8.30.2025

[log] Tokyo - August 2025

8月23日、土曜日の朝にヒースローを発って、24日、日曜日の朝に羽田に着いて、27日、水曜日の朝に羽田を発って、同日の夕方にヒースローに着きました。正味3日間の滞在。

もちろん覚悟はしていたのだが、とにかくものすごく酷い暑さだった。うまくいかないのはぜーんぶ暑さのせいにしてよい、そういう暑さ。
帰国の理由メインは4月の手術後のチェックと人間ドックだったのだが、この環境であんなのやったって暑さでしんじゃったらどうする? くらいの。

ふだんの運動らしきものとしては、映画館と美術館とギャラリーと劇場と本屋の行き来のみ - 会社はやるきなしでだらだら這うのでカウントしない - の者としては、この「運動」すら許してくれない酷暑をどうしてくれよう、なのだが、こんなのでくたばりたくはないので数と範囲を限らざるを得なかった。

いか、簡単な備忘を - 全部は書いていません。

団地と映画 @ 高島屋史料館TOKYO

24日の最終日にどうにか。狭い展示スペースのなかに、戦後の高度成長期と共に形成されていった都市、その住空間として象徴的な機能、記号として根を張って広がっていった「団地」について、そこを舞台とした映画について白板に書き散らしていったものを纏めたような。ものすごい記憶の集積と労力の掛け算によるアウトプットだと思う反面、これを自分の脳内の地図にマップしていくだけの時間がなかった。実際にどこかで映画の特集を組んで見ていくしかないのかも。

難しいだろうけど、なんで団地なのか、団地的なものがあの当時の日本の都市で形成されていったのか、の方に興味があって、それは展示というより研究になっちゃうのかしら。

記録をひらく 記憶をつむぐ @ 国立近代美術館

24日、日曜日の夕方、へろへろで竹橋に向かう。今回の訪日の失敗のひとつは、月曜日を3日間の真ん中にしてしまったことで、月曜日って殆どの美術館閉まっているからー。でもこれはなにがなんでも見ようと思っていた展示のひとつ。

アートは戦争に利用される、アートは戦争に反対することもできる、アートはそうやって戦争に関わってきた、という「記録をひらく」こと、そういうのを横目に(例えば)こんな悲惨な目にあった、という「記憶をつむぐ」こと、どちらもアートの用途で目的のどまんなかとしてあり、これらを俯瞰してなお、「アートに政治を持ちこむな」なんて言うのは、自分はとてつもなく鈍いおバカさんである、って宣言しているようなもんなので、いい加減目をさましな。これらぜんぶ企画展ではなく、まるごと常設展示しておくべきではないか。

リアルであること、の意味について改めて考える。最近だったらAIに頼めばいくらでも量産してくれそうなこれら戦争の絵画たちについて。

あと、常設コレクションの7室でやっていた『戦後の女性画家たち』の展示がとてもよかった。

ロンドンのNational Army Museumでも“Myth and Reality: Military Art in the Age of Queen Victoria”という結構規模の大きい展示をやっているので、そのうち行ってみたい。

生活の設計 - Design for Living (1933)

シネマヴェーラのルビッチ特集、せめて1本くらいはー、ということで25日、月曜日の午後に見ました。 これは後で書きます。

Sentiments Signes Passions, à propos du Livre d'image, J.L. Godard @ 王城ビル
『《感情、表徴、情念 ゴダールの『イメージの本』について》展』

この展示だけは月曜日にもやっていたのでルビッチの後に行った(共催?の春画展はあきらめ)。
これ、ゴダールの展示ではなく、ゴダールの『イメージの本』についての展示なのね。Webにはいろんな解説が溢れていたが、そういうのは見ないで入った。映画館でもギャラリーでもなく、やばい出しものをやっているそれ自体がやばそうな建物に入る。

建物の内部も段差だらけのぼろぼろで薄暗く、あちこち透けるカーテンのような布で仕切られていて、雑然と置かれたモニター上の映像の他にその布にも映像 - 『映画史』的な網羅感 - が投射されていて、それらの光を頼りに階段を上っていく。階段の踊り場や布の下にはいろんな本 - シオラン、ウルフ、リルケ、マラルメ、ベイコン、マッケ、などなどが置かれていて手に取って読んでもよいらしい。

前世紀であれば「テキストの織物」とか呼んだかもしれない引用、転用、に向かう手前の、目の前の雑多な「イメージ」を粗いままに端から置いて並べて、拾えるものは拾え、というリンゴ箱に置かれた「本」として、映画を構成するなにか、というより映画から紐解かれ解されたページの切れ端が並べられて、異なる時間間隔のなか反復されていく。

そこにあるのは妙に追いたてられるような切迫感 - 目に入るものは入れておけ、足元の本も拾って立ち読みでもいいから –で、映える廃墟ビルの光景と共にみんなカメラを回していて、これもまた「イメージの本」に追記され滞留していく何か、なのだろうか。恵比寿でのペドロ・コスタの展示 - ペドロ・コスタの展示こそ、この展示のあとにここでやればよかったのにー、とか。

気がつけば1時間経っていて、その時間の使われ方は古本屋でうずくまっている時のそれと同じで、ああそうか、なのだった。

↑の『団地と映画』展も、どこかの団地を使ってこれと同じ形でやれたらすごくおもしろくなったであろうに。


トランスフィジカル @ 東京都写真美術館


26日、火曜日の昼、人間ドックと次の診察の合間に。
『総合開館30周年記念』の展示(ここでの総合、ってなに?)。学芸員4名の共同によるオムニバス形式の企画展示で、「トランスフィジカル」。表象としての写真も映像も、すべてはふつうにトランスフィジカルなので、だよね? で止まってしまう気もしたが、気にしないで見る。 ここのコレクションにはおもしろいのもいっぱいあるし、何度でも見れるし。

Luigi Ghirri - Infinite Landscape  終わらない風景 @ 東京都写真美術館


これも『総合開館30周年記念』の企画展。彼もまた「トランスフィジカル」の写真家 – メタフィジカルにいく手前で辛うじて写真であることに留まった「距離」の人で、距離を棚上げ/宙づりすること –図形化することでそれは「終わらない風景」になる、と。
イタリアのなんでもない風景を撮った写真がよい。モランディのアトリエ、は昨年ボローニャで彼の美術館であれこれ見て、その奥行きと広がりにびっくりしたので、改めて恐々と見た。

難波田龍起 @ 東京オペラシティ アートギャラリー


26日の夕方、診断を終えた後に見る。
そんなに知っている画家ではないのだが、抽象画ってなに? というのに興味がわいて追いはじめたので。
「東洋的」、って、そういう形容が入った時点で既に抽象ではないのでは、と思いつつ、でもよく見ていると確かに東洋的な何かを感じないでもない。これってなんなのか。自分のなかのフィルターなのか、抽象化を施す過程になんかあるのかな、とか。


上記以外は、ほぼデパ地下とかスーパーでの向こう数カ月分のお買い物だったのだが、日本橋三越はよりによって英国展なんかやってるし、伊勢丹はカレーフェアだし。カレーなんてほんとどうでもいいし…

本はいろいろ買ったのだが、結局他の荷物 – ほぼ当面の食料 – との兼ね合いで置いていかざるを得ないのが増えて、それらがアナザー山として積まれていて、なかなか新鮮だったりする(いやそうじゃない)。

8.27.2025

[music] Michael Shannon & Jason Narducy

8月23日、金曜日の晩、The Garage、っていうライブハウスで見ました。 
ここで最後に見たライブは2018年のA Certain Ratioだったかも。

ハリウッド俳優Michael Shannonがバンドを組んでR.E.M.のLPをリリース順に全曲カバーしていくのをずっとやっている、というのは聞いていて、彼はついこの間まで、このライブハウスから歩いて10分くらいのところにあるシアターでEugene O'Neillの”A Moon for the Misbegotten”に出演していたので、そのついでになのか、と思っていたら、これがこのバンドで初のUS外でのライブ(UKツアー)だという。バンドメンバーはギターのJason Narducyの他にはベースがTed Leo、ドラムスがJon Wurster (ex. Superchunk)、もう1人ギターがDag Juhlin (ex. Poi Dog Pondering) という半端に(自分にとっては)豪華な編成。Michael Shannonの担当はヴォーカルで、R.E.MのLPとしては3枚目の”Fables of the Reconstruction” (1985)を全曲やる、という2 DaysのDay 1。Sold Outしたそう。

わたしはR.E.M.の”Murmur”(1983) を国内盤発売初日に買って(なぜか輸入盤が見当たらなかった)、このバンドの最高作は3枚目と4枚目であり、”Document” (1987) 以降のはあまり評価しない、という哀れな者である。1985年の初め、”Meat is Murder”というロールもドライブもしないエレクトリック・ギターの金網のアンサンブルにヴォーカルを乗せる、というスタイルを持つ極めて強力な英国からの1枚でその年は終わると思われたその7月、ジョージア州アセンズのバンドがプロデューサーにJoe Boydを起用してその年のトーンを決定づける1枚を上被せでリリースする。それがこの”Fables of the Reconstruction”で、バンドとしてもそれまでのMitch Easterプロデュースによるカレッジチャート狙いの青臭いものからreconstructする1枚となった - そういう重要作であるので、行かない理由なんてない。土曜日帰国の野暮用がなかったら2日とも行っていたかも。

前座なしで20:30頃に出てきたMichael Shannon(バンド)はコートを羽織って帽子にサングラスで、直立不動で1曲目の”Feeling Gravitys Pull”から歌いだす。彼の声の肌理がMichael Stipeのそれと結構似ているせいもあってか、アクのようなところも含めてとても強く響く。バンドのアンサンブルも見事で、特にJon WursterのドラムスはBill Berry特有のクセを的確に押さえていてすばらしい。

4曲目くらいからコートも帽子も脱いでTシャツになり、そこからのMichael Shannonのテンションは痙攣するパンクシンガーのそれで、俳優である彼にとってはMichael Stipeがあのようなスタイルで歌に乗せた言葉を自分のものとして吐き出す、というエクササイズでもあるのか、(Michael Stipeが彼らを評して言ったように)これは単なるカヴァーバンドではないし、某キアヌとか某ジョニーが金持ちの道楽でやっているそれとも違うと思った。

いまLuke Hainesと組んでツアーをしているPeter Buckも、Big StarのカバーバンドでツアーをしているMike Millesも、こっちに来てこっちのMichaelを支えるべきではないのか、くらいのことを思ってしまったり。

”Fables of the Reconstruction”を順番通りに全曲演奏した後、Velvetsの”Femme Fatale”をやって、一旦引っ込んでから、第二部と言ってよいR.E.M.のベストヒッツ - というのとも違うか - R.E.M. 全キャリアのなかから彼らの演りたいR.E.M.を演奏していく。R.E.M.以外では、Wireの”Strange”(R.E.M.の来日公演でもやってくれてとても嬉しかった曲)やPylonの”Crazy” - プロデュースはChris Stamey - もあってまあなんというか。それにしても、Michael Shannonの歌う”Strange”のはまり具合ときたらなんなのか。

彼らの次のツアーは4枚目の”Lifes Rich Pageant” (1986)になるので、”Preview”として”Cuyahoga”をやった。なんであの曲であんなに盛りあがってしまうのか謎なくらいの盛りあがり。次のツアーでも英国には来てね(来るって言ったよね)。

ラストはこれしかないだろう、という勢いで疾走する”Pretty Persuasion”で、ほぼ2時間たっぷり。ここまでくると、あんたこの先映画俳優やっていても変人怪人類の役しかこないんだから、このバンドと舞台でずっとやっていけば? って思うのだった。

[theatre] The Merry Wives of Windsor

8月18日、月曜日の晩、Shakespeare’s Globeで見ました。

↓の『十二夜』と並行して上演していて(どういうオーダーになっているのかは不明)、セットの一部とか共有しているのかと思ったら全然別物だった。切り替え、大変じゃないのかしら?

これのポスターやプログラムには頭にキツネの被り物をした女房ふたりがすらっと立っていてなかなかかっこよいのだが、彼女たちがその格好で出てくることはなかった。やや残念。

原作はシェイクスピアの1957年の戯曲。『ウィンザーの陽気な女房たち』 。初期のタイトルは”Sir John Falstaff and the Merry Wives of Windsor”で、中世が舞台となる『ヘンリー四世』の登場人物だったでぶ騎士のFalstaffをマルチヴァースで(執筆当時の)現代に転生させている。

演出はSean Holmes。舞台セットは落ちついた淡いグリーンに葉っぱ模様の壁紙が貼られたごく普通の内装インテリアっぽい。客席側に乗りだしたり張りだしたりはそんなになくて、見方によってはホームコメディのようでもあるから?

