9.03.2026

[film] 恐怖份子 (1986)

8月25日、火曜日の晩、ル・シネマ 渋谷宮下の9Fで見ました。
邦題は『恐怖分子』、英語題は”Terrorizers” – かっこいい。

2015年にデジタルリマスターされた際にもイメージフォーラムで見ているのだが、これは何度でも。
監督は楊徳昌(Edward Yang)、脚本は楊徳昌と小野(Hsiao Yeh)、撮影は張展(Chang Chan)。

スラムのようなアパートで銃声が響き、それを写真家になりたい青年シャオチェン(馬邵君)がカメラで追い、飛び降りて足を怪我した不良少女シューアン(王安)を更に追いかけて撮って、大病院の出世競争のなかにいる医師リーチュン(李立群)とその妻 - 小説家で鬱病を患うイーフェン(繆騫人)のそれぞれの葛藤とすれ違いが旧知の編集者と彼女を結びつけ、カメラをもった青年はシューアンとアパートでぶつかり、足の怪我で動けないシューアンのいたずら電話が小説家たちをあちこちに動かし散らして、物理的な彷徨いと妄想に近い思いこみが粉塵のような「恐怖」の種とか粉 - 「恐怖分子」を捲きあげてあたり構わず散らしていって止まらない。

これらすべてが偶然の出合い頭の事故のように起こって、説明やストーリーを排するかのように配置されていって、撮られた写真を寄せ集めて並べて貼ってばらして、のような作業の果てに、引き裂かれた男(たち)は妄想もろとも自殺する、というお話。 

ここはやはり7月に見た 『海灘的一天』 (1983) - 『海辺の一日』を思い起こさないわけにはいかない。
どちらも最後に(or最初から)主人公の夫である男性が(or 『海辺..』では主人公の兄の医師も)亡くなる話で、どちらも妻の方を向いてくれない/本心を明らかにしてくれない夫の振る舞いに傷ついている妻の話で、その先にどうなるのか - 幸せを掴めたのだろうか – までは示されない。

『海辺の一日』は残された妻の回想(語り)という形式を取るので、すべては夫の消えたあの海に集約されていく、一枚の絵の枠に収まっていく印象があったが、こちらは中心のふたりの外側(社会的には下層・周辺)にいる男女がアナーキーに彼らの足場足元を揺さぶってきて、不安と恐怖の種を散らしていく。彼らの不幸や不安とは関係ないはずなのに、目に耳に入れたくないのに否応なく挟まってくる – Terrorizers.

ふつうストーリーに挟まってこないノイズのようなこれらは、実際には存在したり活動したりしているものだし、これらを排除したところで成立するメロドラマなんてありえない(し、そもそもばっかじゃないの?)、という原理的な問いから始まったものとはいえ、これらの粒(分子)が連なって重なって並べられるその配置があまりにスタイリッシュで、こんなきれいでかっこよくてよいのか、にはなる。

90年代になるとここで見られた混濁が更に加速して味噌も糞ものぐじゃぐじゃ模様を描き、そこになんでもかんでも「世界」というラベルが貼られたりして、これはこれでうっとおしくなっていくのだが、そうなる前の、まだ都市や世の中をそれなりに整った(壊されるべき)ものとして、そこからこぼれ落ちる偶然も含めて(恐怖を恐怖として)掴まえて並べようとしていた時代の記念碑的なランドスケープになっているのではないか。

ランドスケープについて、これらの世紀が変わると、隣の国にホン・サンスという人が現れて、Edward Yangが都市の格子のなかに置いた痛みやノイズを酔いと偶発性のなかにぺったんこに散らして、フィクションとは?のようなところに連れていってくれた、のかしらー。

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