12.24.2025

[theatre] The Forsyte Saga Parts 1 & 2

12月13日の土曜日、Stratford-upon-AvonのRoyal Shakespeare Theatre内のSwan Theatre(小さい方)で見ました。 

マチネで”Part 1: Irene”を、晩に”Part 2: Fleur”を。晩のが終わったらロンドンに向かう電車はないので、シアターの近くに宿をとった。こういうのは2017年にChichesterでIan McKellenのリア王を見た時にもやっていて、あの時は駅前£30くらいのところでひどい思いをしたので、今回は£70くらいのにしてみた(けどやっぱり…)。

原作は英国のノーベル賞作家John Galsworthyが1906年から1921年にかけて書いた3つの小説、2つの幕間作品からなる(その後に書かれたものを含むThe Forsyte Chroniclesまでいくと全9巻)、イギリスの新興成金一族の40年に渡る興隆を描いた大河ドラマで、映画もTVシリーズもいくつか作られていて – “Downton Abbey”みたいなもん? - この劇作は2024年にロンドンのPark Theatreでプレミアされたもの。原作は読んでいなくて、この2部が全体のスケールのなかでどんな位置とか重みとかを持つものなのか不明だったのだが、ふつうに楽しむことができた。あと、プログラムには一族の家系図も載っていて、時代を超えて結構いろんな人が出てくるのだが、頭に入れておかなくてもどうにかなった。

脚色はShaun MckennaとLin Coghlan、演出はJosh Roche。

舞台は赤いカーペットとベルベットの赤いカーテン、椅子がいくつか、のシンプルな室内で、それを囲む客席の間の通路からいろんな登場人物たちが出入りしていく。地味めのインテリアと比べるとコスチュームは華やかで貴族のドラマとして見ていて飽きない(のってなんでだろう、っていつも思うけど)。あとはサウンド・デザインが見事で空間に奥行きが。

Part1はヴィクトリア朝時代で、一家の若頭のSoames Forsyte (Joseph Millson)が妻にしたかわいそうなIrene (Fiona Hampton)のお話し、第二部で主人公となるSoamesの娘Fleur (Flora Spencer-Longhurst)が舞台の隅に立っていてところどころ解説してくれたりする。

元は農民からの成りあがりの一族なので金とか資本のことで頭は常にいっぱいで、Forsyte家の最初の3人のひとり - Jamesの息子Soamesは絵画収集と同じモノとして妻Ireneを手にして、でもIreneは子供(跡取り)をつくることしか頭にないSoamesにうんざりしていて、アートなどに関心のある別のForsyte – Jolyonの孫娘の婚約者で建築家のBosinney (Andy Rush) と意気投合して、ふたりで駆け落ちしようとするのだが、その当日にBosinneyは事故で亡くなって、Ireneはそのまま姿を消す。ヨーロッパに逃れたIreneを救ったのもForsyte家のJo(Nigel Hastings) で、やがてJoとの間にJonが生まれ、Ireneに逃げられたSoamesはフランス系のレストランで給仕をしていたAnnette(Florence Roberts)と結婚してFleurが生まれる。

Part1の中心はIreneに対して結婚したのだからお前は俺のものだ!勝手なことはさせない言うことを聞くのだ!って縛りまくって話の通じない、それのどこがいけないのかもわかっていない(既にどこかで十分いっぱい見ている)Soamesのどす黒いしょうもなさ、だろうか。

Part1の終わりに舞台はRoaring Twentiesの1920年に飛んで、ギャラリーでFleurとJon (Andy Rush)がばったりして、Part2はその地点から始まる。

FleurもJonもぼくら苗字がおなじForsyteだね、ってなり、やがてふたりは従兄妹同士であることがわかるのだが、なんで、なにが隠されて互いを知らないまま会ってはいけないと言われるのか納得いかなくていろいろ一緒に調べていくうちに、隠されていた一家の過去と秘密が明らかになり、他の家族からの反対の声も大きくなって、でも周囲がやかましくなればなるほどFleurはJonへの恋に燃えて一緒になろうとするのだが、何かが彼らを引き離し、Jonはアメリカに渡って現地で結婚し、Fleurも大戦から還ってきたMichael (Jamie Wilkes)と結婚することになる。

そこから6年が過ぎてFleurはゼネストの活動中にアメリカから妻のAnn (Florence Roberts) と一緒に戻ってきたJonと再会して、再び燃えあがる寸前まで行くのだが… (実際に燃えあがって焼け落ちたのは思い出の家の方だった)

Part1はその傲慢さで実際に支配している男性の側から、愛=縛り、というのが殆ど犯罪のような抑圧的に働くものとして、それを正面から受けた女性の側の絶望と共に描かれるのに対して、Part2はどれだけ縛られていようが愛する自由はあるし、寧ろ愛はその縛りを解くものとしてあったってよいのだ、というのが女性の側から示されているような。

Part1であれだけ強くあくどく振る舞っていたSoamesがPart2ではよぼよぼになって、最期はあんな… というのはよかった。

劇中で流れていく時間が結構早いので、次から次へと登場人物が出たり入ったりちょっと慌しく、展開の早いメロドラマを見ているようだったが、そのスピードとテンポがこの家族の儚い盛衰 – 今だからいえる – をわかりやすく的確に表現していたような。雰囲気は重厚で人物もみんなおしゃれでかっこよく、喋っては消えていくのだが、後にはあまり残らない - そういうとこも含めてTVシリーズ向けなのかしら。

12.22.2025

[film] It Was Just an Accident (2025)

12月12日、金曜日の晩、BFI Southbankで、”Mansfield Park”の後に見ました。 原題は“Yek tasadof-e sadeh”。

先日投獄されてしまったイランのJafar Panahiの作・監督によるイラン/フランス/ルクセンブルク映画。 今年のカンヌでパルム・ドールを受賞している。 ものすごい視野とスケールをもった黙示録的な作品かというとそんなことはぜんぜんない、どたばたホラー小噺みたいな作品で、でもおもしろいことはおもしろいかも。

冒頭、妊娠中の妻と幼い娘を乗せた車を運転していた男(Ebrahim Azizi)が夜の道で犬を轢いてしまったようで、その後に車が故障して、男はVahid (Vahid Mobasseri)のガレージに立ち寄る。障害があるらしい男の義足を引き摺る音を聞いたVahidは母親との電話中に、これはあの男だ!と確信して男の後をつけて殴り倒して自分の車に乗せ、砂漠に向かうと穴を掘って生き埋めにしようとする。おまえは刑務所で自分を痛めつけた”Eghbal” (=義足)だろう? と問い詰めるが埋められ中の男は、それは自分じゃない、この義足は最近つけたものだ、って必死になって否定する。

それを信じきれないVahidは、埋めかけていた男を縛りあげて目隠しして自分のバンに乗せ、彼ならこいつを特定できるかもしれない、と書店主のSalarのところを訪ねるのだが、Salarはそんなことをするもんじゃないよ、と身元確認を拒否して、かわりに結婚写真家のShiva (Mariam Afshari)を紹介する。花嫁のGoli (Hadis Pakbaten)と花婿のAli (Majid Panahi)の結婚写真を撮っているところにそいつを持ち込んでShivaに確認してもらうと、自分は目隠しをされていたので顔はわからないが匂いはこいつかも、というし、横でそれを見ていたGoliも、こいつが本当にあいつなら、自分も酷いことをされた許さねえ、って花嫁衣装のままブチ切れてのしかかる。でもそれでもまだ確証がもてないので、ShivaのパートナーだったHamid (Mohamad Ali Elyasmehr)のところに連れていったら、Hamidも見た瞬間に沸騰激昂して、まちがいないぶっ殺してやる!ってなるが、興奮すればするほど、本当にこいつがあいつなのかは確認したほうが… に全員がなっていく。

そのうち縛られている男の携帯が鳴って、何度も鳴るので出たほうがよいかも、って出たら彼の娘と思われる女の子で、妊娠中の母親が気を失っちゃったって泣いているので、彼女の家に行って母親を病院まで運んでケアを頼んで、そうして母親は無事出産を終えて、人助けはしたけど、自分らはなにをやっているんだろ… になっていく。(埋葬/生き埋め - 結婚 - 出産、というライフイベントがひと揃い)

本当にこいつが生き埋めにしてやりたいくらいの、あの憎っくき男なのか、冒頭の家族と一緒の姿から、埋められそうになった時の必死の抵抗から、そうじゃないのかもしれない、と思わせつつ、対面させた人々の反応を見るとやっぱりそうなのかも、になり、でも出産のどたばたを見てしまうと… ってバンにとりあえずいろんな格好 – 目隠し耳栓の被疑者、写真家、花嫁花婿 - で詰め込まれてジェットコースターで振り回されつつ全員がどこに向かっているのか、復讐したいのか復讐したからってどうなるのか、のぐるぐるの中にあって誰もはっきりと結論を出せない、という悲喜劇。

その上ここに、どこに行ってもサービスの対価としての賄賂を要求されて当たり前のような風土があり、Eghbalひとりを執念で問い詰めて復讐してどうしたところで、どうしようもないよね、みたいになる。結局どこにも行けない。

この落語みたいな小噺が政府当局に目を付けられたのはなんだかわかる。直截的ににどこがどう悪い、というわかりやすい批判や復讐譚ではなく、土壌として腐っているので土に埋めたくらいではどうにもならんのよ、という共通認識のようなところをあんま批判しようのないトーンで描いているから。そしてそこにあのラスト… あの音をPanahiも聞いたのだろうか、と思うとちょっとやりきれない。

[film] Mansfield Park (1999)

12月12日、金曜日の晩、BFI Southbankで見ました。

Jane Austenの生誕250年とフィルムのリリース25年を祝って、上映後に監督・脚色のPatricia Rozemaと主演のFrances O’Connorを招いたQ&Aつき。35mmフィルムでの上映、見ているだけでたまんなくなる - たまにそういうことってある - 色味のフィルムだった。

もう少しJaneの生誕250年でいろんなイベントとかあってもよいと思うのだが、BFIでは、これと1940年版の”Pride and Prejudice”- 脚本にAldous Huxleyが参加して主演はGreer GarsonとLaurence Olivier - の上映があったくらい(昼間で行けず)。

