10.31.2024

[film] Black Box Diaries (2024)

10月26日、土曜日の晩、Curzon BloomsburyのDocHouseで見ました。
日本にいた人だったら誰もが知っている酷い事件の、その当事者 - 伊藤詩織さん自身が監督したドキュメンタリー。

まず、最初は正直に見たくないと思った。
今ちょうどDonald Trumpの評伝ドラマ - ”The Apprentice”(2024)が結構な規模で公開されていて、これも見ない。自分の大っ嫌いな野郎を見ても吐気がするだけだし。この”Black Box Diaries”も自分が一番見たくない - それゆえに自分は海外に来た、と言ってもおかしくないくらい見たくないBlack Box化されたす・ば・ら・し・い・日本のあれこれが並べられているだろう。そしてそれらにどうしようもなく無力であることも改めて、思い知らされるに決まっているから。

でもこの週に、大阪の件が報道された。全く同様の構造 - 上からの権力による揉み消し – による犯罪の隠蔽 - 魂の殺人がある、こういうことが許されているのを見て、もういい加減にして、になった。

せめてこの映画の売上や動員に貢献して、恥ずかしいことに本国での公開が決まっていないらしい(決まっていたらごめん)本作の後押しをできれば、と。 真っ先に公開されないこと自体異常ではないか。ロシアか中国か(もうとうに)。

映画はワールドワイドのセールスがDogwoofだったのでへえ、となり、公開後にGuardian紙のPeter Bradshawが、New Yorker誌のRichard Brodyが、NY Times紙のManohla Dargisが褒めているので、だからなお、というのは違うけど、グローバルに通用するクオリティのものだよ、ということは言える。 100分を超えているが、一気に見れる。

客席も、いつもここは入っている時で10人くらいの地味なシアターなのだが、久々に埋まっているのを見た。すすり泣く声も聞こえた。

映画は、事件が起こってからの経緯 - 事件そのもの - タクシー運転手の話やホテル前の監視カメラの映像を挟みつつ、どんなふうにこの事件が起こって、警察による被害者のかさぶたを引っぺがすより酷い聞き取り検証が行われて、犯人の逮捕直前まで行ったのに手前でストップが掛かってもみ消され、不起訴処分とされ、民事訴訟を起こして… などが綴られていく。 既に知っていることではあったが、改めてひどい。 ひどいことがレイヤーになって重なり積みあがっていて、ひとつを崩したくらいでどうなるものでもなさそう – というその全体が黒塗りのBlack Boxとして目の前にあって、これに対して彼女は、電話でのいろんな交渉、弁護士との打合せ、取材メモ、ニュース映像、など、目の前の手持ちのあることできることを全て映像でぶちまけ、重ねて、繋いで、我々の前に示す。 そうしていくなかで度々クローズアップされる彼女の疲弊した顔、辛そうな顔、切りとられる都会の景色。 気がつけば4年が過ぎていた、と - 彼女が桜について語るシーンには悔しさが溢れる。

そういう絶望的な状況のなか、映画ではInvestigator Aと呼ばれる捜査官や公判の直前に証言を申し出てくれたホテル従業員、多くの味方となる女性たちの存在が少しだけ光となる。

その反対側で、外国人記者クラブの会見で、違法なことはしていないのに遺憾である、彼女も大変だったろうが自分も大変だった、と他人事のように語る被告 – こんなふうに謎のパワーと厚顔を行使して平気な顔の加害者 - 職場にも酒場にも湧くようにしているいつものあれ、大阪の検事正だってそう - にどう対峙したらよいのか、相当うんざりする。

(少し話は違ってしまうが、今は職場でもホットラインが整備されてなんでもすぐ言えるようになってきたけど、セクハラでもパワハラでも例えば10年前だったらこの程度、っていくらでも許されて見逃されてきて、そうやって偉くなった連中が山のようにいて、彼らに育てられた連中が中枢でスピークアップ、とか言ったって結局はビジネスのためだろ誰が信じるかよばーか、とか)

この映画を通して彼女の、同様の被害にあわれた女性たちの絶望を共有することができる、という点では優れたドキュメンタリーだと思う。ひとつだけ気になるのは、これを追うかたちで例えば大阪の件や、他の性被害の件がドキュメンタリーとして表に出てくるだろうか? これを突出した伊藤詩織のドキュメンタリーとしてしまうのはよくなくて、メディアでも他のドキュメンタリー作家でも動けるようにしていかないと - ということを考えたり。 でもこれもまた、幼稚化の道を辿るばかりのあの国、エロが巷に溢れかえっていても誰も異常と思わないあの国でどこまで... といういつものうんざりがー。

10.30.2024

[theatre] A Tupperware of Ashes

いろいろ時間がなくて、文化の秋だしいろいろ楽しく見ているうちに書けないままに流れていってしまうのが多くなってきてよくないので、書き方を少し変えて詰め込むことにする。

ほんとうはMS Wordでひとつにつき1500くらいがよいのだが、最近は1200くらいになってて、でも自分の備忘用でもあるので、短くてもよいからとりあえずー。

A Tupperware of Ashes

10月19日、土曜日の晩、National TheatreのDorfman theatreで見ました。
原作はTanika Guptaの戯曲、演出はPooja Ghai。

夫に引きずられるようにカルカッタからロンドンに移住してインド料理店を開いて、ミシュランの星を獲得するまでにした女性Queenie (Meera Syal)が中心で、三人の子供たちはそれぞれ独立しているのだが、20年前に死別した夫のAmeet (Zubin Varla)が夢なのか現実なのか頻繁に現れるようになり、やがて彼女はアルツハイマーと診断され – そして本人はそんなことはない、と強く反発するのだが実際に鍋を火にかけっぱなしにしたりの事故があって認めざるを得なくなり… というあたりはドラマでも映画でもよく見る光景だったり経緯だったりで、思いだしたい、思いだせるはずなのに出てこないもどかしさが祈りや呪いのように現れては消えて。セットはシンプルだが、背後に彼女の脳のなかだろうか、ワイヤーを伝う光がシナプスを渡るように明滅しつつ流れていって切ない。

症状が頻繁に出るようになると子供たちとのやり取りは悲喜劇 - 子供たちからすると振り回されたり酷いことを言われたりの地獄なのだが、彼女の傍らにはいつもAmeetがいたりするので本人は割と幸せに見えたり、この辺はインドの家族の絆やありようがよく出ていると思った。決して通り一遍の地獄として片付けようとせず、家族みんなで立ち向かおうとするところとか。

タイトルがばらしてしまっているのだが、後半はQueenieが亡くなり、その遺灰をガンジス川に流そうと英国の外に持ちだそうと奮闘する子供たちの姿が描かれる。大使館の慇懃硬直した官僚対応(..ぜんぜん笑えない)を経て、Queenieの遺灰はどうなっちゃうのか。 この部分はなくてもよいのかな、と思ったのだが、最後はタッパーウェアに詰めて運ばれる灰になっちゃうんだなーというしんみりはそんなに悪くないかも。

そして自分の灰はどこの川に.. について思う。(定期)


The Extraordinary Miss Flower (2024)

10月19日の午後、↑ を見る前にBFI Southbankで見ました。 LFFからのドキュメンタリー。

Geraldine Flowerが2019年、72歳でChiswickで亡くなったあとにスーツケースに入った大量の手紙 – 60-70年代に彼女に宛てられたラブレターなど - が発見される。

アイスランドのミュージシャンEmilíana Torrini – Miss Flowerは彼女の親友の義母でもあった – が友人たちを誘ってこれらの手紙を題材に音楽を作る、その過程を追っていく。

死者を悼むひとつのやり方、という以上に古い手紙や写真って、他人のものであっても(他人のものであればなお?)かきたてられるものがあるなー、って。 

特に手紙って - いまのEメールはそうでもないけど - 手書きだった頃のってめちゃくちゃいろんなものを強く込めていたので、自分の書いたのは絶対見たくないし見られたくないし棄てられてほしいけど、他人のは、読むとおもしろい – という辺りではっとしたり。 大変もてたらしいFlowerさんの話とは別に、発掘される手紙についていろいろ考えてしまったりー。


A Sudden Glimpse to Deeper Things (2024)

10月21日、月曜日の晩、Curzon BloomsburyのDocHouseで見ました。 もうLFFは終わっていて(あーよかった)、これもドキュメンタリー。

監督はMark Cousins、この人はものすごく多作で、女性映画作家についての、ヒッチコックやオーソン・ウェルズの、現代映画全般についての、前作は”March on Rome” (2022) - イタリアでファシズム政権がどう立ちあがっていったのかについて、いろんなドキュメンタリーを出し続けていて、自分の興味の及ぶところをぐいぐい掘って語っていくそのやり方はどれもおもしろいし勉強になるので見る。 
Wilhelmina Barns-Grahamの声を監督の盟友であるTilda Swintonさんがあてている。

スコットランドに生まれ、St Ivesで過ごした女性の抽象画家 - Wilhelmina Barns-Graham (1912-2004)の生涯を追う、というよりも彼女が画家として魅せられ、追っていったものを探っていくドキュメンタリー。 既に終わってしまったTate Britainでの企画展示”Now You See Us: Women Artists in Britain 1520-1920” - 会期中3回行った – でも女性画家がどれだけ歴史から軽んじられてきたか、自分がどれだけ無知だったかを恥じてしまうわけだが、この展示のスコープには1920年以降の画家、抽象画家が入っていなくて、まだまだいろんな人がいるよね、とこういう映画を見ると改めて思う。 スコットランド、イングランドだけじゃなく、日本にだって。

映画は画家としての彼女の画業を紹介しつつ - 初期の抽象画もすばらしいのだが - 1940年の後半にスイスのグリンデルワルトの氷河と出会ってから毎年そこに通って描いていった氷河 - Glaciersのシリーズがすばらしい。光や気温によって絶えずその表面や形象を変えていく、でも数千年前からずっとそこにある氷河って… タイトルは「それ」について彼女の日記にあった「ふとした瞬間に目撃したなにか深いもの」という記述からきている。

そこになにか「より深いもの」を見たことよりも、”A Sudden Glimpse”の方に惹かれる。その一瞬に何が起こったのだろう? なにが彼女を突然に? というのもあるが、画面上でぱらぱらと出てくる彼女の絵画が素敵で、Hilma af Klintのドキュメンタリー映画 –“Beyond The Visible - Hilma af Klint” (2019) - を見た時もそうだったがとにかく実物を見たくなる。 

で、もっと見たくなったので書店で”The Glaciers”という彼女の画集らしき本を買ってみるとそこにMark Cousinsが寄稿していて..
野見山暁治の描いた山? の絵にもどこか似ていないだろうか? とか。

10.29.2024

[film] A Real Pain (2024)

10月20日、日曜日の昼、Curzon Sohoで見ました。 LFFからの。

今年のサンダンスでプレミアされたJesse Eisenberg監督(出演も)作。プロデュースにはEmma Stoneと夫のDave McCaryの名が。

冒頭、滑らかなショパンのピアノに乗って、空港(JFK)に向かうDavid Kaplan (Jesse Eisenberg)が既に空港にいるらしい(いてほしい)従兄弟のBenji (Kieran Culkin)に「これから出るから」「今でたから」「まだBQE、あと2時間くらい」などばたばた頻繁に電話をかけ続けていて、でもBenjiは一切無反応で –でも空港に行ったらふつうにいて、この時点からふたりのキャラクターの違いが対照的に紹介される。

彼らはワルシャワに向かい、ホロコーストを生き延びて米国にやってきた祖母の故郷を訪ねようとしている。おばあちゃんのことが大好きだった彼らにとってこの旅は念願の、長年温めてきたものだが、テック企業でインターネット広告を手掛けているDavidが忙しくて実現しなかった(ことが度々BenjiからDavidへの嫌味のように語られる)。

ワルシャワに着くとイギリス人のガイドに率いられて観光ツアーする他の人たちに合流して、LAの離婚経験者の女性とか、ルワンダの大虐殺を生き延びてカナダでユダヤ教信者になった人とか、両親が米国に渡った老夫婦とか、誰もがホロコーストの歴史やそのトラウマと関わりがある家族をもつ人々と出会うのだが、Benjiはあまりに開けっ広げで全員が息を吞むようなことを言ったりやったり、それを背後からDavidが真面目に謝ったり補ったりしていって、その痛さ – なんて実は”Real Pain”ではなく、きちんと悼むことができないまま時間が経って、こんなふうにしれっと「観光」に来てしまうこと、こんな形でしか来れなかったこと、なのか、祖母の住んでいた住所を訪ねてもなにもなかった(ごく普通の家があるだけだった)ことなのか、従兄弟同士の間でさえ十分にその痛みを分かち合えないことなのか、いろんな解釈ができる。そんなふうな「解釈」に落とせてしまうことだよ! ってBenjiだったら言うのかしら。

6月に見た”Treasure” (2024)はStephen FryとLena Dunhamの父娘がやはりホロコーストの現場とポーランドにあった父の生家を訪ねていく旅モノだったが、彼らは生まれ育った家を、そこで何か – Treasure? - を見つけて、戻る。 “Pain”と”Treasure”のギャップはどこから来るのだろう? 当事者である/あったかどうか? ヨーロッパ映画とアメリカ映画の違い? あと、やはりどうしてもパレスチナのことを思わざるを得ない。”Pain”どころじゃない酷いことをしていない?

“The Social Network” (2010)の Mark Zuckerbergのなれのはてのようにカリカリしつつちょっと疲れたJesse Eisenbergもよいが、やはりKieran Culkinがすばらしい。”Igby Goes Down” (2002)の頃からKenneth Lonerganによる演劇 - ”This is Our Youth” (2014)までずっと追ってきたが、改めて。 ラスト、JFKでの彼の表情ときたら。

音楽はほぼずっとショパンが静かに伴奏していて、盛りあがろうとするのをあえて回避するかのようにさらさら流れていって、こういうのもよいなー、って。


Flow (2024)

10月20日の午後、↑と同じくCurzon Sohoで。これもLFFので、初回の上映はBFI IMAXでやっていた。ラトビア産のアニメーション。動物が好きだから、くらいで。
あたり前だけど、成瀬の『流れる』(1956)とはなんの関係もなかった。(あちらの英語題は”Flowing”)

監督は”Away” (2019)のGints Zilbalodis。ほぼひとりで作った前作よりも人数は増えたらしいが、手作り感はまだたっぷり。
前作はバイクに乗って走り続けるヒトのお話しだったが、今度のはヒトはいなくて動物ばかり。動物同士が(人間の)言葉を交わすことはない。 出会い頭のなんだこいつ? - 何を考えているのか、敵か味方か、やるかやられるかの緊張は伝わってくる。あと、彼らが絶えず移動している/していくところは”Away”と同じか。

主人公は黒猫で、庭に大きな猫の彫刻がいっぱいある森のなかの廃屋に - 暮らしていたのか、見つけたのか - いて、だから(たぶん)人間が、人間と猫が暮らしていた世界があったことはわかるのだが、彼らはどこに行ってしまったのか消えてしまったのかは不明、そしてどこかから洪水のような水がやってきてすべてを押し流して森を浸して、黒猫は浮かんだり沈んだりしつつ、どこかから流れてきた小舟に乗って漂っていく。 小舟にはカピバラ(寝てばかり)がいてキツネザル(いろいろ集めている)がいて、白くてでっかいサギのような鳥(何考えているのかわからず)、元飼い犬で野犬の群れにいたが寄ってくるゴールデンリトリバー(よいこ)、などがひとつの舟に乗って流されていって - やや”Life of Pi” (2012)ぽい - 自分らで舵をとってみたりもするのだが、その間、動物同士でもいろんなことがあるし、水がひいてまた戻って、もあるし、どこに向かっているのか、何が起こるのかなんてわかるわけないし。 あと、でっかいクジラみたいのとか、海竜みたいのも底から湧くように、黙示録っぽく現れたり、なにがいるのか、出るのかわからない世界、でもある。

悲しみも歓びもない、そういう機微とか時間のスケールがなくなった世界を描く – もう少しめちゃくちゃやってもよかったのでは、と思わないでもないが、みんなかわいいからいいか、って。

グラフィックとして、技術的にどうなのかはわからないし、どうでもよいのだが、“Flow”として止まらずにどこまでも流れていくのはそうだなー、って。

[music] Vivien Goldman

10/22、火曜日の晩、Café OTOで見ました。
Café OTOは久しぶりで、前回駐在していた時は地下鉄地上鉄を乗り継いでいく結構遠い場所、のイメージだったのだが、今住んでいるところからだと、バスで30分で行けることがわかった(危険)。

椅子があるライブハウスで、入場は並んだ順になる。このライブは売り切れていたので良い席を取りたくて少し早めに行ったらがんがんにリハーサルの音が響いてくるので聞こえないようにしつつ並ぶ。

この日は裏でStephen Malkmusの新バンドのライブもあったのだが、こちらの方が先にチケットを取っていたので..

