8月23日、土曜日の朝にヒースローを発って、24日、日曜日の朝に羽田に着いて、27日、水曜日の朝に羽田を発って、同日の夕方にヒースローに着きました。正味3日間の滞在。
もちろん覚悟はしていたのだが、とにかくものすごく酷い暑さだった。うまくいかないのはぜーんぶ暑さのせいにしてよい、そういう暑さ。
帰国の理由メインは4月の手術後のチェックと人間ドックだったのだが、この環境であんなのやったって暑さでしんじゃったらどうする? くらいの。
ふだんの運動らしきものとしては、映画館と美術館とギャラリーと劇場と本屋の行き来のみ - 会社はやるきなしでだらだら這うのでカウントしない - の者としては、この「運動」すら許してくれない酷暑をどうしてくれよう、なのだが、こんなのでくたばりたくはないので数と範囲を限らざるを得なかった。
いか、簡単な備忘を - 全部は書いていません。
団地と映画 @ 高島屋史料館TOKYO
24日の最終日にどうにか。狭い展示スペースのなかに、戦後の高度成長期と共に形成されていった都市、その住空間として象徴的な機能、記号として根を張って広がっていった「団地」について、そこを舞台とした映画について白板に書き散らしていったものを纏めたような。ものすごい記憶の集積と労力の掛け算によるアウトプットだと思う反面、これを自分の脳内の地図にマップしていくだけの時間がなかった。実際にどこかで映画の特集を組んで見ていくしかないのかも。
難しいだろうけど、なんで団地なのか、団地的なものがあの当時の日本の都市で形成されていったのか、の方に興味があって、それは展示というより研究になっちゃうのかしら。
記録をひらく 記憶をつむぐ @ 国立近代美術館
24日、日曜日の夕方、へろへろで竹橋に向かう。今回の訪日の失敗のひとつは、月曜日を3日間の真ん中にしてしまったことで、月曜日って殆どの美術館閉まっているからー。でもこれはなにがなんでも見ようと思っていた展示のひとつ。
アートは戦争に利用される、アートは戦争に反対することもできる、アートはそうやって戦争に関わってきた、という「記録をひらく」こと、そういうのを横目に(例えば)こんな悲惨な目にあった、という「記憶をつむぐ」こと、どちらもアートの用途で目的のどまんなかとしてあり、これらを俯瞰してなお、「アートに政治を持ちこむな」なんて言うのは、自分はとてつもなく鈍いおバカさんである、って宣言しているようなもんなので、いい加減目をさましな。これらぜんぶ企画展ではなく、まるごと常設展示しておくべきではないか。
リアルであること、の意味について改めて考える。最近だったらAIに頼めばいくらでも量産してくれそうなこれら戦争の絵画たちについて。
あと、常設コレクションの7室でやっていた『戦後の女性画家たち』の展示がとてもよかった。
ロンドンのNational Army Museumでも“Myth and Reality: Military Art in the Age of Queen Victoria”という結構規模の大きい展示をやっているので、そのうち行ってみたい。
生活の設計 - Design for Living (1933)
シネマヴェーラのルビッチ特集、せめて1本くらいはー、ということで25日、月曜日の午後に見ました。 これは後で書きます。
Sentiments Signes Passions, à propos du Livre d'image, J.L. Godard @ 王城ビル
『《感情、表徴、情念 ゴダールの『イメージの本』について》展』
この展示だけは月曜日にもやっていたのでルビッチの後に行った(共催?の春画展はあきらめ)。
これ、ゴダールの展示ではなく、ゴダールの『イメージの本』についての展示なのね。Webにはいろんな解説が溢れていたが、そういうのは見ないで入った。映画館でもギャラリーでもなく、やばい出しものをやっているそれ自体がやばそうな建物に入る。
建物の内部も段差だらけのぼろぼろで薄暗く、あちこち透けるカーテンのような布で仕切られていて、雑然と置かれたモニター上の映像の他にその布にも映像 - 『映画史』的な網羅感 - が投射されていて、それらの光を頼りに階段を上っていく。階段の踊り場や布の下にはいろんな本 - シオラン、ウルフ、リルケ、マラルメ、ベイコン、マッケ、などなどが置かれていて手に取って読んでもよいらしい。
前世紀であれば「テキストの織物」とか呼んだかもしれない引用、転用、に向かう手前の、目の前の雑多な「イメージ」を粗いままに端から置いて並べて、拾えるものは拾え、というリンゴ箱に置かれた「本」として、映画を構成するなにか、というより映画から紐解かれ解されたページの切れ端が並べられて、異なる時間間隔のなか反復されていく。
そこにあるのは妙に追いたてられるような切迫感 - 目に入るものは入れておけ、足元の本も拾って立ち読みでもいいから –で、映える廃墟ビルの光景と共にみんなカメラを回していて、これもまた「イメージの本」に追記され滞留していく何か、なのだろうか。恵比寿でのペドロ・コスタの展示 - ペドロ・コスタの展示こそ、この展示のあとにここでやればよかったのにー、とか。
気がつけば1時間経っていて、その時間の使われ方は古本屋でうずくまっている時のそれと同じで、ああそうか、なのだった。
↑の『団地と映画』展も、どこかの団地を使ってこれと同じ形でやれたらすごくおもしろくなったであろうに。
トランスフィジカル @ 東京都写真美術館
26日、火曜日の昼、人間ドックと次の診察の合間に。
『総合開館30周年記念』の展示(ここでの総合、ってなに?)。学芸員4名の共同によるオムニバス形式の企画展示で、「トランスフィジカル」。表象としての写真も映像も、すべてはふつうにトランスフィジカルなので、だよね? で止まってしまう気もしたが、気にしないで見る。 ここのコレクションにはおもしろいのもいっぱいあるし、何度でも見れるし。
Luigi Ghirri - Infinite Landscape  終わらない風景 @ 東京都写真美術館
これも『総合開館30周年記念』の企画展。彼もまた「トランスフィジカル」の写真家 – メタフィジカルにいく手前で辛うじて写真であることに留まった「距離」の人で、距離を棚上げ/宙づりすること –図形化することでそれは「終わらない風景」になる、と。
イタリアのなんでもない風景を撮った写真がよい。モランディのアトリエ、は昨年ボローニャで彼の美術館であれこれ見て、その奥行きと広がりにびっくりしたので、改めて恐々と見た。
難波田龍起 @ 東京オペラシティ アートギャラリー
26日の夕方、診断を終えた後に見る。
そんなに知っている画家ではないのだが、抽象画ってなに? というのに興味がわいて追いはじめたので。
「東洋的」、って、そういう形容が入った時点で既に抽象ではないのでは、と思いつつ、でもよく見ていると確かに東洋的な何かを感じないでもない。これってなんなのか。自分のなかのフィルターなのか、抽象化を施す過程になんかあるのかな、とか。
上記以外は、ほぼデパ地下とかスーパーでの向こう数カ月分のお買い物だったのだが、日本橋三越はよりによって英国展なんかやってるし、伊勢丹はカレーフェアだし。カレーなんてほんとどうでもいいし…
本はいろいろ買ったのだが、結局他の荷物 – ほぼ当面の食料 – との兼ね合いで置いていかざるを得ないのが増えて、それらがアナザー山として積まれていて、なかなか新鮮だったりする(いやそうじゃない)。
8.30.2025
[log] Tokyo - August 2025
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