10.23.2026

[thatre] Christopher Rüping "Gier (Crave/渇望)" by Sarah Kane

10月18日、日曜の夕方、東京芸術劇場のプレイハウスで見ました。
舞台芸術祭「秋の隕石2026東京」(アーティスティック・ディレクター:岡田利規)の演目のひとつ。

原作は英国の劇作家Sarah Kane(1971-1999)による”Crave” (1998)、同年エジンバラで、Kaneがwriter-in-residenceをしていたPaines Ploughによって初演された。彼女にとって4作目(遺作のひとつ前)の戯曲で、彼女の過去の戯曲の暴力描写がもたらす印象や偏向を避けるべくMarie Kelvedonという筆名で発表されたそう。演出はドイツのChristopher Rüping。

休憩なしの105分。舞台の奥正面にスクリーンがあって、最初はドイツ語タイトルの”GIER”が中央小さめに投影されている。スクリーン上部に日本語の字幕、英語字幕対応は別デバイスになるらしい。向かって左手に、右側を向いた椅子とそれを収めようとする撮影スタジオのような機材が一式、ステージ手前右に鍵盤兼指揮者、その並びに客席の方を向いたライブの弦奏者が3名。

舞台に出てくる俳優は男2,女3の計5名。原作では、A, B, C, Mの4名のみで、それぞれ名前も属性も役割も明らかにされていないが、原作者が過去のインタビュー等で、A (Author, Abuser) – 年長の男性、B (Boy) – 若い男性、C (Child) – 若い女性、M (Mother) – 年長の女性である、と大枠を語っている。彼らは地味な服装でばらばらの動きをして、会話になるようなならないような短いフレーズのような台詞を互いにだったり世界に向かったり - 吐き、でも会話を深めたり一緒に動いたりすることはない。そして原作の設定にはない女性(Wiebke Mollenhauer)が左手の椅子に座り、白バックに彼女の顔を中心に置いた画像がライブでスクリーンに大きく映しだされる。彼女だけは最後まで喋らず、他の4人は彼女に向かってそれぞれ自分たちの言葉をばらばらと投げて、彼女はそれを無言で受けとめていて、たまに表情を変えたりするが、そこから動くことは許されていないよう。

AがCに何か言ったり、MがBに何か言ったりはあって、それによって近寄ったり遠ざかったり、自由な4人はダンスのように動いたりもするが、それらはすべて舞台中央の彼女の表情、その動きに吸い込まれていくようにも見える。

5人目の女性が誰なのかについては、いろんな解釈が成り立つだろう。原作者のSarah Kane自身と取ることもできるし、見ている観客 – 我々自身、ということもできるし、それよりもう少し広くて遠い、所謂傍観者・観察者ということも。自分はアニメーション映画 “Inside Out” (2015)の主人公の頭のなかに湧いてでて彼女の頭や行動を統御していくエモに近いようなやつらに近いのではないか、と思った。答えはそれぞれで、正解なんてない、のだろうが。 そして、この5人目の人物によって全体を見渡しやすくなった、とは思ったものの、そのわかりやすさはかえって危険だったりしないか? とも。

劇の終わりのほうで、女性は突然メイクを始めて、しばらくするとそのメイクを自分で崩しはじめ、最後には思い切ったように全てをきれいに拭い去って、『外の世界は過大に評価されすぎている』というフレーズを残し、椅子を立ってステージ~劇場を抜けて池袋の街に走りだす (その後ろ姿をライブカメラが併走して捕らえていく)。

ここまでくるとメッセージとして見えてくるものはあるのだが、原作にない設定のキャラがここまで終わりを巻きとってしまってよいのか? は当然あって、しかもそれが、分裂~混沌~統合~解放・引き受け、のようなわかりやすいストーリーラインに沿ったものに見えたので、こんなのでよいの? って思った。 こんなようなアタッチメントを許容する抽象度、自由度をもった原作なのかもしれないし。でも、最後あんなふうにプールに飛びこんじゃうことができるのなら幸せなのよ。(ビルから飛び降りたらどうしよう… って思った)

原作戯曲のエンディングがどんなものなのか知らないのだが、「(それでも)さあ、街へ出よう!」みたいのはどうなのかしら、にちょっとだけなった。 Wiebke Mollenhauerの笑顔はとても素敵だったのだが。

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