Vivien Goldmanは、2019年に著書”Revenge of the She-Punks”のプロモーションで、NYのMcNally Jackson(本屋)でトーク+サイン会があった時(なぜかNYにいた。ふしぎ~)に会って以来。あの時もじゅうぶん元気いっぱいのパンクな方で、今後は語り部とか著述業の方に行くのかと思われたのだが + Special Guestsでライブをやる、と。 前座にはThe RaincoatsのAna Da Silvaの名前もあるし。

しばらく行かなかったうちにCafé OTOも変わっていて、中古レコード(売り物)があちこちにあったり、大きな本棚で音楽関係の本を売っていたり。埃っぽいところは変わらず。前回駐在していた時には23回ここのライブに通っていたらしい(ひとごと)。

前座のAna Da Silvaさんはひとり立ってエレクトリックギターを下げて、横にラップトップを置いた女性が控えめにリズムとかを出し、最前列の真ん中の椅子にはバンドメイトのGina Birchさんが座って約50cmの距離で手を叩いて声援を送っている。 何度もギターを間違えてやり直し、最近ボケがひどくて前日もレコードかけながら練習して、このコード進行と思って弾いていっても途中で別の曲になっていたりするので自分で憮然とする、みたいなことを語っていて、とても他人事じゃない。でもGinaさんはわかるわかるー、ってけらけら笑いながらがんばれーって。よい人だねえ。 The Raincoatsの曲も2曲くらいやった気がする。

Vivien Goldmanさんはオレンジの髪色に合わせたのか紅オレンジのジャケットにタイトなパンツとブーツで、音を出す前から小屋のあちこちでポーズを決めてフォトシューティングしたりしている。

バックにはFlying Lizards(だけじゃないけど)からDavid ToopとSteve Beresfordのふたり。 ただ彼らがバックをとったのは“Window”と“Her Story”のFlying Lizardsの曲だけで、後はほぼ作りこまれたトラックが流れてそれに合わせて歌っていくだけ。誰が作ったのか割と最新ぽい音(なんておまえにわかるのか?)になっていて、かの”Launderette”もなんだかソリッドでかっこよい。当時からふつうにダブしていたしなー。

真ん中くらいでGina Birchさんを加えてデュエットしたり、最後はJohn Lydon, Keith Levene, Adrian Sherwoodと1981年に作った曲です!と”Same Thing Twice”を。これがねえ、あの頃のがちがちの音なんだよねえ… こういう音も、まだ探せば、やればあるじゃん、って。

全体に同窓会のノリで、会場にはYouth氏もいたらしい。


Fred Frith

10月20日、日曜日の晩、Café OTOで見ました。
彼の75th Birthdayのお祝いライブ3日間の最終日。 2019年の70th Birthdayライブにも行っていたので。(しかし5年間の羽のように軽く飛んでいっちゃうことときたらありえない)

なお、70th記念の時のライブで自分が見た回の共演メンバーは、David ToopとSteve Beresfordで、↑のVivien Goldmanのバックとおなじ。つながるものねー。

前半がチェロのPaula Sanchezさんとのデュオ、後半がTim Hodgkinson、Roger Turner、Daniela Cattivelliによるクァルテット。

気がした、くらいの話にしかならないのだが、70thの時よりもよりやかましく、音が四方八方に飛びまくっている気がした。気持ちよいったら。

この人の音は、おおおお昔に中野辺りで見た頃から機会があれば、くらいのペースで見ているのだが、スタンダードとか決めの曲があるわけではない、ないところでどんなフォームの曲をどんな編成で聞いてもおもしろいし、あきないし、っていうのはなんと不思議なことであろうかーって。


さっきBarbicanでFran Lebowitzさんのトークを聞いてきた。トランプとマスクをぼろくそにけなしていてよかった。

10.28.2024

[film] Maria (2024)

10月19日、土曜日の昼、Royal Festival Hallで見ました。LFFのガラが行われる一番大きい会場で、その翌日の再放送 - ゲストなし- を当日券で取る、というやつで。

Pablo Larraínが”Jackie” (2016) - “Spencer” (2021)に続く女性評伝ドラマ3部作 - “Lady with Heels”の最後として取りあげるMaria Callasの評伝。脚本は”Spencer”に続いてSteven Knight。音楽はJonny GreenwoodやMica Levi - というわけにはいかないよね- Maria Callasの歌うオペラのスタンダードがたっぷり。撮影はEdward Lachman。モノクロとカラーを切り替えながら、現実と舞台世界を繋ぎながらすばらしい世界を作り出している。 今年のヴェネツィアでプレミアされた。

1977年9月16日、パリで暮らすMaria Callas (Angelina Jolie)のアパートのリビングの片隅に担架があって、グランドピアノの影に誰か倒れているらしく人がざわざわしているのを遠くから固定で捉えた映像のあと、彼女がそうなるまでの最期の1週間を追っていく。

既にいろんな薬で心身ぼろぼろで医者の言うことも聞かなくて、食事を作ってくれる家政婦のBruna (Alba Rohrwacher)や執事のFerruccio (Pierfrancesco Favino)の相手をしながら – まるで”Maleficent” (2014)のように傲慢に振舞いつつも実際には彼らくらいしか構ってくれないような – 舞台衣装を燃やしたり、全キャリアを振り返るインタビューをしたいと言ってきた若い記者Mandrax(Kodi Smit-McPhee)を連れてパリを練り歩いたり、その途中の小さなステージがあるホールで、ピアノ伴奏をバックに歌ってみる – 結局決定的に声が出ないことを確認したりしている。

先のない絶望のなかで浮かんでくる過去の栄光や想い出に浸って、そこでの栄華が彼女を更に絶望の底へと突き落とす、その循環 - 出口のない悲劇が全盛期の彼女のオペラと重ねられていくのだが、そんなに悲壮なトーンにはなっていなくて、この一週間で幼い頃からのすべてを呼び覚まして振り返って覚悟を決め、盛大に自分を送り出そうとしているかのような。その記憶と現実の窓を切り替えて、それぞれの窓から見つめる生と、そのときに湧いてくる切なさは“Carol” (2015)の色彩 – と空間表現にあったやつかも。

いろんな方向に引き裂かれてて、それでもひとつの生を手繰りよせて抱きしめようとするAngelina Jolieのすばらしさ。 オスカーの候補にはなるよね。

ロマンスのように語られるOnassis (Haluk Bilginer)との件も、JFKも(Jackieは出てこない)大した重みはなくて、寄ってきたただの金持ち、政治家、みたいな。

たぶんオペラを全く知らない人 - 自分もそんなには知らない - が見ても、オペラの息を呑むすばらしさ、彼女がなぜその世界に向かっていったのかがわかるようなふうになっている。生を彩る音楽で、声がでなくなったら、死ぬしかないものなのか、とか。

あと、会場がコンサートをやるホールでもあるせいか、音がすばらしくよくて気持ちよいったらなくて。


That Christmas (2024)

10月19日の午後、↑に続けてRoyal Festival Hallで見ました。チケットがついでに取れたから、くらい。 気分だけでも幸せがほしい。

会場に入る前に映画にも出てくる“Officially NICE”のワッペンバッジを貰って、会場に入ると厚紙の大判ポスターが各椅子に1枚1枚立てかけてある – けど席に向かう時にみんな蹴散らすので散らかり放題で、やはり儲かっている会社 → Netflix はちがうな、って。

英国産の良質なアニメを作るべく立ちあげられたLocksmith Animationの新作で、監督は“How to Train Your Dragon”のキャラクター制作に関わっていたSimon Ottoで、これが初監督作。 脚本には”Love Actually” (2003)のRichard Curtisが関わっている。 この回がワールドプレミアだそうで、上映前の挨拶には監督、Richard Curtisの他に、Fiona Shawさんなども並んだ。

英国のサフォーク州の海沿い、小さな灯台のある町に、悪天候のなか灯台守のBill (Bill Nighy)の光に導かれてサンタ (Brian Cox - ナレーションも彼)とトナカイがひいこらどうにか飛んできて、プレゼントを配り始めようとするのだが、ほんとに俺ら必要とされているのかな… ? って町を見渡してみると… というオムニバスドラマ。

両親が離婚してここに越してきたばかりで、NHSのナースをしているママは緊急要請ばかりでほとんど家にいないDannyとか、彼が恋をする双子姉妹のうちのおとなしい方の子とか、大家族でなにかと騒がしい一家とか、周囲からものすごく恐れられている独り身の女性教師Ms. Trapper(Fiona Shaw)とか、大雪大嵐ですべてがなぎ倒されて凍りついてしまった町で、孤独に恋や迷いや救いが渦を巻くクリスマスにどんな奇跡が起こるのか? もちろんみんなそれなりの事情を抱えて諦めたりうなだれたりしていて、じゃあクリスマス映画でも見るか、って”Love Actually”を出す(実際にあのシーンが流れる)と全員からぶーって言われたりして、そんなでもー。

泣けるところもちょこちょこあって、Ms. Trapperの事情とか、泣いている人も結構いた。

足下の”This Christmas”ではなく、人の幸せなんてさー になりがちでどっちに転ぶんだ? って半信半疑の”That Christmas”を少し高いところからだんだん高度を落としていって自分のもの(actually!) としてキャッチするまでのお伽噺。

10.25.2024

[film] Silent Sherlock

10月16日、水曜日の晩、Alexandra Palace Theatreで見ました。

今年のLondon Film Festivalの(個人的には)ヤマ、1922年に公開されたサイレントのSherlock Holmesの短編3本をリストア後初めて大きなスクリーンで公開する。

会場はロンドンの中心部から離れた丘の上、公園とか大きめのライブをやるイベント会場があるAlexandra Palaceで、なんでこんなところで、とぶつぶつ言いながら着いてみると、そこにある修復された古いシアターで上映されるのだった。ブリキ板で仕切られたプロジェクション用のブースもあり、大昔にはここで映画の上映もしていたという。雰囲気としては確かにすばらしい。

世界に誇る(←だいぶ洗脳されていると自分でも)BFI National ArchiveがSherlock Holmesものの全45エピソードと2つの長編を入手したのが1938年、それ以来オリジナルの保存と並行していろんな修復をしつつ2002年に一部が正式なプロジェクトとして立ちあがり、その成果をようやくお披露目できるようになった、と。伴奏もピアノだけじゃなくてRoyal Academy of Musicの11名のアンサンブルがライブでついて、伴奏曲もエピソード毎に3人の作曲家 – Joseph Havlat, Neil Brand, Joanna MacGregorに委託して作らせて、上映前に配られる解説ペーパーもいつものペラ紙ではない、より厚くて写真も入っていて少し豪華で、だから多少場所が遠いくらいでぶつぶつ言うんじゃない、と。

上映されるエピソードは3つ- “A Scandal in Bohemia”(1921) -『ボヘミアの醜聞』、”The Golden Prince-Nez” (1922) - 『黄金の鼻眼鏡』、”The Final Problem”(1923) - 『最後の事件』で、ホームズものは子供の頃に新潮文庫から出ていた翻訳のをぜんぶ読んでいたのでどれもまだ覚えている。「醜聞」てなに? って辞書で引いたりした - あまりよくわからなかったことも。

今回上映されるシリーズは映画会社のStoll Picturesが原作者のSir Arthur Conan Doyle自身から直接映画化権を買ったもので、Sherlock Holmesを演じる舞台俳優EilleNorwoodについてもDoyleは”the embodiment of the popular idea of Sherlock Holmes both in face and body”と絶賛していて、原作者がそう言って惚れこんでいるのだから間違いない、としか言いようがない。

個別には書きませんが、各エピソードはどれも25分くらい、監督はすべてMaurice Elvey - 英国映画史上、最も多作な監督のひとりだそう – で、原作を読んでいなくても、ホームズが何者か知らなくてもシリーズとしての繋がりを知らなくてもわかるように丁寧に作ってある。

そして、Eille Norwood演じるホームズはパーフェクトとしか言いようがなく、ガウンを羽織って気だるそうにバイオリンを弾いたり、真面目なワトソン(Hubert Willis)をびっくりおろおろさせて無表情にふん、て澄ましているとことか、彼がやがて「あの女」と呼ぶことになる「醜聞」のIrene Adler (Joan Beverley)に対する態度もミソジニストとしか言いようのない高慢ちきなそれだし、身近にいたら絶対やな奴臭ぷんぷんであろうが、自分がホームズに見ていたものがぜんぶそこにあるのだった。あとあるとしたら彼の声、どんなだったのだろう? 聞いてみたかったな。

あとは『最後の事件』に出てくるモリアティ教授(Percy Standing)の空っぽな表情の怖さ。ドイツ表現主義の映画のよう - というくらい陰影が見事に出ている。取っ組み合いから崖から落ちるシーンの、あっ… というかんじも。

他のエピソードもできれば配信じゃない形で見たいんだけど、公開してくれないかなあ。

10.24.2024

[theatre] Roots

Almeida Theatreで2本のお芝居を週替わりくらいで上演している(11/28まで)。 どちらも同じ円形の舞台(ゆっくり回転させることができる)を使ったシンプルなセットで、俳優も被る形で、1950年代のkitchen sinkドラマの古典の二本立て – どちらも怒れる若者が中心にいて、なぜこれらを今? というのも含めていろいろ考えさせられた。

Roots

10月15日、火曜日の晩に見ました。
原作は1958年のArnold Weskerの3部作戯曲のうちの2つめ。演出はDiyan Zora。

ロンドンに出ていたBeatie (Morfydd Clark)がノーフォークの実家に戻ってきて母 (Sophie Stanton)や妹と会い、彼女に社会主義とかいろんなことを教えてくれたRonnieが実家に来るというので歓迎パーティの準備をする。

