10.13.2025

[film] Tron: Ares (2025)

10月10日、金曜日の晩、BFI IMAXで見ました。久々なので3Dにしてみた。
最初の“Tron” (1982)も次の”Tron: Legacy” (2005)も実は見ていない。

コンピューターの向こう側に別の世界があったり別の人格が潜んでいたりする、というのは、もうコンピューターができて50年くらいになるのだからもういい加減諦めたらどうか、と思うのだが、ひとは夢みることをやめないし、最近はAIなどもあるので、まだ諦めていないらしい。でもあれらはものすごい労力と奴隷仕事の積み重ねでできあがった - 大半はゴミみたいな – ただのコードの羅列でしかない。 という認識は80年代からあったので、それを甘ったるくて超ださいコンピューターグラフィックスで包んで「SF」の名のもとに商品化したディズニーにはあーあ、しかなくて、いや、あれはアニメーションのようなものだから、というのであれば、アニメにしてもやっぱりださいし、でしかなかった。

今回見ることにしたのは音楽がNINだったから。 ディズニー側も早い時期からNINのロゴを入れて宣伝しまくっていたので、ちょっとは違って見えるのかしら、くらい。なので音もでっかいIMAXにしたのだが、あんまし変わんなかったかも。 ていうか、Trentは自分の音のバックがあんな程度のリンゴ飴みたいなグラフィックスで満足しちゃうわけ? 昔の君だったら絶対採用しなかったでしょ?

ENCOMとDillinger Systemsの2大グリッド企業があって、Dillinger Systemsの世襲のCEO – Julian (Evan Peters)は3Dプリンターを使って兵器とか29分で消える(なんで?)最強の使い捨て兵士Ares (Jared Leto)をリリースして、ENCOMのCEOのEve (Greta Lee)はそのデジタルの生成物を永遠に存続させることができるコードをアラスカの山奥から発掘して、それを知ったJulianはそいつを手にいれるべくENCOMのメインフレームに襲撃をかけて、Aresなどを総動員してEveをさらってこようとするのだが。

競争相手の新技術をかっさらうためにロボットを投入したらそのロボットが寝返ってひどい目にあいました、ママ(Gillian Anderson)にも怒られたけど、ママも死んじゃいました、っていうそれだけの話で、一企業があそこまでめちゃくちゃやっても許されるのだからなんだって許される、っていう、ここだけ今と繋がっていそうなディストピア。

そもそもなにをしたいのかが(説明されていたのかも知れないけど)よくわかんなくて、兵器市場の寡占化?世界征服?それで? とか、永遠に存続させるコード(不老不死の薬みたいな?)もネットから隔絶された山中に保存されていて、引っぱりだしたばっかりに大騒ぎになって、こっちもよくわかんない、みんな落ち着け!ほんとうにやりたいことはなんなの? って聞きたくなる。(ディズニーに聞け)

テック・ビリオネアって、なんでこんなふうに碌なことしないの?そういうバカがなれる世界なの?バカだからなれるの? 地球とか学術の世界にまともなことをしてくれる正義の味方の極左のビリオネアっていないの?

あとはあれよね。なんでデジタル生成物に髭を生やさせたり左利きにさせたりする必要があるのか、とか。そんな生成物がなんでDepeche Modeを80’s popで一番だと思うのか、とか、なんでJeff BridgesはCGじゃなくてリアルに歳をとった姿をしてみせるのか、とか。

まだまだ続きそうなかんじなのがこわい... 

NINの音としては、(NIN名義ではないが)“Challengers” (2024)のサントラのゴムみたいに打ち返していく弾力が効いてて、本体の中味がない –“Challengers”も割とそうだった - ことを考えるとゴスでダークなとぐろ巻きにしなかったのは懸命だったかも。Nine Inch Noizeの流れもあるので当分はリズム方面を追求していくのかしら。


All of You (2024)

9月28日、日曜日の晩にCurzonのVictoriaで見ました。
これも近未来っぽい設定のだったので、メモ程度で書いておく。

作/監督はWilliam Bridges。
舞台は近未来らしいロンドン。大学の頃からつきあっていたSimon (Brett Goldstein)とLaura (Imogen Poots)がいて、町には100%の相手を見つけることができるよ、テストを受けましょう!っていう勧誘の広告が溢れていて、Lauraは悩んだ末にテストを受ける/受けたい、って言ってSimonもそれに同意する。

で、Lauraはテストの結果でマッチングされた男性と一緒になって結婚して、子供ももうけて、でもテストを受けていないSimonはずっとLauraのことを想っていて、別の女性とつきあってもしっくりこなくて、Lauraもそれを知っててたまにデートをしたりして、でも今の家族と別れるかというとそこまではいかなくて、ふたりでずっとうだうだしているの。それだけなの。

なんでそこまでテストの結果に縛られるのかわからなくて、それが「幸せ」を予測してくれているから、なのだとしたら悩むな、しかないと思うのだが、彼らはずっと悩んでいてあんま幸せには見えなくて、そんなの知らんがな、になるの。

最後までどんよりめそめそしているImogen Pootsは素敵なのだが、設定がありえないくらい陳腐で、なんで?ばっかりだった。某宗教団体の合同結婚式に科学をまぶしただけの、そんな未来を描いたディストピアもの、として見るべきなの? 表面はrom-comだと思ったのに?

[film] Thelma & Louise (1991)

10月5日、日曜日の夕方、BFI Southbankの特集 - “Ridley Scott: Building Cinematic Worlds”で見ました。上映前に監督Ridley Scottのトークつき。

短編からMezzanineを使った企画展示から過去作品のclapperboard(カチンコ)を壁にずらりと並べた展示とか、BFIの売店では彼のサイン入り赤ワインの大きいボトル(£300)を売っていたり - なども含めた総括的な回顧で、この中で自分は”Boy and Bicycle” (1965) + “The Duellists” (1977)の二本立てとか”Someone to Watch Over Me” (1987)を見たくらい。

今や世界的な巨匠であることは確かなのだろうし、新作がリリースされたらふつうに見るのだが、昔から映画ファンだったわけではない(今だってそう)ので、”Alien” (1979)とか”Hannibal” (2001)とか、怖そうなのは見ていなくて、この”Thelma & Louise”も見ていなかった。トークの際に「見たことない人?」で手を挙げた1/3くらいに入っていて呆れられたが、公開当時は”Bonnie and Clyde”の女性版、という紹介のされ方(つまり最後は死んじゃうので悲しい)で、今みたいにフェミニズムやLGBTQ+文脈で語られることなんてなかったの(←言い訳になっていない)。

監督のトークは、よく話題になるメインの2人のキャスティングについて、既にいろんな名前があったりするが、今回はMeryl StreepとMichelle Pfeifferの名前が出て、他にはHans Zimmerのどうやって作ったのかわからん音楽の凄みとか、ロケはどこをどう切っても絵になるので楽しかった、とか、割とふつうで、翌日一部で話題になったらしいこの日の別枠のトークでの、「今の映画は殆どがクソ」発言も見ればわかるごりごりの頑固じじいぶりが素敵だった。

フィルムは今回の特集のために焼かれた35mmのニュープリント。最初の方のごちゃごちゃしてもうやだ! の鬱屈して湿った空気が後半に向かってどんどん晴れて風景と一緒に視界が広がっていく(彼女たちが広げていく)のが爽快なロードムービーで、男たちは全員が揃いも揃ってバカで腐ったろくでなしで、”The Blues Brothers (1980)のふたりは生き延びたのに彼女たちはなぜ死ななければならなかったのか、なぜあそこでLouise (Susan Sarandon)は、死のう!ってThelma (Geena Davis)に言ったのか、等について少し考える。

いまリメイクするとしたらメインのふたりは誰がよいかしら? とか(暇つぶし)。


Boy and Bicycle (1965)

9月4日、木曜日の晩に見ました。
27分の短編でRidley Scott自身がカメラを回して、弟のTony Scottが主演して、音楽はJohn Barryに格安でやってもらったデビュー作。地表の横線の置き方とかそこに向かって乗り物(ここでは自転車)が走っていく姿には既に彼の特徴が表れているように思ったが、それよりも彼のフィルモグラフィーが熊のぬいぐるみのアップから始まっている(エンディングも)ことはちゃんと記憶しておきたいかも。 ↑の週末にはこの二本立て上映に合わせた監督のトークもあったので、この辺、だれか質問したのかしら?

