6月23日、月曜日の晩、BFI SouthbankのMichael Haneke特集で見ました。
英語題は”Hidden”、邦題は『隠された記憶』。 カンヌでは監督賞を含む3部門で受賞している。
ヨーロッパ - パリの古さとモダンさが合わさった邸宅 –かっこいい- を通りの向こうから映している静止映像が流れていて、そこにキャスト等のクレジットの文字が機械的に覆っていくのが冒頭。 やがてその映像 – ただの家とそこを出入りする家族など - が収録されたビデオテープがそこに住む裕福な家族 - Anne (Juliette Binoche)とGeorges (Daniel Auteuil)、息子のPierrotの元に差出人不明で送りつけられる。誰が何のためにそんなことをしているのか、不明すぎて気持ち悪く、そのうち首から血を流している落書きのような絵も送られてきて、子供の安全もあるので警察にも相談するのだがこの段階では調べようがない、と退けられ、やがてGeorgesが子供の頃に過ごした実家の映像が送られてきたので、思い当ることがあるらしいGeorgesは、子供の頃に一緒に暮らしていたMajid(Maurice Bénichou)のところを訪ねるが、彼は当然そんなの知らない、という。
Majidのアルジェリア人の両親は、Georgesの実家で農場労働者として働いていたが、1961年のパリ大虐殺で行方不明になっている。親を失ったMajidに責任を感じたGeorgesの両親は、彼を養子にするつもりで実家に置いていて、送られてきたビデオテープによってGeorgesの記憶に蘇るものがあって..
誰がカメラを置いてその映像を撮って、そのテープを送ったのか、の犯人捜しをしていく映画ではなく、一連の無機質な映像や落書きが誰に、何を想起させるのか、それは何に根差すものなのか、をじりじりと追って迫って、そのなかでGeorgesはAnneに対してすら頑なに口を閉ざして、内に籠って自壊していく。
フランスのアルジェリア戦争と植民地主義に根差した集団的記憶と罪の意識がブルジョア階級にどんなふうに根を張って、その視野をおかしくしたりしているのかを描いた、というのは後で知って、なんでそこまでして隠されなければならないものなのか、は説明されないので、Georgesの大変さと、でもそんなの知ったこっちゃないし、が両方きて、画面上で陰惨な酷いことが起こる場面ですらスタイリッシュなので、ますます勝手に悩んでいれば、になってしまうのだった。
他方で、日本でこういう過去の、歴史に記されるような過ちがそれなりの規模で正面から掘り返されずに個々人のトラウマみたいなところに押し込まれがちな(ように見える)のって、やはり社会化とか教育(修正された歴史の内面化)によるところが大きいのだろうか? しょうもないブルジョアのドラマにされてしまうのであっても、こっちの方がまだ健全である気はする。
Le temps du loup (2003)
6月25日、水曜日の晩、上と同じくBFI SouthbankのMichael Haneke特集で見ました。
この人の映画って、見ていてかなり緊張を強いられるし、辛いし、後味もよくないのに、つい見に行ってしまうのはなんでなのか。みんなで揃ってなにか反省とかしたいのか。
英語題は”Time of the Wolf”、邦題は『タイム・オブ・ザ・ウルフ』。
郊外の山小屋のようなところにGeorges (Daniel Duval), Anne (Isabelle Huppert) – ここでもGeorgesとAnneだ - と彼らのふたりの子供たち - Eva (Anaïs Demoustier)とBen (Lucas Biscombe)がやってきて、荷物を運びいれたところで先に入りこんでいたらしい男とその家族が、銃を構えて荷物を渡せと脅し、Georgesを簡単に撃ち殺して、その先は、AnneとEvaとBenが家のない荒野を彷徨っていく。
なにかの大惨事や大災害に見舞われたのか、それによって社会のなにがどうなって彼らがそうなったのか、事情とか背景は一切説明されず、夫/父を失った家族が放り出された先に待ちうける困難、出会う人々とのやりとり等を具体的に描いていって、そこは人権や通貨などによってそれなりの安全を保障された「社会」ではなく、食うか食われるかの奪い合いがあり、手に入れたもん勝ちの世界で、Anneにとっても、Evaにとっても、Benにとっても、それぞれで辛苦の様相は異なっていて比較できるものではないが、みんな我慢して耐えるしかなくて、シンプルにしんどそう。
↑の” Caché”の世界と同様、コトの中心で誰がなにをしたのか、どうしてそうなっているのかの説明がないまま、だだっ広い荒野のまんなかで気持ちがよくないまま我慢せざるを得ない事態が延々続いて、それによって主人公たちの立ち居振る舞いがどうなっていくのかを描いて、だんだんに滅入ってくる。
イントロでも言われていたが、コロナ禍の最初の頃はこんなかんじだったので、その居心地の悪さとか、先の見えないかんじは確かにわからないでもない。でもあの時はそれでも「社会」的な何かがまだ機能して/しようとしていた気がする。それすらも失われた先になにがあるのか。
日本の震災の避難所って、こんなふうだったのではないか、って少し思ったり。
上の作品もそうだが、ものすごく強固で説得力のある物語世界 - 例えばディストピアのそれ - を構築しているわけではなくて、実験場のようなところに置かれた人々がそこでどう振る舞って自身の自我や尊厳をどうにかしようとするのかを見る、更には彼らにとって「不安」や「恐怖」と呼ばれるものを構成している成分はなんなのか、それは他者に伝えたりできるものなのか、とか、それらをスケッチして並べていくことで見えてくる「本性」?みたいなものとは。 やっぱり「レミング」なのか、とか。
7.01.2025
[film] Caché (2005)
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