7月27日、日曜日がスイス滞在の、夏休みの最終日で、この日はBaselに行ってきた。
Zürichから電車で1時間くらい。この日も美術館が開く10時めがけていく。
Kunstmuseum Basel
バーゼル美術館。1671年に開設された世界最古の公共美術館だそうで、こんなのが「市立」?なんてありえないくらい常設展示が充実していてびっくりする。そして好き嫌いでいうと、ものすごく好きなのが並べられていて、こういうのを見て回るのは早い方なのだが、1時間半くらいかかった。足らなくて時間が許せばもっといたかった。
Hans Holbein der Jüngereの見事なひと揃えがあったり、宗教画と近代が中心でどこかが抜けている気がしないでもないのだが、Paula Modersohn-Beckerの少年と猫のとか、Franz Marcの「2匹の猫、青と黄色」とか、Oskar Kokoschkaの大きな”The Bride of the Wind” (1913)とか、Edvard Munchの白鼠を抱いた少女とかでっかい風景画とか、あまりのことにこれらがある小部屋で絶叫しそうになった(常設のコレクションを見ているだけでそうなることってそんなにない)。他にもVallottonの歪んだ風景(?)画と裸踊り系と、Arnold Böcklinの”Die Pest” (1898) – すごくこわい – とか。 一週間くらいここに閉じこめられて暮らしたいと思った。
Medardo Rosso: Inventing Modern Sculpture
この展示、昨年12月ウィーンのmumok(近代美術館)でも見ていたのだが、すばらしかったのでもう一回見る。
イタリアの彫刻家Medardo Rosso (1858-1928)の回顧展で、Rodinの同時代人であり一時期親友でもあった彼の主要作品だけでなく、輪郭がぐずぐずと崩れたり溶けたりしていくような頭部の彫刻~オブジェに共振するかのように歪みや溶解を見せるモダン~ポストモダンのアーティストたち - Francis Bacon, Louise Bourgeois, Alberto Giacometti, Robert Gober, Yayoi Kusama, Marisa Merz(前日のBernでレトロスペクティブを見た), Bruce Nauman, Richard Serra, Georges Seurat, Andy Warhol, Francesca Woodmanなどの彫刻、オブジェ、写真、絵画などが並べられ、そしてBaselではウィーンの展示に加えてGiorgio de Chirico, Marcel Duchamp, Peter Fischli / David Weiss, Henry Moore, Odilon Redon なども加わっている – これ、結局なんでもありじゃねえの? - とか。
例えば印象派以降 or 起源のようなテーマではなく、「近代彫刻の発明」の起点にいた彫刻家の作品群から人や顔や体のイメージがどう変容、伝染していったのかを追っていく、それは直接間接の影響を受けていた、ということよりも地表の温暖化でまるごと溶けていくとか、そういうのに近い伝播、変容のしかただったのではないか、とか。
ウィーンではカタログの分厚さにひるんで買わなくて、ずっと後悔していたので、今回は負けないで買う。
Fondation Beyeler
ここからトラムを乗り継いでバイエラー財団に向かう。原美術館と根津美術館を合わせてよりモダンにお金持ちにしたかんじ。
Vija Celmins
ラトヴィアに生まれてNYに暮らす造型作家Vija Celmins(1938-)のレトロスペクティブ。ヨーロッパでは20年ぶりのソロ作品展になるそう。
60年代の銃や戦闘機をモチーフにした作品たちが海面とか砂漠とか蜘蛛の巣に移り、やがて散る雪とか星空に至る。一通り流してふーん、てなって最後の部屋で”Vija” (2025)っていうこの展示のために撮ったという32分のドキュメンタリーを上映していて、ちょっとだけ見ようと思って見始めたら止まらなくなって最後まで見てしまった。
VijaがNYの旧アトリエでどうやって描いていくのか、昔はどうやっていたのかを説明したりするのと、Hamptonsのアトリエに彼女自身の運転 - 結構なスピードでぶっとばす - で移動して、移動先でも話を続ける。すごく饒舌に語るのではなく、ゆっくりとラトヴィアから終戦直後のベルリンを経てNYに来て絵を描きはじめた頃の話とか、車のなかで照れながらラトヴィアの歌を歌ってくれたりとか、アトリエ猫のRaymondとか、創作の秘密とか動機なんてもちろん明かさず、なんでこんなインタビューしなきゃいけないの?とかぶつぶつ言いながら、とにかく素敵なひとなの。
おもしろかったのは、あなたの絵に赤はないので、やはり赤い絵の具は持っていないのですね? と聞かれ、そんなことないわよ持ってるわよ、って引きだしを開けまくって、やはり赤はなくて、自分は赤の人ではないのだ、って居直るとか。
彼女が星空を描いていくところも、ものすごく細かなレースを地味に編んでいくようなことをやっていて、なんかすごい。
で、これを見て再び展示の最初から見ていったら結構印象が変わって、いかにいい加減に見ていることか、って。
この後にパーマネントコレクションを流して、Vijaのカタログも買ってしまったので結構重くなり、続けてDesign Museumにも行こうと思っていたのだが、そこに向かうバスが1時間に1本で、30分以上待つことになりそうだったので諦めた。また今度。
かわりに、ライン川沿いのスイス、ドイツ、フランスの三国の国境が交差する地点に行ってみる。動いているのかいないのか錆びれた貨物用の線路と橋がある夜にはなんかありそうな場所、雰囲気としては(そういうのが好きな人には)たまんないやつで、その場所もミサイルのようなモニュメントが立っているだけで、あたりにはなんもなくて、こんな国境なんてとっととなくなればよいのにな、って。
帰りは17時くらいにホテルに荷物を取りに戻ればよいので割と余裕で、でも事故ひとつ遅延いっぱつでアウトだから注意していたのだが、今回のスイスの鉄道は全体にものすごく優秀でびっくりだった。やはりドイツのDBが酷すぎるのよね。
この日、町中も駅もユニフォームを着て太鼓を叩いたりの人がいっぱいで騒がしくてなんだろ?と思っていたのだが、女子サッカーのEURO2025の決勝があったのだった。それを聞いて知ったのは戻りの飛行機のなかで、機内アナウンスで、結果をお知らせすると具合が悪くなる方がいらっしゃるかもしれないのでアナウンスは致しませんが、知りたい方は降機の際に添乗員のとこまで来てください、だって。
今回のスイスはだいたいこんなかんじ。
ローザンヌとかジュネーブとか、シルスマリアとか、行っていないところもいっぱいなので、またね。
7.31.2025
[log] Basel - July 27 2025
7.30.2025
[log] Bern - July 26 2025
7月26日の土曜日はBernに行った。
腰から下ぜんぶ足首までがばりばりの筋肉痛で泣きたかったけど、泣いても夏休みは止まってくれない。
Kunstmuseum Bern
開館時間の10時に間に合うように行った。ベルンの駅から歩いていくと、あちこちの建物に熊の旗が刺さっている。そうここは熊の国。 美術館の床にも熊がいた。
Marisa Merz - Ascoltare lo spazio / Listen to the Space
Arte Povera(貧しい芸術)運動に参加していた唯一の女性、イタリアの彫刻・オブジェ作家Marisa Merz (1926–2019)のスイスでは30年ぶりになるというレトロスペクティブ。
シンプルで無骨でわかりやすい素材(アルミ、網、糸、布、棒など)とテーマ、そのブツの(ややぶっきらぼうな)置き方、置かれ方が家や部屋や目、といった空間のなかでどんなふうにその愛や想いやぐるぐるを編みあげていくのか、をまっすぐに問いかけてきて、ところどころでやや激しくぐしゃぐしゃと荒れた絵画作品がほうらって、その断面を撫でていく。自分がオブジェとかインスタレーション作品に求めているのって多分こういうものなのかも、って思ったりした。
Collection intervention by Amy Sillman
自身も画家であるNYのAmy Sillman(1955-)がここの美術館の収蔵品(絵画、写真、オブジェ、インスタレーション等)をキュレーションして、壁に薄っすら描いた自分の作品も含めて時代も地域もお構いなしにでこぼこ自在に並べていて、端から見ていくとおもしろい。おもしろいのだが、きちんと流れをわかるには2~3回回らないと難しい気がして、その辺がなー、だった。
これ以外の常設展示のところは割とふつうだった。クールベの「海」の素敵なのがあった。(クールベの「海」を収集する委員会)
Zentrum Paul Klee
Bern美術館からトラムで少し遠めのとこにある。ここも長年の野望のひとつだった。
トウモロコシ畑(?)の向こうにRenzo Piano設計のうねりがうにゃうにゃうにゃと3つ並ぶ。
展覧会とか展示をやっているのは真ん中のうにゃ、だけのようだった。
Rose Wylie. Flick and Float
2017年、Serpentine Galleriesでの個展 - ”Quack Quack”で出会って大好きになり、こないだDavid Zwirnerから出たでっかい画集も買ってしまった彼女と、まさかこんなところで会うことになろうとは。1階のものすごく広いスペースにでっかい作品がざーっと並べてあり、隅では彼女のインタビュー映像も流れている。
眺めているだけでなんか楽しくなったりお出かけしたくなったりスキップしたくなったりする。
カタログは、Juergen Tellerが撮影したアトリエでの彼女の写真がいっぱいあって、どうしようか悩んでやめた。
来年はロンドンのRoyal Academy of Artsで回顧展もあるよ。
Kosmos Klee. The Collection
地下は常設に近いかたちでPaul Kleeの展示があるようで、彼の子供の頃からの写真とか作品が時系列で並べられている。
そのなかの更に小特集のようなかたちで、” Fokus. Cover Star Klee”と題した、主に西欧圏でブックカバーとして採用されたKlee作品(と本の表紙の現物たち)を特集している。
日本のベンヤミン選集の表紙にもあった気がする”Angelus Novus” (1920) - 『新しい天使』は、絵の現物はなくて(残念、イェルサレムにあるのね)、でも採用されているブックカバーは相当な数があった。もうひとつ採用の多い、まん丸顔の“Senecio” (1922) - 『老衰する男の頭』もなくて、あーあ、と思ったら翌日、Baselの美術館で出会うことができた。
しかしいつも思うことだが、Kleeって(彼の絵にあるパターンと同じで)どこまでも際限がないよね。
お昼は、ここのカフェでアプリコットタルトとKlee Teaっていうアイスティーを戴いた。とってもおいしい。
ドイツと繋がっているからか、ここの国の粉もの(パン、プレッツェル、タルト)は全般におそろしくおいしい。こちらも際限がない。
バスで少し戻って熊公園に行った。河べりの少し高くなっているところを仕切って、そこにリアル熊を放していて、それを川とか崖の上とか橋の上から見ることができる。24時間やっていて無料(コンビニか)。
草や木の陰から熊さんがのこのこ出てきたり立ち止まったりしているのを見るだけなのだが、本当にただのふつうの河べりなのでライブっぽい臨場感がすごい。こういう場所で本当に熊に会った時の想定や想像を補完してくれるというか。(熊はなにも考えていないよ)
それにしても、チューリヒでもルツェルンでもここでもバーゼルでも、スイスの川ってどこもなんであんなに素敵なのか?水量?水流?うねったり小さな渦を描いたりしながらざばざばと流れていって見ているだけでまったく飽きないんだけど。
熊公園からそのまま旧市街をだらだら歩く。古書店などがいっぱいあってやばい。
我慢できなくなった一軒に入って、あれこれ見て、Karl WalserとRobert Walserの評伝本を買った。ドイツ語だけど絵がいっぱいあったし… ふたりともベルンの出身だったことは後で知った。
ここで、ガラスケースに入ったココシュカのドローイング集を見せて貰ったら一冊が700、もう一冊が400で、やっぱりなー、になったのだが、ロンドンにいたら暫し考えて(考えなくて)買ってしまったかもしれない。とにかくやばい。
この金縛り状態から逃れないとあかん、と少し離れたところにある自然史博物館に走り込むように入る。
ホルマリン標本とか剥製が結構いっぱいあった。あと、スイスでは有名らしい(ハチ公か?)遭難救助犬のBarryのコーナーと剥製もあって、いちど救助されてみたかったかも、などと思った。
あと、まちがって3階に行ってしまったら博物館の事務所で、窓際にそこで飼われていたのだろうかにゃんこの剥製があった。なんでも剥製にしちゃうのね。
せっかく熊の国に来たので熊のぬいぐるみとか置物とか買って帰ろうかと思っていたのだが適切なのがなくて連れて帰れなかったのは残念だった。
電車でチューリッヒに戻ったのは17時くらいで雨がざーざー降っていたのだが、まだ見ていなかったFraumünster(聖母教会)に入ってシャガールのステンドグラスなどを見て、その日は終わり。
[theatre] Giant
7月17日、木曜日の晩、Harold Pinter Theatreで見ました。
昨年、Royal Court theatreで行われたこれのプレ公演はチケットがぜんぜん取れなくて泣いて、West Endに来てやっと見れる!ってなったらチケット代が高すぎて泣いた。
原作はMark Rosenblatt – これが劇作デビューだそう、演出はNicholas Hytner、主演はJohn Lithgowで、児童文学作家Roald Dahl (1916-1990)の晩年のある出来事 – 主要な事実関係などは実話 - を描いている。
1983年、新居に引っ越したばかり - 舞台上はところどころシートが張られたり剥きだしになったりハシゴや脚立がある、ややとっちらかったリビング – でRoald Dahl (John Lithgow)が間もなく2番目の妻となるFelicity (Rachael Stirling)と一緒にいつものようなやりとり – ひどい腰痛、Quentin Blakeの挿絵に対する文句、いつまでも片付かなくて勝手のよくない新居、一時的にでも近所のコテージには行きたくない、等々 - をしつつ、いつも近くにいる担当編集者のTom Maschler (Elliot Levey) - 彼も実在した人物 - がいて、そこに米国の出版社からエージェントの女性Jessie Stone (Aya Cash) がやってくる。
オーストラリア人作家のTony Cliftonと写真家のCatherine Leroyがレバノン戦争でのイスラエル軍による西ベイルートの包囲を描いた著作”God Cried” (1982)について、DahlはLiterary Review誌に”Not A Chivalrous Affair”と題する書評を掲載する。そこでDahlは激烈なユダヤ人批判 - 劇中では反ユダヤではなく、反イスラエルだ、と何度も言っているが – を展開して当時のメディアから激しく非難されていた。
(当時当該の書評は、サブスクライブすればWebでも読める。あと、Roald Dahlの日本語版のWikiでは、この件に関する記載がごっそり抜けている)
JessieはDahlの本の長年のファンだと言い、自分の子供も喜んで読んでいるので、後でサインを、とお願いして、Dahlも喜んで、と和やかな雰囲気になるのだが、ユダヤ系アメリカ人である彼女がやってきた本当の目的が本件について彼からの公式な謝罪を求めることだと知ると態度を反転・硬化させ、頑迷な老人に変貌する。
ゲストを迎えた穏やかな午後のリビングになるはずが、議論の口火が切られてDahlの不機嫌と癇癪が雪だるまになって止まらなくなり、Jessieがたまらず泣きだして出て行ってしまうまでが第一幕、リングサイドで少し休んで、少しは落ち着いたかと思いきや第二幕でも議論は止まらない – どころか激しさを増して収拾がつかなくなっていく。彼は求めに応じて謝罪をするのかしないのか。
文壇の、児童文学の巨人として既に十分に名の知られたDahlと、彼の書評が招いた炎上と、それを鎮火すべく(しないと売上にひびくから)やってきたアメリカ人女性と、ずっと彼の傍にいる新妻と編集者と、彼らの間の会話劇なのだが、ここには今の世界のすべてがある、と言ってよいくらいにいろんなものがぶちこまれている。レバノン戦争でのイスラエル軍の動きといった政治情勢の「正しさ」を巡る見解、この議題が必然的に孕んでしまう歴史的なユダヤ人への偏見、イスラム圏への偏見、だけでなく、そこには老人の意固地さ我慢ならなさや、女性に対する偏見、地位を利用した高慢さ、そもそものひねくれ性に絶対頭は下げない認めない基本モード等、スケールの違いはあれど、「偉い」老人を中心とした困った諍いは、こんにち誰もが至るところで見たり巻きこまれたりしているのではないか。
そしてそんな老人を演じるJohn Lithgowのすばらしいこと。スクリーンでも見ることのできる、彼の頑迷さの裏に見える弱さ、爆竹のような癇癪、お茶目なところ、涙目、強がり、痛がり、姑息さ、等がフルでぶちまけられていて、Dahlもそうだけど、この人も十分にGiantだよなー、って。