The Duellists (1977)


↑のに続けて見ました。邦題は『デュエリスト/決闘者』。
BFIアーカイブからの35mmのフィルム上映で、色味とか光のかんじも含めて70年代のヨーロッパ映画にしか見えない。原作はJoseph Conradの”The Duel” (1908)、19世紀初のフランスの、ナポレオン軍に従軍する二人の兵士 - Keith CarradineとHarvey Keitelによる30年に及ぶ決闘の歴史を描く。

ぜんぜんやられない懲りないねちっこいのに妙に爽やかに時間を超えて追っかけてくるHarvey Keitelがよい味で、ここは”Thelma & Louise”の彼の役にも引き継がれているような。

この最初の2本にあった軽妙な軽さがいつの頃からかどこかに行ってしまった気がして、それは何がそう見せているのか、ただの気のせいか、とか。

10.11.2025

[film] Islands (2025)

10月4日、土曜日の昼、BFI Southbankで見ました。

新作で、監督はドイツのJan-Ole Gerster。
Tom (Sam Riley)はカナリア諸島のホテルリゾートで専属のテニスコーチをしていて、昼は滞在客の子供や老人相手にレッスンをして、夜は地元のクラブに出かけて踊って酔っぱらってビーチで目覚める、みたいなことを繰り返している。

ある日、泊まりにきたイギリス人の裕福そうな夫婦のAnne (Stacy Martin)とDave (Jack Farthing)から彼らの息子の個人レッスンを頼まれて、ついでに彼らの部屋を裏でアップグレードしてあげたりしたことから親しくなって、一緒に食事をしたり観光したりラクダに乗ったりするようになる。 AnneとDaveは二人目の子供ができないことでちょっとぎすぎすしていて、互いの話を聞いてあげたりして、TomがDaveをクラブに連れていって呑んで騒いだ翌朝、Daveが消えてしまったことを知る。最初は酔っぱらってどこかに、と思っていたのだが現れないので警察に届けて本格的な捜査が始まって、そうしてAnneとTomは一緒にいるうちに親密になっていって、Daveのほうはぜんぜん出てこないのでどこかでもう亡くなっているに違いないし、それでもいいか、と思っていると…

捜査中に浮かびあがるAnneの怪しい挙動とか、ちょっとミステリーぽいところもあるのだが、そこにTomの日差しは強いのにいつまでもどんより投げやりの日々 - Daveと同じようにいつ消えてもおかしくない、むしろ消えちゃえって思っているTomの澱んだ姿に、何を予知しているのか飼育場からの脱走を繰り返す観光用ラクダの姿が重なっていく。Daveの捜索で、海からこのラクダの死体があがるシーンはなかなか素敵。

全体に70年代のアントニオーニみたいな、ブルジョアの腐っていく世界に漂う焦燥と倦怠がゆったりとクールに描かれていて、ちょっと長いけどそのリズムも含めて悪くなかったかも。Sam Rileyがすばらしくよいし。


Brides (2025)

10月3日、金曜日の晩、BFI Southbankで見ました。

これも新作で、監督はNadia Fall - ずっと演劇畑でやってきた人で、National TheatreでNicholas HytnerのADをしていたり、今はYoung Vicで上演中の”Entertaining Mr Sloane”の演出をしている - の長編映画デビュー作。 予告にイスタンブールと猫が出てきたので見た。

2015年、15歳で家出してシリアのISに入隊したShamima Begumの事件を元にしたドラマ。

同じ学校に通うDoe (Ebada Hassan)とMuna (Safiyya Ingar)の親友同士がいて、冒頭はふたりがばたばたと電車で空港に向かい、出国審査を済ませて飛行機に乗ってイスタンブールに向かうところから。ここまではふたりの冒険が始まるどきどきがあるのだが、トルコの空港に着くと、来ているはずの迎えはいないし来ないし、とりあえずバスで国境近くまで行くしかないか、って、まずイスタンブールに向かうのだが、そこでDoeはパスポートなど一式を失くして…

無口で内気なDoeと強くて奔放なMunaのコンビは素敵で無敵のようなのだが、旅の途中で英国での彼らの家族や学校での辛くしんどくうんざりの日々が重ねられて、旅先での困難を支えるのはもう二度とあそこには戻りたくない、って家を出た強い意思、というその部分は普遍的に伝わってくるものだが、そこから彼女たちがどこに向かって何をしようとしているのか、は伏せられている。困っている彼らを助けて親切に泊めてくれたバスターミナルの女性とその家族を裏切るようなことまでしたり、最後に車に乗せてくれたパパと娘たちの幸せそうな姿を置いても、ずっとママから電話とメッセージがくるDoeのスマホを壊してまで彼女たちの国境を超えようという決意は揺るがず、絶望の深さが知れて、それはもうほとんど自殺のようなものに見えるのだが、最後に描かれるDoeとMunaの最初の出会いのシーンを見ると、それしかなかったのだろうな、って。後からいくらでも言うことはできる、というー

女の子ふたりの友情、を甘く切なく描くようなやり方ではなく、特に真面目なDoeの苦悶の表情を見るとどこかにたどり着いたから決着するものでもないのだろうな、って思えて、ふたりの女性の映画として成立させようとしているように見えて、そうするとタイトルの”Brides”が。

10.10.2025

[film] A House of Dynamite (2025)

10月5日、日曜日の昼、BFI Southbankで見ました。

公開直後のイベントで上映後に監督Kathryn Bigelow他とのQ&Aがある。

この週末のBFIはRidley Scott一色で、監督本人が来て、彼の代表作いろいろの上映(ほぼ35mmフィルム上映)の前にイントロしたりQ&Aしたりトークしたり、彼のサインを求める人たちでざわざわしていて、自分もこの日の夕方に”Thelma & Louise” (1991)とじじいを見た(そのうち書く)。

脚本はNoah Oppenheimで、監督とふたりでいろいろ練りあげて行ったことが後のトークでわかった。
映画は112分あるが、対象となる出来事は18分間で、この18分を3つのセグメント、いろんな登場人物視点や立場に分けたり引き伸ばして見せる。彼女の得意な突発的なアクションや爆発で人や建物が吹き飛んだり、は今回はない。登場人物たちは、仕事場の端末、スマホの画面、会議室のモニターに向かって苛立ったり怒鳴ったりしている動きが殆どで、明確な敵はいない、見えない – 誰が仕掛けたものなのか明確にはわからない、という点では”The Hurt Locker” (2008)の怖さに近いのかもしれない。

アラスカの米軍基地で発射を確認されていないで飛んでいる大陸間弾道ミサイルが発見され、最初は何かのテストかと思っていたのがどうもそうではなく、シカゴに向かっている本物らしい、ということがわかってくる。ホワイトハウスではOlivia Walker (Rebecca Ferguson)がいつものように出社してオフィスで各担当と繋いだところで、ミサイルの情報が来て、彼女たちも最初はなにかのドリルではないかと疑うのだがそうではなくて、脅威レベルが引き上げられて、アラスカの軍が迎撃に向かうものの失敗して、数分後には間違いなく米国領内に飛んでくることがわかる。