Jane Austenの3作目の小説で、刊行は1814年、彼女の生きていた時期にリリースされたなかで最も売れた作品だったそう。

Fanny Price (Hannah Taylor-Gordon → Frances O'Connor)は10歳の時に叔父Sir Thomas (Harold Pinter)とLady Bertram (Lindsay Duncan)と4人の子供たち - 息子ふたり、娘ふたりが暮らすMansfield Parkの屋敷に送られて、親戚なのに実家が貧しいからって屋根裏のような部屋で女中のように扱われて、でも本好きで話しが面白い - 妹Susanへの手紙の中で語られていく - のでそこの次男のEdmund (Jonny Lee Miller)と仲良くなっていくのだが、彼女が18歳になった時、Sir Thomasと長男のTom (James Purefoy)がアンティグアに長期の仕事で行っている間にやってきた近くの牧師の親戚Henry Crawford(Alessandro Nivola)とMary Crawford (Embeth Davidtz)の兄妹の華やかさと快活さにみんな圧倒されて、Edmundはなんだか大人のMaryにぽうっとなり、FannyはHenryに押しまくられて、特にHenryときたら情熱的に実家までやってくるのでどうしたものか、になる。

勿論これだけじゃなくて、そんなにおおごとではないお家内の騒動と変わった/困った/どうしましょうな人々を的確に散りばめ、そのなかで鼻をつまみ目をあわせないようにしながらどう強く楽しくやり過ごし生き抜くべきか、という退屈させないJane Austenワールドは健在で、そのなかでもどこでどうしてそうなったのか自信だけは常に満々で懲りずにどこにでも、ぜんぜん嬉しくないタイミングでやってきてくれるHenryとハエや毒虫を払うように逃げまくるFannyの困惑がどこに向かうのか、こちらも目を離せなくて楽しい。愚鈍だからプライドしか維持できなかったのか、プライドが愚鈍さを変に磨きあげてしまったのか、どうして男ってあそこまでしょうもなく無神経になれるのか、等をFannyの目を通してしみじみ考えさせられて、そのシャープな捌きようはかっこいい魚屋さんとしか言いようがないし、彼女(世界中のあらゆる彼女)の知恵と勇気には惚れ惚れしてしまう。

そしてこれだけのいろんな要素を道端の雑草から温室の観葉植物までぜんぶ盛って見事に(いろんな意味で)香ばしい花束とかブーケとかにして差しだしてくるJane Austenのちゃきちゃきしてかっこよいこと。

上映後のトークでは、監督から本作が、あのHarvey Weinsteinからの熱いオファーを受けて起動したことが明かされ、すごいな、Janeの描いた最低最悪醜悪世界のリアル版じゃん、て改めて思った。

もうひとつ、監督が作品に折り込みたかったのは人種差別に対する目線で、幼いJaneが屋敷に向かう途中、海上の奴隷船を目にするシーンから始まり、Sir ThomasのSrとJrがやっていたことへの言及など、彼女の視線がお屋敷内のあれこれに止まるものではなく、外の政治の世界をも貫いて形成されていったのだ、というのは強調したかった、と。

そして、人の魂は簡単に売買されるようなものであってたまるか、という地点から始まっているが故に、彼女の目と言葉、行動はどこまでもぶれずに物語を超えてこちらに迫ってくるのだと思った。

12.19.2025

[theatre] A Midsummer Night's Dream

12月11日、木曜日の晩、Shakespeare’s GlobeにあるSam Wanamaker Playhouseで見ました。

この劇って、夏に野外とかでみんなでわーわー酔っぱらったりしながら見る(そして演じる側もそういう)お祭りのイメージがあったので、真冬に、しかも木造の蝋燭照明しかないような暗く閉じた空間で、なにをどんなふうに見せるのだろうか、と。

原作はShakespeareの『夏の夜の夢』 (1595–1596)、演出はHolly Race RoughanとNaeem Hayatの共同。

舞台の上のテラスには楽団が4名、きりきりした弦とどたばたした太鼓が中心の現代音楽風。
舞台とテラスの間にはぶっとい角ゴシックで“PERCHANCE TO DREAM”って看板標語のように貼ってある。季節は冬らしく舞台の上は白で統一されたインテリア。途中、テラスのところにでっかい雪だるまが現れたり(でもなにもしないでそこにいるだけ)。

最初に上は半裸のタキシード、下は純白のチュチュに白タイツの坊主頭Puck (Sergo Vares)がひとり出てきて、不敵な表情で客席を猿のように見まわしながら、バナナを一本、ゆっくり食べる。(関係ないけど数日前に見た”Twelfth Night”でも観客の方を向いてバナナを食べるシーンがあった。流行り?)

この冒頭だけでも、これが楽しい妖精たちの夏の夜の戯れではなく、ひと続きのゴスでダークな悪夢に近いもの - OberonもPuckもその産物でしかないことがわかって、以降は屋外の森ではなくどこかの屋敷(or宮殿 or精神病院かも)の蝋燭に照らされた冷たそうなディナーテーブルを中心に、いろんなのにまみれて腐った富裕層がいて、原作の職人たちは、彼らに料理を供するレストランのスタッフ – ころころのBottom (Danny Kirrane)はそこのヘッドシェフになってて、Oberon (Michael Marcus)とPuckの主従関係ときたらほぼSMの世界だし、媚薬なんて用意しなくても、全体は既に十分に浮ついて酔っ払い、さらにドラッグをきめていたりするのでしょうもない。

なので、この劇でセンターに来るはずのDemetrius (Lou Jackson)とHelena (Tara Tijani)の恋、Lysander (David Olaniregun) and Hermia (Tiwa Lade)の恋、それぞれのじたばたも妖精と媚薬の悪戯、というかわいらしいものというより、初めからずっとあって果てのない悪夢や淫夢の延長でしかないようで、でもそれでも十分生々しく官能的なので、やっぱりこれは夏の野外じゃなくて冬の屋内だよね、とか。恋というより夢のありようを描くドラマとして、その緊張感はなかなか見事で、昨年の冬(これも冬だった)Barbicanで見たRSCによる同劇 – これも現代設定で、Bottom (Mathew Baynton)は可愛かったけど、あれともやはり違うねえ、と。舞台の上で演出され供される夢のなかにどれだけ没入して抜けられない時間を過ごせるか、で評価するのであれば、ここに出てくる夢と闇の深さはなかなかのものではないか、と思った。

一番びっくりしたのは最後が突然の流血の惨劇で終わることで、そんなことしていいんだー、と思いつつ、ここもまたそんなに違和感はないのだった。こういう夢の出口には死とか、そういうのしかない、という説得力の強さ。

原作の舞台はアテネだけど、これを見て思ったのはまずRainer Werner Fassbinderの室内劇の四角四面の閉塞感と理不尽に情が荒れ狂うあの空間で、あと、とりかえ子の少女(Pria Kalsi)がきょとんとした顔で「一幕目のおわり」って静かに客席に告げたりするのを見て、これPina Bauschの世界ではないか、って思った。ところどころで踊るシーンもあるし、終わりを告げないといつまでも終わらない止まらないとか。

しかしそれにしても、シェイクスピアの沼が… 底なしすぎる。
もっと子供の頃から知っておきたかったよう。って嘆いてもしょうがないので見ていくしかない。

[theatre] Christmas Day

12月10日、水曜日の晩、Almeida Theatreで見ました。
クリスマスなので、クリスマスっぽい演劇を見たいな、と思って。でもOld Vicの”A Christmas Carol”はチケットがバカ高いので、ほぼ諦めてしまった。最近あれこれ高すぎ。

原作はSam Grabiner、演出はJames Macdonald、休憩なしの約1時間50分。
舞台は北ロンドンにあるフラットの1室 – 元オフィスだか倉庫だったかのような、だだっ広いが中央に大きなテーブルと椅子があるだけでものすごく殺風景な、物置きの中みたいなリビング、天井を金属のぶっといパイプが通って上に括りつけられた大きなヒーター?ストーブ?に繋がっていて、時折でっかいエンジンのような音をたてて突然動きだしたりする。あと、下を地下鉄のNorthern Lineが通っているらしく、時折フラット全体ががたがた振動する。

そのリビングの隅にものすごく安っぽく適当そうなクリスマスツリーがあって、でも一応電飾は点いてて、冒頭、その部屋に着いたばかりらしい父のElliot (Nigel Lindsay)がそれをなんだこれ? という冷めた目で眺めている。彼を迎えた息子でその部屋の住人Noah (Samuel Blenkin)も彼の妹のTamara (Bel Powley)もユダヤ人なので、時期はクリスマスだけど、クリスマスだからと、クリスマスを祝うつもりで集まっているわけではなさそう。(だからタイトルも)

そこにノンユダヤのMaud (Callie Cooke)やTamaraの元恋人でイスラエルから戻ってきたばかりのAaron (Jacob Fortune-Lloyd)などが加わって賑やかになって、クリスマスディナー... ではない中華のテイクアウト(意地でもクリスマスなんて祝わない)でテーブルを囲んで、あと時折フラットの住人で、明らかに挙動のおかしい隣人(Jamie Ankrah)が突然血まみれになって現れたり、前半はほぼシットコムのノリで、クリスマスという変な、彼らにとってはどうでもいいイベントに伴う家族の集いをどたばたと描いていって、突然ストーブが鳴りだしたり電気が落ちたりするタイミングも含めてアンサンブル・コメディとしてなかなかおもしろい。この辺で淡々と展開されるユダヤ人家族の像、というのはこれまでいろんな映画で描かれてきたそれに近くて、これらは単に自虐ネタのように「変」に落ちるというより、この違いはどこからくるだろうのか、を考えさせるような。

でも後半になって、ガザの件で心を痛めているTamaraがこれについて「ジェノサイド」と言ってしまった途端、Eliotはぶち切れて、折角のディナーがすべてぐじゃぐじゃになっていく。 基本はお前に(ジェノサイドの、自分たちの苦難の)なにがわかる? というどこかで聞いた話、TVの討論やインタビューでもよく見る風景だし、そうなっちゃうんだろうな、というのも良い悪いは別として納得がいく。 