この劇は2024年に書かれたもので、ここでDahlが譲らない主張 - イスラエル軍は子供たちを殺しているじゃないか! ははっきりと今の我々に向けて放たれている。この劇でのDahlの主張の、あの当時における正当性については慎重に見る必要があると思うが、今だったらどう見えるだろうか?という問いが。わたしは、今のイスラエルははっきりと間違っているし、狂っている、と改めて。何度でも。
7.29.2025
[log] Luzern - July 25 2025
25日の金曜日は山に行った日で、AIさんに山にいくのは金曜日と土曜日どちらがよいか教えて、と聞いたらどっちも雨だけど金曜のがまだましかも、と言われたのでそうして、あと日帰りだとどの辺がよい? と聞いたらリギ山とユングフラウの方、と返ってきて、でもユングフラウは登山の恰好しないときついよ、と言われたので、リギ山のほうにして、帰りは湖を渡ってルツェルンを観光して帰りましょう、と。
山のふもとまで普通の電車で来て、山頂に向かう登山電車に乗り換えるのだが、そこから霧がわんわんでてきて、牛がいたよ! と思ったら雨がざーっときて、山頂(1700mくらい)にいっても2m先が見えないくらいの霧というか雲で、周囲には誰もいない。することもないので、ロープウェイの乗り場まで1時間くらい自分の足で下っていく。レイクビュー・ウォークと呼んで天気がよければ湖の眺めがすばらしいらしいのだが、とにかく人がいないしなんも見えないし。
道端にはなぜかでっかいなめくじさんがいっぱい湧いて出ていて、生きて動いているものはそれくらい。あとは霧の向こうから牛の首につけた鈴の音と、たまに牛の声が聞こえる。霧になめくじに鈴の音、突然でっかい鋤かなんかでばっさり、のホラー映画の世界だとしかおもえなかったので、小走りに近い勢いで降りていったら翌日以降、足が(休足時間を忘れたのは本当に愚かだった)。
ロープウェイで降りる時も下界は真っ白で、終点の湖のそばに来てようやく霧が晴れて、以降は嫌味のような快晴になって、山にいた時間は夢のなかだったかのようにボヤけたまま、なんとなく憮然とした状態で船に乗り換えてルツェルンに向かう。
Kunstmuseum Luzern
湖畔にJean Nouvel設計によるでっかいガラスの箱 - Lucerne Culture and Congress Centreが建っていて、美術館はそこの4階にあって、船を降りてすぐそれとわかって、5分で入れる。なーんて素敵な文化施設。
Kandinsky, Picasso, Miró et al. back in Lucerne
1935年、開館したばかりのルツェルン美術館は、”These, Antithese, Synthese”と題された展覧会を開催する。当時台頭していたナチスドイツによって「退廃的」とされていたKandinskyやKleeやMondrianといった画家たちの - 他にはMiró, Taeuber-Arp, Picasso, Braque, Giacometti, Calderなどの作品を中心に、画家たちのアトリエから直接搬入するような形で組織して展示したのだった。
そこから90年経って、展示されていた作品たち、展示レイアウトも含めて再現した時に見えてくるものは何か? 美術館や美術の社会におけるありようも変わってしまった今、当時は存命していた作家たちの、弁証法的な切羽詰まった息遣いは後退して... と思うほど簡単でもなく、作品そのもののエッジとか、それらが束になって重ねられた時に見えるものもあるのだなあ、って思った。MiróやBen Nicholsonがあんなにクールにかっこよく映えるなんて。
Sereina Steinemann
スイスで1984年に生まれたアーティストで、Luzernの出版文化賞を受賞した彼女の記念展示。
広告や玩具、ポップアートなどを可愛い絵柄でほんのり「なにこれ?」ってほっぽり投げてくる手つきが素敵だった。
この後は、まだ午後早めだったので、ルツェルンをふつうに観光した。イエズス会教会、カペル橋、瀕死のライオン像など。どれもそんなに混んでいなくてよい意味での観光気分に浸ることができたのだが足が重くなってきて…
3時過ぎにZürichに戻って、前の日に閉まっていて入れなかったCabaret Voltaire に行った。現在はギャラリーとイベントスペースとカフェをやっている。
自分にとってZürichと言えばダダ発祥の地であるこの場所で、学生の頃どれだけ行きたいと思ったことか。カウンターの端でZineとか出版物も売っていて、少しだけ買った。
残りはベルンとバーゼル。
[log] Zürich - July 24 2025
7月24日から27日まで、夏休みでスイスに行ってきた。 あまり深い理由はなくて、まだ行ったことない土地の候補から選ぶ、くらいで。
美術館がいっぱいあるので最初はそこを中心に計画を立てていくのだが、一日くらい山の方に行ってみたいかも、と思ってAIさんに相談を始めた。こういう、なにがなんでも、ほどの強さがないようなぼんやりした思いつきについて、そういうのを相談する友達もいない、旅行代理店には聞きたくない、Web検索もめんどい、という時にAIさんて便利だなー、って初めて思った。まあそうだよね、みたいな答えになりがちなのはしょうがないのか。
山を入れたので予定は3泊になり、チューリッヒ(英語だとズーリヒ)を中心に動いた方がよさそう、となって飛行機とホテルを取ったら現地に着くまでほぼなんもしなくて、飛行機離陸前からじたばたしてそんなこんなで当日にばたばたして旅の印象も余韻もくそもなくなる、というのを繰り返している。
加えて今回は天候がずっとよくなさそう、というのもあり、しょうがないけどなんか気がのらない。
とりあえず見たのをざっと、と書き始めたら長くなってきたので土地別にてきとーに切る。
Grossmünster
着いてホテルに荷物を置いて、雨の中まずここに。プロテスタントの教会。
ヨーロッパの町を旅するとき、その場所のランドマーク的な大聖堂に入ると、その町にとってその宗教がどんな位置や価値をもってそこにあったのか、雰囲気だけでも感じとることができて、その印象を抱きつつ見ていくと、短期間でもなにか得られるものがあるのではないか、と。
アウグスト・ジャコメッティ作のステンドグラスがあって、思っていたよりモダンなかんじだった。この、古くからあるけどモダンも躊躇なく入れていく、はスイスの他の土地でもあったような。
Kunsthaus Zürich
チューリッヒ美術館。ここはもう中央ヨーロッパの総本山のようなもんなので、Swiss Travel Passが効かなくても展示全部のせでいく。全部見せろ。
A Future for the Past
2010年にこちらの収蔵となったEmil Bührle Collectionを中心によくある西洋近代絵画のクラシックを現在の視点・目線で結ぶようなことをやっていて、入り口にルノワールの典型的な「美少女」がきらきらと置いてあるのだが、マネの「自殺」とか「梟」を含むいくつかがすばらしくて別にそんな小賢しいことしなくても。それより量を見せてほしい。
Monster Chetwynd
でっかいインスタレーションを含む彼女のレトロスペクティヴ(?) 本国英国ではやらないの?
古今東西のイマジナティブなのも含む怪獣/化け物/妖怪総図鑑のようで、小さなジオラマから巨大ぬいぬいまで、その生きている - 頭のなかでのたくって巣食って増殖してざわざわむずむず痒くなるかんじときたらTim BurtonやWes Andersonの比ではなくて、とにかくみんな生きている。その普遍性のようなもの - もちろんそんな簡単ではないのだが - っていったいどこから来るのだろうか? カタログ、欲しかったけど分厚すぎて諦める。
Kronenhalle
1924年創業のレストランで店内に近代画家の名品の本物が沢山飾られていることでも有名で、最近だと(旅行誌なんだかファッション誌なんだかはっきりしろの分厚さで復活した)雑誌Holidayのチューリッヒ特集号で3種類あるうちのひとつの表紙を飾っている。
昔から行きたくて、でもディナーは敷居が高いのでランチを予約して、これだけのためにジャケットとか革靴を持っていった。掛かっている絵はPierre Bonnard (5枚)、Braque (4枚)、Chagall (5枚)、Augusto Giacometti, Giovanni Giacometti, Ferdinand Hodler, Kandinsky, Klee, Matisse, Miró (5枚), Picasso (2枚), Rodin, Varlin (Willy Guggenheim), Vallotton, Vuillard, などなど。 これだけで美術館になりそうな、20世紀初のヨーロッパ近代絵画の見事な部分がひと揃えあって、壁じゅうに掛かっているのを端から見ていきたかったのだがもちろんそんな雰囲気の場所ではないのだった。
通された席に掛かっていた絵は、これってBonnard? と思って後で調べたらやっぱりそうだった - “Ferme à Vernon” (1932)。大失敗だと思って今だに後悔しているのは絵を背にしてしまったことで、向かい合って座ればよかった。でも食事が来るまでの間、背中ごし50cmくらいのとこでずっと絵に張りつくようにして眺めることができた。
メインは仔牛のヒレを薄く切ってクリームで煮たやつ - Zürcher Geschnetzeltesにポテトのパンケーキ Rösti、というスイス料理のクラシックど真ん中でいってみたのだがもちろん外れない。前菜は季節ものでアカザエビのタルタルに西瓜、でほんのり甘くて爽やかで。
お腹はじゅうぶんに膨れたのだがデザートを抑えることなんてできるはずがあろうか、とカラメルプディング - 所謂プリンをとったら固め正統どまんなかのやつで、そうこなくちゃね、と堪能した。
Museum Rietberg
登るのが大変な丘の上にある見事な庭園つきの洋館で、でも収蔵/展示品は非ヨーロッパ圏のアジア・アフリカのものが中心で、コレクション(年代、地域?)がよいのか並べかたがよいのか謎なのだが、すばらしい落ち着きと不思議な調和を見せる。他のところではよく、こんなふうに並べられちゃってごめんね、みたいな展示があったりするが、ここのは置かれたものたちも静かに余生を楽しんでいるように見えた。そう、展示物というよりまだ生きているみたいに。
そこから再びチューリッヒ美術館に戻って、ランチのために中断していた鑑賞の続きと、別館の特別展を。チケットはステッカーをどこかに貼っておけば一日有効。
Suzanne Duchamp Retrospective
マルセルデュシャンの妹であるSuzanne Duchampの初の回顧展だそう。ダダ方面での活動が知られている彼女だが、その前はキュビズム風だったりマティス風だったり結構揺れていておもしろい。兄のマルセルもそういうとこあるしな。(わたしはマルセル・デュシャンって相当軽くていい加減な詐欺師系の人だったと思っている)
Roman Signer. Landschaft
広いフロア全部使って、彼がやらかしてきたいろんなランドアートを動画もいっしょにぶちまけていて、バカじゃのー (褒)みたいのが多い。けど嫌いになれない。
美術館を出て川に向かう通り沿いにギャラリーが並んでいて、Mai 36 Galerie というところでThomas Ruffの小展示をやっていたので入る。写実系の写真というより即物的な光と影の実験系の作品たち。
行ったことのない町の美術館とか展示とか、事前に調べられるものはそうするのだが、実は街角とか駅に貼ってあるポスターにいちばんフレッシュに惹かれてしまうことが多くて、夕方17時くらいにまだ陽も照っているしまだなんか見たいんですけどー、という時にこれのポスターを見て、電車で30分くらいのところだった(この日の閉館は20:00)ので行ってみることにした。
Kunst Museum Winterthur
夏の夕暮れ、隣の公園でみんな涼んでいて気持ちよさそうだった。
Félix Vallotton: Illusions perdues
ヴァロットンは、丸の内でも見たしロンドンでも何度か見ているが、今回のはいろいろ新鮮で改めておもしろく。
デルヴォー風のエロ妄想に浸っているのとか、いきなり切なさ寂寥感をかき立てられるようなのとか、直情的に訴えてくるものが多いと思うのだがそのレンジがさらにIllusionのように無尽蔵に広がって、なんだこれ?(よい意味で)みたいのが多くあった。浜辺で男女が裸踊りとか、なんなの?
その他はここの収蔵品だったのが戻ってきたCaspar David Friedrichの”Chalk Cliffs on Rügen” (1818) とか、あとスイスの画家としてFerdinand HodlerとかArnold BöcklinとかGiovanni Giacomettiとか、どこの美術館でも割とふつうにクローズアップされていた。
夕食は抜いてもぜんぜんへーきだった。
7.24.2025
[film] Volveréis (2024)
7月13日、日曜日の夕方、ICAで見ました。
スペインのJonás Trueba監督によるスペイン-フランス映画で、英語題は”The Other Way Around”。
最近の映画ってなんか重めで怖いのが多くて、ほんとうはこういうrom-comとかコメディだけ見ていたいのに、英語圏ではぜんぜんなくて、たまにあってもだいたいヨーロッパのだったりする。これらもそう。
マドリッドのアパートで、結婚はしていないけど14年間付き合って一緒に暮らしてきた映画監督のAle (Itsaso Arana)と俳優のAlex (Vito Sanz)は別れることにして(映画が始まった時点で別れることは決まっていてどんなやりとりの果てにそうなったのかは不明)、別れは結婚式と同じくらいふたりにとってよいものになるはず – The Other Way Around - だからお別れのパーティーを盛大にやろう! やるべき! って、友人や家族に別れの報告とお別れパーティへの招待と準備を一緒にやっていくの。
ふたりをよく知る友人たちは、一様に残念だとか理想のカップルだと思っていたのに、とかいうのだが、ふたりの決意は固いようだし、それでも誘ってくれるのなら行くよ、とのってきてくれるし、かつて別れる時にはパーティをすべき、と主張したAleの父親(Fernando Trueba - 監督の実父で映画監督なのね)は、自分はそんなことを言った覚えはない、と言い、この本を読みたまえ、とキルケゴールの『反復』とカヴェルの『幸福の追求』ともう一冊(よく見えなかった)を勧めてきたり、ふたりの決意がひっくり返ることはないのだが、それぞれの引越しの荷造りをしたり、パーティのことを話しているうちに変なかんじになっていく。
あと、そんなふたりの日々の映像が、実はAleが撮って編集している映画の一部であることがわかったり、「別れ」を少し前に置いてみることで宙づりにされてしまったふたりのなにやってるんだろ、の日々や表情がなんか迫ってきてよくて、そしてパーティの当日がやってくる…
パートナーで一緒にいることとそれぞれ別の道をいくことは、果たしてThe Other Way Aroundになるのか? 仮にそうだったとして、実は幸せのありようとはあんま関係ないのではないか? ってラストのふたりのなんとも言えない表情を見て思った。
Jane Austen a gâché ma vie (2024)
7月18日、金曜日の夕方、Institut Françaisで見ました。
Laura Pianiの作・監督によるフランス映画で、英語題は”Jane Austen Wrecked My Life”。会話はフランス語半分、英語半分。
パリの書店Shakespeare and Company - 書棚が映っただけでそうとわかった – で書店員として働くAgathe (Camille Rutherford)は作家志望で、妹と甥と暮らしていて、同僚のFélix (Pablo Pauly)とは仲はよいけど深いところまでは行かない。ある日、中華料理屋で紹興酒を呑んでいたら浮かんできて書いた英語の小説をFélixが勝手に英国のJane Austen協会に送ったら、あなたはResidency Programの参加者に選ばれました、って招待が来て、よくわからないまま海峡を渡ってその協会の英国の邸宅に滞在して他の選考者と並んで小説 - でもなんでも - を書いていくことになる。
彼女を招いた協会を運営しているのはJane Austenのひいひいひいなんとかだという老夫婦で、実際には彼らの息子で現代文学を教えているらしいOliver (Charlie Anson)が仕切っているのだが、こいつがもろにダーシー氏で、どうでもいいことでAgatheとOliverは喧嘩したりつんけんしたりしながら、どうなっていくのか見え見えなのに、喜んで見てしまう。 こういうのばかり見ていると、Jane Austenに壊されたのはこっちの方だわ、って強く言いたくなる。
ふたりの仲が盛りあがっていよいよ、というところでFélixがパリからやってきてあらら、になったり、でもパリに戻ってのエンディングはやっぱり… ってなって裏切らない。最後、書店のイベントで、ほんもののFrederick Wiseman氏が朗読しているんだけど、あれなに? なんで? が気になって彼らの幸せなんてどうでもよくなってしまった。
ほぼぜんぶ、定番の定石で固められていて、なぜ、どうしてここでJane Austenなのかは(いつものように、決して)明かされないし、こんなの見ていたってぜったい恋愛は成就しないし恋愛上手になんてなれない、ってわかりきっているのに見てしまう。もうそういうのを40年いじょうやっている。誰に文句を言ったらよいのか? Jane?