パニックになることを承知で市民に伝えるべきか、報復すべきなのか、するとしたらそのタイミングは、などが渦巻く中、ホワイトハウス関係者にも避難勧告が出て、Oliviaにも家族がいるしどうしよう.. の辛さとどうすることもできないもどかしさが受けとめ難い事実としてのしかかってくる、けどどうしようもない。

続くセグメントでは、USSTRATCOM(アメリカ戦略軍)のAnthony Brody (Tracy Letts)将軍が即時報復すべきかどうかについて大統領のセキュリティアドバイザーのJake Baerington (Gabriel Basso)と衝突して、議論が宙に浮く。ロシア外相は関与を否定し、北朝鮮についてエキスパート(Greta Lee)に聞くと発射できる可能性はある、という。でも確実な情報は得られないまま、で、どうする? に戻る。

最後のパートは、合衆国大統領(Idris Elba)で、女子バスケットボールのイベントに出ていたところを緊急で呼びだされ、こういう有事のアドバイザーであるRobert (Jonah Hauer-King)から分厚いマニュアルをもとに打つべき手について説明されて判断を求められるのだが、決められない。困ってRobertに聞いても、自分は取りうるオプションについて説明するだけですから、と返される(そりゃそうよね)。

事態に直面する職員から最終決定をくだす大統領まで、3つのレイヤーで上に昇っていくものの、限られた時間で判断するには情報が足らなすぎるし、でもそれに伴う犠牲と被害は大きすぎるし、責任の重さだけでなく、みんなそれぞれ愛する家族がいて、という明日にでも十分に起こりうる渦の緊迫を描いて、そうなんだろうな、そうなるよな、しかない。(シナリオ作りにはそれなりの中枢の人たちが参画しているので相当にリアルなものだ、と後のトークで)

だからー、抑止力とか言って核を持って広げるのは簡単だけど、それがもたらす事態って現場レベルに来ると具体的にはこうなるのだよ、って。 あと、“Oppenheimer”(2023)でもそうだったが、核がもたらすリアルな災禍については、この映画でも触れられない。この辺には巧妙な狡さを感じる。実際に起こったことなのに。かつてアメリカが起こしたことなのに。という、結果としては隅から隅までアメリカの前線で戦っている人々を讃える、それだけの映画でしかなくて、ここから核を失くすべき - 失くそう、の議論には行きそうにないのが。

あとそうよね、この映画は美しいくらいの統制と緊張に貫かれているのだが、現実のいまの大統領の下でこれが起こったら一瞬で世界は灰になるのが見える。Tomでもムリ。

映画の”Independence Day” (1996)だったら大統領が戦闘機に乗って突撃にいくし、ここの大統領はIdris Elbaなのでやってくれるか、と思ったがやっぱりそれはなかった。

上映後のQ&AはKathryn Bigelowだけでなく、脚本のNoah Oppenheim、Rebecca Ferguson、 Tracy Letts、Jonah Hauer-King、撮影のBarry Ackroyd、音楽のVolker Bertelmannが並んだ。監督だけだと思っていたのに、Rebecca Fergusonさんまで見れてうれしい。

質問コーナーで印象に残ったのは、ゲティスバーグの戦いを祝うイベントとかリンカーンの像とかが映しだされる場面があって、その意味を問われて、まあ普通の答えだったのだが、Tracy Letts(”Lady Bird” (2017)のパパだった人だよ)が手をあげて、もうひとつある - ここで描かれているようなことが起こったらこんなレガシーなんてなんの意味もなくなる、ということだ。いまのアメリカを見ろ、って。(拍手)

Tracy Lettsさんは、彼の書いた舞台、”Mary Page Marlowe” – 主演Susan SarandonをOld Vicでやっているので見に行く。

あと、撮影のBarry Ackroydの、どこにカメラを置いているのかわからないくらい多くのカメラを置いて撮っていくやり方とか。Ken Loachに学んだそうな。

10.09.2025

[theatre] Titus Andronicus

9月29日、月曜日の晩、Hampstead Theatreで見ました。

もとはStratford-upon-Avonで演っていたRSCの舞台がLondonに来たもの。
原作はシェイクスピアの『タイタス・アンドロニカス
』(1593-94)、演出はDavid Tennantの”Macbeth”を演出していたMax Webster。音楽はMatthew Herbert。

Titusを演じていたSimon Russell Bealeが健康上の理由で降板してJohn Hodgkinsonが演じることになった。 元のポスターにあった、血まみれになって叫んでいる丸っこい熊みたいなSimon Russell Bealeを見たかったのでちょっと残念。

なぜか舞台を囲む席のうち一番前のが取れてしまったのだが、席に着く前に、「あなたの席の下にはブランケットがあります。シーンによっては血しぶきが飛んでくることがあるので、それでガードしてください。飛んでくる可能性がある箇所は3つあるのですが、知りたいですか?」と聞かれて、(そんなの知ってたらおもしろくないじゃん)だいじょうぶ、と返した。のだが、横の人たちを見ると、みんな首までしっかり被っているのでちょっと不安になる。そうやって首まで巻いているとぽかぽかしてきて眠気が…

舞台はモダンでモノクロームで殺風景で、金属の格子があったり上から拷問器具の鎖がさがっていたり屠殺場のように冷え冷えしていて、床は大理石の薄白で、表面にうっすらと墓碑銘のような文字が掘ってあることがわかる。

黒のタイトな服を着たダンサーのような男性たちが数名出てきて、くねくねざわざわ、っていうかんじの不吉っぽい舞いをして、消える。以降、彼らは場面転換のたびに現れたり、死体を舞台(石盤)の下に埋葬(落と)したりする。

ゴート族との戦いに勝利し凱旋したローマ軍将軍Titus(John Hodgkinson)の運命を追う血みどろの史劇で、復讐と憎悪に燃える側とその炎に焼かれる側で、互いの家族の妻や娘や息子が強姦される舌を切られる両手を切られる、自分で腕を切る、人肉パイにされる、など残酷陰惨な場面が延々続いて大変で、これらがモダンでクリーンな空間でしらじらと(ライブで見るとどたばた音は恐いくらいやかましく)展開される。 だから戦いや復讐は虚しい、とか、だからやっぱり家族は大切、とかそういうところにも向かわず、こんな諍いなんて屠殺場のin-outとなにが違うのか、って。それだけで、Titus Andronicusの将軍としての威厳や悲愁もないことはないが、そんなことより、これは不可視なところでの拷問や虐殺が正当化されて、膨れあがる憎悪の裏側でぴかぴかの表面だけがもてはやされる現代の権力者たちのしょうもなさを指しているんだろうな、って。

血しぶきはずっと来なかったのだが、ちょっと油断した – Tamora (Wendy Kweh)が刺殺されるところ - でばしゃーって飛んできて顔にかかった(冷たい。絵具の匂い)。


Troilus and Cressida

9月30日、火曜日の晩、Shakespeare’s Globe Theatreで見ました。

二日間続けてShakespeareの史劇を見ようと思ったわけではなくて(Shakespeareはなにを見てもおもしろいことがわかってきたので、なんにしても可能な限り見る)、もう野外で見る劇は日が短いし、天気も安定してないし寒いしで、気候が崩れないところを狙ってて、たまたまこの日はよさそうだったので、昼間に空いているところを取った。休憩をいれて約3時間の野外劇は、夜になるとやっぱり冷えて寒くて、休憩時間に帰ってしまう人も結構いた。

原作はシェイクスピアの『トロイラスとクレシダ』 (1602)、演出はOwen Horsley。

舞台の右手には半分壊れたでっかい張りぼての足が無造作に置かれて、金メッキが剥がれていて、その少し上には”TROY”っていう矢印の看板がやはり棄てられたようにかかっていて、いまは錆びれてしまったかつての繁華街の趣き。舞台の上の階にいるバンドもブラスと太鼓が中心の気の抜けたちんどん屋風情。