ここウィンザーに騎士Falstaff (George Fouracres)が意気揚々とやってきて、女でも引っかけてやれ、ってMistress Ford (Katherine Pearce)とMistress Page (Emma Pallant)に名前のところだけ変えた同じ内容の誘惑の手紙を同時に送って、仲のよい彼女たちは同じような恋文を同一人物から受け取ったことを知ると、あまりに失礼なこの野郎を懲らしめてやることにして、夫のいない時間に家に来るように誘う。騙し討ちのセッティングは完璧のように思われたものの、ここにこの裏事情を知らずに妻の浮気と勘違いしてしまう夫のFordや、Pageの娘のAnneの縁談 - 3人の候補がいて簡単にはいかない - が絡んで、全体はどたばたせわしないコメディで、ぼこぼこにされていくFalstaffをはじめ、ウェールズ訛りのひどい牧師Sir Hugh Evansとか、彼らの周りの召使いたちを含めた男たちの滑稽さ浅はかさが前面にでて、「陽気な」女房たちの強さがあまり映えなかったのはあれでよいのか。

ウェールズやフランスの訛り、あるいは「女性」全般、所謂よそもの、に向けたヘイトまでは行かない、おちょくりとか嘲りが底を流れていって止まらなくて、その無邪気さや意地の悪さはやはりちょっと昔の時代のかんじがあって、結果的にそれらをぜんぶひっ被ることになるFalstaffは、1回目は洗濯籠に他の洗濯物と一緒に詰めものにされて棄てられ、2回目は狩りの標的にされて散々なのだが、わーわー笑えてとりあえず(こっちが)幸せになれるならー、くらいでよいのか。

いちおうお話しとしてはめでたしめでたし、にはなるものの、Page夫人はちょっとFalstaffに未練があるようだったし、あくまでお芝居なんだから、で締めている感はあって、このごちゃごちゃ、じたばた収まりのつかないかんじは映画でやった方が向いている気もした。思い浮かべたのは”The Witches of Eastwick” (1987) - 『イーストウィックの魔女たち』 とか。

あと、ウィンザーというと、今は王様たちが居住していて水辺に白鳥がいっぱいいるところ、というイメージくらいしかないのだが、当時の町としてはどんなふうで、その地勢のようなものも影響したりしていたのだろうか、とか。

[theatre] Twelfth Night or What You Will

8月16日、土曜日の晩、Shakespeare’s Globeで見ました。

この週のあたりは雨が来そうになかったのと、20時過ぎて日が落ちると寒く感じるようになってきたので、野外の劇は早めに行っておかないと、と思って割と直前に取って行った。 

今回はMiddle Gallery(2階。3階まである)の一番前の席を取ってみる。背もたれはないが、前の手すりにもたれかかることができるので割と楽、だけどずっと同じ前傾の姿勢だとだるくなってくる – それぞれに難しい。

原作はシェイクスピアの『十二夜』 (1601-02)。 演出はRobin Belfield、舞台の正面奥にはでっかい太陽さんがブロンズの光を出している。大らかで明るい南国のイメージ。 舞台はバルカン半島の西、アドリア海の東の古代のイリリアで、でも主人公兄妹の衣装は緑/黄色のカリビアン風で、少なくとも英国やヨーロッパの暗く重いイメージからはちょっと遠い。

船が難破して双子の兄と離れ離れになってしまったViola (Ronkẹ Adékọluẹ́jọ́)は男性名のCesarioを名乗ってイリリアの公爵Orsino (Solomon Israel)のところに仕えて、Orsinoは兄の喪に服しているので、と言い訳して相手にしてくれない伯爵の娘Olivia (Laura Hanna)と結婚したいのでなんとかしろ、ってCesarioに命ずるのだが、Oliviaが恋におちてしまったのは男としてのCesarioの方で、でもViola/Cesarioが恋をしたのはOrsinoの方だったので、うー、ってなって、他にもOliviaに求婚する連中は後を絶たず、執事のMalvolio (Pearce Quigley)や道化のFeste (Jos Vantyler)も巻きこんで、ちょっとした騒ぎになっていく。

そして、船長のAntonio (Max Keeble)に助けられたSebastian (Kwami Odoom)は彼とふたりでイリリアにやってきていて、ふたりは恋仲になっているのだが、過去OrsinoとなんかあったらしいAntonioは身を隠し、そのうちSebastianにばったりしたOliviaは、Cesarioがつれないので瓜二つのSebastianに惚れちゃって、この他にもいろんなことの収拾がつかなくなってきたころで、CesarioがわたしはViolaだ! って宣言すると、こんがらかった糸が解けて兄と妹は再会し、OrsinoとViola、OliviaとSebastianは一緒になってめでたしめでたし、となる。

性のなりすましに(どうにかなるさ、っていう)意図的な策謀など、いろんな取り違えや見通し、思いこみも含めて、恋ってどうすることもできないし、つらくてしんどいのに、なんでみんなこんなことに首を突っ込んでしまうのか、というのと、種明かしひとつでこんなに楽になるのに、なんでこんなぐしゃぐしゃにしちゃうのか、って誰に文句言ったらよいのかわからないことが雲のように積もってなんなんだろ? っていうコメディ。コメディだけど、タイミングがちょっと違ったりずれていたりしたら簡単に悲劇のほうに落ちてもおかしくない、やってらんない切なさと際どさ – “What You Will” のなかにこのドラマはあって、いろんな「よくもまあ..」が湧いてくる。

ただ、こういったことが浮かんでくるのは見てしばらく経ってからで、舞台そのものはひたすらじたばた落ち着かずに絶えず2~3人が入れ替わり立ち替わり - 今回は客のいるピットとか島はあまり使わず – が激しく、そんななかでの惚れたはったも、ちょっと軽すぎないかー? って思ってしまうのだった。

今回幸せになれなかった人たち、黄色の縞タイツにテディベアを抱えた状態でみんなからぼこぼこにされる執事のMalvolioなんて、(おもしろいけど)すごいトラウマになっちゃうだろうに、かわいそうにー、なのだがこれもまた”What You Will”ということでよいのか。

8.23.2025

[film] The Life of Chuck (2024)

8月17日、日曜日の昼、Curzon Victoriaで見ました。

脚本、監督はMike Flanagan、原作はStephen Kingの2020年に出た短編集に収められていた作品。
昨年のトロント国際映画祭でPeople's Choice Awardを受賞していて、予告では”Stand by Me” (1986)や”The Shawshank Redemption” (1994)に並ぶ感動! って熱く煽ってきて、そういう(どういう?)「感動」がなんか嫌でこれらの感動作をずっと見てきていないのでどうしようかな、だったのだが、Tom Hiddlestonを見にいく、ということにしてー。

三幕構成で、Act 3の"Thanks, Chuck"から時間を遡っていく形式。
全体のナレーションをNick Offermanが極めて落ち着いた、プレーンな声でやっている。

中学校の教師のMarty (Chiwetel Ejiofor) - Bridget Jonesが出てくるかと思った - がWalt Whitmanについての授業をしていると救急車が走っていって、生徒たちのスマホが次々に繋がらなくなり、なにやら惨事が起こっているようで、外に出ると人々は途方に暮れていて、そんななか、”Charles Krantz: 39 Great Years! Thanks, Chuck!"っていう謎の看板を目にするようになっていく。 Martyの元妻のFelicia (Karen Gillan)と再会して、この事態はなんなんだ?になっていると、Chuckの看板以外には交通手段も人々もいなくなり、もうどう見てもこの世界は終わりそう、というのが見えてくる。

並行して、死の床にあるCharles “Chuck” Krantz (Tom Hiddleston)で彼を看取っている妻と息子の姿が描かれて、Martyが経験している世界の終わりはChuckの死に伴う彼の内なる宇宙の消滅に伴ったものなのだ、ということが(我々に)わかる。

Act 2の"Buskers Forever"は、銀行員ぽくスーツを着て鞄をもって歩いているChuckがマーケットの道端でひとりドラムスを叩いている女の子の前で立ち止まり、なにかに突かれたようにそのビートにあわせて踊りだし、そこに彼に振られてうんざりしていた女性が加わって、ふたりは見事なステップを披露して、三人は片づけをして別れる。それだけなのだが、この映画は残念ながらほぼここだけかも。でもここだけでも見に行ってよいかも。

Act 3の"I Contain Multitudes"の主人公は、幼い頃に父と母を交通事故で亡くして祖父母の家に引き取られた7歳のChuck (Cody Flanagan)で、祖母のSarah(Mia Sara)にダンスを教わり、酒に溺れている祖父のAlbie (Mark Hamill)からは家の上のキューポラには絶対に立ち入るな、と言われ、学校の先生からはWhitmanを通してマルチチュードについて学ぶ(タイトルは「草の葉」にある一節で、Bob Dylanも曲のタイトルにしている)。

やがて祖母が亡くなると祖父のアル中がひどくなり、彼はChuckに会計士になることを勧める(数学がすべてだ)のだが、Chuckはダンスが好きで、ダンスサークルを通してCat (Trinity Bliss)と知り合い、イベントのダンス大会で喝采を浴びる。Chuckが11歳になってAlbieが亡くなり、全財産を相続した彼は、禁じられたキューポラに入ることができて、彼がそこで見たものは…

こんなかんじなのだが、まずは”The Life of Chuck”の”The Life”がどんなものだったのかが、幼年期と晩年を除くと十分に描かれていない(Kingの他の短編にあるらしい)ので、汲みとれるものがなさすぎるし、いや、マルチチュードを内包した生のありようを示しているのだ、それを知るのだ、なのかもしれないが、そんなのそうですか/そうですね、で終わっちゃうし。こんなふうに断片やモーメントを切り取ってその集積から「感動」を導けるのって、インスタとかTikTokのあれなのだろうか、ひょっとして自分に見えていない霊のようなものがいたりあったりするのだろうか、とか。

最後にChuckは自分がAIを搭載したロボットだったことを知る.. だったらもう少しおもしろくなったかも。

他方で、先に書いたTom Hiddlestonのダンスだけはよくて、“Much Ado About Nothing”でも存分に踊っていたが、祖母が手本にしていた(家のTVに映る)Gine Kellyくらいを狙えるかもしれない。踊ることの、その内部で肉の震える感覚を伝えることのできるダンスの使い手はそんなにいない。この人の身体はそれを実現できている気がする。あとちょっとだけ、カメラがきちんと動いてくれたらなあ…

しかし、老いて蹲っているMark Hamillを見てもすぐ”Last Jedi”にしちゃうのはよくないな。(自分が)


明日、土曜日の朝にここを発って、日曜日の朝に羽田に着いて3日間東京にいて、水曜日の朝に戻ります。手術後のチェックと人間ドックがメインなので、ご挨拶もしないまま毎度の不義理をお許しください。 だって暑いの嫌なんだもの。

8.22.2025

[theatre] The Estate

8月16日、土曜日のマチネを、National TheatreのDorfman theatreで見ました。

原作はShaan Sahotaのデビュー戯曲で、2020年のWomen’s Prize in Playwritingにショートリストされたもの。演出はDaniel Raggett。

政治家Angad (Adeel Akhtar)のオフィスから始まる。彼はHarrowとOxfordを出てシーク教系の政治家としてのしあがって、スキャンダルで辞任した野党党首の次を狙えるところまできた。はっきりと表に出さずに控えめだが、この選挙でのチャンスを逃さないようにしよう、とスタッフと一緒に燃え始めたところ。 彼の父親も荷役から身を起こした叩きあげで、スラム街の(闇)不動産王と呼ばれるまでになっていたが、選挙戦を目の前にしたところで突然亡くなった – という通知がAngadのところに届く。

舞台セットは、2人のスタッフ – 広報担当の白人女性と黒人男性 – のいる殺風景な彼の事務所と、そこから奥に広がって、彼の家のゆったりしたリビングを交互に切り替えていく構造。

葬儀で父の死を悲しむのも束の間、亡父の遺産がAngadの二人の妹 - Malicka (Shelley Conn)とGyan (Thusitha Jayasundera)には遺されていないことが明らかになり、父の面倒をずっと見てきた二人はおかしいだろう、生前には平等に分けると言っていたはず、とAngadに詰め寄って、この辺りから彼の様子がおかしくなっていく。

選挙戦は安心できるものではなくて方々を駆けずり回らねばならず、妻 (Dinita Gohil)は身重(後半では生まれている)で、家に戻ってくると妹ふたりが強く抗議してくる。妹たちに対する彼の返事は苛立ちと疲弊と機嫌のなかで二転三転し、まともに相手にされない事態に業を煮やしたふたりは、選挙戦が大詰めを迎えたところで新聞社にこの件を持ちこみ、党大会でのスピーチ直前にこれをでっかく晒されたAngadは…

まずなんといってもAngad - Adeel Akhtarがすごい。カリスマ性がある風貌ではなく、普段はどちらかというとしょぼくれてどんよりしていて、でも政治的な局面のコミュニケーション能力とか手腕はしっかりしているぽくて、そうやってのし上がってきた表の顔が、家族内の紛糾になった途端に鬼の顔となって癇癪を爆発させて手がつけられなくなる。仕事とかでそういう顔に豹変する人が昔は結構いたものだが、これを舞台上でとてつもない迫力で見せられるとちょっとびっくりした。 その爆発のなかで明かされる父からAngadに延々続けられた虐待のことも。でも(長男であるが故に)どれだけ辛い思いをさせられたからと言って、自分がぜんぶ貰ってよいのだ、という話にはならないよね。