明日から少しだけ夏休みに入る。あと3時間後に出るのにほぼ何もしてないわ。
7.22.2025
[theatre] The Fifth Step
7月15日、火曜日の晩、@sohoplace(という新しめのシアター)で見ました。
原作はベルファストのDavid Irelandの戯曲、演出はグラスゴーのFinn den Hertog、昨年のエディンバラ国際フェスティバルで初演されたJack LowdenとMartin Freeman(初演時はSean Gilderだった)による二人芝居。 休憩なしの90分。すごくおもしろかった。
舞台は四方の客席から見下ろすかたちで四角いリングのようにあって、椅子とか飲み物台が適当に置いてある。
Luka (Jack Lowden)はAlcoholics Anonymous(AA - 1930年代のアメリカで始まったアルコール依存症患者の相互援助/自助組織)に入って、アルコール依存症から抜けたいと思っている。AAには依存症から抜けるための12のステップがあって、タイトルはこの5つめまでのこと、5th Stepは”Admit Your Wrongdoings”というもので - この先のステップはそれを認めた上で神に懺悔したりとか - から来ている(原作者のDavid Ireland自身がAAに通った経験を元にしているそう)。 劇はLukaがJames (Martin Freeman)のところに自分のスポンサー(身元引受人)になってほしい、と頼みにくるところからはじまる。
Lukaはパーカーにジーンズのラフな労働者の格好で、Jamesはスラックスにジャケットのビジネスカジュアルで、救いを求めている迷える子羊であるLukaに成功者として助言したり説き伏せたり導いたりする立場で、ふたりが舞台上で立ち位置を変え、立ったり座ったりしながら対話を重ねていくのだが、Lukaのあまりに天然、というかJamesからすればナイーブだったりぶっ飛んでいたりする彼の問いや迷いに、当惑しつつ唖然としたりしつつ - スクリーンで見るMartin Freemanのあの頭を振ったり首を傾げたりする姿そのままに - 「対応」していく。
驚くべきはJack Lowdenの演技のすばらしさで、少し背を丸めて、ぼそぼそと朴訥な熊のように語り、頭を抱え、問いに対して真面目に考えては返し、それなのにやはり突然凶暴になる熊の殺気を漂わせていて目を離すことができない。この調子でペースを崩さずにスパーリングのような対話 - 身の回りのことから日常習慣までいろいろ - を繰り返していくなかで、指導者と指導される者、救いと教えを乞う者とそれを与える者のトーンが微妙に変化していって、支配と服従のそれに変わり、その関係になった途端に暴力的な何かが入りこみ、暴力は別のかたちで人を縛り、規定しようとする。 と、それが力の関係になるのであれば、また別の暴力的な何かが。変わりやすい天気よりもスリリングな今何を言った?何が起こった?の連続劇。
ふたりともアルコール依存症の過去があって、だからアルコールは… という話では勿論なくて、こういう形の主従関係 – ではないはずだったのに - がいかに脆く危うく当てにならないもので、その行方が見えない、会話ひとつ、動作ひとつで変わってしまう壊れモノなのかを克明に示して、しかもそれは本質的なこと – この場合はLukaの依存症を断つこと – とはそんなに関係ないところにあったり、という不条理な、変なコミュニケーションのありようを明らかにして、でもこういうのってあるよね。 片方が不可避的に脆弱な何かを抱えているような、教室での先生と生徒の関係とか、宗教のとか、殆どがこんなふうになりうるのではないか、とか。
ただそれよりなによりJack LowdenとMartin Freemanのふたりのすごさ、おもしろさに尽きる。 National Theatre Liveでもやるみたいなので、見られる時がきたら見てほしい。
[music] St. Vincent
7月16日、水曜日の晩、夏の恒例Somerset Houseの野外ライブシリーズで見ました。あっというまに売り切れていた。
ここの野外ライブで最後に見たのは随分昔のWarpaintだったかも。早く帰ってこないかな。
前座はGustafで、ぶちぶちと弾けたりはみ出したり不機嫌で居心地わるいかんじがよかった。Annieも大好きなバンドだ、ってライブで言っていた。
St. Vincentのライブは久しぶりで、最後に見たのは2018年(7年も前か…)にCadgan HallでThomas Bartlettのピアノ伴奏をバックにソロでしっとりと歌ったやつだったかも。
最初に見たのはDuo Exchange(だっけ?)の来日公演で、そのあとはNYでDavid Byrneと一緒の”Love This Giant”のも見たし、エジンバラでも見たし、彼女の監督したホラーショートも映画館で見たし、彼女のお姉さんがダラスでやっているタコス屋にも行ったし。 あがってきたライブの映像は見ているものの、新譜は買っていないし、今回のライブもああ行かなきゃ、ってチケットは取ったけど予習もなんもしていないわ、というのが最近。
NINのカバーをやっていた最近の映像でも顕著だったが、圧縮されて硬くて弾力のあるゴムの上にちりちりじゃりじゃりしたギターの電気が被って、そこによく通る声とシャウトが絡んで突き通す、というとても気持ちのいいやつで、気持ちよすぎるのはつい警戒して遠ざかってしまったのかもしれない。ただ夏の野外でこういうのが来るとやはりかき氷のように気持ちよく、特に2曲めの”Fear the Future”~” Los Ageless”~”Birth in Reverse”あたりまで、昔の曲がこのフォーマットになると、とにかく盛りあがる。 他方で彼女の曲で盛りあがることってそんなに期待していなくて、もっとゴスにダークに、ジャンクのぐじゃぐじゃまで行ってすべてを瓦礫の灰にしちゃってほしいのだが。曲の骨格とか構成はしっかりしているので、多少手を加えたって壊れないし、それでファンが離れることはないと思うし。
勢いでモッシュする時に、乗っかる客に向かって何度もだいじょうぶ? 背中痛めてない? 乗っかっていい? って聞いていて、乗ってもそんなにサーフしないですぐ戻っちゃうところも彼女らしかった。だからそんな気を使わなくていいって。
10月終わりのCafé Carlyleでのライブ、行きたいけどすぐ埋まっちゃうだろうな。
Skep Wax Weekender
7月16日~20日まで、Ishlingtonの近辺でイベントがあると聞いて、The OrchidsとかWould-Be-GoodsとかHeavenlyとか懐かしい名前が並んでいたので、つい見にいってしまった。
ぜんぜん知らなかったSkep WaxというのはHeavenlyのAmelia Fletcherらがオーナーのレーベルで、Sarah Recordsあたりから流れてきていると思われ、自分はSarahに夢中になるほどの若さはなかったので、たまにZEST(っていうレコード屋が渋谷にあった)で7inchを買うくらいだったが、80年代初に英国のインディペンデントレーベルに小さくない影響を受けたものとして、Sarahなどは、ほぼ最後の砦 - 抵抗のようなかんじではあった。グッズの売り場にはzineとかもちゃんと並んでいて、えらいなー、って。 あと、今回見たどのバンドも細々とではあるがずっと活動は続けていたようで、その辺もえらいなー、って。
Would-Be-Goods, The Orchids
18日、金曜日の晩にThe Lexingtonていうパブの2階のようなところで。別の小屋と勘違いしていて着くのに時間がかかった。
客層もバンドもみんな白髪の熊みたいな老人ばっかりで微笑ましい。青白い青年ばかりだった気がしたThe Orchidsもそうで、もともと演奏が巧かったり激しかったりのバンドではなかったので、お年寄りが趣味でやっているご近所バンドのように聞こえてしまうし、”Take my hand ~”とか歌っても青年時と今とでは意味合いが全く変わってきてしまうのも微笑ましい。
この晩のトリ、Would-Be-GoodsはSarahではなくél Records/Cherry Redで、その背後にはThe Monochrome Setのメンバーもいたりしたのだが、ヴォーカルのJessicaをのぞいてメンバーは入れ替わって、ヴォーカルはHue Williams(The Pooh-Sticksのひと)とJessicaのツインで、結構ストレートで歯切れのよいIndie-popになっていて、だから”The Camera Loves Me”も”Emmanuelle Béart”もやらない。ギターが尖っててよい音だなー、と思ったらThe Dentistsのギターのひとだった。さすが歯科医。
Heavenly, Lightheaded
19日、土曜日の晩の会場は、Islington Assembly Hallという市民ホールみたいなところで、フロア(1階)とバルコニー(2階)がある。体力がないのでバルコニーで座る。
最初(順番としては二番手)のLightheadedは男2女2のグループで、ぺなぺなに薄いギターと合唱の重なり具合が絶妙で、スコットランド(グラスゴー)/イングランドローカルの伝統的なやつか.. と思って聞いていくと、途中でUSのニュージャージーから来たというのでびっくり。 となるとVelvets〜The Feeliesあたりの流れが浮かんできて、ほんの少しのSonic Youthが混じる。「ハムステッド・ヒースに行ってみたけど、イギリスは木がちがうねー」とか、よくアメリカ人が言うことをそのまま言ってたりいろいろ侮れなくて、とてもよいと思った。
トリのHeavenlyは現役バンドの勢いばりばりで、かんじとしてはBikini Killの復活を見た時のよう、と思った。
次の曲は90年代のか最近のか? で謎かけをしたりしながら流していくのだが、結果そんなに昔から変わっているようには聴こえなくて、それでよいのかも。当時からの熱心なファンが多くて、2階でもみんなほのぼのと合唱していた。35年間ずっとこれ、ってやはりすばらしいことではないか。
バンドメンバーの経歴みたらWould-Be-GoodsにもいたギターのPeter Momtchiloffはオックスフォード大学出版局で哲学の編集者をやっていたというし、キーボードのCathy Rogersもオックスフォードで神経生物学の博士号取っているし、なんかすごい。
夏のライブシリーズはBBC Promsが始まったので、しばらくはクラシックの方にうつる。
7.21.2025
[film] The Decks Ran Red (1958)
7月12日、土曜日の夕方、BFI Southbankで見ました。
ぜんぜん追えていない今月の特集 - ” Re-introducing Dorothy Dandridge: The Cool Flame”からの1本。恥ずかしながらDorothy Dandridgeさんのことは殆ど知らなかった。
監督はAndrew L. Stone、MGMのB級海洋サスペンスアクションで、BFI National Archiveの35mmプリントでの上映。日本公開はされていない?
商船S.S. Berwindの船長が不審な死に方をして、Captain Rummill (James Mason)のところに後任船長のオファーがきて、あの船はきな臭いからやめとけ、という周囲の心配をよそに引き受けるのだが、船内ではHenry (Broderick Crawford) とLeroy (Stuart Whitman)の2人 - こいつら本当に悪そう - が船員を皆殺しにして棄てられた船を売っ払って金にしようと企んでいるのだった。
船には新船長の他にコックの妻で船内で唯一の女性となるMahia (Dorothy Dandridge)も乗りこんで、でもそんなのお構いなしにふたりによる皆殺しが始まって、作戦に協力しない若い船員を海にぽいって投げ捨てたり、やりたい放題の殺戮を始めて、最初は何が起こっているんだ? だったのが、いったん全員で逃げたふりをして戻って反撃しよう、って船長が沖に出たボートから泳いで船に戻ったりするのだが、この作戦なら最初から船内に隠れていた方が体力消耗しなくてよかったのでは? とか。
ものすごく雑にばさばさ殺したり殺されたりしていくB級の緊張感と弛緩(あんぐり)、”Die Hard”的な展開になるわけもなく、まったくヒーローのかんじがしないJames Masonがだんだん必死になっていく姿はよかったかも。Dorothy Dandridgeは、夫のシェフを簡単に殺されて、ねちねちセクハラされるくらいの出番だったが存在感はなかなかで、これもよかった。
Act of Violence (1948)
7月13日、日曜日の昼、BFI Southbankで見ました。 リストア版のUKプレミア、とのこと。
監督はFred Zinnemann、邦題は『暴力行為』。みんなが日曜日の教会に向かう時間に「暴力行為」なんかをみる。
冒頭、夜のマンハッタンで、足を引き摺って歩くJoe (Robert Ryan)がアパートの机の引き出しから拳銃を取り出して、そのままバスに乗ってLAに向かう。
LAで二次大戦の退役軍人のFrank (Van Heflin)は妻のEdith (Janet Leigh)と赤ん坊と一緒に幸せそうで、帰還した地元のヒーローとして称賛されていて、Joeは現地に着くとまず電話帳でFrankの住所と電話番号を確認して彼の自宅に電話して実際に自宅を訪れて、でもすれ違って会うことはできなくて、それでもJoeが執拗にFrankを狙っていることはわかる。
やがてJoeが自分を追ってきたことをFrankも知って、ふたりの逃げる/追うの駆け引きの中でナチス捕虜収容所にいたふたりが脱走計画を立てて実行しようとしたとき、Frankが仲間をナチスに売って、結果、隊は全滅して生き残ったのがJoeひとりだったことが明らかになる。
隠してきた戦地での過去をEdithにも知られて自棄になったFrankは地元のギャングにJoeを始末して貰おうとするのだが、やはりそんなことをしてはいけない、と思い直して…
帰還兵の心的外傷を扱った最初期の作品だそうだが、復讐に燃えて仇を追い詰めていって、追われる側も返り討ちにしようと悪あがきする構図とかは、西部劇のそれとそんなに変わらない - つまり開拓時代から卑怯者は卑怯で卑劣で、それは今でも何ひとつとして変わっていないよね。
それより(作られたのはこちらの方が後だけど)Nicholas Rayの”On Dangerous Ground” (1951)でも見られる追跡者としてのRobert Ryanの冷たすぎて底の知れない怖さが炸裂していて、とにかく怖いってば。
選挙の結果については、これまでと同様(外れたことなしの)絶望しかないのだが、勝ち負けの話にはしない。人を線引きして安っぽい憎しみや利益をダシに壁をつくって喜ぶようなダークサイドに堕ちた連中とは戦っていくしかないのだ。本当にふざけるな、しかない。
7.19.2025
[theatre] Intimate Apparel
7月12日、土曜日のマチネをDonmar Warehouseで見ました。
原作は1964年、ブルックリン生まれでピュリッツァー賞を2回受賞しているLynn Nottageの2003年に初演された戯曲、演出はLynette Linton。
舞台は粗末なアパートの一室、真ん中に古いミシン、机、衣装箱などが雑然と置いてあり、奥には舞台となった20世紀初頭に撮られたと思われる黒人女性の擦り切れた写真が貼ってある。
1905年のNYで黒人のEster (Samira Wiley)は注文を受けてコルセット等を作ったりするお針子/職人として独りで住んで慎ましく暮らしていて、白人のお金持ち婦人Mrs Van Buren (Claudia Jolly)から威勢のいい娼婦のMayme (Faith Omole)から、ちょっとやかましい家主のMrs Dickson (Nicola Hughes)まで、いろんな人たちが出入りしていて、界隈の噂話に花を咲かせたりグチったり歌ったりダンスしたり。あと、スコットランドのウールとか日本の絹とか珍しい布地を探してきてくれたり売ってくれたりするユダヤ人の生地屋、MrMarks (Alex Waldmann)とはちょっとよいかんじなのだが、ふたりとも一緒になれないことはお互いにわかっている。
いまの仕事が充実しているので結婚は諦めていたのだが、パナマ運河の現場で働いているGeorge (KadiffKirwan)からちょっと詩的で素敵な手紙が届くようになり、読み書きができないEsterは頼んで読んでもらったり返事をしてもらったりしているうち、彼からの手紙は情熱的なものになっていって、やがて結婚しないか、と書いてくる。 会ったこともないのに、なのだが、この先自分のこの界隈でそういう出会いがあるとは思えないので、彼女はその話しを受けてGeorgeがNYにやってくる – ところまでが第一幕。
次の幕はふたりの結婚式から始まり、近所の友人たちがお祝いにきて、質素だけどふたりで写真を撮って、初夜を過ごして、でもそこまでで、Georgeは(やっぱり...)ごくつぶしのDV野郎で、お金をせびって夜はどこかに出かけてなにをしているかわかんなくて、Esterが自分のお店を持つために細々と貯めていたお金にも手を出すようになったり、彼女が作った服を持ちだして金に換えていることがわかったり。 あんなすばらしい手紙をくれたのに、というとあれは金を払って書いてもらったのだ、と。(なんとなく日本の戦後にもあったお話しのような)
最後にふたりの関係がどうなる、というところまでは描かれないのだが、彼女の狭いアトリエ – そこでいろんな糸と布地を編んだり縫ったり重ねたりを気が遠くなるくらい繰り返すのと同じように、いろんな人たちとのいろんな昼と夜があり、喋り、歌い、踊り、酔っ払い、喧嘩して、泣いて、現れては消えていった - そんな宇宙のような時間と空間がここには、ここだけでなく世界中のあらゆるところにあったのだ、ということを柔らかい光のなか、一枚のモノクロ写真の向こう側に浮かびあがらせる。その力技 – としか言いようがない - はすばらしく、演劇の可能性のひとつってこういうのよね、と改めて。