家族の団欒の場で、触れてはいけない話題に触れてしまった後、それぞれはどう振る舞うのか、興奮して暑くなったElliotは上着を脱いで隅でぐうぐうザコ寝してしまい、そこから起きたらなんとなく… これってユダヤ人家族でなくてもそうなりそうなことはわかって、そういう赦しやなんとなく収まってしまう場の雰囲気に希望を見るのか、こんなふうだからいつまでたっても... ってどんより暗くなるのか、そのどちらも許容するかのようにChristmas Dayの夜は過ぎていくのでした、と。

最後のほうで、例の変な隣人が「道に落ちていたから」って袋に入ったキツネの死骸を運んできて、どうするんだよ? になり、Noahが調べたらネズミはそのまま棄てていいけどキツネは当局に報告しなきゃいけないんだって、とか、そういうネタも含めて、ちょっととっ散らかって纏まりのつかない印象もあるのだが、いろんな神様が降りてきたその仕業なのだ、って思うことにしよう、でよいのか。

個人的にはガザのことは本当に辛くて、ほかにもいろいろあったのでこのクリスマスはなんもやるきにならず、しょんぼりとお祈りして終わると思う。 みんなよいクリスマスをね。

12.17.2025

[film] The Comedians (1967)

BFI Southbankの12月の特集、”Muse of Fire: Richard Burton”がどれもおもしろくて、いろいろ見ているのだが、いちいちきちんと書いている時間がない。備忘のために感想をメモ程度で。


The Comedians (1967)

12月7日、日曜日の午後に見ました。邦題は『危険な旅路』。
原作はGraham Greeneの同名小説(1966)、映画化を前提に書かれて、脚本も彼。
監督はPeter Glenvilleで、彼の最後の監督作品となった。撮影はHenri Decaë、キャストも含めてもろ英国、ヨーロッパぽいのだが、アメリカ映画。 35mmフィルムでの上映。

ハイチでNYから戻ってきたホテル経営者のMr. Brown(Richard Burton)と武器商人のMr.Jones (Alec Guinness)とMr & Mrs Smith (Paul Ford, Lillian Gish) の名前も含めて極めて典型的な白人のお金持ちが、野蛮でなにされるかわからないハイチの政権中枢の人たちと関わって脅迫、監禁、暴行など大変な目にあって逃げ回っていくお話し。

あとはMr. Brownとハイチ駐在の南米大使の妻Martha(Elizabeth Taylor)の不倫関係とその夫の大使(Peter Ustinov)とか。 とにかく当時のスターがたっぷり出て来て、でも彼らはハイチ側からするとただの金づるのコメディアン程度にしか認知されていない、ってひどい。っていうのと、状況としてものすごく悲惨で危機的なのにコメディアンのような振る舞いをすること(or Die)くらいしかできない、とか。

当時の政治情勢からすればそれなりに意味のあるメッセージが込められていたのではないか。

Alec Guinnessはこの後タトゥイーンに逃げて、ここで殺されたJames Earl Jonesは(いつものように)蘇って、10年後にあの映画で再会して対決することになるのだな、と。


Boom! (1968)

12月8日、月曜日の晩に見ました。
iMDBでの表記は”Boom”なのだが、”!”を付けるのが英国では欠かせないらしい。邦題は『夕なぎ』 ← やるきなし。

原作はTennessee Williamsの”The Milk Train Doesn't Stop Here Anymore” (1963)で、原作者は自分の映画化作品のなかでは一番よい、と言っていたらしい(本当か?)。監督はJoseph Losey、音楽はJohn Barry。 35mmフィルムでの上映。

John Waters先生が熱狂的に愛する1本なのだそう。なるほど。

イタリアの孤島の一軒しかない大邸宅に暮らすFlora(Elizabeth Taylor)のところにChristopher (Richard Burton)という謎の男が現れていきなり犬に襲われてぼろぼろになり、彼は彼女を知っているようだが、彼女は知らなくて、そんなふたりが会話を重ねていって、なぞの男The Witch of Capri (Noël Coward – 本物)が絡んできたりするが、基本は不治の病で身勝手に暴れまくる富豪のFloraと彼女を迎えにきた死神であるらしいChristopherのやり取りが殆どで、タイトルの”Boom!”は波が岩にぶつかった時にたてる音をChristopherが何度か言うときに出てくる。

当時人気に陰りが出始めていたElizabeth Taylorの復活を狙った一発だったが、興行的には大失敗に終わるという伝説をつくった1本で、でも展開もキャラクター造型も、相当散文調のめちゃくちゃなのに、なんだかおもしろく見れてしまったのはさすがJoseph Losey、というべきか、このふたりの輪郭の強さがもたらす何かなのか。


The Night of the Iguana (1964)

12月5日、金曜日の晩に見ました。
原作は、これもTennessee Williamsによる同名戯曲(1961)で、監督はJohn Huston。

教会の牧師(Richard Burton)は説教中に錯乱して教会を追いだされて、テキサスの旅行会社でバスのツアーガイドをしていて、メキシコへのツアーで彼に言い寄ってくる少女Charlotte (Sue Lyon)の親から目をつけられて、母娘ともにあまりにうっとおしいので、旧知のワイルドなMaxine(Ava Gardner)が経営する海沿いの丘の上の安ホテルに全員を滞在させたり、そこにやってきた自称画家のHannah (Deborah Kerr)と車椅子の彼女の父親(Cyril Delevanti) - 彼は詩人だという - と出会ったり。

ぜんぜん身寄りでもなく互いに関係もない4人+その他大勢が中米の孤島のようなところでなんとなく縛りつけられて自由不自由があまりわからないまま捕らえられたイグアナのように暮らした数日間を描いて、京マチ子のようなAva Gardnerと(父をケアする)原節子のようなDeborah Kerrが生きているかんじがしてよかった。


A Subject of Scandal and Concern (1960)


12月7日、日曜日の午後に見ました。
今回の特集のなかでも珍品扱いされていた1本で、John OsborneがTV放映用に書いた60分のドラマ。監督はTony Richardson。BFI Archiveに保存されている35mmフィルムでの上映。

BBCのSunday-Night Playという60分のドラマ番組枠で、当時16mmフィルムで撮影されたドラマがなんで35mmフィルムとしてアーカイブに保存されているのか、その事情などはっきりとはわかっていないらしいのだが、90年代のどこかで大量にフィルムプリントとして焼かれた形跡があるそう。(えらいなー、それにひきかえNHK…)

1842年、実際にあった冒涜罪(blasphemy)をめぐる裁判で、社会改革家の教師George Holyoake (Richard Burton)は、教会は国から年間2000万ポンド貰っているのだから牧師の給料は半分でよい、と発言して捕まって裁判にかけられる。その裁判の様子を追ったもので、ここでのRichard Burtonにいつもの威勢のよさはなく、おとなしく、ちょっとやつれた丸メガネでおどおどと自分の主張を述べていて、でも固い信念で決して曲げないし譲らない。

“Look Back in Anger” (1959)を作った翌年に同じ脚本家、同じ監督でこれを撮っているのってなんかすごい。ただ、どちらも根底には社会のありように対するはっきりと表には出てこない、表しきれない怒り、があるような。

12.16.2025

[theatre] All My Sons

12月6日、土曜日の晩、Wyndham's Theatreで見ました。

原作はArthur Millerのクラシック(1947)、演出はIvo van Hove、2時間15分で休憩なし(2時間超えで休憩なしって珍しい?)。

2019年の6月にOld VicでJeremy Herrin演出、Sally FieldとBill Pullman主演によるこの劇は見ていて、これもすばらしかったのだが、今度のはやはりぜんぜん違って、現代劇で、こうも違うふうにできるものかー、と。

冒頭、真っ暗になったと思ったらジジジとか電気系統のノイズととてつもない雷鳴と暴風雨と共に大きな木が突然めりめりと倒されて、その巨木の死骸が最後までステージにでかでかと、お墓のように横たわっている。正面奥の壁上部には丸くくり抜かれた大きな窓なのか穴なのかがあって、太陽や満月のように輝いたり、たまにこの窓から登場人物が孤独に舞台を見下ろしたりしている。

自分の知っているIvo van Hoveの技巧を凝らして劇空間をメタに浮かびあがらせ俯瞰の目線を絶えず動かして刷新していくような仕掛けは導入されていない。むしろ真ん中に横たわった木が断固そういうのを拒んで邪魔しているような。

裕福な実業家のJoe Keller (Bryan Cranston)がいて、飛行機のエンジン製造に関わっていた彼の会社は欠陥部品を供給して、それが原因となり21名のパイロットが命を落として、糾弾されたものの責任を直近の部下Steveに押しつけて自分は服役を免れている。

Joeの妻のKate (Marianne Jean-Baptiste)は戦時下で行方不明になったままの次男Larryの生存と帰還をずっと信じていて、でも他の家族はもう彼は… と思っていて、長男のChris (Paapa Essiedu)はLarryの婚約者で、Steveの娘のAnn (Hayley Squires)と結婚できないか、と考えている。Joe以外の家族周辺の人たちはみんな人生のことを真面目に考えて真っ直ぐに生きようとしている。Joeだって暴力を振るったりするわけではなく、近所の人たちからは話し好きのよいおじいさん、と見られている。

でもその裏側には複雑な事情が絡みあっている。ChrisとAnnの結婚はすばらしいことだが、それを祝福することはLarryの死を家族として認めることに繋がり、更には彼の死がJoeの戦時中の不正に結びついていることを認めることにも繋がって、それはいまの家族のよってたつ地面をがたがたにしかねない(→木が倒れたこと)。そして、家族の誰もがそのことをわかっている。元凶が誰なのか、なんで黙らざるを得ない、触れない箇所があったりするのか、なんでどんなにあがいてがんばっても幸せに届かないのか。
その緊張を維持して持ちこたえているところにある情報を掴んだらしいAnnの兄George (Tom Glynn-Carney)が怒りを湛えて飛びこんできて…

俳優のアンサンブルがすばらしくよくて、Bryan Cranstonは典型的な白人男性、妻役のMarianne Jean-BaptisteとChris役のPaapa Essieduは黒人で、戯曲の上に書かれてはいないが、ひとつの家族内での人種間の差異がもたらすであろう何か、もそれとなく示唆されていたのではないか。

誰もが気づいていて、今や誰もがうんざりしているアメリカの(家族、白人男性の)理想主義が孕む毒、欺瞞や危うさ、それが絶妙な形で集約されて”All My Sons”という呼び声のもとで上書き形成されてきた家族の像。 これをそれ見たことかみたいに暴きたてるのではなく、診療台の上でどうしたらよいと思う? って問いかけてくるのがArthur Millerの劇で、この内容が書かれてから80年くらい、ってさすがにすごいな – “All My Sons”から”All My Grandsons”までいっちゃってるだろうに。

そして、これらがあった後になってもなお、”MAGA”なんて能天気に言えてしまうあの神経の腐れようときたら。

そしてそして、ここで維持されようとした「アメリカの理想」は、日本では家長を中心に据えた同心円状の「イエ」としてやはり絶対的な求心力を維持してのさばっている。こっちは”All My Sons”ではなく「ご先祖様〜」とかになるのかしら?

