7.30.2026

[film] Sangue del mio sangue (2015)

7月25日、土曜日の夕方、イメージフォーラムで見ました。

Marco Bellocchioの10年以上前の作品が何で突然今頃? なのだが、彼の作品、最近はTVシリーズなどもあって見るのが難しくなっている気もするので、見れるものは見ておきたい。

見事な濃淡・陰影を湛えた撮影は “Vincere” (2009) - 『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』のDaniele Cipri。

英語題は”Blood of My Blood”、邦題は『私の血に流れる血』。 後半、老吸血鬼も少しだけ出てくるが、吸血鬼もの、ではない。というか、吸血鬼ものの形をとったキリスト教批判というか。

二部構成で、最初のパートは17世紀、イタリアのボッビオ – Bellocchioの生まれ故郷で監督デビュー作-『ポケットの中の握り拳』の舞台でもある – の修道院を若いFederico (Pier Giorgio Bellocchio)が訪ねてくる。そこの修道女Benedetta (Lidiya Liberman)と関係をもって、自殺した兄をキリスト教徒としてきちんと埋葬してほしい、と頼みにきたのだが、そのためにはBenedettaが悪魔の影響下にあったことを証明する必要がある、ということで、大勢の立ち合いのもと、水責め(重い鎖を巻いて沈められて沈んだままだったら善人とか)、火責めの残忍な異端審問が行われて、彼女は傷だらけのまま狭い石の牢獄に監禁されるのだが、なにをやっても効かなくて、他方でFedericoは別の修道女ふたり(うち一人はAlba Rohrwacher!)との愛欲に溺れたり、兄の仇であるはずのBenedettaにも疼くように惹かれたりしてかなりどうしようもない。

次のパートは同じ土地の現代に時代は移り、自称税務調査官、見るからに怪しいFederico (ふたたびPier Giorgio Bellocchio)が、ロシア人の資産家Ivan Rikalkov (Ivan Franek)を伴って、かつて修道院で、現在は修道院兼刑務所となり、ぼろぼろに朽ちかけている建物を購入したいと言って訪問してくる。管理人はこんな廃墟のようなところを、と戸惑うのだが、かつて修道院だったこの場所には老いたBasta伯爵 (Roberto Herlitzka)がひとりでひっそりと暮らしている。

伯爵の表情はずっと固まったように凍り付いたまま(すごい横顔)、ほぼ喋ることもなく、その状態で町を徘徊して歯医者に行ったり(レントゲンで吸血鬼であることが...)、バーでひとり佇んだりしていて、そんなしおしおになっても、とにかくずっと生きているらしい - なんのために?

そして最後に石の壁のなかに(数十年?数百年?)放置・幽閉されていたBenedettaが彼女を閉じ込めたのと同じ枢機卿によって「ひょっとして聖女なのかも」という畏れと共に解放され、汚れにまみれていたはずの全裸の彼女は少しも老いておらず、ちょうどその反対側で伯爵は...

お話はBellocchioによるフィクションだが、Benedettaは16世紀に実在し、修道院に13年間幽閉された「モンツァの修道女」 - Marianna de Leyva – の生涯から引かれていて、最新作の”Rapito” (2023)でも顕著だったキリスト教(がその教義のもとで支配し、その名のもとで為してきた悪業)への批判が炸裂している。

故郷ボッビオで撮っていること、前半後半それぞれに息子のPier Giorgioを起用していることからも『私の血に流れる血』、というときの「私」とはBellocchio本人だと思われるのだが、なにがここまで彼をキリスト教批判に向かわせるのか、”Rapito”イギリスでの公開時のトークでも本人が語っていた記憶が。ものすごく真っ当な宗教(的なもの権力、教条主義全般)に対する異議申し立てだったの。

という見方もあれば、聖女(聖なるもの)→ 吸血鬼(邪なるもの)→ ロシアの資産家(のっぺら)という歴史の流れのなかで淘汰されてきたもの、それでも残されているなにか(あるとしたらそれは?)、を概観する、というのもあるのかも。 修道院なのに、ずーっと生きにくい状態はどこまでも続いている。例えばこんなふうに、と。

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