このお話しは、Lynn Nottageが裁縫職人だった曾祖母の写真(開演前、奥に貼ってあった写真がそれ?)を見つけて、彼女のお話を書いてみよう、と思ったところから始まったのだそうで、たぶんそうして縫って広げていく作業を通してEsterの仕事と自身の創作を重ね合わせていったところもあるのではないか、とか。
Ester役のSamira Wileyは最初は小さくて華奢な印象があったのだが、とんでもなくパワフルで狙い撃ちしてくる圧倒さがあった。 Off-Broadwayでの上演時はViola DavisがEster役をやったりしていたのね。
7.18.2025
[film] Hot Milk (2025)
7月6日、日曜日の午後、CurzonのBloomsburyで見ました。
BFIのMoviedrome特集の2本の間に時間があいたので、新作を。
Deborah Levyの2016年の小説をRebecca Lenkiewiczが脚色して監督して、今年のベルリン国際映画祭に出品された作品。
Sofia (Emma Mackey)と母のRose (Fiona Shaw)がスペインの海辺の町に滞在している。Roseはずっと車椅子生活でSofiaが介護して面倒を見ていて、Roseの治療のためにDr Gomez (Vincent Perez)のところに通っている。 Roseは我儘で身勝手な、所謂「毒親」のようで、彼女から少しでも離れていたくてSofiaは日中、ビーチでうだうだ転がっていて、ずっと浮かない顔をして、どこにも行けない。
そんなある日、馬に跨ったIngrid (Vicky Krieps)が夢のなかのように現れて話しかけてきて、その謎めいたかんじに惹かれて親しくなっていくのと、母とふたりでずっといると滅入るばかりなので、ギリシャにいる父を訪ねてみたりするものの何がどう動くわけでもなく、そのうち母は高額な治療費のことで医師に噛みついたり…
夏のバカンスの日差しのなか、ゆるやかに吹き溜まってSofiaの視界を塞いでいく不満と不安と、そんなのお構いなしにグチや文句を言いたい放題、癇癪を起してばかりのRose、Sofiaを底から救いだしてくれるかと思えたIngridも、彼女なりの問題を抱えていたり、真夏のHot Milkのようにぜんぜん欲しくないものばかりが勝手に溢れかえってSofiaのまわりをゆっくり回転して止まらなくなっていく様をサスペンスフルに描いていて、なにがどうなるのかの緊張感はなかなかなのだが、あの終わり方はどうなのか、は少し(原作を確認してみようかな)。
Fiona Shawの弱さをカバーしようとするが故の凝り固まった頑迷さ、これと対照的なVicky Kriepsのタコのような柔らかさの間で殆ど喋らずに太陽の下ですり減っていくSofiaの焦燥感はものすごく伝わってきて、自分だったらどうなったか、どうしただろうか、等を考えたりする。こういうのってあるんだろうなー、とか。
Jurassic World: Rebirth (2025)
7月6日、日曜日の晩、Picturehouse Centralの一番大きいスクリーンで見ました。
”Sweet Smell of Success” (1957)の後、もう3本見て疲れていたのだが、この前の週末に公開になったこの作品は、早く見ないとこの週公開の”Superman”に埋もれてしまう懸念があって、この週は他にもいろいろあって忙しくなりそうなので、この日の4本目として見た(イタリア西部劇 → 現代毒親 → ノワール → 恐竜)。 恐竜さん踏みつぶして、っていうくらいつかれた。
脚本に最初の頃のJurassic Park (1993)を書いたDavid Koeppを持ってきて、もはや”Park”だろうが”World”だろうが何本あって何がどうなってきたのだか、誰も気にしていないし、最初にあんなことをしてしまった以上恐竜は増え続けるしかないのだし、物語世界にとっては追い風のような地球温暖化問題も出てきてくれたので、大手を振って怪獣映画にしちゃえばいいんだ、って呼ばれたのがGareth Edwardsで、Gareth Edwardsだから無理してみた、くらい。
冒頭、恐竜の遺伝子でなにやらやっている施設でスニッカーズの袋の切れ端から大惨事が起こって恐竜が逃げだして、それから数年後、製薬会社の悪そうな幹部Rupert Friendが、治療薬開発のために3種類の恐竜のDNAサンプルを採取すべく、軍のScarlett JohanssonとかMahershala Aliに頼んで調査・捕獲隊が組織されて現地に向かうのだが、途中で漂流していた家族を拾って、島に着いたらやっぱりうじゃうじゃ… の展開になる。
これは恐竜映画であって怪獣映画ではない、というのが言い訳になるのか、ああいう絶海の孤島で恐竜がどんなふうに現れて寄ってくるのか、どんなふうに人を襲うのか、過去のでわかっちゃっているのであんましぞくぞくしなかったかも。ありえない場所からありえないふうにめりめりめりって現れないと、あれじゃサファリパークやテーマパークのアトラクションと同じよね。
あと、あの家族&安っぽいガキは必要だったのか。ストーリーに膨らみは出た(…出てないと思うけど)のかも知れないが、見たいのは怪獣(いや、恐竜)であって家族ドラマじゃないし、同様にミリタリーアクションもそんな見たくないし。Black Widowみたいにやってくれたらよかったのにそれもないし。
あと、最後に出てきたあの恐竜、遺伝子操作されているからか知らんが、ナリはどう見ても怪獣だよね。それでよいんだけど、そこだけ? ってなったり。
7.17.2025
[film] Il Grande Silenzio (1968)
7月6日、日曜日の昼、BFI SouthbankのMoviedrome特集で見ました。
監督はSergio Corbucciによるイタリア/フランス映画、スパゲティ西部劇。音楽はEnnio Morricone。
英語題は”The Great Silence”、邦題は『殺しが静かにやって来る』。
上映前にAlex Coxによるイントロがあった。
この作品はJean Louis Trintignantが主演で、彼もお気に入りの1本だというし、画面は美しくてイタリア西部劇の脂がないし、音楽もすばらしいし、でも英国では90年代にMoviedromeで放映されるまで、米国では2001年になるまで紹介されなかった。理由はこれを自分で映画化しようと思ったClint Eastwoodが映画化権を買って握っていたからで、でもそれは実現しないで、半端なかたちでJohn Sturges監督による”Joe Kidd”(1972) – 未見 – に適用されたのだそう。
19世紀末のイタリア北部の雪まみれの一帯で、吹雪で困窮した住民が生き残るために盗みを働くようになり、それを取り締まるために盗賊がやってきて、住民たちを守るために別の盗賊もやってきて、ほぼ全員が騙しあい奪いあいみたいなことをして、という無法地帯のど真ん中に幼い頃に賞金稼ぎに両親を殺され口封じで喉を切られて言葉を発することのできなくなったSilenzio/Silence (Jean Louis Trintignant)と呼ばれるガンマンが現れて、その反対側に悪漢のTigrero (Klaus Kinski) - 緑の目 - も現れて、にらみ合いつつ近寄っていって…
白い雪のなか、みんな着だるまで、主人公が喋れないのでどこの誰がどちら側に立っているのか等、顔つきとか挙動で判断するしかないのだが、それでも善玉と悪玉はなんとなくわかって、ようやくそのコントラストが見えてきた頃に主人公はあっさりやられてしまって後にはなにも。中東域での公開はハッピーエンディングが条件なので、後でオルタナ・バージョンも用意されたそうだが、Silenzioの名と共に雪のなかに消えてしまうその潔さというか白い雪の静けさしか残らないかんじはなんかよかった。
Jean Louis TrintignantもKlaus Kinskiも、Great Silenceのなか、ほぼ目だけでにらみ合って殺し合う、それだけなのだが、切り返して殺しあう絵として出来あがっていて、雪に埋もれた集落で起こったかもしれないドラマとして底冷えする寒さが吹いてくる。
ヒロインPaulineを演じたVonetta McGeeにほれてしまったAlex Coxは”Repo Man” (1984)で彼女をキャスティングしたのだそう。
Sweet Smell of Success (1957)
7月6日、日曜日の夕方、BFI Southbankの同じ特集で見ました。ここでもAlex Cox氏が登場してイントロをしてくれたのだが、昼の回からちゃんと装いを変えてきたので、すごくおしゃれな人なんだー、と思った。
邦題は『成功の甘き香り』。結構メジャーな作品の印象があったのだがノワールのカルトとして認知されていたのか、というのと、実際に見たら相当に変な作品だと思った(原作はCosmopolitan誌に掲載されたErnest Lehmanによる短編)。今回の特集では本編に入る前に、TV放映時に流されたホストによる当時の紹介コメントも上映されているのだが、この作品を紹介している映像がどうしても見つからない、誰かVTRで録っている人がいたら(絶対いるはず)送ってほしい、と呼びかけていた。
撮影はJames Wong Howe、ばりばりの黒白のコントラストが見事な35mmプリントでの上映だった。
監督はAlexander Mackendrick。ずっと英国の人だと思っていたが、生まれはボストンでグラスゴーで育って、Ealing Studiosで名作をいっぱい撮ったあと、アメリカに戻った。これは彼がアメリカで撮った第一作だそう。
マンハッタンでプレスエージェントをしているSidney Falco (Tony Curtis)がいて、人気コラムの影響力でメディアを牛耳っているコラムニストJ.J. Hunsecker (Burt Lancaster)に取り入って成りあがりたいのだが、J.J.の19歳の妹Susan (Susan Harrison)が入れ込んでいるジャズバンドのギタリストSteve (Martin Milner)との縁を断ち切ってくれたら、というので、バンド関係者、ライブハウスのタバコ売りの娘から政治家から警察までいろんな糸を張り巡らせて走り回ってどうにかするのだが、さいごはあーあー、になる。
別にだれかが死んだり殺されたりはない、狭いサークルでのなにが楽しいのか、ほんとにそんなことやりたいのか? の刺しあいで、(単純に比べることはできないけど)今ならインフルエンサーに取り入って貰うためにあらゆるハラスメントにでっちあげ、違法ぎりぎりのいろんなことをしていく話で、外野から見たらよくやるよ、しかないのだが、内側にいる人は-これを書いた人も含めて- 気持ち悪いくらい必死で、そのいびつな、よくわからない必死さにカメラはぴったり張りついて、21 Clubを中心とした夜の町をうつろっていく。
こないだ見た“The Swimmer” (1968)と並んで怖くて変なひとBurt Lancasterのイメージが固定されてしまった。”The Swimmer”の壊れた主人公も広告業界にいた人だったので、どこかで繋がっていてもおかしくない。
21 Clubのハンバーガー、食べたいなー、あんなおいしいのなかったな、って思い始めたら止まらなくなった。
7.16.2025
[music] Neil Young & The Chrome Hearts
7月11日、金曜日の晩、Hyde Parkで見ました。
毎年のBST (British Summer Time) Hyde Parkのコンサートシリーズ。 今年はこれだけ - 最終13日のJeff Lynne’s ELO(ELOのLast Concertとなるはずだった)はJeff Lynneの体調悪化で当日にキャンセルになってしまった。これのひとつ前のライブもキャンセルされていたのでどうかなー、だったのだがやはり無理だったか。"Mr. Blue Sky"を夏空の下でぴょんぴょん跳ねて歌いたかった。とにかくお大事に、ゆっくりと回復されますように。
Jeff Lynneは77歳。この日(11日)のライブの出演者でいうと、Van Morrisonが79歳、Yusuf/Cat Stevensが76歳、Neil Youngが79歳。 年齢のことは話題にしたくないのだが、いつ見れなく/聞けなくなってもおかしくないし、そんなことより自分だって昔の勢いでライブに通える状態ではなくなっているのよ、といったことを噛みしめつつライブに向かうが、襲いかかってくるロンドンの熱波はまったく容赦ないのだった。
Van Morrisonの開始が16:30頃。14:00に会場は開いて既にいろんな人が演奏しているのだが、ふつうに仕事のある金曜日なので、17:00に着くのがやっと。Van Morrisonはもう何回か見ているのだが、ここ数年のジャジーなアンサンブルをゆったり聞かせて最後に”Gloria”でゆるく踊らせてしめる、といういつもの。
Yusuf/Cat Stevensはがっちりしたバンド編成、あの暖かく柔らかい声で、昔のCat Stevensの歌々がしみる。TVの東京12chで何度か放映された『ハロルドとモード 少年は虹を渡る』 (1971)で初めて彼の音楽に出会った時の驚きが蘇る。彼がボスニア・ヘルツェゴビナについて静かに語ったこと、それらを踏まえた最後の” If You Want to Sing Out, Sing Out”~”Wild World”はたまらなかった。もうじき本が出版されるそうで、これはこれまでさんざんあることないこと言われ書かれてきたことへの回答になっているはず、と。
Neil Youngの開始は20:20。日陰を求めて這いまわって(洒落ではなく)隅に隠れていた人々も出て来るが、まだ陽は高く、背後からものすごい西日が。
1曲目の”Ambulance Blues”(アコースティック)、2曲目の” Cowgirl in the Sand”(エレクトリック)までで約20分。
彼の最近の健康状態の話を聞くと、もうCrazy Horseと一緒にやっていた頃のようにエレクトリック・セットでぶちかますことは難しいのではないか、と思っていたところにThe Chrome Heartsをバックに据えたツアーを始めて、The Chrome Heartsのメンバーが結構若い人たちに見えた(鍵盤/オルガンのSpooner Oldhamだけは別)のでどうかなー? だったのだが、2曲目までの出音はびっくりするくらいよいの。「荒ぶる馬」から「鋼の心臓」へ。Crazy Horseのタンブルウィードがなぎ倒していく勢いも鼓膜を震わす音圧もさすがにないが、アコースティックとの対比で、エレクトリックで鳴る/鳴らすアンサンブルはこれだ、という像を囲んで全員が集中してそこに向かっているようで、Lou Reedの最後の方のバンドの音がこんなふうに鳴っていたことを思いだす。 それにしても、いつも素朴に思ってしまうのだが、Neilのあのギターは、どうしてあんなふうに鳴るのか、と。
2曲目以降、エレクトリックがしばらく続いて、アコースティックになり、全体としてはやさしく穏やかに鳴らす、届けようとしているようで、”Southern Man”~”The Needle and the Damage Done”の流れ、少し置いての” After the Gold Rush”などはたまらなかった。“Like A Hurricane”も聴きたかったよう。
アンコールの一曲目、“Throw Your Hatred Down”の終わりに、彼はギターから手を離して「汝の怒りを捨て去れ」と何度も説き聞かせるように、祈るように歌って、その後の”Rockin' in the Free World”で再びカオスの渦にクビを突っこんでいって、エンディングをえんえん引っぱり引き摺って再びあのリフに、を繰り返して、その3回目に突入しようとしたところで、時間オーバーでPAの電源を落とされていた(新人バンドか)。
もう思い残すことはなにも、になりがちなのだが、このライブはできればもっと、もう一度聴きたい、になった。この日はやさしく穏やかなモードだったが憤怒が吹きまくって”Cortez the Killer”で終わるようなやつを。
帰りの地下鉄がぐじゃぐじゃで帰宅に1時間くらいかかって、週末どうしてくれる? って言うくらいしんだ。
The Messthetics & James Brandon Lewis
7月7日、月曜日の晩、Café OTOで見ました。 Two DaysのDay One。
アンサンブルといえば、この4人もすばらしかったの。 FugaziのJoe LallyとBrendan CantyにギタリストのAnthony Pirogを加えたトリオに、ジャズのサキソフォン奏者James Brandon Lewisが加わった構成。ブルックリンのライブハウスBell House(なつかしー!)で出会って、ケミストリーを感じたので一緒にやり始めたそうで、この4人による新譜(Impulse! からのリリース)も売っていた。
前座なし、アンコールなし、1時間半びっちりで、ばきばきに硬いブロックを重ねては律儀に崩して積んでを繰り返すFugaziのリズムに、上になったり下になったり一重になったり変幻自在に絡みまくるギターとサックスの縄と網目模様がおもしろく、形態としてはたぶんジャズ、なのだろうが、そんなのどうでもいいから聴け! になるのだった。かっこいい! とか きもちいい! 以前にそのうねりに巻かれて動けなくなる。
7.14.2025
[film] Superman (2025)
7月12日、土曜日の昼、BFI IMAXで見ました。2Dで。
James GunnによるSupermanのリブート。批評家受けは余りよくないようで、ということはこれはよいやつなのかも、と思ったらやっぱりよかった。終わって拍手も起こっていた。
