10月8日、水曜日の晩、Park Theatreの大きい方(200)で見ました。
原作はJane Uptonの戯曲、演出はAngharad Jones。90分休憩なし。客層は8割くらいが女性。
ポスターはピンクを背景にペンを手にしてノートを開いた女性がなんなのこれ? っていう困惑の表情でこちらを向いて何かを訴えようとしている。彼女の周りには日常のいろんなものがぐしゃぐしゃに飛び回っている。
最初は薄いピンクの衝立がある病室で、主人公のM (Lizzy Watts)が出産して赤子を抱えてベッドから立ち上がり、ここからいろいろ始まる。背後にはLEDの掲示板があって、Mの頭に浮かんだこととかシーンのタイトル、テーマらしきものが都度吹き出しのように投影されては消えていく。
劇作家でもあるMは次作(戯曲)の相談をしに出版社に向かうと、応対してくれた編集者(男性2名)はやたら丁寧に気を遣ってくれる - “sorry”って言うの禁止ね、とか - のだが、彼女がmotherhood - 「母性」をテーマにしようと思う、というと微妙に様子が変わって、それはすばらしい… けど犯罪とか憑依された赤ん坊とかミュージカル設定を入れよう、とかよくわからない条件 - ちょっと怖そうな要素 - をつけられてなんだそれ? になるとか、赤子と一緒にいても、仕事の会議中でも、友人とNight Outしてても、夫とセックスしていても、どんなシーンでも、自分の中から他人の態度からとても微妙な形で立ち昇ってきてケアされるのを待っているんだか嫌忌されているのかわかんない厄介なmotherhoodのこと - 所与としての子供のケアから面倒から、それに関わる自分のアップダウンに(初めてだから当然の)余計な懸念に心配、そんな自分を気遣ってくれたり触らないようにしてくれる周囲の人たち、など、カッコつき小文字の(the)としてデフォルトでついてくるあれこれをスケッチしていって止まらない。やろうと思えば3時間くらいのネタはあるのではないか(やってほしい)。
こんなふうに、「当事者」である母親ですら困惑して立ち尽くしてしまうmotherhoodについて、ふざけんじゃねえよどうにかしろ! って怒鳴るというより、こういうことになってしまうのはなぜ?なんで? を投げてきて、その困惑の深さ故に控えめに見えてしまうが、どうにかしないと、ってみんなが思っている - ということは客席の反応を見ていても感じた。
これ、育休とか制度の導入とか、”work–life balance”のようなバランスでどうにかできるようなことではなくて、基層とか前提に近いところ(を変えないとどうにもならない)のお話しなのだと思った。それくらい大変だから近寄らない、のではなく。
プログラムはなくて、スクリプトを買ったら冒頭にDeborah Levy, Miranda July, Virginia Woolfらの見事な引用があってそうだよねえ、になった。
Romans: A Novel
10月9日、木曜日の晩、Almeida Theatreで見ました。
原作は”Lady Macbeth” (2016)を書いたAlice Birch、スクリプトは人気なのか売り切れていた。
前日はMotherhoodのお話しだったが、この日はMasculinity - 男らしさ - がテーマとなる。演出はSam Pritchard。舞台の背景はシンプルな黒で、でも漆黒ではなく、見ているとカビのような星雲のようなものがうっすらと浮かびあがり形を変えていく。後半に入るとプールができたり回転したりする。
Victoria朝の時代から現代まで約150年間、男が生まれることを強く望んでいたごりごり家父長制の家長のもとに生まれた3兄弟 - Jack (Kyle Soller) , Marlow (Oliver Johnstone), Edmund (Stuart Thompson)がどんな生涯を送ることになったのかを寓話風に描いていく。
寄宿学校に送られて虐めに耐え抜いて強い兵士となり、二度の世界大戦を経てニューエイジ風カルト教団の教祖になって失墜するJack、虐待によっておかしくなって苛める側に立ってビリオネアのサディストになってしまうMarlow、最後まで自身のジェンダーも含めて馴染めないまま閉じこもっていくEdmund。
モダンからポストモダンまで、どのキャラクターも、映画なり小説なりでいくらでも描かれてきた、今のアメリカの政権にもうじゃうじゃいるような「男」として現れて、造型も含めて違和感ないのだが、でもこれって根っこから腐ってておかしいんじゃないの? 彼らは互いを支配し、苦しみ、愛し合い、最後は被害者ヅラして悲愴感たっぷりでかわいそうに見えるけどなんでそんなことになってしまうの? という根底に見えてくる、劇中では言及されることのないmasculinityについて。それらに対するばっかじゃねーの? として。
もうひとつ、これも指摘言及されることはないのだが近代小説における「男」像がmasculinity のvehicleとして機能・媒介してきたよね、という仮説 〜 コンラッド、ヘミングウェイ、フィッツジェラルドなどの作品で勝者/敗者として選別色分けされてきた男たちのイメージが再生される。今だとここに漫画やアニメやMCUも入ってくるのかも。
これ、日本の家族に設定を置いてもめちゃくちゃわかりやすくはまると思うので誰か翻案しないだろうか。(それを見たくなるかどうかは別)
一見ふつうの家族の年代ドラマふうに見えてしまう、見れてしまうところはあるのだが、とてもおもしろかったのでもう一度見たい。
10.17.2025
[theatre] (the) Woman
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