10.17.2024

[theatre] Juno and the Paycock

10月9日、水曜日の晩、Gielgud Theatreで見ました。

Seán O'Casey (1880-1964)によるアイルランド内戦期の市民を描いたダブリン三部作の2つめ、1924年初演の舞台劇で、Hitchcockによる映画版(1930)もある – 邦題『ジュノーと孔雀』 - 未見。 演出はMatthew Warchus。

“Paycock”はPeacockのアイルランド語読みで、Junoが夫Jackを呼ぶときに使う。この劇でのみ使われている呼び名なのかしら? 孔雀の男ってどんなふうに見られるのか?

舞台は血のように赤い緞帳で覆われていて、真ん中に小さな十字架がある。幕があがるとぼろぼろで埃だらけでがらんとした長屋のようなとこの2階のひと部屋。壁には錆のような赤。人が来るときは階段をのぼるようなどこどこした音がする。

ここに暮らすBoyle家が中心で、Jack (Mark Rylance)は飲んだくれでしょうもなくて、妻のJuno (J Smith-Cameron)が切り盛りしていて、ちゃきちゃきした娘のMary (Aisling Kearns)と内戦で片腕を失って何かに怯えている息子のJohnny (Eimhin Fitzgerald Doherty)がいるが、すべてはJunoが真ん中でがんばっている。 一時期自称船乗りだったので自分を”Captain”と呼びたがるJackは、仕事の話がくると足が痛くなったり具合が悪くなったりで、それをネタにこそこそ呑んでJunoに見つかっては怒られてを繰り返し..

後半、3幕目を除いて物語の殆どは、すっとぼけのJackと何でもお見通しで鋭くつっこみ続けるJunoとのコミカルな、落語みたいなやりとりが殆どで、それだけでおもしろいので、それでよいの? なのだが、よいかも。

もともとMark Rylanceを見たくて取った劇なので、彼の動きをライブで目にできるだけでうれしい。外見はちょび髭のチャップリンみたいだが、動きやリアクション、間合いの取り方は由利徹(もちろん褒めてる)で、突っこまれた時のとぼけぶり、返す間合いとその目線、再アタックされた時の逃げ、すべてが絶妙にはまってすごいったらないの。これでずっと長屋落語みたいにやってくれたら最高だったのに… それか『ゴドーを待ちながら』みたいなのとか。

お話しは第一幕の終わりに親戚が亡くなって分配される遺産の一部が転がりこんでくる、と突然言われてへええー、となり、第二幕に出てくる同じ部屋は、家具とか壁が少しきれいになって、みんな少し鼻高になっていて、着ている服もよいかんじなのだが、小綺麗になったところにやってくる人々はそんなに変わらず呑気にお酒を飲んでバカなことを言ったり歌ったり、かと思えば、子供たちには将来のこととかいろいろ出てきて、世の中もきな臭くなってくる。

最後の幕はずっと呑みだべり友達だったJoxer (Paul Hilton)と一緒にあたふたと戦場に駆りだされ、家の外に出たらトーンががらりと変わり、きょろきょろしていると、え? そんな… ? って終わってしまう。『ゴドー…』以上の不条理み、というか。

こんなお話しだったの? … という落とし方で、庶民の喜怒哀楽やサークルをぷっつり簡単にひっくり返してしまう内戦の残酷さ、は実際そうなのだろうしわかるのだが、でもそれでもアイルランドの民は酔っ払って転がされても、どっこい生き残ってタフにやってきたんだから、ということなの? - それは、そういう強さみたいのはよくわかるけど、でもそっちに寄せちゃってよいものだろうか…

でもとにかくMark Rylanceはすばらしかったのでー。

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