5月9日、土曜日の夕方、ル・シネマ 渋谷宮下で見ました。
なんとなく新作も見なきゃ、にたまになる。 邦題は『ドランク・ヌードル』。 2025年のカンヌの、ACID(思っていたのとぜんぜん違う略語だった) sectionというところでプレミアされている。
監督はアルゼンチン生まれのLucio Castro。どこかで見たような、と思ったら、デビュー作の“Fin de siglo” (2019) – “End of the Century”をコロナ禍のロンドンで、Curzonの配信で見ていた。これもどこかの町にふらっと現れた男がなんとなく性的なことなどをしてだらだらと終わるだけの話だったような。でもそれが不思議と風通しよくて。
タイトルからアジアのお話かと思ったら冒頭に出てくるのはブルックリンの町(アジアは最後の方にちゃんと)で、荷物を抱えた若者Adnan (Laith Khalifeh)が一軒の家に入って暮らし始める。あとでその家は長期で家をあけている彼の叔父のものであることがわかる。家のなかにはぜんぜん近寄ってこないけど、にゃんこも生息している。
彼はアートの勉強をしている学生で、そこに滞在している間だけ路面のアート・ギャラリーで受付のバイトをしている。もの静かで落ち着いていて何を考えているのか不明、夜は宅配でご飯(べちゃべちゃ正体不明のもの)をオーダーして、自転車でやってきたデリバリーの人と公園の暗がりで秘め事(としか言いようのない描写)をしたりしている。
そうやって知り合ったYariel (Joel Isaac)がギャラリーまでやってくる。冒頭にニードル・アートでタイトル”Drunken Noodles”を編んだりしている手が映されたりするのだが、ギャラリーではそれと同じ仕様のクィア・ニードル春画がいくつも展示されていて、それに感銘を受けてしまったらしいYarielが仲間たちを連れてやってくる。こういうことが紙芝居のようなリズムで淡々と展開されていく。
あと、山を訪れたAdanの自転車がパンクして引きずって困っていたらそこにいた白髪で半裸の仙人みたいな老人が修理して歓待してくれて、かのニードル・アートは彼の作品(実際のアーティストはSal Salandraという人らしい)であることがわかるのだが、外が暗くなってくると、老人が見せたいものがある、ってAdanを外に連れだして夕闇のなかじっと座って待っていると、どこからか牧神が現れて… このエピソードがとても素敵。
もの静かなAdanから、彼の考えや志向、欲望から夢まで、こちらに向かって語られたり示されたりすることは一切なくて、ただ幽霊のように暗がりに現れるクィアな人々の間を彷徨っているだけで、そこで浮かびあがってくるのは都会の狂気でもパラノイアックな孤独でもなく、ソーシャルにも届かないような玉突き - 半分夢を見ているようにそこにいるだけ、の状態がちょっと湿った空気感、理想的な陰多めの光の具合のなかで描かれている。この展開がリアルかリアルじゃないか、のような議論は、春画をみてその本物具合をあれこれ言うのとおなじく意味がない、というかそういうのを無粋、っていうの。
そういう彷徨いの最後にやや唐突現れる李白の酔っ払いの詩が現代のブルックリンと唐の時代をニードルの縫い縫いで結び付けて、そのスケールのありようはホラー味のないApichatpong Weerasethakulのようかも、と思った。
ニードルの編みアート、というのがよいのかも。同じニードルを使ってもタトゥーとか注射とかになるとトーンががらりと変わってしまうだろうし。
山のなか、別にいけないことはしていないが、どこか怪しく見えてしまうことをして愉しむ男たちの話、でいうと、Kelly Reichardtの”Old Joy” (2006)とか、ついこないだのIndia Donaldsonの”Good One” (2024)とか。”Drunken ~”というのもポジティブな言葉と見ておけば。
どうでもよいことだが、この日は、朝からブレッソンを2本続けてみて、スタージェスを1本みて、これをみて、その全部が90分以下の作品だった。とても丁度よくて快調なかんじ。
5.13.2026
[film] Drunken Noodles (2025)
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