[film] Is This Things On? (2025)

12月4日、木曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
NYFFでプレミアされてLFFでもかかっていた新作。

これの上映の前には、ICAで始まっていたLuc Moulletの特集から80年代の短編3つと、上映後に監督とのオンラインでのQ&Aがあった。 短編はどれもめちゃくちゃおもしろかった。

監督はBradley Cooper、30年来の友人であるWill Arnett(この上映の前に彼の1時間のトークがあったが、そちらは行けず)を主演に、脚本はBradley Cooper, Will Arnett, Mark Chappellの共同、Will Arnettが話していた英国のスタンダップ・コメディアンJohn Bishopの話を基にしているそう。撮影は”A Star is Born” (2018)~”Maestro”(2023)の頃からのMatthew Libatique。 ショービズの世界に生きる主人公を追ってきた過去の作品とはちょっと毛色が違う。

10歳の男の子がふたりいてずっと一緒に過ごしてきたAlex (Will Arnett)とTess (Laura Dern)の夫婦は離婚に合意して、AlexはNYのダウンタウンの殺風景なアパートに引っ越して一人暮らしを始めている。友人で俳優のBalls(Bradley Cooper) – もじゃもじゃ - や妻のChristine(Andra Day)にも余りちゃんと話していないし、健在で仲のよい両親はそのことを知っているけど、面と向かって話そうとはしないし、子供たちも多分知っているけど、こちらも同様、自分たちが間に入ることで家族の溝を広げてしまうかもしれないことをわかっている。そして、そもそも当事者たちですらきちんと議論して決着つけて次に、ということをやらずに互いに目をそらしているような。“Marriage Story” (2019)でばりばりの訴訟担当弁護士をやっていたLaura Dernの姿とはぜんぜん違う。

互いが嫌で、一緒に暮らして顔を見るのも嫌なのでとにかく別れる、がまず第一にあった“Marriage Story”ではなく、別れた後にどこにどう踏みだしたらよいのかわからないし、自信が持てない、それを認めたくないので互いに顔を合わせないようにして避けまくっている、というかんじ。

そんなある晩、酔っぱらってどん詰まりの状態でコメディをやっているクラブの前にきたAlexは、なんとなく中に入ろうとしたら$15って言われて、それは払いたくなかったので、出演者の方(Freeで入れる)にサインアップして、とりあえず並んで自分の順番が来たので舞台に立ってなにやら喋ってみる。まったく用意していなかったのでうけるうけない以前にぜんぜんダメだったのだが、彼は何かの光とか感触をそこに見出してしまったらしく、空いている時間にネタを書いてみたりひとり練習してみたりすると、2回めのステージはそこそこうけて、常連たちからもやるじゃないか、とか言われて有頂天になっていく。

話しはそこからコメディに目覚めて、コメディアンへの道を歩んでいくAlexの姿を追う..わけではなく – それでもおもしろくなったのかもだけど - 元オリンピックの女子バレー選手だったTessのコーチへの復帰というお話しも絡まって、やがてTessと彼女の新彼(候補)がふたりでコメディクラブに入ったら、そこそこの人気があるらしいAlexの漫談を聞くはめになる、とか。しかもネタはふたりの末期の性生活に関する一方的なもので… Laura Dernが“Blue Velvet” (1986)での「あの顔」と同じくらい絶妙の表情を見せてくれるので、これだけでも。

監督の過去作のように何かを極めて頂点に立った主人公の姿(~その後)ではなく、そこに向かって歩き出す彼らでもなく、「それ」が見つかるか見つからないか - “Is this things on?” の微妙におどおどした状態を行ったり来たりし続ける彼らの彷徨いを描いて、賞を貰えるような納得できる落としどころとか完成度とかからは遠いやつなのだが、とてもよいの。

ラスト、子供たちがずっと練習していたQueenの”Under Pressure”が学芸会で披露されて、そのたどたどしい刻みが空に昇っていって、そこに… (ここだけでも)

あと、出てくるわんこが、どれもすごーくかわいいので、犬好きはぜったいに見たほうが。

12.15.2025

[film] Tea and Sympathy (1956)

12月3日、水曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
メロドラマ特集で、11月15日にあったイベントMelo-dramaramaの補足番外編として、”Beyond Camp: The Queer Life and Afterlife of the Hollywood Melodrama”というパネルトークがあった。

ハリウッドの「女性映画」やメロドラマが長年クィア文化に深く結びついてきた - Bette DavisやJoan Crawfordなどがゲイ・アイコンとして崇拝されているのはなぜなのか? R.W.Fassbinder, Almodóvar, Todd HaynesらがDouglas Sirk のスタイルを継承・変奏しているのはなぜなのか? などについて、”The Heiress” (1949)や(いつもの)”Written on the Wind” (1956)のクリップを映しながら議論をしていく。

男性中心社会/至上主義の目には見えない過酷さがあり、その過酷さを生き抜こうとしてモンスター(or 犠牲者)となるメロドラマの主人公にクィアが接続されていくのはものすごくふつうの、そうだよね、しかなくて、それをそうだよね、にしてしまっては何も変わらないので、これはOne Battle After Anotherなのだ、と改めて。

今回はネタの起源を40〜50年代の米国ハリウッド映画にしていたが、英国であればこれの根は階級制度に、日本であれば家父長制起源のものになって、でもこれはネタがどう、とかいう話ではなくてそれだけこの野蛮な人でなしの世の中で苦しんでいる人がいる、というのと、その中で、他からどう見られても蔑まれてもいい、とにかく生き抜く術と姿をください、という祈りのなかでメロドラマというアートが立ちあがってきた、と。

これの終わりに特別上映として:

Bourbon Street Blues (1979)

Douglas Sirkの最後の監督作品とされている25分の短編で、原作はTennessee Williamsの一幕戯曲”The Lady of Larkspur Lotion”(1946 and 1953)を基にした作品。

酔っ払って全てを失い明日がないぞって更に酔っ払う女性と彼女に文句を言い続ける女性、その口論の終わりの方にぬうっと現れるR.W.Fassbinderの生きているのか死んでいるのか瀬戸際の異様なオーラ。たぶん彼女たちの口論の中身がわからなくても、ここに晒された呪いのように臭ってくる酩酊とアートのありようはずっと。


Tea and Sympathy (1956)

12月3日、↑の企画の後に、参考作品として上映されたのを見ました。企画テーマに見事にはまる一本。

35mmフィルムのテクニカラーで、フィルム上映で見るDeborah KerrやMaureen O'Haraって、なんであんなに美しいのか。これって美術館でもシネコンでも絶対見ることのできない美のひとつではないか。

原作はRobert Andersonによる1953年の同名戯曲で、メインキャストはブロードウェイの舞台からそのまま(舞台、見たかったなー)。監督はVincente Minnelli、撮影はJohn Alton、音楽はAdolph Deutsch。邦題は『お茶と同情』 … 「同情」じゃないよね。

Tom Robinson Lee (John Kerr)が同窓会で高校を訪れて、17歳の自分が暮らしていた下宿屋の自分の部屋に行ってみると、いろいろ蘇ってきて…

そこでは大勢の男子学生が家主でスポーツのコーチでもあるBill (Leif Erickson)の家で体育会ど真ん中の集団生活の日々(隅から隅まで吐きそう)を送っていて、でもTomはBillの妻Laura (Deborah Kerr)と庭先でお茶をしたりお花とか縫い物とか本の話をする方が好きで、Lauraも彼のことを大切に思うようになって、でもそうしていると同級生たちにLady Boyってバカにされて虐められて、尊敬していた父親 - Billの親友でもある - からもそんなことじゃいかん、て言われ、その虐めはエスカレートして地元の娼婦Ellie (Norma Crane)のところに夜に行ってこい、っていう酷いことを強いて、無理をしたTomは自殺をはかって…

全体の殆どが、流血こそなくても愚かで幼稚でバイオレントな描写に溢れていてしんどいのだが、最後に森に逃げこんだTomとLauraの、というかDeborah Kerrのあまりの美しさにびっくりして涙が引っこんでしまう。こんな美しいのってあるのか、この美しさと共に生きよう - ってTomも思ったのだと思う。

12.12.2025

[log] Prospect Cottage - Dec. 6th 2025

12月6日、土曜日、Kent州、Dungenessにある – “Dungeness”というとまずはアメリカの蟹なのだが、蟹のいるアメリカのワシントン州のDungenessは、ここのDungenessから取った、ということを知った – Prospect Cottageに行きました。英国に来てからずっと行かねばリストに入っていた地点。Vanessa BellのCharleston、Virginia WoolfのMonk’s House、HaworthのBrontë home、などに続くシリーズ。

映画監督Derek Jarmanが父の死後1987年に購入して、1994年に亡くなるまで暮らして、彼の死後はパートナーのKeith Collinsが暮らして維持して、彼が2018年に亡くなった後は、売りに出されたり維持のための寄付活動があったりしたのだが、いまは落ち着いて一般公開されるようになっている。

