11月24日、月曜日の番、 Curzon SoHoで見ました。
ものすごーく評判が悪いことも、その理由もだいたいわかっていて、でもNoah Baumbachの新作だから、と。
脚本はBaumbachとEmily Mortimerの共同。LFFでも上映されてなにやら盛りあがっていた。
George Clooneyがハリウッドのトップクラスのスター俳優Jay Kellyで、新作を撮り終えたばかりだが、疎遠になっていた下の娘(Grace Edwards)からは煙たがられ、自分を育ててくれた監督(Jim Broadbent)は亡くなり、その葬儀で駆け出し時代のライバルだった友人(Billy Crudup)と再会したら殴りあいになり、トスカーナの映画祭で生涯功労賞を授与したいので来てほしい、という依頼も突っぱねようとしたらずっと傍にいるマネージャーのRon (Adam Sandler)から説得されて、丁度娘のヨーロッパ旅行を追っかけるかたちでパリからトスカーナへの普通列車に乗りこむ。その旅の顛末を通して彼に去来する過去のいろんな後悔から感動の授賞式まで、という映画で、George Clooney主演のこんなお話しを見たいと思うのはNespressoのCMも含めて彼のことが大好きな人なのだろうな、と思って見ていた。
George Clooney的なキリッとした二枚目風が面倒な事態を解決してくれる物語が万人にもてはやされた時代の終焉を、NYでもロンドンでもない、トスカーナの田舎まで運んで告げようとしているのか、などとも思ったのだが、ラストの方はどうみても感動的なところに落とそうとしているのでうーむ、ってなる。
こういう設定の映画であるなら、例えフィクションであっても、主演を演じるスター俳優はそれなりの実績と人気のある人がやるべきだと思うのだが、そもそもGeorge Clooneyって、そういうレベルの人なの?(別に嫌いではないよ) いろんなプロモーションとか、マネジメントはしっかりしている印象はあるけど、それだけなんじゃないの? これの主演も、その延長でしかないんじゃないの? とか。うまくこなせているならよかったね、だけど、こっちの先入観のせいか、それらも含めてぜんぶが冗談のようなGeorge Clooneyプロモーション映像にしか見えない。
それよりもさー、主演以外にはAdam Sandlerがいて、Laura Dernがいて、Greta Gerwigまで出てくるのに、イタリアからAlba Rohrwacherまで出ているのに、なんでストレートにコメディにしないの? “While We're Young” (2014) でも”Mistress America” (2015)でも、居場所とか立ち居振る舞いがわかんなくなった主人公が意地になって散らかして転げ回って大変!って、得意だったじゃん? なんで主人公を中心にした”This is 60”をやらないのだろうか?
それとかさー、映画 - パーフェクトで完結した世界 - を作る/作ってきた当事者の精神の危機、はこれまでも映画のテーマにはなってきて、別の夢の世界に逃げこんだり、外部からなんらかの助けや啓示があったりだったと思うのだが、ここでは、彼がおかしくなりすぎて信頼してきたスタッフがだんだん離れていって、さてどうするのか、ってなっているところで、授賞式での編集されたレガシー映像みたら自分で自分に感動して治っちゃう、ってどういうこと? そんなんで解決できるなら、ただ周囲を振り回しているだけの我儘ナルシストでしかないし。パワハラ上司とかがちょっと優しくされたら和んじゃうようなよくある話? とか。
勘違い系のじじいがそのまま勘違いしそうな内容のところも含めて、あーあ、になるのだった。
12.01.2025
[film] Jay Kelly (2025)
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