8月23日、日曜日の昼、新宿武蔵野館で見ました。
Suzana Amaral監督によるブラジル映画、原作はユダヤ人の両親のもとウクライナに生まれてブラジルで育ったClarice Lispector (1920-1977)の同名小説(1977-生前最後の小説)。英語題は”Hour of the Star”、邦題は『星の時』。
ベルリンのコンペティションに出品され、銀熊賞(最優秀女優賞)を受賞している。
原作(文庫本は部屋のどこかに積まれている)と映画では、原作の方には「ぼく」という男性の語り手がいること、舞台が原作ではリオデジャネイロ、映画ではサンパウロだったり、いろいろ違いもあるようで、別もの、と見ても構わないのかも。
時報を告げたりするラジオからは、ハエのスピードはxxで地球を一周するにはxx日掛かります、など、かなりどーでもいい森羅万象の豆知識みたいなのがゆっくりとしたナレーションでどこまでも流れていく。そういう空気のなかに19歳のMacabea (Marcélia Cartaxo)がいて、町工場のようなところのオフィスでタイピストをしているのだが、指いっぽんいっぽんでタイプしてて、仕上がりも汚れていてひどい、と上から文句を言われていて、わかった、わかっているけどがんばる、と返すしかない。
ブラジルの北の方からひとりで働きに来て、貧乏長屋のような共同下宿に暮らし、トイレはベッドの下に置かれた洗面器で、化粧もせず、着るものもどうでもよく、ホットドッグとコカ・コーラが好きで、休日もなにもせず地下鉄に乗るくらい、たまに話をするのは職場の同僚と同じ下宿にいる人たちくらい。でも困っていないしそんな辛くもないし、ただ生きてる。 どうすればもっとよりよく生きられるのか、みたいな考えはないし、言われたってなにをどうしたらよいのやら。
そんな彼女が公園でOlimpico (José Dumont)と出会って、彼は今は貧乏で、教育も後ろ盾もないけど国会議員になりたい、とかひとりで喋ってばかりなのだが、うんうん、て聞いているだけで自分からほぼ何も言わないMacabeaを気に入ったのか、一緒に出歩くようになる。のだが、Macabeaは彼の好きなように扱われていて、彼に小銭を渡して職場に電話してほしい、って言ってもしてくれなくて、これを付きあっているというのか、自分は恋におちているのかどうか、それすらもわかっていなくて、でも総合的にはいいかー って日々を流していく。
Macabeaの同僚のGloria (Tamara Taxman)は派手でとっかえひっかえいろんな男性とデートと別れ(ふられ)を繰り返していて、結婚相談所の魔女のような占い師(Fernanda Montenegro)から友人の男を奪えば理想の男性と出会える、って言われたので、MacabeaのOlimpicoを横取りして、Olimpicoはほいほいついてくるのだが、けっか理想の男性と出会えてしまったGloriaはあっさりOlimpicoを捨てて、同じ占い師からメルセデスに乗った裕福な外国人とすばらしい出会いがあるよ、と言われたMacabeaの方は…
なんの抑揚もなくさーっと最後まで流れていってしまう、表面的に眺めればひどい話なのだが、Macabeaは幸せだったのだろうか? 悪趣味かつ意地悪なキャラクターの置き方やストーリーの展開、全体に漂う非情なかんじはR. W. Fassbinderだなあ、としか言いようがない乾いた暗さに満ちていて、なのに彼女の態度はFassbinderのミソジニー光線から逃れるべくして逃れ、とても穏やかにラジオを流れていく声のようにプレーンな均衡を保っているように見える。 知ったこっちゃねえだろ、ほっとけ! というような。 そんな女性像を底辺にも頂点にも置かずに輝かせることもせずに示し、そこになんのドラマも持ちこまず、ただそこにあろうとした(そして実際にそうしている!)Marcélia Cartaxoはすばらしいと思った。
日本の女優でこういう境地のようなところまで行ったのは、やはり田中絹代だろうか。
あと、こんな「女性像」を映画でさらさらと一筆書きで描けてしまう、というところがブラジル(南米)であり日本である、ということ。
9.02.2026
[film] A Hora da Estrela (1985)
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