最初はトロイ側(8人)とギリシャ側(9人)のそれぞれの見得の張りあいで、トロイ側は金を塗ったむきむきの筋肉鎧をつけていて威勢も景気もよくて、でもそのギャップはあくまで冗談のように機能していて、最初に舞台の下から現れた道化のThersites (Lucy McCormick)がいろいろやさぐれで案内してくれる。もうひとつのテーマであるTroilus (Kasper Hilton-Hille)とCressida (Charlotte O’Leary)の恋も、大阪のおばちゃんみたいな(←すみません偏見です)Pandarus (Samantha Spiro) によってかき回されてばかりで落ち着かない。

Cressidaがギリシャ側に売られた後の顛末も、あまり悲劇的なトーンはなく、だからどうしろっていうのよ、みたいなふてくされと共に語られて、あまりにしょうもないので笑ったり歌ったり騒いだりするくらいしかないじゃん、になってしまって、とにかく神々も含めていろんな連中がわらわら出たり入ったりしつつコントやミュージカルみたいなのをやっていくので、飽きないことは確かで、よく言えば戦乱期の混沌と落ち着きのなさ、みたいのは表現できていると思ったが、そもそもこういう劇なのかしら?

最後は吉本小喜劇?(←すみません見たことないです)みたいにみんなで踊ってまわってええじゃないかー、みたいになるのだが、やはりどうしても、はて何を見たのか? にちょっとだけなったかも。

10.08.2025

[film] Arena Legacy

10月1日、水曜日の晩、BFI Southbankで見ました。

9月の特集だったTV局 - Associated-Rediffusionのシリーズとは別で、BBCのドキュメンタリーTVシリーズ - ”Arena”の放送開始(第一回放送が1975年10月1日)から50周年を記念して、アーカイブから2番組を上映して、シリーズ全体の制作責任者だったAnthony Wallから話を聞く、という企画。

アートや文化に関する人やトピックを取りあげて掘り下げていって、どんなエピソードが放映されたかはWikiにもあるし、BBCのサイトにもあって、(英国内なら)配信でほぼ見れるようになっている。Dylan ThomasとかHarold PinterとかJorge Luis BorgesとかJean GenetとかEvelyn WaughとかEdward Saidとか、作家についてのもの、Edward HopperやFrancis Baconといった画家についてのもの、史跡から建物まで、なんでもあって、とても見たいのだが、ロックダウンでも起こらない限り、いまあれこれ見ている時間はないや…

この日上映されたのは2プログラム。番組のオープニングは海を漂うボトルのなかにネオン文字の”Arena”が浮かびあがり、音楽はBrian Enoの"Another Green World”だったりする。

My Way (1979)  37min

誰もが知っているスタンダードの曲”My Way”について、Frank SinatraからElvis PresleyからSid Viciousまで、なんでこの曲がそんな世界のスタンダードになったのか、楽理とか歌詞とかいろんな角度から掘り下げたり、あなたにとっての”My Way”とは? をイギリスの保守系政治家に聞いてみたり、そのアプローチがおもしろい。

元はフランスの"Comme d'habitude"っていう曲で、それをPaul AnkaがSinatraが歌う用に英訳してリリースしたら爆発的にあたって、それ以前だとDavid Bowieがフランスのオリジナルに強引に英詞を被せるようなことをしていたり – これが後に”Life on Mars”になった、と。

みんながどんなにこの曲を愛しているか、というよりいかに誰もが自分の”My Way”を叫んだり歌ったり訴えたがっているのか、がよくわかる内容で、とてもおもしろい。ある人が”My Way”を歌って叫ぶことで犬の遠吠えみたいにわんわん広がっていくその効果のありようとか。応援歌というよりやはり遠吠えに近いものなのかしら。

ラストはSid Viciousの“My Way”で、真ん中で反転させるようにSinatraのを被せて、最後ふたたびSidのに戻って、それでも曲のぎらぎらしてて、実はクールに見えてしまったりのイメージは揺るがない、というのを示す。

こんなふうに、結構作りこんだところも含めて単なるドキュメンタリーに留まっていないような。
日本のスタンダード演歌とかでやってもおもしろくなるかも。


Chelsea Hotel (1981)  55min

NYのランドマーク建物 - 建物がすごいとかではなく、そこに引き寄せられた人々がすごかった - Chelsea Hotelについて、ホテル内に観光ツアーの一団がぞろぞろ入っていくのを横目に、当時の住人などにインタビューしたり、Stanley Kubrickの”The Shining” (1980)よろしく、三輪車に乗った子供がホテル内を走り抜け抜けていったりする。

そうやって子供が走っていった先 - Arthur C. Clarkeが”2001: A Space Odyssey” (1968)を書いた部屋で、ヘッドホンをしたAndy WarholとWilliam Burroughsが一緒にウサギを食べてて、BurroughsがWarholにサインして絵まで描いてあげた自著をプレゼントするとか。そういうのを筆頭に、大昔から文化人や(文化人=)変態が滞在したり居住していたりしたホテルの謎に迫る -

のはずだったと思うのだが、あんな人もいる、こんな人もいた、をやっているうちに住み心地とかインスピレーションの起源とか、そういう知りたい本題などから外れていってしまうのがおもしろい。作曲家のVirgil Thomsonが語るGertrude Steinとの思い出とか、Alice B. ToklasのCook Bookでアメリカ版の初版から削除されたレシピのこととか、幽霊みたいに歩いていくQuentin Crispとか、屋上の家(? あんなのあるの?)でピアノを弾くJobriathとか、”Chelsea Girls”を歌うNico(横でギターを弾いているのはだれ?)とか、ホテルを舞台にしたホラーよりもわけのわからない人々が幽霊のように現れては消えていく。

そしてこれが撮られたのが44年前であることを考えると、ここに写っている多くの人たちもみんなほぼ亡くなっていて、どっちみち幽霊屋敷、じゃないホテルなんだなー、って気づいて、マンハッタンのほぼ真ん中にこれだけいろんな化け物が跋扈する場所があったのか、と(まだあるけど)。

本当なら2時間くらいの内容になってもおかしくなかったし、してほしかった。

今回上映された2本の共通項、というとSid Viciousだと思うのだが、そこは意図したものだったのか? をちょっと聞きたかった。

数ヶ月前の特集でやっていた”Moviedrome”のシリーズにしても、こういうのがTVを点けたら流れてくる、っていうのが「文化」を作ったのだろうなー .. 今と昔ではTVの位置も文化も変わってしまっている、とは言えいいなー、しかなかった。

10.06.2025

[theatre] The Land of the Living

9月27日、土曜日のマチネをNational TheatreのDorfman Theatreで見ました。

原作はDavid Lanの新作戯曲、演出は(映画監督としても知られた)Stephen Daldry。

Dorfman TheatreはPitをいろいろ加工リフォームできるのだが、今回は舞台をランウェイのように縦に長くぶちぬいて、突き当りに重そうな扉と、本棚とピアノ。反対側には扉と簡素なキッチン、現在のRuthが座る揺り椅子。ステージの下、客見えるところにも書類棚が沢山並んでいる。舞台に本棚があって本が詰まっていたり書類が積んであったりすると(自分が)嬉しくなることに気づいた。客席のA列とB列の間も兵士たちが通り抜ける狭い道になっていたりする。