のだが、夏だとチケットがすぐ売り切れていたりでなかなか行く機会がなくて、どうせ行くなら一番暗くてきつい時期にしてやれ、って決めて、ついに、ようやく。

ロンドンのSt Pancras Internationalから電車で40分、そこからバスで約1時間、そこから歩いて15分、というアクセスの面倒くささも遠ざけていた要因か。やはりふつうは車で行くらしい。

天気予報ではずっと雨95%くらいだったので、ずぶ濡れ上等バケツでもタライでも、だったのだが、雨はこなかった。かわりに風がとんでもなく強くて、久々に飛ばされそうになった。

バス停を降りると廃線になった線路が海まで伸びていて、それ以外は地の果てまで砂利の荒野 – としか言いようがない – がずっと広がっていて、廃れた漁師小屋のようなの、棄てられた木の船がぽつぽつあって所々で鳥が群れて(たぶんなにかの死骸をつついて)いる。このランドスケープだけである種の映画が好きなひとはやられてしまうに違いなくて、Derek Jarmanもそうだったのだと思う。

Prospect Cottageもそういうなかの一軒で、窓枠が黄色い以外は真っ黒で特に大きくもなく、柵とか門に向かう小道とかもなく、砂利と砂漠の植物みたいのとオブジェがぽつぽつと置いてあるのか並べられているのか。南側の壁にはジョン・ダンの詩が彫って.. じゃない浮かびあがっている。

時間 - 確か30分間隔くらいでスロットが切られていた - になると中から案内係の青年が出てきて小屋内ツアーの説明 - だいたい40分、中の撮影は禁止、聞きたいことはなんでもその場で聞いて、など - をする。自分の他には3人の家族らしき人達 + 赤ん坊で、この子は見事なリズムでずーっとえへえへ唸っていた。

部屋は決して広くない客間、書斎、書棚のある部屋、寝室、キッチン、後から足された部屋など、どの部屋にも彼の描いた/作ったアートが並んでいて、ぶっとい木の重そうな木と合わせると、あまりアーティストのお部屋には見えない、木樵のような無骨なやりかけのかんじ、そこがなんだか彼らしい。

冬は厳しそうだけど、キッチンの窓はとても広くて光が入っていて、これなら・ここなら暮らせる、暮らしたいな、になった。

ガイドの人からは、彼の晩年のキリスト教の宗教画への傾倒のなかで、John Boswellの名前が出てきて、へー、ってなったり。

あっという間に終わって、でも平原の向こうにあるはずの海を見ないで帰るわけにはいかず、風に逆らって20分くらい歩いて、クールベの絵のそれみたいにぼうぼうと愛想のない海と砂しかない浜辺を眺めて帰った。

戻りのバスは30分遅れて乗る予定だった電車にも乗れず、いろいろその日の予定が。

パリではDerek Jarman特集をやっているのかー… 随分と見ていないかも。


Turner & Constable Rivals & Originals

↑ので荒野を歩いて風と光に晒されていたら数日前に見たこれを思い出したので。
11月30日、日曜日の午前にTate Britainで見ました。まだ始まったばかりの企画展。

1775年生まれのJ.M.W. Turnerと1776年生まれのJohn Constable、どちらもRoyal Academy of Artで学んで英国の風景画の世界を刷新した彼らの生誕250年を記念した展覧会。たいへんおもしろい。

風景画なのだが、このふたりのそれは英国の光(と暗さ)、雲、海、雨、湿気、これらが刻々ぱらぱらと変化していく様も込みであわさったそれで、写真のように切り取られた断面、というより絶えまない変化のなかにある光と水に晒され覆われた景色をどうにか平面に転写しようとして、実際に画面は焼けたり湿ったりで、いつも触ってみたくなって、こういうことが起こりうるのは英国だから、としか言いようがないかも。

場内ではふたりが競演した”Mr. Turner” (2014)の一部が上映され、そこで展示されていたWaterlooの絵の現物もあったり。

結構な数が出ていたので、Tate BritainのTurner常設コーナーはがらがらではないか、と思って行ってみたら、そこに並べられたConstableまで含めて、いつもと全く変わっていないのだった。

12.10.2025

[theatre] The Maid

11月29日、土曜日のマチネを、Donmar Warehouseで見ました。公演の最後の回で、見逃すところだった。

原作はJean Genetの”Les Bonnes” (1947) - 『女中たち』。脚色・演出はSarah Snook による一人芝居“The Picture of Dorian Gray”を成功させたKip Williams。 1時間40分、休憩なし。

舞台は明るくて3つの背面がでっかいミラー(後でディスプレイ)になってて、スライドされるその向こうはなんでも出てくるクローゼットで、白系のきらきらで統一されたバブリー(死語)で豪勢なリビングルームがあって、開演前~開演後もしばらくはガーゼ仕様の薄幕カーテンで覆われていて(その向こうでなにが行われているかはわかる)、あげあげ系のR&B&ハウス系の音楽がそんなに大音量ではなく流れていて、そこにメイドの恰好をしたメイドと思われる女性が現れて音楽に合わせてふんふんしたり踊ったりしながらスマホを見たり化粧台のコスメを試したり、そこらにある服を試着したりを始める。

この最初に現れたメイドがClaire (Lydia Wilson)で、そこにSolange (Phia Saban)が入ってきてご主人様としてClaireを虐めたり辱めたりして、でもそのうちSolangeも同じメイドであることが明らかになって、ふたりは姉妹で、要は支配と服従の「ごっこ」をおもしろがってやっているのだが、そのうちに本物のMadame (Yerin Ha)お嬢さまのインフルエンサーでもある - が入ってくると、彼女の我儘で傲慢な振る舞いは「ごっこ」のレベルではない、エクストリームなものであることが見えてくる。なにがエクストリームかというと、仕事や契約上の規約なんてないに等しく、自分は上でお前は下なんだからとにかく従え文句や口出し一切無用とっととやれ、が徹底されていて、誰もその掟を破ることができない、その手段がない、ということ。

登場する3人の女性たちは、全員がずっとスマホを手にしてSNSにポストしたりライブストリーミングしたり、その画像も声もエフェクトをかけてアニメ風にしたり老婆にしたり、リモートも含めてやりたい放題でそれがそのまま背後の大きなミラーに映しだされていく。メイドとしてクソのような仕事をしていても、どんな酷いことを強いられても、ストリーミングでは主人のドレスを羽織ってお花畑の女王のような姿を演出することができて、そこで身分の上下なんて気にしている人は誰もいなくて、要は本当の正体はなんなのか、本当に起こっていることはなんなのか、を誰も知ることができない/知らなくたって構わない、という反転した地獄絵がある。この支配・服従構造の不可視化(による重層の支配)は、もろ現代のテーマでもある。

この状態をどうにかしたいClaireとSolangeのMadameのお茶に毒を盛って飲ませる計画もなかなかうまくいかないまま、Madameの暴走は誰も止められなくなっていって… 

誰かに支配されている、という言い方は(ちょっと恥ずかしいので)したくないが、自分の時間や労力を常に誰かや誰かや誰かに奪われている、という終わらない感覚はあって、それを終わらせるには特定の誰かやチェーンをどうにかすれば済む、という話でもなく、ではどうしたら? ということについて「自由」とか「解放」とかの言葉を言わず使わずに考えさせる – かなりごちゃごちゃ騒々しくて疲れるけど – よい舞台だと思った。女優3人共自身の演技に加えてエモの延伸のようにデバイスとか自在にコントロールしていてすごい。

原作者のジュネが作品のなかで表現しようとした服従や拘束のありようとは違うのかも知れないが、誰もが止むことのない憎悪と蔑視に囚われて中毒のようになっていて、そこから抜けられないまま団子になって転がっていって、でも結果としてどこにも行けないどん詰まり状態、はうまく表現されていたのではないか。

全体をあと少しだけ落ち着かせてみたら、日本の会社の風景にも近くなる気がした。

12.09.2025

[film] The Last Days of Dolwyn (1949)

12月2日、月曜日の晩、“Imitation of Life” (1934)のあと、BFI Southbankで見ました。

12月のここの特集で生誕100周年を祝う特集”Muse of Fire: Richard Burton”が始まって、いろいろ見始めている。彼のフィルモグラフィは膨大なので1ヶ月の特集でカヴァーしきれるものではないのだが、この特集でかかるセレクションは35mmフィルムで上映されるものも多くてなんかよいの。

作、監督はウェールズのEmlyn Williamsで、彼が監督したのはこれ1本(俳優としてのキャリアが殆ど)。35mmフィルムでの上映。

これがRichard Burtonが23歳の時の映画デビュー作で、上映前のイントロをした娘のKate Burton(この方も女優)によると、彼女の母Sybil Williamsは19歳で映画女優になりたくて監督のところに直談判に行って、そうしてこの映画で端役を貰って - どこに出ていたのか確認できず - Richard Burtonと出会って結婚して、自分が生まれた。なので監督のEmlyn Williamsは自分にとって祖父のような人でした、と。

19世紀の終わりに、ウェールズの山奥にあるDolwynの村がダム建設によって水没した – タイトル通り、そこに暮らす村人たちの最後の数日間を描いて、架空の村のフィクションだが当時いくつかあったこれに近い実話を基にしているそう。

土地を買収するために地元の人たちにうまい話 - リバプールの方に移住させて仕事も与えて - をしに小賢しい役人みたいなRob (Emlyn Williams - 監督本人)がやって来て、村人たちの多くは言いくるめられて引越しの準備を始めるが、先祖からのお墓もあるし離れたくないMerri (Edith Evans)のような女性もいて、彼女の里子のGareth (Richard Burton)は、一帯の土地の永代所有権を証明する文書を発見して、何がなんでも立ち退かせたいRobと対立していって…

Richard Burtonは村の外から村をダムの底に沈めに来た悪者と対峙する若者、という役柄で、ブチ切れたら怖いけど、貴族の女性にぼーっとなっていたり隙だらけで、でもこの映画で最もすばらしいのはMerriを演じたEdith Evansで、迷いながらも村に留まることを決意していくひとりの女性を見事な情感と哀しみのなか浮かびあがらせていた。


My Cousin Rachel (1952)

12月5日、金曜日の晩、Richard Burton特集で見ました。
ここでもKate Burtonさんがイントロで登場して、これが彼のハリウッドデビュー作で、アカデミー賞にノミネートされた最初の作品です、と。

