10月11日、土曜日の晩、Old Vicで見ました。
原作は俳優もしている(こないだ見た映画”A House of Dynamite (2025)”にも出演していた)Tracy Letts、彼の母が亡くなってすぐに書き始め、母に捧げられている戯曲の冒頭にはJoan Didionの言葉が引用されている。ちょっと長いけどこんなの:
“I think we are all advised to keep on nodding terms with the people we used to be, whether we find them attractive company or not. Otherwise they turn up unannounced and surprise us, come hammering in the mind’s door at four a.m. of a bad night and demand to know who deserted them, who betrayed them, who is going to make amends”
初演はシカゴで2016年。休憩なしの1時間半で、11のシーン、ひとりの女性 - Mary Page Marlowe -の70年の女の一生が、5人の俳優と人形によって演じられる。演出はMatthew Warchus。
舞台はOld Vicの真ん中に円形のがあって、それを客席がぐるりと囲むかたち – ここでそういう舞台設定になっているのを始めて見た。舞台の上には簡素なテーブルがあって、あと酒瓶がいつもその辺に転がっている。最初はその上に主人公が着てきたであろう服たちが無造作に積まれている。
最初の場面はMary (Andrea Riseborough)が子供たちに離婚を告げるシーンで、そこからランダムに場面・時代は替わって、友達とのお泊り会で占いをして将来が明るい12歳のMaryも、高校生のMaryもまだ有望で、でも結婚した後からは、夫は飲んだくれのろくでなしでふざけんじゃねえよなめんな、の互いに酔っぱらってブチ切れて蹴っ飛ばしあうような喧嘩が絶えなくて、気が付いたら2回結婚していて、晩年にももうひとり傍に面倒を見てくれる男性がいたりする。
暗転して時代と設定と女優が切り替わり入れ替わりのたびに、ああそうなったのね、って思うのだが、Maryの人物としての輪郭、気性の一貫性は保たれていて、周囲の変化にええーってびっくりするようなことはない。特に老年・晩年期のMaryを演じるSusan Sarandonの柔らかさが、過去のぎすぎす、ごたごたを、傷だらけのMaryたちをすべて吸収し、赦し、それでもそれしかないような愛 - 怒りや後悔ではなく – で包もうとする姿に感動する。
これと似た形式でひとりの女性の一生を複数の女優が演じていく舞台にAnnie Ernauxの”The Years” – これの初演は2022年 - があったが、あそこまで過激に女性の「性」を追いつめて普遍的かつ圧倒的な型のように浮き彫りにして叩きつけることはなく、どこの場所にも時代にも、こんな女性いたかも、すれ違ったかも、になる。これはこれでよいのだが、それならもっと時間を掛けてもっといろんなひとりのMaryを見せてほしいな、にはなる。せっかく魅力的な像としてそこに現れたのだし、これだけ魅力があるならもっといろんなネタもあっただろうし。
Michael Rosen: Getting Through It
10月19日、日曜日の午後、Old Vicで↑と同じ舞台セットの上で行われた公演/口演?について少しだけ。
英国各地を回っていくようだが、ロンドンではこの日のこの14:00の回だけで、これを見ていたのでLFFの”Hamnet”に並ぶのが遅れて(...もう忘れようね。ついてない一日だったね)。
児童文学作家のMichael Rosen(79歳)による、2部構成、約1時間40分の講演、というほど固いものではない、腰の曲がりかけたおじいさんが紙束を抱えて椅子のところにやってきて、リラックスして座って、紙に書かれた原稿を一枚一枚ゆっくり、ユーモラスに読んでいくだけの舞台。最初のパートが”The Death of Eddie” – 1999年に当時18歳だった息子を突然失った時のこと、それからの日々について、後のパートが“Many Kinds of Love” - 2020年のコロナ禍で、48日間、NHSの集中治療室に入れられて死にかけていた際の自分の闘病記録。どちらも、誰の身にも起こりうる悲劇を題材に、どれだけ時間が経っても消えてくれずにそこにあるgriefやpainとどうつきあっていくべきなのか、自分はどう向きあってきたのか(乗りこえることも忘れることもできない)についての省察。子供に聞かせるようにやさしく穏やかに語っていく話芸(だよね、ここまでくると)に引き込まれた。
Lee
10月17日、金曜日の晩、Park Theatreの小さいほう(90)で見ました。
原作はCian Griffin、演出はJason Moore。席は自由で、休憩なしの約80分。
客席が少し見下ろすかたちで囲む舞台は主人公である抽象画家Lee Krasner (1908-1984) のアトリエを模していて、彼女の制作中の絵 – Barbicanの展覧会(2019年)にもあった”Portrait in Green” (1969)とか - が四方の壁に沢山貼ってある。あと、ランボーの『地獄の季節』からの一節("To whom shall I hire myself out? What beast should I adore? ~ )が壁に殴り書きされている。
Jackson Pollock (1912-1956)が44歳で亡くなってから13年後、という設定で、でも彼は幽霊Pollock (Tom Andrews)として現れてかつてパートナーだったLee Krasner (Helen Goldwyn) にぶつぶつ言ったりマンスプレイニングしたりして、どこかに消えていく。Leeはそんな彼にまたか、という態度で応えたりしている。別の女と勝手に事故って死んだんだからもう寄ってくるな。
いつものようにアトリエで絵を描いていると、近所のデリの、まだ高校生の小僧Hank (Will Bagnall)が仕事場に現れて、アーティストになりたい、というので彼が描いているという抽象画ぽい絵を見せてもらい、彼女が彼の絵をぼろくそに、でも真剣にけなしつつ、アートとは何か?なんで絵を描くのか? 抽象とは? といった根本的な問いを投げていく。その過程で、都度現れてくる自身の過去とそこにしつこく纏わりついてくるPollockの亡霊と。
他の女性アーティスト - Camille ClaudelでもDora Maarでも - と同様、男性パートナーの名声の影でまともに取りあげられることも顧みられることなく、それでもアートへの希望を棄てずに創作を続けていった女の立ち姿をHelen Goldwynがかっこよく演じている。決して笑わなくてずっと不機嫌だけどLee Krasnerがいる、としか言いようがないのだった。
Lee Krasnerの発言や思索は結構纏まって出ているのでそれらに沿った正しい評伝ドラマになっているのだろう、と思う反対側で、彼女がPollockを「てめーのせいでなあー」ってぼこぼこにしてやるようなのも期待していて、でもやはりそれはなかった。
 
10.21.2025
[theatre] Mary Page Marlowe
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