10月13日、火曜日の晩、シネマリスの橋本愛特集で見ました。
もう約10年前の作品で、公開時はロンドンにいたので見れなくて、向こうであー見たい、と思ったことを思い出し、この特集での最終上映にどうにか滑りこむ。
2014年にバウスシアターがなくなり、オーナーだった本田拓夫さんが吉祥寺と井の頭公園を舞台にした映画を作りたいと思い、そこに井の頭公園の開園100周年という節目が重なり.. という官民共同(じゃないけど)のような、周囲からいろいろ被さってくるのはとっ散らかって恥ずかしいものになってしまいがち、の偏見を軽く蹴っとばす、素敵な音楽映画になっていた。 尚、この上映は先の8月に亡くなられた本田拓夫さんの追悼も兼ねて、とのこと。
(本当はFrederick Wisemanにドキュメンタリーを撮ってほしかったかも)
映画館が町と共にあって、そこで上映される映画が人を育てて、その人は必ず映画館に、その町に戻ってくる、という鮭の回遊みたいな話は、戻る先の映画館がなくなったらどうなってしまうのか… ということを切々と訴えたのがこの作品と次の『BAUS 映画から船出した映画館』 (2024)だったと思うのだが、だからいまこんなんなっちゃったんじゃないか!! ということはずっと思っている。町を形づくるものはなんなのか、という問い。 それは公園と美術館と映画館と図書館と本屋と劇場とライブハウス、なんだよ。文化が根を張って育っていくための苗床。ロンドンとNYをみてみ。
監督・脚本・編集は瀬田なつき、音楽はトクマルシューゴ、配給はboid。
吉祥寺のアパートに暮らす大学生の吉永純(橋本愛)は、恋人にはふられて卒業も危うくて、そこに陽気なハル(永野芽郁)が訪ねてくる。彼女は亡くなった父について小説を書こうとしていて、父の恋人がここに暮らしていたらしい、とアパートの写真をもってきて、純はすることもなかったので付きあうことにして、その恋人がその後に住んだ家にたどり着くと、既に亡くなっていた彼女 - 佐知子の孫だという時生(染谷将太)が出てきて、こいつも暇だったのでみんなで家のなかを探していったら、遺品の箱からオープンリール・テープが出てきて、再生してみると、ハルの父と佐知子が一緒に歌っているのが聞こえてきて、でもテープの音は途中までだったので、この歌の先をどうにかしよう! っていう話と、その曲を公園のフェスで披露しよう! っていう話が重なって、なんだか盛りあがっていくの。
ハルの父と時生の祖母はどうして別れちゃったのか、そういうどろどろした話はなし、悪い人は出てこない、恋愛もなし、3人がこれからどこに行くのかもわからない、公園と音楽だけで走りぬけていくミュージカルで、音楽を介して時を超えていろんな人たちが公園に集まってくるよ、きたよ、というおはなし。 これと交錯するかたちで家族史とここからの船出を描いたのが『BAUS…』 で、公園と映画館が吉祥寺という町を作った、それに関わったり通り過ぎていったりしたいろんな人たち、その盛衰を掴まえてきた映画という(メディアとは呼びたくない)でっかい反射板のようなやつについて。
簡単に音楽が人を繋いだり癒したりしないのもよかった。曲を作る、それを鳴らす、聞いてもらう、それを公園の光と風の中でやる、歌う。そこに浮かびあがってくるかつての恋人たちの姿 – PARKS。
約10年前、コロナが覆う前の、公園や花びらの輝度とか、人と人の間の距離のとりかたも、今とはちょっと違う気がする。自転車で抜けていく風のかんじもなんだか(気のせい)。コロナ後の『BAUS…』と続けて比べてみたかったかも。
テーマもスケールもぜんぜん違うのだが、それぞれに抱えていて大変な、アーケードとブティックを舞台にした”Golden Eighties” (1986)を - なんだかこっぱずかしくなるところも含めて - 思いだしたりした。
最後に流れる相対性理論の『弁天様はスピリチュア』から大友良英から牧野琢磨まで、公園で鳴る音を寄せて彼方に掃き散らかしたようなサウンドトラックもすばらしく豪華。
しかしBAUSもなくなり、大島弓子先生も描かなくなってしまったので、吉祥寺はどこかの遠い星のようになってしまったねえ。(ロンドンより遠いかも)
10.20.2026
[film] PARKS パークス (2017)
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