原作はDaphne du Maurierの同名小説(1951)で、Rachel WeiszとSam Claflinが主演した2017年のリメイク作の方はまだ記憶に新しいかも。

監督はHenry Kosterで、彼になる前はGeorge Cukor監督で企画が進んでいて、原作者との芸術観の相違などで流れた、と。Cukorの企画ではGreta GarboかVivien LeighがRachelを演じる想定だったようで、あーそっちも見たかったなあ、って。

コーンウォールの海岸沿いでPhilip (Richard Burton)は従兄弟のAmbroseに育てられて、彼が健康上の理由で滞在していたフィレンツェから、現地で結婚した従妹のRachelのこと、彼女からひどい扱いを受けているというぐしゃぐしゃの字体の手紙を受けとって、不安になったPhilipが現地に行ってみるとAmbroseは脳腫瘍で亡くなっていて、でもRachelは不在だったので、彼はRachelがAmbroseを殺したに違いないと思いこむ。

数か月後にコーンウォールに戻ったPhilipはRachel (Olivia de Havilland)の訪問を受けて、思いっきり文句言って虐めてやろうと思っていたのに簡単に彼女の佇まいや物腰にやられてめろめろになって、一族代々の宝石をあげちゃったり、25歳の誕生日に全財産を彼女に譲ってしまう。彼女はいちいち喜んでくれたので、その流れで当然結婚してくれると思っていたのだが…

Burtonは手練れの悪女に簡単にやられてしまうバカで純朴な田舎の青年 - ↑のフィルムデビュー作でもそういう系だった – をフレッシュに演じていて微笑ましいのだが、それ以上にOlivia de Havilland(Burtonより9歳上)の放つオーラがとんでもなく、これならやられちゃうだろうな、ってあっさり納得できてしまうのだった。

運命に抗いながらも半分くらいは自業自得で勝手に潰れていく、そういう立ち居振る舞いをものすごく自然にやってのける、彼のシェイクスピア俳優としての素地はこんなふうに最初から運命のように定められ形づくられていったのだろうか、って。

[film] Imitation of Life (1959)

12月1日、月曜日の晩、BFI Southbankのメロドラマ特集で見ました。

原作はFannie Hurstの同名小説 (1933)。Frannie Hurstは、女性とアフリカン・アメリカンの地位向上に貢献した活動家 - 女性が旧姓を保持できるようにしたLucy Stone Leagueの最初のメンバーでもあった。

監督はDouglas Sirk、プロデュースはRoss Hunter – なので、いつものように撮影はRussell Metty、音楽はFrank Skinner。Sirkの最後のハリウッドでの監督作となった。 邦題は『悲しみは空の彼方に』。

女優を目指しているシングルマザーのLola (Lana Turner)が混雑するコニーアイランドのビーチで娘のSusieを見失っていたところで、黒人のAnnie (Juanita Moore)とその娘で一見黒人には見えないSarah Janeと出会って、やはりシングルマザーで、家と仕事を探していたAnnie母娘をメイドとして自分のアパートに住ませることにする。

Lolaはコニーアイランドで出会った駆け出しの写真家Steve (John Gavin)に少し惹かれつつ、お芝居の世界でのエージェントのLoomisや劇作家のDavidとの出会いが彼女を成功に導いて、そこから10年後、彼女はブロードウェイの人気スターとなって、Davidからのプロポーズを断り、それでも彼女の地位は揺るがないし、Annieとの仲も変わらず、メイドだけでなく日々の相談相手としてもずっと一緒にいる。

でもAnnieの娘のSarah Janeは母が黒人だと知れたら突然白人BFに殴られたり、黒人として見られてしまう自分が嫌で家出をして、Annieは体を弱らせて…


Imitation of Life (1934)

12月2日、火曜日の晩、BFI Southbankのメロドラマ特集で見ました。

↑と同じ原作が出たすぐ後に、John M. Stahl監督によって映画化された作品で、脚本にはWilliam J. Hurlbutの他にアンクレジットでPreston Sturgesの名前がある。 こちらのバージョンの方が原作にはより近いのだそう。

Bea Pullman (Claudette Colbert)はやはりシングルマザーで、土砂降りの日、彼女のアパートに求人広告を読み違えたDelilah(Louise Beavers)が訪れて、浴槽におちたBeaの娘Jessieを助けてあげたりして、母娘ふたりだと大変だろうし、Delilahと彼女の娘Peolaが一緒に住んでBeaの家事を助けていくことができたら、って暮らし始めたら、Delilahの作るパンケーキがとんでもなくおいしくて、それならこれをビジネスにしよう、と店舗を借りてリフォームして、その場で焼いたのを食べてもらうレストランにしたらこれが当たって、Beaはお金もちになる。

女優業とパンケーキ屋と、どちらもぜんぜん違う世界をとりあげつつ、女性(シングルマザー)が、自分で仕事を見つけてやっていくことがどれだけ大変なことか、そんな彼女を支えたのが黒人のシングルマザーで1934年版ではパンケーキのレシピを持っているのはDelilahなのにフロントにいるのはBeaだったり、両バージョンのAnnieの娘Sarah JaneとDelilahの娘Peolaは自分のせいでもなんでもないのに、肌が白くて黒人に見えない、というだけで酷い差別を受けたりする。

こんなふうに登場人物や展開をいくら並べてもこのストーリーが持つ渦の強さ、業の深さを表わすことはできない。その根底にあるのは原作者の怒りなのだと思う。

Imitation of Life – というとき、”Imitation”ではない”Real”なLifeはどこにあるのか?
そのありようはLola/Bea, Annie/Delilah, Sarah Jane/Peola, Susie/Jessieでそれぞれ違う。Lola/Beaは裕福な庇護者の男性なしではのし上がれかなったし、Annie/DelilahはLola/Beaがいなかったらどこにも行けなかったろうし、Sarah Jane/Peolaが生きるためには親の存在を消し去らなければならなかったし、Susie/Jessieは母に寄ってきた男を自分のものにしようとする - ここの母親が苦労して勝ち取った男を娘が横取りしようとする構図は”Mildred Pierce“ (1945)にも出てくる。 “Imitation”と”Real”の境界とか構図を決めているのは男性優位と人種差別を基軸に成り立っている白人男性中心の世の中でそんなのどう考えてもおかしい。丸ごとImitation ではないか、と。

そしてラスト、Annie/Delilahの葬儀が荘厳に執り行われてみんなが泣き崩れることの皮肉。”Life”が失われてからようやくみんなに認知される/だからこんなの”Imitation”ではないか、という…
(そして改めて邦題 - 『悲しみは空の彼方に』はだめだと思った。「彼方」にしちゃだめなんだよ日本人)

Sirk版だけ見ていたらたぶん見えなかったであろうことが1934年版を見たらよくわかった。

12.07.2025

[film] Pillion (2025)

11月29日、土曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
原作はAdam Mars-Jonesの小説”Box Hill”、監督はこれが長編デビューとなる英国のHarry Lighton。

封切を記念してなのか、この上映の前になにやらイベントがあったようで、革ジャンでじゃらじゃら金物を身に付けたライダーのおじさん(若い子いなかった気が..)達が歓声をあげて映画の看板の前で記念撮影などをしていて、いつものBFIとはぜんぜん違う雰囲気だった。

入り口にはStrictly18禁、とあって、米国公開版では更にカットされるようなのだが何が/どこがそんなに? くらい。

白のライダージャケットでぎんぎんにキメたAlexander SkarsgårdとハリポタでDudley Dursleyを演じたHarry Mellingの共演なので、”The Bikeriders”(2023)よりもダークでサイコでヴァイオントなホラーになってもおかしくないのに、クリスマスの(クリスマス映画だよ)ちょっと切ない青春rom-comだった。真ん中のふたりがとにかくものすごくよい。

“pillion”って、ぜんぜん知らなかったのだが、バイクの後ろの席に乗る人のことを指すのだそう。なんだかかわいいかんじだが、この映画の彼はもろそんなかんじ。

Colin (Harry Melling)は違反駐車切符を切る仕事をしながらパブの寄せ集めバンドで合唱したり、やさしく見守ってくれる両親と暮らす内気な子で、ある晩ライダーのグループでパブにやってきたRay (Alexander Skarsgård)を見て電気にうたれていたら彼からメモを渡され、裏の駐車場に行ったら強引にされてぼうっとなって、でもその後は何度連絡しても無視されて、諦めかけた頃に彼の家に呼ばれて夢の時間を過ごして、やがて彼に採寸されて自分のライダージャケットと首輪を作って貰い、髪も長髪から五部刈りにして、ライダーの集まりにも参加して、充実した日々を過ごしていく。

Colinのママは末期癌の治療中で長くないので嫌がるRayを家に招いてみんなで食事(当然気まずさの嵐が)をしたり、そういうことをやって少しづつ仲良くなっていっても彼の家に泊まるときはいつも床に寝かされて、彼の横で一緒に寝るのは許されなかったりするので、ある日いきなりブチ切れたColinは彼のバイクに跨って彼のところを飛び出して…

男女のカップルのお話しだったらネタにもならなさそうなことが、無頼のライダー集団の寡黙な男と家族に大切に育てられてきた真面目な青年の間だとこんなにも謎めいておもしろく手に汗握ったり切ないロマンスのようになってしまうのはなんでか? バイクの走りが時空の何かを歪めてしまうのだろうか。あの終わり方にしてもライダーならしょうがないのか… になる(なる?)

