美術館関係の続き。 29日の土曜日の午後から。下の方におりていった。
Magnum Manifesto
BoweryのICP (International Center of Photography)での展示。
47年にRobert Capa、Henri Cartier-Bressonらによって設立されたMagnum Photosの70年を記念した回顧展で、このふたりのは勿論、Raymond Depardon, Elliott Erwitt, Joseph Koudelka, Sergio Larrain, Susan Meiselas, Martin Parr, W. Eugene Smith, Marc Riboud, Alec Soth, Dennis Stock, といった誰もが知っている大御所の写真だけではなく、動画や本やメディアなども含めて総括している。
で、それは単に写真を並べているだけではなく、二次大戦後の(西欧を中心とした)世界や社会がどう変貌していったか、それらが彼らの目はどう映ったのかをストレートに提示していて、知っている映像も多いのだが、結構重い。世界がよい方に向かっているとはぜんぜん思えないから。
なので、眼がついほんわかしたほうを求めてしまう。
Elliott Erwittの”Louise and Kitten” (1953)とか、ね。
そういうのも含めてここ70年間の写真表現がどう世界に刺さってきたのかを俯瞰できる必見の展示。
カタログはおめでたいバカナショナリスト共をぶん殴るのにちょうどいい仕様の武器にもなりそうなやつだったが、英国でも売っていた気がするのでやめて、通りの反対側のNew Museumに入る。
土日のここは天気がよければ屋上が開放されているので、まずそこに行って、おひさしぶりぃー、てその方角の誰かに向かっていう。 そこから4階 → 3階 → 2階の順で見ていく。 展示3つ、全て女性のアーティストによるもの。
Lynette Yiadom-Boakye: Under-Song For A Cipher
b.1977の英国の画家。照明を落としたフロアで、ここには珍しく大判の油彩のみ17点が並んでいる。 描かれているのはどれもAfricansの肖像で、情報がなければとても21世紀の画家の作品には見えない。ヨーロッパの伝統的な肖像画のそれに沿っているようで、でも描かれたひとりひとりの眼差しやポーズは明らかに現代のそれで、それがわかる、というところが肝心なのかしら。
Zadie SmithがNew Yorkerに書いた論評。
http://www.newyorker.com/magazine/2017/06/19/lynette-yiadom-boakyes-imaginary-portraits
あと、美術館のこの展示のサイトにあるオーディオガイドに入っている彼女の声がすばらしく素敵なので聞いてみましょう。
Kaari Upson: Good thing you are not alone
b.1972のLAのアーティスト。「ひとりじゃないって素敵なこと」
ビデオにインスタレーションに落書きのようなドローイングに盛りだくさん、思いっきりぶちまけてやったかんじで、でもウェットじゃないので気持ちよい。
インスタレーションは、大規模通販業の配送センターらしいところに”Idiot’s xxxx”(猿でもわかるxxx)のいろんなのが山のように積まれてて、その脇で配送員の死骸(マネキン)がごろごろ…
もっとやっちゃえー、感が満載でたまんなかった。
Carol Rama: Antibodies
イタリアのCarol Rama (1918-2015)のアメリカでは過去最大級の回顧展だという。
入り口に展示されている自画像(1937)がとてもかわいらしく素朴なかんじのやつなので、気を緩めてしまうと、そこから先、30年代末から今世紀初めまで、60〜70年代に抽象に向かったのを除けば一貫して強烈な”Antibodies”な、変換すると怒涛の下ネタのオンパレードで圧倒されるのだが、こちらも清々しさがいっぱい。 おらおらおら、あんたらが求めてるのはこんなもんだこれでもくらえー、って。
とっても感銘うけたのでカタログ買った。
MOMAは30日の日曜日、”Strange Weather”見た後、Panoramaに行く前に行った。
一番見たかったのは”Maureen Gallace: Clear Day”だったのだが、これは5th AveではなくてPS1でやっていることを着いてから知ってしょんぼり。
Frank Lloyd Wright at 150: Unpacking the Archive
生きていれば150歳になるFLWのお蔵出し。こんなお蔵、いくらでもありそうなのでざーっと流しただけ。
最初のコーナーが旧帝国ホテルに関するあれこれで、あーあ、しか出てこない。こんなに美しくてかっこいいてのに、もうないんだよ。移築すればいいってもんじゃないわよ。ほんっとにさー、最近のオリンピックの浮かれ具合もいいかげんうんざりだけど、東京ってほんとに世界でいちばん美しくない都になりつつあるよね。で、みんなそれでいい、あんなのがかっこいいと思ってるんだよね。ほんとやだ。
て、最初にそういうのがぐるぐる回りだしたので、後はあまり集中できなかった。
建築は基本建ったやつを見ないと、と思っているのだが、彼の図面はどれもかっこいいねえ。
Making Space: Women Artists and Postwar Abstraction
戦後から68年頃(フェミニズムが起動された頃)までの女性アーティストの抽象表現 - 絵画、写真、彫刻、テキスタイル、セラミック、などなど - の流れを同館の収蔵品を中心に並べたもの。 これも走り抜けるかんじだったのだが。
時間軸の切りとり方とこの時間で切るとしたときに、なぜ女性なのか - この時代にプロフェッショナルとして自立する女性アーティストが(男性と比べると)より多くでてきたから - というのが美術館の説明にはあるのだが、それと個々の展示内容があまり同期していない気がした。 だってふつう、大抵の抽象表現て、そういうクロノロジカルな同期や同調をぶっこわしたり拒絶したりする方向に機能するもんじゃないの? いや、そういうとこも含めて”Making Space”したのだ、と言われればはあそうですか、なんだけど。
美術館まわりは以上。 Brooklynも行きたかったよう。
8.06.2017
8.04.2017
[art] Rei Kawakubo / Comme des Garçons: Art of the In-Between
美術館関係をどうやって書いていくべきか、わかんないけどとりあえず書いていってみる。
29日の朝に、まずMetropolitanに行って10:00のオープンをまつ。
Irving Penn: Centennial
Metの壁の横断幕にでかでか貼ってあったのがこのExhibitionので、その写真はPennが1950年に奥さんのLisa Fonssagrives-Pennを撮った”Rochas Mermaid Dress”。
