10月6日、月曜日の晩、Curzon Bloomsbury内のDocHouseで見ました。
身近に迫る危機モノ、として、今見なければいけないドキュメンタリーとしてとにかく必見だから。
監督はKim A Snyder。Executive ProducerにはSarah Jessica Parker、音楽にはNico Muhlyの名前がある。
2021年、テキサス州の上院議員が配布した本のリスト - 図書館に置くことがふさわしくないとされたLGBTQ+全般、人種、公民権運動、性教育、月経、などに関する850冊、これにフロリダやテキサスといった共和党支持の州の議員が賛同し、右派のほぼ白人の母親たちの権利団体 - Moms for Libertyが絡んで、実際に図書館からこれらの本を閲覧禁止にして、従わない図書館員(Librarian)に対して脅迫したり解雇をちらつかせるようになった。
映画はこれらの事態に立ち向かうことになったLibrarianたち(The Librarian)- 殆どが女性 - の終わらない戦いを描いていく。
昔から思想弾圧や統制のための焚書や禁書はいくらでも行われてきたので、またかよ・まだやってるのかよ、だし、それを本なんか読んだこともなさそうな、スポーツやマネーや陰謀論が大好物そうな富裕層が煽って広げているのはバカじゃねーの、しかないのだが、あまり笑えないのは、紙の本を図書館で借りて読む文化が細くなってきているところにこれが来ることで、図書館なんて行く意味も価値もない、って図書館が蓄積してきた本を中心とした知と向き合う場所と時間が削られていってしまう、そこでの出会いによって救われたり導かれたりしていた魂がその機会と行き場を失ってしまうことだ。 ネットもSNSもあるし、って言うけど、本を読むことで得られるのは情報だけじゃなくて、例えばそれを書いた人、書かれた人が辿ってきた生とその経験、めくるめくストーリーをめぐる自分との対話だったり、映画や絵画やパフォーマンスアートと同様、その形式が実現しようと、広げようとしてきた世界そのものを体験することでもあるので、そういう機会を失くして、取りあげていくことで何がよくなるのか、まったくわからない。 単に自分が目障りだから見たくないものを見れないようにしたい、というだけにしか見えない。(おれが見たくないって言ってるんだから見せるな、置くな、っていうガキのー)
もうひとつは、子供たちにとって、図書館のずっと続いていく棚とか物理的なところも含めた世界の広がりとか奥行きを目の当たりにしたり、そこでのこんな本もあるあんな本もある、って何冊も並べて開いたり閉じたり、ずっと読んでいたいけど返却しなきゃいけないのか…になったりする時間って、世界のでっかさ、底のなさ、限りある時間、などを思い知る入口だったりするので - 必要最小限の学びの場と機会を奪ってしまうことに繋がると思う。
というような、連中の懸念する「悪影響」ってなんだよ? というものすごく根源的な問い – この映画では「悪影響」を個々に掘り下げていくことはしない、あまりにバカバカしいからだと思う - を掲げてLibrarianたちは立ちあがって連帯していくのだが、SNS等による数と資金力(最後の方で化石燃料系の富豪が背後にいることがわかる)では圧倒的に弱くて負けてて、こういうドキュメンタリーの場合、終盤にある程度明るい兆し、のようなものが描かれることもあったりするのだが、それもなくて、どうなるんだろう… というお先真っ暗な状態のまま終わる。
これがバカな王の間抜けな臣下ども(の下部階層)によるご機嫌とり施策、であること、過去に有効だった試しがないこと、はわかっているのだが、もうほんとうにうざいし、恥をしれ! しかないし。
日本でも公開されますように。
10.21.2025
[film] The Librarians (2025)
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