誕生/登場の経緯はすっとばして、Superman (David Corenswet)は30年前に地球にやってきて、人の子として育てられ、いまは他のMetahuman(Alien)と共に日々正義のために戦っている、という設定があって、冒頭からバトルに負けてぼろぼろになって南極の氷の上に落ちてきて、口笛で寄ってきたマントを羽織ったわんわん – Kryptoに引っぱられ、氷のなかから現れた彼らの基地のようなところでロボットたちから治療を受けている。
Zack Snyderの”Man of Steel”ががんがんにグレイのメタリック(鉄だから)で、スイッチが入ると情け容赦ない魔人のように狂っていたのと比べると、今回のは随分と柔くて、そこら辺が低評価に繋がっているのだろうか。結構ぼこぼこにやられるし、どんな人でも見かけたら救おうとして動きを止めちゃうし、新聞記者相手に悩んだり嘆いたりしているし、そんなの我々が望んでいたSupermanの像とちがう、と。
1978年のRichard Donner/Christopher Reeveによる”Superman”のように他の星からの救世主として素直に受け入れられてそのありえないような飛翔と活躍をみんなでわーわー歓んでいればよい時代は去って、まずこの他者-Alienはどれくらい危険なのか、どうして危険じゃないと言い切れるのか、人類にとって益となるのか不利益となるのか等を審査しなければならず、では誰がどうやってそれを裁くことができるのか、といった企業がやっているリスクマネジメントや入国管理の審査みたいなことを延々やることになる。Supermanが”Super”であること、その能力をフルに発揮してもらうためにはここまでやらないと有機的に機能するストーリーにはならない(そうでなければ隙間に陰謀論が)、という現代の面倒くささともどかしさと(誰がこんなふうにしやがった? は常に思う)。
これが炸裂するのが予告編でも見ることができたLois Lane (Rachel Brosnahan)によるSupermanへのインタビューだろう。Supermanのポジションや拠って立つところを執拗に追及・確認しようとするLois Laneに対して「人々が死んでいるんだよ!」って吠えるシーンは象徴的で、「賛否」が分かれるところ、ここで「賛否」に持ちこまれてしまうことへの苛立ちもある。Supermanならまず人々を救え、と? でもここは、いまの政治家やジャーナリズムに対するいいかげんにしろよ、の批判としてわざと出されたのだと思う。あんたらが自分たちの権益やポジショニングに拘って高いところから偉そうにふんぞり返っている間に子供たちは何人も殺されて悪や不正が容認されて愚かな政治家たちがのさばっている。恥を知れ、しかない。
勿論、それと同じくらいに人々の声の危うさというのもあって、これらを自在に操作して目くらまししてのし上っていく大企業のワルLex Luthor (Nicholas Hoult)も、それが結果的に無力化・矮小化してしまう国家間の紛争も、ぜんぶが今の映し鏡で、それらに対する苛立ちとか、もうわかっているし十分なんだよ、ファンタジーに近いヒーローものでそんな雑巾見せないで、になるのもわかる。
だからこれはパンクなんだ、ってSupermanがいきなり言うところはややびっくり(つまんでたビスケット落とした)で、これが出てきた文脈で言うと、「あなたはすべてのもの、すべての人を美しいと思っている?」というLois Laneの問いに返したもので、間違っていないかもだけど、あんたが聴いて育ったのは90年代のエモ寄りの「パンク」だろうな、って思ったり。 しかしSupermanがパンクになってしまう今の世の中ってどうなのか。(そして、そう言うなら一曲くらいやかましいの流してみたらどうか)
もう一つは出自とか外見とかxxファーストとか、Alienだからどうだっていうのか、というところ。ここは今だから、今があまりにひどいから敢えて、でもよいのだと思う。まじで。”Guardians of the Galaxy”シリーズを異様な家族の物語に仕立ててしまったJames Gunnだからこそ、でもあるし。
Clark KentとPa Kent, Ma Kentのやり取りが素敵で、よい親に育てられるとこうも… っていうところで、俺だってなあ、とLex Luthorが自分の子供の頃の”About a Boy” (2002)の映像を持ってくるというのはどうか。そんなに脱線しない気がする。
でも一番よかったのは暴れわんわんのKryptoだなー。監督の飼い犬”Ozu”がモデルだそうだが、名前にするなら”Yasujiro”の方だろう、って誰が言ってあげて。映画での飼い主は宇宙を遊び歩いているSupermanのいとこのSupergirlなのだそう。MCUとDCUのコラボって、別にどうでもよかったのだが、そのうちなんとしてもSupergirl & Kryptoと、同様に宇宙を放浪しているCaptain Marvel & Gooseがぶつかるお話を作ってもらいたい。あのアライグマも出てきていいから。
[theatre] REWIND: Bosnia and Herzegovina
7月5日、土曜日の晩、Kings Crossより奥に行った変なとこにある小劇場みたいな寄席みたいなPleasance Theatreで見ました。
連日の公演ではなく、この日のこの回のみの上演で、昨年はBosnia and HerzegovinaではなくChileのケースを”Rewind”していたらしい。 この場合の「ケース」とは、国や政府が特定の民族や思想をもった人々を拘束、勾留、拷問して最終的に(大量に)虐殺した歴史的に記録されるべき惨事のことで、遺体の検屍をしたフォレンジック・チームの報告を元に彼/彼女に何が起こったのかを”Rewind”しようとする。
上演時間は1時間程、舞台の奥にはコインロッカーのように四角で仕切られた蓋つきの棚が壁みたいに覆っていて、電気ブズーキから打楽器からループからヴォイスまでをひとりで操作していくマルチ奏者の他に4〜5人のパフォーマーがOHPでヴィジュアルも操作したり歌ったりアジテーションしたり叫んだり全員がフル稼働で、演劇というよりマルチメディアのパフォーマンス - ストーリーを語るというよりRewindされた結果をなりふり構わずぶちまける - に近いのかも知れず、これを連日上演していくのはしんどいのかも、と思った。
30年前のこの7月、ボスニア・ヘルツェゴビナで、当時のスルプスカ共和国軍と大統領によって8000人以上のボシュニャク人が虐殺された - これは2つの国際法廷からジェノサイドとして認定されている(と上演後のトークで言及があった)。映画だと拘束される家族の側から描いた”Quo vadis, Aida?” (2020) - 『アイダよ、何処へ?』があって恐ろしくて震えてるしかない。
入り口はひとつの男性の遺体のフォレンジックの結果、彼がどのような状態でなにをされて亡くなったのか、そもそも彼はどこの誰なのか - 確かめる家族もいない - 等が明らかにされて、背後のロッカーの蓋に彼の写真が貼り付けられ、エンディングではその枡目がひとつまたひとつと順番に埋められていく。そしてこの遺体の特定作業は現在も続けられている、と。
科学的手法(フォレンジック)により身元や死亡時の状況が精緻に詳細に明らかになればなるほど、怒りと嘆きのエモーションは暴走して行き場を失って止まらなくなっていく。それはパフォーマンスが喚起するなにか - 広げられた史実を超えて、ただただ恐ろしく、打ちのめされるしかなかった。
上演後のトークはこの件を追っている政治学者の人と現地でずっとフォレンジックを担当している医師の人、今回の劇を作った劇団側の人などが集まって、彼らが口々に語っていたのは、ここまで事態が悪化し広がってしまう前に、なぜ国際社会は何もしようとせず、またできなかったのか、アウシュビッツを経験していてもなお。 そして今も全く同じことがパレスチナで繰り返されようとしている、と。 なぜ?
11日金曜日の夕方、ハイドパークでNeil Youngの前座として登場したYusuf / Cat Stevensも、懐かしく暖かい曲の合間に今から30年前、ヨーロッパの中央で多くの人が殺害されました、と静かに語り、そこから更に”Free Palestine!”を叫んで喝采をあびていた。
“REWIND”と言えば、週末にBBCでLIVE AIDの40周年で当時放映されたライブ映像をずっと流していた。イベント史上空前の出来事だったのかも知れないが、よい話だった、って酔う前になんで未だに国・地域の間の格差も、難民もなくなっていかないのか、検証すべきはそっちだろう、と改めて思った。世の中はどんどん酷くなっている - 日本の選挙のことも含めてすっかり(ずっと)政治の季節になっている。
7.12.2025
[film] Walker (1987)
7月5日、土曜日の午後、BFI Southbankで見ました。
7月から8月の2ヶ月間を使った特集 – “Moviedrome: Bringing the Cult TV Series to the Big Screen”からの1本で、でもそもそもこれってなに? になる。
“Moviedrome”というのは1988年から2000年までBBC2で放映された「カルト」とカテゴライズされた(されがちな)映画を放映していくプログラムで、88年から94年までAlex Coxが、97年から00年まではMark Cousinsがホストとなり、全207本が放映されて、今BFIに通ってきているような50代の中高年たちはこのプログラムに脳をやられてしまった連中が多いのではないか、と。 で、この特集はここで放映・紹介された当時カルト呼ばわりされていた古今東西の変てこ映画たちを上映していくのだそう。ちなみに特集の初回は放映の初回とおなじ”The Wicker Man (Final Cut)” (1973)。
興味がある人はWikiの”Moviedrome”の項に放映された映画のリストがあるので見てみてほしい。こんなのが不定期とはいえ国営放送でじゃんじゃか流れていたなんてうらやましいったらない。
で、Alex Coxが1987年に監督してAlex Coxのホストにより1992年に放映された映画を、Alex Coxの紹介つきで見る。
配られた紹介ノートにはAlex Coxが当時番組内でカルトについて語った言葉がある。
『カルト映画とはなにか?カルト映画とは、熱狂的なファンがいるものの、万人受けするわけではない映画のことです。カルト映画だからといって、必ずしも質が高いとは限りません。ひどいカルト映画もあれば、非常に優れたカルト映画もあります。興行的に当たった映画もあれば、全くスカスカだった映画もあります。質の高い映画とされるものもあれば、ぼったくりのような映画もあります』 - カルト映画の定義というよりはこんなもんです、くらいのー。
登場したAlex Cox氏は、パンクで荒んで怖いイメージかと思ったら全然ちがう、スマートでおしゃれで朗らかに喋る人だった(ちょっとJohn Watersぽい)。
ニカラグアで撮影されたアメリカ映画で、原作は”Two-Lane Blacktop” (1971)や”Pat Garrett and Billy the Kid” (1973)を書いたRudy Wurlitzer。
1853年、戦地で弾も当たらないし向かうところ敵なし(と思いこんでいる)の傭兵William Walker (Ed Harris)が太平洋と大西洋を結ぶ陸路の権益を狙う富豪のVanderbiltに焚きつけられて内戦状態のニカラグアをどうにかすべく自ら「大統領」を名乗って兵を寄せ集めて進軍を開始するのだが簡単に自滅する、という話を無駄なエモ(婚約者のEllenが亡くなるところ以外)抜きで直線で描いて、いまのニカラグアと同様、誰にも顧みられず放っておかれるばかり、というひどい話。
目の前で何が起こっても壊れてしまったかのようにちっとも動じない、そしてそのままあっさり消えていくWalker = Ed Harrisがすばらしく、”Apocalypse Now” (1979)のKilgore (Robert Duvall)のよう、と思ったが、上映後のQ&Aで二本立てを組むとしたら併映は?の問いに監督は『アギーレ/神の怒り』 (1972)と即答していたのでそっちの方なのか。
あとは(映像で少しだけ登場する)レーガンの時代のアメリカを、あの当時のあの国の傲慢さを反映したものでもあって、比べられるものではないけど、今の方がよりひどいのではないか、とか。
音楽は(出演もしている)Joe Strummerで、この頃の彼の取組みだったのか、ややトロピカルで能天気な音楽が戦場の悲惨さをまったく無視してさらさらと流れていって、これはこれでおもしろい。戦争の悲壮感や悲惨さから遠くあろうとする映画の距離感とうまく合っているような。
音楽関係で他に出演しているのはPoguesのSpider Staceyで、上映前にステージから「Spiderいるかー?」って監督が呼んでいたが、来ていなかったみたい。
映画のカルトはおもしろいし歓迎したいけど政党のあれは許されるものではない。ふざけてるんじゃないよ、って怒りを込めてあのしち面倒くさい在外投票に行ってきたりした。
7.11.2025
[theatre] Girl From the North Country
7月3日、木曜日の晩、Old Vicで見ました。
2017年、ここで初演された後Broadwayまで行った、全てBob Dylanの曲を使ったミュージカルで、作・演出はConor McPherson。
大恐慌時代のミネソタ(Dylanの生まれた州)の田舎町に大きなゲストハウスがあって、そこの暗めで広いラウンジの左手にはアップライトピアノ、右手には簡素なドラムセットがあって、そこに楽器を抱えたバンドが四方からふらーっと寄ってきて適当に音を鳴らし始めて気がつけば曲がうねっている。楽器はほぼアコースティック中心 - フィドルとかハーモニカとか - で専任のミュージシャンは4人、メインキャストも歌ったり楽器を弾いたりするので、ステージ全体で歌ってダンスができてはねてまわって、コーラスは厚め - ゴスペルのようだったり、ちょっと聞いただけではBob Dylanの曲とは思えない。もちろん、Dylanの曲であることを意識して聞く必要はなく、そもそも彼の曲ってこんなにも多様性に満ちた豊かなものだったのだ、と改めて思わされるのと、ここは賛否があるところかもしれないが、音楽がドラマの進行に寄り添って、場を盛りあげたり怒りや悲痛感を煽ったりというふつうのミュージカルの役割を担っていない。もちろん場面の情景や雰囲気にリンクはしているものの、Dylanの曲・歌はただそこに流れてくるだけでその場の空気や気配や面影のようなものを作りあげてしまう。
ゲストハウスを経営しているのはLaines家で、家長のNick (Colin Connor)がいて、ちょっと壊れていて危なっかしいが歌がはいるとサングラスしてかっこよくなるElizabeth (Katie Brayben) 、彼らの息子で作家志望のGene (Colin Bates)、彼と別れようとしているKatherine (Lydia White)がいて、養女のMarianne (Justina Kehinde)は妊娠している。
その家 - というよりただ屋根や敷居があるだけの囲い、のようなところに逃亡中の男や(大恐慌だけど気にしない)富豪、牧師、医師など、いろんな職業や境遇の人たちが現れて、その都度広がったり狭まったりするLaines家の誰かに絡んだり言い寄ったりどつきどつかれ、音楽に合わせて歌ったり踊ったり隠れたり逃げたり消えたりの寸劇を繰り返して最後にはLaines家もどこかに風のようにいなくなってしまう。”Girl from the North Country”もそんなふうにどこかから現れて消えていったのか - そうやってもう遠くにいってしまった人々や場所についての舞台で、ドラマの展開に涙したり拳を握ったり、登場人物たちに思い入れたりするような劇ではない。時折背景に映し出される森と湖のどこかの情景、Dylanのカバーバンドがジュークボックスのように彼の曲を演奏していくなかに現れたり消えたり浮かんだりしていく家族や人々、その愛や喜びや怒りを映しだし、これこそがDylanがその音楽を通して歌い描こうとした世界まるごとなのだな、ということに気づかされる。なんでそういうことをするのか? なんて聞かないこと。
演奏されるDylanの曲は23曲、年代もアルバムもばらばらで、”Sign on the Window” (1970)から始まって”Pressing On” (1980)で終わる。”I Want You” (1966)や”Like a Rolling Stone” (1965)や”Hurricane” (1976)や”All Along the Watchtower” (1967)といった有名なのもあるし、タイトルの”Girl from the North Country” (1963)ももちろん。Dylanの曲と詞の世界をよく知っていればこの場面でこの曲、の意味や理由もより深く理解できるに違いないが、そうでなくても十分に楽しめる。というか、ここまで年代もテーマもばらばらのジュークボックスをやってもある時代、そこに生きていた人々の像を浮かびあがらせてしまう劇構成の巧さと彼の音楽の普遍性に改めてびっくりして終わる。彼のライブはずっとひとりでそれをやっているわけだが。
Wilko - Love and Death and Rock “N” Roll
7月4日、金曜日の晩、Prince Charles Cinemaの隣にあるLeicester Square Theatreで見ました。
Wilko Johnson (1947 - 2022)の評伝ドラマで、でもWilkoのギターなんて誰がやったって弾けるわけないので、見ないでいいや、と思っていたら、最初サザークの方の小劇場でやっていたのがこちらに来て、日替わりでゲストが出る、と。そのゲストがWreckless EricとかJohn Cooper ClarkeとかBob Geldof とかBilly BraggとかChris Diffordとか、なんとも言えない人たちなので、しょうがないか.. (なにが?)って見に行った。
