10.15.2024

[film] Lee (2023)

10月6日、日曜日の夕方、Curzon Aldgateで見ました。写真家 Lee Millerの評伝ドラマ。

監督は撮影出身でこれが長編デビューとなるEllen Kuras、原作はAntony Penroseによる評伝”The Lives of Lee Miller” – こないだまで書店にサイン本が積んであった。

制作はSkyで、TVドラマのやや豪華版のようなのかと思っていたらゲストも何気にすごいし見応えもあるし。 音楽はAlexandre Desplat – 今回はやや弱いか。

Lee Millerって、昔はMan Rayの写真のモデル、くらいの認識しかなかったのだが、こちらに来てみると、写真家としての彼女の方がよく知られている。特に戦時下のロンドンを撮った写真集は新刊でも古本でも沢山でていて、それらの写真は未だに生々しくて、とても近い。

第二次大戦前夜、それまでVogueのモデルとして活躍して写真は少し、くらいのLee Miller (Kate Winslet)は、ボヘミアンとして南仏で友人たちと楽しく遊んでいた(飲んで、セックスして、写真を撮る日々)のだが、戦争になって、その頃知り合ったアーティストのRoland (Alexander Skarsgård)と恋におちて、その関わりのなか、なにかに追いたてられるように戦争をテーマに撮っていくことにする。

ずっとモデルとしていろんな写真を撮られてきて、撮られる側、見られる側の立場や弱さ危うさを十分にわかっている彼女が、戦争の悲惨や辛苦を前にしたりもろ被りしたりしている女性たちを見てなにかを感じとり、自分の目を通して撮って伝えるのだ、と前線に向かうのは十分な説得力があり、そのぶれない目線や記憶を補うかのように若いジャーナリストのような男(Josh O’Connor)- 最後に正体が明かされる - が晩年の彼女と一緒に当時の写真を見たりしながらインタビューしていく映像が挟まれていく。

まずは当時のUK Vogueの編集長Audrey Withers(Andrea Riseborough)に戦場に行って写真を撮ることをかけあって、横でそれを聞いてへらへら笑っているCecil Beaton (Samuel Barnett) – まああんなかんじだったんだろうなー - を無視して、でも前線に向かおうとしたら英国軍は女性カメラマンが赴くのを許していなくて、そうだわたしはアメリカのパスポートがあるんだった、ってアメリカ軍のジャーナリストとしてヨーロッパに渡り、Life誌のカメラマンDavid (Andy Samberg)と一緒に戦地を渡っていって危険な目にも遭う。 

Paul Éluard (Vincent Colombe)の詩 - “Liberte”を書いたビラが降ってきてパリ解放を知るが、戦争はまだ終わっていないという予感と人々が消えた..という噂を聞いて、ドイツの収容所の方に向かう。ここでの凄惨な写真たちは、Webにもあるだろうから見てほしいのだが、彼らはダッハウでの強制収容所の惨さを最初に目撃したジャーナリストたちで、彼女はまだ30代だった。

言葉を奪われてしまう経験、であることはよくわかるが、それ以上に彼女を激昂させたのが、前線で撮った写真を掲載しなかったUK Vogueの姿勢だったというのはなんとも(その後、US Vogueは掲載した)。戦場での扱い - 女はこんなところにくるな、も含めて充満する理不尽さに翻弄されつつもいろんな怒りを起爆剤に歩んでいった彼女の苛立ちと強さをKate Winsletは見事に表現していて(ポスターでこちらを真っ直ぐ見据える彼女を見よ)、くっきりとしたLee Millerの像を描き出すことに成功していると思った。

南仏時代の仲良しとしてFrench Vogueの編集者Solange d'AyenをMarion Cotillardが、Paul Éluardの妻Nusch ÉluardをNoémie Merlantが演じていて、この3人のやりとりをもっと見ていたかったかも。

10.14.2024

[film] The Legend of Hell House (1973)

10月7日、月曜日の晩、BFI Southbankの特集 “Martin Scorsese Selects Hidden Gems of British Cinema”で見ました。

この特集はもう終わってしまったのだが、特集でかかった21本のうち、見れたのは18本だけ。選んだのがMartin ScorseseとEdgar Wrightなので、ややB級サスペンス-ホラー寄りのが多くて、あとちょっとコメディとか文芸よりのがあればなー、とか、女性が選んだら全然異なるものが出てくるのでは、とか。

邦題は『ヘルハウス』 … と聞いて、小学生のとき『エクソシスト』が公開されてヒットして、もちろん怖くて見に行けるわけないのだが、それより恐ろしいのが『ヘルハウス』だ、っていう伝説があって見にいった人は英雄になっていた - などを思い出し、いままさに見ようとしているのがその『ヘルハウス』であるのをシアターに座ってから気づいて、でも怖くなったのでやめますなんて言えず… がんばった。

監督はJohn Hough、原作はRichard Mathesonによる71年の小説”Hell House”で、脚本も彼が書いている。音楽は共同でDelia Derbyshireの名前が。35mmフィルムの傷や退色も含めて、すばらしくよいプリント。

物理学者のDr. Lionel Barrett (Clive Revill)が大富豪から幽霊屋敷と呼ばれて名高いBelasco Houseの調査を依頼される。同行するのは彼の妻Ann (Gayle Hunnicutt)と霊媒師のPamela Franklin (Florence Tanner)と前回の調査で唯一生き残ったBen Fischer (Roddy McDowall)の計4人で、クリスマスイブの一週間前に屋敷に入って、シーンごとに日時が字幕表示されて、記録や証拠 - Legendとして残る – 50年経っても残っているねえ、と。

最初から相手は幽霊屋敷である、あそこにはなにかある/でる、と明確に言われていて、これは科学的に対処できるはず、とする科学者と直接話したり相手してみれば、という霊媒師と両極がいて、お金くれるなら、という適当なのがいて、要は霊だろうが科学だろうが両面で絶対にでる設定なので準備・用意はできているはずなのだが、やっぱり画面に現れくるのは猫だろうが鳩だろうがぜんぶ怖い – 怖いと思うからこわいんだ、って言われるその罠に簡単にはまる。だって視野の幅から高さからすんなり見てわかる怖さ - 流血とか傷とか、そんな説明なくても見てみれば - だし。

Edgar WrightはJack Claytonの”The Innocents” (1961) - 『回転』の反対側に位置する恐怖映画だと語っているが、確かに最初から種も仕掛けもなくぜんぶ見せていて、ほれ怖がれ、こんなのもあるぞ、ってほいほい投げてくるようで、それでも怖いのだからどうしようもない。

あとは時間の経過か、何時何分に何をした、が記録されていくが、それと同じ時間の流れの中にあれらはぜんぶ置かれ、ずっとそのままにされてきたのだ – 世界の殆どはそういうのでできているのだ、という念押しで浸みだしてくる恐怖。なんでお墓や古屋敷が怖いのかがぜんぶここに。


Dr. Jekyll and Sister Hyde (1971)

10月3日、木曜日の晩、上と同じ特集で見ました。邦題は『ジキル博士とハイド嬢』。

イントロと上映後のQ&Aでは脚本を書いたBrian Clemensの息子のSam ClemensとSister Hydeを演じたMartine Beswickが登場してお話しを。

監督はRoy Ward Baker、原作はR.L. Stevensonの小説”Strange Case of Dr Jekyll and Mr Hyde” (1886)、制作はHammer Film Productions。

