11月25日、火曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
LFFでもかかっていたフランス/イタリア/ドイツ映画の新作で、英語題は”The Ice Tower”。
監督はLucile Hadžihalilović、脚本は監督とGeoff Coxの共同。
70年代のフランスの田舎町で、10代のJeanne (Clara Pacini)がいて、薄暗い部屋のなかで辛そうにしていて、小さな妹に大事にしている石のビーズの欠片を渡して家を出ていく。事情はわからないけど、表情を見ると決意は固そうで、ずっと夜道を歩いて、ヒッチハイクをして、でも運転手がやばそうだったので車を降りて、スケートリンクの傍で友達と話している女の子が素敵そうで、彼女の落とした鞄から身分証とBiancaっていう名前だと知り、寝る場所を探して彷徨っていたところで、映画の撮影をしているらしい倉庫だかスタジオだかに迷い込んでしまう。
その場所で映画を撮影中のCristina (Marion Cotillard) –が”The Snow Queen” - 『雪の女王』の銀白に包まれた姿で暗がりの向こうから現れて、そのお話しが大好きなJeanneは息を吞む。
翌日、そのまま野宿をしたその場所で目を覚まして、なんとなく成りゆきで、エキストラとして撮影の現場に入ることになったJeanne - 名前を”Bianca”にした – は、他の子がうまくできなかったシーンに代役で出たら、立っているだけだったのにうまくいったりして、Cristinaから「あなたはわたしのラッキーチャーム」と言われて、Jeanneは夢ではないか、ってぼうっとする。
暗くて寒くて先の見えない絶望の淵で、この世のものとは思えない美しいなにかと出会って、これはすぐに終わる夢だから嵌ってはいけない、とわかっていても抜けられない世界を映画の撮影現場に置いて、そこで撮影しているのが『雪の女王』 - 日本だったら『雪女』か – というのが設定としてうまくて、Marion Cotillardの女王のメイクと、現場から離れた素の – ちょっとギラっとして疲れている - 状態の二重の層が怪奇とは言わないまでも、Jeanneから見れば大人の世界の謎めいた沼の方に招いていて、いけないと思いつつ寄っていってしまう。
Jeanneを演じた新人Clara Paciniの外界のなにを見ても凍りついてしまう透明な瞳と表情、Marion Cotillardの若い頃からのいろんな依存や欠乏から抜けられず、誰かに憑りついてその血を吸ってしまうモンスターの相性が素敵で、『ミツバチのささやき』(1973)で、野原のまんなかの掘っ立て小屋のフランケンシュタインに会いにいって手を差しだしてしまうアナを思わせる。互いにどうしても必要な誰か、としてというより引き寄せられて、触れて、そして… となるその危うさと甘さのせめぎ合いとその先に待っている澱み。 Guillermo del Toroが絶賛したのもわかる。
画面はずっと夕暮れから夜の暗いままで寒そうで、そういうなかから浮かびあがるCristinaの表情と立ち尽くして途方に暮れるJeanneの姿がどちらも氷柱のようで、背後に浮かびあがる氷の塔も今の季節にちょうどよくて、バレエの演目にしたら映えるのではないか、って思った。
Perspectives: Balanchine, Marston, Peck
11月28日、金曜日の晩、Royal Opera Houseで見ました。
この時期になるとなんとなくバレエが見たくなって、でも『くるみ割り..』はNYで何度も見たのでそれ以外のを - と思ったがいま『くるみ割り..』そもそもやってないし。 3演目で、35分 - 35分 - 40分で間に25分の休憩2回。
最初がBalanchineの”Serenade” (1935)で、これは昔見たことがあった。優雅で透明(としか言いようがない)な軽さとしなやかさがあって、何度見てもうっとりの美しさで、Balanchineのなかでも一番好きかも。
次のがCathy Marston振付による”Against the Tide”。海岸のような岩場で、Benjamin BrittenのViolin Concertoにのってシャツとチノパンの男たちがぶつかったり組み合ったりしていく。なにを表現したいのか、なんとなくわかるけどあんま深くわかりたくないようななにか。
