10月16日、木曜日の晩、LFFをやっているCurzon Mayfairで見ました。
今回LFFに来ている邦画はこれと『8番出口』というのがあって(他にもあったらごめん)、『8番..』はどうでもよかったのだが、こっちはなんだか見たかった。New Orderが流れるというし。
英語題は”A Pale View of Hills”、原作はKazuo Ishiguroの同名小説 (1982) – 未読。
今年のカンヌのUn Certain Regardでプレミアされた日本-UK-ポーランド合作映画。
監督・脚本は石川慶で、上映前に監督、Kazuo Ishiguro、Camilla Aiko, 吉田羊が壇上に並んだ。
冒頭、暗い室内でソファに横になっている悦子(吉田羊)がいて、彼女の記憶として浮かんでくる終戦後の長崎の様子 - 妊娠している悦子(広瀬すず)、夫の二郎(松下洸平)、たまに訪ねてくる義父の誠二(三浦友和)の家族のこと、近所の佐知子(二階堂ふみ)、その娘の万里子(鈴木碧桜)が描かれ、改めて1982年のイギリスに切り替わる – ここでNew Orderの”Ceremony”(1981)が流れる - と、次女のNiki (Camilla Aiko)が実家に滞在して、悦子が長崎にいた時の被爆も含めた経験の記録を作りたい、と悦子にいろいろ聞いたりしていく。
小説版は悦子の一人称らしいが、映画で描かれる長崎のお話しは、悦子の記憶をそのまま映しているのか、Nikiが悦子から聞きだしたことの再現なのか、あるいはNikiが遺された写真などを見て再構成したものなのかは明らかにされない。これは混乱をもたらすが、これは意図的なものであることが追って見えてくる。
悦子はひとりになってからも長く住んでいた家を処分してどこかに越そうとしており、Nikiは不倫相手との間に子供ができたかもしれず、どちらもこれまでのことにどんより疲れていて、変わらなければ、と思っている - 長崎の場面でも佐知子が、アメリカに行って変わろう、アメリカに行けば変われる、と信じているし、教育者だった誠二も悦子に変わらないとね、と背中を押されている。(悦子と誠二のやりとりは『東京物語』 (1953)の原節子と笠智衆のそれを少し思わせた。1952年の長崎で)
時空を隔てた両側でなすりつけ合うように、本を閉じるように目を背けるように現在と過去を行き来しているうちに浮かびあがってくる、その中心にある悦子の長女の自死のこと、それに対する後悔と自責と。そういう状態のなかで、過去の記憶の正しさなんて、どんな意味があるのだろうか、自分はこれから生きていっても許されるのだろうか、等。
そして/だから佐知子はいったい誰だったのか、万里子はなぜ死を選んだのか、本当のところは最後まで明らかにされない。みんな勝手に逝って、自分はあとに遺されてしまった、という感覚がずっとある。原爆が落ちたあの日からずっと。
たぶん過去と現在の時間軸と、それぞれにおける人物関係の置かれかたや目線の変化などが、きちんと対照関係をなすように細かく寄木細工のように編集加工されていて、この辺は映像だからできることでもあるのかも。そのうえで、”A Pale View of Hills” – 向こうの丘の淡い景色、という。
New Orderの”Ceremony”は、Joy Divisionの最後に作られた曲(作詞はIan Curtis)であり、New Orderの最初にリリースされた曲でもある。こんなに明るい曲を遺してIanは死んじゃって、なんで?と誰もが思った。この曲が映画では始めと終わりの2回流れる。同じイントロなのに違って聞こえる、のではないか。
今回のLFFで見た映画で、エンディングにJoy Divisionが流れた映画がもうひとつあって、もう少ししたら書く。
上映後、監督を含む4人によるQ&Aがあったのだが、次のがあったので出てしまった。
次のは、Richard Linklaterの”Blue Moon” (2025)のガラで、悪い映画ではなかったのだが、あーこれならこっちのQ&Aに残ればよかった… と後で激しく後悔した。
10.21.2025
[film] 遠い山なみの光(2025)
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