彼が末期ガンの宣告を受けるところから入って生涯を回顧していく内容で、妻Ireneとの出会いからLee Brilleauxと出会ってDr. Feelgoodからソロ活動から、日本に行って感動した話から、”Game of Thrones”出演 - 彼のキャリアのなかでこれは相当大きかったのだな、と - まで、いろいろ。ギターを抱えてバンドで演奏するシーンもあるのだが、やはりやや残念だったかも。
劇が終わった後で、Wilkoの息子でやはりギタリストのSimon JohnsonとNorman Watt-Roy先生がこの日のゲストとして登場して、”She Does It Right”などを演奏した。Norman先生はお元気そうでよかった。
Wilkoのライブを初めてみたのは渋谷のLive Innというもう消えてしまったライブハウスで、それはそれはすばらしかったので、彼が来日するたびに - Ian Dury and the Blockheadsで来た時もDr. Feelgoodと来た時も - 通ったものだったが、ほんとうにぜんぶ遠い昔になってしまったことだなあ、と。
7.10.2025
[film] F1 The Movie (2025)
7月2日、水曜日の晩、↓の”The Swimmer”を見てから、BFI IMAXで見ました。
海パンいっちょうで、ひとりで歩いてプールを渡っていく男の話と最先端ハイテクのユニフォームを纏って世界をぶっ飛ばしていくF1レーサーの話のギャップがすごいと思ったが、主演男優でいうとBurt Lancaster→Brad Pittのオトコの映画なので、そんなに段差はないかも。
前もここに書いたかもだが、クルマもスーパーカーもF1も子供の頃から一切、他のスポーツと同様なんの興味関心も持たずに来てしまったので、これを見ようかどうしようかも含めてちょっと迷っていた。別に見なくても暮らしていけるのだが、いっぱい宣伝しているし、”Filmed for IMAX”とか言われるとなんか弱いのかも(ということに気づき)。
Sonny Hayes (Brad Pitt)はキャンピングカーで寝泊まりしながらデイトナとかで日雇いレーサーなどをして気楽に暮らしていて、ナリはぼろくても結果は出したりしていて、そんなある日、昔のレーサー仲間だったRuben (Javier Bardem)が訪ねてきて、彼のF1チームに入らないか、って英国への航空券(ファーストクラス)を置いていく。
彼は30年前のF1のサーキットで乱暴運転で大事故を起こしてからその世界からは退いてギャンブラーをしたりタクシー運転手をしたりで生きてきて、Rubenは彼のところの若手レーサーで昇り龍のJoshua Pearce (Damson Idris)の横に置いて、どんな化学反応が起こるかも含めて見ようとしているらしい。
でもPearceからは「おじいさん」呼ばわりされ、最新の技術にもうまく適応できず、最初のうちは問題ばかり起こしていて、「F1はチームプレーなんだから」って諭されたり、技術者の女性と仲良くなったり、事故を起こしたり起こされたりで険悪だったPearceとの仲も修復されていって、最後のアブダビのサーキットまでくるの。
外からやってきた得体の知れない老人が一番やばいやつで、でも最後に頼りになるのは彼だった、みたいな話は”Top Gun: Maverick” (2022)にもあったし、少子化が進むなか、シニアに求められることもいろいろ、とか昨今のうさん臭い巷の話にもきれいにはまって、やがてそれがチーム全員の結束を高めて… あたりまでくるとさすがに吐気がしてやってられない。なーんのひねりもない、気持ちわるくなるくらい外ヅラだけ綺麗にポリッシュされた男の勝負の世界のドラマで、それがブランド広告の束と「ステークホルダー」にまみれた流線形の車のボディにきらきらと映しだされると、よくできたPVみたいで、騙されるなみんなー! って叫びたくなる(そしてあっというまに轟音で消される)。
思ったのは、今ゲームでいくらでも(限りなくリアルな)疑似体験ができるようになってきている中、F1のゴージャスな体験(みんなどうして自分はパイロットだって思うのか?) ってそんなに求められなくなってきているのではないか、むしろ、オリンピックやワールドカップや万博と並んで、一部の金持ちと広告屋とやくざを儲けさせるだけの、地球にとっては有害でしかない屑イベントになっているので、そこをどうにかして業界として盛りあげたい、バブル期の夢よもう一度、になっているのではないか。だから主人公はPearceではなく、年寄りHayesの方だし、プロデューサーはJerry Bruckheimerだし、しょうもないなー、って。 (あと、若い子向けのは”Gran Turismo” (2023)でやったから?)
というかんじで全体にあんまのれなかった。パッケージ商品としてよくできているとは思った。
あと、McLaren Technology Centreが出てきた。むかしなんかの仕事で行ったなー。
7.09.2025
[film] The Swimmer (1968)
7月2日、水曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
“Big Screen Classics” - クラシックを大画面で見よう、といういつものやつで、7月のテーマは「プール」だそう。
最初にJean Vigoの短編”Taris” (1931)が上映される。水泳チャンピオンのJean Tarisの泳ぐ姿、水中の姿を撮ったもので、Taris本人よりも水の動きや揺らめきの不思議、その音にフォーカスしているような。
監督は先月に”Last Summer” (1969)がBFIで異様な熱狂と共にフィルム上映されたFrank Perry、脚本はパートナーのEleanor Perry。原作はNew Yorker誌に掲載されたJohn Cheeverの同名短編で、Cheeverはカメオで出演もしている。 撮影終了後にリテイク/差し替えられた部分の監督はノンクレジットでSydney Pollackが担当し、差し替えされたパートにはBarbara Lodenが出演していたそう。邦題は『泳ぐひと』。
アメリカ東部のコネチカット州 - お金持ちが暮らす州 – の森のなかの邸宅、日曜日のホームパーティーを開こうとしているプールがある一軒家の庭先に、どこからか水泳パンツいっちょうのNed Merrill (Burt Lancaster)が現れて、迎えた側もみんな彼を知っているようで歓待して、二日酔いが酷いけど一緒に飲もうよ、などと誘うのだが、彼はこの近辺の家にあるプールを全部泳いで渡っていけば自分の家に帰れるはずなのでそれをやってみたい、って一人で決めて意気込んで、そこのプールにざぶん、て飛び込むと、困惑する友人たちを置いてすたすたと次の家に向かう。
その行動を通して、Nedはその近辺のコミュニティに顔と名がそれなりに知られた人であることがわかってくるものの、彼がどこから、どこで水着一枚になって、そもそも何をするためにそこに現れたのかはわからないし、彼のアイデアも、なんでプールなのかも、何が起点や動機になっているのかも一切わからず、映画は彼の明るく屈託のない「アメリカン」の笑顔と年齢にしてはそんなにたるんでいないボディをアップでCMのようにとらえつつ追っていく。
庭には囲いや柵がない(囲う必要のない広さと安全がある)ので、彼はすたすた誰かの庭に入っていくと、彼を知っている人のなかにはよい顔をしない人もいるし、道端でひとりレモネードを売っている少年に会って、水のないプールで泳ぎを教えてあげたり、かつて彼の娘のベビーシッターをしていたJulie (Janet Landgard)と会って彼女がかつてNedに憧れを抱いていたと聞くと、一緒に行こう、って誘うのだが怖くなったJulieに逃げられたり、すっ裸の老夫婦がいたり、かつて愛人だった女優Shirley(Janice Rule - Barbara Lodenから替わった)の庭先でやっぱり冷たく(←すごい温度差で)追い払われたり、公営プールでいじわるされたり、足を怪我して寒いし、心身共にぼろぼろになっていく。
展開があまりに唐突だったり変だったり、だんだん彼への当たりがきつくなっていくにつれ、これが寓話のようなものだとわかってきて、ラストでやっぱり、となるのだが、それ以上にアメリカの階級や富裕層の当時の空っぽな(に見える)ありようがプールを介したランドスケープとして芋づるでずるずる連なってくるのがおもしろい。 David Hockneyはこの映画を見たのかしら?
アメリカでは普通の一戸建てでも庭にプールがあったりしてなんでだろう?と思っていたが、人種差別・偏見の煽りでパブリックのプールには入りたくない層をうまく取り込んでこのスタイルが広がっていった(というのがイントロで説明された)とか、Nedは白人なのであんな恰好で庭に入っていっても笑って手を振れば許されるのだろうとか、そういうことも思う。そんな特権的な”The Swimmer”(の終わり)。
そしてここに”Wanda” (1970)の真逆の、ネガティブであてのない彷徨いを重ねてみることは可能だろうか。可能なのではないか、とか。
それにしても、最後(は崩れてしまうが)までアメリカの笑顔と態度を維持しつつ半裸で歩き通したBurt Lancasterの力強さ、刻印するパワーのようなものにはすごいな、しかない。本人はすごく気に入っていた作品だというし。
そして、Frank Perryの映画としては(間にTV作品はあるみたい)、この後に” Last Summer”が来る、というのがなんとも。 そして、この後の映画”Trilogy” (1969)は未見なのだが、こないだ古本でこれの原作?本を見つけた。Truman Capote, Eleanor + Frank Perryの共著で、”An Experiment in Multimedia”とあって、Capoteの3つの短編 – “A Christmas Memory”, “Miriam”, “Among the Paths to Eden”の原作小説(by Capote)とScript(by Eleanor Perry + Capote)とFilmのスチールとクレジット、翻案にあたってのNote(by Eleanor)がセットになっているの。 まずは映画を見たい。
7.07.2025
[film] 花樣年華 (2000)
6月29日、日曜日の昼、BFI Southbankで見ました。
公開25周年を記念した”In the Mood for Love 25th Anniversary Edition”として、6月27日からお祭りのようなリバイバルが始まって、まだ上映されている。Sight and Sound誌の5月号の表紙&特集がこの映画だったのは、そういうことだったのか。
2022年のデジタル・リマスター版の時のリバイバル - 新宿で見た – から改めて4Kリストアされて、色の落ち着きというか濃度・質感はこっちの方がよくなった気がするのと、9分の未公開シーンが追加されている。当初、撮影されたものの使われなかった二人のセックスシーンが加わるのでは、という話もあったがそれはなく、どこが追加されたんだろーあそこかな?くらいのもの。Sight and Sound誌の特集に掲載されたWong Kar-waiのインタビューを読むと、この作品の成り立ちやテーマのありようからして、細かなところで前にでたり後ろに隠したり、ずっと続いていく追加編集はあってもよいのかも、と思わせるし、見る側にしても、最初に見た時、前回見た時、今回見た時で印象は刻々と変わっていって、今度のが一番よかった – よく見渡せて湿気等が目に張りつく気がした。それもまた – In the mood for Love, ということか。
そもそもは1960年代の香港を舞台に、炊飯器の登場とそれが家庭内の女性たちに与えたインパクト、解放感に焦点を当てた作品を作ろうとして、そこにRaoul Walshによるミュージカルコメディ”Every Night at Eight” (1935)のために書かれた曲"I'm in the Mood for Love"を1999年にBryan Ferryがカバーしたものからタイトルが取られて、そもそもはふんわりとした食べ物の話が真ん中に来るはずだった。
配偶者が出張によって長期間不在となり自分で料理をつくって食卓を囲んだりする必要がなくなった彼らはポットに麺を入れてもらったのをテイクアウトすればよくなったし、日本から炊飯器も来たので、食事は自分で作らなくなって、そういえば隣人も配偶者が不在で狭い廊下ですれ違う – なにやっているのか興味ないしどうでもいいけど、でも向こうも同様のことを思っているのだとしたら... というすれ違いが毎晩のようにMrs Chan (Maggie Cheung)とMr Chow (Tony Leung)の間で繰り返され、はじめはMrs Chanの勤め先の上司の動向と同じように「その」匂いみたいのを感じるくらいでどうでもよかったのだが、ひとりの食事の時間が続いたり同じように雨に降られたりが繰り返されているうちに、どこからか(毎度)In the Mood for … のリフレインが。
カメラはいつまでもふたりの物理的な距離を測れる側面からの位置(時折変な動き)を保って、それぞれの手の動きは追うけど正面から見つめ合う切り返しにはいかなくて、その距離を保とう守ろうとすればするほど、ふたりのもどかしさ、互いに認めたくない己の欲望が湯気のように沸きたってきてどうしようもなくなっていく。のが見える。雨に降られたくらいで冷めるものではなくー。
舞台となった1962年といったら日本では『秋刀魚の味』の年で、同じく食べ物がテーマの映画として(ちがうか)、こうも違ってきてしまうものなのか、とか。『秋刀魚の味』はひっぺがす話で、こっちは(ひっぺがしたい、もあるけど)匂いに寄っていく – 寄せられてしまって困惑してどうしようもなくなる話、というか。
このふたりは互いの事情を明確に語らず、嗜好やああしたいこうしたいも、自分が何をどうしたい、どこまで行きたいのかも最後まで語らず、謎のままで放置の知らんぷりして、それでも彼らが画面の上であんなふうになってしまう肉の声~求めている親密さは調光や衣装や音楽を通して痛痒いほどの距離感で伝わってくる。この点においてMaggie CheungとTony Leungは本当にすごい俳優だと思うし、この作品はどこまでもそんななまめかしいMoodと空気を、その微細さを伝えるべく迫ってきて止まらない。 そして我々はその細部を料理を楽しむように何度でも味わって、口のなかで転がして…
In the Mood for Love 2001 (2001)
上映前にBFIの人が、終わってもおまけがあるから席を立って帰らないで、と言っていたのがこれ。
2001年のカンヌでのWong Kar-waiのマスタークラスで「デザート」として上映されただけだった9分間の短編。
21世紀の街角にコンビニ、というか深夜までやっているデリがあって、ちょび髭をはやしたTony Leungは店員で、Maggie Cheungはそこにやってくる派手な格好にサングラスの謎めいた客で、彼女は何かを抱えてて大変そうだが、お腹を減らしてていつも何かを食べていなくなって、彼はそれを毎晩見つめているだけなのだが、これが2001年に現れるMoodのありよう、というのはわかる。チープに外した洋楽のPVのようだし、ちょっととっぽい兄さん姐さんのかんじは『恋する惑星』 (1994) のようでもあるし。
一皿で終わっちゃうのなんて「デザート」じゃない。まだなんか隠している気がする。
[film] M3GAN 2.0 (2025)
6月29日、日曜日の夕方、CurzonのAldgateで見ました。
監督は前作M3GAN (2022)からのGerard Johnstone。ストーリーも脚本も同じく、主要登場人物たちもそのままの、正しい続編。制作はBlumhouse。
“M3GAN”は“Child’s Play”とか悪魔人形とかのおどろおどろしい人形ホラーに連ねられるべき作品だったのかもしれないが、(自分には)そんなに怖いと感じなかったのは、M3GANが開発者Gemma (Allison Williams)の姪のCady (Violet McGraw)を守るというコマンド通りに動くおもちゃ/ロボット/AIだったからで、そこには人形ホラーにつきものの憑き物とか怨念邪念とか超自然的なところが一切なかった。自律型のロボットが命令の通りに動いて少女を守る、それだけの話なので、すべてが、ま、そうくるよね、で終始していてわかりやすかったの。
今回もそこは明快で、米軍がM3GANのコードを転用して作ったAmelia (Ivanna Sakhno)という軍用ロボットが暴走して軍関係者を殺していなくなって騒ぎになり、Gemmaのところにはバックアップから生き延びていたM3GANが現れて自分ならあれを止められるので戦えるボディーをくれ、とか言っているうちにAmeliaはAI富豪のクラウドから邪悪AIを使って世界を支配しようとしていて、要はT2みたいにバージョンアップされた敵とこないだのMIみたいに全世界を乗っ取って支配しようとする話のミックスで、ラストもT2そっくりだし、バカバカしくてうさん臭いったらないの。
唯一の救いは、これをArnold SchwarzeneggerやTom Cruiseのような正義感たっぷりの男性役者が演じるのではなく、お人形さんが - 戦闘用のボディを貰う前の壺みたいなやつもおかしい – 軽やかにダンスしたりしながらバサバサ殺しまくってくれることで、怖さという点では前作より更に怖くなくなっていて、この辺はそれでよいのか。背後の悪い奴だってすぐわかっちゃうし。どうせなら思いきって笑える方に振りきっちゃってもよかったのではないか、と少し。