最初はよく帰ってきたねーとかいろいろ相手をしてくれるのだが、母は料理や家事で忙しくて関心事はぜんぜん別のとこにあるし独り言ばかりだし、他の家族もそうよかったねえくらいの反応しかしてくれなくて、動きも緩いしすべてがのろいし - 円形の床が時計回りにゆっくり回転していく - なんでみんな社会にそんなに鈍感でいられるの? 根を張って動けない木みたいにずっとそのままで、変わらないままでいいの? と最後にぶちまけられるBeatieの怒りもそらされて、彼がここにいれば.. って待っていたRonnieからはお別れの知らせが…

話しが合わなくて空気も読めなくてBeatieは残念だったね、という話ではなく、ずっと田舎に暮らす「ふつう」の家のありようが如何に若者を苛立たせてきたか、これは別に50年代のイギリスではなく、いまの日本だって(のほうが?)十分にその空気と雰囲気はあって(イギリスの階級制 vs. 日本の家父長制)、地方都市も含めた田舎の空洞化のザマってこういうことだよね、と思うものの、自分が疎まれる側の老人になってしまったので、この問題はもういいや、でもある(本当はよくないけど)。 kitchen sinkものがあまり取り上げられなくなった事情はこの辺にあるのかも、と思いつつ、ジェンダーも含めて未だにアクチュアルな問題だと思うし、めらめらと静かに溜まっていくBeatieの怒りが最後に爆発して、仁王立ちになって泣きながら訴えるシーンは本当にすばらしいと思った。少なくとも政治のことはわかんない、とか言わないで!って。


Look Back in Anger

10月18日、金曜日の晩に見ました。

原作は1956年のJohn Osborneの戯曲で、Tony Richardson監督 + Richard Burton主演による同名映画(1959)も有名。映画の邦題は『怒りを込めて振り返れ』。

関連は知らんがDavid BowieにもTelevision Personalitiesにも同名の曲があるし、OASISの”Don’t”が付いたやつはどうなの?(どうでもいい)。 演出はAtri Banerjee。

冒頭、ステージ上に一組の男女が浮かびあがり、横たわる女性の方が床の下にすっと消える。明るくなると質素なリビングで、真ん中で妻のAlison (Ellora Torchia)がせっせとアイロンがけをしていて、夫のJimmy (Billy Howle)がその横で新聞を読んだりタバコを吸ったりしながらどうでもいいことを呪いのように喋り続け、その延長で暇つぶしのように彼女につっかかり罵っていく。

妊娠していた彼女はそのことすら怖くて言えず、やがて彼女の親友のHelena (Morfydd Clark)が現れてJimmyに目の前に立つが、彼女もまた…

映画版は、映画だからか家のなか - kitchen sink - 窓の外も含めて生活環境をまるごと映しだすことで、世の中 vs. Jimmyの置かれた境遇や彼の無力さを– 彼の苛立ちや怒りの根源を映しだすことができていたように思うが、このシンプルなセットでは彼のtoxicな暴力性が浮かびあがるばかり、ただのお茶の間(=牢獄)DVドラマにしかなっていなくて、怖いってば。

寝る時間になってテディベアとリスのぬいぐるみを使ってふたりしてごめんね、みたいな寸劇もやるのだが、焼け石だし。クマをそんなのに使わないで。

迫力はあるし演技もちゃんとしているとは思うけど、トラウマのある人が見たら逃げたくなるレベルのどつき方だし、ステージ上でずっとタバコやパイプを吸っているので煙くて、あんなに煙くなるのなら注意書きしてほしかった。

最初はJimmyを敵視していたHelenaが彼に絡み取られてしまうのも、ストーリーとしてはわかるけど、なんなのこいつ?しかない。彼の怒りの核にあるもの、その向かう - 振り返る先、あるいはそうさせていたもの、が見えない - こう思わせてしまうのって、この劇としては失敗なのではないだろうか。

こういうのが年取っていくらハラスメントをしても平気な困ったじじいになっているんだろうなー。日本だったら太陽族とかでちやほやされていた連中。男性というだけで何かを許されていた幸せな人たち。

どちらも50年代の若者の怒りを描いていながら対照的で、ひとつは今もリアルで、ひとつは今もしょうもないな、って思った。

10.23.2024

[film] Pavements (2024)

10月17日、木曜日の晩、Prince Charles Cinemaの地下で見ました。
LFFのドキュメンタリー枠、かと思ったら”LOVE”というカテゴリーだったので階段を少し踏み外す。

あの有名なStocktonのバンドのドキュ(or モキュ)メンタリーで、監督はなんとAlex Ross Perryだというのでそこらのふつーのやつにはならんだろう、と思ったらやっぱりそうだった。

上映前のイントロで登場した監督 – Slayerのトレーナーを着ている - はこれまでで一番複雑で難しく大変なプロジェクトだった、と振り返る。そりゃあんなバンド選ぶから、と誰もが突っこんだであろう。 “This Is Spinal Tap” (1984)でおもしろがることのできた素朴な時代は遥か彼方に。

初めの方はふつうのドキュメンタリーふうに進む。1999年のバンドが機能不全に陥って散っていく様子、その後今世紀に入って復活して、何度めかの2022年の復活ライブに向けて動き出す姿を(たぶん)実際のフッテージを重ねて描いていく。 そうしてバンドの歴史を振り返るところになるあたりから、NYで短期間オープンしていたらしい”Pavements 1933-2022: A Pavement Museum”の様子と、Juke-Boxミュージカル“Slanted! Enchanted! A Pavement Musical”のオーディションからリハーサルの様子と、“Bohemian Rhapsody” (2018)や”Rocketman” (2019)あたりの位置(ってどんな?)を狙うべく立ちあがるバイオピック - “Range Life: A Pavement Story”の制作過程の話が絡んでくる。

いちおう、Pavementの実際の活動 – ライブのフッテージやメンバーの活動やリリースと絡めてExhibitionのゴミみたいな展示物とか、代表曲に合わせたミュージカルの振付のリハーサルが重ねられ、フェイク–バイオピックの撮影に向けて俳優も集まってくる - Stephen MalkmusにJoe Keery、Matador RecordsのオーナーChris LombardiにJason Schwartzman、Scott KannbergにNat Wolffなど、配役もちゃんとしてるし監督としてAlex Ross Perry本人も出ていて豪華なのだが、俳優たちの役作り - 真剣に悩む - も含めたメイキングが殆どで、そこにリンクするように傍を流れていく実際のバンドメンバーときたらしょうもないろくでなしばかりなので、これはなんなのか? になる。こんなの作る側も大変だったろうが、見るほうも付いていくのがばかばかしく大変で、そのばかばかしさに呆れて笑う、というのがPavementというバンドに向かうときの態度と同じようなものであることにやがて気付く(乾いた笑い)。

Pavementは90年代を突きぬけて、それなりの知名度と影響力をもったバンドであった、という前提、あるいは(明日から始まる)Doc'n Roll Film Festivalにあるようにドキュメンタリー映画でなんでもかんでも(特に亡くなってから)その「実像」が神格化されてしまう傾向とか共通認識 - に立ってすべて進められていくのだが、メンバーたちの現在の枯れたおっさんぶりを見てもそんな設定自体がしょうもない冗談であり、でも冗談とも言い切れない微妙なところもある、そこら辺の事情を踏まえておかないとただの内輪受け狙いの迷子になってしまいかねないかも... というあたりは正直わかんないしどうでもいいやー。

グランジ沼のなんでもありの中から出てきて、俺らみんなこーんなにクズで空っぽのゴミだ見ろ! っていう言い草と放り投げかたは「ロックは死んだ」よりも、よりアートっぽい仕草だしわかったふりもしやすいけど、ただの冷笑で終わってなんも残らない - 残らなかったからこんな映画を作って、Brooklynの映画館で偽映画のプレミアの様子まで模して遊ぶこともできるわけで、その辺はあんま素直に楽しいって言えないか。

そういう幹以外のところはちょこちょこおもしろくて、バンド結成初期に影響を受けたバンドのところでThe Fallの”Hex Enduction Hour” (1982)のジャケットが大写しになったので、そう! これこれ、になるとか。

昨日はStephen Malkmusの新バンド - The Hard QuartetのライブがあったのだがVivian Goldmanの方とぶつかってそっちに行ってしまった。Pavement っていつもこんなふうにまた今度、になりがちなバンドで、これまでで3回くらいしか見てなくて、たぶんこのままー。

10.22.2024

[film] Grand Tour (2024)

10月13日、日曜日の晩、Curzon Mayfairで見ました。 LFFで見た最初の新作。

Miguel Gomesの新作で、今年のカンヌに出品されている。 上映後に3人いる撮影担当のうちのひとり、Rui PoçasとのQ&Aがあった。

第一次大戦期の英国の、英国人の話だが、喋られるのはほぼポルトガル語、たまに英語、更に現地の言葉 - 日本語なども聞こえてくる。

英国の役人Edward (Gonçalo Waddington)はアジアのどこか - ラングーン?で飲んだくれていて、そこで7年間婚約している婚約者を待っているというのだがぜんぜん来ないんだよー、と言いつつ、彼女から逃げるようにアジアの各地各都市を転々として大使館のレセプションに参加したり、日本では虚無僧と並んで座ってみたり。

その都市の光景とか民族的ななにか – 遊園地とか人形劇とかを映しだすパートはカラーで、主人公たちの旅 – Grand Tourのパート - 事故にあったり呑んだり食べたり転がったり - はモノクロになる。このモノクロの画像がすごく美しいのでここだけでも必見。 – 上映後のトークで、全て16mmで、シネマテークにあった古い機材を使って撮ったそう。 モノクロのパートでも時代設定を無視して現代の風景が映しだされる。あとはいろんな動物がいっぱいでてくるのでそれだけでも - 木の上のパンダは撮影時に本当にいたやつなのかしら? 

で、さんざん放浪して飲んだくれて、婚約者がこないーとかアジアは自分にはあわないかも、とか嘆きつつそのまま彼はどこかに消えてしまい、彼の旅先に何度か手紙を送っていた婚約者のMolly (Crista Alfaiate)を中心としたパートが後半で、彼の足跡を追っていくのだが、彼女も病に倒れて動けなくなっていって、やがて。 Mollyは変な笑い方をしてすぐに発作を起こして動けなくなったりするちょっと困ったキャラクターで、こういう人だからEdwardは逃げたのかも、とわかるような描き方をしていて、このMollyのパートはなしでもよいのでは、って思った。(後のトークで、後半パートは前半の撮影が終わってから書き足されたものだったと)

どちらのパートも異国を彷徨い続けて終着点のない倦怠とメランコリーが覆っていて、そこにところどころApichatpong WeerasethakulだったりJia Zhangkeぽかったりするアジアのちょっとミステリアスな風景が被さる。 ただそこに東洋的な異界や死後の世界が見えたり晒されたりすることはなくて、あくまで(理由はしらんが)西欧的なメロドラマが内側になぎ倒されていく(or ゆっくりと自滅していく)様子が描かれて、それが西欧社会で言うところのGrand Tourというものなのだ、と。


여행자의 필요 (2024) - A Traveler's Needs

10月14日、月曜日の晩、Curzon Mayfairで見ました。

“In Another Country” (2012) ~ “Claire's Camera” (2017)に続く3つめのホン・サンス x Isabelle Huppert作品。今年のベルリンで銀熊を受賞している。

相変わらず、変な映画/でも映画、としか言いようがないやつなのだが、おもしろいことはたしか。

韓国でフランス語をプライベートで教えている女性Iris (Isabelle Huppert)が主人公で、頼まれた人の家に行って会話をするのだが、対面での会話はほぼ片言の英語で、生徒が話した最近の出来事や弾いたピアノなどについて「あなたはその時にどう思った?どう感じた?」みたいなことを聞きだして、それを紙切れにフランス語で書きとって、帰り際にそれを渡してこれを言えるようになりなさい、そのうち喋れるようになるから、って。 教えて貰う側はわかりました.. と。

二つ目の家に行ったとき、教わる側で会社の社長をしている中年女性(Lee Hye-young)がこのやり方を怪しんで、これがIrisの開発した独自の学習法であることがわかるのだが、彼女は確信に満ちているし、途中からその家の旦那(おなじみKwon Hae-hyo)も一緒になってマッコリを飲み始めていつものあれになってしまうので、お手あげ。

三つ目が、彼女が居候しているらしい若い男の家で、そこにその男の母親がやってきて彼女が同居していることを知ると、やはり取り乱して母子の間に波風がたつのだがIrisにどうとできるものでもないので、口をすこしヘの字に曲げて肩をすくめるいつものー。 彼女がどこからどういう事情でここに来て、本職でもなんでもないフランス語教師をして、この先どこに向かおうとしているのか誰にもなにもわからないし、語られない、ただの流浪の詐欺師なのかもしれないが、それで - (例えば)旅行者の何がいけないのか?

見知らぬ土地にやってきたり現れたりして、そこをうろついて出会った人と酒を飲んで話して、というホン・サンスのいつものが繰り返されるだけなのだが、これって誰と何回お酒を飲んでも楽しい人には楽しいのと同じようなことなのだろうか… 例の酔っぱらったようなクローズアップも出て来て、そこが一番受けていた。

ワンピースの上に緑のカーディガンを羽織って、ひとりすたすた向こうに歩いていくその後ろ姿、ひとり食堂でビビンバを食べつつマッコリを呑む彼女とか、公園で縦笛をアナーキー(へたくそ)に吹きまくる彼女を見ているだけでぜーんぜんよいの。そのまま日本にくればいいのに、と思ったら本当に行くみたいね。


関係ないけど、最近の30周年、35周年にはあんま驚かないし気にしないようにしているのだがISISの”Panopticon”のリリースから20年、はちょっとこたえたかも。

関係ないけど、さっきCafe OTO(ライブハウス)から帰ってきて、Vivian Goldman先生のライブだったのだが、バックにSteve BeresfordとDavid Toopがいて、Flying Lizardsの”The Window”とか”Her Story”とかをやったの。長生きはするもんだねえー


10.21.2024

[film] The Talk of the Town (1942)

10月13日、日曜日の昼、BFI Southbankで見ました。 LFFの”Treasures”というカテゴリーで昔の作品のリバイバル。日曜の昼にこういうの見るのはよいねえ。
2本のオリジナル35mmナイトレートフィルムから4Kリストアされたものだそう。 邦題は『希望の降る街』 - かなり変。

監督はGeorge Stevens、脚本にはIrwin Shawが参加している。
めちゃくちゃおもしろいコメディだったのだが、会場では見たことがある人がそんなに多くなくて、やや不思議だった。イントロをしたキュレーターのRobin Baker氏によると、George Stevensのストーリー重視王道路線のようなのがカイエの作家主義の文脈からきちんと評価されなかったのが大きかったのではないか、とか。

工場の労働者で組合で活動していたLeopold Dilg(Cary Grant)が工場に放火して工場長を殺した容疑で逮捕・投獄される(新聞大見出しぐるぐる)。大雨の晩、Dilgは脱獄して飛び降りた時に痛めた足を引き摺って少し離れた森のなかにある同窓生Nora (Jean Arthur)のコテージにやってきて倒れ込む。ここまではノワールの脱獄ものっぽいテンション。

NoraはDilgをしばらくの間匿うことにするものの、このコテージは夏の間大学の法学の教授Michael Lightcap (Ronald Colman)に貸すことになっているの… と言ったところで一日早く教授が到着してしまったので、とりあえずDilgを屋根裏部屋に隠す…のだが、NoraはDilgをそのまま放っておくわけにもいかず、Dilgもずっと隠れているわけにもいかず、脱獄逃亡中の身であることを隠した上で教授には住み込みの庭師として紹介し、Noraは教授の身の回り雑用係として3人が一緒に暮らしていくことになる。

