7日の土曜日、イメージ・フォーラムのGuerínの特集から2本、続けて見ました。
En Construcción (2001) - 『工事中』
バルセロナのいかがわしい地区を取り壊して立て直す工事の現場とその周りを追ったドキュメンタリー。
まだ人が住んでいるアパートのすぐ隣で取り壊したり積みあげたりが繰り返される。
工事のまわりで住人が追い立てられたり困ったり問題が出たり、といった社会問題にフォーカスしたものというよりは、工事現場と工事中、ある特定の時間と空間に居合わせたいろんな人たちの姿を追ったもの。
子供もいれば老人もいるし、出稼ぎで来たひとも、親子で働いているひとも、そこで暮らしているカップルもいる。
15世紀だか紀元前だか(人によって全部いうことが違う)の人骨だってでてくる。
進行していく工事の横でいろんな人間関係もまた同じく工事中、というか足場を作ったり外したりがあって、そのコントラストと切り取りかたが素敵なの。 街の修復とか歴史の刷新とか、そんなでっかいイベントのすぐ横で、それでも人は右に左に動きまわっていて、ここだって間違いなく『シルビアのいる街』になりうるのだ、と。 それは作為として、そういうきれいな撮り方をして、撮れる場所を探したから、ということではなく、シルビアを探せ、と、そういうことなのではないか。
例えば、Frederick Wisemanのドキュメンタリーにあるような全ての要素を風呂敷の上に並べ、ひとつひとつの動きを丹念に追ってそれらをひとつの絵巻物として練りあげていく手法とは異なり、どの人物も情景も、すべては最初から狙っていったもの、時制と場所も整合していないように見える。
Guerínにとって、ドキュメンタリーであるべきかどうか、というのは割とどうでもよくて、我々の目はシルビアを追うレンズとなって、いろんな「工事中」の只中を彷徨う。
ラスト、娼婦とごろつきのカップルがおんぶしながらゆっくり歩いてくるとことか、いいよねえ。
Los Motivos de Berta (1984) - 『ベルタのモチーフ』
Guerínのデビュー作。
ベルタを追っかける、というよりは、ベルタ、というひとりの少女を原っぱのまんなかに置いてみたときにどんな映像が、映画が、目の前に広がってくるだろうか、というスケッチ、のような。
白いページの上に、Guerínはこんなふうに描き始めたのだ、と。
ベルタは母親と二人で暮らしていて、母は少し病んでいて、兄は軍隊に行って不在で、隣には男の子(ルイジト)とその父の二人親子が住んでいて、交流があるのはこの家族だけ。 彼女は学校にもいかず手伝いをしたりふらふらしながら日々を過ごしている。 ある日、ナポレオンの帽子を被った変なおじさんが近くに越してきて、いろいろあったらしいことを語っていた男は突然拳銃で自殺してしまう。男が死んだあとにいろんな人たちがやってくる。 どこからか映画の撮影隊がやってきてわからない言葉(英語)でなにやらやっている、などなどなど。
原っぱや森での遊び、カエル、焼けただれて置いてある車、壊されてしまう秘密基地、遠くの街からやってくる車、郵便、こちらの世界、原っぱの向こう側の世界、などなどなど。
いろんなスタイルで作っていったデモテープを丹念に繋いでみた、そんなかんじもする。
ベルタの内面には注意深く立ち寄らず、彼女と世界との間に出来始めた隔たりとそれが原っぱのなかでたてる小さな音を拾いあげようとする。
「モチーフ」の切り取り方に例えば、フォード、エリセが大好きな50代男性、の判りやすすぎる嗜好・傾向を見ることは簡単だが、それのどこが悪いのか。 映画はこういうところからしか始まらないのだねえ、と改めて思うのだった。
7.15.2012
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