Rayは自宅のエレピでへたくそなサティを弾いたり、Karl Ove Knausgård の”My Struggle”を読んだりしているのだが、その割に本棚は空っぽだったりしてちょっと不思議、というかRayが日々何を考えているどういうオトコなのか、(おそらくColinにも)最後までわからない感が残って、ライダーっていうのはそういう種族なのだろうか? とか。

日本だとゲイ・レズビアン映画祭の枠になってしまうのかもしれないが、これはふつうに(18禁)一般公開されてほしいな。


最近は訃報があまりに多すぎていちいち打ちのめされていたらこっちがやられてしまうので、1分くらい黙祷しておわり、にしているのだが、Martin Parrはちょっと驚いた。ついこの間、彼のドキュメンタリー映画で挨拶に来ていたし、新作のサイン本、まだふつうに出ているのに…   
ありがとうございました。あなたの撮った天国の写真を見たいよう。

12.06.2025

[film] Wake Up Dean Man: A Knives Out Mystery (2025)

11月27日、木曜日の晩、CurzonのBloomsburyで見ました。
Rian Johnsonの作・監督によるKnives Outミステリーシリーズの3作目、例によって探偵Benoit Blanc (Daniel Craig)を囲むオールスター・キャストで、楽しい。

元ボクサーでリングで人を殺してしまって司祭となったJud Duplenticy (Josh O’Connor)の回想から入って、彼はJeffrey Wright演じる司祭によってJefferson Wicks (Josh Brolin)が司祭を務めるニューヨーク北部の教会(撮影で使われた教会はエセックスのEpping Forestの近くだって)に送られる。過去の遺産相続をめぐるごたごたで教会は荒れ放題になっていて、Jeffersonは人格もひどい - Josh Brolinが演じてきた悪役そのまま - けど扇動カルトっぽいかなりやばい説教をしてて、反発する人も多いが、彼を囲んで個別のセッションをしている熱い信者たちもいて、Judからすればあれもこれもなんだこれは?なのだが、JeffersonはGood Fridayの説教の合間、沢山の人達がいるところで、一瞬物陰に入った、と思ったら殺されているのが見つかる。

容疑者は全員、凶器の持ち主だとしたらJudだし、他に教会の家政婦のMartha (Glenn Close)、庭師Samson Holt (Thomas Haden Church)、車椅子のチェロ奏者Simone Vivane (Cailee Spaeny)、売れないSF小説家Lee Ross (Andrew Scott)、アル中の医師Nat Sharp (Jeremy Renner)とか、どいつもこいつもで、よくわからない経緯でどこかから突然現れたBenoitがJohn Dickson Carrの”The Hollow Man” (1935)なんかを見せながら嬉々として犯人捜しを始める。

それにしても、人が死んでいるというのに、このわくわくする楽しさはなんなのか?最初にJeffrey Wrightが出てきたのでまるでWes Andersonの世界みたい、とか思ったのだが、恨みや妄執や狂気をカラフルなとっちらかった世界に散らして奇人変人のパラダイスにしてしまうあの世界にちょっと近いのかもしれない。あれよりは落ち着いた、でもトラッドで英国的な端正さ(じゅうぶんに狂って腐ってしまったそれ)を感じさせる世界の。

それと並んで、これって謎解きものって言えるのだろうか?と。たしかに最後には探偵Benoitのひらめきや推理に導かれて犯人も事件の全容も明らかになるのだが、彼の推理は彼のまわりの変な人(容疑者)たちのアンサンブルに巻きこまれるかたちでぐるぐる振り回されていて、その回転のなかで弾きだされるようにあの結末に、なるべくしてなっているようで、彼の推理がなにかを串刺して鮮やかに明るみに出してきたわけではないような気がする。

それにしてもJosh O’Connor、こないだの”The Mastermind” (2025)でも泥棒になりきれない半端な泥棒を演じ、ここでも司祭になりきれない司祭を見事に演じている.. というのか「演じている」の境界をがたがたにするやばい生々しさに溢れていて、要は目を離せなくするなにかがあるねえ、と思った。


Zootopia 2 (2025)

11月29日、土曜日の午前に、West EndのVueで見ました。

わりとどうでもよい新作は週末の早い時間にでっかいシネコンで見るとちょっと安かったりする(座席によってちがう)ので、よく行くのだが、安いかわりにマナーなんてないに等しい無法地帯で、みんなふつうにスマホをみたりスクリーンの写真撮ったりしててひどい。この先どんどんああなっていっちゃうんだろうな。

前作”Zootopia” (2016)から9年、ここに出てくる動物たちにこれだけの時間が経ったらみんなよぼよぼではないのか、と思ったのだが、みんな変わっていなくて、前回の事件のあと、表彰されたふたり(ウサギとキツネ)が正式にパートナーになってすぐの辺りから始まっている。

Zootopiaという国(or 街?)の起源をめぐるヤマネコ族とヘビ(&爬虫類)族の改竄&隠蔽されていた過去をめぐるお話しで、種の多様性と共存、そこで蓋をされていた政治や陰謀をめぐる、ものすごく現在に根差したよいお話しだった。今のアメリカでこういうのを出せた、ってそれだけで少し安心したり(こんなとこで安心するのはどうか、ってなるくらい今がひどいってこと)。

昔ならアニマル共にそんなこと教えて貰いたくねえよ、になったであろうことが、動物さんにそこまでがんばらせちゃってごめんね、になるような。

動物好きなひとは見ているだけで楽しくなるので、見に行ったほうがいいよ。” Ratatouille” (2007)のネズミくんも一瞬出てくるよ。

12.03.2025

[film] La Tour de glace (2025)

11月25日、火曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
LFFでもかかっていたフランス/イタリア/ドイツ映画の新作で、英語題は”The Ice Tower”。

監督はLucile Hadžihalilović、脚本は監督とGeoff Coxの共同。

70年代のフランスの田舎町で、10代のJeanne (Clara Pacini)がいて、薄暗い部屋のなかで辛そうにしていて、小さな妹に大事にしている石のビーズの欠片を渡して家を出ていく。事情はわからないけど、表情を見ると決意は固そうで、ずっと夜道を歩いて、ヒッチハイクをして、でも運転手がやばそうだったので車を降りて、スケートリンクの傍で友達と話している女の子が素敵そうで、彼女の落とした鞄から身分証とBiancaっていう名前だと知り、寝る場所を探して彷徨っていたところで、映画の撮影をしているらしい倉庫だかスタジオだかに迷い込んでしまう。

その場所で映画を撮影中のCristina (Marion Cotillard) –が”The Snow Queen” - 『雪の女王』の銀白に包まれた姿で暗がりの向こうから現れて、そのお話しが大好きなJeanneは息を吞む。
翌日、そのまま野宿をしたその場所で目を覚まして、なんとなく成りゆきで、エキストラとして撮影の現場に入ることになったJeanne - 名前を”Bianca”にした – は、他の子がうまくできなかったシーンに代役で出たら、立っているだけだったのにうまくいったりして、Cristinaから「あなたはわたしのラッキーチャーム」と言われて、Jeanneは夢ではないか、ってぼうっとする。

暗くて寒くて先の見えない絶望の淵で、この世のものとは思えない美しいなにかと出会って、これはすぐに終わる夢だから嵌ってはいけない、とわかっていても抜けられない世界を映画の撮影現場に置いて、そこで撮影しているのが『雪の女王』 - 日本だったら『雪女』か – というのが設定としてうまくて、Marion Cotillardの女王のメイクと、現場から離れた素の – ちょっとギラっとして疲れている - 状態の二重の層が怪奇とは言わないまでも、Jeanneから見れば大人の世界の謎めいた沼の方に招いていて、いけないと思いつつ寄っていってしまう。

Jeanneを演じた新人Clara Paciniの外界のなにを見ても凍りついてしまう透明な瞳と表情、Marion Cotillardの若い頃からのいろんな依存や欠乏から抜けられず、誰かに憑りついてその血を吸ってしまうモンスターの相性が素敵で、『ミツバチのささやき』(1973)で、野原のまんなかの掘っ立て小屋のフランケンシュタインに会いにいって手を差しだしてしまうアナを思わせる。互いにどうしても必要な誰か、としてというより引き寄せられて、触れて、そして… となるその危うさと甘さのせめぎ合いとその先に待っている澱み。 Guillermo del Toroが絶賛したのもわかる。

画面はずっと夕暮れから夜の暗いままで寒そうで、そういうなかから浮かびあがるCristinaの表情と立ち尽くして途方に暮れるJeanneの姿がどちらも氷柱のようで、背後に浮かびあがる氷の塔も今の季節にちょうどよくて、バレエの演目にしたら映えるのではないか、って思った。


Perspectives: Balanchine, Marston, Peck

11月28日、金曜日の晩、Royal Opera Houseで見ました。

この時期になるとなんとなくバレエが見たくなって、でも『くるみ割り..』はNYで何度も見たのでそれ以外のを - と思ったがいま『くるみ割り..』そもそもやってないし。 3演目で、35分 - 35分 - 40分で間に25分の休憩2回。

最初がBalanchineの”Serenade” (1935)で、これは昔見たことがあった。優雅で透明(としか言いようがない)な軽さとしなやかさがあって、何度見てもうっとりの美しさで、Balanchineのなかでも一番好きかも。

次のがCathy Marston振付による”Against the Tide”。海岸のような岩場で、Benjamin BrittenのViolin Concertoにのってシャツとチノパンの男たちがぶつかったり組み合ったりしていく。なにを表現したいのか、なんとなくわかるけどあんま深くわかりたくないようななにか。

最後のがJustin Peck振付、音楽はSufjan Stevensによる”Everywhere We Go” - これを見たくてきた。

Justin PeckはブロードウェイでSufjanの”Illinoise”(2023)をダンス・ミュージカルにした人でもあるので、まったく心配いらない。男性は胸下までの黒タイツ、女性は太い横縞シャツで、オーケストラアレンジは別の人によるものだが、彼のところどころつんのめったり小爆発したりしながら花が咲いて広がっていくお茶目な世界が、幾何学模様で変化していくプレ=モダン〜モダンの照明と”Everywhere We Go”のフレーズと共に浮かびあがってくる。00年代のステージで、チアリーディングを入れてわいわい盛りあげていた頃を思い出した。

彼の山盛りあるクリスマス音楽でバレエやったらおもしろいと思うのに。

12.02.2025

[film] Testimony (2025)

11月27日、木曜日の晩、Curzon Bloomsbury内のドキュメンタリー上映専門のシアター - DocHouseで見ました。

Claire Keegan原作(2021)、Cillian Murphyが制作、主演した映画 - ”Small Things like These” (2024)で、そのエンディングで捧げられていたMagdalene laundriesの犠牲者たち – これ以外にも多くの映画で取りあげられている - その事件の全容をまだ存命している被害者たちと明らかにしていくのと国(アイルランド)への責任追及と謝罪を求めて奔走するJustice For Magdalene (JFM)の女性たちを追ったドキュメンタリー。 監督はAiofe Kelleher。ナレーションはImelda Staunton。