こういうことがここまでポジションが上のほうに行った政治家で現実に起こって表沙汰になるケースはそんなにない気がして、他方で世襲や相続における長男への盲目的(まあいいじゃないか)な優遇や文化と歴史の底をえんえん流れてきた女性蔑視 - 日本にもぜったいある –を考えるにはとてもよい材料だと思って。こういうことに立ち向かうのも政治家の役割のはず、なのだが。 ここに移民として苦労してきた家族の歴史を絡めたいのはわかるけど。(苦労話を絡めてごまかそうとする傾向、についてもわかるけど)

でもあの決着はあんなものでよいのか、多分に政治的な風刺として、だと思うものの、実際にありそうすぎて(日本ではあるよね)、黙ってしまうしかなくて、うーむ、ってなる。

建付けがややぎくしゃくしていて、非現実的なところも結構ある(英国人から見たらそうでもないのかしら?)ものの、全体としては怒髪天のAdeel Akhtarが持っていってしまって、見応えはある、そんなかんじ。

8.20.2025

[film] Materialists (2025)

8月16日、土曜日の午前、シネコンのVue West Endで見ました。

“Past Lives” (2023)のCeline Songの作・監督によるrom-com。とてもJane Austen的な普遍性をもったテーマを扱っていて、どれくらい普遍的かというと、冒頭から原始人(あんただれ?)が出てきて、お花を運んできた彼はちゃんと石器も一揃い持っていてえらいねえ.. というくらい。

舞台は現代のマンハッタンで、冒頭にCat Powerの”Manhattan”が流れたりするのだが、あまりNYぽい描写はないかも。

Lucy Mason(Dakota Johnson)はAdoreというハイクラス向けのマッチング会社の社員で、そこに所属するマッチメーカーのなかでも成功していて、冒頭にも9番目のケースを成功させて皆に祝福されて、実際に彼女がクライアントと話しながら条件を絞り込んで説得して(納得させて)いくところとか、結婚式直前に不安のあまり閉じこもってしまった花嫁を説き伏せるところとか、すごい技術だと思う。

Lucyによれば、結婚とはビジネス・ディールであってブレークもリスクもある、王子様なんていないし作れないし、そこに思いこみや過剰な期待を込めるのは危険である、とさばさばしていて、貧しい家庭で育ち女優としてのキャリアもうまくいかなかった彼女自身はずっと独身でいくことを決めていた。 のだが先の結婚式でヘッジファンドをやっている資産家、見るからに大金持ちのHarry Castillo (Pedro Pascal)に声を掛けられる。彼はそこに集まっていた女性たちに向けてマッチメイクの勧誘をしているLucyに惹かれて、彼女は彼を自分のクライアントにしようとするのだが、彼はLucyがいい、って指名してものすごく高級そうなレストランでデートを重ねていく。

そしてHarryがLucyに声をかけたその会場でウェイターをしていたのがex.彼のJohn Finch (Chris Evans)で、彼はバイトをしながら小劇場で役者をしつつ、彼と同様に薄汚れた友人たちとシェアしているアパートで汲々と暮らしていて、久々に再会したLucyとJohnは彼が彼女を車で送ったりするなか、昔のことも含めていろいろ話して、当然現在のふたりの格差やこれからについても確認しあい、互いにちょっと複雑になったりする。

その後もJohnの芝居をLucyとHarryが揃って見にきたり、3人が顔を合わせる場もある反対側で、LucyはHarryのトライベッカのペントハウスにずっと泊まるようになって、当然のようにHarryは指輪を用意してきてー。

最終的にはLucyの選択になって、その結論に至るまでには、Lucyのクライアントで、彼女が紹介した性の悪い男に粘着されて大変な目にあうのを助けたりがあったりして、結着そのものは”Past Lives”のラストと同様に極めてスムーズで異論はないものの、rom-comに不可欠な最終局面における破綻とか大喧嘩とかぜんぶおじゃん、がない、弱い。対象となる男ふたりのとてつもないギャップからすれば、そのどちらを選んでもカタストロフィックな展開になってもおかしくないと思うし、Madame WebがCaptain AmericaとMister Fantasticのどっちを選ぶのか、なんて地球の未来に関わることだと思うのに、ものすごく穏やかにかつスマートに決まってしまう。

この3人だし、全員が知的に、穏やかにコトを進めようとする人格者(という設定)なので、これはこれで十分わかる。しょうがない。 だけど、やっぱりHugh GrantとColin Firthがぼこぼこに殴りあったようなのをChris EvansとPedro Pascalにはやってほしかったし、見たかったし。

まあ”Materialists”というキャラクター設定そのものが夢とファンタジーを糧に爆発する(特に前世紀の)rom-comから程遠いもの、なのかもしれないが、それゆえの自爆、誤爆があったらもっと楽しくなったのになー。とか思いつつ、例えばSATCのCarrie Bradshawはmaterialistなのか? たぶんど真ん中だと思うがあのおもしろさはなんなのか? とかいろいろ考えて止まらない。

あと、LucyとJohnのやりとりから窺えるふたりのギャップって、やはりQueens vs. Brooklynのそれとしか言いようがないのだった。

音楽はCat Powerの他にSt. Vincentとか、Johnny Thundersとか、最後にJapanese Breakfastが聞こえてきて、とても趣味がよくて、よかった。

[film] Sense and Sensibility (1995)

8月9日、土曜日の午後、CurzonのMayfairで見ました。

リリース30周年を記念したリバイバルがものすごく小規模に行われていたのと、このクラシックなシアターももうじきなくなってしまうので、見にいく。

原作はJane Austen(最初著者名は”By A Lady”とされていた)の最初の小説(1811)、監督はAng Lee、脚本を主演のEmma Thompsonが書いて、この脚色でオスカーを受賞している(脚本、ほんとにすばらしい)。 
邦題は『いつか晴れた日に』 … (改めて)「はあ?」ってかんじ。

そういえば、同じくリリース30周年で少しだけリバイバル公開されていた”Clueless” (1995)もJane Ausenの”Emma” (1816)へのオマージュで、それを言いだすとColin Firthが出ていたTV版”Pride and Prejudice”も95年。 なんだったんだ1995年。 そしてJaneの生誕250周年の今年は、Elinor役に”Normal People” (2020)のDaisy Edgar-Jonesを据えたリメイクが進行中である、と。

そういえば、こないだ見たフランスのrom-com “Jane Austen Wrecked My Life” (2024)では、パリの書店Shakespeare and Companyで働く主人公が初めてJane Austenを読むという客にこれを勧めていた。同じ職場の男性に対しては、あんたなら”Mansfield Park”(1814)かなあ(たしか)、とか。

本編上映前に、今回のre-releaseを記念してEmma Thompsonからの挨拶ビデオがあって、みんな若かった、”Titanic”前のKate Winslet、”Paddington 2”前のHugh Grantがいる… とか語ってくれて、それだけでなんかお得したかんじになる。(最後に顔を見せるのは..)

父が亡くなり、遺言により邸宅から追い出されて田舎のコテージ - でも十分豪華に見える - に引っこむことになった母(Gemma Jones)と娘3人 – Elinor (Emma Thompson), Marianne(Kate Winslet), Margaret (Emilie François)がいて、彼らに寄ってくる人々のなかにはよい人もいれば、意地悪な人もいる。彼らがどんなふうに意地悪だったり、どんなふうに素敵だったりするのか、を姉妹それぞれの視点 – まさに“Sense and Sensibility” - 『分別と多感』のなかでヴィヴィッドに描いて、これと同様のことが次の”Pride and Prejudice” (1813) - 『高慢と偏見』のなかでは突き刺さってくる他者の眼差しも加えたより深化・錯綜した形で綴られて、これらは(自分の身に降りかかってこない限りにおいて)最高におもしろいスリル満点の読み物となる。

こうしてElinorは姉妹たちを追いだした強欲陰険なFanny (Harriet Walter)の弟のEdward Ferrars (Hugh Grant)と出会い、Marianneは最初にColonel Brandon (Alan Rickman)と出会い、それからちょっと洒落てて奔放なWilloughby (Greg Wise)とぶつかってめろめろになって、こいつにふられて病で死にそうになったところをBrandonに慰められて救われる。

理想の男たちは最初から王子様として現れるわけではない。Edwardはおどおどして目を合わせようとせず、明らかに挙動がおかしいし、Brandonはむっつり怖そうで、ふたり共なにを考えているのか簡単にはわからない。Willoughbyだけはわかりやすく爽やかに寄ってきて気持ちよいところを撫でてくれる。だがそのわかりやすさはわかりやすく裏の顔と事情を晒してこちらをあっさり叩き落としてくれる。

ここには明らかにJane Austen特有(というかここから広がっていった世界も含め)の、男女(だけでなくなんでもそうだが)関係はそんな単純に決まったり決められたりするものではなく、こっちから出ていってなんぼのもん、にどうにか、ようやく、なる(ものはなるんだからやっちゃえ)、ということを性差とか境遇とか関係ない普遍的な駆け引きのなかに図示して子供にも大人にもためになるったらないの。

とにかくMarianne - Kate Winsletがすばらしい演技を見せて、あれだけ酷い目にあったってどうにかなるのだ、というのとしっかりさんに見えるElinor - Emma Thompsonだってわかりやすい勘違いをして、そんなでもどうにかなるのだし、そのSenseとSensibility勝負の世界に、べつになーんの、だれの保証も慰めもない、けど飛びこんでみればよいのだ、って。 この辺の押しつけがましくなく軽く背中を押してくれるのってよいなー、しかない。

8.18.2025

[music] The Melvins

8月12日、火曜日の晩、CamdenのElectric Ballroomで見ました。
前座はRed Crossだったのだが、BFIで映画を見ていて、小屋に到着したら丁度終わったところだった。

彼らのライブを最後に見たのって、2017年のBrixtonのやつ、その前になると2015年の新木場? そんなバカな、って辿っているのだが、そんなもんか..(10年前.. ?)

ステージ上にはドラムスが2台あって、メンバーはBuzz Osborne、Dale Crover、Steven Shane McDonald、Coady Willisの4名、この布陣は最強 - 比べるのが適切かどうかしらんが、今のNINと同じくらいの最強具合だと思う。

9時ちょうどにステージの袖からBuzzのギターによる”The Star-Spangled Banner”が鳴り響き、そのまま新譜の”Working the Ditch”から始まって約1時間10分、最後のDaleによるありがとう、のメンバー紹介のところを除いて、ノンストップで、ひたすらぶちかましてアンコールもなしで終わる。ギターがぐぁあああーんて唸りをあげるなか、ドラムス2台が畳みかけるように襲ってきて、ベースがそれをずたずたに刻んで、ギターは地平線と天空をどこまでも広げ、最後はギターが充満させた轟音のなかにすべてが消しこまれる.. そんなかんじのを延々やっていって、でもまったく飽きることがない。

最初は一番前の端っこで見ていて、全体も見たいかも、って少し後ろに寄ったら久々にモッシュの嵐に巻きこまれて、ちょっとだけ死ぬかもと思ったが、”Honey Bucket“から最後の”Night Goat”までの破壊力というかトドメを刺すかんじときたら、これ聴いたら死んでもいいかも/いや既に死んでる、のやつだった。久々に。

Daleの地面を蹴って穴を開ける、その強さと、そこに被さるCoadyの鞭のようにしなる飛び道具の鋭さ、このふたりのドラムスがあれば後はなんもいらない(いや、いるけど)。いまのKing Crimsonの3人のなんて、あんなのDisciplineでもなんでもないわ。

物販、ポスターがすごく素敵でほしかったのだが、いまどきCash Onlyだった。ポケットには£10一枚しかなくて…


Gibby Haynes

8月15日、金曜日の晩、Ishlington Assembly Hallで見ました。
一週間の間にMelvinsとGibby Haynesの両方を見れるなんて... お盆だから?