ヴィクトリア朝時代のロンドンで、まじめな研究者であるDr. Jekyll (Ralph Bates)は名をあげるべく不老不死の薬を研究していくうち、墓荒らしの鬼畜コンビBurke & Hareが持ってきた女性の死体から抽出した女性ホルモンを自分で試してみたら女性の身体に変態してしまうことを発見し、自らMrs. Edwina Hyde(Martine Beswick)と名乗り、最初は隠そうとしていたのだがいろいろやめられなくなって、変身するために自分で夜の街に出て女性殺しを始めるようになり…

ここにDr.Jekyllにプレッシャーを与え続ける年長の教授とか、下宿の上階に暮らしてJekyllとHydeそれぞれに恋をしてしまう姉妹とかが絡んできておもしろいの。

Burke & Hareは感想を書いていないけど同じ特集で見た”The Flesh and the Fiends” (1960) – 邦題『死体解剖記』に出てくる連中だし、舞台はWhitechapelで明らかにJack the Ripperを参照しているし、ドリアン・グレイもあると思うし、フィクションも含めてあの時代のロンドンで起こりえた老いと美と死に対する憧れや畏怖を巧みに放り込んで見事な絵巻物にしていると思った。ファッションも素敵だし。

今だったら男と女の性がどう切り替わるのかをクローネンバーグからこないだの”The Substance”まで、ボディホラーふうに見せる方に寄ってしまうのかも知れないが、それなしでも十分おもしろくできるねえ。

上映後のQ&AはBrian Clemensがどれほど真摯にこれに取り組んでいたか – 細かい資料が遺されているそう - と、あとMartine Beswickさんはすごくチャーミングな方だった。

Whitechapelって、もろ今住んでいるとこの近所なので生々しいったらない。


今回の特集、70年代の選択に所謂B級ホラーっぽい作品が並んだのは、彼ら(Martin Scorsese & Edgar Wright)の映画人としての目覚めや立ちあがりとも関係あったりするのだろうか?

10.13.2024

[film] My Old Ass (2024)

10月5日、土曜日の昼、Curzon Aldgate で見ました。
作・監督は女優でもあるカナダのMegan Park。

カナダの田舎で家族と暮らして18歳の誕生日を迎えるElliott (Maisy Stella)がいて、コーヒーショップの女の子とよい仲になったり、トロントの大学に進学するので最後の夏を仲良し3人組で過ごすべくボートで離れたところに行って - 家族はおうちでバースデイケーキと待ってるのに - 焚火を焚いてひとりが持ってきた怪しげなキノコみたいなのを煎じて飲んでみると、みんな一様に変になり、げらげら笑っているとElliottの隣に中年の女性 (Aubrey Plaza)が座っていて、聞くと39歳の自分だと言う。

そんなバカな話あるかよ、って会話していくと自分しか知らないはずの自分の身体の細かいこととか知っているし、そんな変でやくざな大人にもなっていないみたいなので話をしていくと「Chadには気をつけろ」と言い残してAubrey Plazaはどこかに消えてしまう。

しばらくすると突然本当にChad(Percy Hynes White)という青年が現れてクランベリー農家をしているElliotの家の手伝いを始めて、最初は警戒していたものの、寄れば寄るほど素敵な奴でしかなくて、でも自分はゲイだし違うんだけど、と思いつつもどうしようもなく好きになっていったり、それとは別に親が農地を売ろうとしている計画を知って、なんで何も言わずに勝手に決めるのか? って荒れたり、そんないろいろ区切りの季節に。

39歳の彼女 - My Old Assがスマホに連絡先を残しておいてくれたので試しにチャットしてみたら返してくれたので、なにかある度にそれで相談してみたりするものの埒があかなくなってきて、手に負えないのでもういい加減にでてこい! ってなる。

大人になっていくどこかの過程や岐路で相談したくなる誰かが必要になり、それが親とか他人ではなく39歳の自分というのはわかるし、中高年になった自分から愚かな選択をした/しそうなガキの自分にやめとけ、とか言いたくなるのもよくわかるので、過去を変えたら未来も変わるとか面倒なとこをすっとばしておけばcoming-of-ageものの設定としてはよいと思った。結局はキノコのせいかもだけど。

でも最後に明かされるその謎というか秘密があまりに普通のあれで、こんがらがった何かでもないし伏線回収とかどうでもよいこと以前にこんなんでよいの? にはなったかも。で、明確に示されるわけではないが結局は今のままでよし、に落ちたってこと.. でよいの?

野山でデートするElliotとChadのふたりも素敵なのだが、ふたりのElliottのやりとりがとても自然でよい感じでおもしろいのでずっとかけ合い漫才みたいにやっていてもよかったのに。

あと古くさいかもだけど「大人になる」っていうこと、とか「大人」のありようについて - 便利帳みたいにドラえもんみたいに使うだけじゃなくて - もう少し考察みたいのがあってもよかったのではないか。Elliotの世代はそもそもそういう連中、なので難しいのかもだけど。

Aubrey Plazaがふだんのぶっきらぼう風情はそのままにあんなナチュラルに(≒毒のない)年長ぽい「女性」を演じているのが新鮮で、それを正面から平熱で受けとめてしらっとしているMaisy Stellaもよいの。

仮に自分が39歳だったとして、そいつが18歳だった自分に会えたとしたらなにを言っただろうか? とか考えたり。①まず、ノストラダムスのあれは来ないし日本も沈没しないから期待せずにちゃんと勉強しとけ  ②特に英語はまじめにやっとけ かなあ。 他方で18歳のあのやろうの方はぜったいいうこと聞かなかったし話そうともしなかっただろうなー (嘆)

10.11.2024

[music] Fairground Attraction

10月5日、土曜日の晩、”A Face in the Crowd”を見た後、歩いていってRoyal Festival Hallで見ました。

6月の日本公演はクアトロなどだったようだが、こっちではRoyal Festival Hall(NHKホールかな)で、上の方まで結構埋まっている。客席は当然シニアばっかしで、静かなカップルか同窓会か、のような人たち。お酒を手にしているけどお行儀よい。

前座は、Scott Matthews。ギター1本と歌でNick Drake直系 ~Rufus辺りにも通じる深くしっとりくる歌を聴かせる。秋のかんじ。
 
最後に彼らを見たのは1989年の初来日のクアトロで、当時の待望だったこともありものすごくよくて楽しくて、みんなでゆっさゆさ揺れてスイングしながら聴いて踊りながら帰って、こんなに素敵に楽しんでしまってよいのか?って首を傾げたりしつつ、とにかくよかったの。これの翌年にThe Sundaysがやはりクアトロに来て、すっかりつまんなくなっていた(個人の体感差あります)当時の英国シーンにこれからはもうこういうのだけでよいかも、とかしみじみしていたらグランジのどぶ波がー(以下略)という記憶。

最初の”The First of a Million Kisses” (1988)のジャケットはElliott Erwittによるキスの写真で、これは
Tracey Thornのソロ7inch - “Plain Sailing” (1982)のジャケットのキス - これはRobert Doisneauだった - に続く素敵なやつで - そうやって写真の方に広がっていくのもあったり。
 
でもこの後はというと、EddiがLiberty Horsesと一緒にRough Tradeから7inch出した頃とか、Mark E. NevinがMorrisseyと「おじさん殺せ」をやっていた頃までは追っていたんだけどなー。Eddiは高い声がちょっと不安定になるところもあったが豊かに広がるようだったし、Markは変わらず鳴りを意識させないようなうまさがあるし。