Dilgを捜して頻繁に警察がやってくるし新聞は連日顔写真入りでDilgのことを報じているので、隠れたり隠したり逃げたりの綱渡りが続いて、その間にDilgと教授はチェスをしたり法学が現実を十分に見ていないことについて延々議論したり、なんだかんだ仲良くなっていく。 やがて教授は最高裁判事に指名されて、その勢いでNoraに恋を告白して…

この先がどうなっていくのか、見ている側におおよその流れとしてはわかるのだが、NoraはDilgとくっつくのか教授とくっつくのか、Dilgはどうやって自身の無実を証明するのか、細かいところが気になってきて、そしてびっくりすることに映画はその細かいところまでぜんぶきちきちと追っかけていく。スクリューボール式のrom-comとしては117分もあって長いのだが、ものすごくしっかりとベースを作って最後の法廷シーンまで持っていく。そこまでの飛躍ややっつけがないので、静かな法廷の緊張感が際立つし、更にその先には恋の裁き(by Nora)が待っているのでたまんない。 ノワールで始まってコメディが引っ搔き回して、最後は法廷、という流れ。

とにかく真ん中の3人の掛け合いがよくできていて楽しくて、それぞれの持ち味を期待通りに出したり引いたり、そのなかでNoraはどっちの男に引っぱられるのか、最後までわからない – 引っぱられるのでなく、最後はもちろん – というのと、ひょっとしたらDilgと教授も.. というのも現代の映画なら入ってくる要素だと思う(教授の髭とか… )くらいにみんな魅力的で。

世の中のことをよく知らない大学教授が雑多な世界に巻きこまれて大騒ぎになるスクリューボール・コメディといえば、もちろんHoward Hawksの” Ball of Fire” (1941) - 『教授と美女』があって、これは問答無用の傑作なので見てほしいのだが、これも含めて大学教授が男性ばかりだった時代 - 女性は学問のことわからない・触らないだろ前提で成立しているお話しなので、そうじゃない版もどこかにあるのだったら見たい。

あと、似たようなタイトルでJohn Fordの”The Whole Town's Talking” (1935) ってあったなあ、と思ったらこれにもJean Arthurは出ているのだった。街の噂に必ず挟まってくる彼女。

上映が終わると満場の客席からは大拍手が。そうこなくちゃ。

10.20.2024

[theatre] The Other Place

10月12日、土曜日のマチネをNational TheatreのLyttelton theatreで見ました。
作・演出はAlexander Zeldin、”Antigone”を下敷きにした新作。 休憩なし、とてつもない緊張感に貫かれた約80分。

リフォームしたばかりのChris (Tobias Menzies)の家のぴかぴかのリビングが舞台で、Chrisの他に優しそうな妻Erica (Nina Sosanya)とティーンくらいの息子がいる。あとなにかとあがりこんでいろんなことに顔を突っ込んでくるうざい隣人のTerry (Jerry Killick)とか。リビングの大きな吹き抜けバルコニーから外の庭に出ることができて、そこに一緒に暮らしているChrisの姪Issy (Alison Oliver)がおとなしくお行儀よく、でもやや居心地が悪く落ち着きなさそうにしていると、彼女の待っていたらしい電話がきて、連絡がとれずに放浪していた姉のAnnie (Emma D’Arcy)が漸くやってくるという。それを受けたChrisたち一家はざわざわし始める。

彼女が現れるとChrisの一家は気遣いまみれのぎこちない挨拶〜やりとりをして、放浪して音信不通だったAnnieの言動、挙動、それを受けとめる家族側の反応を通して彼女は精神を病んでいる/病んでいた - その原因がこの家、この(or 彼女の)家族の過去に起こったことに起因している、というのが会話の端々からわかってくる。

謎解きものではないので書いてしまうと、Annieの父はこの家の庭にあった木で首を吊って自殺した - 家を継いだ弟のChrisは家をリフォームして、兄の遺品 - ベランダの脇に纏めて積んである - を処分してやり直そうとしている。

そこに戻ってきたAnnieは父の遺灰を撒いて一連の過去を終わらせようとするChrisに対峙し、なんでそんな勝手なことをするのか/自分たちにとっては父なのに、と怒りをぶつけ、Chrisはこの件で自分たちはもう十分悩んで苦しんできた、これで終わりにして再出発しなければ、というのだがー。

それだけならば/それだけがChrisとAnnieの確執の根にあるのであればそんな拗れるほどのことでもないのでは、と思うのだが、これはアンティゴネーの、オイディプースの娘の話なので環境をリセットしたくらいで簡単には終わらせてくれない。関係を断ち切るためにはどうすればよいのか? それを可能にする”The Other Place”なんてどこにどうやったらありうるというのかー?

古典を現代劇として甦らせるには、というよりも、(例えば)現代の家族のありようにもこういう形で根を張らせることができる(張ってしまっている)のが古典の古典たる由来なのだろうな、と。それがどうしても特定の父性や男性性を浮きあがらせる方に傾いてしまうのはしょうがないことなのだろうか。

そう、AnnieだけでなくあまりクローズアップされないIssyもEricaも犠牲者として柔らかく首を絞められたり巻かれたり、陰で苦しんだり泣いたりしている姿が描かれるし想像できるし。

というか、古典云々なしでもこんな話、そこらじゅうに転がっていそうで、モダンな外装に包まれて見えなくなっていそうなそっちの方が十分に怖いかも。ギリシャ神話どころか日本の郊外や田舎にもふつうにありそうな話だし。

あと、短めの演目とは言え毎日これをあのテンションで演じている役者さん達もすごい。プログラムを見るとIntimacy Coordinatorもアサインされていた。

10.18.2024

[film] Pauline Black: A 2-Tone Story (2024)

10月12日、土曜日の晩、Prince Charles Cinemaで見ました。 なぜかドキュメンタリーばかりを見ているLFFの3本め。

Pauline Blackと彼女がヴォーカルをとっていたThe Selecterと、彼らがいた2-Toneレーベルのお話し。Pauline Black本人がWriterとして関わっている。

この(どの?)周辺では、フィクション、ドキュメンタリー含めて結構いろいろ見てきた - “Babylon”(1980) - “Rudeboy: The Story of Trojan Records” (2018) - “Lovers Rock” (2020) - “Poly Styrene: I Am A Cliché”(2021) – もっとあったはずだけど出てこない..  – と思っていたが、まだこんなのが。そしてこれは、当初思っていた以上にとても重いやつだった。

1953年にエセックスで生まれて、生みの母親(白人)はそのまま彼女を手放したので、白人ユダヤ系の両親のもとで里子として育てられ、家庭内でも外でも肌の色による違い、差別や虐待と沢山の何故?をひとり内面に抱えこんで大きくなった彼女がコベントリーでSelecter/2-Toneと出会って、経済的成功と共に自分を受けいれ、解放する術を学んでいく - というか、あの時の自分に起こったのはこういうことだったのか、と気づいていく。彼女が音楽やバンドと出会わなかったら、成功しなかったら、等を考えるとものすごく残酷だし恐ろしい話だと思って、Ernest Coleのドキュメンタリーと併せて、あとどれだけこういうのが.. いや、ドキュメンタリーやルポルタージュを見なくたって読まなくたってまずあるのだし、いまだに苦しんでいる人たちはいくらでもいるのだし、それらに敏感にあらねば、と思う。

そして、これだけ過酷な幼年期を経ての、あの跳ね回るヴォーカルだったのか、と。

あと、80年にMichael Putlandによって撮られた有名なTea Party - Viv Albertine, Chrissie Hynde, Siouxsie Sioux,Poly StyreneとPauline Blackが一堂に会した写真、あそこでもPolyとPaulineだけは居心地の悪そうな表情、佇まいを隠せず、”Punk”としてカテゴライズされた女性たちの間であってもなお... とか。

そして最後の方で(調査の結果)明らかになる彼女の生みの父の正体とは…. なんだそれ.. になったり。

上映後のPauline BlackとのQ&A、すばらしい人だった。もうじき71歳になられるそうだが最初にThe Selecterを聴いたときに感じたしなやかな強さはそのままに。

どうでもよいことだけど、2-Toneはカラフルなニューロマンティックスに駆逐されたのだ、というのになるほどお!とか。(今更)

あと、今回のドキュメンタリー用にNeol DaviesとJerry Dammersにはインタビューを何度もオファーしたのに完全無視だったと。 「これだからオトコは...」ってさばさばしていたけど。


Dahomey (2024)

同じ10月12日、上の前にBFI Southbankで見ました。これもLFF(2つめ)の。
これもドキュメンタリー(一部フィクション要素あり)で、監督はMati Diop。今年のベルリンで金熊を受賞している。 68分しかないエッセイのような作品だがものすごく深い。

現在のベナン共和国がダホメ王国だった頃(1600–1904)、フランスの植民地支配時代(1872–1960)に持ち去られてフランスの博物館に収蔵されていた彫刻など26点が2021年、マクロン政権の施策で現地に返還されることになった。(同様の返還活動は英国でもあった)

フランス側で美術品が梱包され、ベナン側でそれが解かれる、そこに梱包される美術品 – 収蔵品番号26の低く深い声が略奪され長いこと陳列されていたモノの声 – 決して聞かれることがなかった者、かつては王だった者の声で帰還への思いを語り始める。 これは単に戻します – 戻りました – よかったね、で終わって許される話ではない、と。国のアイデンティティの根幹にあったシンボルが奪われ、それが戻される、それらが支配国によって為される。 これってどういうことなのか?なぜ今なのか?

戻った先のベナンでは返還の式典に合わせて学生たちによるディスカッションが行われている。今回の26点で全てではない、そしてベナンだけの話ではない、なぜ? いろんな疑問が湧いてくるが、美術品についての話だけではないのでは。 ヨーロッパでの移民の扱いや位置付けが変わったことやディアスポラの帰国の行動とリンクしたものではないのか、これが意味するところはいったい何? 結局宗主国側の都合なんじゃないの? など。

最後の方では、”Atlantique” (2019)にも出てきた、夢のなかのような夜の街と海の光景が現れる。
夜の海とモダンな建造物と、そのなかを夢のように幽霊のように彷徨って、Atlantiqueの海に出ていった人々。彼らも還ってきたのか、これから還ってくるのだろうか?

そして勿論、どうやったって昔とまったく同じ状態に戻ることはできない。ここから何が始まるのか? 力による搾取や支配はもうやめようよね。

10.17.2024

[theatre] Juno and the Paycock

10月9日、水曜日の晩、Gielgud Theatreで見ました。

Seán O'Casey (1880-1964)によるアイルランド内戦期の市民を描いたダブリン三部作の2つめ、1924年初演の舞台劇で、Hitchcockによる映画版(1930)もある – 邦題『ジュノーと孔雀』 - 未見。 演出はMatthew Warchus。

“Paycock”はPeacockのアイルランド語読みで、Junoが夫Jackを呼ぶときに使う。この劇でのみ使われている呼び名なのかしら? 孔雀の男ってどんなふうに見られるのか?

舞台は血のように赤い緞帳で覆われていて、真ん中に小さな十字架がある。幕があがるとぼろぼろで埃だらけでがらんとした長屋のようなとこの2階のひと部屋。壁には錆のような赤。人が来るときは階段をのぼるようなどこどこした音がする。

ここに暮らすBoyle家が中心で、Jack (Mark Rylance)は飲んだくれでしょうもなくて、妻のJuno (J Smith-Cameron)が切り盛りしていて、ちゃきちゃきした娘のMary (Aisling Kearns)と内戦で片腕を失って何かに怯えている息子のJohnny (Eimhin Fitzgerald Doherty)がいるが、すべてはJunoが真ん中でがんばっている。 一時期自称船乗りだったので自分を”Captain”と呼びたがるJackは、仕事の話がくると足が痛くなったり具合が悪くなったりで、それをネタにこそこそ呑んでJunoに見つかっては怒られてを繰り返し..

後半、3幕目を除いて物語の殆どは、すっとぼけのJackと何でもお見通しで鋭くつっこみ続けるJunoとのコミカルな、落語みたいなやりとりが殆どで、それだけでおもしろいので、それでよいの? なのだが、よいかも。

もともとMark Rylanceを見たくて取った劇なので、彼の動きをライブで目にできるだけでうれしい。外見はちょび髭のチャップリンみたいだが、動きやリアクション、間合いの取り方は由利徹(もちろん褒めてる)で、突っこまれた時のとぼけぶり、返す間合いとその目線、再アタックされた時の逃げ、すべてが絶妙にはまってすごいったらないの。これでずっと長屋落語みたいにやってくれたら最高だったのに… それか『ゴドーを待ちながら』みたいなのとか。

お話しは第一幕の終わりに親戚が亡くなって分配される遺産の一部が転がりこんでくる、と突然言われてへええー、となり、第二幕に出てくる同じ部屋は、家具とか壁が少しきれいになって、みんな少し鼻高になっていて、着ている服もよいかんじなのだが、小綺麗になったところにやってくる人々はそんなに変わらず呑気にお酒を飲んでバカなことを言ったり歌ったり、かと思えば、子供たちには将来のこととかいろいろ出てきて、世の中もきな臭くなってくる。

最後の幕はずっと呑みだべり友達だったJoxer (Paul Hilton)と一緒にあたふたと戦場に駆りだされ、家の外に出たらトーンががらりと変わり、きょろきょろしていると、え? そんな… ? って終わってしまう。『ゴドー…』以上の不条理み、というか。

こんなお話しだったの? … という落とし方で、庶民の喜怒哀楽やサークルをぷっつり簡単にひっくり返してしまう内戦の残酷さ、は実際そうなのだろうしわかるのだが、でもそれでもアイルランドの民は酔っ払って転がされても、どっこい生き残ってタフにやってきたんだから、ということなの? - それは、そういう強さみたいのはよくわかるけど、でもそっちに寄せちゃってよいものだろうか…

でもとにかくMark Rylanceはすばらしかったのでー。

10.16.2024

[film] Ernest Cole: Lost and Found (2024)

10月11日、金曜日の晩、Curzon Mayfairで見ました。
今年のLondon Film Festival (LFF)で自分が見た最初の1本。“Lee”からの写真家繋がりもあるか。

ドキュメンタリー作品で、監督は“I Am Not Your Negro” (2016)のRaoul Peck。今年のカンヌでプレミア上映されている。

もう終わってしまったが、6月にPhotographer’s Galleryで”Ernest Cole: House of Bondage”という企画展示があって、彼の写真集“House of Bondage” (1967)に沿う形で当時のアパルトヘイトがどんなものだったかを紹介していくもので、一見ふつうのようで、よく見ればとても酷いことがわかる情景を一枚の絵のように停止した時間の中で捉えていたのが印象に残っている。 なぜ今これが? という問いに応えるのがこのドキュメンタリーだった。

1940年に南アフリカで生まれて幼い頃から写真を撮り始めたErnest Coleが50年代後半から地元の雑誌に写真を載せるようになり、日々の通勤風景や路上や市場の光景、ある晴れた日の居住地、奴隷と雇主のコントラスト、など、EuropeanとNon-Europeanがふつうに(厳格に)隔離・管理されている社会のありようを告発、というよりこれが淡々とした日常の光景として慣れっこになってしまった、そのつーんとくる恐ろしさ示したものになっている。