Gibby Haynesを、というかButthole Surfersを最後に見たのは2010年の大みそか、BrooklynのMusic Hall of Williamsburg(…もうない)でのカウントダウン・ライブだった。あの時は大みそかの祝祭感なんて微塵もない不穏で禍々しい音の渦に巻かれた。どんづまりの仕事 – なので暮れも帰国できず長期滞在していた最中だったので、その毒がものすごく沁みて脳の芯から痺れたことを思いだす。

席はホールの2階の椅子があるところを取っていたのだが、少し前に2階は使えなくなったので、1階に椅子エリアを用意するのでそちらへ、という案内がきた。会場に行ってみるとステージ前のフロア右手に囲いがあって、そこの椅子に(ほぼ老人たちは)誘導・隔離される。

前座は西海岸の女性アーティストEvicshenで、機材が載ったテーブルに跨ってターンテーブル(含む手持ちの)に繋がったいろんなケーブルや端子を口にくわえたり噛んだりびゅんびゅんしたりして、その接触でばちばちびりびり音を出したり変えたりしながら、客席まで下りてきて楽しい。けど感電してお亡くなりになりませんように、ってはらはらしながら見ていた。

これが終わったところでGibby Haynesが出てきて、今晩使おうとしていた機材に問題がでたのか届かなかったのか(ちゃんと聞いてなかった)、とにかく今晩やろうとしていた曲の殆どが演奏できない状態になった。メインの機材がない状態で演奏できるのは5曲くらいで、そこで相談だが、そんなの嫌なので帰る、っていう人には返金するか、5曲でもよいならここにそのまま残るか、どっちがいい? と。挙手の結果、返金を求めたのは5人くらいだったので、そのままやることに決定する。

次に出てきたのはGibbyのライブ本編でもバックを務める予定のThunes Institute for Musical Excellenceっていう子供たち(中学~高校生くらい?)のバンド、というかバンド的な組織。Thunesというのはベース奏者のScott Thunesのことで、80年代のZappaのバンドを支えた、変態が多い(なぜだろう?)ベーシストのなかでも極めつけ元祖変態のひとで、こんなのがいたいけな子供たちを集めて(or 親をだまして)School of Rockのようなことをやっている。

それぞれにメイクしたり衣装も考えたりの子供たちが演奏するのはRockやハードコアのスタンダードで、曲ごとに楽器を抱えたメンバーがぞろぞろ入れ替わっていくので見てて飽きないし、演奏はそれなりにちゃんとしていて、パブで聴いたりするアマチュアのよりはましかも、だけど、あんな子供に”Rapture”(Blondieの)とか歌わせてよいのか、にはなる。人の曲をやるのもいいけど、まず自分の言葉を見つけたまえ、って少しおもうのだが、もうそんなのどうでもいいや。

Gibbyの機材の件があったせいか子供たちバンドの時間は長め(レパートリーはいくらでもあるようだった)、子供たちバンドと一緒のGibbyは、譜面台をめくって歌詞を見ながら演奏を始めるのだが、Jack Black(そういえばMelvinsのライブでステージ脇に立っていた)が率いるSchool of Rockよりも見た目も含めて数百倍やばそう、しかもこっちはフィクションじゃなくて実際にヨーロッパをツアーしてるし。

おもしろいのは、前座でRockのスタンダードを演奏していた時よりも演奏がガタガタしたジャンクのそれになっていったことだろうか。これはヴォーカルのお爺さんの仕様と挙動が招いたものなのか、そもそもの曲がそういうものなのか。たぶん両方あって、もちろんButthole Surfersの腐臭とか死臭とかは漂ってこないものの、実験としてはおもしろくて、改めてジャンクとは、ガレージとは、を考えさせてくれるような音になっていた気がする。

結局5曲どころか10曲くらいやってくれて、”Sweet Loaf”や”Graveyard”を聴けたからよかったことにする。

[film] Marlee Matlin: Not Alone Anymore (2025)

8月6日、水曜日の晩、BFI Southbankで見ました。

上映後のディスカッションが付いたプレビューの回で、会場に来た殆どの人たちは殆ど手話で会話している。映画もフルで音声キャプションが付いてて、配給のDogwoofのロゴでわんわんの声が入るところも <woof woof> ってちゃんと。

監督はShoshannah Stern、”Children of a Lesser God” (1987)で聾者として初めてオスカーを受賞した 女優Marlee Matlinの足跡を追ったドキュメンタリー。彼女がすばらしいことは勿論なのだが、そこにクローズアップする評伝、というよりハリウッドの中で聾者としてあるとはどういうことだったのか、について考えさせる内容のものだった。

それまで健常者が聾者を演じるのが普通だった時代があり、そこでの演技は健常者がもつ聾者としての役割なりイメージなりに沿ったもの - そこには健常者の都合以上の何の正当性もない - である必要があり、彼女が演じる場合にもそれをふつうに要求されてしまう。例えば声を出すことはできるのにそれをすると変な顔をされたり、健常者にとってこう振るまってほしい、という聾者のありように合わせるように強制される。そのイメージの焼き付けや刷り込みは(最近は減ってきたとは言え)大衆アートにおける「女性」とか、キャラクターの属性一般対するそれと似ていて、無意識無反省にそういうものかー、になってしまうもので、そしてその状態から導きだされる「感動」とやらもまたー。

そういうのに抗う、というのは簡単な道ではなくて、子供の頃からの虐待はずっと、成人してからも(William Hurtからの等が)続いていたり、ドラッグ漬けになったり、ここでは”CODA” (2021)で2人目の聾者のオスカー受賞者が生まれるまで、が描かれるが本当にいろいろ切り開いてきたのだな、というのが具体的によくわかる内容のものだった。

個人的には、アメリカのケーブルTVでの字幕(Closed Caption)の必須化を実現したのは彼女、と聞いてああー、って。あれがなかったらアメリカで暮らし始めた当初、死んでたかもなので改めて感謝を。


Elio (2025)

8月9日、土曜日の昼、BFI Southbankで見ました。
ライブで朝帰りした直後で、ちょっとくらくらしていたけど眠くはならなかった。
邦題は『星つなぎのエリオ』。星つなぎってなに?

Disney/Pixarの新作アニメーションで、監督が途中で替わった - おそらくテーマや方向性が社のそれと合わなくなったいのでクビになった、という話は聞いた。

“Inside Out”のシリーズと同様、迷って行き場を失って孤立した子供(弱者)が主人公となる冒険もので、いっつも思うのだが、会社としてのDisneyは今の子供たちの置かれた状況や事情のどこが、どうして「問題」だと思って(分析して)いて - もちろん「問題」とは言わないだろうが - それのどこをどうピックアップして、どういう方向に持っていこうとしているのか、それはどういった理由 - 家族像・家族観 - から来るものなのか? そっちの方がよっぽど知りたい(愛とか抽象的な言葉を使わずに説明せよ)(もう誰かが研究でやっていそう) 。

というのが底にあるのであまり楽しく見ることはない(子供がいたら違ってくるのかしら?)のだが、今回のElioは両親を失い、唯一引き取って貰えた叔母からも相手にされず、友達からも虐められるばかりのElioが無線を通して宇宙人と知り合い、宇宙に出てはじめて(多少ウソをついたけど)受け容れられて友達もできて、地球の方は面倒だからクローンでも送っとけ、っていうお話しで、うんうん、って頷いて見てしまった。うらやましい。

Elioの親友になるGlordonのやろうがかわいくて、ぬいぐるみがほしくなる。 探せばどこかに売っているのだろうが、見たら買っちゃうかもしれないので、見ないし探さないし、にしている。

8.16.2025

[theatre] BURLESQUE: The Musical

8月11日、月曜日の晩、Savoy theatreで見ました。
看板には大文字の”BURLESQUE”の下に”A BIG NEW MUSICAL”とある(”BIG”のとこがピンク)。

2010年に公開されたアメリカ映画 “Burlesque” - Christina Aguileraが映画デビューを飾り、Cher, Kristen Bell, Alan Cumming, Stanley Tucci, 等が脇を固めた今思えばなかなか豪華なキャスト – をミュージカルとしてリメイク(映画で使われた楽曲の他にSiaのとか新しいのも加えられたり)したもので、映画版の監督だったSteve Antinが制作を、Christina Aguileraは楽曲提供だけでなくExecutive Producerも勤めている。 初演は昨年のマンチェスターで、英国をツアーしてWest Endまで来た、と。

プログラムの冒頭には、ヴィクトリア朝時代のロンドンで隆盛を極めたバーレスクが大西洋を渡ってアメリカで様々な様式を取り入れて発展し、2010年の映画になり – この映画の辺りからいろんなのが膨らみ始めたのかな? - 再び源流のロンドンに戻ってこれて嬉しい、というようなことが書いてあって熱い。そしてステージも。

オハイオの小さな町の教会で聖歌を歌うAli (Jess Folley)は声がでっかすぎてはみ出してばかりなのでシスターのMiss Loretta (Todrick Hall)はAliの母親Theresa – Tess (Orfeh)がいるらしいNYに行くことを勧める(Theresaの手紙の住所はAvenue Bだって)。

NYのBurlesque Loungeに着くと個性的なシンガーとかダンサーばかりで、Tessに話をしようとしても相手にしてくれず、声をかけてくれたバーテンダーのJackson (Paul Jacob French)のところになんとか泊めてもらい、Loungeのウェイトレスとして雇ってもらって、そこからのしあがって、Tessの元夫のせいもあり潰れかかっていたLoungeを盛りあげていくの。

2010年、公開当時にNYで見た映画版はAli (Christina Aguilera)の成功とラウンジの経済的困窮を救う話が真ん中にあった気がしたが、ミュージカル版は、個々のシンガーやパフォーマーの威力・破壊力と、それらが混然となってショーとしてのバーレスクはこんなに目が回るくらいすごいんだおらぁー、というのを直球で見せて問答無用。 演出してコレオグラフして楽曲の一部を書いて、バーレスクのMCのSeanとMiss Lorettaの二役までこなすTodrick Hallの力が大きいと思うが、ドラマとショーのダイナミクスが見事に繋がって飽きさせない。 始めは声の大きい(ほんとに大きい)だけの娘だったAliが、NYに来て、Jacksonと恋におちつつ自分の声を堂々と響かせる場所を見つける話と、身売り話程度ではびくともしないプライドのシンガーやダンサーたちの強さが絡まり、終盤のノンストップの煌めきときたらちょっと見ないくらい。

歌と踊りと衣装に加えて、でっかい音(見えないが生バンド・オーケストラがやってる)とがんがんのライティングでも圧倒されるので、そういうのにやられたい人はぜひ。


The Empire Strips Back: A Burlesque Parody

8月14日、木曜日の晩、HammersmithのRiverside Studioで見ました。
2011年、オーストラリアから始まって、世界各地でやってきているショーで、ロンドンのも行かなきゃ、と思いつつ延ばし延ばしにしていたら終わりに近づいていたので、取った。またそのうちどこかでやるのだろうが。

SWの『帝国の逆襲』だけでなくSWサーガ全体をパロディにしたバーレスク/ストリップショーで、宇宙のごろつきや変態が群れをなしてやってくるSWの世界ならネタには事欠かないので、ふつうにおもしろい。

最初がTauntaun(ペギラ+カンガルー) - なかなかかわいい - で、防寒具を着ていたダンサーが脱いでいく。次がLandspeederの洗車で、やはり脱いでいく。こんなふうにStormtrooperでもなんでも、鎧やコスチュームを纏った女性がとにかく脱いだり脱がされたり、という趣向でHan Soloは男性ダンサーで、チューバッカは脱がないけど、皇帝パルパティーンは脱がされて、皺皺のボディスーツにびろびろの袋を垂らして晒していた。

ほんもんのストリップには行ったことがないし、バーレスクスタイルのイベントはあるけど、バーレスクど真ん中のは行ったことないかも、なのでこれがどれくらい正統なものなのかはわからないが、脱ぐのはどれもすっぽんぽんの手前で止めていた。

あと、でっかい被り物ででてきたJabba the Huttはなかなかかわいくて、やらしく舌をびろびろさせつつ、映画と同じように首を締められてしまう。あのかわいさにはちょっと愛をかんじた。

セクシーなダンスを楽しむのがメインであるなら、ダンスは見事で素敵だったが、「パロディ」のところはもうちょっとがんばれば? だったかも。もっとしょうもなくもっと卑猥にできるネタはあるはず。

MCはLando Calrissianの自称甥という人がやっていて、客席にいろいろ聞いていったりするのだが、レイアかパドメか、の比較(何の?)ではパドメが圧倒的に勝っていた。そうなのかー。

あ、Yodaは最後に出てきてラップを披露していた。ちょっとふがふがして修行が足りていなかったかも。

ネタが刷新されたらまた行ってもいいかも。

[film] Heldin (2025)

8月5日、火曜日の晩、BFI Southbankで見ました。 新作のスイス・ドイツ映画で、英語題は”Late Shift”。
(原題のドイツ語は「ヘロイン」でつまり)

作・監督はスイスのPetra Volpeで、今年のベルリンでプレミアされている。
ポスターを見ればわかるのだが、夜勤(Late Shift)をする若い看護婦のお話しで、少なくともコメディではなさそうで、辛くてきつい内容だったらちょっとやだな、と思いつつ。

スイスのバーゼル(たぶん)の総合病院に看護婦のFloria (Leonie Benesch) - 新人でもなく年長でもない - がLate Shiftに入るところから始まる。更衣室で同僚と新しいスニーカーいいなー、とか他愛ない会話をしつつ、病室をまわり始めるとルーチンの検査対応以外に患者とその家族たちからものすごく沢山の質問やお願いや嫌味や苦情がとんできて、そのすべてにASAPのフラグを立てられて、明らかに人手が足りていないことがわかる。

看護婦としての通常の仕事以外で受ける依頼やお願いにひとつとして同じものはなく、患者の容態だって刻々と変わっていくものだし、それら全てに公平に平準にサービスを提供することなんてできるわけないのだが、現場に出ている彼女はそれらをフロントでぜんぶひっかぶって、回せるものは医師に、なのだが医師もずっと手術室に籠っていたりで捕まらないし、帰宅しようとするところを捕まえてももうくたくたなので勘弁して、と逃げられてしまう。

患者のなかにはシリアスな容態ではなくても泣きだしてしまったりする人もいて、そんな心のケアもしないわけにはいかず、そうして手薄になったり時間が掛かったりした先には必ず取り返しのつかない事態が待っていたりして、でも時間は戻ってくれない。

あたりまえのように患者の容態も、それに紐づいた人生や性格もそれぞれで、よい人もいればかわいそうな人もいるし、ちょっと離れて嫌な奴、いじわるな人もいて、寝かされているベッドの上ではそれらがダイレクトに表に出て、場合によっては家族も一緒になって彼女にぶつかってくる。お茶を頼んだのにxx分掛かっている、って時計を手にして偉そうにクレームしてきた男の時計を取りあげていきなり窓から放り投げてしまうシーンは痛快なのだが、後でこっそり外に探しにいったり、あまりに辛いので娘の声を聞きたくて隙間に電話するのだが、娘は相手してくれなくて泣いちゃったり、そんなふうに流れていく夜明けまでの時間を追う。

現実の世界にはスーパードクターもスーパーナースもそうはいない、奇跡なんてそう起こるわけがないのに誰もが自分はよくなる、ここから出て行ける、と強く思いこんで自分ファーストで勝手なことを言いまくりやりまくる、それらがなんで彼女たちの前だと許されてしまったりするのだろうか?

