6月26日、木曜日の晩、Menier Chocolate Factory Theatreで見ました。
Borough Marketの近くにある小さくて古い劇場で、トイレは場外に置いてあるトレーラーにあったりする。
昨年もShepherd's Bushの劇場で上演されていた一人(と一台)芝居の再演。
作、作曲、主演はAnoushka Lucas、企画と演出はJess Edwards。休憩なしの1時間25分。
客席が四方から囲んで舞台を少し見下ろすかたち、真ん中には円形のサークルが掘られていて、そこにマホガニーのアップライトピアノが置いてあり、その傍らにLylah (Anoushka Lucas)がさらっと現れて穏やかに、ピアノにはぜんぶで88の鍵盤があります、うち黒鍵は36、白鍵は52あって、などと語り始めて、鍵盤に手を置いて試すように歌いだす。が、ずっと歌っていくわけではなく、ピアノから離れて客席を見つめながらモノローグだったり、リハーサルになったり、ラジオの音声や録音された男性の声なども被さってくる。彼女が歌っているときは、サークルがピアノと一緒にゆっくりと回転する。多分どこかにマイクはあるのだろうが、一番前で見ていても彼女の頭に装着されたものは見えず、客席に地声で届く範囲で語り、歌っていくような。
彼女が小さい時にこのピアノは住んでいた公営住宅の窓から運びこまれて、母親も音楽を、歌うことを奨めたし彼女も弾いて歌うことが好きだったのでずっとそうして弾いて歌って一緒に育ってきて、奨学金で高校からオックスフォードにも進学して、ドラムスをやっている彼もできて、でもそうやって自分の音楽を掘り進めていく中で、労働者階級である出自や、イギリス、フランス、インド、カメルーンの混血であることを否応なく意識させられ、レイシズムにも晒され、彼女自身のヴォイスも音楽に向かう姿勢も変わってくる。 楽しいからって始めたはずのことが、苦痛に近い縛りとして迫ってきて、それは彼女の日々の生活と地続きで。
音楽の道を考え始めた時にレコード会社の男たちから軽く言われてしまう、もっとUrbanに、とかAlicia Keysのように歌えないか、アクセントなどももっとこうしたら、もっと品のない歌詞にしたら - 売れるんじゃないか、とか、恵まれていて血統のよさそうな彼の家に行った時にも彼の家族から端々を突っこまれ、品定めされているような感覚がつきまとって、彼女を嫌悪と無気力のループに押しこめようとする。(もちろん彼らは後から「そんなつもりはなかった」とさらりと言うだろう)
そしてそうなった彼女が向きあう友達であり同士であるピアノは、そのアイボリーの鍵は、アフリカで殺された象の頭蓋骨~牙でできていて、それをここまで運んできたのは自分とルーツを共有しているかもしれないかつての奴隷たちで.. といったことを考え始めると止まらなくなっていく。 自分たちはなんでここ(英国)にいるのか、なんのために鍵の先の弦を、それらを束ねた音楽を打ち鳴らすのか、等。
劇は、そんな彼女の痛みや辛さをブルースとして歌いあげたり祈ったりしていくのではなく、こんなことがありましたけど、自分はこのピアノ – Elephantと一緒に歩んでいきます、というプロテストに向けたさばさば潔い宣言になっている(きっかけとしてGeorge Floydの事件もあったそう)。 客席のひとりひとりを見つめるまっすぐな目と後ろに引かない背筋が、これで終わらないことを告げて、かっこいい。 大きなホールで訴えるようなものではないが、はっきりと伝わってくるものはあった。
こんなふうに、例えばピアノを弾く、服を着る、ご飯を食べる、それだけで政治的な何かは否が応でも絡まってくる。いい加減目を覚まして選挙に行け。
7.03.2025
[theatre] Elephant
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