1966年に亡命するようにNew Yorkに渡って写真集“House of Bondage”を発表して名を知られるようになり、NYでも固着・常態化しているように見える人種差別に晒された街の景色を同様のタッチで発表していくのだが、68年、南アからは帰国を禁止されて無国籍の根無草となり、米国でも、自分はどこに属する誰なのか、を常に自身に問いながら写真を撮っていったように見える。写真集出版でそれなりの名声は得ても、道端で立ち尽くしてしまうかのような無力感、寄る辺ない孤絶感が常にそこにあって彼をゆっくりと苦しめていったような - 何度も映しだされる彼のポートレート、そのぽつんと寂しそうな狐の表情を見ると…

後半は、2017年にスウェーデンの銀行から突然発見されたColeのネガなど資料ひと揃いの謎 – 誰がどうしてここに? はまだ明らかにされていない – とそこを掘り返しつつ改めて辿られる彼の軌跡と遺したものの数々。 6月に見た企画展示もここで発掘されたもの 〜 “House of Bondage”再発に端を発したものだったのか。 前半が”Lost”で、後半が”Found”なのね。

彼自身の苦悶や孤独の明滅もあるが、それ以上に当時のアパルトヘイトのありよう - 国が教育から経済から何から何まで人種差別をする仕組み・施策を組みこんで徹底して運用してバックアップしていた - の、今の地点からみた異様なこと、その恐ろしさを切り取られた景色として眺めると改めて衝撃を受ける。

そして、この異常で狂った状態への異議は彼の作品だけでなく、世界中であったボイコット運動も含めてそこらじゅうで繰り返し指摘されていたのに、長いこと事態が変わること/変えられることはなかった。英国が国策として変えない、と宣言して他の先進国もそれに倣った、それだけで。

これって、時代もその根も異なるとしても人道に反すること、人権侵害を止めることができない、という点で今のパレスチナの虐殺の構図に似ている。先進国同士のやらしい利害関係が優先されて被支配国がやりたい放題やられて誰も止めることができない、という。こういう事態をどうにかするために国連てあるんじゃないの? 結局ぜんぶお金なの? いまだに。

ほんと、どうしたらいいんだろう、アパルトヘイトでも、どれだけの人が理不尽に投獄されたり殺されたりしたんだろう、という怒りと悲しみがばーっときてあまり冷静に見れなくなってしまうのだった。

自分にできること、というわけで明日は在外投票に行こう。期間が5日くらいしかないのが腹立たしいが、これくらいはなんとか。

10.15.2024

[film] Lee (2023)

10月6日、日曜日の夕方、Curzon Aldgateで見ました。写真家 Lee Millerの評伝ドラマ。

監督は撮影出身でこれが長編デビューとなるEllen Kuras、原作はAntony Penroseによる評伝”The Lives of Lee Miller” – こないだまで書店にサイン本が積んであった。

制作はSkyで、TVドラマのやや豪華版のようなのかと思っていたらゲストも何気にすごいし見応えもあるし。 音楽はAlexandre Desplat – 今回はやや弱いか。

Lee Millerって、昔はMan Rayの写真のモデル、くらいの認識しかなかったのだが、こちらに来てみると、写真家としての彼女の方がよく知られている。特に戦時下のロンドンを撮った写真集は新刊でも古本でも沢山でていて、それらの写真は未だに生々しくて、とても近い。

第二次大戦前夜、それまでVogueのモデルとして活躍して写真は少し、くらいのLee Miller (Kate Winslet)は、ボヘミアンとして南仏で友人たちと楽しく遊んでいた(飲んで、セックスして、写真を撮る日々)のだが、戦争になって、その頃知り合ったアーティストのRoland (Alexander Skarsgård)と恋におちて、その関わりのなか、なにかに追いたてられるように戦争をテーマに撮っていくことにする。

ずっとモデルとしていろんな写真を撮られてきて、撮られる側、見られる側の立場や弱さ危うさを十分にわかっている彼女が、戦争の悲惨や辛苦を前にしたりもろ被りしたりしている女性たちを見てなにかを感じとり、自分の目を通して撮って伝えるのだ、と前線に向かうのは十分な説得力があり、そのぶれない目線や記憶を補うかのように若いジャーナリストのような男(Josh O’Connor)- 最後に正体が明かされる - が晩年の彼女と一緒に当時の写真を見たりしながらインタビューしていく映像が挟まれていく。

まずは当時のUK Vogueの編集長Audrey Withers(Andrea Riseborough)に戦場に行って写真を撮ることをかけあって、横でそれを聞いてへらへら笑っているCecil Beaton (Samuel Barnett) – まああんなかんじだったんだろうなー - を無視して、でも前線に向かおうとしたら英国軍は女性カメラマンが赴くのを許していなくて、そうだわたしはアメリカのパスポートがあるんだった、ってアメリカ軍のジャーナリストとしてヨーロッパに渡り、Life誌のカメラマンDavid (Andy Samberg)と一緒に戦地を渡っていって危険な目にも遭う。 

Paul Éluard (Vincent Colombe)の詩 - “Liberte”を書いたビラが降ってきてパリ解放を知るが、戦争はまだ終わっていないという予感と人々が消えた..という噂を聞いて、ドイツの収容所の方に向かう。ここでの凄惨な写真たちは、Webにもあるだろうから見てほしいのだが、彼らはダッハウでの強制収容所の惨さを最初に目撃したジャーナリストたちで、彼女はまだ30代だった。

言葉を奪われてしまう経験、であることはよくわかるが、それ以上に彼女を激昂させたのが、前線で撮った写真を掲載しなかったUK Vogueの姿勢だったというのはなんとも(その後、US Vogueは掲載した)。戦場での扱い - 女はこんなところにくるな、も含めて充満する理不尽さに翻弄されつつもいろんな怒りを起爆剤に歩んでいった彼女の苛立ちと強さをKate Winsletは見事に表現していて(ポスターでこちらを真っ直ぐ見据える彼女を見よ)、くっきりとしたLee Millerの像を描き出すことに成功していると思った。

南仏時代の仲良しとしてFrench Vogueの編集者Solange d'AyenをMarion Cotillardが、Paul Éluardの妻Nusch ÉluardをNoémie Merlantが演じていて、この3人のやりとりをもっと見ていたかったかも。

10.14.2024

[film] The Legend of Hell House (1973)

10月7日、月曜日の晩、BFI Southbankの特集 “Martin Scorsese Selects Hidden Gems of British Cinema”で見ました。

この特集はもう終わってしまったのだが、特集でかかった21本のうち、見れたのは18本だけ。選んだのがMartin ScorseseとEdgar Wrightなので、ややB級サスペンス-ホラー寄りのが多くて、あとちょっとコメディとか文芸よりのがあればなー、とか、女性が選んだら全然異なるものが出てくるのでは、とか。

邦題は『ヘルハウス』 … と聞いて、小学生のとき『エクソシスト』が公開されてヒットして、もちろん怖くて見に行けるわけないのだが、それより恐ろしいのが『ヘルハウス』だ、っていう伝説があって見にいった人は英雄になっていた - などを思い出し、いままさに見ようとしているのがその『ヘルハウス』であるのをシアターに座ってから気づいて、でも怖くなったのでやめますなんて言えず… がんばった。

監督はJohn Hough、原作はRichard Mathesonによる71年の小説”Hell House”で、脚本も彼が書いている。音楽は共同でDelia Derbyshireの名前が。35mmフィルムの傷や退色も含めて、すばらしくよいプリント。

物理学者のDr. Lionel Barrett (Clive Revill)が大富豪から幽霊屋敷と呼ばれて名高いBelasco Houseの調査を依頼される。同行するのは彼の妻Ann (Gayle Hunnicutt)と霊媒師のPamela Franklin (Florence Tanner)と前回の調査で唯一生き残ったBen Fischer (Roddy McDowall)の計4人で、クリスマスイブの一週間前に屋敷に入って、シーンごとに日時が字幕表示されて、記録や証拠 - Legendとして残る – 50年経っても残っているねえ、と。

最初から相手は幽霊屋敷である、あそこにはなにかある/でる、と明確に言われていて、これは科学的に対処できるはず、とする科学者と直接話したり相手してみれば、という霊媒師と両極がいて、お金くれるなら、という適当なのがいて、要は霊だろうが科学だろうが両面で絶対にでる設定なので準備・用意はできているはずなのだが、やっぱり画面に現れくるのは猫だろうが鳩だろうがぜんぶ怖い – 怖いと思うからこわいんだ、って言われるその罠に簡単にはまる。だって視野の幅から高さからすんなり見てわかる怖さ - 流血とか傷とか、そんな説明なくても見てみれば - だし。

Edgar WrightはJack Claytonの”The Innocents” (1961) - 『回転』の反対側に位置する恐怖映画だと語っているが、確かに最初から種も仕掛けもなくぜんぶ見せていて、ほれ怖がれ、こんなのもあるぞ、ってほいほい投げてくるようで、それでも怖いのだからどうしようもない。

あとは時間の経過か、何時何分に何をした、が記録されていくが、それと同じ時間の流れの中にあれらはぜんぶ置かれ、ずっとそのままにされてきたのだ – 世界の殆どはそういうのでできているのだ、という念押しで浸みだしてくる恐怖。なんでお墓や古屋敷が怖いのかがぜんぶここに。


Dr. Jekyll and Sister Hyde (1971)

10月3日、木曜日の晩、上と同じ特集で見ました。邦題は『ジキル博士とハイド嬢』。

イントロと上映後のQ&Aでは脚本を書いたBrian Clemensの息子のSam ClemensとSister Hydeを演じたMartine Beswickが登場してお話しを。

監督はRoy Ward Baker、原作はR.L. Stevensonの小説”Strange Case of Dr Jekyll and Mr Hyde” (1886)、制作はHammer Film Productions。

ヴィクトリア朝時代のロンドンで、まじめな研究者であるDr. Jekyll (Ralph Bates)は名をあげるべく不老不死の薬を研究していくうち、墓荒らしの鬼畜コンビBurke & Hareが持ってきた女性の死体から抽出した女性ホルモンを自分で試してみたら女性の身体に変態してしまうことを発見し、自らMrs. Edwina Hyde(Martine Beswick)と名乗り、最初は隠そうとしていたのだがいろいろやめられなくなって、変身するために自分で夜の街に出て女性殺しを始めるようになり…

ここにDr.Jekyllにプレッシャーを与え続ける年長の教授とか、下宿の上階に暮らしてJekyllとHydeそれぞれに恋をしてしまう姉妹とかが絡んできておもしろいの。

Burke & Hareは感想を書いていないけど同じ特集で見た”The Flesh and the Fiends” (1960) – 邦題『死体解剖記』に出てくる連中だし、舞台はWhitechapelで明らかにJack the Ripperを参照しているし、ドリアン・グレイもあると思うし、フィクションも含めてあの時代のロンドンで起こりえた老いと美と死に対する憧れや畏怖を巧みに放り込んで見事な絵巻物にしていると思った。ファッションも素敵だし。

今だったら男と女の性がどう切り替わるのかをクローネンバーグからこないだの”The Substance”まで、ボディホラーふうに見せる方に寄ってしまうのかも知れないが、それなしでも十分おもしろくできるねえ。

上映後のQ&AはBrian Clemensがどれほど真摯にこれに取り組んでいたか – 細かい資料が遺されているそう - と、あとMartine Beswickさんはすごくチャーミングな方だった。

Whitechapelって、もろ今住んでいるとこの近所なので生々しいったらない。


今回の特集、70年代の選択に所謂B級ホラーっぽい作品が並んだのは、彼ら(Martin Scorsese & Edgar Wright)の映画人としての目覚めや立ちあがりとも関係あったりするのだろうか?

10.13.2024

[film] My Old Ass (2024)

10月5日、土曜日の昼、Curzon Aldgate で見ました。
作・監督は女優でもあるカナダのMegan Park。

カナダの田舎で家族と暮らして18歳の誕生日を迎えるElliott (Maisy Stella)がいて、コーヒーショップの女の子とよい仲になったり、トロントの大学に進学するので最後の夏を仲良し3人組で過ごすべくボートで離れたところに行って - 家族はおうちでバースデイケーキと待ってるのに - 焚火を焚いてひとりが持ってきた怪しげなキノコみたいなのを煎じて飲んでみると、みんな一様に変になり、げらげら笑っているとElliottの隣に中年の女性 (Aubrey Plaza)が座っていて、聞くと39歳の自分だと言う。

そんなバカな話あるかよ、って会話していくと自分しか知らないはずの自分の身体の細かいこととか知っているし、そんな変でやくざな大人にもなっていないみたいなので話をしていくと「Chadには気をつけろ」と言い残してAubrey Plazaはどこかに消えてしまう。

しばらくすると突然本当にChad(Percy Hynes White)という青年が現れてクランベリー農家をしているElliotの家の手伝いを始めて、最初は警戒していたものの、寄れば寄るほど素敵な奴でしかなくて、でも自分はゲイだし違うんだけど、と思いつつもどうしようもなく好きになっていったり、それとは別に親が農地を売ろうとしている計画を知って、なんで何も言わずに勝手に決めるのか? って荒れたり、そんないろいろ区切りの季節に。

39歳の彼女 - My Old Assがスマホに連絡先を残しておいてくれたので試しにチャットしてみたら返してくれたので、なにかある度にそれで相談してみたりするものの埒があかなくなってきて、手に負えないのでもういい加減にでてこい! ってなる。

大人になっていくどこかの過程や岐路で相談したくなる誰かが必要になり、それが親とか他人ではなく39歳の自分というのはわかるし、中高年になった自分から愚かな選択をした/しそうなガキの自分にやめとけ、とか言いたくなるのもよくわかるので、過去を変えたら未来も変わるとか面倒なとこをすっとばしておけばcoming-of-ageものの設定としてはよいと思った。結局はキノコのせいかもだけど。

でも最後に明かされるその謎というか秘密があまりに普通のあれで、こんがらがった何かでもないし伏線回収とかどうでもよいこと以前にこんなんでよいの? にはなったかも。で、明確に示されるわけではないが結局は今のままでよし、に落ちたってこと.. でよいの?