自分が半年ほど前に手術・入院して、その際の対応を見て思ったのは、呼んだからってそんなにすぐ来なくても、そんなに朗らかにしなくてもいいのに、もっと手を抜いて、もっと大変なひとのところに行ってあげて、だった。そういうわけにもいかないのだろうし、これもまた「要望」になってしまうのだろうし、複雑だった。

主演のLeonie Beneschは、”The Teachers' Lounge” (2023)でも、明らかに理不尽な事態に正面から立ち向かわざるを得ない小学校教師の役を(頭のなかは悪態まみれだろうに)まっすぐに真剣に演じていて、いつもかわいそうなのだが、こんなふうに真面目であるが故に現場で背負いこむ・ひっかぶる系の役をやらせたら本当にうまいと思う。

エンドロールの手前で、スイスの、更には全世界での看護婦が致命的に足らなくなるWHOの予測値が表示され、そうだろうな、ってなる。先日もBBCでナースへの虐待件数の増加が問題になっているニュースが流れていたが、日本でも相当酷くなっていることが容易に想像つく(表に病院名が出たら絶対まずいのでごくふつうに隠蔽しているのだろう)。

教師と看護婦、介護士は、待遇をよくして層を厚くしないと、社会の底が抜けてほんとうに救いがなくなってしまうよね(もうそうなっているか)。

8.14.2025

[theatre] Poor Clare

8月7日、木曜日の晩、ロンドンの南西、地下鉄の終点のRichmondにあるOrange Tree Theatreで見ました。

このシアター、もとは1867年に小学校として建てられたゴシック調の建物の地下にあって、客席が四方から囲んで見下ろすスタイル。予約した席にいくと自分の名前が書かれた封筒が置かれていて、開くとポストカードとその裏に、このシアターに初めて来てくれてありがとう、ってぜんぶ手書きの(結構長い)メッセージが書いてある。他の席にも封筒は置かれていて、席数180で大きくないとはいえ、そんなことをされたのは初めてだったのでちょっとびっくりした。

アッシジの聖フランシスコ、というとまずはロッセリーニの映画 – “Francesco, Giullare di Dio” (1950) - 『神の道化師、フランチェスコ』で、わたしはこの映画が好きすぎて昨年アッシジに詣でてしまった(Clareのお墓にも行った)くらいなので、この映画にも少し出てくるアッシジのキアラ - Santa Chiara(英語だとClare)d'Assisi (1194-1253) が主人公の話であるのなら、見ねば、と。

タイトルは「かわいそうなクレア」ではなく、彼女が設立したOrder of Poor Ladies – 通称”The Poor Clares” - 日本だと「クララ会」 - から来ている。富を棄てて貧乏であろうとしたクレアの像を通して現代の貧困についても考えさせるような劇にもなっている。

原作はアメリカのChiara Atikによる同名戯曲で、2022年のAmerican Theatre Critics Associationをはじめいくつかの賞を受賞している。演出はBlanche McIntyre。 休憩なしの1時間45分。

Clareを演じるArsema Thomasはこれが舞台デビューで、Netflixの”Bridgerton”のスピンオフドラマに出ていた人、Francesco役のFreddy CarterもTVで活躍している人だそうで、全体としてはやはり”Bridgerton”調の、現代のテンポやコミュニケーションにアジャストしたオルタナヒストリーもの – みんなアメリカ英語だし – の様式をとっている。 これをおもしろいと思えるかどうか、だと思うが、自分にはとてもおもしろかった。

舞台上には粗末な木の椅子や台が置かれていて、ずっと薄暗く人物の像を浮かびあがらせる照明。冒頭、Clareと妹のBeatrice (Anushka Chakravarti)が侍女ふたりに髪を結ってもらっていて、妹はゴシップも含めてちゃきちゃき敏感なおしゃれさんで、でもClareはそんなでもないようで、道端でホームレスと出会ったり、修行中のFrancesco (Freddy Carter) – ちょっと生意気で嫌な奴っぽい描かれ方 - と会話しているうちに、自身の不自由ない裕福な身分や貧富の差について考えるようになって、それは彼女の言葉として出てくるわけではなく、靴や宝石をぽいって与えてしまったり、最後には用意されていた自身の婚礼まで棄ててしまうことになる。自分でもよく理解できない衝動のようなものに突き動かされていく彼女の仏頂面がとてもよいの。 現代の富豪に彼女の爪の垢でも…

でも全体としては若者のお話しとして軽快かつコミカルに進んでいって、Francescoが僧侶のカッパ頭になったのを見た時のClareの反応とか、めちゃくちゃ笑えてよかった。


Extraordinary Women

8月10日、日曜日の午後、Jermyn Street Theatreで見ました。
これも小さい70席の地下にあるシアター(Off West Endっていうのか)。 この日が最終日だった。

原作はCompton Mackenzieの同名小説(1928)。1928年はVirginia Woolfの”Orlando: A Biography”が出た年でもある。 これがミュージカルに翻案されて、作詞はRichard Stirling、作曲はSarah Travis、演出はPaul Foster。初演は2021年にGuildford School of Actingで。 舞台袖にはピアノとギター/ダブルベースの伴奏者がふたり。

第一次大戦の頃、地中海にある架空の島 – Sirene(「セイレーン」。実際にはカプリ島がモデルらしい)に、レスビアンを中心とした女性の理想郷(であってほしい郷)があって、そこでの女性たちの好いた引いた荒れた萎んだ壊れたで崖の上まで行ってしまったりあちこちすったもんだして転がっていく複線の関係をアンサンブル(何名かは兼務。男優一名はいろんな役をひとりで)の歌と踊りで贈る、というもので、艶っぽくてなにかとお騒がせのRosalba (Amy Ellen Richardson)を中心として個性たっぷりの6人が歌って踊って、全員とにかく歌がうまいのと、アールデコ調の衣装が素敵で、当時の雰囲気に引き込まれる。

戦争でバカな男たちがわーわー騒いで固まって腐臭を放っていくその脇で、こんな世界があった/あろうとしたのだ、というのをイメージするだけで楽しかったり。

8.13.2025

[film] What Ever Happened to Baby Jane? (1962)

8月3日、日曜日の午後、BFI Southbankで見ました。
先月から続いているMoviedromeのシリーズからで、↓の”Mommie Dearest”とセットで見ると£2.50安くなる。割引は使わなかったけど、続けて見てしまった...

監督はRobert Aldrich、原作はHenry Farrellによる同名小説。 邦題は『何がジェーンに起ったか?』。
これはもう何度か見ていて、その度に怖くて泣きそうになるのであまり見たくないのだが、時間が空いてしまったので。

かつてチャイルドスターで有名になった後は見向きもされなくなり、かつての幻影の世界に籠って時間を止めてしまった"Baby Jane" Hudson (Bette Davis)と姉で女優だったBlanche (Joan Crawford) - 事故で車椅子生活 –が一緒に暮らす一軒家での命がけの攻防 – というよりほぼBaby Janeによる一方的な虐待 – を描いて、とにかく見るのが辛くて怖くて、女優ふたりの凄まじい演技もあるけど、この逃げ場のない - 絶対そこにある/あった過去の - 閉塞感と絶望は演出の力によるものだと思う。

最後、あの浜辺の家(”Kiss Me Deadly” (1955)で出てきたあの家)の前、Baby Janeは死んでいるか死んでいないかわからないBlancheの前で、いまもずっと踊り続けているのだと思うと…


Mommie Dearest (1981)

監督はFrank Perry、原作はChristina Crawfordのメモワール本。邦題は『愛と憎しみの伝説』。

↑で(役柄上)苛めぬかれたJoan Crawford (Faye Dunaway)による養女らへのリアル虐待を虐められた側から延々描いて、これもきついことはきついのだが、関係者はサバイブして本も出してこうして映画にもなったのだから(というのはなんの慰めにもならぬが)。

他方で、この映画は同年のラジー賞のWorst PictureとWorst Actressを受賞して、確かに映画としてちょっとまともでないかんじではあるものの、Pauline KaelはCampである、って褒め称えた。 うん、Campかも、とは思うし、映画としては息をのむシーンの連続で、”…Baby Jane?”とは別の意味で目を離せなくなるのだった。

MGMの看板女優で恐いものなしだったJoan Crawfordが自分の子供には恵まれなかったので養子がほしい、といい、ただ一般の施設からは二度の離婚歴等があるので養親として相応しくない、と提供を拒まれて、でも当時の恋人だった弁護士にねじ込んでもらって、養女のChristinaを、さらに少し後に養子のChristopherを貰いうけて、大喜びで育て始める。

始めのうちは過剰なくらい子供たちを溺愛するママ... のように見えたのだが、そのうち自分の意に従わなかったり、競うような局面で自分に勝ってしまったりするとめちゃくちゃなお叱りをする(子供たちからすれば理不尽地獄)DVママに変貌して、それが反省を促したり(誰もそれを指摘)することなくいくつになっても続いていって止まらない。その止まらない、しつこくて懲りないかんじがたまらなくおかしく、Faye Dunawayの描いているのか付けているのかの眉毛とか、SNLのスケッチコントのように見えてしまったり。

言い返したChristinaを閉じこめたり、ふざけて自分の真似をしたChristinaの髪の毛を裁ちばさみでばさばさ切り落としたり、MGMとの契約を切られた際には、庭のバラをぜんぶ切り落としても治まらず、「斧を持ってこい!」って怒鳴ったり。そのめちゃくちゃが余りにクールで堂々としているあたりがCampなのか。いくつかのシーンでは笑いと共に拍手が起こって、確かに支離滅裂なのだが、それをやっているのがJoan Crawford(の演技ではなく素)なのだからChristinaとChristopherには悪いけど、おもしろいとしか言いようがない。タイトルの”Mommie Dearest”は、Christinaが散々叱られた後、ごめんなさいを言う際に必ずいう言葉で痛ましいのだが、彼女がエンディングのJoanのお葬式で言う時はちょっとだけかんじが変わる。

2つの映画に共通している、クセのようになってエスカレートして止まらなくなっていく虐待、そのグロテスク描写があまりにグロいので(正気か..? って)凝視してしまう、どちらもその凝視を固着させることに長けた映画だと思った。

でも日曜日の午後から夕方ぜんぶを使って見る映画たちではなかったかも。

8.12.2025

[film] Freakier Friday (2025)

8月8日、金曜日の晩、CurzonのVictoriaで見ました。

20:15開始の回で、オールナイトのPromsに行く前にこんなの見たら疲れて寝てしまうのではないか、という声もあったのだが、この映画を公開初日の金曜日に見ないでどうする? という別の声に負けた。

“Freaky Friday” (2003)のダイレクトな続編で、沢山のキャストがそのままの役柄で彼らの22年後を演じている。監督は”Late Night” (2019) – だいすき - のNisha Ganatra。

オリジナルのは大昔にTVで見た程度、当時はいて捨てるほどあったバカ映画のひとつ、程度の認識だったのでそんなにきちんと語れるわけではないのだが、この続編を見ると、キャスト全員にとってとても大切な作品なのだ、という真剣さがわかったし、実際にとても大切なことを語ろうとしている、というのもわかって少し反省した。

母親のTess (Jamie Lee Curtis)と娘のAnna (Lindsay Lohan)が入れ替わりを経験してから22年が経って、Tessはセラピストをやりながら自分のPodcastをやったりしていて、Annaはシングルマザーとして娘のHarper (Julia Butters – “Once Upon a Time in Hollywood” (2019)でDiCaprioを説き伏せていたあの娘) を育てながら音楽プロデューサーとして動きまわっている。 

Harperは同じクラスのロンドンからきたLily (Sophia Hammons)となにかとぶつかって問題を起こし、校長室に呼ばれたAnnaとLilyのシングルファーザーであるEric (Manny Jacinto)はあっさりわかりやすく恋におちて、そこから半年後、ふたりは結婚することになるのだが、それによって義姉妹になるHarperとLilyは当然おもしろくなくて、Lilyはロンドンに戻りたいようだし、ロンドンに戻るとなるとAnnaもそれについていって、自分はおばあちゃんのTessとLAに残されてしまうかもしれないし。

Annaのバチェラーパーティでうさん臭いMadame Jen(SNLのVanessa Bayer)から占いで不吉なことを言われたTessとAnnaは過去のあれを思いだして身震いして、時間をおいてHarperとLilyも見てもらったらやっぱりどうにも不吉で怪しくて、その夜更けに地震を経験した4人が目覚めてみると… Tessの中味はLilyに、Annaの中味はHarperに、Harperの中味はAnnaに、Lilyの中味はTessになってしまったのだった。

