7.11.2012

[art] Thomas Demand

戻ってきた翌日の3日、ありえない虚脱感に襲われた、ということになり、午後会社を休んでみました。
この展示はじきに終っちゃいそうだったし、爆音の前売り買っていたのがこの日のだったことがわかって、抜けないわけにはいかなかったの。

清澄なんとかの駅でおりたのはすんごい久しぶり。

いろんな「現場」を模型とかで工作して、それを実物大の「写真」として写してみて、そうしてできる「現場写真」。
現場の生々しさを伝えるはずの「現場写真」は、撮られた時点で「事後」であることから生々しさからは遠く、だからといって、決して単なる情景を撮ったものにはならない。 与えられた情報をもとに我々のあたまのなかで再構成される「現場」のありよう、その微妙な、第三者的な立ち位置をフィクション(つくりもの)の側から逆照射してみよう、と。

コトが起こったその場所に実際に行ってそこに立ってみえるものと、彼の実物大の写真の前に立ってみえるものとの間にどんな違いがあるのか? たいして違わないんじゃないのか? 当事者でも幽霊でもない限り、わかんないんじゃないのか、と。

そういう「事件」と「第三者」の関係は、そのまま作者であるThomas Demandとそれを鑑賞する我々の関係(作者が提示しようとした何か=再構成しようとした現実世界 - と我々の目にうつる何かは同じものとして見えているのか?)にも置換しうる可能性があって、要は、みてくれは素朴でぺらっとした写真なのに、裏にはものすごくいろんなテーマが網の目のように張られている、そういうおもしろさがある。

あとは、階下でやってたアーティストトークのビデオ見ててわかった、それでもなんとか本物らしく見せるためにやってるものすごいこまこましたいろんな努力ね。 あれを見てしまうと映画製作にも近いなにかを感じてえらいなー、とか。

写真と動画とでいうと、動画のが圧倒的におもしろくて、"Pacific Sun"なんかは不謹慎だとわかっていてもおおーっ、となるし、"エスカレーター"の裏の映写の、ループし続ける35mmフィルムには感銘を受ける。 
えんえんループし続ける、再生を繰り返していくなにか、そのエンジンはなんなのか、というのもテーマとしてはあるよね。

下のフロアでは次の展示の特撮のセットを準備してて大変そうだったが、特撮とも違うねえ、とか。
特撮は技術であるが、これはそのもうちょっとだけ手前の、もっとやわらかいもにゃもにゃしたなにか。

しかし、こっちの(特撮の)展示は、混みそうだねえ。

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