野山でデートするElliotとChadのふたりも素敵なのだが、ふたりのElliottのやりとりがとても自然でよい感じでおもしろいのでずっとかけ合い漫才みたいにやっていてもよかったのに。

あと古くさいかもだけど「大人になる」っていうこと、とか「大人」のありようについて - 便利帳みたいにドラえもんみたいに使うだけじゃなくて - もう少し考察みたいのがあってもよかったのではないか。Elliotの世代はそもそもそういう連中、なので難しいのかもだけど。

Aubrey Plazaがふだんのぶっきらぼう風情はそのままにあんなナチュラルに(≒毒のない)年長ぽい「女性」を演じているのが新鮮で、それを正面から平熱で受けとめてしらっとしているMaisy Stellaもよいの。

仮に自分が39歳だったとして、そいつが18歳だった自分に会えたとしたらなにを言っただろうか? とか考えたり。①まず、ノストラダムスのあれは来ないし日本も沈没しないから期待せずにちゃんと勉強しとけ  ②特に英語はまじめにやっとけ かなあ。 他方で18歳のあのやろうの方はぜったいいうこと聞かなかったし話そうともしなかっただろうなー (嘆)

10.11.2024

[music] Fairground Attraction

10月5日、土曜日の晩、”A Face in the Crowd”を見た後、歩いていってRoyal Festival Hallで見ました。

6月の日本公演はクアトロなどだったようだが、こっちではRoyal Festival Hall(NHKホールかな)で、上の方まで結構埋まっている。客席は当然シニアばっかしで、静かなカップルか同窓会か、のような人たち。お酒を手にしているけどお行儀よい。

前座は、Scott Matthews。ギター1本と歌でNick Drake直系 ~Rufus辺りにも通じる深くしっとりくる歌を聴かせる。秋のかんじ。
 
最後に彼らを見たのは1989年の初来日のクアトロで、当時の待望だったこともありものすごくよくて楽しくて、みんなでゆっさゆさ揺れてスイングしながら聴いて踊りながら帰って、こんなに素敵に楽しんでしまってよいのか?って首を傾げたりしつつ、とにかくよかったの。これの翌年にThe Sundaysがやはりクアトロに来て、すっかりつまんなくなっていた(個人の体感差あります)当時の英国シーンにこれからはもうこういうのだけでよいかも、とかしみじみしていたらグランジのどぶ波がー(以下略)という記憶。

最初の”The First of a Million Kisses” (1988)のジャケットはElliott Erwittによるキスの写真で、これは
Tracey Thornのソロ7inch - “Plain Sailing” (1982)のジャケットのキス - これはRobert Doisneauだった - に続く素敵なやつで - そうやって写真の方に広がっていくのもあったり。
 
でもこの後はというと、EddiがLiberty Horsesと一緒にRough Tradeから7inch出した頃とか、Mark E. NevinがMorrisseyと「おじさん殺せ」をやっていた頃までは追っていたんだけどなー。Eddiは高い声がちょっと不安定になるところもあったが豊かに広がるようだったし、Markは変わらず鳴りを意識させないようなうまさがあるし。

ステージ上のバンドは6人(も)いて、1曲めはみんなあれ本物だわよ、歌ってるわよ、みたいにざわざわしてて(なんかわかる)、2曲めで“A Smile in a Whisper”が静かに寄せてくるとようやくわーってなる。“Words are unable to speak of love ~ Like a smile in a whisper does”、これと”Perfect”の” It's got to be perfect ~”を頭のなかで鳴らしながら、岡崎京子的に夜の街を突っ走る、という80年代末の風景が走馬燈でまわりだしてくらくらする。

彼らもそういうのは承知しているのだろう、35年ぶりのー、とか35年前にはロンドンのあの辺でさー というのをEddi Readerは何度も繰り返し語ってこちらの何かを煽ったり火をつけたりするのだったが、とにかくあの時あんなふうにいたけど、いまもここにこうしてあるんだよ! というのをJudy Garlandの”Get Happy”のようなスタンダードを突っ込んだりしつつ撒き散らし、柔らかいヴィブラフォンの音に包まれたブランコのような回転木馬のようなぐるぐる繰り返される戯れ - FairgroundのAttraction! - のなかで彼女の愛はずっと誘うように歌われてきて今もほらね、って。35年前に遊んだ遊園地で、同じメリーゴーランドががたがたになってるのに迎えてくれたらじーんとするでしょ。彼らの曲って、元々そういう奴らだったんだ、って改めて気づいたり。

そういうのに気づいてきた真ん中くらいの”Find My Love”は、最初のうちみんな独り言を呟くように歌っていたのが最後は大合唱の大波になったり、アンコールの最初の”Allelujah”で、”Alleluiah, Here I am!”と大きく両手を広げてくれたりすると、もうそれだけで… 最近そんなのばかりで、ほんといやだわ。

久々に”Perfect”のPVを見返したらIslington TunnelとかがあるCanalで撮ってるのなー。当時はどこの田舎だとか思っていたが割とすぐそこなのだった。


LFF、当日のチケットが取れなくてしんでる。現地まで行って並べば入れるであろうことはわかっているのだがそこまでの元気もでない。やだやだ。

[theatre] A Face in the Crowd

10月5日、土曜日のマチネのをYoung Vicで見ました。

Elvis Costelloが音楽(詞も)を担当しているミュージカルで、こないだの彼のライブでも若者たちががんばっているので、見にいってくれよな、と言って主題歌を歌ってくれたので見る。タイトルの一曲だけじゃなくて、ミュージカルで流れるいろんな音楽 - 広告のジングルみたいのまで - を全部彼が書いているのだとしたらすごい、って思った。ステージ右端のバンドは菅を含めて6名。

おおもとは1957年のElia Kazanによる同名映画 – 邦題『群衆の中の一つの顔』で、その原作は脚本を書いたBudd Schulbergの短編"Your Arkansas Traveler"。 舞台の脚本はSarah Ruhl、演出はKwame Kwei-Armah。

アーカンソーのローカルラジオ局でレポーターをしているMarcia (Anoushka Lucas)は町にネタ探しにいった時に拘置所の前で寝ていたLarry “Lonesome” Rhodes (Ramin Karimloo)に出会って、彼の喋りとその場で歌ってくれたのをおもしろいと思ったので、自分の番組に呼んで好きに語らせてみたら、リスナーから「よく言ってくれた!」~「ありがとう!」のような反響がすごくて、あっという間に人気番組の人気者となり、やがてシカゴのTV局から声が掛かる。

それなら行ってみようか、とシカゴに赴いたMarciaとLarryの前にはTV局が用意したライターやスポンサー達がみっしりいて、ふたりで好きにやっていた頃とは遠くて制約だらけでおかしい、と思った時には遅くて、でも人の好いLarry “Lonesome” Rhodesはうまく機転をきかせたりして、お茶の間のヒーローになっていく。

Elvis Costelloの主題歌は、君が疲弊して”only a face in the crowd”だと思っていても、ぼくは傍にいるし助けるし、”You're more than a face in the crowd”なんだ、と歌って、更に、君は強くなれるしプライドも立て直すこともできる ~ 僕の手をとって、もし君が”more than a face in the crowd”だと信じさえすればー♪ と歌う。歌詞としては”I Wanna Be Loved”の反対側にあるような曲で、Costelloとしてはあんまり”らしく”ない曲で、ちょっと曲のかんじも含めて弱いかなあ。

やがてLarryの大衆のこころを鷲掴む力に目をつけたスポンサーの薬屋が精力剤”Vitajex”の宣伝に引っぱりだし、更に政治家が自分の選挙のキャンペーンに彼をもちだして、そのキャンペーンガールのBetty (Emily Florence)と結婚する - これもまた宣伝戦略 - ことになったり、それに伴いぐいぐい良くなっていく自分の待遇にテングになっていく彼と、反対に自分ひとりではどうすることもできなくなったMarciaは彼から離れることにして。

このミュージカルのなかの主題歌の使われ方を見ると、政治家にいいように使われているLarryの、薄っぺらいキャンペーンソングにしか聞こえなくなるのと、Marciaに去られた後の彼が最後にどうなってしまうのか、あまりにわかりやすく単純化されていて先が見え見えで、これが50年代の映画ならわかるけど、トランプの時代にこんなの見せられてもどうしろというのか。(一部の観客には小さい星条旗が配られてて、選挙キャンペーンのシーンの盛りあがりを示すのに振るように煽られたので振った。旗振ったの初めて)

SNSやYouTubeの時代のメッセージとしては”A Face in the Crowd”みたいなわかりやすいメッセージには気をつけろ、しかないと思うのだが、その部分がまったくないので、Larryも根はよい人なんだけどねえ … で終わってしまう。それは極右の差別主義者に話がおもしろくてよい人だから、って近づいていくのと同じでだめなんだよ - ってCostello先生だったらここで”Watch Your Step”をー。

“A Face in the Crowd”がLarryと大衆の間ではなく主演のふたりの間で啓示のように鳴り渡る瞬間があれば.. とも思ったけどそれもなく。でもふたり - Anoushka LucasとRamin Karimloo - は歌もうまくて一緒にいる姿がとても素敵だったのでよいかー、と。

10.09.2024

[film] The Outrun (2024)

9月29日、日曜日の午後、Barbican Cinemaで見ました。

英国の天気予報を見ていると、スコットランドの北の端の方って、いつも気温が低いし天気が荒れてて悪そうだし、でもそこで暮らしている人たちもいるんだよねえ、っていつも想像して感心してをするのだが、タイトルの”The Outrun”はスコットランドのOrkney islandsの海沿いの農地のことを指す、のだそう。

原作はベストセラーになったAmy Liptrotの同名のメモワール(2016)で、彼女は脚本にも参加している。監督は(つい最近日本でも公開された、ときいた)”System Crasher” (2019)のNora Fingscheidt。ドイツとイギリスの共同制作。 主演のSaoirse Ronanと夫のJack Lowdenもプロデュースに加わっている。

物語はRona (Saoirse Ronan)の語りに沿って、時間軸はランダムに行き来していく。冒頭はOrkney islandsの寒そうな海の描写で、海で死んだ漁師はアザラシになる、という伝説 – などが紹介され、やややつれた顔と格好でその海岸沿いを歩いていくRonaが父親の農場を手伝って羊の世話をしたり、別居している(後で父の双極性障害が原因とわかる)信心深い母親と会ったり、そこからロンドンで生物学の大学院の生徒だった頃の彼女に替わり、パーティ三昧と乱れた生活でアル中と鬱病になり、面倒を起こすたびにやさしいBFのDaynin(Paapa Essiedu)がケアしてくれていたのだが、彼もそのうち愛想がつきていなくなり、それで更にやけになって襲われそうになって、これは自分でも相当やばいと思ってリハビリ施設のセラピーセッションに参加したりの姿が描かれる。

Orkneyに戻って手伝いとかをしていって、でもそのうちロンドンに戻る、という計画もたてるのだが、フェリーの船中で酒に手をだしたくなって、これはだめだ、って船を飛びだして島に戻り、諸島のなかでも更に僻地のPapa Westrayという島で、RSPB (Royal Society for the Protection of Birds)のボランティアとして、corncrake(和名:ウズラクイナ – 鶉食いな?)っていう絶滅危惧鳥の保護活動をしつつ、島の人たちのなかに入っていったり。

要約すればセルフ・リハビリの記録で、だめになった環境から自分をひっぺがして僻地でひとりになった、その過程で近しい人たちもみんな傷ついたり過去にいろいろあったことを知っていく、というだけの話なのだが、彼女がひとりで海辺を歩いて風に吹かれているところ、粗末なコテージでひとりになったところ、ひとりであるのってこういうことなんだ、と彼女が思い知るその描写と、その反対側でパーティで酒浸りの日々の荒れっぷり - ”System Crasher”の監督なので容赦なくぶちかましてすごい – があり、全体としては傷だらけのSaoirse Ronanのひとり舞台で、おそるべし、しかないのだった。 Ian McEwan原作の”On Chesil Beach” (2017)などでも、海を歩いていく姿が絵になるひと。

ただ、全体として絵になっていることは確かなのだが、酔っ払って暴発する癇癪とかエモと、この状態は絶対よくないのでなんとかしないと、という焦りにまみれたエモと、こんななんもない田舎だけど、アザラシしか応えてくれないけど、いいや、っていうエモがうまくひとつの像に繋がっていかなくて、それを力技で絵にしてしまうのはSaoirse Ronanの演技の力(と背景のOrkneyの海)でしかないのがー。

最後に姿は見えないものの、そのカエルみたいな変な鳴き声を聞くことができるcorncrakeとか、吠えると吠え返してくる(ほんとかな?)アザラシとか、Orkney islands行きたい、になる。いつがよいのか? 冬だと厳しすぎるか、でも夏だとつまんないか… とか。

で、ウズラクイナの声とRonaの笑い声であーよかったねえ、になったところで、The Theの”This is the Day”がエンドロール中にフルで流れるの。 前日の”Megalopolis”のエンディングに続いてだし、翌々日に彼らのライブを控えていたところだったので、なんだこれは? ってひとり勝手に。

10.08.2024

[film] Joker: Folie à Deux (2024)

10月6日、日曜日の昼、BFI IMAXで見ました。日曜の昼からだからかもだけど、がらがらだった。

これの1週間前の”Megalopolis”より見る気がしなかったし、2019年の前作もみんな大絶賛だったけどどこがよいのかあんまわかんなかったし、この前作がArthur Fleckからサイコパス Joker (Joaquin Phoenix)のできるまで、を描いていたので、今作は彼が刑務所の外に出ることになって、そこにHarley Quinn (Lady Gaga)が絡んでくるのだろう、くらいに思っていた。

他方で前作以降、2021年1月6日の議事堂襲撃が起こり、その発端となった白人男性のサイコパスが大統領候補になって毎日のようにTVに出ていたり、白人男性のサイコパスが国連で演説して、その大量殺戮がG7首脳に肯定されたり、そんな状態の世の中で白塗りピエロの恰好した白人男性のヴィランが都市の真ん中でなんかやらかした! ようなのを見たっておもしろいわけないよね – というのは作る側も十分認識していたのだろう。 今回のArthur Fleckは監獄と裁判所の間を行ったり来たりするだけで、爽快に暴れたりぶっとばしたりしてくれない – たぶんそこが不評の原因で、それがわかる分、これはこれでこわい。それでもまだJoker的な暴力の構図になにかを求めようとするのか、とか。

冒頭はLooney Tunesふうのアニメーション - “Me and My Shadow”で、Jokerの本体とShadowが分離して、Shadowが勝手に悪さをしていってあーあ、になる。このクラシカルなトーンは都度挿入されるミュージカル・シークエンスで歌われるスタンダードナンバーと並んで昔話のような効果を生むのと、ここで示されるふたつ/ふたりの狂気 - “Folie à Deux”というテーマは最後までいろんな形で回りながら変奏されていく。 同じ「分裂」を扱っても”The Substance”の現代におけるそれとはやはり随分異なる。

精神病院?の看守(Brendan Gleeson)に虐められたりいろいろ言われたりしながら、骨しかないやつれ切ったArthur Fleckの日常が描かれ、そこで収監されていたHarleen Quinzelと運命の出会いをして、裁判に向けて弁護人(Catherine Keener)は幼時の虐待やトラウマが原因で完全に別人格Jokerが生まれ心神喪失状態にあった、といい、法廷で地方検事のHarvey Dent (Harry Lawtey)は分裂なんてしていない、と訴え… ストーリーとしてはほぼこれだけで、前作でのあれをやらかしたのは、Arthur FleckなのかJokerなのか、やったのが別人格のJokerなら無罪にできる可能性があるらしいから - というあたりの、お前はどっちなんだ? 本物のワルなのか? の周辺をずーっと行ったり来たりぐるぐるしたりしていて、その法廷でのやりとりや、 Harley Quinnとの出会いから一緒に歌ったりダンスしたりしながら関係を深めていくまで、の映像としての濃さ豊かさは、確かにすばらしくよく撮れている – そこだけは。 でもそれをIMAX 70mmで見るかというと…

Harley QuinnがArthur FleckのIF - Imaginary Friendのような扱いでしかないのがやや残念 – だってHarleyの過去や内面は殆ど描かれないし、あの状態のArthurになんであんなに寄ってくるのか、あんなスターふうに現れるのか、なんか変じゃない?- で、裁判所が爆破されたときにArthurもふっとばされて、Harley Quinnが「このいくじなし!」くらいのことを吐いて立ちあがるくらいならみんな少しは納得したのではないか。

あのラストについては、この内容ならあれしかなかったのでは、くらい。そういう意味で映画として破綻しているとか、そういうのではないの。ある確信をもってJokerを掘り下げて解剖している。見たい見たくないは別にあるとしても。

しかしここにBatmanとか、どうやって絡ませようというのか? 絡みようがないよね、というところもまた...