こうして大人たちになった(の身体を手にした)子供たちは、げろげろーとか言いつつAnnaとEricの結婚を断固阻止すべく動きだし、子供たちになった大人たちは、X世代の青春を謳歌すべく暴れまくるのだが… 

入れ替わりによって巻き起こる騒動と、結婚式当日に向けた親子間の諍い、うんざり、などなどをクロスで追って、でも登場人物の人格が全部替わっているので、あ、そういうことか、っていちいち確認しつつ追っかけるのが大変ではあるものの、こういうファミリーコメディの定番のハッピーエンディングにもちろん向かっていって、その予感も含めてなんの違和感もない。クライマックスはAnnaが昔作ったラブソングを彼女がマネージメントをしている人気歌手のElla (Maitreyi Ramakrishnan)がライブ会場で歌うシーンにみんなが居合わせて、ここでなにが起こるのか(ぜんぶ定番、だけどこれこそが)。

母娘であるAnnaとHarperが互いに入れ替わるのはわかる。でもなんの関係もないTessとLilyが入れ替わるってどういうことなのか、っていうのはちょっと考えて、これこそが”Freaky”→“Freakier”たる所以なのか、と思いつつ、これを軽々嬉々と演じ切っておつりがきてしまうJamie Lee Curtisの余裕の高笑い(演技)にやられる。 ”Halloween”シリーズと同じくらい彼女がいなかったら成立しないコメディ(あっちはホラーか)。

映画を見ていると、入れ替わることで、筋肉とか神経系は元の持ち主のものが使えるじゃん、そうすると頭の回転とか計算能力とかもそうなるのか? 味覚や嗅覚は? とかどうでもいいことばかり考えてしまう。

8.11.2025

[film] Weapons (2025)

8月9日、土曜日の晩、BFI IMAXで見ました。 週末の興行収入で1位だったそうで。

この日は朝までクラシックのライブを聴いていて、家に戻って約2時間寝て軽く食べて、お昼にBFIで”Elio”(2025)を見て、その後に、Curzon MayfairでRe-releaseされた”Sense and Sensibility” (1995)を見て、どちらもすごくよかったし、でも結構へろへろになって、でもなんとなく20:45の回のを取ってしまった。

ホラーは苦手なのでそれなりの覚悟がいるのだが、疲れていたので効かないかも、とか思って。ちなみにこの夏のもう一本の話題のホラー”Bring Her Back” (2025)は、予告だけで怖すぎて見れない。怖い時のSally Hawkinsって、なんであんな怖いの?

ネタバレしない方がよいと思うので、がんばってみる。けど肝心のところは映画の中でもあまり明らかにされていないような。

作・監督・共同プロデュースはZach Cregger。彼の”Barbarian” (2022)は未見。”Companion” (2025)では制作に関わっているのね。

ペンシルバニアのある町のある晩、2:17amに、地元の小学校の生徒17人が起きあがって自宅のカギを開けて外に飛びだしてどこかに走り去ってしまう。町の監視カメラには両手を広げて、「ぶーん」の恰好で走っていく子供たちの姿が記録されている(このイメージが素敵だったので見た)。いなくなった子供たちは3年生で、全員が同じ担任Justine Gandy (Julia Garner)のクラスの子で、クラスの中でいなくならなかったのはAlex (Cary Christopher)というおとなしそうな子だけ。

警察は勿論、JustineとAlexを聴取するのだが、何も出てこなくて、学校はJustineを休職させ、Alexを別のクラスに移動させて一ヶ月が過ぎた、というところから始まり、主要登場人物(Justine – Archer – Paul .. 等)を中心にチャプターが区切られて、そのなか、そのチャプターの終わりに少しづつ新たな事実や出来事が追加されて転がっていく、という形式。連続ドラマを繋いでいくような。

謹慎処分になったJustineはしんみりしょんぼりしているのかと思ったら逆で、酒屋に行ってウォッカの大瓶を抱えてぐいぐいやっていたり、妻あり警官のPaul (Alden Ehrenreich)と夜遊びしていたり、懲りないというかそういうキャラで、彼女のそんな挙動を見ていた保護者のArcher (Josh Brolin) - 息子が行方不明になっている – はいい加減にしろよ、って彼女を問い詰めていると、遠くからぶーんって走ってきた血まみれ顔の校長のMarcus (Benedict Wong)が突然襲いかかってきて…

あと、父兄からも学校からも散々言われたJustineが下校して自宅に帰るAlexの後をつけて、彼が入っていった家を外から見てみたら、すべての窓に新聞紙が貼られていて、その隙間から中を覗いてみると人影のようなものが見えて、そのがらんとした家にPaulが追っかけてぼこぼこにしたヤク中でホームレスの若者が入りこむと…

最初にとんでもない、ありえないような事件が起こり、それを追っていく過程で、ちょこちょこ変なことが続いたり見えたりして、どういうことなんだろう? って近寄ってみたら、最後におっそろしいことが起こって謎どころじゃなくなる。

おっかなくてやれやれ(疲)、になるのだが全体の謎 –誰がなんのためにこんなことを.. は明らかにされないので、それらは後続ので、ということなのか。 最初は”IT”みたいなやつ? と思って、たぶんそれに近いかもだけど、あれよりも掘りがいはあるようなないような… そこもまだなんとも。

子供が失踪してしまった謎を解く、というサスペンスが中心にあって、中核にあるものがどれくらい怖いやつなのか、その怖さはホラーというよりゴア描写で示されて、もちろん結構怖いのだが、場内からは結構笑いが起こって、クライマックスでは爆笑になっていた。中心にあるものが明かされない状態でとてつもない流血・暴力沙汰が出るとなんだかおかしくて笑うしかなくなる、ということなのか。

ふつうこれだけの規模で失踪事件が起こったら、先生も残った子供も相当に調べられるはずなのに、それがされなかったか、見つけられなかった警察の無能さをどうにかして、というメッセージもあるの?

“The Assistant” (2019)でセクハラに巻きこまれるかわいそうなアシスタントを演じていたJulia Garnerが、更にしんどいことに巻きこまれるのか、と思っていたらそうでもなくて、そういえば彼女、こないだの”The Fantastic Four: First Steps”ではSilver Surferをやっていたねえ。

そしてJosh Brolinの不屈の芯。さすがThanos。

ピーラーとチャイムとヌードルスープ缶は、物販に出したら売れるよね。

[music] BBC Proms: From Dark Till Dawn

8月8日、金曜日の晩23:00から、9日土曜日の朝7:00にかけて、Royal Albert Hallで見ました。

少し前にここで書いたBBC Proms Late Nightの拡大版というか、これまでなかったよね? と思ったが今回が初めてではなく、80年代にも開催されていたらしい。MCの人がその時も来ていたひと〜? と客席に聞いたら手を挙げていた人が数名いた。

夜通し朝までライブ、というと、これまでフジのRed Marqueeの床とかクラブ系のくらいしか経験がなくて、クラシックでやったらどうなるのか、今回もアリーナはスタンディングで椅子はなし、後ろの方は最初から座ったり転がったりの人々が多めだったが、最前のかぶりつきの人はずーっと立って聴いていた。すごいなー。

自分はいつものStall(椅子席)の一番前の端っこで、べつに寝たくなったら寝ちゃえばいいし、だったのだが、それにしてもなんで土曜日じゃなくて金曜日の晩にやるのか。仕事があるから備えてのお昼寝とかできないじゃんか。(リモートにして少しだけ寝たけど)

全8時間のライブは8アーティストが出る3部に分かれていて、それぞれの合間に20分くらいの休憩があるのと、各部の途中にも15分間の小休憩があって、みんなビールを買うのに並ぶのだが、売店は午前1時くらいには閉まると。それにしてもみんななんでそんなに「まず」ビールなの?

最初にBBCのラジオ放送用の(?)男女ふたりが出てきてルールや時間割などの説明をして、今宵の出演アーティストのキュレーションをしたAnna Lapwoodさんによるパイプオルガンから。ここのパイプオルガンの音は本当に気持ちよい。”Pirates of the Caribbean”のテーマもやったりしてみんなわーわー喜んでいたが、この曲も映画もおもしろいと思ったことがないのでここは少し微妙だった。

次のBjarte Eike率いるノルウェーのBarokksolisteneは太鼓、ダブルベース、いろんな弦いっぱい、女性ダンサー2、全員が歌って動きまわって止まらない、ものすごく楽しいトラッド/古楽バンドで、彼らのトラッドの範囲は北欧やカナダ、スペインまで含む汎ヨーロッパのそれで、全体がつんのめりつつ隙間を交互に緩急自在に編みあげていく間合いと掛け合いが絶妙で、バンドサウンドてして聴いてみると緻密で、ものすごく好みなやつだった。またライブあったら行くかも。こういう出会いがあるのがたまんないのよね。

この後がAnna Lapwood の指揮によるPembroke College Chapel Choir。選曲も含めてコーラスを美しく響かせるというよりスペクトラムとして広げてみようとしているような。最後にBob Dylanの”Make You Feel My Love”をやって、オルガンとコーラスがDylanをこんなにも変えてしまうのか(よい意味で)と。

午前2時半からの第二部の最初はピアノの角野隼斗で、どういう人か全く知らなかったのだが、それで日本人の客が多かったのかー、と後で気づく。
舞台の上にはグランドピアノ(右)と仕込み - 詰め物をしたアップライトピアノ(左)の2台。最初のショパンのワルツは結構がりがりに硬く、自分にとってショパンのピアノ曲はぐにゃぐにゃ茹ですぎのポリーニが基準になっているのでこんなのもあるのかー、だった。

ピアノ2台を使った(アップライト→両方→グランドピアノ)ラヴェルの”Boléro”はこの人のパーカッシヴな強さがうまく活かされていて、なかなか盛りあがる。で、その後にRadioheadの”Everything in Its Right Place”。この曲の出だし(あのアルバム全体の、でもあった)の、おっそろしく不穏で異物な鍵盤の鳴りをどう表現するのかに興味があったのだが、割と普通にグランドピアノで流していた。これに続けて”Like Spinning Plates”もやって、ここは次のソリストのチェロ奏者Anastasia Kobekinaとのデュオ。この2人のをもっと聴きたかった。

休憩後のAnastasia Kobekinaのソロもすばらしかった。バッハの無伴奏チェロの一番二番で現代曲を挟みこんでいく(or その逆?)構成で、現代曲にはJohnny GreenwoodやBryce Dessnerの曲もある。最後のLuigi Boccheriniの”Fandango”がすごくよかった。チェロの可能性を.. というより、こんなにもうねったり弾んだり掠れたりするものなんです、ってあっさり淡々と捌いていくその手つきがかっこよい。

第三部は5:00からで、おそろしいことにここまでちっとも眠気に襲われなかったのは、それだけ楽しかったからと思われ、やはりさすがに次の12 Ensembleではちょっときた。けどストリングスの板があたまの奥に入りこんで、ああMessiaenだあ、とか叫んでいたのは確かに生々しく残っている。

次のセネガルのソロ・アーティスト - Seckou Keita はkoraっていう22弦のハープと彼の歌、数曲ではここにパーカッションが絡んで、ああおてんとさまがやってきたんだわ、って。

ラストはSleeping at Lastっていうアメリカのソロアーティスト - 元はバンドで90年代にBilly Corganに見出された人 - Ryan O’Neal - で、名前が(も)ちょうどよいんじゃない、と半分シャレで選ばれたらしい。ちょっとBon Iverに似たかんじの声と歌とピアノ。そこに最後はPembroke College Chapel ChoirとAnnaのパイプオルガンも入ってなかなか荘厳にきまって、閉まった。

終わったのは冗談みたいに朝の7時ちょうどで、出口にいるスタッフの人にいつものように”Good Night”と言ってからちがう”Good Morning”だ、って言い直し(向こうも間違ったりしていた)、ホールの外に出ると普通の週末の朝になっていて、South Kensingtonの駅まで歩いた。

この後は、いつものふつーの土曜日で、昼に映画を取っていたのでシャワーを浴びて2時間だけ寝た。

来年もあったら、まだ生きていたら、また行きたいな。

8.10.2025

[film] The Ladykillers (1955)

8月2日、土曜日の昼、BFI Southbankで見ました。

ここの8月の特集は”In Character: The Films of Peter Sellers”というPeter Sellersの特集(もうひとつの特集はSophia Loren)で、ピンクパンサーとHal Ashbyの”Being There” (1979)くらいしか知らないので、見て勉強していきたい。

あと、この人にはキャリアの初期から短編がいっぱいあるらしく、どの長編でも、おまけのように本編の前に短編が上映される。

この作品はEaling Studiosのクラシックで、さすがに見たことあった。原作はWilliam Rose、監督はAlexander Mackendrick。2004年にJoel and Ethan Coen監督、Tom Hanks主演でリメイクされている(未見)。 邦題は『マダムと泥棒』。

上映前に、”The Ladykillers Audio Recording”(1955)という本編の宣伝用につくったものらしいが、Peter Sellersがスチール写真にあわせて出演者や監督の真似をしている7分くらいのおまけが流れた。