第二次大戦の頃、ナチスがスラブ系の子供たちを家族から引き離して誘拐し、遺伝的要件を満たしていればドイツ人家庭に入れてドイツ人として育てる、というLebensborn計画(の後始末)を巡るドラマ。連れ去られた子供の数は数十万人、ヨーロッパ全土で1100万人に及んだ避難民が収容されていたキャンプからRuthのいたUNRRA(the United Nations Relief and Rehabilitation Administration)は本国送還などを支援して軍と一緒に欧州各地を転々としていた。

1990年のロンドン、戦後から45年経って、Thomas (Tom Wlaschiha)がRuth (Juliet Stevenson)の家を訪ねてきて、ピアノを弾いたり、昔話をしていく中、幼い頃のThomas (Artie Wilkinson-Hunt)のこと、そして戦後処理をする国連のUNRRAとしてやってきて、引き取られた子供たちをドイツ人家庭から再び引きはがして故郷に返す活動をしていたあの頃のRuthと子供たちのことが蘇ってくる。Thomasにとってはあの時の自分に何が起こったのかを知ること、Ruthにとっては、あの時の自分に何ができなかったのかを掘りさげること – どちらにとっても楽しく懐かしい振りかえりの旅ではない。

現代のRuthの部屋と当時に繋がる長い廊下を行ったり来たりしながら、戦時下の銃声が鳴り響く中での混乱、母たちの声と嘆き、子供たちからすれば引き離される不安と恐怖のなかに置かれた孤独、どれだけ手を尽くしても終わりの見えないRuthたちの疲弊、これらが縦長の舞台を目一杯使って延々描かれていって、客席の背後の闇からはThomasだけではない多くの子供たちの声や気配がずっとしている。

これらは勿論、いまの移民、難民政策にも繋がる話で、”The Land of the Living”とは何なのか、国境の右左だけでなく、家族が一緒に安心していられる・暮らせる場所ではないのか、ということを改めて。いまの時代であれば尚更に。

劇としてはメッセージも含めてものすごくいろんなことを詰め込み過ぎの印象があって、戦中と戦後を繋いで次から次へといろんなことが起こって、俳優陣もいくつかの役をかけ持ちしつつ舞台を代わる代わる駆け回って大変そうだったが、見ている方も咀嚼している暇がなくてちょっとしんどかったかも。これなら映画にした方が... とか。


Creditors

9月25日、木曜日の晩、Orange Tree Theatreで見ました。

原作はスウェーデンのAugust Strindberg(画家でもある)による同名戯曲 “Fordringsägare” - (1889) - 邦題だと『債権者』。英訳はHoward Brenton、演出はTom Littler。 休憩なしの約90分。

ホテルの一室に画家のAdolf (Nicholas Farrell)が療養のため長期滞在していて、そこに滞在している友人のGustav (Charles Dance)が訪ねてきて、Gustavに勧められてAdolfは粘土彫刻をやってみたが女性像はあまりうまくいかなかったり、ふたりでAdolfの妻で小説家のTekla (Geraldine James) – Gustavの元妻でもある – を待って彼女のことを話題にしながら、Teklaをどうしてやろうか – のようなことをそれぞれが考えているよう。やがてTeklaがやってきて、

“Creditors”は3人が互いのことを言う際に使ったりする言葉で、過去の関係においてそれぞれが何らかの負債のようなものを負ったり負われたりしつつ、自分が相手のことをそれぞれのやり方で上に立ってやりこめたりどうにかできるのではないかと踏んでいる、そんな三つ巴のやり取りが続いて最後には..

内に何かを秘めて煮込んだ一筋縄ではいかない初老の男女たちのドラマで、全員めちゃくちゃ自然のようで、でも裏があって怪しくてうまいのだが、やはりCharles Danceの老いた蛇のような佇まいがものすごい。実生活で絡まれたりしたら絶対にいやだと思うが、目の前3メートルくらいのところにいる彼の存在感は痺れるような強さがあったの。

[music] Edwyn Collins

10月4日、土曜日の晩、Royal Festival Hallで見ました。

“The Testimonial Tour”と題されたEdwyn Collinsお別れのライブ。2005年に梗塞で体の自由を失ってからもライブは続けていたがもう.. ということなのだろう。本当にありがとう、おつかれさまでした、しかない。

これの前日はRefusedの解散ツアーのライブだったし、いろいろ終わりの季節の予感。

チケットは5月か6月に発売になって、でも発売日にミスしたら前方は簡単に埋まってしまい、それから数ヶ月間、辛抱強く毎日チェックしていたら前から2列目が釣れた。こういうこともある。

さて、Orange Juiceとの出会いというと亡くなられた渋谷陽一氏のサウンドストリートで”Simply Thrilled Honey”が流れたのが最初だった記憶がある(いや、その前に買って聴いていたか?)。徳間からでたRough Tradeのコンピレーション盤”Clear Cut”の紹介で、他にはThe Fall、The Raincoats, Delta 5なども流れた(NHK FMで)。しばらくして輸入盤の7inchを買って、イルカが飛んでいる1st “You Can't Hide Your Love Forever” (1982)も買って、これは同じプロデューサーAdam KidronによるScritti Polittiの1stと並んで、自分の恋愛に対する基本の態勢を決定づける1枚となる - よくもわるくも、たぶん相当だいぶわるい方に。あと更にはスタックス・ソウルへのゲートウェイにもなったのよ。

そんなふうに聴きこんでいながら、彼の初来日のクラブチッタは用事があって行けず、ようやく見ることができたのは2010年頃の100 clubで、今回が2回目で最後のライブとなる。

物販にはPostcard Recordsのシンボル猫のTシャツ、トート、プリント、コップなどが並んでいて、珍しくバカ買いしてしまった。2018年にエジンバラで”Rip It Up: The Story of Scottish Pop” っていう企画展示があった時に行って買っただろ(と、今になって思いだす)。

バンドはG2, B, D, Key (+Sax)の5人、知っている人がいない若い編成だったがギターの刻みと弾みが気持ちよかったので十分。Edwynは杖でマイクスタンドまで歩いていって座って歌うのだが、まったく問題なく、本人もだいじょうぶだろ?って何度も客席に確認していたが、よい声が出ていた。

1曲目で”Falling and Laughing”〜”Dying Day”をやる。「1980年の、ちょっとインディーぼいやつね」だって。”The Wheels of Love”ではDennis Bovellとデュエットして、本編ラストの”A Girl Like You”ではPaul Cook御大がドラムスで入り、コーラスにはなんとVic Goddard - もうほんとおじいさんだねえ - が入る。

いちばんよかったのは”Intuition Told Me (Part 1)” 〜 “Simply Thrilled Honey” 〜 “Consolation Prize”の流れだろうか。ぜんぶばりばりに歌えていろいろ蘇って涙ぐんでしまえる曲たち。これに続いた2ndからの”I Can’t Help Myself” 〜 “Rip It Up”も悪くはないのだが、いつもあのバカにしたような邦題がチラついて今だに腹立たしさが。

アンコール、ソロから2曲やった後、バンドメンバー紹介をして、ここで再びゲストがはいる。なんとOrange JuiceのオリジナルメンバーのJames Kirkがギターに、Steven Dalyがドラムスに。まったく予想もしていなかったのであわあわする。フリッパーズギターの2人が突然同じステージに立つようなもん、と言ったら通じるだろうか。彼らが入って”Felicity” - Jamesの曲と、”Blue Boy”を。”Blue Boy”のミドルで炸裂するギターをJamesが思いっきりためてがしゃーんてやっているのをみてじーんとした。

人が亡くなるのと同じく、自分が大好きだったバンドもいつかは活動を停止したり解散したり消滅したりって、まあ当たり前のことではあるのだが、こういう形で終わりを見ることができてネコ土産も買って帰れて、って40年前の自分には想像できることではなかったねえ。 それがどうした? だけど。

[film] Happyend (2024)