入口に彼の使っていたRolleiflex が置いてあって、そこから彼の70年に渡る全キャリアを約190枚で総括する。
ファッション写真は勿論、労働者や移民、静物、オブジェ、実験モノまでほんとにいろいろ。
元々画家志望だったせいもあるのか、いかに対象やモデルを美しくきれいに、かっこよく撮るか、ということ以上に、いかにその対象が印画紙上にその存在を、その影を、それがそこにある、ということを正確にきっちりと写し取るのか、ということに注力しているように思えた。
その点ではファッションモデルもタバコの吸い殻も同列の強度でそこにあるのだった。
動きをいかに流麗に、動きそのものとして撮るか、というテーマもあるし、その動きをもたらす軸や重心はどこにあるのかを見極めようとフレームを置く、そういうのもあって、Pennが追っているのは明らかに後者で(August Sanderとかも)、そういうのって見れば見るほどこっちも固まってしまうことになる。
ペルーの人々の存在感のすごさ、強さ、ってなんなのか、とか。
あと、彼がポートレート撮影の際に背景幕として使っていたもの - パリの古い劇場のカーテンだったという- が展示されていて、その爛れたようななんともいえないグレイの質感がよくて、写真と同じように眺めてしまうのだった。
Rei Kawakubo / Comme des Garçons: Art of the In-Between
METの今夏のファッションもの展示。
Fashion Instituteの方でやってるのかと思って行ったら反対側の西洋絵画の方だったので走って戻った。
展示会場のライティングは白で、青山のブティック(入ったことないけど)みたいに明るく見渡すことができて、フロアだけじゃなくて上の方にも並んでいて、一見お店みたいなのだが、展示されているもの個々のブツを覗きこんで、更にそのタイトルを見てみると結構戦慄する。
テーマは"Art of the In-Between"で、これだけ見れば日本的な「間」の追及かと思えないでもないが、勿論そんなんではなくて、西欧的な二項対立 - Absence/Presence, Design/Not Design, Fashion/Anti-Fashion, Model/Multiple, Then/Now, High/Low, Self/Other, Object/Subject - などなどが果てしなく生み出す分断とか融和の(無意識も含めた)ふるまいを個人の知覚触覚の一番近いところで着脱される衣服というものに適用してみたらどんなフォルムやシェイプやカラーが出てくるのかしら、ていう。
朝から晩まで、生まれてから死ぬまで、ずっと皮膚、表皮、(あるいは生殖器)の上に被さったり包んだり乗っかったりしているヒトの衣服というものは、成長とか老いとかいろんなイベントに応じたり適応したり飾りたてたり場合によっては逆らったりしながら、どんなふうにその貌を変容させていくのか、あるいはその逆に衣服のありようが、どんなふうにそれを着るひと、生、性、それを見るひとの意識や動きを縛ったり解いたりしていくのか、ていう思弁とデザインとの、あるいは思弁と欲望との、あるいはそれらと実際のブツとの、あるいはそれが置かれる空間との、いろんなIn-Between(s)とその果てしない掛け算。
例えば数年前のAlexander McQueenの回顧、あの展示内容を大ざっぱに”Primitive"と形容するのであれば、あれとの対比で"Avant-Garde"という形容を使うのはわかんなくもない。 でも個人的にはRei Kawakuboのファッションて、成り立ちと原理が明快で判りやすくて、それゆえに強い、てずっと思ってきた。 その結果として"Avant-Garde"と呼ばれてしまうのはあるのだろうけど。
なので、あーすげえかっこいいー、ばっかしだった。 これを80年代のわかりやすさ、と言ったら怒られるのかしら。
カタログと会場の詳細が描かれたExhibition Albumをふたつ買った(あわせて買うと割引で)。 Irving Pennのカタログは悩んで買うのやめて正解だった。両方買ったら重くてしんでた。
そこから上の方にのぼって11:00に開くNeue Galerie New York。
Richard Gerstl
ドイツの(分類上)プレ表現主義の画家 - 6年間の活動の後、25歳で殆どの作品や手紙を焼いて自殺してしまった彼のことはあまり知らなかったのだが、宣伝で使われているニカってかんじで笑う自画像とか青をバックにセミヌードの直立不動でこっちを睨んでいる自画像とか、ふつうこんな自画像は描かないだろやばいだろ、と思っていたらやはり相当にやばかった。
米国の美術館では初の回顧展だそう。
彼が描いた66点の絵画と8点のDrawingのうち55点が展示されていて、数はあまりないのだがどれも個々の作品がもたらす印象は強烈で、特に最後のほうの、ぼやぼやの輪郭だけになった人体とか、Schoenberg一家の塗り壁状態の肖像とか、同様に溶け崩れ始めている風景とか、なんかすごい。 Schoenbergとの交流 - 彼はSchoenbergの妻と関係を持ってそれが自殺の原因だったとされる - についてはSchoenbergの部屋がひとつあって、そこにSchoenbergの描いた自画像複数 - "Gaze" (1910) のほんものがあった- と、Gerstlの最後の作品と言われるSchoenberg夫人の顔のないヌードがあって、沢山のSchoenbergの顔と、顔のないヌードと、Schoenbergの音楽に囲まれてなんとも異様なかんじにとらわれる。 肉とか輪郭とかより、魂ってあるのかないのか、やっぱりあるように思えて、だとしたらそれはどんなふうに現されるのか、とかその辺をダイレクトにえぐってくるの。
カタログを買わないわけにはいかなくて(だってここのずっと買ってるし..)、結局重くて死にそうになりながらバスに乗って下のほうに向かった。
ここで一旦切ります。
29日の朝に、まずMetropolitanに行って10:00のオープンをまつ。
Irving Penn: Centennial
Metの壁の横断幕にでかでか貼ってあったのがこのExhibitionので、その写真はPennが1950年に奥さんのLisa Fonssagrives-Pennを撮った”Rochas Mermaid Dress”。
入口に彼の使っていたRolleiflex が置いてあって、そこから彼の70年に渡る全キャリアを約190枚で総括する。
ファッション写真は勿論、労働者や移民、静物、オブジェ、実験モノまでほんとにいろいろ。
元々画家志望だったせいもあるのか、いかに対象やモデルを美しくきれいに、かっこよく撮るか、ということ以上に、いかにその対象が印画紙上にその存在を、その影を、それがそこにある、ということを正確にきっちりと写し取るのか、ということに注力しているように思えた。
その点ではファッションモデルもタバコの吸い殻も同列の強度でそこにあるのだった。