ロンドンのKings Cross駅に入っていくトンネルの入り口の上に建っているMrs. Wilberforce (Katie Johnson)の家があって、冒頭は彼女が町に買い物に出て警察に寄って帰ってくるまで、典型的な英国のおばあちゃん、じゃないマダムで、警察にはいろいろ夢みたいなことを言うのだがいつものことらしく向こうは相手にしない。そんな彼女がオウムと一緒に暮らしている家に下宿させてほしい、と見るからに怪しげなProfessor Marcus (Alec Guinness)がやってきて、彼がそこに暮らし始めると、彼の指導しているという弦楽五重奏団のメンバー(Peter Sellersはこのうちのひとり)が楽器ケースを抱えて次々に現れる。全員どうみても怪しげなギャングで、楽器を演奏するようには見えないのだが、リハーサルをする、うるさくなるけど邪魔しないでほしい、とマダムには伝え、レコードをかけて騒がしくしている裏で作戦を練っていく。

それでもマダムはお構いなしにお茶を運んできたりちょっかいを出してきて、でもとにかく彼らの現金強奪は成功して、フェイク荷物としての現金の受け取りもマダムを利用してうまくいくのだが、チェロケースに移し替えた現金を運びだすところで失敗して札束がばらまかれて見られて、これじゃもう彼女を殺すしかないな、って全員でクジをひくのだが…

ここから先、ギャングがひとりまたひとりと勝手に間抜けに踏み外すように自滅していくところ、そんななかひとり変わらず悠然としているマダムがすごい。

すべてが「そんなバカな」みたいな小咄なのだが、キャラクター全員が妙にリアルでそこらにいそうなかんじなので、笑いが上滑りせずに、あーあ、ってちゃんと終わる。見事に箱庭的な、Wes Andersonのような完成度。こっちに来てからだが、わたしにとってのAlec Guinnessはオビ・ワンではなく、こういう英国のコメディで変人をやる人になってしまった。


The Smallest Show on Earth (1957)

8月2日、土曜日の夕方、間にSophia Lorenのを挟んで見たPeter Sellers特集からの1本。

監督はBasil Dearden、原作は上のと同じWilliam Rose。アメリカでの公開タイトルは”Big Time Operators”、日本ではDVDリリースのみ? 35mmフィルムでの上映だった。

お金がない、って嘆いている若い作家のMatt (Bill Travers)とJean (Virginia McKenna)の夫婦が亡くなった大叔父から地方の町の映画館が相続された、という連絡を受けて、これだ! って現地に行ってみたら、線路脇の廃墟のようになった映画館 - “Bijou Kinema”で、しかもずっと勤務している老いた従業員が3人いて(Peter Sellersはそのうちのひとり、気難しい映写技師)、すべてがあまりにぼろぼろなのでどうする...? になるのだが、やってみようか、って再建に向けて動きだし、隣のでっかい映画館からの買収の話もあったりするのだが、負けずにみんなで立て直していくの。 小さな町の映画館の再興っていうと暖かい人情噺になりがちだと思うが、従業員のキャラも含めて結構めちゃくちゃやっていて楽しくて素敵で。

線路脇で列車が通るとがたがた揺れるので、その時間帯に合わせて画が激しく振動する西部劇を上映したり(4DXのハシリか)、砂漠のシーンで暖房をがんがんにつけて、みんな喉が渇いてひーひーになったところにアイスクリームを売りつけて稼いだり、いろんな工夫して盛りあげて、というかなんとなく勝手に盛りあがっていくところがなんとも言えずおかしい。

併映の短編は”The Super Secret Service” (1953)。Super Secret Serviceに扮したPeter SellersがSuper SecretServiceとは、ってえんえんSuperなずっこけを繰りひろげていく24分、でした。

8.08.2025

[theatre] Inter Alia

8月1日、土曜日のマチネをNational TheatreのLyttelton theatreで見ました。

NTLでもやっていた”Prima Facie” (2019)のチームがRosamund Pikeを主演に据えて作った新作ドラマ。
原作は”Prima Facie”のSuzie Miller、演出はJustin Martin。

“Inter Alia”は、法律文書とかでよく見られる「これに限定されるものではない」みたいな言い回しで参照される何かのこと。

上演前の舞台の上の方には英国王家の紋(ユニコーンとライオン)のでっかい張りぼてみたいのがぶら下っていて、その下には文書保存用の段ボールが積みあがっていて、その上に置かれたファイルが横にある扇風機の風に煽られて開いたり閉じたりしている。

冒頭、暗転した舞台上でバンドサウンドが鳴り響き、マイクスタンドを抱えてロックスターのように自分の仕事や業績についてシャウトするJessica Parks (Rosamund Pike)の姿があり、左右の袖には太字ゴシックで彼女の言葉をばりばり字幕で照射する。ドラムスを叩いているのは息子のHarry (Jasper Talbot)で、ギターは旦那のMichael (Jamie Glover)- バックのサポートもあるようだが、自分たちで弾いているぽかった – で、Jessicaをバンドとしてちゃんと支えています、と。 演奏シーンはこの後もちょこちょこでてくる。

劇全体が、London Crown Court (刑事法院)の判事であるJessicaの怒涛の、確信に満ちた語りと喋りで突っ走っていって、仕事だけじゃなく日常のあれこれも、彼女の内面の声も含めてすべてがマイクを通して会場全体にでっかく晒されて、それをしても何ひとつびくともしない。自分は正義の使徒であり、文句のあるやつはかかってこい、と。その勢いにあわせて、コスチュームもカツラのついた仕事の法衣の他に家庭での普段着からカラオケクイーンから鮮やかに変わっていって、その華やかで鮮やかな変わり身も含めてRosamund Pikeのほぼひとり舞台と言ってよい。

見ている限りでは、「仕事と家庭の両立」なんて生易しいものではなく、家庭のあれこれも含めて、ぜんぶが彼女の仕事として降ってきて彼女が責任をもち、夫と息子 - 男たちの役割、立ち位置とはJessicaをサポートして、彼女がフルで動きまわれるようにすることなのかな、と。 そして彼ら男たちもそれでよいと思っている。それくらい彼女はすごい能力がある人なのだし、実際に動いていっちゃうし、それなら自分らも楽だし(とは言わないものの)。

いじめから息子のHarryを守るとき、或いはHarryのスマホにポルノ画像を見つけた時のJessicaの反応と対応は正義の味方でフェミニストのそれで、多少戸惑ったりはするものの力強くて頼もしいのだが、Harryに性加害の、レイプの疑惑がかけられた時、それがクロであることがわかった時、彼女はどう動くのか。これまでと同様の毅然とした態度と言動、正しい対応を取ることができるのか?

”Prima Facie”が性加害で訴えられた男性の弁護を専門とする凄腕の女性弁護士が自身の受けてしまった性加害についてはどう対応するのか… という板挟みを描いていたのに対して、この作品は性加害をしてしまった息子を母親である判事はきちんと裁くことができるのか、という事態を描いていて、いろんな点で対照的である。 が、そこをおもしろがる話ではなく、主人公が男性だったら、これらのようなことは起こっただろうか?ゼロとは言わないが、こういう事態に陥る可能性は小さいのではないか? という司法界の男女の非対称性などについて考えるべきなのだ。そして、司法界がこうなら、ここが正したり整えたりしていく(はずの)社会だってそうなっていってしまわないか?と。

この辺は考えなくたって、日本の性加害関連の判例を追っていけば一目よね。司法のせいにするのはフェアじゃない? って言うのかもしれないけど、ここがもう少し裁く側の男女比とか被害者への保護の目線も含めてきちんと機能すれば、っていうのはずっと思っていて、そっちの方であーあ、ってなった。

それにしてもRosamund Pikeのかっこよくて揺るがなくて素敵なことときたらー。

8.06.2025

[film] La piscine (1969)

7月23日、水曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
Big screen classics - クラシックを大画面で見よう、の枠で、7月のテーマである「プール」に沿った1本。
タイトルそのまま「プール」だし、英語題は“The Swimming Pool”、邦題は『太陽が知っている』(…)

監督はJacques Deray、脚本はDerayとJean-Claude Carrièreともうひとり、音楽はMichel Legrand。

冒頭、どこかの山荘のような - でもモダンな建物の庭にあるプールサイドにJean-Paul (Alain Delon)とMarianne (Romy Schneider)が転がっていて、始めのうちは殆ど喋らず、ナレーションもなんもないのでふたりの関係も、どれくらいそこにいるのか、どうしてここに来たのかも何もわからず、無表情で目が笑っていなくて、すごく仲がよいようにも見えず、背中を掻いて、と頼んだMarianneをJean-Paulはプールに投げこんだりして、じゃれているようだがどちらも楽しそうには見えない。

食事はそこで雇ったと思われるメイドに作って貰っていて、あとは昼も夜もずっとごろごろだらだらしている(いいなー)、とMarianneの昔の知り合いらしいHarry(Maurice Ronet)と18歳になるその娘Penelope (Jane Birkin–これが最初のフランス映画出演だそう) – ほんとうの娘なのか不明 - が現れて、Marianneは彼らにここに滞在しなさいよ、と勝手に決めて、Jean-Paulはちょっとむっとする。

こうして全然仲のよさそうに見えない4人の理由も事情もなにもわからないプールを囲んだばらばらの暮らしが始まり、音楽業界にいるらしいHarryは仲間を呼んできて楽しくパーティを(勝手に)開いたり、Marianneと(よりを戻して?)仲よくなっていったり、Jean-Paulは殆ど喋らないPenelopeと共にいる時間が長くなっていく。

ある晩、みんなが寝静まった後に酔っぱらったHarryがやはり酔っぱらっているJean-Paulにねちねち絡んで、ぶん殴ろうとしてプールに落ちて、Jean-PaulはばしゃばしゃしているHarryの頭を押さえて溺死させて(なかなか怖い)、Harryの服を新しいのに替えて事故に見せかけようとするのだが…

最後にこうなってしまう(バレ)、とかそんなこと以上に始めから終わりまで一貫して漂う不穏でダークで愛とか歓びの一切感じられない雰囲気がものすごい。Alain Delonがいて、Romy Schneiderがいて、Jane Birkinがいて、メインの4人が四角の水がはられたプールを囲んで、天気が悪いわけでもないのになんでそんなに不機嫌になれるのか、炬燵ならよいのか。なんでこんなことになったのか、ちっともわからないものの、こうなるだろうな、というのはなんとなく途中からわかって、実際そうなる。そうやって誘き寄せるためだけに囲って水のはられたプール、にしか見えなくなるのが怖くて素敵。


Million Dollar Mermaid (1952)

7月30日、水曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
これもBig screen classicsの枠で、これもプールもの… かなあ。監督はMervyn LeRoy、振付はBusby Berkeley。邦題は『百万弗の人魚』。

実在したオーストラリア出身の水泳選手→スターとなったAnnette Kellermanの評伝ドラマで、現在Design Museumでやっている特別展 – “Splash! A Century of Swimming and Style”にも彼女の展示コーナーがある、ということで同展示のキュレーションをした人によるイントロがあって、Annette Kellermanはスイミングのカルチャーを変えたすごい女性なのだと。

ポリオで足に障害をもっていたAnnette Kellerman (Esther Williams)が治療のために始めた水泳が楽しくて止められなくなって、そのままオーストラリアの花形選手となるが、父が破産してイギリスに渡ることになり、その船の上で怪しげなカンガルーとプロモーターのJames Sullivan (Victor Mature)と出会って、でも父の仕事がうまくいかないので、テムズ川を26マイル泳ぐ(やめなよ、ぜったい体によくないよ)、っていうのをやって話題になり、Jamesの誘いに乗ってNYのHippodromeでマーメイドのショーをやろうとするのだが... っていう波乱万丈の一代記で、恋愛も少しだけ入ってくるけど、あの有名な飛びこみのシーン – “That’s Entertainment, Part II” (1976)でも紹介されていた - がとてつもないので、ぜんぶ吹っ飛んでしまう(あんなことやってたら首痛めて当然だわ)。

こうやって並べるてみると、プールっていったい何なのか、よくわからなくなるねえ。

8.05.2025

[theatre] Romeo and Juliet

7月22日、火曜日の晩、Globe Theatreで見ました。
夕方に夕立がざーっと来て(野外なので)すこしはらはらしたが開演前にはあがってくれた。

前回、5月の終わりにここで”The Crucible”、を見た時はLower Galleryの最前列だったが、今回は同じGalleryの最後列にしてみる。後ろに背もたれがあるとやはり全然楽かも(上演時間は休憩を挟んで2時間50分。立ち見ムリ)。貸し座布団(有料)は今回も借りず。

前の方の立ち見のYardは観光客も含めてぎっしりで、やはりどうしても騒がしく落ち着かなくて、集中して見たい時にはややしんどいかも。昔のお芝居なんてもっとざわざわしてこんなもんじゃなかった、というのもわかるけど。

原作はもちろんShakespeare、演出はSean Holmes。この劇をライブの舞台でみるのはこれが初めて。

西部劇のサルーンバーの入り口のようなセットで、左右の木のドアは開閉がぱたぱた容易で、こちらを向いて椅子がふたつ。左側の椅子の後ろには撃たれたのか拷問されたのかでっかい血痕がいくつか。2階にも扉があって、たまにバンジョーとかハーモニカとか、じゃららん西部劇ふうのラテンメロを奏でるバンドが顔をだす。ダンスシーンはもちろん西部劇に出てくるラインダンスになる。

