7.31.2012

[film] Profondo Rosso (1975)

土曜日、あまりの暑さに昼間は白目むいて完全に死んでて、夕方に京橋で1本だけみました。

『サスペリア』のヒットにあやかって、制作年はこれより前なのに『サスペリアPart2』としてリリースされたものだと。
こういうのって、どうなんだろうか、とずっと考えている。
当時(70年代後半~80年代)、洋画のマーケットを拡張するためにいろんな工夫して営業努力して、それはそれなりに成功した。
でも、彼らの「営業努力」って、基本は彼らの「商品」である映画のイメージを歪曲したりラベルを貼ったり、要は誇大広告に近いものを打って、観客を騙していただけだったのではないか。
当時、何も知らなかった我々は、昔のそんな出来事をお祭りのようなノスタルジーと共に楽しく思い出すことができるのかもしれない。
けど、今はちがう。  配給会社は、ずっと同じビジネスモデルと営業姿勢のまま、つまり客を小馬鹿にするやり口を維持したまま、我々は日本公開時期を都合のいいように延ばされ(或いはDVDスルーにされ)、待たされる間にくだらないタイアップだの前宣伝だのを散々見せられ、最低のセンスの邦題だのコピーだのに我慢させられ、映画館に入れば映画泥棒呼ばわりされる、もうそういうのにほんとうにうんざりなんだ。
例えば(なんでもいいけど)、"The Avengers"の米国公開直後、英語圏ぜんぶがわーって盛り上がっていることを知りながら(もうみんな簡単に知ることができるの)、なんで3ヶ月以上待たされなきゃいけないのか、しかも「日本よ、これが映画だ」とかわけわかんない最低のコピーと共に、指をくわえなきゃならんのか。
洋画興行の衰退は業界が自分達ではまったんだよ。 映画泥棒のせいじゃない。
もちろん、映画興行なんて昔からそんなもんよ、そういうのも含めての映画なんだとか、大人顔で言うひともいるのだろう。
でも、ここ最近のは、ものすごく不愉快で不快で気持ちがわるい。
映画を好きな人たちがやっているものとは思えないから。

そのうち、自分にとっての映画は、シネマヴェーラと日仏とアテネとCriterionのDVDリリースだけになってしまうのだろう。 ぜんぜんいいけど。


とにかく、そんなでも、映画はおもしろかった。
基本、こういう血がどばどば(ホラー)はだめなのだが、アルジェントは、アサイヤスが2010年のNYFF(Carlosの年!)のとき、対話講座で紹介しているのを聞いて、ちゃんと見なければ、と思ったの。 このとき紹介していたのは"Inferno" (1980)だったが。

冒頭、子守唄のような音楽の鳴るなかでの殺人(のシルエット)、そして超能力おばさんの怪しげなお告げと殺人、たまたまそれを目撃したピアニスト(男)と新聞記者(女)が事件を探っていくうちに、第二、第三の殺人が起こっていくの。

超常現象系のホラー、というよりは謎解きミステリーで、事実とか核心が明らかになっていくにつれてなにかを知っている人たちが血祭りにあげられていって、最後には当然、謎にたどり着こうとするひとが狙われる。

ナイフ、ガラス、熱湯、大理石に歯、車引き摺り、ネックレス輪切り、とか殺しのバリエーションはいっぱいあって、どれもこれもものすごく痛そうなのだが、こわいのはその瞬間のぐざぐざ、よりも、そこに誘導されるまでのイメージの連なりのほうなの。 気配、物音、人影、廊下の奥の暗闇、はっきりとなにかが飛びだしてきそうな扉の向こう、壁の向こう、鏡の向こう、などなど、それらははっきりわかっているのに決して届かない距離と目線の元に置かれていて、でもどうすることもできないまま、やっぱりこちらに向かってとんできて、ああ、と思ったときにはもうしんでる…

壁、壁のしみ、洗面台、廃屋、などなど、美術のすばらしいこと。たんに古いだけでなんもしていないのかもしれんが。
そして音楽はもちろんGoblin。 ごぶごぶどかどかすばらしい強さで廊下いっぱいに鳴り渡る。 ホラーなのに煽るような、妙に高揚するかんじで鳴るの。

しかし、事件にぐいぐい首つっこんでいくピアニスト、きっと暇なんだねえ。夜中になんでわざわざあんなとこに出かけていくかねえ。

もう8月なのね...

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