんなふうに暮らしているんだー ← つっこみどころ満載で、でもこれって誰にもどうすることもできないよね? みたいな問題のありようを示す。
撮影時から40年が経とうとしていて、今彼らはどこでなにを? ていうのは当然おもうこと。
The Kids from the Flats (1984) by Julian Ashton. 26min
これも同じようにChelsea’s World’s End Estate - Vivienne Westwoodのお店の近所 - うちからも割と近所 - に暮らす10代の子供達の夏を描いたもので、コミュニティでのいろんな活動 - 沢山のスポーツとかダンスとかミスコンみたいのとか16歳のママとか、住宅問題というより子供達の笑顔や走ったり跳ねまわったりする姿が印象的で、それはこういう長屋構成だから、なのかしら。 彼らも今はもう40代になっているはずで、元気であってほしいなー、とか。
Grenfell Towerの火災で顕在化した老朽化したタワーブロックの問題は、たんなる耐火壁の不備というだけでなく、貧困層の切り離しではないかとか、実際に住んでいる/住んでいた人々をこれからどうしていくんだとか、いろんな方面に飛び火しつつあるが、これらの、建てた後で人を囲って寄せてそのままにしてしまうとなんかやばいのではないか、という意識は70~80年代からあったのだな、ということがわかる、ていうのと、これって、日本だと「団地」,「ニュータウン」問題にそのままなるよね - 地方の空洞化や少子化との複合なので「ニュータウン」のありようそのものが問題としてクローズアップされてはいないのかもしれないけど。
あと、自分で物件を2ヶ月くらい探してみて、ロンドンの住宅のへんなかんじは少しわかった気がしたので、なるほどなー、だった。 大きな二択としてヴィクトリアン・スタイル(て言ってた)の古いフラットをリノベしたのするのか、割とモダンで設備が整っていてフロア数もあるアパートにするのか、があって、それぞれ全然ちがうので散々悩んで、結局日本では住めないようなかんじのとこにしてみよう、と今のところにしたのだが、まあいろいろあっておもしろい。 まだおもしろがっていられる余裕がある、というか、ずっと住むのとは別だから、というのがあるのか。住むのと考えるのとは別 … なのかなあ? でもとてもよい上映会でした。
6月いっぱいどっかで開かれているLondon Festival of Architectureの一環としてBFIで"This Was Tomorrow: Broadcasting the arts - Architecture on TV"ていう過去の建築に関するTV番組アーカイブを束ねた特集上映をやっていて、そのなかの1つ(3本の短編をまとめて)。 そういうイベントがあるのも特集をやっているのもこれを見にきてから知ったのだが。
King's Collegeの教授で “Brideshead and the Tower Blocks” (1988)の監督でもあるPatrick Wrightさんによるイントロがあった。
ここでは英国の二次大戦後の建築、というより住宅政策のふたつの相反する方向性とそれが作りだした都市のイメージについて考察しています、ここにこの間発生したGrenfell Towerの火災を重ねてみると、いろいろなことが見えてくるはず、などなど。
Brideshead and the Tower Blocks (1988) by Patrick Wright. 40min.
イーヴリン・ウォーの『ブライヅヘッドふたたび』が出たのが1945年、戦後、その舞台となったBrideshead Castleを始めとする横に長く伸びる貴族の栄華を象徴する住居建築は(貴族そのものと一緒に)凋落の一途を辿り、かわりに縦に長く伸びたタワーブロックが都市部の住宅政策のなかから登場して、これと並行してNational Trustとかが主導する旧型の住宅を文化遺産として壊さずに保護修復しながら使い続ける動きもあって、その結果としてものすごく古い外観の建物の周辺を高層のタワーブロックが囲む、そういう形の都市が形成されてきている。 それぞれが抱えるいろんな問題を関係者証言と共に記録している。
Hackney Marshes (1978) by John Smith. 32min
ハックニー地区の原っぱとかサッカーグラウンドを見下ろすところに建てられた高層住宅コンプレックス - というか日本だと団地群、の住民へのインタビューとかその暮らしをスケッチしたもの。
こういうの、いつの時代のどこの場所の、なに聞いてもおもしろい。 不満不平とかが噴出するのは当然として、それでもこんなふうに暮らしているんだー ← つっこみどころ満載で、でもこれって誰にもどうすることもできないよね? みたいな問題のありようを示す。
撮影時から40年が経とうとしていて、今彼らはどこでなにを? ていうのは当然おもうこと。