最後のがJustin Peck振付、音楽はSufjan Stevensによる”Everywhere We Go” - これを見たくてきた。
Justin PeckはブロードウェイでSufjanの”Illinoise”(2023)をダンス・ミュージカルにした人でもあるので、まったく心配いらない。男性は胸下までの黒タイツ、女性は太い横縞シャツで、オーケストラアレンジは別の人によるものだが、彼のところどころつんのめったり小爆発したりしながら花が咲いて広がっていくお茶目な世界が、幾何学模様で変化していくプレ=モダン〜モダンの照明と”Everywhere We Go”のフレーズと共に浮かびあがってくる。00年代のステージで、チアリーディングを入れてわいわい盛りあげていた頃を思い出した。
彼の山盛りあるクリスマス音楽でバレエやったらおもしろいと思うのに。
12.03.2025
[film] La Tour de glace (2025)
12.02.2025
[film] Testimony (2025)
11月27日、木曜日の晩、Curzon Bloomsbury内のドキュメンタリー上映専門のシアター - DocHouseで見ました。
Claire Keegan原作(2021)、Cillian Murphyが制作、主演した映画 - ”Small Things like These” (2024)で、そのエンディングで捧げられていたMagdalene laundriesの犠牲者たち – これ以外にも多くの映画で取りあげられている - その事件の全容をまだ存命している被害者たちと明らかにしていくのと国(アイルランド)への責任追及と謝罪を求めて奔走するJustice For Magdalene (JFM)の女性たちを追ったドキュメンタリー。 監督はAiofe Kelleher。ナレーションはImelda Staunton。
1765年にChurch of Irelandによって設立されて1994年に閉鎖されるまで数万人(少なくとも1万人)規模の女性、女児が監禁され、無給労働を強いられていたMagdalene laundriesについて、2013年、アイルランド政府は国として運営に関与していたことをようやく認めたものの、関与した女性たちへの正式な謝罪や補償を怠っていたので、女性たちが立ちあがり、Justice For Magdalene (JFM) を組織してその証拠、証跡を求めて各地で実態を調査していく。映画は生き残った被害者の女性たちの声を拾いながら、歴史学者、法学者、調査団の中心となった弁護士Maeve O’Rourkeたちの活動を追って、ボストン、国連、アイルランド、へと広がっていく。(施設で生まれた子供たちは引き離されてアメリカに里子に出されたりしていた)
実際の被害の地獄のような恐ろしさ - 脱走しても行くところがないので教会に助けを求めても、同じ教会だからって元来たところに戻されるとか - もさることながら、それ以上に、200年に渡って国による強制収容、拷問がふつうに行われていたことの恐ろしさがくるのと、その証拠を束にして提出して漸くその非を認めて謝罪したとか、国が取ってきた(こうして押されなければなにもしなかったであろう)行動の異様さのほうに目がいく。
後半は、これもものすごく気持ちわるいのだが、1993年ゴールウェイのSt Mary’s mother and baby homeで、796人の乳児と子供の遺体が棄てられていた件の真相を追っていく。このような遺棄が宗教施設で宗教の名のもとに行われていた、ということと、これも、こうして暴かれ晒されなければそのままで放置されて誰も何もしなかったであろう、というのと。
Testimonyを重ね合わせていくところから始まり、行動に駆られて連携していく女性たち、謝罪を勝ち取って祝福を受ける被害者の女性たちを静かに追って、カメラの前で前を見つめて証言していく女性たちは力強く、その勇気も含めて讃えられるべきだと思うが、それよりも、どこかにいるはずの(最大)796人の父親たちはどこで何をしていた奴らなのか、いまはどこでどうしているのか、ってそっちの方が気になる – 彼女たちの辛苦、失われた人生のことなんてまったく考えることなく、日々楽しく酔っぱらってげへげへしていたのだろう、とか想像するとうんざり。DNA鑑定して片っ端から公表しちゃえ、くらいのことは思う。
