9月29日、土曜日の晩、Theatre Royal Haymarket で見ました。
原作はSamuel Beckettの1953年の古典 – 不条理 – 悲喜劇。40年くらい前に安堂信也訳のを読んだはず。劇としては見たことなかった。演出はJames Macdonald、メインのふたりはLucian MsamatiとBen Whishaw。
舞台上にはぱっとしない木が一本(Caspar David Friedrichの描いた木、のはず)、真ん中が少し盛りあがっているだけで、原作にあった「田舎道」はない。ぼろぼろだったりぶかぶかだったりの服と帽子を着て臭ってきそうな浮浪者に見える- そして実際浮浪者のようになにもしていないEstragon (Lucian Msamati)とVladimir (Ben Whishaw)がその周りでだらだらごろごろ喋ったり黙ったりしていくだけ。彼らの後ろ向きの小言や気晴らしのやりとりがすべてで、この状態を変えようとか改善しようとか、そういう空気も目途もぜんぜん立たないまま、すべては「ゴドーを待たないと..」の判断のまわりで止まったり振りだしに戻ったり。
骨組しかないシンプルな舞台と台詞。舞台上の役者の言葉も挙動も、それらを含めたありようすべてが「ゴドーを待ちながら」、「ゴドーを待たないと」によって言い訳、説明されてしまうので、劇的な転換や革命が起こったり見通しやゴールが変わったりすることはない。手段が目的化される - その状態を維持するために彼らは存在していて、そのエネルギーはムダも含めてぜんぶそこに費やされていて、つまりそこには典型的な「支配」された香ばしい状態と仕掛けがあるのだが、彼らはそれを受けいれて、とりあえず待つか... って。 この原則みたいなありようは劇の構造そのものから、なんか楽しいのを求めてのこのこ劇場にやってきた我々の意識まで幅広い台地のように広がっていって、神学、イデオロギー、精神分析、階級闘争、民族紛争、等、なにをどう巻きこんだっていくらでも応用し繰り返していくことができる。
悲喜劇。 本人たちが把握していなかったとしても、全体として望ましいとは言えない(悲惨な)状態から抜けだすため、この悲の部分と喜の部分のギャップが大きければ大きいほど、「なんで… ?」の余韻というか、常態としての不条理感が湧きあがってくるはずで、そこはどんなものか、と。
そのうち地主のPozzo (Jonathan Slinger)と彼にこき使われている召使のLucky (Tom Edden)が現れて、主従奴隷劇みたいなのを披露して、EstragonとVladimirからすれば、ものすごく面倒くさそうでお疲れー、としか言いようがないのだが、どっちが悲惨と言えるのか、とか、丘の向こうから少年が現れて、今日はゴドーは来ないって、と伝えにくるのだが、ガキの使いなんか寄こしやがって、にもならず、それなら待とうか、って素直に第二幕に向かう。 第二幕でPozzoは目が見えなくなっているのだが、Luckyはその隙に悪いことをするわけでもなく、より落ち着いてこき使われている。
EstragonとVladimirのやりとりも、そこにPozzoとLuckyが絡んでも、全員ものすごく巧くておもしろい、おもしろすぎるので、見ながら笑っているうちに、まるでほのぼの漫才喜劇のように終わってしまう。このぬるいおもしろさ、親しみやすさこそがやばいのだ、っていうのはわかるものの、そこから先に踏みこむのは難しくて、「ゴドー」は、ベケットのこれは、そういう劇ではないことはわかっていても難しいかも。 これでいいのだ、の解もあることはわかるけど、いいのかなあ…? って頭の中で回りだすのだが、みんな楽しそうだし、おもしろければよいのか… って。 こういう状態はたぶん不条理とは呼ばなくて、ただの安定みたいなかんじで、別にこれはこれでよいけど(ぶつぶつ)。
Ben WhishawはPaddingtonの着ぐるみで出てくればよりリアルになってよかったのに(← Winnie-the-Poohと混同)。
来年、Keanu ReevesとAlex Winterのふたりがブロードウェイでこれをやるって(演出はJamie Lloyd)。BillとTedのふたりがゴドーを待つ、も楽しそうだけど、ゴドーを無理やり引っぱり出す、くらいのことをしてくれないかー、とか思う。
10.07.2024
[theatre] Waiting for Godot
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