The Kids from the Flats (1984) by Julian Ashton. 26min
これも同じようにChelsea’s World’s End Estate - Vivienne Westwoodのお店の近所 - うちからも割と近所 - に暮らす10代の子供達の夏を描いたもので、コミュニティでのいろんな活動 - 沢山のスポーツとかダンスとかミスコンみたいのとか16歳のママとか、住宅問題というより子供達の笑顔や走ったり跳ねまわったりする姿が印象的で、それはこういう長屋構成だから、なのかしら。 彼らも今はもう40代になっているはずで、元気であってほしいなー、とか。
Grenfell Towerの火災で顕在化した老朽化したタワーブロックの問題は、たんなる耐火壁の不備というだけでなく、貧困層の切り離しではないかとか、実際に住んでいる/住んでいた人々をこれからどうしていくんだとか、いろんな方面に飛び火しつつあるが、これらの、建てた後で人を囲って寄せてそのままにしてしまうとなんかやばいのではないか、という意識は70~80年代からあったのだな、ということがわかる、ていうのと、これって、日本だと「団地」,「ニュータウン」問題にそのままなるよね - 地方の空洞化や少子化との複合なので「ニュータウン」のありようそのものが問題としてクローズアップされてはいないのかもしれないけど。
あと、自分で物件を2ヶ月くらい探してみて、ロンドンの住宅のへんなかんじは少しわかった気がしたので、なるほどなー、だった。 大きな二択としてヴィクトリアン・スタイル(て言ってた)の古いフラットをリノベしたのするのか、割とモダンで設備が整っていてフロア数もあるアパートにするのか、があって、それぞれ全然ちがうので散々悩んで、結局日本では住めないようなかんじのとこにしてみよう、と今のところにしたのだが、まあいろいろあっておもしろい。 まだおもしろがっていられる余裕がある、というか、ずっと住むのとは別だから、というのがあるのか。住むのと考えるのとは別 … なのかなあ? でもとてもよい上映会でした。
6.24.2017
[film] Gifted (2017)
18日、日曜日の午後、Piccadillyで見ました。
恰好の父の日映画、のような宣伝をしていたのだが、実は「父」と娘のおはなしではないのだった。
でも、"(500) Days of Summer" (2009) のMarc Webbの映画なので、どっちにしたって見るの。
Mary (Mckenna Grace) とFrank (Chris Evans)と片目猫のFredは一緒に幸せに暮らしてて、7歳になったMaryは初めて学校に通うところで、パパ(じゃないけど)のFrankは少し心配で、Maryは小学校の算数の授業なんてたるくてやってらんない、て態度だし、気に食わないいじめっこに突っかかって相手の鼻折っちゃうし、やっぱり問題起こして、でもMaryの算数というより数学の才能がとんでもなくて、びっくりした担任があれこれ調べてみると、彼女の亡くなった母Dianeはボストンでナビエ - ストークス方程式の解決にあと一歩まで迫っていた数学者だったこととか、Frankは父親ではなくて彼女の叔父であることがわかって、これはそういう特殊な才能を持った子供向けの教育を受けさせたほうがよいのでは、となったところで、彼女の祖母 - Evelyn (Lindsay Duncan)がどこかから現れて、やっぱりそうよねその時が来たわ、ていう。
Evelynもかつては数学者で、娘に数学の夢を託していて、この孫となら再び、と燃えあがるのだが、Dianeに何があったかを知っているFrankは、まず普通の教育を受けさせるべき、とそれを拒んで、そしたらEvelynはMaryの面倒を見る権利を巡って訴訟を起こすの。
ものすごくよくできた娘とちょっと弱くて頼りないパパのお話、というと最近のだと"I am Sam" (2001) が浮かんで、確かにあそこのDakota FanningとここのMckenna Graceはなんか似ているのだが、あっちが娘と父の危なっかしいシーソーゲームだったのに対して、こっちは娘を中心にしたおしくらまんじゅうの取り合いで、どっちにしてもよいこは大変なんだねえ、とか思ったりする。
いまどき珍しくなーんのひねりもあんぐりの修羅場もない、誰の目にも結果が明らかで納得できるかっちりした長屋のホームドラマで、やさしいパパ(じゃないけど)と、おっちょこちょいでFrankを好きになっていく担任教師と、過剰な愛でつんけんしている祖母と、訴訟の過程で明らかになっていく悲しい過去と冷酷な結果と、ちょっと乱暴だけど頼もしい近所のおばちゃん (Octavia Spencer)と、そういうのに囲まれてみんなが世話をやきたくなるMaryはすくすく育っていくし、どんな子供だって"Gifted"なのよね、て誰もが思うに決まっている。