9月28日、日曜日の昼、Curzon Bloomsburyで見ました。

いくつかのシアターで『何かが大きく変わる予感がする』 - “Something big is about to change”というコピーのついた自動車のひっくり返った看板(ポスターではなく立体の)が置いてある。

監督は”Ryuichi Sakamoto | Opus” (2023)を撮った空音央。邦題も『HAPPYEND』。

幼馴染でずっと親友できたユウタ(栗原颯人)とコウ(日高由起刀)は高校でもつるんで18禁のクラブイベントに行ったりEDMやったり仲間と楽しく過ごしていたのだが偉いんだぞって顔して頭の悪そうな校長(佐野史郎)とか学校にはうんざりしていて、ある晩、校長が自慢している(それしか自慢できるものがなさそうな)車にいたずらしたら激昂して全校にバカみたいな名前(パノプティコンから)の監視システムを敷いてますますやってらんねー、になっていく、そうやって消耗させて支配しようとする大人たちとの終わらない戦いの日々。

学校の外では頻繁に繰り出されるフェイクの地震アラートとそいつをネタに緊急事態条項を成立させようとするやらしい政府(また復活しちゃうね)やそれを下支えする外国人排斥の空気とか、どこかで見た(まだ消えてない)おなじみのうんざりがぷんぷんで、ユウタとコウの周囲にもそれらに同調する連中、反対する連中それぞれがいて、でも目の前の校長のアレだけはカタをつけないといけなくて。

彼らがハッピーエンドになろうがどん底に落ちようがそんなことは割とどうでもよくて、いまの空気や問題の並べかた、それらがどんなふうに日々べったり張りついてきて気持ち悪いものなのか、はよく描けているように思った。けど、他方で、彼らの青春のお話だからしょうがないのかもしれないが、これを彼らの世代の、仲間や友達がいる前提で成り立つようなお話にしてしまってはいけないのではないか。「彼らの物語」にした途端にそれは、というかそれこそが連中の思う壺なんだってば。

思い出したのは、ここから20年ほど遡る『アカルイミライ』 (2003)で、あれも同じように若者たちのどん詰まりを描きつつも、それでも周辺の大人たちも巻きこむ世の中の不穏さ、気持ち悪さに溢れてはいなかっただろうか。あの頃ぜんぜんアカルく見えなかったミライが、あれから20年経ってどうなった?( ⤵︎ )


Breakfast Club (1985)

9月20日、土曜日の晩、Stratford-upon-Avonから戻ってきて、BFI Southbankで見ました。

シアターに入るとSimple Mindsの”Life in a Day” (1979)が流れていてちょっと動揺して倒れそうになる。 高校に通う時いつも聴いていた曲、40数年ぶりに聞いたかも。映画の主題歌の”Don't You (Forget About Me)”と同じバンドのだから、くらいで流していたのだろうが、Simple Mindsの初期はほんとによい曲だらけなんだから。

たぶん見るのは公開当時と、00年代のNYと、今回のが3回目くらいで、今回が一番しみたかも。

折角の土曜日に学校から呼び出しをくらい、親に連れられて学校にきて、"who you think you are"というテーマでエッセイを書くことになった互いをよく知らない 5人の一日を描く。

境遇もばらばら、共通の話題もそんなになく、一致しているのはそんなことをした教師への恨みと学校への嫌悪だけ。 やけくそになっていろいろ吐き出したりぶちまけたり、彼らみんな誰もが自分を理解してくれるとも、理解してほしいとも思っていない。そこから何が起こりうるというのか。最初に見た当時は、なんてスイートな結末、だったが、今見ると彼らがああなっていく過程の不思議なリアルさと、それを実現してしまった脚本、若者たちの演技の見事さに打たれる。

そして、"who you think you are"を改めていまの自分に。

10.04.2025

[theatre] Invasive Species

9月21日、日曜日の晩、King's Head Theatreで見ました。

原作は主演もしているMaia Novi、演出はMichael Breslin。NYのOff-Broadwayで上演されて評判になっていた舞台を持ってきたもの。スクリプトには”A True Story”とある。 休憩なしの約75分。

アルゼンチンからNYの演劇学校にやってきて女優を目指しているMaia (Maia Novi)がいて、パラマウント映画のオープニングのあの音楽を全身に浴びて、わたしはやれる!絶対にスターになる!って意気揚々で張りきっているのだが、気が付いたら病院のベッドに寝かされてて、ここはどこ? わたしは? になっている。

そんな彼女の周りにいろんな怪物とか変な人などが次々に現れて彼女を上げたり下げたり一緒にダンスしたり、全体としてはなにがなんでも有名になるんだ妄想に憑りつかれてしまった彼女に襲いかかる終わりのない悪夢を4人のパフォーマーがいろんな役 - 医師、病院の他の収容者、演劇学校の仲間、マイアミにいる母 - 等を代わる代わる演じたりして、そのうちのひとつがポスターになっているいろんなチューブを纏ったみど蚊みたいな虫だったり。

彼女はこんなInvasive Species(外来種)が媒介するなにかにやられてしまったのか、ひょっとして彼女自身が外来種だったりするのか、そもそもこれって病気とか害悪だったりするのか、でも今ってこんな人ふつうにいるじゃん? とか。

舞台はめまぐるしく、強いテンションで照明や音楽を変えながらMaiaが辿っていくジェットコースターのぐるぐる旅と敵のようにやってくる困難をノンストップで見せて – でも舞台は小さいただのフロアなので転換は工夫していて飽きることはない。 のだが、後半に向かうにつれて見る方も演じる方もちょっと疲れて内省的になってくるような – それはそれであって当然のことだとしても。

なのでそれらが飽和した状態でのあのラストはとてもよくわかるかんじだった。ちょっと凡庸かも、とは思ったが。


Cow | Deer

9月22日、月曜日の晩、Royal Court Theatre(の上のシアター)で見ました。

演劇というよりは音の実験パフォーマンスのような。ポスターは牛の顔左半分、鹿の顔右半分の合成写真で、動物好きなので見る。生きた彼らは出てこなかった。

演出Katie Mitchell, 台本Nina Segal, サウンドアーティストのMelanie Wilsonの3名 +National Theatre of Greeceの共同制作。休憩なしの約60分。

会場は暗くて、舞台のところは大きな作業机が3つ並んでいて、そこに草の俵のようなものとか土が積まれて盛られて、水槽もあって、奥にはブースもあって、鳥の声や水の音がしていて、机の前にはマイクロフォンが9本、刺さるように立っている。(撮影厳禁)

そこに黒い服を来た4人の奏者というべきなのかパフォーマーが現れて、牛と鹿のそれぞれの一日を音で描いていく。バックグラウンドで流れるField recordingで録った音の様子から、これは牛のそれ、これは鹿のあれ、はなんとなくわかる – それだけでもすごいが、スクリプトを読むと、結構細かく牛と鹿のそれぞれの動きが書かれていて、パフォーマーたちは、いろんな道具(濡れた布、布袋、石、木の枝、いろんな葉っぱ、じょうろ、スイカとか果物、砂とか砂利とか)を机の上の塊りの上で叩いたり鳴らしたり潰したり散らしたり指でくりぬいたりして音を出して、場面によってはそれらをミックスさせながら音のランドスケープとしか言いようのないものを見せてくれて、牛と鹿が最後にどうなってしまうのかもはっきりわかるし、とにかくこれらの音を通して牛の、鹿の一日 and/or 一生を。

あらかじめ録ってある音とライブで出す音の境界(の決め)ってなんなのだろう、とか、エレクトロニクス系のライブで机の上に箪笥シンセとか機材が積んであって演奏するのと違いがあるとしたら、とか。

