21日の土曜日、髪切ってから見ました。 とにかく天気がひどすぎる、って何回書けば。
José Luis Guerín映画祭の、最後の(まだ見てないの残ってるけど。ああイニスフリー)、この期間内では最後の1本。 『影の列車』。
20~30年代に実在し、突然消えてしまった映画作家の家に残されていたフィルムを発見し、それを修復した、という説明が冒頭字幕で入って、以降、ナレーションも説明字幕も一切入らない。
最初は、この修復されたと思われる16mmフィルムそのものが流されていく。 田舎の風景、そこに暮らす映画作家とその家族のポートレート、など。 湖、ボート、ブランコ、女の子、男の子ふたり、自転車、そして列車。
その後でフィルムに映し出された田舎の現代の姿、車がびゅんびゅん走り、線路は草で覆われて、羊がいて、などが出てきて、カメラは今も遺されている映画作家の家に入っていく。 そこで作家が見たであろう窓からの光、夜の光景、雨、嵐、それらの音、などなどが映し出され、そうしていくと突然、作家が知覚したであろう光景がこっちのフィルム上に転移・侵入してくる(ように見える)。 フィルムの修復工事(工事中)を通して、過去の作家が見ようとした風景を現代の作家が見い出そうとするそのプロセスの只中で、(再び)見出される時、ふたりの焦点が合って、衝突しあうノイズが消えたその瞬間に起こることが起こるの。
映画を見るときに頭のなかに起こることって、こういうことだよね、というのをおいしい食べ物をゆっくりと咀嚼するみたいに見せてくれる。
自分の知覚域、自分の時間にはない別の時間と世界がなだれこんでくる、その瞬間の官能とその持続と。
『ベルタのモチーフ』もこの『影の列車』も、どこか遠くの隠れ里みたいなところで、魔法のようにそれは起こった。
『シルビアのいる街で』は、そういうのって都市の雑踏のなかでも起こるのだろうか? という問いかけだった。
あるいは、『ベルタのモチーフ』にあった3つの世界 - 子供の世界 - 大人の世界 - 映画の世界 - がここにもあるとか、ドキュメンタリーとフィクションのサンドイッチ構造について云々することもできるのかもしれないが、どれも割とどうでもいい。 とにかくうっとり陶然となって涎たらしてた。
ホラーでよく使われる手口のを、ホラーとは全く逆の甘美で緩やかな時間のなかにドラマチックに描こうとした。 いや、それは見方によっては十分ホラーかもしれなくて、実際幽霊みたいのも見えてしまうのだが、それでも美しいんだし、「彼ら」が蘇ることになんの問題があるだろうか。
朽ちていく16mmフィルム、そういうのに対する思い入れ、というのは確かにあって、それってなんだろう、と。
記憶の修復、思ひ出のあれこれを撚り集めて、あれってあんなだったかも、というひとかたまりの記憶とかイメージを作っていく作業って、フィルムの修復と似ているのか違うのか。 例えば今の子供たちが50年後にデジタル素材のなかに見るであろう自分達の家族の記憶、その色や明るさと自分達のはどれくらい違うのか。 腐食なんかとは無縁のデジタル素材は、我々の記憶のありようにどういう影響を与えるのかしら。
とりあえず、自分には関係ないからデジタルいらない、としていいや。
なんとなく、Jonathan Carrollの『死者の書』を思い出した。 他にもあるだろうけど。
あそこでも、列車は重要なイメージとしてあったよねえ。
あとは、音楽がとてつもなくすばらしくて、ずっと鳥肌がたってた。
シェーンベルクの『浄められた夜』があんなにもかっこよく、荘厳に鳴る映画があっただろうか。
ぜんぜん関係ないけど、ピランデッロの『カオス・シチリア物語』の翻訳が、なんで今頃でてるわけ?
25年おそいんじゃねえか。
7.24.2012
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