動きをいかに流麗に、動きそのものとして撮るか、というテーマもあるし、その動きをもたらす軸や重心はどこにあるのかを見極めようとフレームを置く、そういうのもあって、Pennが追っているのは明らかに後者で(August Sanderとかも)、そういうのって見れば見るほどこっちも固まってしまうことになる。
ペルーの人々の存在感のすごさ、強さ、ってなんなのか、とか。
あと、彼がポートレート撮影の際に背景幕として使っていたもの - パリの古い劇場のカーテンだったという- が展示されていて、その爛れたようななんともいえないグレイの質感がよくて、写真と同じように眺めてしまうのだった。
Rei Kawakubo / Comme des Garçons: Art of the In-Between
METの今夏のファッションもの展示。
Fashion Instituteの方でやってるのかと思って行ったら反対側の西洋絵画の方だったので走って戻った。
展示会場のライティングは白で、青山のブティック(入ったことないけど)みたいに明るく見渡すことができて、フロアだけじゃなくて上の方にも並んでいて、一見お店みたいなのだが、展示されているもの個々のブツを覗きこんで、更にそのタイトルを見てみると結構戦慄する。
テーマは"Art of the In-Between"で、これだけ見れば日本的な「間」の追及かと思えないでもないが、勿論そんなんではなくて、西欧的な二項対立 - Absence/Presence, Design/Not Design, Fashion/Anti-Fashion, Model/Multiple, Then/Now, High/Low, Self/Other, Object/Subject - などなどが果てしなく生み出す分断とか融和の(無意識も含めた)ふるまいを個人の知覚触覚の一番近いところで着脱される衣服というものに適用してみたらどんなフォルムやシェイプやカラーが出てくるのかしら、ていう。
朝から晩まで、生まれてから死ぬまで、ずっと皮膚、表皮、(あるいは生殖器)の上に被さったり包んだり乗っかったりしているヒトの衣服というものは、成長とか老いとかいろんなイベントに応じたり適応したり飾りたてたり場合によっては逆らったりしながら、どんなふうにその貌を変容させていくのか、あるいはその逆に衣服のありようが、どんなふうにそれを着るひと、生、性、それを見るひとの意識や動きを縛ったり解いたりしていくのか、ていう思弁とデザインとの、あるいは思弁と欲望との、あるいはそれらと実際のブツとの、あるいはそれが置かれる空間との、いろんなIn-Between(s)とその果てしない掛け算。
例えば数年前のAlexander McQueenの回顧、あの展示内容を大ざっぱに”Primitive"と形容するのであれば、あれとの対比で"Avant-Garde"という形容を使うのはわかんなくもない。 でも個人的にはRei Kawakuboのファッションて、成り立ちと原理が明快で判りやすくて、それゆえに強い、てずっと思ってきた。 その結果として"Avant-Garde"と呼ばれてしまうのはあるのだろうけど。
なので、あーすげえかっこいいー、ばっかしだった。 これを80年代のわかりやすさ、と言ったら怒られるのかしら。
カタログと会場の詳細が描かれたExhibition Albumをふたつ買った(あわせて買うと割引で)。 Irving Pennのカタログは悩んで買うのやめて正解だった。両方買ったら重くてしんでた。
そこから上の方にのぼって11:00に開くNeue Galerie New York。
Richard Gerstl
ドイツの(分類上)プレ表現主義の画家 - 6年間の活動の後、25歳で殆どの作品や手紙を焼いて自殺してしまった彼のことはあまり知らなかったのだが、宣伝で使われているニカってかんじで笑う自画像とか青をバックにセミヌードの直立不動でこっちを睨んでいる自画像とか、ふつうこんな自画像は描かないだろやばいだろ、と思っていたらやはり相当にやばかった。
米国の美術館では初の回顧展だそう。
彼が描いた66点の絵画と8点のDrawingのうち55点が展示されていて、数はあまりないのだがどれも個々の作品がもたらす印象は強烈で、特に最後のほうの、ぼやぼやの輪郭だけになった人体とか、Schoenberg一家の塗り壁状態の肖像とか、同様に溶け崩れ始めている風景とか、なんかすごい。 Schoenbergとの交流 - 彼はSchoenbergの妻と関係を持ってそれが自殺の原因だったとされる - についてはSchoenbergの部屋がひとつあって、そこにSchoenbergの描いた自画像複数 - "Gaze" (1910) のほんものがあった- と、Gerstlの最後の作品と言われるSchoenberg夫人の顔のないヌードがあって、沢山のSchoenbergの顔と、顔のないヌードと、Schoenbergの音楽に囲まれてなんとも異様なかんじにとらわれる。 肉とか輪郭とかより、魂ってあるのかないのか、やっぱりあるように思えて、だとしたらそれはどんなふうに現されるのか、とかその辺をダイレクトにえぐってくるの。
カタログを買わないわけにはいかなくて(だってここのずっと買ってるし..)、結局重くて死にそうになりながらバスに乗って下のほうに向かった。
ここで一旦切ります。
[film] Strange Weather (2016)
30日の午前11:00、Panoramaに向かう前にVillage East Cinema - ここもなくなりませんように - でみました。
日曜の午前だと$8で入れるの。 客はぜんぶで4人くらい。
理由はSharon Van Ettenさんが音楽をやっているのと、こないだの"The Big Sick"でも見事なお母ちゃんぶりを発揮していたHolly Hunterさんがここでも母親をやっている、というのと、それくらい。
ひとりでどこか殺伐と暮らしているDarcy (Holly Hunter)は、旧友と会話しているうち、自殺した息子が死に至った原因は、彼が企画していたホットドッグチェーンのネタを当時の仲間に横取りされたからではないか、と直感的に思いあたり、当時を知る彼の友人達を手繰って今はそのチェーンで成功している野郎に会って真相を確かめるべく、Deep Southに向かって車を走らせる。
ストーリーとしてはこの程度で、母の怒りが渦を巻いて血が血を呼ぶ復讐の物語でも、埋もれてしまった過去を泥臭く掘っていく謎解きサスペンス、でもないの。
死んだ息子がもう帰ってこないことは十分わかっていて、それでもひとり残された家族としてなんらかの落とし前をつけよう/つけられるかも、って息子が自分の頭を撃ち抜いたときに使った銃を懐に入れて南に向かう - ガタガタした車と一本道が続いていくロードムービー的な色合いが濃い。
"The Big Sick"のときはややウェットだったHolly Hunterの母親っぷり(まあ、ここでの娘はまだ生きているし)は、この映画ではかさかさに乾いてそれでも最後のなにかを振り絞るような、刺し違えることだって厭わないような凄絶さがあって、特に最後に起業野郎のとこにたどり着いて問い詰めていくところなんて怖くて泣きそうになるのだが、容赦なんてかけらもないの。 失うものがなにもない女の強さを思いっきり叩きつけて振り返らずに去る。