日本には江戸家猫八っていうのがいて(自分がよく知るのは三代目だった)、彼がひとりいたらこれらの音はだいたい賄えてしまうのだけど、って少し思った(ちがうだろ)。

10.03.2025

[music] The Life and Songs of Martin Carthy

9月27日、土曜日の晩、HackneyのEartH Theatreで見ました。

ブリティッシュ・フォーク界のもはや人間国宝といってよいMartin Carthyは84歳で、こないだの5月に新譜を出したりしているすごい人で、そんな彼へのトリビュートライブで、ものすごい人数が出演して演奏するのだが、ロックの世界からはBilly BraggとかGraham Coxonくらい。彼のライブは2017年にCafé OTOでも見ているのだが、本当に不思議な歌を歌うすてきなおじいさんなんだよ。

会場オープンが17:00でライブは18:00から、というのを知ったのがBFIで映画を見終わった17:30くらいで、まあ最初の方は見逃してもいいか、と思って軽くご飯などを食べて会場に19時過ぎに着いたらずっと前からSold outしていた会場はとうにぱんぱんで、オープニングのJoe Boydのスピーチも、続くBilly BraggもMartin CarthyもGraham Coxonも - それぞれ弾き語りだと思うが - 既に終わっていた(ことを後で知る。底なしのおおバカ)。

全体は3部構成で、ACT1がFolk Troubador、ACT2がInnovator & Collaborator、ACT3がJust Don’t Call Him a Legend、終演は23:00、と。席は指定ではなくて、入った時には上までびっちり埋まってて、立ってるひとも大勢いて、3時間以上そうしているのはしんどいので下におりて階段通路に座る。

ステージ上にはパブ”North Country Maid”(彼の曲名でもある)ができていて、どういうことかというと、出演者はほぼ全員そこの椅子に座ってパブのカウンターで頼んだのを呑んだりくつろいだりしてて、自分の出番がくるとあいよ、ってかんじで真ん中に出て行って演奏するの。壁っぽい衝立にはポスターやチラシが貼ってあって、レコードも貼ってあって、主賓のMartinは前方にちょこんと座らされて、演者と会話したり、曲によっては(ほぼぜんぶ彼の曲だから)強引に歌わされたりギターを弾いたり一緒に口ずさんだりしている。 ぼろいパブの隅によくいそう、ずっと鎮座している神様的な存在というか。

演奏はギターを抱えた弾き語りだけでなく、ハルモニアとかアコーディオンとかダルシマーとか、アカペラだけとか、鈴がついた服とドタ靴でダンスをする男集団とか、バンドもあったし、人によって曲によって無限にありそう。

第一部の休憩後、第二部に入る前に各界からのお祝いのメッセージビデオが流れて、これがまた冗談みたいな。

KT Tunstall → Paul Brady → Jools Holland → Van Dyke Parks → Paul Weller → Robert Plant → Bob Dylan、だよ。 これだけの広がりのおおもとにこの小さなおじいさんがちょこん、て座ってて、みんなが行けなくてごめん、って言うの。

個人的にはMaddy Priorを見て聴けたのがよかった。Graham Coxonはずっとステージ上で寛いでいて、歌をうたう女性にGの音だしてくれる? ってこき使われていたりした。

酔っ払いのお話しが長くなっていくのと同じように、どの曲もお話しを語り聞かせる調子なので一曲がかなり長めで、でもどれも気持ちよく入ってくる。誰の話だったか忘れてしまったが子供の頃にギターを練習していて、ギターのコードってメジャーかマイナーか、くらいだったところに、Martinの曲からそれだけじゃない、こんな(実際にいくつか弾く)のがあるんだって知って、そこから深みにはまった、みたいな話がおもしろかった。 音楽史的にはVilla-LobosとかJoão Gilbertoのようなところに位置付けられるのかしら。

最後は出演者全員の合唱で何曲かやって、”Hard Times of Old England”から”England Half English”に繋いだBilly Braggは(やっぱり)力強く”Free Palestine!” を叫んでくれた。


Gina Birch & The Unreasonables  

9月24日、水曜日の晩、100 Clubで見ました。
この日はお芝居を見に行く予定だったのだが、彼女のライブの予告が来たので演劇はキャンセルしてこっちにする。

こないだ出たAudrey GoldenによるThe Raincoatsの評伝本”Shouting Out Loud: Lives of the Raincoats”は当然全員のサイン入り、トートバッグとバッジがついた特装版を予約して手に入れた。見たことのない写真とか関係者証言が山盛りで、いつでもどこからでも読める。カートが亡くなった晩のNY Academyでのライブ(Liz Phairの前座、自分がRaincoatsのライブを最初に見たとき)のバックステージがどんなだったかが綴られていたり、興味深い。

昨年のTate Britainの企画展示”Women in Revolt ! Art and Activism in the UK 1970-1990”の会場でもちょこちょこライブをしていたらしい彼女が、バンドでライブをやるって。それにしてもすばらしいバンド名よね – “The Unreasonables” - 理不尽やろうども。

会場はもちろん埋まっているわけなくて、入ると物販のところにもう彼女が立っていて、なんでもサインするよー、って。客層は老人ばかりでみんな椅子を求めてフロアを彷徨っている。

前座はTaliableっていうDJつきの、白覆面をした女性ラッパーで、元気があってよかった。

Gina Birch & The UnreasonablesはGinaを入れた3人組で、彼女以外の二人はギターだったりベースだったり、場合によってはキーボードと太鼓だったり。Ginaもベースだったりギターだったりで、曲によって細かく持ち替えたりしていたので、もう纏めてなにかをリリースできるところまで来ているのかもしれない。曲のかんじは後期Raincoatsにも通じる風通しのよいがしゃがしゃで、背後のプロジェクターからはTateの展示でもリピートされていた70~80年代の彼女の映像が流れていく。

ラストはもちろん”Lola”で、みんなでぴょんぴょん合唱して終わって、またねー ってかんじで別れる。

10.01.2025

[film] One Battle After Another (2025)

9月26日、金曜日(公開初日)の晩、BFI IMAXで見ました。
 
IMAX 70mmのフィルム上映で、北米以外でこのプリントを見れるのはここだけだそうで、後半の車の追っかけっこのところとかめちゃくちゃすごいよ。IMAX 70mmの映像がもたらす驚異、を初めてちゃんと思い知ったかも。
 
Paul Thomas Anderson (PTA)の新作で、あんまりかっこよいとは思えないLeonardo DiCaprioがおろおろしまくるだけの予告ががんがんかかりまくり、公開週末の全米興行収入では一位になってしまったという…
 
原作はThomas Pynchonの” Vineland” (1990)(を緩く)、音楽はJonny Greenwood、撮影はMichael Bauman。
 
Wes Andersonの世界に出てくる変人たちよりはもう少しリアルっぽい変人たち – 特に男はいっつもぜったい変態 - が、2009年から現在までの、16年に渡るアメリカ合衆国と思われる国で機関銃を撃ちまくったりの「バトル」を繰りひろげていくのだが、架空の組織や体制を扱いながらも、その崩れっぷりも含めてとてもPTAぽい。DiCaprioばかりがクローズアップされがちだが、彼はひたすら逃げまくっているだけ、Robert Altman的にぶっこわれた(ていく)集団活劇、として見たほうがよいのかも。 162分、あっという間。
 
カリフォルニアの移民収容施設に、Perfidia Beverly Hills (Teyana Taylor)とGhetto (Leonardo DiCaprio)のいる極左組織 – French75が乗りこんで拘留されていた移民たちを解放する。その際にPerfidiaは軍のLockjaw (Sean Penn)を縛りあげて辱めて、Lockjawはその快楽にやられてPerfidiaに粘着して彼女に会うようになり、French75周辺の情報を聞きだしてそれを元に組織を壊滅状態に追いこんで、その間にPerfidiaは女の子を出産するが、彼女はその子をずっと恋人だったGhettoに託して消えてしまう。
 