それにしてもChris Evansの抜群の安定感というか、Captain Americaとしかいいようのない頼もしい笑顔はもうなんかたまんないし、彼がシェルターに突撃して猫3匹を危機一髪で救うとこなんてあんたそれずるいわ、くらいなのだけど、Captain America(じゃない)をあそこの位置に持ってきたのはよかったのか、とか思わないでもない。 かつてはボストンで哲学を教えてて、Maryの世話をしながらマイアミでボートの修理工をしていて、金曜の晩だけひとりバーでぼーっとしている、そんな男があんなふうにいたりするもんなのか。 哲学教師崩れなんてJoaquin Phoenixくらい危なっかしいのでちょうどよいのではないか、とか。
Chris Evansって、このままじゃTom Cruiseみたいになっちゃうぞ - それがどうした、だが。
あと、これが数学じゃなくて、体育だったらどうか、とか、それぞれの性別が逆だったらとか、どうでもいいこともいっぱい考えた。
BBC2でずっとGlastonburyやってる。 来年はまってろ。
恰好の父の日映画、のような宣伝をしていたのだが、実は「父」と娘のおはなしではないのだった。
でも、"(500) Days of Summer" (2009) のMarc Webbの映画なので、どっちにしたって見るの。
Mary (Mckenna Grace) とFrank (Chris Evans)と片目猫のFredは一緒に幸せに暮らしてて、7歳になったMaryは初めて学校に通うところで、パパ(じゃないけど)のFrankは少し心配で、Maryは小学校の算数の授業なんてたるくてやってらんない、て態度だし、気に食わないいじめっこに突っかかって相手の鼻折っちゃうし、やっぱり問題起こして、でもMaryの算数というより数学の才能がとんでもなくて、びっくりした担任があれこれ調べてみると、彼女の亡くなった母Dianeはボストンでナビエ - ストークス方程式の解決にあと一歩まで迫っていた数学者だったこととか、Frankは父親ではなくて彼女の叔父であることがわかって、これはそういう特殊な才能を持った子供向けの教育を受けさせたほうがよいのでは、となったところで、彼女の祖母 - Evelyn (Lindsay Duncan)がどこかから現れて、やっぱりそうよねその時が来たわ、ていう。
Evelynもかつては数学者で、娘に数学の夢を託していて、この孫となら再び、と燃えあがるのだが、Dianeに何があったかを知っているFrankは、まず普通の教育を受けさせるべき、とそれを拒んで、そしたらEvelynはMaryの面倒を見る権利を巡って訴訟を起こすの。
ものすごくよくできた娘とちょっと弱くて頼りないパパのお話、というと最近のだと"I am Sam" (2001) が浮かんで、確かにあそこのDakota FanningとここのMckenna Graceはなんか似ているのだが、あっちが娘と父の危なっかしいシーソーゲームだったのに対して、こっちは娘を中心にしたおしくらまんじゅうの取り合いで、どっちにしてもよいこは大変なんだねえ、とか思ったりする。
いまどき珍しくなーんのひねりもあんぐりの修羅場もない、誰の目にも結果が明らかで納得できるかっちりした長屋のホームドラマで、やさしいパパ(じゃないけど)と、おっちょこちょいでFrankを好きになっていく担任教師と、過剰な愛でつんけんしている祖母と、訴訟の過程で明らかになっていく悲しい過去と冷酷な結果と、ちょっと乱暴だけど頼もしい近所のおばちゃん (Octavia Spencer)と、そういうのに囲まれてみんなが世話をやきたくなるMaryはすくすく育っていくし、どんな子供だって"Gifted"なのよね、て誰もが思うに決まっている。
それにしてもChris Evansの抜群の安定感というか、Captain Americaとしかいいようのない頼もしい笑顔はもうなんかたまんないし、彼がシェルターに突撃して猫3匹を危機一髪で救うとこなんてあんたそれずるいわ、くらいなのだけど、Captain America(じゃない)をあそこの位置に持ってきたのはよかったのか、とか思わないでもない。 かつてはボストンで哲学を教えてて、Maryの世話をしながらマイアミでボートの修理工をしていて、金曜の晩だけひとりバーでぼーっとしている、そんな男があんなふうにいたりするもんなのか。 哲学教師崩れなんてJoaquin Phoenixくらい危なっかしいのでちょうどよいのではないか、とか。
Chris Evansって、このままじゃTom Cruiseみたいになっちゃうぞ - それがどうした、だが。
あと、これが数学じゃなくて、体育だったらどうか、とか、それぞれの性別が逆だったらとか、どうでもいいこともいっぱい考えた。
BBC2でずっとGlastonburyやってる。 来年はまってろ。
登録:
投稿 (Atom)