そしてここにカントリーでも南方のR&Bでもなく、靴底を叩くようなSharon Van Ettenさんの重心低めのざらっとしたギター、そのモノクロの響きが空と道路を埋めていくのは正解としかいいようがなくて、そこだけ繰り返し何度でも見ていられて、ここがあるからこの映画はいいや、になる。
映画としての難をいうと、Holly Hunterさんひとりが突出してすごくて、そういうドラマなのでしょうがないのだろうが、ちょっとバランスがわるいかも。 旅の相棒にしても息子の旧友にしても、彼らをもっと面白く見せておけば、後でもっといろんな表情が出て、”Strange Weather”と呼べるような膨らみが出たとおもうんだけどー。
日本にも来てほしいけど、まずは”The Big Sick”からよ。
日曜の午前だと$8で入れるの。 客はぜんぶで4人くらい。
理由はSharon Van Ettenさんが音楽をやっているのと、こないだの"The Big Sick"でも見事なお母ちゃんぶりを発揮していたHolly Hunterさんがここでも母親をやっている、というのと、それくらい。
ひとりでどこか殺伐と暮らしているDarcy (Holly Hunter)は、旧友と会話しているうち、自殺した息子が死に至った原因は、彼が企画していたホットドッグチェーンのネタを当時の仲間に横取りされたからではないか、と直感的に思いあたり、当時を知る彼の友人達を手繰って今はそのチェーンで成功している野郎に会って真相を確かめるべく、Deep Southに向かって車を走らせる。
ストーリーとしてはこの程度で、母の怒りが渦を巻いて血が血を呼ぶ復讐の物語でも、埋もれてしまった過去を泥臭く掘っていく謎解きサスペンス、でもないの。
死んだ息子がもう帰ってこないことは十分わかっていて、それでもひとり残された家族としてなんらかの落とし前をつけよう/つけられるかも、って息子が自分の頭を撃ち抜いたときに使った銃を懐に入れて南に向かう - ガタガタした車と一本道が続いていくロードムービー的な色合いが濃い。
"The Big Sick"のときはややウェットだったHolly Hunterの母親っぷり(まあ、ここでの娘はまだ生きているし)は、この映画ではかさかさに乾いてそれでも最後のなにかを振り絞るような、刺し違えることだって厭わないような凄絶さがあって、特に最後に起業野郎のとこにたどり着いて問い詰めていくところなんて怖くて泣きそうになるのだが、容赦なんてかけらもないの。 失うものがなにもない女の強さを思いっきり叩きつけて振り返らずに去る。
そしてここにカントリーでも南方のR&Bでもなく、靴底を叩くようなSharon Van Ettenさんの重心低めのざらっとしたギター、そのモノクロの響きが空と道路を埋めていくのは正解としかいいようがなくて、そこだけ繰り返し何度でも見ていられて、ここがあるからこの映画はいいや、になる。
映画としての難をいうと、Holly Hunterさんひとりが突出してすごくて、そういうドラマなのでしょうがないのだろうが、ちょっとバランスがわるいかも。 旅の相棒にしても息子の旧友にしても、彼らをもっと面白く見せておけば、後でもっといろんな表情が出て、”Strange Weather”と呼べるような膨らみが出たとおもうんだけどー。
日本にも来てほしいけど、まずは”The Big Sick”からよ。
8.03.2017
[film] Brigsby Bear (2017)
場所はこないだCloseが発表されたHouston st.沿いのLandmark's Sunshine Cinemaで、Webster Hallといいここといい、Bowery BallroomもMercury Loungeも買われちゃうというし、かつての思い出の場所がみーんな取られていく。 取られるんだよ、文化なんて金づるとしか思ってない頭からっぽの金持ち共に。 東京でもLondonでもそうだけど、ほんとに胸糞わるい。
この映画館はブロックバスター系とシネマテーク系の中間にある、あんま当たらなそうな作品をあれこれいっぱい上映してくれて、広々としていて見易いし、ゆるゆるなので部屋を渡ることもできたし、本当に素敵なとこだったの。 残念でならない。
James (Kyle Mooney) とパパ(Mark Hamill)、ママの「親子」3人は隔離された施設のようなところで暮らしているけど一見普通の家族で、Jamesは毎日クマの被り物が悪いのをやっつけるTVショー"Brigsby Bear Adventure"を楽しみにしていて、ショーについてのコメントをネットで発信したりもしている。 でもある晩、星空を見ていたら彼方からパトカーがいっぱいやってきてJamesは連れていかれてしまう。
どういうことかというと、Jamesは子供の頃に彼がパパママと思ってきたふたりに連れ去られ、外界・外気に触れたら危険て摺りこまれて25年間の軟禁状態に置かれていた、と(パパママは当然逮捕)。 Brigsby Bearもパパママが自分たちでこまこま全てを手作り自演していて、ネットも外に出ていかないやつであったと。
まったく事情がのみこめないJamesのところにほんもんのパパとママと妹が現れてなんとか周囲に適応させようとするのだが、これまでの自分の生活とBrigsby Bearを失った衝撃があまりに大きくてセラピスト(Clair Danes)の言うことも耳に入らない。 他方で、彼の持っていたBrigsby BearのVHSが妹の友達とかに広がっていって、Jamesをかわいそうに思った刑事(Greg Kinnear)が押収された着ぐるみ一式を返してくれたあたりから、自分でBrigsby Bearのエピソードを作ってみよう、っていう方に転がっていくの。
もちろん、早くふつうの世界に馴染んでほしい実のパパママはおもしろくないし、彼自身がBrigsby Bear以外の世界・世間を全く知らないので困難は山のように降ってくるのだが。
これ、ものすごくおもしろかった。 人さらい〜拉致監禁犯がその子をものすごくちゃんと育ててしまったら、というのは里子に出す物語のバリエーションとしてあるかもと思うのだが、その「教育者」として微妙にかわいくない着ぐるみ熊を置き、さらにその子にオタク的な素地を植えこんでおいたら、単なるcoming-of-ageの物語に留まらない変てこなやつができあがる。
まともなところでいうと、自分でコンテを描いて、協力者を見つけて、俳優を志したこともある刑事に出演してもらったり、爆破シーンのために火薬を調合してみたり(→大事故)、刑務所の旧パパを訪ねて声を当ててもらったり、そういうこまこました自主製作を通して彼はいろんなことを学んでいくの。そうだよねえ、ていう納得できるとこがあるので、見たあとはとても爽やかな感触が残る。
やっぱり熊は変だけど。