ステージ上のバンドは6人(も)いて、1曲めはみんなあれ本物だわよ、歌ってるわよ、みたいにざわざわしてて(なんかわかる)、2曲めで“A Smile in a Whisper”が静かに寄せてくるとようやくわーってなる。“Words are unable to speak of love ~ Like a smile in a whisper does”、これと”Perfect”の” It's got to be perfect ~”を頭のなかで鳴らしながら、岡崎京子的に夜の街を突っ走る、という80年代末の風景が走馬燈でまわりだしてくらくらする。

彼らもそういうのは承知しているのだろう、35年ぶりのー、とか35年前にはロンドンのあの辺でさー というのをEddi Readerは何度も繰り返し語ってこちらの何かを煽ったり火をつけたりするのだったが、とにかくあの時あんなふうにいたけど、いまもここにこうしてあるんだよ! というのをJudy Garlandの”Get Happy”のようなスタンダードを突っ込んだりしつつ撒き散らし、柔らかいヴィブラフォンの音に包まれたブランコのような回転木馬のようなぐるぐる繰り返される戯れ - FairgroundのAttraction! - のなかで彼女の愛はずっと誘うように歌われてきて今もほらね、って。35年前に遊んだ遊園地で、同じメリーゴーランドががたがたになってるのに迎えてくれたらじーんとするでしょ。彼らの曲って、元々そういう奴らだったんだ、って改めて気づいたり。

そういうのに気づいてきた真ん中くらいの”Find My Love”は、最初のうちみんな独り言を呟くように歌っていたのが最後は大合唱の大波になったり、アンコールの最初の”Allelujah”で、”Alleluiah, Here I am!”と大きく両手を広げてくれたりすると、もうそれだけで… 最近そんなのばかりで、ほんといやだわ。

久々に”Perfect”のPVを見返したらIslington TunnelとかがあるCanalで撮ってるのなー。当時はどこの田舎だとか思っていたが割とすぐそこなのだった。


LFF、当日のチケットが取れなくてしんでる。現地まで行って並べば入れるであろうことはわかっているのだがそこまでの元気もでない。やだやだ。

[theatre] A Face in the Crowd

10月5日、土曜日のマチネのをYoung Vicで見ました。

Elvis Costelloが音楽(詞も)を担当しているミュージカルで、こないだの彼のライブでも若者たちががんばっているので、見にいってくれよな、と言って主題歌を歌ってくれたので見る。タイトルの一曲だけじゃなくて、ミュージカルで流れるいろんな音楽 - 広告のジングルみたいのまで - を全部彼が書いているのだとしたらすごい、って思った。ステージ右端のバンドは菅を含めて6名。

おおもとは1957年のElia Kazanによる同名映画 – 邦題『群衆の中の一つの顔』で、その原作は脚本を書いたBudd Schulbergの短編"Your Arkansas Traveler"。 舞台の脚本はSarah Ruhl、演出はKwame Kwei-Armah。

アーカンソーのローカルラジオ局でレポーターをしているMarcia (Anoushka Lucas)は町にネタ探しにいった時に拘置所の前で寝ていたLarry “Lonesome” Rhodes (Ramin Karimloo)に出会って、彼の喋りとその場で歌ってくれたのをおもしろいと思ったので、自分の番組に呼んで好きに語らせてみたら、リスナーから「よく言ってくれた!」~「ありがとう!」のような反響がすごくて、あっという間に人気番組の人気者となり、やがてシカゴのTV局から声が掛かる。

それなら行ってみようか、とシカゴに赴いたMarciaとLarryの前にはTV局が用意したライターやスポンサー達がみっしりいて、ふたりで好きにやっていた頃とは遠くて制約だらけでおかしい、と思った時には遅くて、でも人の好いLarry “Lonesome” Rhodesはうまく機転をきかせたりして、お茶の間のヒーローになっていく。

Elvis Costelloの主題歌は、君が疲弊して”only a face in the crowd”だと思っていても、ぼくは傍にいるし助けるし、”You're more than a face in the crowd”なんだ、と歌って、更に、君は強くなれるしプライドも立て直すこともできる ~ 僕の手をとって、もし君が”more than a face in the crowd”だと信じさえすればー♪ と歌う。歌詞としては”I Wanna Be Loved”の反対側にあるような曲で、Costelloとしてはあんまり”らしく”ない曲で、ちょっと曲のかんじも含めて弱いかなあ。

やがてLarryの大衆のこころを鷲掴む力に目をつけたスポンサーの薬屋が精力剤”Vitajex”の宣伝に引っぱりだし、更に政治家が自分の選挙のキャンペーンに彼をもちだして、そのキャンペーンガールのBetty (Emily Florence)と結婚する - これもまた宣伝戦略 - ことになったり、それに伴いぐいぐい良くなっていく自分の待遇にテングになっていく彼と、反対に自分ひとりではどうすることもできなくなったMarciaは彼から離れることにして。

このミュージカルのなかの主題歌の使われ方を見ると、政治家にいいように使われているLarryの、薄っぺらいキャンペーンソングにしか聞こえなくなるのと、Marciaに去られた後の彼が最後にどうなってしまうのか、あまりにわかりやすく単純化されていて先が見え見えで、これが50年代の映画ならわかるけど、トランプの時代にこんなの見せられてもどうしろというのか。(一部の観客には小さい星条旗が配られてて、選挙キャンペーンのシーンの盛りあがりを示すのに振るように煽られたので振った。旗振ったの初めて)

SNSやYouTubeの時代のメッセージとしては”A Face in the Crowd”みたいなわかりやすいメッセージには気をつけろ、しかないと思うのだが、その部分がまったくないので、Larryも根はよい人なんだけどねえ … で終わってしまう。それは極右の差別主義者に話がおもしろくてよい人だから、って近づいていくのと同じでだめなんだよ - ってCostello先生だったらここで”Watch Your Step”をー。

“A Face in the Crowd”がLarryと大衆の間ではなく主演のふたりの間で啓示のように鳴り渡る瞬間があれば.. とも思ったけどそれもなく。でもふたり - Anoushka LucasとRamin Karimloo - は歌もうまくて一緒にいる姿がとても素敵だったのでよいかー、と。

10.09.2024

[film] The Outrun (2024)

9月29日、日曜日の午後、Barbican Cinemaで見ました。

英国の天気予報を見ていると、スコットランドの北の端の方って、いつも気温が低いし天気が荒れてて悪そうだし、でもそこで暮らしている人たちもいるんだよねえ、っていつも想像して感心してをするのだが、タイトルの”The Outrun”はスコットランドのOrkney islandsの海沿いの農地のことを指す、のだそう。

原作はベストセラーになったAmy Liptrotの同名のメモワール(2016)で、彼女は脚本にも参加している。監督は(つい最近日本でも公開された、ときいた)”System Crasher” (2019)のNora Fingscheidt。ドイツとイギリスの共同制作。 主演のSaoirse Ronanと夫のJack Lowdenもプロデュースに加わっている。

物語はRona (Saoirse Ronan)の語りに沿って、時間軸はランダムに行き来していく。冒頭はOrkney islandsの寒そうな海の描写で、海で死んだ漁師はアザラシになる、という伝説 – などが紹介され、やややつれた顔と格好でその海岸沿いを歩いていくRonaが父親の農場を手伝って羊の世話をしたり、別居している(後で父の双極性障害が原因とわかる)信心深い母親と会ったり、そこからロンドンで生物学の大学院の生徒だった頃の彼女に替わり、パーティ三昧と乱れた生活でアル中と鬱病になり、面倒を起こすたびにやさしいBFのDaynin(Paapa Essiedu)がケアしてくれていたのだが、彼もそのうち愛想がつきていなくなり、それで更にやけになって襲われそうになって、これは自分でも相当やばいと思ってリハビリ施設のセラピーセッションに参加したりの姿が描かれる。