明日(9日)からLondon Film Festival(LFF)が始まって、BFIとかCurzonの一部は、ぜんぶ映画祭のプログラム一色になってしまうので、つまんない。映画祭での出会いなんて、苦労せずにどこでもアクセスできる業界の人たちの特権で、ふだん見れる時に見れるのを摘んでいる自分のようなのにとってはほーんとにつまんないったらないの。あーあー。

10.07.2024

[theatre] Waiting for Godot

9月29日、土曜日の晩、Theatre Royal Haymarket で見ました。

原作はSamuel Beckettの1953年の古典 – 不条理 – 悲喜劇。40年くらい前に安堂信也訳のを読んだはず。劇としては見たことなかった。演出はJames Macdonald、メインのふたりはLucian MsamatiとBen Whishaw。

舞台上にはぱっとしない木が一本(Caspar David Friedrichの描いた木、のはず)、真ん中が少し盛りあがっているだけで、原作にあった「田舎道」はない。ぼろぼろだったりぶかぶかだったりの服と帽子を着て臭ってきそうな浮浪者に見える- そして実際浮浪者のようになにもしていないEstragon (Lucian Msamati)とVladimir (Ben Whishaw)がその周りでだらだらごろごろ喋ったり黙ったりしていくだけ。彼らの後ろ向きの小言や気晴らしのやりとりがすべてで、この状態を変えようとか改善しようとか、そういう空気も目途もぜんぜん立たないまま、すべては「ゴドーを待たないと..」の判断のまわりで止まったり振りだしに戻ったり。

骨組しかないシンプルな舞台と台詞。舞台上の役者の言葉も挙動も、それらを含めたありようすべてが「ゴドーを待ちながら」、「ゴドーを待たないと」によって言い訳、説明されてしまうので、劇的な転換や革命が起こったり見通しやゴールが変わったりすることはない。手段が目的化される - その状態を維持するために彼らは存在していて、そのエネルギーはムダも含めてぜんぶそこに費やされていて、つまりそこには典型的な「支配」された香ばしい状態と仕掛けがあるのだが、彼らはそれを受けいれて、とりあえず待つか... って。 この原則みたいなありようは劇の構造そのものから、なんか楽しいのを求めてのこのこ劇場にやってきた我々の意識まで幅広い台地のように広がっていって、神学、イデオロギー、精神分析、階級闘争、民族紛争、等、なにをどう巻きこんだっていくらでも応用し繰り返していくことができる。

悲喜劇。 本人たちが把握していなかったとしても、全体として望ましいとは言えない(悲惨な)状態から抜けだすため、この悲の部分と喜の部分のギャップが大きければ大きいほど、「なんで… ?」の余韻というか、常態としての不条理感が湧きあがってくるはずで、そこはどんなものか、と。

そのうち地主のPozzo (Jonathan Slinger)と彼にこき使われている召使のLucky (Tom Edden)が現れて、主従奴隷劇みたいなのを披露して、EstragonとVladimirからすれば、ものすごく面倒くさそうでお疲れー、としか言いようがないのだが、どっちが悲惨と言えるのか、とか、丘の向こうから少年が現れて、今日はゴドーは来ないって、と伝えにくるのだが、ガキの使いなんか寄こしやがって、にもならず、それなら待とうか、って素直に第二幕に向かう。 第二幕でPozzoは目が見えなくなっているのだが、Luckyはその隙に悪いことをするわけでもなく、より落ち着いてこき使われている。

EstragonとVladimirのやりとりも、そこにPozzoとLuckyが絡んでも、全員ものすごく巧くておもしろい、おもしろすぎるので、見ながら笑っているうちに、まるでほのぼの漫才喜劇のように終わってしまう。このぬるいおもしろさ、親しみやすさこそがやばいのだ、っていうのはわかるものの、そこから先に踏みこむのは難しくて、「ゴドー」は、ベケットのこれは、そういう劇ではないことはわかっていても難しいかも。 これでいいのだ、の解もあることはわかるけど、いいのかなあ…? って頭の中で回りだすのだが、みんな楽しそうだし、おもしろければよいのか… って。 こういう状態はたぶん不条理とは呼ばなくて、ただの安定みたいなかんじで、別にこれはこれでよいけど(ぶつぶつ)。

Ben WhishawはPaddingtonの着ぐるみで出てくればよりリアルになってよかったのに(← Winnie-the-Poohと混同)。


来年、Keanu ReevesとAlex Winterのふたりがブロードウェイでこれをやるって(演出はJamie Lloyd)。BillとTedのふたりがゴドーを待つ、も楽しそうだけど、ゴドーを無理やり引っぱり出す、くらいのことをしてくれないかー、とか思う。
 

10.05.2024

[film] Yield to the Night (1956)

9月28日、土曜日の午後、BFI Southbankの”Martin Scorsese Selects…”の特集で見ました。

こちらを見つめるDiana Dorsのスチールが1995年のThe Smiths “Singles”のジャケットに使われている。(どこかでだれかThe Smiths/Morrisseyのジャケットに使われた映画特集、をやらないだろうか)

監督はJ. Lee Thompson。原作は1954年のJoan Henryによる同名小説で、彼女は後にJ. Lee Thompsonと結婚している。USでの公開タイトルは” Blonde Sinner”、日本では公開されていない?

冒頭、女性がトラファルガー広場からベルグレービアの方に歩いていって、ある家の前で止まって、そこにやってきた女性に銃を向けて何発も撃って、という場面から刑務所のようなところに勾留されている主人公のMaryHilton (Diana Dors)の日々の描写に移って、ひとり牢屋に入れられているのではなく常に彼女を監視してタバコや食事や休憩時の面倒を見たり相手をする女性が複数いて、なんで彼女がそのような特別扱いをされているのかというと、カレンダーに付けられたマークから彼女が極刑を受ける可能性のある囚人だから、というのがわかる。

この監視下、最終審判が下されるのを待っている時間と並行して、香水屋(デパートの香水コーナーか)の店員だった彼女が、客としてやってきたピアノ弾きのJim (Michael Craig)と仲良くなって彼とずっと一緒にいたいと願ったのに彼は別の裕福な女性のところにばかり行って振り回されるようになって、やがてその女性への殺意が生まれて、という経緯が語られるのと、彼女のところに訪ねてくる元夫のFred (Harry Locke)とか、母と弟とか、でもどれだけ周囲が近寄ってきて構ってもらっても彼女の内側の虚無は消えず変わらず、所長らしき女性が執行を言い渡しに来た時も特に反応しなくて、カミュの「異邦人」のような不条理劇のようにも見える。

Maryが獄中で誰とも語らずに見ている壁や読んでいる本、黙って一点を見つめる目、監視人たちのトランプや聞こえてくる無駄話、そうやって静かに過ぎていく時間と無表情の描写/対比が見事で、刑の執行が確定した時の静かな揺れも。

当時実在して死刑(英国で最後の女性の死刑執行)となったRuth Ellisのケースとの類似が指摘されるが脚本が書かれたのはこの件の前だったそう。

あと、タイトルはホメロスのイーリアスにある”But night is already at hand: it is well to yield to the night”からきている、と。


The Pumpkin Eater (1964)

9月27日、金曜日の晩、上と同じ特集で見ました。
前回駐在した時にも見ていたがもう一回見たくて。

監督はJack Clayton、原作はPenelope Mortimerの62年の同名小説、脚本はHarold Pinter、音楽はGeorges Delerue。邦題は『女が愛情に渇くとき』 - オトコが考えたクソ邦題。

これも↑と同様、男性によってなにかを壊されてしまった女性の話。

Jo (Anne Bancroft) は家にひとりで佇んでいて、車で出かける夫にもうわの空で、そうして壊れてしまった彼女の姿や行動と、既に子供が沢山いる状態で自宅に遊びにきた脚本家のJake (Peter Finch)に近寄られて結婚し、賑やかな家庭を.. と思ったらそんな環境がまるごと彼女を苦しめていったこと、特に望んでいなかった妊娠やJakeの浮気の兆候 - 家族の友人だったBob (James Mason)から彼の妻をとられたと騒がれたりの経緯が交互に順番にフラッシュバックされていく。

彼女の張りついたような表情、機械のように見える動作、無邪気な、でも時折心配そうになる子供たち、態度と表情を二転三転させる夫(たち - 過去のも含めて)、なにが彼女をそんなふうにしてしまったのか? いつも賑やかで騒がしい市場のような家、誰もいないがらんとした家、丘の上の風車小屋の描写 - Jack Claytonはこういうランドスケープ的な怖さを撮らせたらほんとすごい - も含めて、なにが彼女をあんなふうにしてしまったのか、簡単にはわからない。けど彼女がひとり勝手におかしくなってしまったわけではない、そこに欺瞞のような気持ちよくない何かがあることはわかる。その描出のしかたは - このテーマに関しては例えばベルイマンよりもすごいと思う。

Anne Bancroftがとにかくすばらしいからー。


夕方BFIに行こうと思っていたのに会議で潰されて、もともと体調ひどくて難しかったとはいえしょんぼりしていたのだが、23時からBBC FourでThe Undertonesの83年のライブをやっていて少し元気がでた。Feargal Sharkey、あんな歌い方をする人だったのかー。よいなー。

10.04.2024

[film] The Substance (2024)

9月25日、水曜日の晩、BFI Southbankで見ました。 上映後にDemi MooreさまとのQ&Aつき。
チケットはぜんぜん取れない状態で諦めていたら、2時間くらい前にひょっこり釣れた。

MUBIとは思えない原色の派手さカラフルさで、宣伝もいっぱい打っていて、興収もMUBIにとってこれまでの最高を記録している、と。
作・監督はフランスのCoralie Fargeat。 US, UK, フランスの共同制作で、カンヌで脚本賞を受賞している。へー、と思ったが撮影はすべてフランスで行われたのだそう。

B級ボディホラーとして、よく考えられていてなかなかおもしろい。2時間20分はちょっと長いけど。

冒頭、パステル系の青緑の上に生卵がのっていて、その黄身の部分に怪しい原色の液体を注射すると、黄身がもそもそ動いて新しいのがむにょ、って分裂して外に飛びだす。これだけで気持ち悪い、ってなったひとは先に進まない方がよいかも。

Elisabeth Sparkle (Demi Moore)は歩道の石盤に名前が刻まれているくらいの女優で、自分の名前のついたTVのワークアウトショーをずっとやってきたが50歳になったところでやらしいエグゼクティブ(Dennis Quaid)が契約終了を話しているのを聞いて、その後にあっさりもう終わり、って告げられてがーん、となり、帰りの運転中、剥がされていく自分のポスターに気をとられたところで事故にあって病院で気がついて、無傷でよかったー、って思っているとぴちぴちの顔をした若い看護師から怪しげなUSBを渡される。

放心状態でタワーマンションの上の自宅に戻って、USBを再生してみるとそれは”Better Version of Yourself”になれるという”The Substance”というセラム一式を使った施術への誘いで、使い方は面倒そうだったが、どうせ未来はないし、と思いきって申し込んでみると、住所と番号入りのカードキーだけが送られてきて、その住所に行ってロッカーを開けてキット一式を手に入れる。

どうやってElisabethの別バージョンができるのかは見てもらうしかないのだが、みんなふつうに自分で自分に注射したり、チューブで繋いだり、縫合したりできるものなの? そういうの無理な人だとこれできないよね。

とにかく、Elisabethのbetter versionとして誕生したSue (Margaret Qualley)は、かつてのElisabethが持っていたもの、いまのElisabethが望んでいるものすべてを完璧のきらきらで備えていて、Elisabeth Sparkleの”Next”を探していたプロダクション側もすぐに飛びついてきて、Elisabethの復讐がはじまる… という具合に簡単には運ばない。

ElisabethとSueの身体は、同時に稼働させることはできず、7日間おきに互いのボディを”Switch”しなければならない。この規約のような決まりを破ると大変なことになるし、ふたりはあくまで「ひとり」であることを忘れるな、と何度も念を押される - もののElisabethからは取り残される、閉じ込められていく不満と不安が、Sueからはこの老いぼれ(→でも自分)に縛られてしまう不満と怒りが溜まっていって…  

ミソジニーにルッキズム、「若さ」に対する異様な、盲目的な信奉、我々がパブリックで日々散々目にする醜悪な(個人差あります)あれこれを背景に、ElisabethとSueはその両極を体現するキャラクターとして急速に変容していって、でも分裂・併存は断じて許されないのだ、という不条理が彼女たちを串刺しにして、その結果はほとんど楳図かずおの漫画のようになってしまう – これがばりばりデジタルの画面上で展開されてやらしいじじい共に放射されていくおもしろさ、というか。全体としては監督の怒りがドライブしていて、そこは最後までコントロールされていてぶれないのがすばらしい。

ここで”Better version”という時の”Better”って、あくまで他人からの見た目の絶対基準としての若くてきれい - でいいな、っていうだけのもので、性格がよくなるわけでも頭がよくなるわけでも性別が変わるわけでも肌の色が変わるわけでもない。そのあたりはよく考えてあるなー、とか。

上映後のトークでは、この役を引き受けた経緯や役作りについての質問が多かったのだが、普段自分が考えていることにも繋がっていたし監督の考え方に共感できたので、と割とあっさり。Sue役のMargaret Qualleyについては、彼女が子供の頃から知っていたのよ、80年代にお母さんと少し共演したことがあってー、とか言うので見てみたらお母さんはAndie MacDowellなのね! (そして共演したというのは”St. Elmo's Fire” (1985)か….)