上映後のQ&Aは、前日のBene Coopersmithと同様、主演のKyle Mooneyの、Jamesがそこにいるとしか言いようのない佇まいが強烈だったが、ふたりともSNL出身なのでずっと笑いが絶えない寄席状態になっていた。 このふたりがアイデアを出し合いながら練っていったらあんなんなった、と。 そうじゃろうなー。
音楽の話になって、たまに現場でGin BlossomsとかThe Mighty Mighty Bosstonesとか(Kyleのだって)、90'sの一発屋がかかると雰囲気がよじれた、とか言ってて笑った。
これは日本で上映されないとおかしいって。
"Brigsby Bear"って、Grizzly Bearがよじれたやつだから。 たぶん。 ねんのため。
この映画館はブロックバスター系とシネマテーク系の中間にある、あんま当たらなそうな作品をあれこれいっぱい上映してくれて、広々としていて見易いし、ゆるゆるなので部屋を渡ることもできたし、本当に素敵なとこだったの。 残念でならない。
James (Kyle Mooney) とパパ(Mark Hamill)、ママの「親子」3人は隔離された施設のようなところで暮らしているけど一見普通の家族で、Jamesは毎日クマの被り物が悪いのをやっつけるTVショー"Brigsby Bear Adventure"を楽しみにしていて、ショーについてのコメントをネットで発信したりもしている。 でもある晩、星空を見ていたら彼方からパトカーがいっぱいやってきてJamesは連れていかれてしまう。
どういうことかというと、Jamesは子供の頃に彼がパパママと思ってきたふたりに連れ去られ、外界・外気に触れたら危険て摺りこまれて25年間の軟禁状態に置かれていた、と(パパママは当然逮捕)。 Brigsby Bearもパパママが自分たちでこまこま全てを手作り自演していて、ネットも外に出ていかないやつであったと。
まったく事情がのみこめないJamesのところにほんもんのパパとママと妹が現れてなんとか周囲に適応させようとするのだが、これまでの自分の生活とBrigsby Bearを失った衝撃があまりに大きくてセラピスト(Clair Danes)の言うことも耳に入らない。 他方で、彼の持っていたBrigsby BearのVHSが妹の友達とかに広がっていって、Jamesをかわいそうに思った刑事(Greg Kinnear)が押収された着ぐるみ一式を返してくれたあたりから、自分でBrigsby Bearのエピソードを作ってみよう、っていう方に転がっていくの。
もちろん、早くふつうの世界に馴染んでほしい実のパパママはおもしろくないし、彼自身がBrigsby Bear以外の世界・世間を全く知らないので困難は山のように降ってくるのだが。
これ、ものすごくおもしろかった。 人さらい〜拉致監禁犯がその子をものすごくちゃんと育ててしまったら、というのは里子に出す物語のバリエーションとしてあるかもと思うのだが、その「教育者」として微妙にかわいくない着ぐるみ熊を置き、さらにその子にオタク的な素地を植えこんでおいたら、単なるcoming-of-ageの物語に留まらない変てこなやつができあがる。
まともなところでいうと、自分でコンテを描いて、協力者を見つけて、俳優を志したこともある刑事に出演してもらったり、爆破シーンのために火薬を調合してみたり(→大事故)、刑務所の旧パパを訪ねて声を当ててもらったり、そういうこまこました自主製作を通して彼はいろんなことを学んでいくの。そうだよねえ、ていう納得できるとこがあるので、見たあとはとても爽やかな感触が残る。
やっぱり熊は変だけど。
上映後のQ&Aは、前日のBene Coopersmithと同様、主演のKyle Mooneyの、Jamesがそこにいるとしか言いようのない佇まいが強烈だったが、ふたりともSNL出身なのでずっと笑いが絶えない寄席状態になっていた。 このふたりがアイデアを出し合いながら練っていったらあんなんなった、と。 そうじゃろうなー。
音楽の話になって、たまに現場でGin BlossomsとかThe Mighty Mighty Bosstonesとか(Kyleのだって)、90'sの一発屋がかかると雰囲気がよじれた、とか言ってて笑った。
これは日本で上映されないとおかしいって。
"Brigsby Bear"って、Grizzly Bearがよじれたやつだから。 たぶん。 ねんのため。
[film] Person to Person (2017)
28日の5時くらいにJFKに着いて、入国手続きは済んでいたので、空港の外には裏通路みたいなとこを通って簡単に出ることができて、こいつはいけるかも、だったのだが、Uberでマンハッタンに向かうとこのしょっぱな - Van Wyck Expyの夕刻の渋滞に見事にはまってうんざりして - もうさあー、ここの渋滞って30年くらいそのまま放置よね - ホテルに入るまでに1時間強かかって、でもなんとか、Russ & Daughters Cafeで新物のオランダニシン(! すごい)を頬張ってからMetrographの21時の上映に間にあった。 この映画はこの日が初日で、でも上映はこことLincorn Centerの2箇所だけで、監督たちは19時にあっちで挨拶して、21時にこっちで挨拶すると。
同じ時間枠、もういっこの部屋のほうではChantal Akermanの”From the East” (1993)をやってた。
この回とあと何回かは35mmフィルムでの上映(ちなみに撮影は16mm)で、NYが舞台で、っていうこと以外はあんま知らずに。
NYに暮らす、あんまぱっとしない人々のそれぞれのエピソードが並行して流れていって、交錯するとこもあればしないとこもある。 ロメールの短編オムニバスあたりが一番近いかも(「格言」はないよ)。 ちょっと変な人と人がじたばたうろちょろして、特になにがどう、ってもんでもないのだが、彼らが駆け抜けていった通りや街の空気感や季節のかんじだけが残り香のように漂う、そんなやつ。 最近あんま見ないかんじのインディペンデント映画どまんなかで、嫌いじゃない。
Red Hookの中古レコード屋のおやじ(Bene Coopersmith)がCharlie Parkerの超レア中古(赤盤)が手に入るかも、ていう電話を受けるところから始まる追っかけっことか、タブロイド紙(?)の記者・Editor(Michael Cera)と彼の元に見習いとして入った女の子(Abbi Jacobson)が金持ち未亡人のスキャンダル疑惑を追っかけて奮闘する話とか、自身のセクシュアリティとか体型とかにぐしゃぐしゃ悩んでカリカリしてばっかり、友達や近寄ってくる男の子とうまくいかない高校生(Tavi Gevinson)とか、個々のエピソードがものすごくおもしろい、というよりは、個々の登場人物が独特の臭気とか癖とか、いかにもそこらにいそうで、でもできればあんま関わりたくないかんじを醸していて、その連中のリレーとかそれぞれのトラックが勝手にお構いなしに流れていく、その、こっちだって忙しいんだしがんばってね、みたいな人と人の関わり模様は、確かにNY - マンハッタンでも下の方、それかBrooklynとかQueensのほう - で見たことがある気がして、その風景に昔のR&Bやソウルが被さるとそれだけでたまんないかんじになるのだった。