あと、国って基本碌なことをしないし止めないし、捏造だってするし、過去の政権がやったことなんて出向いて証拠ぜんぶ突きつけて要求しない限り絶対謝罪なんてしない、そういうクズ(が運用しているの)だから、とにかく信用しないこった。いまの政府がまさにそれ。
[theatre] Hamlet
11月22日、土曜日のマチネを、National TheatreのLyttelton Theatreで見ました。
この日の晩が最終で、見逃すところだった。
10月に見た”Bacchae”は、National Theatreの新芸術監督に就任したIndhu RubasinghamのNTでの初演出作だったが、これは彼女と同じタイミングで副芸術監督に就任したRobert HastieのNational Theatre演出デビュー作。原作(1601)はもちろんシェイクスピア。休憩を挟んで全2時間50分。
これ、もうじきNational Theatre Liveでやるし、来年春にはBrooklyn Academy of Musicにもいくのかー。
最初に”Hamlet”と大書きされた黒の幕が掛かっていて、幕があがると割とモダン、ところどころ(背景の絵とか)クラシック。登場人物たちの服装もスーツだったりジャージ姿だったり、一応モダン劇の体裁だが、6月にRSCで見た”Hamlet Hail to The Thief”のようにばりばりに外側から固めたイメージはない。会話のやりとりを中心に人が動いて動かされて、その範囲で視界や舞台がばたばたと変わっていって留まるところがない、どこに連れていかれるかわからない、そんなイメージ。
デンマークの王子Hamlet (Hiran Abeysekera)が父王の死にそれにまつわる陰謀を聞いて、復讐を誓って、王室を中心にいろんな人たちが動きだしていくなか、みんな狂ったり殺したり殺されたり、だんだん人がいなくなっていく様が描かれていく。
ものすごく沢山上演されているこの有名な悲劇について、まだ見始めたばかりなので、これからいろんなのを見ながら所謂「スタンダード」なところ、外してはいけないところ、悲劇の「悲」とか、ドラマチックと言うときの「ドラマ」とはなんなのか、などを中心に考えていけたら、と思ったりするのだが、シェイクスピアの劇のおもしろさって、そのひとつ上(or 下?)の段から、なんでこの人(たち)はここでこんなことをしたり、笑ったり嘆いたりキスしたりしているのか、というような、ヒトの根本的な挙動とか受け応え、それらが積み重なって渦を巻いて「事件」や「劇」の相をなしていくところまでの異様さ不可思議さにまで踏みこんでいる気がして、ああ(ドラマの)沼というのはこういうのなのかも、って今更ながらに思ったりしている。
この劇については、まずHamletがそんなに狂っている、ある考えに憑りつかれているようには見えない、というのがある。(なんとなく挙動とか謎めいた笑みとか、どこかPrinceを思わせたり - Princeの話だし) 狂っているのか狂っていないのかが量れなくて、後半冒頭の”To Be or Not to Be”のところも、心ここにあらずの呟きで、他の台詞も少しどんよりしていて普通に喋っているだけなのだが、周囲もハレものに触るようにいちいちびくびくしていたり、ピストルを撃つのも、フェンシングをやるのも、死んでいくのも、感情を表に出さず、ぼやけた無関心のなかなのかすべてを悟ってしまっているのか、諦めているのか、それでも劇の時間が止まることはない。
そんな彼と対照的なのが、Ophelia (Francesca Mills)で、体の小さな彼女は目一杯走りまわり、歌をうたい、声をあげ、届かないからそうしているのか、そうしないと届かないのか、その痛切さが最後まで残る - エモーショナルになるとこはこれくらい。
あとは会社員のように銀行員のようにきちきちと動きまわって機械のようなRosencrantz (Hari Mackinnon)とGuildenstern (Joe Bolland)のふたりとか。 あまり喋らないけど最後までHamletの傍に付き添っている母のようなHoratio (Tessa Wong)とか。