10.03.2024

[music] The The

10月1日、O2 Academy Brixtonで見ました。
2018年、Royal Albert Hallでの”The Comeback Special”以来のThe Theのライブ。

これの前、9月28日のAlexandra Palaceでのライブは場所が地下鉄とバスを乗り継いでいく山の上の、昔のエムザ有明みたいなとこなので諦めた。

2018年のがそれまでのキャリアを総括する網羅的 – であるが故の力強さをもつ内容だったのに対して、今回のは新譜 - まだ聴いてないや - “Ensoulment”を全曲披露する’listening' setと過去のレパートリーを束ねた‘dancing' setの二部構成 - 間に15分間の休憩、となっている。

戻ってきた(くる)のでよろしく、と改めての自己紹介をした前回に対して、それから5年後、現在の自分はこうです、と今の状態と地点について語り、その地点から改めて過去を俯瞰してみようとする。後半のセットでは、曲紹介の都度80年代、90年代(の作品であること)を強調していたが、年を重ねること、そこで語られたことを今ここで語ること、その意味を踏みしめながら歌っているようだった。 そしてこれはあくまでThe Theとしての文脈でしかなくて、今世紀に入って活動を止めて以降も、ドキュメンタリー映画”The Inertia Variations” (2017)やRadio Cinéola Trilogyのボックスセットやバイオグラフィーのリリースなど、Matt Johnson自身はずっと手は休めていなかったのですごいわ、しかない。

ばしゃばしゃの酷い雨と地下鉄で遅れて会場に着いたのが20:10で、20:15きっかりに始まるとあったのに会場のまわりをぐるーっと一周回されて中に入れた時には始まっていた。ばかばかばか。

“Ensoulment”からの曲は重心の重いミドルテンポのブルースで、魂 - ソウルを獲得すること、というテーマに沿った12曲はそれ丸ごとで1曲になっているような、ここ数年間で身近な肉親の死を見てきた彼がその境界も含め丸ごと何かをこちら側に手繰り寄せるような磁場と強さに満ちたものだった。改めてちゃんと聴かないと。

ところで、今回ヨーロッパ・ツアーの途中でドラムスがEarl HarvinからChris Whittenに替わった。つまり、今回のリズム隊はJames Eller - Chris Whittenという、Julian Copeの”Saint Julian” (1987)の時のふたりで、これの来日公演の時にも見ているはずで、要は80年代の手数が多くエッジがきいてばしん、とくるリズムをやらせたらこのふたりはすごいの。 "The Whole of the Moon"のあのドラムスもこの人ね。

ライティングは、モザイク状のぼんやりした影と光の粒が人影やダンサーや星条旗を形づくっては流れて消えていく。派手さはないものの”Ensoulment”というテーマには見事に嵌っている。

第二部は”Infected” (1986)から始まる。 自分のThe Theとの出会いもここからで、当時Peter Barakanさんがすばらしい才能が現れました、って興奮気味に語りながらPVを紹介したのを思いだす。

選曲は先に書いたように80’s、90’sの時代や枠を意識しつつ、自分でマイクを握って前の方にでて一緒に歌おう、をずっとやっていた。”The Comeback Special”の時の静かな大波で圧してなぎ倒していくかんじではなく、押しては引いてを繰り返し、引きずりこんでいくような。 個人的には”Dusk” (1993)からの曲 - ”Love is Stronger than Death”や”Slow Emotion Replay”がとてもしみた。”Dusk”と”Ensoulment”の視座や質感は、どこか似ている気もする。

バンドの音も見事によくて、”Uncertain Smile”でのDC Collardのソロなんて、BowieにとってのMike Garsonくらいの位置にあるのではないか。それに絡みついて離れていかないBarrie Cadoganのギターと。

今やスタンダードになってしまった感のある“This is the Day”も”Lonely Planet” - 前世紀末にこれらの曲がこんなふうに迎えられるなんて誰が想像しただろう? - は言うまでもないのだが、アンコールの最後に演奏された”GIANT”の暴力的と言ってよいくらいのカラフルな奔放さが見事だった。こんな曲だったのかー、って。 この辺から次に繋がっていくのだろうか。

あとはー、"Sweet Bird of Truth" – 1986年アメリカのリビア爆撃を材に、湾岸戦争を予言していたこのテーマが未だに生々しく響いてくることの真っ暗な絶望ときたら… もう本当にやめて。


それにしても、抗生物質のばかやろうー

10.01.2024

[film] Megalopolis (2024)

9月28日、土曜日の昼、BFI IMAXで見ました。
既にいろんなところで「失敗作」って言われているし、興収的にも惨敗らしいが、自分はそれなりにおもしろく見た。

巨匠が晩年になってその「世界観」を花開かせ... といった惹句で語られがちな誰も口出しできない「境地」に行って我々に「メッセージ」を託す、ような恥ずかしくしょうもないものにはなっていない。現代の映画としてそのいけてないところも含め、どこのなにがいけていないのだろう? を考えさせるようなものになっている、という点では堂々と力強い失敗作だと思う – だから予算もおりなくて、自分のワイナリーを売ったりして、そういうところも加えていくと、なんか切り捨てることができない。

タイトルの下に”A Fable” – 「寓話」とあるように、実際の具体的な都市を舞台にしてはいない気がして -でもプラカードに”Queens”とかあったな - 冒頭に出てきて、主人公の建築家Cesar Catilina (Adam Driver)が住んでいるのもクライスラービルそっくりのビル(のほぼ天辺)、でよいのだと思う。彼は、Megalonという画期的な新素材を発明してノーベル賞を受賞し、時間を止める不思議なパワーを身につけて、そのパワーをもって都市全体をまるごとリニューアルするMegalopolis構想を立ちあげる。

彼の亡くなった妻、彼と対立する市長のCicero (Giancarlo Esposito)、Cesarの新たな妻となる市長の娘Julia (Nathalie Emmanuel)と人質のように生まれてきた赤ん坊がいて、その反対側には明らかにトランプを思わせる腐った権力者Hamilton Crassus III (John Voight)と彼に取り入るレポーターWow Platinum (Aubrey Plaza)、Hamiltonの孫で悪どいClodio (Shia LaBeouf)とかがいて、権謀術数渦巻くなんとか、というより、どいつもこいつもろくでもない半端なちんぴら、ばかり。女優たちは明らかに弱くてノワールにもメロドラマにも向かわない - 現実の反映? 抗争モノとしての格とかストーリー運びの見事さなどでは、”The Godfather”のシリーズにとても及ばない。

都市を作るドラマとして、Fritz Langの”Metropolis” (1927) やAyn Rand/King Vidorの“The Fountainhead” (1949)が思い起こされるが、あの(フェイクとしての)スケール感もない。”One from the Heart” (1981)で描かれた目くるめく宝石箱のような都市の奥行きや立体感もない。

建築による世界の再構築と、それが引き起こす旧世界(エスタブリッシュメント)との軋轢、どろどろがどんなふうに広がり、解決され、新たな世界の到来を約束するのか?そしてそこに富と権力が集まって、そこに暴力や不正が生まれて人が殺されたり、はふつうに起こって、で、それでもそれは新しい世界になるのか?どうしてそう言えるのか、結局焼き直しで旧権力と同じく、ローマ帝国と同じく没落の道を辿るだけなのではないか、などなど、特にそれらの答えを出さず/出せず、そうしているうちに旧ソ連の人工衛星が落ちてきたりもするのだが、それがどうした、くらいの扱いで、要は誰にも止めることのできない伝染病のような何かとして、来るべきMegalopolisは堂々とあって、だからそれがどうした? でしかないの。

1980年の『地獄の黙示録』がベトナム戦争をテーマにしていたように、この物語の起源には911のタワー崩落があり – でもアイデアは1977年に、書き始めたのは1983年だそう – あそこでそれまでの秩序が壊れて、偽情報でイラクを空爆できるように、同様にイスラエルは好き勝手に空爆できるようになった – そういう状況があるなかで、新都市構想なんてものが利権転がし狙いの転売ビジネスでしかないことは、日本でのあれこれを見ても簡単にわかるし、とにかくなにもかも嘘っぱちなんだってば。

それなりに有名な俳優たちも出てくるけど、かつてのRobert De NiroやAl Pacinoのような使い方はされていない。破綻して壊れた経営者や危ういリーダーやカリスマを演じさせたら最適なAdam Driverをもってきて、ここでの彼は不思議なパワーはあるもののKylo Renではなく、”The Dead Don't Die” (2019)の彼のようにゾンビに囲われてぼーっと立っている。

でもたぶん、一番やりたかったのはMegalopolisではなくて、時間を止めるほうだったのではないか。Coppolaは妻Eleanor – この映画は彼女に捧げられている – の死をなんとしても止めたくて、でも彼女がいないので時間を止めることはできなくて… そして彼女に捧げる字幕が現れるタイミングでThe Theの”Lonely Planet”が流れはじめた時、この映画の意味がきれいに反転してしまったように思えたの。 自分を変えられないのであれば世界を変えるのだ、という前にあるライン - “You make me start when you look into my heart ~ And see me for who I really am” - We're running out of love - Running out of hate - Running out of space for the human race..    この曲をラストに据えるように言ったのは誰なのだろう? Roman Coppola?


ここんとこ体調がめちゃくちゃだったので医者にいったらまあ帯状疱疹でしょう(やっぱり..)とか言われ、雨でさらにいろいろ最悪で、地下鉄もぐじゃぐじゃのなかどうにか駆けこんだThe Theのライブ、行ってよかった.. (ばたん)

[film] Went the Day Well? (1942)

9月23日、月曜日の晩、BFI SouthbankのMartin ScorseseSelects.. の特集で見ました。

BFI Archiveが収蔵しているナイトレートフィルム(昔の硝酸入りで可燃性の)での上映。ここでは昨年くらいから厳格に保存管理しているナイトレートでの上映会をぽつぽつやっていて、そのひとつ。 この日に上映されたのは、フィルム完成後にここでプレミアされた際のものだそうで、80歳くらい。一応、事前にコンディションはチェックしているが、もし火が出た場合は落ち着いて、退避するルートは、等のインストラクションもあった。

この映画は、前回駐在していた時に見ていて - たしか戦時の女性、みたいな特集 – すごくおもしろかったのだが、同時に無慈悲すぎて辛くてここには書かなかった。

原作はGraham Greeneの短編 - "The Lieutenant Died Last"だが、彼は制作には関わっておらず、監督はAlberto Cavalcanti、プロデュースはMichael Balcon。第二次大戦の戦時下、ドイツ侵攻の恐怖が生々しくあった頃に非公式のプロパガンダ映画として作られた。 日本公開はされていない?

冒頭、のどかな田舎の村 - 架空の - で、ひとりのおじいさんが多くの人の名が刻まれた慰霊碑のような石碑をバックに、昔ここでこんなことがあったんじゃよ… って語り始める。

いつもの週末に向かう平和な朝、イギリス兵の一団が村に現れて、戦時なのでごくろうさまです、って迎えて休んで貰ったりするのだが、ある兵士の持ち物の「チョコレート」がドイツ語の包み紙だったので、これって… となったら彼らはドイツ兵としての正体を現して、村人たち全員を教会に集めて監禁して、警告の鐘を鳴らそうとした牧師を簡単に撃ち殺して、下手なことをしたらこうなるぞ、って脅して。 ハリウッド映画ならその中のひとりふたりが立ちあがって、になるのだろうが、ここにいるのは老人と女性たちばかり。

卵にメッセージを書いて新聞配達員に渡したり、なんとか無線を奪って連絡を取ろうとしたり、村人も必死でいろんな手を考えるのだが、どれも潰されたり、見つかってやられてしまったり、でもそういう試みが少しずつ効き始めて… というのが手に汗を握るかんじで展開されていく。 ドイツ兵が村人を殺すところ、村人がドイツ兵をぶん殴ったりして殺すところは、ものすごくあっさりばっさり、村ののどかな空気のなか稲刈りみたいに実行される、その神も仏ものかんじが逆にこわい – 実際にもあんなふうなんだろうな、って思うので。

でも少しづつ村の状況が外に伝わって、イギリス軍も追うようにやってくるようになり、戦いの舞台は教会からマナーハウスに移って、という土曜日から月曜の朝までの流れ。

沢山の女性がばたばた倒されていくのだが、泣いたり叫んだりの感傷的な場面もかっこつけてる場合も殆どなくて – そんな余裕ないかんじで – 誰かが倒れたらじゃああたしが、のように向かっていってとにかくなめんな/負けるもんか、って。見ている観客の方がエキサイトしていて、村の偉い人で隠れてこそこそドイツ軍の協力者だった奴を見つけてやっつけた時は「よし!」って歓声があがったり。

もちろんドキュメンタリーではないのだが、そういう風に見える作りになっていて、こうなった時にあなたならどう動きますか? を問われているような場面もあり、あープロパガンダだなあ、って。でもとにかく、映画としてすごくおもしろいしよくできていると思う。

英国の田舎の風景がどんなふうだか、そこに暮らすおばさんおじさんがどんな人たちなのか、わかるようになったところでこういうのを見ると、余計にしみるかも。
実際にこういうことが起こらなくてよかった - 上映された頃には、ナチス侵攻の恐怖はなくなっていたそう。

ナイトレートフィルムは、35mmフィルム上映とそんなに変わらない – 闇とか暗いところがより黒く深いかんじはあるかな? どうかな? くらい。でも、これがフィルム-映画だと見てきた代と、スマホのストリーミングの画を(も)映画とする代との間にはやっぱり隙間があるようなー わかんないけど。

[film] Girls Will Be Girls (2024)

9月21日、土曜日の昼、ICAで見ました。
インドのShuchi Talatiの作・監督による長編デビュー作、インド/フランス制作映画で、今年のサンダンスでAudience Award for Dramatic World Cinemaを受賞している。 学園ガールズ・コメディのようなのを想像していたら軽く蹴っとばされるかも。coming-of-ageドラマとして、地味だけどよい意味でわかりやすく見入ってしまった。

90年代、規律の厳しいインド/ヒマラヤのボーディングスクール(そんなのがあるとは、くらい知らない世界)で、16歳のMira (Preeti Panigrahi)は学業、素行お行儀全面で抜きんでている、って”Head Perfect”のバッジを貰って生徒の代表として朝礼で号令をかけるくらいによくできた生徒として、生徒たちに指導したり、先生たちからの信頼も厚く、みんなが誇りに思っていてどこに出しても恥ずかしくない。

ある日、外交官の息子のお坊ちゃんで背が高くてかっこよく見えるSri (Kesav Binoy Kiron)から声をかけられて、天文部で星を見て話をしているうちに彼ならつきあってみてもよいかも、になってくるのだが、親 - 特に母親の許可なしにつきあったりするのは難しい、と思ったので母Anila (Kani Kusruti)に命じられるまま彼を家に呼んで面接のようなことをして、母からは家のなかで会うのならよろしい、但しドアは開けておくように、と言われる。

こうして家のなかでふたりで会うようになり、オープンで積極的なSriに応じるようにMiraも性に敏感になってあと少し、くらいのとこまでいったりするのだが、いちいちふたりの間に割りこんでくるAnilaがうざくなってくる。AnilaもSriがお気に入りになってくれたのはよいこと、だけど彼とずっとおしゃべりしていたりレコードかけてダンスしたり昼寝してしまった彼の頭を彼女が撫でたりしているのを見た時はさすがに - 人の家に行ってあんなふうにすやすや寝てしまえるのか、もあるけど。 こいつ、お泊りでやってきた正念場の時も朝ぜんぜん起きないし – こんなやつはやめといたほうが...

理系で優秀なMiraは、自身の性の好奇心に対してもプレーンかつ真っすぐで、Sriとインターネットカフェに行って性の仕組みや初めてのについて勉強したり – でもそうしていく中で、Sriはこれ初めてではなく既に経験しているのでは? の疑念が湧いたり、階段の下で女生徒のスカートの下を盗撮していた男子生徒を学校に告発したり、優等生としての自分も前に出てきたりで、揺れている。 その揺れを母として敏感に感じている & 若いSriに少し惹かれているAnilaの視線 - 見るからにエリートっぽい夫は殆ど家にいなかったり - を絡めてMiraのどこまでもままならなく浮いた状態に目が離せなくなる。 映画はその緊張関係をMiraの側から描くのでもAnilaの側から描くのでもない、どこそこに落ちつくから、和解するから、ということを示さずに”Girls will be Girls”という状態に留めおこうとしていて、その緊張のありようはcoming-of-ageものが目指しがちな落着点とは別にどこまでも生々しい。

そして最後の方の、告発された男子生徒たちが仕返しで追いかけてくるシーンははらはらするのだが、このパートはなくてもよかったかもしれない、と思いつつ集団になったときの猿としか思えない男子のしょうもなさの描写としてはありなのか、とか。世界中どこでもこの動物以下のは…

この世の涯のような場所にある学校でもこんな… というところも含めて、とても広がりと普遍性をもったよい作品だと思った。 Miraを演じたPreeti Panigrahiさん、驚異的ではないか。