ポレポレ東中野で、8月25日、火曜日の晩にProgram Aを、26日、水曜日の晩にProgram Bを見ました。
永田康祐という人もその作品も初めてでよく知らない状態で、どちらも中短編のドキュメンタリーを3本ずつ。Program Aが割と最近の作品群で、Program Bがそれよりすこし前の作品群、なのかしら。
特定のテーマを見つけて掘り下げていくにあたって、現地に飛んでフィールドワークをしたり関係者にインタビューを重ねながら事象の本質や根源に迫っていくやり方が、作家自身の内側の対話を反映するような近めのところを転がっていく。そのペースが見ている自分の思考の流れと同期するところが沢山あり、それがなんだか読書をしている時の感覚と快楽に近くて、とてもおもしろいと思った。 以下、いくつかの作品の感想を。
Fire in Water (2025)
『韓国語で酒を意味する「スル」は、「水(ス)」と「火(プル)」に由来するという説がある』 という(仮)説から入って、この「水の中の火」(タイトル)が示す発酵のありよう(劇中、背後でずっとぶつぶつぶつと発酵が進む音が鳴っている)、そのイメージから、日本統治下の朝鮮半島における稲作と酒造の歴史へと分け入って、食料増産と税収確保の名目で、こんなふうにそれまであった伝統文化、その根幹にあった食は変えられて、それが酵母や微生物のレベルまで徹底して浸透し変容と同化を促していったことを示す。戦争は単に人を殺して領土を奪うだけでなく、ここまでのことを徹底してやってしまうのだ、と。
これと同様のことは古のヨーロッパ大陸でも、シルクロードでもいくらでも起こってきたのだろうなー、というのと、主に男たちが飲んでいい気になって暴れたり憂さ晴らしするための「酒」や主食である米や麦を押さえる、のは基本なんだろうな、と。
だからこそ国を守らなきゃいけないんだ(→軍備、徴兵)、というのではなく、だから、こういうことが起こっちゃうから、日々の食や農について、自分が何を口にしているのか、それがどこから来たどのくらい貴重(食料はぜんぶ貴重)なものなのか、等に注意すべきだし、それらを支える農家へのケアをきちんとしなきゃ、になる。 「安くて旨けりゃなんでもいい(もってこい)は絶対ちがうし、やってはならんし。
このプログラムの他の2本 – “Fish of Empire” (2025), “Suddenly This Overview” (2026)も、小さな、でもどこかで目にとまったような場所や地点から戦時の記憶や歴史を掘り下げていって、それが今も物理的にそこにある、自分の足場と共振していることを示すものだった。過去や歴史は、常にどんなとこにでも、地理的に消滅したりしない限りいくらでもある - 見えない(or 見たくないから見ない)状態になっているだけ – を表に出すこと。映像表現とは。
Purée (2020)
それまで手掴みで、手で掴めるものをそのまま口に運んでがしがし食べたりしていた料理が、17世紀フランスで登場した「ピュレ」によって、どんなふうに変わり、その後のなにを変えていったのか、を実際にピュレを調理していく(顔は映らないが監督本人がやっているって)過程の映像– ふつうの料理の煮る焼く蒸す、とはちょっと違う実験みたいに見える - を通して調理すること、食べること、そのありようがどんなふうに変わっていったのか。
から始まって、作る人食べる人、作らせる人(権力側、富裕層)の構造や段差、それを支えた組織や共同体とその変遷まで文献を掘ったりしながら。 ピュレもムースもシロップもお粥もポリッジも豆腐もソフトクリームでも、うまうま、ってなんでも口にしてあんま咀嚼せずに食べてるけど、口のなかでもぐもぐ飲みこんでりゃいいってもんじゃないのよ。ちょっとは考えろ、実はそこにはこんなにもいろんな歴史や労働や権力がなだれ込んできて、ここから広がるなにかを示してくれる。 目をつむって口に入れたピュレ状のなにかが、口内で解けて広がって、これは何だなんの風味だ?って1000のスレッドが自動で立ち上がっていくのと同じように。
Translation Zone (2019)
実際に調理場でチャーハンを作りながら(最後のいただきまーす、まで)、料理のレシピや料理用語がどんなふうに翻訳されたり、あるいは食材そのものがどう代用されたりすり替えられたりして、その結果として「料理」が変容して(あるいは「定番化」して)きたのかをミクロにマクロに、その”Zone”の幅も含めて追っていって、例の「おいしけりゃなんでも..」というのとは異なる料理に向かう態度のようなものを考えさせる。
海外にいたので、現地の食材を使って現地の料理をどこまで「らしく」作れるか、とか日本の料理を現地の食材を使ってどこまで「らしく」作れるか、その「らしさ」はどこまで(だれが?)許容できるものなのか、等については相当試行錯誤とか失敗とかした(とても楽しかった)ものだが、そういうことを数万、数千万人のレベルでやっていくこと、そこに貿易や現地の流通事情やコミュニティの情報交換などが関わったりして、こんなふうにして大なり小なりの「レシピ」はできあがっていくのだなー(これって政治に近いよね)とか。 同じ民族の同じ系の料理でもマジョリティとマイノリティでもこれって起こりうるよな、とか、なにをもってスタンダードはスタンダードになるのか、とか、考えがいくらでも広がっていく。のが楽しい。
のこり1本の『鮭になる』 (2024)は太い朴訥な線の手書きアニメーション(作画:山本悠)で、養殖場で寄生虫に感染した鮭と老人の、どちらも用なしとなった彼らの行く末を描いて、とても他人事ではないので、しょんぼりした。 少しだけDon Hertzfeldtのアニメを思いだしたり。
9.01.2026
[film] Fire in Water 永田康祐映像作品集
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。