個人的にたまんなかったのは、取材対象を前に車内でメタルをがんがんに流して頭ぶんぶん吠えてから近づいていくEditorのMichael Ceraで、ああいうのなんかいそうかも。
上映後のQ&Aでは、監督のDustin Guy Defaと登場人物のBene Coopersmith、Isiah Whitlock Jr.、Eleonore Hendricksの4人が並んだのだが、なかでも中古盤屋のおやじを演じたBene Coopersmithさんのあまりのオーラのなさ、というか画面からそのまま出て来たでしょあんた、なかんじに圧倒されたのだった。
映画は2014年の同タイトルの短編を膨らませたものだが、違うアプローチでいろいろ試してみた、だって。
とっても好きな何度でも見たくなる作品だけど、日本での上映は200%ない気がする。 おもしろいのにー。
同じ時間枠、もういっこの部屋のほうではChantal Akermanの”From the East” (1993)をやってた。
この回とあと何回かは35mmフィルムでの上映(ちなみに撮影は16mm)で、NYが舞台で、っていうこと以外はあんま知らずに。
NYに暮らす、あんまぱっとしない人々のそれぞれのエピソードが並行して流れていって、交錯するとこもあればしないとこもある。 ロメールの短編オムニバスあたりが一番近いかも(「格言」はないよ)。 ちょっと変な人と人がじたばたうろちょろして、特になにがどう、ってもんでもないのだが、彼らが駆け抜けていった通りや街の空気感や季節のかんじだけが残り香のように漂う、そんなやつ。 最近あんま見ないかんじのインディペンデント映画どまんなかで、嫌いじゃない。
Red Hookの中古レコード屋のおやじ(Bene Coopersmith)がCharlie Parkerの超レア中古(赤盤)が手に入るかも、ていう電話を受けるところから始まる追っかけっことか、タブロイド紙(?)の記者・Editor(Michael Cera)と彼の元に見習いとして入った女の子(Abbi Jacobson)が金持ち未亡人のスキャンダル疑惑を追っかけて奮闘する話とか、自身のセクシュアリティとか体型とかにぐしゃぐしゃ悩んでカリカリしてばっかり、友達や近寄ってくる男の子とうまくいかない高校生(Tavi Gevinson)とか、個々のエピソードがものすごくおもしろい、というよりは、個々の登場人物が独特の臭気とか癖とか、いかにもそこらにいそうで、でもできればあんま関わりたくないかんじを醸していて、その連中のリレーとかそれぞれのトラックが勝手にお構いなしに流れていく、その、こっちだって忙しいんだしがんばってね、みたいな人と人の関わり模様は、確かにNY - マンハッタンでも下の方、それかBrooklynとかQueensのほう - で見たことがある気がして、その風景に昔のR&Bやソウルが被さるとそれだけでたまんないかんじになるのだった。
個人的にたまんなかったのは、取材対象を前に車内でメタルをがんがんに流して頭ぶんぶん吠えてから近づいていくEditorのMichael Ceraで、ああいうのなんかいそうかも。
上映後のQ&Aでは、監督のDustin Guy Defaと登場人物のBene Coopersmith、Isiah Whitlock Jr.、Eleonore Hendricksの4人が並んだのだが、なかでも中古盤屋のおやじを演じたBene Coopersmithさんのあまりのオーラのなさ、というか画面からそのまま出て来たでしょあんた、なかんじに圧倒されたのだった。
映画は2014年の同タイトルの短編を膨らませたものだが、違うアプローチでいろいろ試してみた、だって。
とっても好きな何度でも見たくなる作品だけど、日本での上映は200%ない気がする。 おもしろいのにー。
8.02.2017
[log] August 01 2017
7月28日のお昼くらいにCity Airportを発ったBAの1便ていうのはなんか小さい機体でほんとにアメリカまで飛ぶのかしらと思ったら、席がぜんぶビジネスで、直行せずにまずアイルランドのShannonに停まってそこで全員荷物もって一旦降りて、アメリカの入国審査はここでやって、1時間後にもう一回同じ席に戻る、ていう変なやつだった。 機内TVとかなくて、欲しいひとにはiPadとヘッドホンが配られるの。
帰りのは7月31日の19:30にJFKを発って、8月1日の朝7:00少し前にHeathrowに着いて、約22kgに膨れてしまったガラガラを転がして地下鉄のって、フラットの60数段の階段昇っておうちに入ったのが9:00少し前。 たるいので会社はやすむ。 洗濯して買いもの行って、昼寝は気持ちよかったけど半端にしか寝れない。
実質2.8日の滞在で、映画4本、美術館5つ、ライブひとつ、レコ屋2軒、本屋いっぱい、レストランあれこれ、アイスクリームいっぱい。 そんなもんか。
BrooklynにもQueensにも行けなかったし。Uptown2時間、Midtown1時間、あとはDowntown。
天気は土曜日だけ少し曇っていたけど雨にはならず、あとはひたすら気持ちよい陽射しかんかんのNYの夏で、本当は公園とかカフェでだらだらごろごろできればねえ、だったのだが。「本当はさー」の世界を騙し騙し生きているのがずうっと、20年以上続いている気がする。 やあねえ。
それと同じようにもっと感慨に浸ってぼーっとすべきだったのかもしれない。 でも町はものすごい勢いで変わり続けていてあーあー、なところだらけだった。新しい店ができていてもわーこれなんだろ、ではなくて、前にあったあれ、どこに行っちゃったのかな、の方が気になるとか、Closeや移転が決まっているお店はなくなっちゃうまでにもう一回来れるかな、とか心配のが先に来てしまう。 Trumpのやろう、とか言う以前にもうどうしようもないところまで来ていて、ノスタルジックななんかがそれ(を推進する連中とか)に抗するなんかになるわけがない、ということもわかっていて、じゃあどうするのか、ていうと古い映画でも見るしかないや、って。 70年代の映画に映っているNYはなんか素敵に見えて、じゃあそれと同じことが今のNYを撮っておいて40年後にそんなふうに見えたりするのか? そうは思えないのよね。
マンハッタンのスカイラインをあんな、歯並びのよくないガキみたいにしちゃって、誰に文句言ったらよいのだろう。
でもそうは言っても、歩いたり地下鉄に乗ったりバスに乗ったり町のある地点からある地点に移動している限りはひたすら心地よくて、(地下鉄の駅構内のうだるような暑さですら)心地よいままに目的地に着いたりしてしまうのでこれは魔法か、と思ったりしていた。 いや、ただの夏休みだっただけよ。
これと同じような感覚がやがてLondonでも湧いてきたりするようになるのだろうか? たぶんなる。 その感覚を呼び覚ます要素って、どんなものなのだろうね。 本屋? レコ屋? 映画館? 乗り物? 食べ物? 建物? 人々? 異国であること? 時間?