そこから16年経って、Ghettoは名前をBobに変えて、娘のWilla (Chase Infiniti)と身を潜めて小さな町に暮らしているのだが、白人至上主義の極右秘密結社に勧誘されたLockjawが過去のPerfidiaとの関わりを消すべく(純血主義だから)Willaを捕らえて、French75の壊滅に動きだして(ここに先住民の殺し屋が挟まるとかめちゃくちゃ)。
 
学校のダンスパーティに向かう寸前にFrench75のDeandra(Regina Hall)に救われたWillaは修道院に匿われて、Bobのところにも追っ手が迫って、空手のSenseiのSergio (Benicio del Toro)に助けられながら一緒に逃げるのだが。
 
後半は半分らりらりで組織の合言葉も思いだせず、ひとり勝手に錯乱して大騒ぎなのに「トム・クルーズでいけ!」ってSergioに車から放り出されてしまうBobと、修道院にやってきたLockjawとのやり取りのあとに殺し屋に引き渡されたWillaの戦いと、そしてLockjawにも刺客が…
 
極右に極左、移民コミュニティに修道院に軍に警察、これらがぐちゃぐちゃに入り乱れるOne After Anotherの殺し合いに潰し合いの顛末について70年代を舞台にCoppolaやScorseseが描いてきたギャング映画とも、復讐ファーストのTarantinoのそれともまったく異なる色調とアスペクト比で広げてみせて、それはいまのランドスケープに見事に繋がってしまう。 みんなそれぞれに高慢と偏見と陰謀論で人々をより分けたり分断したりしつつ、誰もが自分はトム・クルーズなんだと思っていて、知らないところで誰かが誰かに簡単に殺されていく – と、そこまで悲惨なトーンではないのだが、そういう腐れて錯綜した(特に白人男たちの)気持ち悪さ、に溢れている。
 
PTAはこんなふうに何かに憑りつかれて捩れておかしくなってしまった男たちをずっと描いてきたので、これもそのバージョンなのかもしれないし偶然なのかもしれないけど、あまりに今のあれが支配する世界に近いところに来てしまっていて、結果として笑えたかも知れないところで笑えない。それでよいのかも、だけど。 あの極右の白い男たちのつるっとしたゴムの顔の光沢とか、ああいうのってほんとうにいるんだよ。
 
音楽はピアノがぽんぽんずっと鳴っているかんじなのだが、ところどころの腑抜けモーメントで、あ、Jon Brion?って聞こえるところがあって、後で確かめたらやはりそうだった。変態の世界を優しく覆ってくれるJon Brionの音の毛布。 最後に来るのはTom Petty & The Heartbreakersの”American Girl” 〜 Gil Scott-Heronの”The Revolution Will Not Be Televised”だよ(どちらもこのドラマが動いていた時代に亡くなった闘士である)。こんなの嫌いになれるわけがない。
 
それにしても、90年代にLeonardo DiCaprioとSean Pennがこんな映画でこんな形でやりあうことになるなんて、誰が想像したであろうか。
 
そして、男優たちの反対側にいる女優陣は全員がすばらしいったらない。尼さんたちの銃撃戦を見れたらもっとよかったのにな。(そしてPaddingtonはこっちに来るべきだった)
 
プロモーションのひどさとか上映館数の少なさとか、左翼アレルギーも含めた日本の映画配給のしょうもない幼稚さ、これもまたOne After Anotherの戦いということで。(他人事)

[theatre] Measure for Measure

9月20日、土曜日昼のマチネを、Stratford-upon-AvonのRoyal Shakespeare Theatreで見ました。

ロンドンからStratford-upon-Avonは電車で2時間以上かかるのでお芝居に行って戻ってくると一日潰れてしまうのだが、これは予告見てすぐ見たい!と思ってチケット取って、行きの電車が途中で止まって乗り継ぎに失敗して(次の電車は1時間後..)、現地で遊ぶ余裕もぜんぜんなくなってしまったのだったが、それでも見てよかった。

原作はシェイクスピアの『尺には尺を』 (1603-04)。 演出はEmily Burns。

舞台はクローム、メタル、ガラスでモダンに仕切られた現代のオフィスのような空間 - 牢獄はガラスで覆われたケースが下りてくる仕掛けだったり。 前回ここで見た”Hamlet Hail to The Thief”もモダンな舞台だったので、このシアターで見るシェイクスピアは自分にとってすっかり現代劇になっている。

冒頭、舞台奥のでっかい三面プロジェクターにMonica Lewinsky/ClintonのスキャンダルからTrump、Harvey Weinstein, Jeffrey Epstein, Prince Andrewまで、現代の権力者による性加害の映像がずらっと並べられて壮観(吐気)。

ぱりっとした背広を着た公爵Vicentio(Adam James)がしばらく身を隠すから宜しく、と周囲に告げて後任にAngelo (Tom Mothersdale)を指名して自分は僧院の修道士に姿を変える。

恋人のJuliet (Miya James)を結婚前に妊娠させた罪で拘留されているClaudio (Oli Higginson)にAngeloは絞首刑のオーダーを出して、その官僚的な身振りと手つきに揺るぎはなくて、Claudioの妹Isabella (Isis Hainsworth)は絶望しつつ減刑を求めて彼のところに通って、を続けていると、ひと晩付き合ってくれたら考えよう、というところまで来て、でもそんなの絶対嫌だしおかしいし、なのでClaudioの友人のLucio (Douggie McMeekin)に相談したりしつつ泣いていたら公爵がAngeloに婚約を破棄されたMariana (Emily Benjamin)の件を持ちだして罠を仕掛けたらどうか、と。

こうしてAngeloのところに怯えながらやってきたIsabella、それとは逆に闇の向こうから救世主として堂々と現れるMariana、欲望と体裁の間でどきどきしつつ目隠しをされて縛られてされるがままのAngeloの前で「すり替え」が行われる「現場」の生々しい臨場感 - 流れている曲はElvis Presleyの”Can’t Help Falling in Love”。

当然このトリックは事後にばれて、だまされて意固地になったAngeloはClaudioの刑を取り下げようとしない(レコーディングして脅迫しちゃえばよかったのに)。 最後の裁きのシーンでは、リアルタイムのカメラが登場人物たちの表情と挙動をプロジェクターにでかでかと映しだし(Ivo van Hove風)、誰もどこにも逃げられない緊迫の様がドキュメントされるのだが、ドラマの構造としては遠山の金さんなので、やや陳腐(おもしろいけど)。それでも女性たちの証言が重ねられて皮が剥がれていくところは力強くスリリングな現代の法廷劇になっていて、冒頭の腐った権力者たちの像ともここで連なってくるのか、と思った。

婚姻制度のもつ奇妙な(まるで罰と表裏一体の)力と、それに多かれ少なかれ起因したスキャンダルのありようは現代のそれとしか言いようがないのだが、” Measure for Measure” - 『尺には尺を』の、ここでの尺と尺って互いが見合ったものになっていないような。でも、最後に一緒になろうと公爵から言われたIsabellaの少しの困惑からの最後の行動はすばらしくて(という言い方でよいのかな)、まだ目に焼き付いている。公爵からあんなこと言われて、この上なき幸せ、だと思われた(少なくとも公爵はそう思った – 救いあげてやっただろ、とか)のに、彼女にしてみれば、なんだこの地獄は、でしかなかった、という…(尺には尺って、ひょっとしてこっち?)

雨音のようにずっと鳴っているAsaf Zoharの音楽もすごくよかった。

このあと、ロンドンに戻ってBFI SouthbankでRe-releaseされた”Breakfast Club” (1995)を見ました。