Orkneyに戻って手伝いとかをしていって、でもそのうちロンドンに戻る、という計画もたてるのだが、フェリーの船中で酒に手をだしたくなって、これはだめだ、って船を飛びだして島に戻り、諸島のなかでも更に僻地のPapa Westrayという島で、RSPB (Royal Society for the Protection of Birds)のボランティアとして、corncrake(和名:ウズラクイナ – 鶉食いな?)っていう絶滅危惧鳥の保護活動をしつつ、島の人たちのなかに入っていったり。

要約すればセルフ・リハビリの記録で、だめになった環境から自分をひっぺがして僻地でひとりになった、その過程で近しい人たちもみんな傷ついたり過去にいろいろあったことを知っていく、というだけの話なのだが、彼女がひとりで海辺を歩いて風に吹かれているところ、粗末なコテージでひとりになったところ、ひとりであるのってこういうことなんだ、と彼女が思い知るその描写と、その反対側でパーティで酒浸りの日々の荒れっぷり - ”System Crasher”の監督なので容赦なくぶちかましてすごい – があり、全体としては傷だらけのSaoirse Ronanのひとり舞台で、おそるべし、しかないのだった。 Ian McEwan原作の”On Chesil Beach” (2017)などでも、海を歩いていく姿が絵になるひと。

ただ、全体として絵になっていることは確かなのだが、酔っ払って暴発する癇癪とかエモと、この状態は絶対よくないのでなんとかしないと、という焦りにまみれたエモと、こんななんもない田舎だけど、アザラシしか応えてくれないけど、いいや、っていうエモがうまくひとつの像に繋がっていかなくて、それを力技で絵にしてしまうのはSaoirse Ronanの演技の力(と背景のOrkneyの海)でしかないのがー。

最後に姿は見えないものの、そのカエルみたいな変な鳴き声を聞くことができるcorncrakeとか、吠えると吠え返してくる(ほんとかな?)アザラシとか、Orkney islands行きたい、になる。いつがよいのか? 冬だと厳しすぎるか、でも夏だとつまんないか… とか。

で、ウズラクイナの声とRonaの笑い声であーよかったねえ、になったところで、The Theの”This is the Day”がエンドロール中にフルで流れるの。 前日の”Megalopolis”のエンディングに続いてだし、翌々日に彼らのライブを控えていたところだったので、なんだこれは? ってひとり勝手に。

10.08.2024

[film] Joker: Folie à Deux (2024)

10月6日、日曜日の昼、BFI IMAXで見ました。日曜の昼からだからかもだけど、がらがらだった。

これの1週間前の”Megalopolis”より見る気がしなかったし、2019年の前作もみんな大絶賛だったけどどこがよいのかあんまわかんなかったし、この前作がArthur Fleckからサイコパス Joker (Joaquin Phoenix)のできるまで、を描いていたので、今作は彼が刑務所の外に出ることになって、そこにHarley Quinn (Lady Gaga)が絡んでくるのだろう、くらいに思っていた。

他方で前作以降、2021年1月6日の議事堂襲撃が起こり、その発端となった白人男性のサイコパスが大統領候補になって毎日のようにTVに出ていたり、白人男性のサイコパスが国連で演説して、その大量殺戮がG7首脳に肯定されたり、そんな状態の世の中で白塗りピエロの恰好した白人男性のヴィランが都市の真ん中でなんかやらかした! ようなのを見たっておもしろいわけないよね – というのは作る側も十分認識していたのだろう。 今回のArthur Fleckは監獄と裁判所の間を行ったり来たりするだけで、爽快に暴れたりぶっとばしたりしてくれない – たぶんそこが不評の原因で、それがわかる分、これはこれでこわい。それでもまだJoker的な暴力の構図になにかを求めようとするのか、とか。

冒頭はLooney Tunesふうのアニメーション - “Me and My Shadow”で、Jokerの本体とShadowが分離して、Shadowが勝手に悪さをしていってあーあ、になる。このクラシカルなトーンは都度挿入されるミュージカル・シークエンスで歌われるスタンダードナンバーと並んで昔話のような効果を生むのと、ここで示されるふたつ/ふたりの狂気 - “Folie à Deux”というテーマは最後までいろんな形で回りながら変奏されていく。 同じ「分裂」を扱っても”The Substance”の現代におけるそれとはやはり随分異なる。

精神病院?の看守(Brendan Gleeson)に虐められたりいろいろ言われたりしながら、骨しかないやつれ切ったArthur Fleckの日常が描かれ、そこで収監されていたHarleen Quinzelと運命の出会いをして、裁判に向けて弁護人(Catherine Keener)は幼時の虐待やトラウマが原因で完全に別人格Jokerが生まれ心神喪失状態にあった、といい、法廷で地方検事のHarvey Dent (Harry Lawtey)は分裂なんてしていない、と訴え… ストーリーとしてはほぼこれだけで、前作でのあれをやらかしたのは、Arthur FleckなのかJokerなのか、やったのが別人格のJokerなら無罪にできる可能性があるらしいから - というあたりの、お前はどっちなんだ? 本物のワルなのか? の周辺をずーっと行ったり来たりぐるぐるしたりしていて、その法廷でのやりとりや、 Harley Quinnとの出会いから一緒に歌ったりダンスしたりしながら関係を深めていくまで、の映像としての濃さ豊かさは、確かにすばらしくよく撮れている – そこだけは。 でもそれをIMAX 70mmで見るかというと…

Harley QuinnがArthur FleckのIF - Imaginary Friendのような扱いでしかないのがやや残念 – だってHarleyの過去や内面は殆ど描かれないし、あの状態のArthurになんであんなに寄ってくるのか、あんなスターふうに現れるのか、なんか変じゃない?- で、裁判所が爆破されたときにArthurもふっとばされて、Harley Quinnが「このいくじなし!」くらいのことを吐いて立ちあがるくらいならみんな少しは納得したのではないか。

あのラストについては、この内容ならあれしかなかったのでは、くらい。そういう意味で映画として破綻しているとか、そういうのではないの。ある確信をもってJokerを掘り下げて解剖している。見たい見たくないは別にあるとしても。

しかしここにBatmanとか、どうやって絡ませようというのか? 絡みようがないよね、というところもまた...