印象に残ったのは前作のあれこれを後悔しているGemmaがAI規制に乗りだしつつも押し切られてしまうあたりで、まず規制すべきはAIじゃなくて富豪の方なんだよね、って改めて思った。AIはどれだけ規制かけたってArtificialにがんばって乗り越えようとしてくるので、世界支配系のネタとしては尽きないけど、どうしても飽きがくるかも。
たぶん3.0はそのうち来るのだろうが、どこに向かうのかを想像するのは楽しい。もうAlienやPredator 系のを出すしかないのか、Gemma/Cadyと一緒にThunderbolts*に入って貰うとか、思いきってハイスクールもの(既にやられている気がする)の方に吹っ切ってしまうか。
How to Train Your Dragon (2025)
6月21日、土曜日の午後、BFI IMAXで見ました。3Dのもあったが目が回る気がしたので2Dで。
原作となったCressida Cowellの絵本が元であるのはもちろん、2010年のアニメーション版を書いたWilliam Daviesのも元にしていてストーリーもメッセージもあのまま(当然)だし、アニメ版で父親の声をあてたGerard Butlerはこの実写版でも父親役だし、つるっとしててびゅんびゅん飛び回るドラゴンは実写化してもどっちみち3-Dアニメでしかないし、実写化して大きく変わったところをあまり見出せないのがなんか。
爬虫類ぽいぬめぬめびたびたをもっと前に出しても、と思うと確かに魚とかはそんなふうなのだが、ドラゴンが人を襲って食べちゃったりするとこをリアルにだすわけにもいかないし、最大の魅力である空を自在に飛び回るとこはそんなに変わらないしー。ただ実写であれだけぐるぐる飛び回ったりしたら酔ってげーげーしたりもありかと思うがそれもないしー。
アニメと同じようにシリーズになるのかしら? 白いのはまだ出てきていないし。
7.05.2025
[theatre] Stereophonic
6月30日、月曜日の晩、Duke of York’s theatreで見ました。
90年代に出てきたウェールズのバンド – Stereophonics、の話ではなく、オフブロードウェイで2023年に初演され、2024年にブロードウェイに行って、その年のトニー賞でBest Playを含む5部門を受賞した演劇のWest End版。メインキャスト7名のうち、ブロードウェイ版から3名はそのまま来て、4名がWest End用にUKでキャスティングされている。
原作はDavid Adjmi - 2013年からこの舞台をどうやって作りあげていったのかについては、Guardian紙に記事がある。機内のラジオで聞いたLed Zeppelinの”Babe I’m Gonna Leave You”が起点だって。演出はDaniel Aukin。
ミュージカルではないが、バンドと彼らが作っていく音楽が中心的な役割を占めて、歌詞と音楽は元Arcade FireのWill Butlerが書いて、俳優たちが(吹き替えではなく)ライブで楽器を演奏して歌っていく。休憩込みで3時間15分。
ステージ奥はガラス張りのレコーディング用のブースになっていて、手前にはミキサーやコンソールの機材があり、エンジニアたちはこちらに背を向けるかたち。両脇には休憩用のソファとかがあってタバコとかドラッグとかケンカとか。エンジニアの卓でレコーディングブースの音はコントロールできて、ブース内の音を消すこともできるし、オフにしろ、って指示された音をこっそり盗み聞きしたりもできる。
1976年、カリフォルニアのサウサリート(←いいところだよ)のスタジオで、最後までバンド名が明らかにされないブリティッシュ-アメリカンの5人組バンドが2ndアルバムのレコーディングをしようとしている。エンジニアは(まだプロデューサーに昇格していない)Grover (Eli Gelb)とCharlie (Andrew R. Butler)で、リーダーでドラムスのSimon (Chris Stack)は妻子がイギリスにいて、薬とアルコールでよれよれのベースのReg (Zachary Hart)はキーボード/ヴォーカルのHolly (Nia Towle)と夫婦なのだが、Regがずっと酔っ払いのよれよれすぎてどうしようもなくて、作曲をして音楽の中心を担うギター/ヴォーカルのPeter (Jack Riddiford)とヴォーカル/タンバリンのDiana (Lucy Karczewski) は恋人同士なのだがいつ別れてもおかしくない緊張関係のなかにある。
こういう状況でレコーディングの試行錯誤を重ねていくバンドの1年間(計4幕)を、バンド内のヒトの緊張関係や内紛状態を通して描くというより、何十回テイクを重ねても終わらない楽曲のレコーディングを通して、ドラムスの音がよくないとか、ドラムスのクリックを使う使わないとか、ベースラインが気にくわないとか、ヴォーカルのキーをもうちょっととか、きわめて具体的なところで見解の相違や不平不満がでて、それが日々の夫婦関係、恋人関係にも影響を及ぼし、バンドそのものの存続もどうしよう、になり、でもやっぱり反省したりバンドってよいかも、になったり。 最近のはどうだか知らぬが、ロックを聴いて、そのアーティストを好きになってインタビュー記事などを読むと、レコーディングにまつわるこういった目線の違いや痴話喧嘩みたいのはいくらでも転がっていたので、そうなんだろうなー、くらい。
リハーサル~本録りまでの、演技(演奏)も含めて実際の音として出して、(台本上の)最終テイクでばしっと決めるのって結構大変ではないか、と思ったのだが、ライブの音としてはちゃんと出て鳴っていて感心した。
PeterがどうしてもDianaに「指導」をしようとしてDianaが構うな触るな、って苛立って反発するシーン、その緊張のありようは↓の”Elephant”のそれを思い起こさせた。女性の声やニュアンスをどうにかできる/したい、という目線で迫ってくる男性の傲慢と無神経。その延長に、バンドであることの意味とは?もやってくる。自分の思った通りの音にしたいのならソロでやるのが一番だが、そうしないでいる理由はなに? と。そしてバンドの目指すのが「成功」であるとしたら、それってなに? なにをもたらすものなの? だから我慢しているの? など。
緊張~解放・発散を繰り返す小集団の密室劇がブースとコンソールで層になっている - MonoではなくStereoの濃さ、おもしろさは確かにあって3時間あっという間なのだが、プロデビューをしているバンドなのだから、影響を及ぼそうとしたり口を挟んできたりするのは、この7人の間だけですむわけがないとは思って、でもそこまで覆いきれないのはしょうがないのか。
音の感触、重心は70年代のバンドぽいが、映画”Almost Famous” (2000)で鳴っていた70年代の音ほどではないかも。バンドにモデルはいないようだが、構成とかカップルがいたとか、思い起こしたのはやはりFleetwood Macあたりかも。でもこのスタイルでバンドの、レコードの制作過程を追うのだったら、パンク初期のChris Thomasがプロデューサーに入った時のSex PistolsとかNick Loweがプロデューサーに入った時のThe Damnedとかのがおもしろくて痛快なものになったのではないか、とか。
7.03.2025
[theatre] Elephant
6月26日、木曜日の晩、Menier Chocolate Factory Theatreで見ました。
Borough Marketの近くにある小さくて古い劇場で、トイレは場外に置いてあるトレーラーにあったりする。
昨年もShepherd's Bushの劇場で上演されていた一人(と一台)芝居の再演。
作、作曲、主演はAnoushka Lucas、企画と演出はJess Edwards。休憩なしの1時間25分。
客席が四方から囲んで舞台を少し見下ろすかたち、真ん中には円形のサークルが掘られていて、そこにマホガニーのアップライトピアノが置いてあり、その傍らにLylah (Anoushka Lucas)がさらっと現れて穏やかに、ピアノにはぜんぶで88の鍵盤があります、うち黒鍵は36、白鍵は52あって、などと語り始めて、鍵盤に手を置いて試すように歌いだす。が、ずっと歌っていくわけではなく、ピアノから離れて客席を見つめながらモノローグだったり、リハーサルになったり、ラジオの音声や録音された男性の声なども被さってくる。彼女が歌っているときは、サークルがピアノと一緒にゆっくりと回転する。多分どこかにマイクはあるのだろうが、一番前で見ていても彼女の頭に装着されたものは見えず、客席に地声で届く範囲で語り、歌っていくような。
彼女が小さい時にこのピアノは住んでいた公営住宅の窓から運びこまれて、母親も音楽を、歌うことを奨めたし彼女も弾いて歌うことが好きだったのでずっとそうして弾いて歌って一緒に育ってきて、奨学金で高校からオックスフォードにも進学して、ドラムスをやっている彼もできて、でもそうやって自分の音楽を掘り進めていく中で、労働者階級である出自や、イギリス、フランス、インド、カメルーンの混血であることを否応なく意識させられ、レイシズムにも晒され、彼女自身のヴォイスも音楽に向かう姿勢も変わってくる。 楽しいからって始めたはずのことが、苦痛に近い縛りとして迫ってきて、それは彼女の日々の生活と地続きで。
音楽の道を考え始めた時にレコード会社の男たちから軽く言われてしまう、もっとUrbanに、とかAlicia Keysのように歌えないか、アクセントなどももっとこうしたら、もっと品のない歌詞にしたら - 売れるんじゃないか、とか、恵まれていて血統のよさそうな彼の家に行った時にも彼の家族から端々を突っこまれ、品定めされているような感覚がつきまとって、彼女を嫌悪と無気力のループに押しこめようとする。(もちろん彼らは後から「そんなつもりはなかった」とさらりと言うだろう)
そしてそうなった彼女が向きあう友達であり同士であるピアノは、そのアイボリーの鍵は、アフリカで殺された象の頭蓋骨~牙でできていて、それをここまで運んできたのは自分とルーツを共有しているかもしれないかつての奴隷たちで.. といったことを考え始めると止まらなくなっていく。 自分たちはなんでここ(英国)にいるのか、なんのために鍵の先の弦を、それらを束ねた音楽を打ち鳴らすのか、等。
劇は、そんな彼女の痛みや辛さをブルースとして歌いあげたり祈ったりしていくのではなく、こんなことがありましたけど、自分はこのピアノ – Elephantと一緒に歩んでいきます、というプロテストに向けたさばさば潔い宣言になっている(きっかけとしてGeorge Floydの事件もあったそう)。 客席のひとりひとりを見つめるまっすぐな目と後ろに引かない背筋が、これで終わらないことを告げて、かっこいい。 大きなホールで訴えるようなものではないが、はっきりと伝わってくるものはあった。
こんなふうに、例えばピアノを弾く、服を着る、ご飯を食べる、それだけで政治的な何かは否が応でも絡まってくる。いい加減目を覚まして選挙に行け。
[film] Marry Me (1949)
6月24日、火曜日の晩、BFI Southbankでたまにやっている”Projecting the Archive”というBFIのアーカイブから持ってきた昔のフィルムを上映する会、で見ました。
監督は後にHammer FilmsでB級ホラーを出していくTerence Fisher、脚本を後に”Alfee” (1966)や007ものを書くLewis Gilbert。制作はGainsborough Picturesで、とにかくとっても英国調の松竹大船というか。
結婚相談所 - Marriage Bureauにそれぞれの事情や理由を抱え結婚相手を求めてやってくる人々 - 中心人物はいない - を巡っていくアンサンブルドラマで、各エピソードの進行がランダムに右から左に流れていくだけの取っ散らかったやつなのだが、ところどころおもしろくてよいの。いまはオンラインのマッチングで見えなくなっているあれこれが、全て手動で何らかの介在が必要であった、と。
新聞記者のDavid (David Tomlinson – “Mary Poppins”(1964)のGeorge Banksね。空軍パイロットだったこの人は2回飛行機事故にあって死ななかった、って上映前のトークで)が結婚相談所の実態を探るべく老姉妹が経営するところに客としてやってきて、オーストラリアの牧羊家、とか適当に嘘をついて置いてあった顧客ファイルを持ち去り、候補者と会ってみるのだが、そこから選んで仲良くなった相手もDavidと同じようになりすましで固めまくっていて、やがてDavidの記事と共に彼の正体が明らかになると…
ダンスホールでホステスをしているPat (Susan Shaw)は自分を田舎者であるというMartin (Patrick Holt)と出会って少しときめくのだが、彼が聖職者のカラーをつけているので諦めて、でも彼は諦めずに追ってきて、でもPatの職業がばれてしまうと…
フランス人女性のMarcelle (Zena Marshall)は英国の滞在許可期限が迫っていてお金を払ってでも結婚して滞在を延ばしたくて、Andrew (Derek Bond)は新事業のためのお金がほしくて、出会った二人はそれを互いに正直に話して恋におちて、でもMarcelleはフランスに恋人Louisがいて、そいつが殺人犯で脱獄して英国に渡ってきてMarcelleを探していることがわかり、Louisが現れると、恋人どころか夫だったことがわかるのだが、Andrewと格闘の末バルコニーから落ちてLouisは死んじゃうの。
我儘で女性嫌いでもちろん結婚なんかするもんかのSir Gordon Scott(Guy Middleton)の執事のSaunders (Denis O'Dea)が仕事を辞めて引退するので伴侶がほしいと結婚相談所にやってきて、理想の女性としてピックアップされた女教師のEnid (Nora Swinburne)がSir Scottの家にやってくると、Saunders にいなくなられたら困るSir ScottはSaundersになりすましてわざと失礼な態度をとったりするのだが、Sir Scottはその時の彼女の態度と対応に感銘を受けて、Saundersが彼女を諦めた後に、彼女を探して結婚相談所まで行って…
こんなふうにどのエピソードもそれなりにおもしろく – 一番おもしろかったのはSir Scottのやつかな - しかし彼らみんな結婚なんてしなくても十分にひとりで生きていけそうな強くて濃いイギリス人たちなのになんで結婚相談所にまで行くんだろうか – 変なイギリス人! ていうのは改めて思った。日本の戦後のドラマを見てもたまに思うことだが、結婚というのが社会を渡っていくための予防接種みたいなものだったのかも、って。
Tornado (2025)
6月24日の晩、上のを見た後にBFI Southbankで見ました。
スコットランド映画の新作で、主演の日本人女性が有名芸能人夫婦の娘である、というのは後で知った。監督はJohn Maclean。
18世紀後半のスコットランドの荒野を逃げている女性(と子供)がいて、それをSugarman (Tim Roth)とLittle Sugar (Jack Lowden)の率いる見るからに悪そうな一団が追いかけていて、追いかけっこの途中で回想がはいる。
Tornado (Kôki)と父? のFujin (Takehiro Hira)が旅芸人の一座でちゃんばら人形劇をやって放浪していくうち、そこにいた子供がSugarmanの金貨を盗んだので、彼らはFujinを含む一座をほぼ皆殺しにしてTornadoたちを追い回して、でもやがてTornadoは覚醒して… という復讐西部劇みたいなお話し。
別にスコットランドで時代劇や西部劇があったってよいと思う。けど、平岳大に侍の恰好をさせて太刀を持たせて構えとか振りまでさせて、でも殺陣とか一切なしに弓矢でどん!はないよね。Tornadoの復讐にしても、あんなの殺陣でもなんでもないし。18世紀のスコットランドではそんなものは通用しなかったのだ、という冷たい話にするならそれはそれであり、かもだけど、それなら「我が名はトルネード!」とかかっこつけないでほしいわ。
というわけで”Marry Me”の幸せが一挙に冷めてしまったのだった。
7.01.2025
[film] Caché (2005)
6月23日、月曜日の晩、BFI SouthbankのMichael Haneke特集で見ました。
英語題は”Hidden”、邦題は『隠された記憶』。 カンヌでは監督賞を含む3部門で受賞している。
ヨーロッパ - パリの古さとモダンさが合わさった邸宅 –かっこいい- を通りの向こうから映している静止映像が流れていて、そこにキャスト等のクレジットの文字が機械的に覆っていくのが冒頭。 やがてその映像 – ただの家とそこを出入りする家族など - が収録されたビデオテープがそこに住む裕福な家族 - Anne (Juliette Binoche)とGeorges (Daniel Auteuil)、息子のPierrotの元に差出人不明で送りつけられる。誰が何のためにそんなことをしているのか、不明すぎて気持ち悪く、そのうち首から血を流している落書きのような絵も送られてきて、子供の安全もあるので警察にも相談するのだがこの段階では調べようがない、と退けられ、やがてGeorgesが子供の頃に過ごした実家の映像が送られてきたので、思い当ることがあるらしいGeorgesは、子供の頃に一緒に暮らしていたMajid(Maurice Bénichou)のところを訪ねるが、彼は当然そんなの知らない、という。
Majidのアルジェリア人の両親は、Georgesの実家で農場労働者として働いていたが、1961年のパリ大虐殺で行方不明になっている。親を失ったMajidに責任を感じたGeorgesの両親は、彼を養子にするつもりで実家に置いていて、送られてきたビデオテープによってGeorgesの記憶に蘇るものがあって..