というようなことばかり最近考えるようになってしまったのは、やっぱりあれかー。
やっぱりさー、時間がなさすぎるんだよね。 ずっといられるんだったらこんなにジタバタしない。
ほんとに限られてるんだなーやだなー、って思ってばかりになったのは、歳とったからかしら。
いや、たぶんそいつがNYだからだ。
帰りのは7月31日の19:30にJFKを発って、8月1日の朝7:00少し前にHeathrowに着いて、約22kgに膨れてしまったガラガラを転がして地下鉄のって、フラットの60数段の階段昇っておうちに入ったのが9:00少し前。 たるいので会社はやすむ。 洗濯して買いもの行って、昼寝は気持ちよかったけど半端にしか寝れない。
実質2.8日の滞在で、映画4本、美術館5つ、ライブひとつ、レコ屋2軒、本屋いっぱい、レストランあれこれ、アイスクリームいっぱい。 そんなもんか。
BrooklynにもQueensにも行けなかったし。Uptown2時間、Midtown1時間、あとはDowntown。
天気は土曜日だけ少し曇っていたけど雨にはならず、あとはひたすら気持ちよい陽射しかんかんのNYの夏で、本当は公園とかカフェでだらだらごろごろできればねえ、だったのだが。「本当はさー」の世界を騙し騙し生きているのがずうっと、20年以上続いている気がする。 やあねえ。
それと同じようにもっと感慨に浸ってぼーっとすべきだったのかもしれない。 でも町はものすごい勢いで変わり続けていてあーあー、なところだらけだった。新しい店ができていてもわーこれなんだろ、ではなくて、前にあったあれ、どこに行っちゃったのかな、の方が気になるとか、Closeや移転が決まっているお店はなくなっちゃうまでにもう一回来れるかな、とか心配のが先に来てしまう。 Trumpのやろう、とか言う以前にもうどうしようもないところまで来ていて、ノスタルジックななんかがそれ(を推進する連中とか)に抗するなんかになるわけがない、ということもわかっていて、じゃあどうするのか、ていうと古い映画でも見るしかないや、って。 70年代の映画に映っているNYはなんか素敵に見えて、じゃあそれと同じことが今のNYを撮っておいて40年後にそんなふうに見えたりするのか? そうは思えないのよね。
マンハッタンのスカイラインをあんな、歯並びのよくないガキみたいにしちゃって、誰に文句言ったらよいのだろう。
でもそうは言っても、歩いたり地下鉄に乗ったりバスに乗ったり町のある地点からある地点に移動している限りはひたすら心地よくて、(地下鉄の駅構内のうだるような暑さですら)心地よいままに目的地に着いたりしてしまうのでこれは魔法か、と思ったりしていた。 いや、ただの夏休みだっただけよ。
これと同じような感覚がやがてLondonでも湧いてきたりするようになるのだろうか? たぶんなる。 その感覚を呼び覚ます要素って、どんなものなのだろうね。 本屋? レコ屋? 映画館? 乗り物? 食べ物? 建物? 人々? 異国であること? 時間?
というようなことばかり最近考えるようになってしまったのは、やっぱりあれかー。
やっぱりさー、時間がなさすぎるんだよね。 ずっといられるんだったらこんなにジタバタしない。
ほんとに限られてるんだなーやだなー、って思ってばかりになったのは、歳とったからかしら。
いや、たぶんそいつがNYだからだ。
8.01.2017
[music] Nine Inch Nails
NYから戻ってきました。他のPanoramaのも素晴らしかったが、こいつのために来たのだから、やはり別なんだから、先に書いておく。 30日の晩、21:20からの。
先にリリースされたEPも新曲郡も殆ど聴かない状態、"Twin Peaks"の映像も余り見ない状態で臨んだ。
事前の情報としてはAtticus Rossをライブメンバーに組み込んだということ、Bowieのカバーをやっていること、くらい。 これだけで数えて何度目かのリブート・ライブはどんなふうに見えて聴こえてくるのか。
ステージの背後には映像投影用の、ガーゼのように包帯のようにところどころ解れた大布が重なってはためき、各機材には夥しい量のテープの切れ端がこんがらがって絡みついてどうしようもない状態、ライブ直前にバンドからリリースされた写真はやはり同様にこんがらがったケーブルワイヤーの束どっさりがあり、Tシャツを買ってみれば"Add Violence"と書いてある(EPも)。 つまりは。
これまでレコーディング時の、コンソールとかモニターとかスクリーンとかの背後で隠密黒子として働いていたAtticusを表ステージに引っ張り出し、ベースは雇い入れずに Alessandro Cortiniにいいからおまえやっとけ、と押しつけて、つまりこれは総動員の即時の臨戦状態である、思いっきり、目一杯働け、音を出せ、ぶちかませ、そういうモードに入った、という理解でよろしいのか?
なんて冷静に思えるようになったのはライブ冒頭の洪水のような轟音とその音圧にパニックになってこれはなんじゃなにが起こったのじゃとあたふたしてだいぶ後になってからで、それくらいに問答無用のとんでもないやつだった。彼らのライブは節目節目でそれなりに追っかけて(ふられたりもな)してきたつもりなのだが、それでもまだこういうことが起こるもんなのね。だからライブは止めらんないなのよね。
3日間のフェスの大トリを務める貫禄もその復活祭を最大級の歓迎をもって迎える観客に応える慎ましさも余裕もない、なぜか塹壕トンネルに篭って決死の、最後の反撃を繰り出そうとする、あっけに取られている我々を半泣きしながらタコ殴りする、なにを/なんでそこまで? と思うもののその必死さがぶちまけられる音の壁から伝わってくるので圧倒されて、なんだろうこれは? と不思議な感触がやってくる。その繰り返し。
それでもこれは劇的な変貌を遂げた、というかんじはしなくて、ついに(うすうす解っていた)その本性をViolentに剥きだしにした、というのが正しいのではなかろうか。前作の「ためらい傷」、それに続くTension tour (2013) で自身が追求し続けてきた自虐、中毒、自壊、傷痕、腐蝕、といったテーマをひと通りなぞってみた後で、ためらっていてもしょうがねえ、と開き直って思いっきり踏みこんでみる。 そこにエスカレートしていくSMプレイの快楽やDavid Lynchふうアートの倒錯を見てもよいのだろうが、それだけだろうか? 今の「アメリカ」に対する何かがあったりはしないだろうか?
