14日、水曜日の晩、LFFの、BFI Southbankで上映されたのを見ました。
こちらでの上映タイトルは”David Byrne's American Utopia”。
きっとこの後、”Trent Reznor’s American Dystopia”みたいのが出てくるのを見越してのことだと思う。
上映前に(録画だと思うが)David Byrne氏とLFFのプログラマーとのQ&Aがあった。
“American Utopia”は最初はDavid Byrneのソロアルバムで、それをライブショーに展開したものをブロードウェイのミュージカルにして、その時点で当然やり方とか仕様は変わって、これをフィルムにする、となったらどう変わるのだろう、って、ここでSpike Leeを呼んで、彼は何度かショーを見に来てくれた後で「やる」と言って今年の2月、10数名のカメラクルーが乗り込んできて撮影が行われた、云々。
当然のようにSpike Leeが撮ったPVのようなものにはなっていないし、隅から隅までDavid Byrne、というわけでもない。たぶん、「今のアメリカ」 vs. “American Utopia”という揺るぎない視座というかリングがあって、そこに両者が(更にはJames Baldwinが、Janelle Monáeが)Joiuntしている、そんなかんじ。
2018年にロンドンのO2アリーナで行われたこのライブを逃したのは後悔オブザイヤーだったのだが、それがブロードウェイのシアターのサイズに縮まって定席化され、それが今回は(映画館がフルでオープンできないことを考えると)TVやPCのサイズになった。サイズが小さくなっていくにつれてそこに込める/込められるものも当然変わってくる。その辺は当然のように考慮されていて、単にライブショーを撮ったものではなくなっている。ほぼ真四角の土俵の真上から捉えたもの、床面から足の裏を捉えたもの、どうやって撮っているのかわからないくらい近寄ったもの、などなど。
ライブフィルムの概念とか常識を変えた! というのは宣伝の常套句として昔から割とどこにでもあって、その点では”Stop Making Sense” (1984)は当時まさにそういう言われ方をしていた。舞台の骨組みを見せて、光と影、三面スクリーン、でっかいスーツ、ひとりからの増殖、など、そこでは弾き語りからファンカデリックの音の乱れ打ちへと変容していくなかであらゆる「意味」を積んで盛って飽和させて結果的に無化し、それら束になって道化のDavid Byrneを壊していく様がドキュメントされていた。(”American Utopia”のエンディングクレジットにはJonathan DemmeへのSpecial Thanksが)
そして、”Utopia”にはあらゆる意味が正しく充足されて既にそこにあるのだから、Stop ”Stop Making Sense”という状態を示している、とは言えないだろうか。
この作品でも最初は机に座って脳みそを手にしたDavid Byrneがひとり、銀ラメの魚みたいなエンターテイナーのスーツを着て、そこに同じ衣装のヴォーカルが2人、太鼓が3人とか加わって音がだんだん厚くなっていく。パーカッションは”Stop Making Sense”の横並びアフロファンクからサンバのバテリアによるトロピカリアになっていて、床に固定された楽器はない。全員が楽器を抱えたちんどん屋になって縦横無尽にくるくる練り歩き、その動きは勿論振り付けられてはいるもののコントロールされたかんじはしない。ひとりひとりがパートの機能役割を意識的に担いつつも自在にポータブルに動き回る - 理想的なちんどん屋(= Utopia?)。演奏のクオリティとバンドのダイナミズム、この文脈で再定義されたレパートリーの新鮮さ、などなど聴いていて気持ちいいったらない。
さすがにもう”Psycho Killer”とかはやらない(と本人も語っていた)。 “This Must Be The Place (Naïve Melody)”とか“Everybody's Coming to My House”とか “Burning Down the House”とか“Road to Nowhere”とか、場所とか家とか、それがあること、それの持つ意味についてを問うているものが多くて、それを落ち着きのない、一点に止まることのない動きのなかで歌って、それを聴く我々はコロナで家の外に出られず画面の前に縛りつけられている – なのに“Everybody's Coming to My House” – とか歌ってしまう皮肉。 これが”America”であることはなんとなくわかる。でも果たしてこれは”Utopia”なの?
最後の方で歌われるJanelle Monáeの“Hell You Talmbout” – BLMでも取りあげられた多くの死者(→ Dystopiaによって殺された)の名前が読みあげられ呼びかけられ、彼らの肖像写真が掲げられる。そしてそれを手にしているのはおそらく彼らの家族で、その場所は同じステージの上であることに気付く。この部分の映像はライブとは別で撮られたもので、Spike Leeはおそらくこれをやりたかったに違いない、というのと、もういない彼らの像がステージに現れることで、”Utopia”は完成するのだろう、と。(ちなみにオープニングとエンディングで表示される”Utopia”のタイトルは上下が倒立している) そしてこれもまた、なんとしても大統領選直前に公開/放映されなければならなかった1本..
最後にちんどん屋は客席の間を練り歩いて、そこから楽屋に引っ込んだDavid Byrneは楽屋口から自転車で町に飛びだしていく(彼は自転車の本も書いているし)。車ではなくて自転車で - 馬車でも列車でも車でもなく、自転車である、ということ。どこまでも - ステージを離れてもコロナ以降のありようを示していて、この舞台が2021年の公演再開の時にはどう変わっているのか、楽しみ。
あとはそれまで”America”が保つかどうか...
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