明日(9日)からLondon Film Festival(LFF)が始まって、BFIとかCurzonの一部は、ぜんぶ映画祭のプログラム一色になってしまうので、つまんない。映画祭での出会いなんて、苦労せずにどこでもアクセスできる業界の人たちの特権で、ふだん見れる時に見れるのを摘んでいる自分のようなのにとってはほーんとにつまんないったらないの。あーあー。

10.07.2024

[theatre] Waiting for Godot

9月29日、土曜日の晩、Theatre Royal Haymarket で見ました。

原作はSamuel Beckettの1953年の古典 – 不条理 – 悲喜劇。40年くらい前に安堂信也訳のを読んだはず。劇としては見たことなかった。演出はJames Macdonald、メインのふたりはLucian MsamatiとBen Whishaw。

舞台上にはぱっとしない木が一本(Caspar David Friedrichの描いた木、のはず)、真ん中が少し盛りあがっているだけで、原作にあった「田舎道」はない。ぼろぼろだったりぶかぶかだったりの服と帽子を着て臭ってきそうな浮浪者に見える- そして実際浮浪者のようになにもしていないEstragon (Lucian Msamati)とVladimir (Ben Whishaw)がその周りでだらだらごろごろ喋ったり黙ったりしていくだけ。彼らの後ろ向きの小言や気晴らしのやりとりがすべてで、この状態を変えようとか改善しようとか、そういう空気も目途もぜんぜん立たないまま、すべては「ゴドーを待たないと..」の判断のまわりで止まったり振りだしに戻ったり。

骨組しかないシンプルな舞台と台詞。舞台上の役者の言葉も挙動も、それらを含めたありようすべてが「ゴドーを待ちながら」、「ゴドーを待たないと」によって言い訳、説明されてしまうので、劇的な転換や革命が起こったり見通しやゴールが変わったりすることはない。手段が目的化される - その状態を維持するために彼らは存在していて、そのエネルギーはムダも含めてぜんぶそこに費やされていて、つまりそこには典型的な「支配」された香ばしい状態と仕掛けがあるのだが、彼らはそれを受けいれて、とりあえず待つか... って。 この原則みたいなありようは劇の構造そのものから、なんか楽しいのを求めてのこのこ劇場にやってきた我々の意識まで幅広い台地のように広がっていって、神学、イデオロギー、精神分析、階級闘争、民族紛争、等、なにをどう巻きこんだっていくらでも応用し繰り返していくことができる。

悲喜劇。 本人たちが把握していなかったとしても、全体として望ましいとは言えない(悲惨な)状態から抜けだすため、この悲の部分と喜の部分のギャップが大きければ大きいほど、「なんで… ?」の余韻というか、常態としての不条理感が湧きあがってくるはずで、そこはどんなものか、と。

そのうち地主のPozzo (Jonathan Slinger)と彼にこき使われている召使のLucky (Tom Edden)が現れて、主従奴隷劇みたいなのを披露して、EstragonとVladimirからすれば、ものすごく面倒くさそうでお疲れー、としか言いようがないのだが、どっちが悲惨と言えるのか、とか、丘の向こうから少年が現れて、今日はゴドーは来ないって、と伝えにくるのだが、ガキの使いなんか寄こしやがって、にもならず、それなら待とうか、って素直に第二幕に向かう。 第二幕でPozzoは目が見えなくなっているのだが、Luckyはその隙に悪いことをするわけでもなく、より落ち着いてこき使われている。

EstragonとVladimirのやりとりも、そこにPozzoとLuckyが絡んでも、全員ものすごく巧くておもしろい、おもしろすぎるので、見ながら笑っているうちに、まるでほのぼの漫才喜劇のように終わってしまう。このぬるいおもしろさ、親しみやすさこそがやばいのだ、っていうのはわかるものの、そこから先に踏みこむのは難しくて、「ゴドー」は、ベケットのこれは、そういう劇ではないことはわかっていても難しいかも。 これでいいのだ、の解もあることはわかるけど、いいのかなあ…? って頭の中で回りだすのだが、みんな楽しそうだし、おもしろければよいのか… って。 こういう状態はたぶん不条理とは呼ばなくて、ただの安定みたいなかんじで、別にこれはこれでよいけど(ぶつぶつ)。

Ben WhishawはPaddingtonの着ぐるみで出てくればよりリアルになってよかったのに(← Winnie-the-Poohと混同)。


来年、Keanu ReevesとAlex Winterのふたりがブロードウェイでこれをやるって(演出はJamie Lloyd)。BillとTedのふたりがゴドーを待つ、も楽しそうだけど、ゴドーを無理やり引っぱり出す、くらいのことをしてくれないかー、とか思う。
 

10.05.2024

[film] Yield to the Night (1956)

9月28日、土曜日の午後、BFI Southbankの”Martin Scorsese Selects…”の特集で見ました。

こちらを見つめるDiana Dorsのスチールが1995年のThe Smiths “Singles”のジャケットに使われている。(どこかでだれかThe Smiths/Morrisseyのジャケットに使われた映画特集、をやらないだろうか)

監督はJ. Lee Thompson。原作は1954年のJoan Henryによる同名小説で、彼女は後にJ. Lee Thompsonと結婚している。USでの公開タイトルは” Blonde Sinner”、日本では公開されていない?

冒頭、女性がトラファルガー広場からベルグレービアの方に歩いていって、ある家の前で止まって、そこにやってきた女性に銃を向けて何発も撃って、という場面から刑務所のようなところに勾留されている主人公のMaryHilton (Diana Dors)の日々の描写に移って、ひとり牢屋に入れられているのではなく常に彼女を監視してタバコや食事や休憩時の面倒を見たり相手をする女性が複数いて、なんで彼女がそのような特別扱いをされているのかというと、カレンダーに付けられたマークから彼女が極刑を受ける可能性のある囚人だから、というのがわかる。

この監視下、最終審判が下されるのを待っている時間と並行して、香水屋(デパートの香水コーナーか)の店員だった彼女が、客としてやってきたピアノ弾きのJim (Michael Craig)と仲良くなって彼とずっと一緒にいたいと願ったのに彼は別の裕福な女性のところにばかり行って振り回されるようになって、やがてその女性への殺意が生まれて、という経緯が語られるのと、彼女のところに訪ねてくる元夫のFred (Harry Locke)とか、母と弟とか、でもどれだけ周囲が近寄ってきて構ってもらっても彼女の内側の虚無は消えず変わらず、所長らしき女性が執行を言い渡しに来た時も特に反応しなくて、カミュの「異邦人」のような不条理劇のようにも見える。

Maryが獄中で誰とも語らずに見ている壁や読んでいる本、黙って一点を見つめる目、監視人たちのトランプや聞こえてくる無駄話、そうやって静かに過ぎていく時間と無表情の描写/対比が見事で、刑の執行が確定した時の静かな揺れも。

当時実在して死刑(英国で最後の女性の死刑執行)となったRuth Ellisのケースとの類似が指摘されるが脚本が書かれたのはこの件の前だったそう。

あと、タイトルはホメロスのイーリアスにある”But night is already at hand: it is well to yield to the night”からきている、と。


The Pumpkin Eater (1964)

9月27日、金曜日の晩、上と同じ特集で見ました。
前回駐在した時にも見ていたがもう一回見たくて。

監督はJack Clayton、原作はPenelope Mortimerの62年の同名小説、脚本はHarold Pinter、音楽はGeorges Delerue。邦題は『女が愛情に渇くとき』 - オトコが考えたクソ邦題。

これも↑と同様、男性によってなにかを壊されてしまった女性の話。

Jo (Anne Bancroft) は家にひとりで佇んでいて、車で出かける夫にもうわの空で、そうして壊れてしまった彼女の姿や行動と、既に子供が沢山いる状態で自宅に遊びにきた脚本家のJake (Peter Finch)に近寄られて結婚し、賑やかな家庭を.. と思ったらそんな環境がまるごと彼女を苦しめていったこと、特に望んでいなかった妊娠やJakeの浮気の兆候 - 家族の友人だったBob (James Mason)から彼の妻をとられたと騒がれたりの経緯が交互に順番にフラッシュバックされていく。

