12.02.2025

[theatre] Hamlet

11月22日、土曜日のマチネを、National TheatreのLyttelton Theatreで見ました。
この日の晩が最終で、見逃すところだった。

10月に見た”Bacchae”は、National Theatreの新芸術監督に就任したIndhu RubasinghamのNTでの初演出作だったが、これは彼女と同じタイミングで副芸術監督に就任したRobert HastieのNational Theatre演出デビュー作。原作(1601)はもちろんシェイクスピア。休憩を挟んで全2時間50分。

これ、もうじきNational Theatre Liveでやるし、来年春にはBrooklyn Academy of Musicにもいくのかー。

最初に”Hamlet”と大書きされた黒の幕が掛かっていて、幕があがると割とモダン、ところどころ(背景の絵とか)クラシック。登場人物たちの服装もスーツだったりジャージ姿だったり、一応モダン劇の体裁だが、6月にRSCで見た”Hamlet Hail to The Thief”のようにばりばりに外側から固めたイメージはない。会話のやりとりを中心に人が動いて動かされて、その範囲で視界や舞台がばたばたと変わっていって留まるところがない、どこに連れていかれるかわからない、そんなイメージ。

デンマークの王子Hamlet (Hiran Abeysekera)が父王の死にそれにまつわる陰謀を聞いて、復讐を誓って、王室を中心にいろんな人たちが動きだしていくなか、みんな狂ったり殺したり殺されたり、だんだん人がいなくなっていく様が描かれていく。

ものすごく沢山上演されているこの有名な悲劇について、まだ見始めたばかりなので、これからいろんなのを見ながら所謂「スタンダード」なところ、外してはいけないところ、悲劇の「悲」とか、ドラマチックと言うときの「ドラマ」とはなんなのか、などを中心に考えていけたら、と思ったりするのだが、シェイクスピアの劇のおもしろさって、そのひとつ上(or 下?)の段から、なんでこの人(たち)はここでこんなことをしたり、笑ったり嘆いたりキスしたりしているのか、というような、ヒトの根本的な挙動とか受け応え、それらが積み重なって渦を巻いて「事件」や「劇」の相をなしていくところまでの異様さ不可思議さにまで踏みこんでいる気がして、ああ(ドラマの)沼というのはこういうのなのかも、って今更ながらに思ったりしている。

この劇については、まずHamletがそんなに狂っている、ある考えに憑りつかれているようには見えない、というのがある。(なんとなく挙動とか謎めいた笑みとか、どこかPrinceを思わせたり - Princeの話だし) 狂っているのか狂っていないのかが量れなくて、後半冒頭の”To Be or Not to Be”のところも、心ここにあらずの呟きで、他の台詞も少しどんよりしていて普通に喋っているだけなのだが、周囲もハレものに触るようにいちいちびくびくしていたり、ピストルを撃つのも、フェンシングをやるのも、死んでいくのも、感情を表に出さず、ぼやけた無関心のなかなのかすべてを悟ってしまっているのか、諦めているのか、それでも劇の時間が止まることはない。

そんな彼と対照的なのが、Ophelia (Francesca Mills)で、体の小さな彼女は目一杯走りまわり、歌をうたい、声をあげ、届かないからそうしているのか、そうしないと届かないのか、その痛切さが最後まで残る - エモーショナルになるとこはこれくらい。

あとは会社員のように銀行員のようにきちきちと動きまわって機械のようなRosencrantz (Hari Mackinnon)とGuildenstern (Joe Bolland)のふたりとか。 あまり喋らないけど最後までHamletの傍に付き添っている母のようなHoratio (Tessa Wong)とか。

この悲劇から劇的な振る舞いや言動をそぎ落としてプレーンな - それでもそこそこ十分に通じる - ドラマにしてみた時、そこにある悲しみや怒りはいったいどんなふうに見える - 伝わるものなのか。という実験? 血族の諍いとか普遍的な何かに通さずに見た時にどう見えるのか - それでも十分に変で不気味でなんだかおもしろいのだった。

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