この悲劇から劇的な振る舞いや言動をそぎ落としてプレーンな - それでもそこそこ十分に通じる - ドラマにしてみた時、そこにある悲しみや怒りはいったいどんなふうに見える - 伝わるものなのか。という実験? 血族の諍いとか普遍的な何かに通さずに見た時にどう見えるのか - それでも十分に変で不気味でなんだかおもしろいのだった。
12.01.2025
[film] Jay Kelly (2025)
11月24日、月曜日の番、 Curzon SoHoで見ました。
ものすごーく評判が悪いことも、その理由もだいたいわかっていて、でもNoah Baumbachの新作だから、と。
脚本はBaumbachとEmily Mortimerの共同。LFFでも上映されてなにやら盛りあがっていた。
George Clooneyがハリウッドのトップクラスのスター俳優Jay Kellyで、新作を撮り終えたばかりだが、疎遠になっていた下の娘(Grace Edwards)からは煙たがられ、自分を育ててくれた監督(Jim Broadbent)は亡くなり、その葬儀で駆け出し時代のライバルだった友人(Billy Crudup)と再会したら殴りあいになり、トスカーナの映画祭で生涯功労賞を授与したいので来てほしい、という依頼も突っぱねようとしたらずっと傍にいるマネージャーのRon (Adam Sandler)から説得されて、丁度娘のヨーロッパ旅行を追っかけるかたちでパリからトスカーナへの普通列車に乗りこむ。その旅の顛末を通して彼に去来する過去のいろんな後悔から感動の授賞式まで、という映画で、George Clooney主演のこんなお話しを見たいと思うのはNespressoのCMも含めて彼のことが大好きな人なのだろうな、と思って見ていた。
George Clooney的なキリッとした二枚目風が面倒な事態を解決してくれる物語が万人にもてはやされた時代の終焉を、NYでもロンドンでもない、トスカーナの田舎まで運んで告げようとしているのか、などとも思ったのだが、ラストの方はどうみても感動的なところに落とそうとしているのでうーむ、ってなる。
こういう設定の映画であるなら、例えフィクションであっても、主演を演じるスター俳優はそれなりの実績と人気のある人がやるべきだと思うのだが、そもそもGeorge Clooneyって、そういうレベルの人なの?(別に嫌いではないよ) いろんなプロモーションとか、マネジメントはしっかりしている印象はあるけど、それだけなんじゃないの? これの主演も、その延長でしかないんじゃないの? とか。うまくこなせているならよかったね、だけど、こっちの先入観のせいか、それらも含めてぜんぶが冗談のようなGeorge Clooneyプロモーション映像にしか見えない。
それよりもさー、主演以外にはAdam Sandlerがいて、Laura Dernがいて、Greta Gerwigまで出てくるのに、イタリアからAlba Rohrwacherまで出ているのに、なんでストレートにコメディにしないの? “While We're Young” (2014) でも”Mistress America” (2015)でも、居場所とか立ち居振る舞いがわかんなくなった主人公が意地になって散らかして転げ回って大変!って、得意だったじゃん? なんで主人公を中心にした”This is 60”をやらないのだろうか?
それとかさー、映画 - パーフェクトで完結した世界 - を作る/作ってきた当事者の精神の危機、はこれまでも映画のテーマにはなってきて、別の夢の世界に逃げこんだり、外部からなんらかの助けや啓示があったりだったと思うのだが、ここでは、彼がおかしくなりすぎて信頼してきたスタッフがだんだん離れていって、さてどうするのか、ってなっているところで、授賞式での編集されたレガシー映像みたら自分で自分に感動して治っちゃう、ってどういうこと? そんなんで解決できるなら、ただ周囲を振り回しているだけの我儘ナルシストでしかないし。パワハラ上司とかがちょっと優しくされたら和んじゃうようなよくある話? とか。
勘違い系のじじいがそのまま勘違いしそうな内容のところも含めて、あーあ、になるのだった。