彼女の張りついたような表情、機械のように見える動作、無邪気な、でも時折心配そうになる子供たち、態度と表情を二転三転させる夫(たち - 過去のも含めて)、なにが彼女をそんなふうにしてしまったのか? いつも賑やかで騒がしい市場のような家、誰もいないがらんとした家、丘の上の風車小屋の描写 - Jack Claytonはこういうランドスケープ的な怖さを撮らせたらほんとすごい - も含めて、なにが彼女をあんなふうにしてしまったのか、簡単にはわからない。けど彼女がひとり勝手におかしくなってしまったわけではない、そこに欺瞞のような気持ちよくない何かがあることはわかる。その描出のしかたは - このテーマに関しては例えばベルイマンよりもすごいと思う。

Anne Bancroftがとにかくすばらしいからー。


夕方BFIに行こうと思っていたのに会議で潰されて、もともと体調ひどくて難しかったとはいえしょんぼりしていたのだが、23時からBBC FourでThe Undertonesの83年のライブをやっていて少し元気がでた。Feargal Sharkey、あんな歌い方をする人だったのかー。よいなー。

10.04.2024

[film] The Substance (2024)

9月25日、水曜日の晩、BFI Southbankで見ました。 上映後にDemi MooreさまとのQ&Aつき。
チケットはぜんぜん取れない状態で諦めていたら、2時間くらい前にひょっこり釣れた。

MUBIとは思えない原色の派手さカラフルさで、宣伝もいっぱい打っていて、興収もMUBIにとってこれまでの最高を記録している、と。
作・監督はフランスのCoralie Fargeat。 US, UK, フランスの共同制作で、カンヌで脚本賞を受賞している。へー、と思ったが撮影はすべてフランスで行われたのだそう。

B級ボディホラーとして、よく考えられていてなかなかおもしろい。2時間20分はちょっと長いけど。

冒頭、パステル系の青緑の上に生卵がのっていて、その黄身の部分に怪しい原色の液体を注射すると、黄身がもそもそ動いて新しいのがむにょ、って分裂して外に飛びだす。これだけで気持ち悪い、ってなったひとは先に進まない方がよいかも。

Elisabeth Sparkle (Demi Moore)は歩道の石盤に名前が刻まれているくらいの女優で、自分の名前のついたTVのワークアウトショーをずっとやってきたが50歳になったところでやらしいエグゼクティブ(Dennis Quaid)が契約終了を話しているのを聞いて、その後にあっさりもう終わり、って告げられてがーん、となり、帰りの運転中、剥がされていく自分のポスターに気をとられたところで事故にあって病院で気がついて、無傷でよかったー、って思っているとぴちぴちの顔をした若い看護師から怪しげなUSBを渡される。

放心状態でタワーマンションの上の自宅に戻って、USBを再生してみるとそれは”Better Version of Yourself”になれるという”The Substance”というセラム一式を使った施術への誘いで、使い方は面倒そうだったが、どうせ未来はないし、と思いきって申し込んでみると、住所と番号入りのカードキーだけが送られてきて、その住所に行ってロッカーを開けてキット一式を手に入れる。

どうやってElisabethの別バージョンができるのかは見てもらうしかないのだが、みんなふつうに自分で自分に注射したり、チューブで繋いだり、縫合したりできるものなの? そういうの無理な人だとこれできないよね。

とにかく、Elisabethのbetter versionとして誕生したSue (Margaret Qualley)は、かつてのElisabethが持っていたもの、いまのElisabethが望んでいるものすべてを完璧のきらきらで備えていて、Elisabeth Sparkleの”Next”を探していたプロダクション側もすぐに飛びついてきて、Elisabethの復讐がはじまる… という具合に簡単には運ばない。

ElisabethとSueの身体は、同時に稼働させることはできず、7日間おきに互いのボディを”Switch”しなければならない。この規約のような決まりを破ると大変なことになるし、ふたりはあくまで「ひとり」であることを忘れるな、と何度も念を押される - もののElisabethからは取り残される、閉じ込められていく不満と不安が、Sueからはこの老いぼれ(→でも自分)に縛られてしまう不満と怒りが溜まっていって…  

ミソジニーにルッキズム、「若さ」に対する異様な、盲目的な信奉、我々がパブリックで日々散々目にする醜悪な(個人差あります)あれこれを背景に、ElisabethとSueはその両極を体現するキャラクターとして急速に変容していって、でも分裂・併存は断じて許されないのだ、という不条理が彼女たちを串刺しにして、その結果はほとんど楳図かずおの漫画のようになってしまう – これがばりばりデジタルの画面上で展開されてやらしいじじい共に放射されていくおもしろさ、というか。全体としては監督の怒りがドライブしていて、そこは最後までコントロールされていてぶれないのがすばらしい。

ここで”Better version”という時の”Better”って、あくまで他人からの見た目の絶対基準としての若くてきれい - でいいな、っていうだけのもので、性格がよくなるわけでも頭がよくなるわけでも性別が変わるわけでも肌の色が変わるわけでもない。そのあたりはよく考えてあるなー、とか。

上映後のトークでは、この役を引き受けた経緯や役作りについての質問が多かったのだが、普段自分が考えていることにも繋がっていたし監督の考え方に共感できたので、と割とあっさり。Sue役のMargaret Qualleyについては、彼女が子供の頃から知っていたのよ、80年代にお母さんと少し共演したことがあってー、とか言うので見てみたらお母さんはAndie MacDowellなのね! (そして共演したというのは”St. Elmo's Fire” (1985)か….)

10.03.2024

[music] The The

10月1日、O2 Academy Brixtonで見ました。
2018年、Royal Albert Hallでの”The Comeback Special”以来のThe Theのライブ。

これの前、9月28日のAlexandra Palaceでのライブは場所が地下鉄とバスを乗り継いでいく山の上の、昔のエムザ有明みたいなとこなので諦めた。

2018年のがそれまでのキャリアを総括する網羅的 – であるが故の力強さをもつ内容だったのに対して、今回のは新譜 - まだ聴いてないや - “Ensoulment”を全曲披露する’listening' setと過去のレパートリーを束ねた‘dancing' setの二部構成 - 間に15分間の休憩、となっている。

戻ってきた(くる)のでよろしく、と改めての自己紹介をした前回に対して、それから5年後、現在の自分はこうです、と今の状態と地点について語り、その地点から改めて過去を俯瞰してみようとする。後半のセットでは、曲紹介の都度80年代、90年代(の作品であること)を強調していたが、年を重ねること、そこで語られたことを今ここで語ること、その意味を踏みしめながら歌っているようだった。 そしてこれはあくまでThe Theとしての文脈でしかなくて、今世紀に入って活動を止めて以降も、ドキュメンタリー映画”The Inertia Variations” (2017)やRadio Cinéola Trilogyのボックスセットやバイオグラフィーのリリースなど、Matt Johnson自身はずっと手は休めていなかったのですごいわ、しかない。

ばしゃばしゃの酷い雨と地下鉄で遅れて会場に着いたのが20:10で、20:15きっかりに始まるとあったのに会場のまわりをぐるーっと一周回されて中に入れた時には始まっていた。ばかばかばか。

“Ensoulment”からの曲は重心の重いミドルテンポのブルースで、魂 - ソウルを獲得すること、というテーマに沿った12曲はそれ丸ごとで1曲になっているような、ここ数年間で身近な肉親の死を見てきた彼がその境界も含め丸ごと何かをこちら側に手繰り寄せるような磁場と強さに満ちたものだった。改めてちゃんと聴かないと。

ところで、今回ヨーロッパ・ツアーの途中でドラムスがEarl HarvinからChris Whittenに替わった。つまり、今回のリズム隊はJames Eller - Chris Whittenという、Julian Copeの”Saint Julian” (1987)の時のふたりで、これの来日公演の時にも見ているはずで、要は80年代の手数が多くエッジがきいてばしん、とくるリズムをやらせたらこのふたりはすごいの。 "The Whole of the Moon"のあのドラムスもこの人ね。