ここで彼らがカバーしたDavid Bowieの“I Can’t Give Everything Away”の冒頭のフレーズ - “I know something's very wrong - The pulse returns the prodigal sons” - 更にこの曲が参照している“A New Career in a New Town” (1977)、或いは彼らの最初の共演である”I’m Afraid of Americans” (1995)。 アメリカ(人)に対する畏れをわかっちゃいるけど再定義して、半ば諦め半ば開き直りでモグラ叩きをやっていくしかない。 もうだめかもだけど。 Blackstar -★
パーソナルな追悼という以上に、Bowieの遺作の最後の曲をおおまじで継ごうとしているのだと思った。もっとViolentな、彼の畏れたAmericansのやり方でね。
それにしても、何度でも繰り返すけど、とてつもなくぶっとく、分厚い音だった。 ライブでのAtticus Rossがあそこまで変則自在な飛び道具を用意してくるなんて想像もしていなかった。彼の電撃とIlan Rubinの爆撃、この2ピースが攻撃の軸で要で、残りの3人はその上で好き放題に引いたり押したり叩いたり - その辺の自由度と可変度は倍加していて、これがバンドとしてのNine Inch Nailsで、最後にTrentがぎこちなくメンバー紹介をしたのもそういうことなのよね。
ヤマは死ぬほどあったのだが、”Wish”とか”Reptile”の冒頭、鈍器で殴られてなにが起こったんだかわからなくなるような真っ白の瞬間がたまんなくて、あれはクセになるとおもった。
ヴィジュアルは一部過去の再利用しているのもあったものの、殆どがモノクロの塹壕のなかを小型カメラを持ちこんで撮ったような生々しいやつで、でもそれで十分だった。音に集中しろ、と。
Trentはタンバリンを死ぬほどぶっ叩いていたし、トラメガで怒鳴りまくっていた。 ご機嫌であった。
月曜日に発表になったWebster Hallのはさー。 予知能力があったら一泊延ばしていたのに、そしたらあの小屋にお別れもできたのに、ホテルまで歩いて3分だったのに。ちぇ。
Londonにもきてね。
先にリリースされたEPも新曲郡も殆ど聴かない状態、"Twin Peaks"の映像も余り見ない状態で臨んだ。
事前の情報としてはAtticus Rossをライブメンバーに組み込んだということ、Bowieのカバーをやっていること、くらい。 これだけで数えて何度目かのリブート・ライブはどんなふうに見えて聴こえてくるのか。
ステージの背後には映像投影用の、ガーゼのように包帯のようにところどころ解れた大布が重なってはためき、各機材には夥しい量のテープの切れ端がこんがらがって絡みついてどうしようもない状態、ライブ直前にバンドからリリースされた写真はやはり同様にこんがらがったケーブルワイヤーの束どっさりがあり、Tシャツを買ってみれば"Add Violence"と書いてある(EPも)。 つまりは。
これまでレコーディング時の、コンソールとかモニターとかスクリーンとかの背後で隠密黒子として働いていたAtticusを表ステージに引っ張り出し、ベースは雇い入れずに Alessandro Cortiniにいいからおまえやっとけ、と押しつけて、つまりこれは総動員の即時の臨戦状態である、思いっきり、目一杯働け、音を出せ、ぶちかませ、そういうモードに入った、という理解でよろしいのか?
なんて冷静に思えるようになったのはライブ冒頭の洪水のような轟音とその音圧にパニックになってこれはなんじゃなにが起こったのじゃとあたふたしてだいぶ後になってからで、それくらいに問答無用のとんでもないやつだった。彼らのライブは節目節目でそれなりに追っかけて(ふられたりもな)してきたつもりなのだが、それでもまだこういうことが起こるもんなのね。だからライブは止めらんないなのよね。
3日間のフェスの大トリを務める貫禄もその復活祭を最大級の歓迎をもって迎える観客に応える慎ましさも余裕もない、なぜか塹壕トンネルに篭って決死の、最後の反撃を繰り出そうとする、あっけに取られている我々を半泣きしながらタコ殴りする、なにを/なんでそこまで? と思うもののその必死さがぶちまけられる音の壁から伝わってくるので圧倒されて、なんだろうこれは? と不思議な感触がやってくる。その繰り返し。
それでもこれは劇的な変貌を遂げた、というかんじはしなくて、ついに(うすうす解っていた)その本性をViolentに剥きだしにした、というのが正しいのではなかろうか。前作の「ためらい傷」、それに続くTension tour (2013) で自身が追求し続けてきた自虐、中毒、自壊、傷痕、腐蝕、といったテーマをひと通りなぞってみた後で、ためらっていてもしょうがねえ、と開き直って思いっきり踏みこんでみる。 そこにエスカレートしていくSMプレイの快楽やDavid Lynchふうアートの倒錯を見てもよいのだろうが、それだけだろうか? 今の「アメリカ」に対する何かがあったりはしないだろうか?
ここで彼らがカバーしたDavid Bowieの“I Can’t Give Everything Away”の冒頭のフレーズ - “I know something's very wrong - The pulse returns the prodigal sons” - 更にこの曲が参照している“A New Career in a New Town” (1977)、或いは彼らの最初の共演である”I’m Afraid of Americans” (1995)。 アメリカ(人)に対する畏れをわかっちゃいるけど再定義して、半ば諦め半ば開き直りでモグラ叩きをやっていくしかない。 もうだめかもだけど。 Blackstar -★
パーソナルな追悼という以上に、Bowieの遺作の最後の曲をおおまじで継ごうとしているのだと思った。もっとViolentな、彼の畏れたAmericansのやり方でね。
それにしても、何度でも繰り返すけど、とてつもなくぶっとく、分厚い音だった。 ライブでのAtticus Rossがあそこまで変則自在な飛び道具を用意してくるなんて想像もしていなかった。彼の電撃とIlan Rubinの爆撃、この2ピースが攻撃の軸で要で、残りの3人はその上で好き放題に引いたり押したり叩いたり - その辺の自由度と可変度は倍加していて、これがバンドとしてのNine Inch Nailsで、最後にTrentがぎこちなくメンバー紹介をしたのもそういうことなのよね。
ヤマは死ぬほどあったのだが、”Wish”とか”Reptile”の冒頭、鈍器で殴られてなにが起こったんだかわからなくなるような真っ白の瞬間がたまんなくて、あれはクセになるとおもった。
ヴィジュアルは一部過去の再利用しているのもあったものの、殆どがモノクロの塹壕のなかを小型カメラを持ちこんで撮ったような生々しいやつで、でもそれで十分だった。音に集中しろ、と。
Trentはタンバリンを死ぬほどぶっ叩いていたし、トラメガで怒鳴りまくっていた。 ご機嫌であった。
月曜日に発表になったWebster Hallのはさー。 予知能力があったら一泊延ばしていたのに、そしたらあの小屋にお別れもできたのに、ホテルまで歩いて3分だったのに。ちぇ。
Londonにもきてね。
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