1765年にChurch of Irelandによって設立されて1994年に閉鎖されるまで数万人(少なくとも1万人)規模の女性、女児が監禁され、無給労働を強いられていたMagdalene laundriesについて、2013年、アイルランド政府は国として運営に関与していたことをようやく認めたものの、関与した女性たちへの正式な謝罪や補償を怠っていたので、女性たちが立ちあがり、Justice For Magdalene (JFM) を組織してその証拠、証跡を求めて各地で実態を調査していく。映画は生き残った被害者の女性たちの声を拾いながら、歴史学者、法学者、調査団の中心となった弁護士Maeve O’Rourkeたちの活動を追って、ボストン、国連、アイルランド、へと広がっていく。(施設で生まれた子供たちは引き離されてアメリカに里子に出されたりしていた)

実際の被害の地獄のような恐ろしさ - 脱走しても行くところがないので教会に助けを求めても、同じ教会だからって元来たところに戻されるとか - もさることながら、それ以上に、200年に渡って国による強制収容、拷問がふつうに行われていたことの恐ろしさがくるのと、その証拠を束にして提出して漸くその非を認めて謝罪したとか、国が取ってきた(こうして押されなければなにもしなかったであろう)行動の異様さのほうに目がいく。

後半は、これもものすごく気持ちわるいのだが、1993年ゴールウェイのSt Mary’s mother and baby homeで、796人の乳児と子供の遺体が棄てられていた件の真相を追っていく。このような遺棄が宗教施設で宗教の名のもとに行われていた、ということと、これも、こうして暴かれ晒されなければそのままで放置されて誰も何もしなかったであろう、というのと。

Testimonyを重ね合わせていくところから始まり、行動に駆られて連携していく女性たち、謝罪を勝ち取って祝福を受ける被害者の女性たちを静かに追って、カメラの前で前を見つめて証言していく女性たちは力強く、その勇気も含めて讃えられるべきだと思うが、それよりも、どこかにいるはずの(最大)796人の父親たちはどこで何をしていた奴らなのか、いまはどこでどうしているのか、ってそっちの方が気になる – 彼女たちの辛苦、失われた人生のことなんてまったく考えることなく、日々楽しく酔っぱらってげへげへしていたのだろう、とか想像するとうんざり。DNA鑑定して片っ端から公表しちゃえ、くらいのことは思う。

あと、国って基本碌なことをしないし止めないし、捏造だってするし、過去の政権がやったことなんて出向いて証拠ぜんぶ突きつけて要求しない限り絶対謝罪なんてしない、そういうクズ(が運用しているの)だから、とにかく信用しないこった。いまの政府がまさにそれ。

[theatre] Hamlet

11月22日、土曜日のマチネを、National TheatreのLyttelton Theatreで見ました。
この日の晩が最終で、見逃すところだった。

10月に見た”Bacchae”は、National Theatreの新芸術監督に就任したIndhu RubasinghamのNTでの初演出作だったが、これは彼女と同じタイミングで副芸術監督に就任したRobert HastieのNational Theatre演出デビュー作。原作(1601)はもちろんシェイクスピア。休憩を挟んで全2時間50分。

これ、もうじきNational Theatre Liveでやるし、来年春にはBrooklyn Academy of Musicにもいくのかー。

最初に”Hamlet”と大書きされた黒の幕が掛かっていて、幕があがると割とモダン、ところどころ(背景の絵とか)クラシック。登場人物たちの服装もスーツだったりジャージ姿だったり、一応モダン劇の体裁だが、6月にRSCで見た”Hamlet Hail to The Thief”のようにばりばりに外側から固めたイメージはない。会話のやりとりを中心に人が動いて動かされて、その範囲で視界や舞台がばたばたと変わっていって留まるところがない、どこに連れていかれるかわからない、そんなイメージ。

デンマークの王子Hamlet (Hiran Abeysekera)が父王の死にそれにまつわる陰謀を聞いて、復讐を誓って、王室を中心にいろんな人たちが動きだしていくなか、みんな狂ったり殺したり殺されたり、だんだん人がいなくなっていく様が描かれていく。

ものすごく沢山上演されているこの有名な悲劇について、まだ見始めたばかりなので、これからいろんなのを見ながら所謂「スタンダード」なところ、外してはいけないところ、悲劇の「悲」とか、ドラマチックと言うときの「ドラマ」とはなんなのか、などを中心に考えていけたら、と思ったりするのだが、シェイクスピアの劇のおもしろさって、そのひとつ上(or 下?)の段から、なんでこの人(たち)はここでこんなことをしたり、笑ったり嘆いたりキスしたりしているのか、というような、ヒトの根本的な挙動とか受け応え、それらが積み重なって渦を巻いて「事件」や「劇」の相をなしていくところまでの異様さ不可思議さにまで踏みこんでいる気がして、ああ(ドラマの)沼というのはこういうのなのかも、って今更ながらに思ったりしている。

この劇については、まずHamletがそんなに狂っている、ある考えに憑りつかれているようには見えない、というのがある。(なんとなく挙動とか謎めいた笑みとか、どこかPrinceを思わせたり - Princeの話だし) 狂っているのか狂っていないのかが量れなくて、後半冒頭の”To Be or Not to Be”のところも、心ここにあらずの呟きで、他の台詞も少しどんよりしていて普通に喋っているだけなのだが、周囲もハレものに触るようにいちいちびくびくしていたり、ピストルを撃つのも、フェンシングをやるのも、死んでいくのも、感情を表に出さず、ぼやけた無関心のなかなのかすべてを悟ってしまっているのか、諦めているのか、それでも劇の時間が止まることはない。

そんな彼と対照的なのが、Ophelia (Francesca Mills)で、体の小さな彼女は目一杯走りまわり、歌をうたい、声をあげ、届かないからそうしているのか、そうしないと届かないのか、その痛切さが最後まで残る - エモーショナルになるとこはこれくらい。

あとは会社員のように銀行員のようにきちきちと動きまわって機械のようなRosencrantz (Hari Mackinnon)とGuildenstern (Joe Bolland)のふたりとか。 あまり喋らないけど最後までHamletの傍に付き添っている母のようなHoratio (Tessa Wong)とか。

この悲劇から劇的な振る舞いや言動をそぎ落としてプレーンな - それでもそこそこ十分に通じる - ドラマにしてみた時、そこにある悲しみや怒りはいったいどんなふうに見える - 伝わるものなのか。という実験? 血族の諍いとか普遍的な何かに通さずに見た時にどう見えるのか - それでも十分に変で不気味でなんだかおもしろいのだった。

12.01.2025

[film] Jay Kelly (2025)

11月24日、月曜日の番、 Curzon SoHoで見ました。
ものすごーく評判が悪いことも、その理由もだいたいわかっていて、でもNoah Baumbachの新作だから、と。

脚本はBaumbachとEmily Mortimerの共同。LFFでも上映されてなにやら盛りあがっていた。

George Clooneyがハリウッドのトップクラスのスター俳優Jay Kellyで、新作を撮り終えたばかりだが、疎遠になっていた下の娘(Grace Edwards)からは煙たがられ、自分を育ててくれた監督(Jim Broadbent)は亡くなり、その葬儀で駆け出し時代のライバルだった友人(Billy Crudup)と再会したら殴りあいになり、トスカーナの映画祭で生涯功労賞を授与したいので来てほしい、という依頼も突っぱねようとしたらずっと傍にいるマネージャーのRon (Adam Sandler)から説得されて、丁度娘のヨーロッパ旅行を追っかけるかたちでパリからトスカーナへの普通列車に乗りこむ。その旅の顛末を通して彼に去来する過去のいろんな後悔から感動の授賞式まで、という映画で、George Clooney主演のこんなお話しを見たいと思うのはNespressoのCMも含めて彼のことが大好きな人なのだろうな、と思って見ていた。

George Clooney的なキリッとした二枚目風が面倒な事態を解決してくれる物語が万人にもてはやされた時代の終焉を、NYでもロンドンでもない、トスカーナの田舎まで運んで告げようとしているのか、などとも思ったのだが、ラストの方はどうみても感動的なところに落とそうとしているのでうーむ、ってなる。

こういう設定の映画であるなら、例えフィクションであっても、主演を演じるスター俳優はそれなりの実績と人気のある人がやるべきだと思うのだが、そもそもGeorge Clooneyって、そういうレベルの人なの?(別に嫌いではないよ) いろんなプロモーションとか、マネジメントはしっかりしている印象はあるけど、それだけなんじゃないの? これの主演も、その延長でしかないんじゃないの? とか。うまくこなせているならよかったね、だけど、こっちの先入観のせいか、それらも含めてぜんぶが冗談のようなGeorge Clooneyプロモーション映像にしか見えない。

それよりもさー、主演以外にはAdam Sandlerがいて、Laura Dernがいて、Greta Gerwigまで出てくるのに、イタリアからAlba Rohrwacherまで出ているのに、なんでストレートにコメディにしないの? “While We're Young” (2014) でも”Mistress America” (2015)でも、居場所とか立ち居振る舞いがわかんなくなった主人公が意地になって散らかして転げ回って大変!って、得意だったじゃん? なんで主人公を中心にした”This is 60”をやらないのだろうか?

それとかさー、映画 - パーフェクトで完結した世界 - を作る/作ってきた当事者の精神の危機、はこれまでも映画のテーマにはなってきて、別の夢の世界に逃げこんだり、外部からなんらかの助けや啓示があったりだったと思うのだが、ここでは、彼がおかしくなりすぎて信頼してきたスタッフがだんだん離れていって、さてどうするのか、ってなっているところで、授賞式での編集されたレガシー映像みたら自分で自分に感動して治っちゃう、ってどういうこと? そんなんで解決できるなら、ただ周囲を振り回しているだけの我儘ナルシストでしかないし。パワハラ上司とかがちょっと優しくされたら和んじゃうようなよくある話? とか。

勘違い系のじじいがそのまま勘違いしそうな内容のところも含めて、あーあ、になるのだった。