ライティングは、モザイク状のぼんやりした影と光の粒が人影やダンサーや星条旗を形づくっては流れて消えていく。派手さはないものの”Ensoulment”というテーマには見事に嵌っている。

第二部は”Infected” (1986)から始まる。 自分のThe Theとの出会いもここからで、当時Peter Barakanさんがすばらしい才能が現れました、って興奮気味に語りながらPVを紹介したのを思いだす。

選曲は先に書いたように80’s、90’sの時代や枠を意識しつつ、自分でマイクを握って前の方にでて一緒に歌おう、をずっとやっていた。”The Comeback Special”の時の静かな大波で圧してなぎ倒していくかんじではなく、押しては引いてを繰り返し、引きずりこんでいくような。 個人的には”Dusk” (1993)からの曲 - ”Love is Stronger than Death”や”Slow Emotion Replay”がとてもしみた。”Dusk”と”Ensoulment”の視座や質感は、どこか似ている気もする。

バンドの音も見事によくて、”Uncertain Smile”でのDC Collardのソロなんて、BowieにとってのMike Garsonくらいの位置にあるのではないか。それに絡みついて離れていかないBarrie Cadoganのギターと。

今やスタンダードになってしまった感のある“This is the Day”も”Lonely Planet” - 前世紀末にこれらの曲がこんなふうに迎えられるなんて誰が想像しただろう? - は言うまでもないのだが、アンコールの最後に演奏された”GIANT”の暴力的と言ってよいくらいのカラフルな奔放さが見事だった。こんな曲だったのかー、って。 この辺から次に繋がっていくのだろうか。

あとはー、"Sweet Bird of Truth" – 1986年アメリカのリビア爆撃を材に、湾岸戦争を予言していたこのテーマが未だに生々しく響いてくることの真っ暗な絶望ときたら… もう本当にやめて。


それにしても、抗生物質のばかやろうー

10.01.2024

[film] Megalopolis (2024)

9月28日、土曜日の昼、BFI IMAXで見ました。
既にいろんなところで「失敗作」って言われているし、興収的にも惨敗らしいが、自分はそれなりにおもしろく見た。

巨匠が晩年になってその「世界観」を花開かせ... といった惹句で語られがちな誰も口出しできない「境地」に行って我々に「メッセージ」を託す、ような恥ずかしくしょうもないものにはなっていない。現代の映画としてそのいけてないところも含め、どこのなにがいけていないのだろう? を考えさせるようなものになっている、という点では堂々と力強い失敗作だと思う – だから予算もおりなくて、自分のワイナリーを売ったりして、そういうところも加えていくと、なんか切り捨てることができない。

タイトルの下に”A Fable” – 「寓話」とあるように、実際の具体的な都市を舞台にしてはいない気がして -でもプラカードに”Queens”とかあったな - 冒頭に出てきて、主人公の建築家Cesar Catilina (Adam Driver)が住んでいるのもクライスラービルそっくりのビル(のほぼ天辺)、でよいのだと思う。彼は、Megalonという画期的な新素材を発明してノーベル賞を受賞し、時間を止める不思議なパワーを身につけて、そのパワーをもって都市全体をまるごとリニューアルするMegalopolis構想を立ちあげる。

彼の亡くなった妻、彼と対立する市長のCicero (Giancarlo Esposito)、Cesarの新たな妻となる市長の娘Julia (Nathalie Emmanuel)と人質のように生まれてきた赤ん坊がいて、その反対側には明らかにトランプを思わせる腐った権力者Hamilton Crassus III (John Voight)と彼に取り入るレポーターWow Platinum (Aubrey Plaza)、Hamiltonの孫で悪どいClodio (Shia LaBeouf)とかがいて、権謀術数渦巻くなんとか、というより、どいつもこいつもろくでもない半端なちんぴら、ばかり。女優たちは明らかに弱くてノワールにもメロドラマにも向かわない - 現実の反映? 抗争モノとしての格とかストーリー運びの見事さなどでは、”The Godfather”のシリーズにとても及ばない。

都市を作るドラマとして、Fritz Langの”Metropolis” (1927) やAyn Rand/King Vidorの“The Fountainhead” (1949)が思い起こされるが、あの(フェイクとしての)スケール感もない。”One from the Heart” (1981)で描かれた目くるめく宝石箱のような都市の奥行きや立体感もない。

建築による世界の再構築と、それが引き起こす旧世界(エスタブリッシュメント)との軋轢、どろどろがどんなふうに広がり、解決され、新たな世界の到来を約束するのか?そしてそこに富と権力が集まって、そこに暴力や不正が生まれて人が殺されたり、はふつうに起こって、で、それでもそれは新しい世界になるのか?どうしてそう言えるのか、結局焼き直しで旧権力と同じく、ローマ帝国と同じく没落の道を辿るだけなのではないか、などなど、特にそれらの答えを出さず/出せず、そうしているうちに旧ソ連の人工衛星が落ちてきたりもするのだが、それがどうした、くらいの扱いで、要は誰にも止めることのできない伝染病のような何かとして、来るべきMegalopolisは堂々とあって、だからそれがどうした? でしかないの。

1980年の『地獄の黙示録』がベトナム戦争をテーマにしていたように、この物語の起源には911のタワー崩落があり – でもアイデアは1977年に、書き始めたのは1983年だそう – あそこでそれまでの秩序が壊れて、偽情報でイラクを空爆できるように、同様にイスラエルは好き勝手に空爆できるようになった – そういう状況があるなかで、新都市構想なんてものが利権転がし狙いの転売ビジネスでしかないことは、日本でのあれこれを見ても簡単にわかるし、とにかくなにもかも嘘っぱちなんだってば。

それなりに有名な俳優たちも出てくるけど、かつてのRobert De NiroやAl Pacinoのような使い方はされていない。破綻して壊れた経営者や危ういリーダーやカリスマを演じさせたら最適なAdam Driverをもってきて、ここでの彼は不思議なパワーはあるもののKylo Renではなく、”The Dead Don't Die” (2019)の彼のようにゾンビに囲われてぼーっと立っている。

でもたぶん、一番やりたかったのはMegalopolisではなくて、時間を止めるほうだったのではないか。Coppolaは妻Eleanor – この映画は彼女に捧げられている – の死をなんとしても止めたくて、でも彼女がいないので時間を止めることはできなくて… そして彼女に捧げる字幕が現れるタイミングでThe Theの”Lonely Planet”が流れはじめた時、この映画の意味がきれいに反転してしまったように思えたの。 自分を変えられないのであれば世界を変えるのだ、という前にあるライン - “You make me start when you look into my heart ~ And see me for who I really am” - We're running out of love - Running out of hate - Running out of space for the human race..    この曲をラストに据えるように言ったのは誰なのだろう? Roman Coppola?


