8月27日、木曜日の晩、ユーロスペースで見ました。
英語題は”Celtic Utopia”、邦題は『ケルト・ユートピア』。
上映後に監督のひとりDennis HarveyとPeter Barakanのトークと、更に現地と画面を繋いで映画にも出てきたThe DeadliansのSean Fitzgeraldが数曲歌ってくれた。
関係ないけど、Peter Barakanさんをライブで見た最後はいつだったか、Linton Kwesi Johnsonのライブ(っていつ?)以来だったのではないか。
冒頭、色褪せていていつのフィルムだかわからないが、女の子がアコーディオンを抱えて弾こうとして、でも音がでない・聞こえない? もうひとつは、道がない入り組んだ入り江に降りていったら岩の間に耳にタブのついた山羊だか羊だかの腐乱死体が挟まっていて、くっさーいー、ってなる。 どちらもなんだかとてもアイルランドなかんじがした。
ただ、この「アイルランド」についても「ケルト」についても、イメージとしてはなんとなく笛の音とか渦巻模様とか、わかるものの、もう少し具体的に、例えばケルトの文化を生きる、ってどういうことなのか、を見ようとした時、どんなものが見えてくるのか - について、現在のアイルランドのミュージシャンたちの演奏とインタビューを次々と映しながら、「こんなかんじ」のようなところを見せてくれる。
そこにはふたつの言語(ゲール語、英語)のこと、宗教対立から始まった分断と紛争の歴史、マグダレン・ランドリーでの虐待のこと、などの史実や事実があり、それでもor それ故に故郷に対する思い、ユートピア的な地に対する思いは強くあって揺るがない、というのが、インタビューや音楽を通して見えてくることで、そこに自分自身が聴いてきたアイルランドの音楽とか、現地に行って触れてきたアイルランドの食べ物とか街角とかいろんな文化の様子とかが重なって、やっぱりアイルランドいいなー、になる。この「いいなー」、は例えばフランスやイタリアに対するそれとははっきりと異なるやつで。
ただ単純で楽観的なアイルランド万歳! にはなっていないところがよくて、インタビュー対象となった若いミュージシャンたちの考えや見えているものも含めると、ぼろぼろでどうにかここまで来たし、わからないことだらけだけど、ここまで来れたんだから、あとは酒と歌があればどうにか、くらいかも、という平熱感。 単純なユートピアを目指すんだ!でも アイルランドはユートピアだ!でもなく、またケルトとは、ケルトであることとは?もはっきりと示されない(示しようがない)まま、子供の頃から歌い伝われてきたような歌をうたう、歌うこととは、等について、政治家でも歴史家でも批評家でもなく、若いミュージシャンたちが自分の言葉でぼそぼそ語ろうとする。 そういう中から光として現れたKneecapとかFontaines D.C.がそもそも抱えこんでいる豊かさ、分厚さについて。
まったく事情も背景も異なるとは言え、自分の国についても振り返ってしまう。そもそも他の国のことを眺めていられる余裕あるのか?はあるけど。 余裕とかじゃなくて、過去・歴史との向き合い方、文化の複雑さや分断に対する目線、接し方、等も含めて、学ぶべきところは多いし。 政治と音楽は別、なーんて幼稚でお子様な言い草だろうか、って思ってしまうし。(もうほぼ諦め)
登場したミュージシャンのなかで見たことがあったのはバルセロナのPrimaveraで見たLankumくらいだったが、Lankum、すごくよい意味でモダンでよかったの。
映画のなかで何度か言及されていたマグダレン・ランドリーについては、“The Magdalene Sisters” (2002)が有名だが、最近のドキュメンタリーではAoife Kelleher監督による“Testimony” (2025)がすばらしくよかったので、公開されてほしい。まだ生存している当事者たちの証言をいかに歴史のなかに刻む、刻みうるのか、という国境を越えた試み、そのなかで改めて露わにされる彼女たちの痛みについて。
9.07.2026
[film] Útóipe Cheilteach (2026)
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