誰がカメラを置いてその映像を撮って、そのテープを送ったのか、の犯人捜しをしていく映画ではなく、一連の無機質な映像や落書きが誰に、何を想起させるのか、それは何に根差すものなのか、をじりじりと追って迫って、そのなかでGeorgesはAnneに対してすら頑なに口を閉ざして、内に籠って自壊していく。
フランスのアルジェリア戦争と植民地主義に根差した集団的記憶と罪の意識がブルジョア階級にどんなふうに根を張って、その視野をおかしくしたりしているのかを描いた、というのは後で知って、なんでそこまでして隠されなければならないものなのか、は説明されないので、Georgesの大変さと、でもそんなの知ったこっちゃないし、が両方きて、画面上で陰惨な酷いことが起こる場面ですらスタイリッシュなので、ますます勝手に悩んでいれば、になってしまうのだった。
他方で、日本でこういう過去の、歴史に記されるような過ちがそれなりの規模で正面から掘り返されずに個々人のトラウマみたいなところに押し込まれがちな(ように見える)のって、やはり社会化とか教育(修正された歴史の内面化)によるところが大きいのだろうか? しょうもないブルジョアのドラマにされてしまうのであっても、こっちの方がまだ健全である気はする。
Le temps du loup (2003)
6月25日、水曜日の晩、上と同じくBFI SouthbankのMichael Haneke特集で見ました。
この人の映画って、見ていてかなり緊張を強いられるし、辛いし、後味もよくないのに、つい見に行ってしまうのはなんでなのか。みんなで揃ってなにか反省とかしたいのか。
英語題は”Time of the Wolf”、邦題は『タイム・オブ・ザ・ウルフ』。
郊外の山小屋のようなところにGeorges (Daniel Duval), Anne (Isabelle Huppert) – ここでもGeorgesとAnneだ - と彼らのふたりの子供たち - Eva (Anaïs Demoustier)とBen (Lucas Biscombe)がやってきて、荷物を運びいれたところで先に入りこんでいたらしい男とその家族が、銃を構えて荷物を渡せと脅し、Georgesを簡単に撃ち殺して、その先は、AnneとEvaとBenが家のない荒野を彷徨っていく。
なにかの大惨事や大災害に見舞われたのか、それによって社会のなにがどうなって彼らがそうなったのか、事情とか背景は一切説明されず、夫/父を失った家族が放り出された先に待ちうける困難、出会う人々とのやりとり等を具体的に描いていって、そこは人権や通貨などによってそれなりの安全を保障された「社会」ではなく、食うか食われるかの奪い合いがあり、手に入れたもん勝ちの世界で、Anneにとっても、Evaにとっても、Benにとっても、それぞれで辛苦の様相は異なっていて比較できるものではないが、みんな我慢して耐えるしかなくて、シンプルにしんどそう。
↑の” Caché”の世界と同様、コトの中心で誰がなにをしたのか、どうしてそうなっているのかの説明がないまま、だだっ広い荒野のまんなかで気持ちがよくないまま我慢せざるを得ない事態が延々続いて、それによって主人公たちの立ち居振る舞いがどうなっていくのかを描いて、だんだんに滅入ってくる。
イントロでも言われていたが、コロナ禍の最初の頃はこんなかんじだったので、その居心地の悪さとか、先の見えないかんじは確かにわからないでもない。でもあの時はそれでも「社会」的な何かがまだ機能して/しようとしていた気がする。それすらも失われた先になにがあるのか。
日本の震災の避難所って、こんなふうだったのではないか、って少し思ったり。
上の作品もそうだが、ものすごく強固で説得力のある物語世界 - 例えばディストピアのそれ - を構築しているわけではなくて、実験場のようなところに置かれた人々がそこでどう振る舞って自身の自我や尊厳をどうにかしようとするのかを見る、更には彼らにとって「不安」や「恐怖」と呼ばれるものを構成している成分はなんなのか、それは他者に伝えたりできるものなのか、とか、それらをスケッチして並べていくことで見えてくる「本性」?みたいなものとは。 やっぱり「レミング」なのか、とか。
[log] Paris June 28th
6月28日、土曜日、パリ日帰りをしてきました。
前回の日帰りが3月頭だったので、そろそろ再訪したくなってきたのと、現地で暑さが本格化して夏休みモードになってしまう前に、と思ったのだが、少し遅かった。ものすごく暑い日にあたってしまった。
朝6:31発のユーロスター(電車)を予約して5:30前には駅に入ったのだが、テクニカルなんたらでボーディングが遅れ、最初は20分遅れだったのが、(やっぱり)45分になり(あれよあれよと)1時間になり、車両を全とっかえしたので紙の(!)ボーディングパスを手で(!)配り直したりしてて、結果的にパリ着が1時間20分遅れて11:10になった。
ユーロスターの遅延はこれまでにも経験しているし、車両の老朽化によるもの、ってみんなが指摘しているのでどうにかして、しかないのだが、念のための時間指定で取っていた美術館などのチケットをどうするか、で予定を組み直したりが面倒くさい。若い人だったらAIさんにお願いしたりするのだろうな。
結果的には美術館いっこ諦めることになり、これは次回にする。直前まで行くか行くまいか悩んでいたFondation Louis Vuittonの”David Hockney 25”はやめておいてよかった。
パリ北駅に着いてから、地下鉄の④まで走ってNavigoカードにチャージしてホームに走りこむとこまでの手順は、お手のものになってきた。自慢するほどのもんでもないけど、ちょっとうれしい。 以下、見た順で。
Wolfgang Tillmans - Nothing could have prepared us – Everything could have prepared us @ Centre Pompidou
修繕のための館内一部クローズが始まっているCentre Pompidouでの展示。2階の情報図書館のスペースをぜんぶ使った規模のでっかいものだった。「何も用意できなかった - すべては用意できたはずなのに」。 回顧展としては2017年のTate Modernの以降、世界各地で単発でやってきたテーマ別の展示、人物、静物、生物、建物、風景、アブストラクト等を壁に貼ってテーブルに並べて、音のでるインスタレーションなども仕切り壁の向こうにいろいろぜんぶ寄せ集めて並べて、どう見ても写真(家)の展示ではない。写真でできること、できると思っていたが十分でなかったので別の形でやってみたこと、ぜんぶ並べて、結果として図書館的(全方位、百科全書的)な情報のありように近づこう/近づくためには何をどう? を考えている。 これって写真というメディアがそもそも可能にするはずだった何かではないのか? そうあるべきではないのか? と改めて問うているような。
Céleste Boursier- Mougenot – clinamen @ Bourse de Commerce
ポンビドゥから小走りして(暑いんだからやめとけ)Bourse de Commerceで、夏のインスタレーションを見に。
青の円形プールに白い陶器のお椀がたくさんぷかぷか浮いていて、これらはゆらゆら勝手にてんでばらばらに動いて陶器同士でぶつかってカラン〜 コロン~って気持ちよい音をたてて、その音たちが広い空間に響いていくそれだけで、これを「クリナメン」(小文字)って名付けたのはえらい。 プールの脇に座ってぼーっとしているだけで納涼で、気持ちよくて。 この上に日本の風鈴をいっぱいぶら下げたらもっと.. プールの脇でスイカとか売ってくれたらもっと、とか.. それくらい暑かったのだが、そういうのはテーマとは関係ない。
Gabriele Münter - Painting to the point @ Musée d’ArtModerne de Paris
Bourse de CommerceからMusée d’Art Moderne de Parisに向かうバス(72)の通るはずの道がプライドのパレードで閉鎖されて人で溢れていて、しょうがないので地下鉄①と小走りで、向かう。
Gabriele Münter は昨年のTate Modernでのすばらしい展示 - 5回くらい通った - ”Expressionists: Kandinsky, Münterand The Blue Rider”で彼女の撮影した旅の写真も一緒に展示されていて、そこでも展示されていた”Portrait de Marianne von Werefkin” (1909) をメインビジュアルにした回顧展。会場の入り口にKandinskyの描いた彼女の肖像画があって、それがものすごくちゃんとしたふつーの肖像画なのでびっくりするのだが、彼女自身の作品も、力を入れたきちんとしたものから落書きのようににラフで適当なものまでいろいろ並んでいて、ここに写真作品まで含めると、地に足のついた生活者~たまに旅をする、女性の像が浮かびあがってくる。彼女の文章や手紙を纏めたものがあったら読みたいかも。
Matisse and Marguerite - Through Her Father's Eyes @ Musée d’Art Moderne de Paris
同じところでやっていた展示。最初はベルギーの画家Magritteをぶつけるのかと、ずいぶん斬新な企画だなと思ったら、マティスの長女のMarguerite Duthuit-Matisse (1894–1982)のことで、彼女を描いた作品にフォーカスした展示だった。娘を見つめる目が画家マティスの創作にどのような影響を与えていったのかを娘の子供時代からずっと追っている。以前METでセザンヌの妻にフォーカスした展示があったが、あれよりも熱く、ものすごい数のデッサンを描いたりしていて、彼を絵画に向かわせる動機 – よりももっと深い理由の何かがあったのではないか、と思わせる。終わりの方にはMarguerite自身の描いた絵もあったり。
Agnès Varda’s Paris - from here to there @ MuséeCarnavalet
再び地下鉄で少し戻って、カルナヴァレ美術館に向かって、これを。
1年以上前にCinémathèque françaiseでの回顧展”Viva Varda !”を見たばかりの気がしたが、これは写真家としての彼女、特に彼女がとらえたパリの街と人々にフォーカスしている。
彼女は自身のドキュメンタリーの中でも写真について何度も語っているが、写真ではとらえきれない生のその先に近寄って触れたりするために映画に向かったのでは、と思えるくらい魅力的な被写体としての人々の写真が沢山あって、彼女がそれらに向かって写真スタジオでカメラを構えていて、その外に映画やそれをとらえる別の写真家(JRとか)がいて、という幸せな循環のなかに自らを置いて表現をしていったのだな、というのがよくわかる展示。Frank Horvat等によるパリの素敵な写真もあって、とうぜん猫のもあって、ずっといたくなる展示だったが時間が。カタログがまたすばらしくて、ずっとページをめくってても飽きないの。
ここから少し離れたMémorial de la Shoahでは”Toute unenuit avec Chantal Akerman”というChantal Akermanの写真展もやっていて、でも土曜日、ここは休館なのだった(そしてもう展示も終わっちゃった..)。
Chantalもまたフレーム内に自分が写りこんだ「写真」を撮るひとであったが、Agnèsよりもクールにばっさりとこちら側とあちら側を切ってしまう、どこかのなにかに醒めて、諦めている感があるような。
そしてここからCinémathèque françaiseに向かって、15:00から上映されるJohn M. Stahlの”Father Was a Fullback”(1949)を見た。どうしてもこの作品を見たかった、というよりはCinémathèque française「で」映画を見る、というのをやりたかった、というのが正しい。映画もよかったのだが、それはまたあとで。
ここでのWes Anderson展も盛況のようだったが、あんな細かいのを見てまわるパワーは既になく、館内の本屋にだけ寄った。
この後はできればPetit Palaisの方にも行きたかったのだが、結構バテていたので、いつも行っている本屋 – Yvon Lambertにだけ寄って、あとは諦める。次に来るときは、”Yves Saint Laurent and photography”の展示と一緒に。
ロンドンへの戻りの電車に乗る前は、よろよろの仕上げとして、La Grande Épicerie de Parisで食材などを買って、もうこれ以上持つの無理、になったところで店の前のキオスクで雑誌などを買って、④の駅まで歩いて帰るのがいつもの恒例だったのだが、4月に衝撃の告知があって - 『個人使用目的でのEU全土からの牛、羊、山羊、豚の肉および乳製品のグレート・ブリテン(英国:北アイルランドを除く)への持ち込みが禁止』になってしまい、つまり、ヨーグルトもミルク(ボトルで買って帰ったことある)もハムもチーズも、帰りの電車で食べるサンドイッチも、パリ行きの愉しみの半分が潰されてしまったのだった。こんな悲しいことがあってよいものか。
しょうがないので、レイニアのチェリーとでっかいイチジクと、同様にでっかいアプリコットをやけくそで紙袋に(自分で)つっこむしかなくて、途中で買ったカタログ等大きめの本3つとあわせていつも通りのよろよろにはなったのだが、なんだか納得がいかず、そうやってパリ北駅に戻ると、まーたしてもユーロスターが遅れていやがって、さすがにいい加減にしてほしい、になった。 のだが車内にきて動きだすといつものように意識を失って、気がつけばロンドン、なのだった。
次はぜったいに一泊で行くから。