ここんとこ体調がめちゃくちゃだったので医者にいったらまあ帯状疱疹でしょう(やっぱり..)とか言われ、雨でさらにいろいろ最悪で、地下鉄もぐじゃぐじゃのなかどうにか駆けこんだThe Theのライブ、行ってよかった.. (ばたん)

[film] Went the Day Well? (1942)

9月23日、月曜日の晩、BFI SouthbankのMartin ScorseseSelects.. の特集で見ました。

BFI Archiveが収蔵しているナイトレートフィルム(昔の硝酸入りで可燃性の)での上映。ここでは昨年くらいから厳格に保存管理しているナイトレートでの上映会をぽつぽつやっていて、そのひとつ。 この日に上映されたのは、フィルム完成後にここでプレミアされた際のものだそうで、80歳くらい。一応、事前にコンディションはチェックしているが、もし火が出た場合は落ち着いて、退避するルートは、等のインストラクションもあった。

この映画は、前回駐在していた時に見ていて - たしか戦時の女性、みたいな特集 – すごくおもしろかったのだが、同時に無慈悲すぎて辛くてここには書かなかった。

原作はGraham Greeneの短編 - "The Lieutenant Died Last"だが、彼は制作には関わっておらず、監督はAlberto Cavalcanti、プロデュースはMichael Balcon。第二次大戦の戦時下、ドイツ侵攻の恐怖が生々しくあった頃に非公式のプロパガンダ映画として作られた。 日本公開はされていない?

冒頭、のどかな田舎の村 - 架空の - で、ひとりのおじいさんが多くの人の名が刻まれた慰霊碑のような石碑をバックに、昔ここでこんなことがあったんじゃよ… って語り始める。

いつもの週末に向かう平和な朝、イギリス兵の一団が村に現れて、戦時なのでごくろうさまです、って迎えて休んで貰ったりするのだが、ある兵士の持ち物の「チョコレート」がドイツ語の包み紙だったので、これって… となったら彼らはドイツ兵としての正体を現して、村人たち全員を教会に集めて監禁して、警告の鐘を鳴らそうとした牧師を簡単に撃ち殺して、下手なことをしたらこうなるぞ、って脅して。 ハリウッド映画ならその中のひとりふたりが立ちあがって、になるのだろうが、ここにいるのは老人と女性たちばかり。

卵にメッセージを書いて新聞配達員に渡したり、なんとか無線を奪って連絡を取ろうとしたり、村人も必死でいろんな手を考えるのだが、どれも潰されたり、見つかってやられてしまったり、でもそういう試みが少しずつ効き始めて… というのが手に汗を握るかんじで展開されていく。 ドイツ兵が村人を殺すところ、村人がドイツ兵をぶん殴ったりして殺すところは、ものすごくあっさりばっさり、村ののどかな空気のなか稲刈りみたいに実行される、その神も仏ものかんじが逆にこわい – 実際にもあんなふうなんだろうな、って思うので。

でも少しづつ村の状況が外に伝わって、イギリス軍も追うようにやってくるようになり、戦いの舞台は教会からマナーハウスに移って、という土曜日から月曜の朝までの流れ。

沢山の女性がばたばた倒されていくのだが、泣いたり叫んだりの感傷的な場面もかっこつけてる場合も殆どなくて – そんな余裕ないかんじで – 誰かが倒れたらじゃああたしが、のように向かっていってとにかくなめんな/負けるもんか、って。見ている観客の方がエキサイトしていて、村の偉い人で隠れてこそこそドイツ軍の協力者だった奴を見つけてやっつけた時は「よし!」って歓声があがったり。

もちろんドキュメンタリーではないのだが、そういう風に見える作りになっていて、こうなった時にあなたならどう動きますか? を問われているような場面もあり、あープロパガンダだなあ、って。でもとにかく、映画としてすごくおもしろいしよくできていると思う。

英国の田舎の風景がどんなふうだか、そこに暮らすおばさんおじさんがどんな人たちなのか、わかるようになったところでこういうのを見ると、余計にしみるかも。
実際にこういうことが起こらなくてよかった - 上映された頃には、ナチス侵攻の恐怖はなくなっていたそう。

ナイトレートフィルムは、35mmフィルム上映とそんなに変わらない – 闇とか暗いところがより黒く深いかんじはあるかな? どうかな? くらい。でも、これがフィルム-映画だと見てきた代と、スマホのストリーミングの画を(も)映画とする代との間にはやっぱり隙間があるようなー わかんないけど。

[film] Girls Will Be Girls (2024)

9月21日、土曜日の昼、ICAで見ました。
インドのShuchi Talatiの作・監督による長編デビュー作、インド/フランス制作映画で、今年のサンダンスでAudience Award for Dramatic World Cinemaを受賞している。 学園ガールズ・コメディのようなのを想像していたら軽く蹴っとばされるかも。coming-of-ageドラマとして、地味だけどよい意味でわかりやすく見入ってしまった。

90年代、規律の厳しいインド/ヒマラヤのボーディングスクール(そんなのがあるとは、くらい知らない世界)で、16歳のMira (Preeti Panigrahi)は学業、素行お行儀全面で抜きんでている、って”Head Perfect”のバッジを貰って生徒の代表として朝礼で号令をかけるくらいによくできた生徒として、生徒たちに指導したり、先生たちからの信頼も厚く、みんなが誇りに思っていてどこに出しても恥ずかしくない。

ある日、外交官の息子のお坊ちゃんで背が高くてかっこよく見えるSri (Kesav Binoy Kiron)から声をかけられて、天文部で星を見て話をしているうちに彼ならつきあってみてもよいかも、になってくるのだが、親 - 特に母親の許可なしにつきあったりするのは難しい、と思ったので母Anila (Kani Kusruti)に命じられるまま彼を家に呼んで面接のようなことをして、母からは家のなかで会うのならよろしい、但しドアは開けておくように、と言われる。

こうして家のなかでふたりで会うようになり、オープンで積極的なSriに応じるようにMiraも性に敏感になってあと少し、くらいのとこまでいったりするのだが、いちいちふたりの間に割りこんでくるAnilaがうざくなってくる。AnilaもSriがお気に入りになってくれたのはよいこと、だけど彼とずっとおしゃべりしていたりレコードかけてダンスしたり昼寝してしまった彼の頭を彼女が撫でたりしているのを見た時はさすがに - 人の家に行ってあんなふうにすやすや寝てしまえるのか、もあるけど。 こいつ、お泊りでやってきた正念場の時も朝ぜんぜん起きないし – こんなやつはやめといたほうが...

理系で優秀なMiraは、自身の性の好奇心に対してもプレーンかつ真っすぐで、Sriとインターネットカフェに行って性の仕組みや初めてのについて勉強したり – でもそうしていく中で、Sriはこれ初めてではなく既に経験しているのでは? の疑念が湧いたり、階段の下で女生徒のスカートの下を盗撮していた男子生徒を学校に告発したり、優等生としての自分も前に出てきたりで、揺れている。 その揺れを母として敏感に感じている & 若いSriに少し惹かれているAnilaの視線 - 見るからにエリートっぽい夫は殆ど家にいなかったり - を絡めてMiraのどこまでもままならなく浮いた状態に目が離せなくなる。 映画はその緊張関係をMiraの側から描くのでもAnilaの側から描くのでもない、どこそこに落ちつくから、和解するから、ということを示さずに”Girls will be Girls”という状態に留めおこうとしていて、その緊張のありようはcoming-of-ageものが目指しがちな落着点とは別にどこまでも生々しい。

そして最後の方の、告発された男子生徒たちが仕返しで追いかけてくるシーンははらはらするのだが、このパートはなくてもよかったかもしれない、と思いつつ集団になったときの猿としか思えない男子のしょうもなさの描写としてはありなのか、とか。世界中どこでもこの動物以下のは…

この世の涯のような場所にある学校でもこんな… というところも含めて、とても広がりと普遍性をもったよい作品だと思った。 Miraを演じたPreeti Panigrahiさん、驚異的ではないか。