無法者たちの抗争に明け暮れる西部劇、のなかにMontague家とCapulet家の宿敵同士を置いてみる、というのは可能なのか? 映画とかで見る西部劇のアウトローって、家族とか群れとかを作らずに – だからアウトロー – 女性が必要になったら娼館に行ったり、というイメージだったので、これってあるのかな? というのが少し気になったが、なんとなくわかるし、小競り合いとかも含めて、そんなに外れたかんじはなかった。

なのでRomeo (Rawaed Asde)もTybalt (Calum Callaghan)もずっとカウボーイハットを被っていて(なので表情があまりよく見えない、どっちにしても仏頂面ぽいけど)、恰好ばかり気にしている単細胞の荒っぽいあんちゃん達で、アーリーアメリカン・ファッションのJuliet (Lola Shalam)も(その乳母 -Jamie-Rose Monk)もぶっとくふてぶてしく堂々としてて、ちょっとやそっとで崩れたりやられたりするかんじはなくて、全体としてはコミカルでどたばたしながら膨らんでいく恋愛活劇のようで、悪くなかったかも。

ふたりが恋に目覚めてしまうあのシーンは、客席側から台に乗って運ばれてきたJulietが自分でも信じられない、みたいに口先で浮ついた言葉を繰りだし、それに応えるRomeoも何が起こっているんだ、という顔と言葉で応えて、この辺りの応答のテンポから、ふたりが揃って走りだすかんじがとてもよいの。

こうして前のめりに動きだしたふたり、恐れるもののないふたりが藁にもすがる思いで薬を手にしてしまう最後の悲劇のところも、性急でつんのめっていて、互いに何が起こったのかわからないまま、ぷつりと糸が切れてしまうかのようで、家族も観客も含めてみんなあっけに取られてしまう。そして後から寂しさと悲しさと、なぜ…? がじんわりとくる。

コスチュームとか俳優の硬めの動きとか勢いとか、何よりも騒がしい西部劇設定そのものが、最初はだいじょうぶかこれ… だったのが、後半に向かうにつれて魔法のような恋の一瞬の夢、終わらないで、っていう切なさが襲ってきて、その勢いがあっさり突然に断たれて、うそ… ってなる、その緩急の見事さ、それでもってエモを鷲掴みにする強さって、演出というより元のドラマがすごいってことだろうなー、って改めて思った。
 

8.04.2025

[film] The Fantastic Four: First Steps (2025)

7月28日、月曜日の晩、BFI IMAXで見ました。取った回が3D上映のだったので、久々の3Dで。

MCUとしては37番目の映画で、監督は”WandaVision”(2021)のミニシリーズでレトロ調の画面作りをうまく(くどく)ストーリーに活かしていたMatt Shakman。

実写版の”Fantastic Four”は失敗したと言われる2015年版 - 未見 - の前の2005年のもあったりして、ただ設定そのものがちょっとあれで漫画すぎて実写には馴染まないのではないかと。幼児期のうすーいすり込み(あった気がする、くらい)はTVアニメの『宇宙忍者ゴームズ』だったし…

と思っていると、今回の設定はEarth-828というところ、これの60年代、まったく別のヴァースにしてしまうことで、テクノロジーを除く社会全体のルックスも含めてレトロフューチャー(っていうの?)を実現していて、登場人物周辺のコミュニティもファッションも水色で流線形のぴかぴかで、中心の4人は既に宇宙に行ってあの状態で戻ってきていて、そのまま社会にヒーローとして受け容れられている。異形のものや特殊な力を持ってしまった者たちへの疑念とか不安はきれいに排除されていて、こないだの”Superman”(2025)を見た直後でもあるので、そのベースとなるトーンの余りの段差に戸惑う、というよりずっこけるくらい。

Dr Reed Richards (Pedro Pascal)とSue Storm (Vanessa Kirby)の夫婦とSueの弟のJohnny Storm (Joseph Quinn)と外見を岩石にされてしまったBen Grim (Ebon Moss-Bachrach)のFantastic FourはTVのホストショーに出るくらいメジャーで支持されていて、そこに突然敵っぽいSilver Surfer (Julia Garner)とその後ろにいるほぼ大魔神のGalactus (Ralph Ineson)がなんの理由も説明もなく敵として現れて赤ん坊をよこせ、とか言ってくるので、どうしよう…ってなるの。

あと、冒頭でReedとSueの間には子供ができて、その言いっぷりがどこかなにかの自然現象のようだったのと、Sueは妊娠した状態のまま宇宙に出かけて戦ったりしていたので、生殖の仕方から誕生まで何から何まで違う別世界・生物の話なのかもしれない。 ただこれらを受けとめてしまうと、ぜんぶそういうものだから.. になってしまって、アニメーションの”The Incredibles” (2004) – あっちは赤 - のと同じようなもの? そんなでもよいのか。

これは”The First Steps” – “Endgame” (2019)の後の - なので、ここまで閉じてわかりやすく快適な世界を作ってしまった後、ヴァースの底が抜けて”Universe”にどんな破綻や惨劇が降りかかるのか - ヒーローがどんな活躍を見せるのか、ではなく – に興味が向かう。それらを準備するための美しくドリーミーに整えられた「はじめの一歩」 or あの赤ん坊の話し? だったのだろうか、とか。 でも、やはりそれにしたって全体に幼稚でおめでたすぎやしないだろうか。


The Naked Gun (2025)

8月2日、土曜日の晩、CurzonのVictoriaで見ました。公開初日に見ることは叶わず、2日目に。85分という長さも含めてすばらしい。

この『裸の銃を持つ男』のシリーズも、” Airplane!” - 『フライングハイ』のシリーズも、David Zuckerらが作りだしたしょうもなくくだんないC級コメディの世界が大好きだった。こういうのは昔だと名画座の二本立て三本立ての「おまけ」のように付いてきて、場合によっては本編よりもおもしろくて印象に残ったりしていた。いまこれらを知らない、知りようのない若い世代の人々にきちんと説明するのは難しい。なにひとつ、跡形も残っていないから。

そして、かつてLeslie Nielsenが演じていたFrank Drebinの役(実際にはFrank Drebin Jr.の役)をLiam Neesonがやる、と聞いた時は驚いた(名前が似ていたから、とか言ったりして...)。Tom Cruiseが”Tropic Thunder” (2008)あたりでおちゃらけるのとはわけが違う、これまでのキャリアを捨てるつもりなのか、とすら思った。それくらいこの界隈の沼は冗談にしたって(冗談だから)深くてこわいんだから…

冒頭、LAの街で白昼、銀行強盗があって、沢山の市民が人質として取られて緊迫した状況のなか、可愛い女の子がひとり、笑いながらスキップして銀行に入っていって、全員が息を呑んでいると、彼女が突然でっかく変態してLiam Neesonになって、犯人をぜんぶ殺したり捕まえたりしてあっという間に解決してしまう。ここで「そんなばかな…」と一言でも呟いてしまったら、この先はもうついていけないのよ。

事件はその強盗事件の際に貸金庫から盗まれたらしいデバイスの行方を巡ってエンジニアの事故と見せかけた殺人事件が起こり、Frank Drebinが捜査を進めていくなかで、そのデバイスが世界征服を企むテック富豪Richard Cane(Danny Huston)による“Kingsman: The Secret Service” (2024)にあったのと同じような人々の暴力行為を引き起こすやつだとわかって、なんとしても阻止せねば、になるの。

世界征服 - 人々を意のままに動かそうとする富と権力全てを握った悪富豪の企み、という最近そこらじゅうにあるこのネタほど、このシリーズの恰好のエサになるであろうことは言うまでもなく、なにかのパロディが滑ってそれを補うべく別のネタを繰りだすもののそれも効かずに追いかけていくうちに枝葉ばかりになり、幹は収拾がつかない状態で放置され、それをひっくり返すだけの大ネタが – あると思ったら実はなかった… とかそんなのの周辺をずっとぐるぐる回っているだけ、資金を回収できたできなかったにうるさい最近のハリウッドでよくこんな企画が通ったな、と思うのだが、とにかくあのシリーズの新作としてはちゃんと機能していると思った。「コンテンツ」全盛のいまの世の中で、どこまでサバイブできるのだろうか。

もちろんロマンスもあって、被害者の妹としてPamela Andersonが登場し、べったべた(かつ中身すっからかん)のLAの80’s Loveが展開される。実生活のほうまで延焼してしまったらしいところも含めて微笑ましい。

あと、Frankの相棒のEd Hocken Jr をPaul Walter Hauserが演じているのだが、彼おもしろいんだからもうちょっと前に出てきてくれてよかったのに、とか。

あんなに楽しかった”M3GAN 2.0” (2025)ですら劇場公開を見送られてしまうのであれば、これなんかもう… ではないか。 そしてこんなのすら公開できない洋画配給界は、お先まっくらとしか言いようがない。

[music] BBC Proms: Ravel's Piano Concerto for the Left Hand

7月20日、日曜日の晩、Royal Albert Hallで聴きました。

Promsは、夏の間の8週間、Royal Albert Hallでクラシック音楽を中心に毎日いろんなプログラムをそんなに高くない値段で提供すべく1895年からずっと続いているイベントで、1927年からはBBCが仕切って放送などもしている。全プログラムを録って流しているRadioのBBC3は日本でも聞くことができるのかしら?

夏が近くなると今年のプログラム冊子が書店に並んで、ものすごいスター奏者のでなければチケットを取るのは難しくないし、クラシック聞きたいけど敷居が、とか演奏のよしあしも含めわからないことが多いけどライブで聞いてみたい、っていう自分のような者には丁度よいの。アリーナにあたるオーケストラ席のエリアなんてスタンディングでライブハウスみたいにかぶりつきできるし(スタンディングしてまでがんばって聴く気力体力はないが)、クラシック以外の演目だと、今年は9月にSt. Vincentがある。

この日のプログラムは最初にDmitry Shostakovichの”Suite for Variety Orchestra”、続いてメインのMaurice Ravelの”Piano Concerto for the Left Hand” (1929-30)、休憩を挟んでWilliam Waltonの”Symphony No. 1 in B flat minor”(1931-35)、演奏はBournemouth Symphony Orchestra、指揮はMark Wigglesworth、ピアノはNicholas McCarthy。

このPromsでラヴェルの「左手…」が最後に演奏されたのは1951年、この曲の依頼者であるPaul Wittgenstein - 第一次大戦の負傷で右手を失った - 自身によるものだったそうで、そこから74年を経て、生まれつき片腕のピアニストNicholas McCarthyによる今回の再演となった。

さて、ラヴェルの”Piano Concerto for the Left Hand”と言えば、ゴダールの”Passion” (1982)で、映画の最初のほうで、ぐいぐい上に伸びていく飛行機雲にこの曲が絡まっていくシーンがあって、それは映画音楽、というより映像と音楽がいかにひとつのイメージをかっこよく形作るものなのか、の最良の例として自分のなかでは刻まれていて、そういうのもあるのでたまらなかった。

ピアノは熱がこもって力強く、アンコールではスクリャービンの左手のために作られた曲(たしか)を演奏していた。

後半全部を使ったWilliam Waltonのシンフォニーは英国のかっちりした枠に印象派の透明さ柔らかさを融合させようとしているかのようで、ちょっと奇妙な味のおもしろさがあった。


Late Night Proms: Boulez and Berio: 20th-Century Giants

7月23日、水曜日の22:15から聴きました。

Promsには、通常プログラムが終わった後、21:45開場 - 22:15に開演するLate Night Promsっていうシリーズもあって、現代音楽とか、子供はすっこんでな系のプログラムをやっている。休憩なしで23:30くらいには終わるので終電にも間に合うし(前住んでいた時は歩いて帰れたし)、sold outすることなんてまずなくて空いていて、とてもよいの。席は好きなところを選び放題なので、ステージの真後ろを取ってみたり - 周囲はほぼだれもいないので大変にだらしない格好をして聴いたり。

この日はLuciano Berio vs. Pierre Boulezというどちらも1925年生まれ(生誕100年)の現代音楽の変態 … じゃないど真ん中のふたりの曲を3つ。演奏はPierre Bleuse指揮によるEnsemble intercontemporain。創設者のPierre Boulezがいた頃はCarnegie Hallによく聴きにいったなー(というくらい好きなバンド)。

最初はBerioの”Sequenza V” (1966)。

Berioが幼い頃にお気に入りだったスイスの道化師にインスパイアされたトロンボーンのソロで、奏者は緑アフロのカツラ(たぶん)とどた靴のピエロの格好で登場して演奏する。背後の席なのでメイクまで見えなかったのが残念。

続いて、Pierre Boulez: Dialogue de l’ombre double (1982-5)

クラリネットのソロで、奏者が立つ位置を変えながら録音してあった(?)自分のソロと対話をするかのように共鳴させ、蛇のようにぬたくり掘り進めていくかんじ。

続いて、Luciano Berio: Recital I (for Cathy) (1972)

このフィナーレだけ指揮者と17名のアンサンブル(ピアノ4台を含む)にソプラノ歌手が入って、ちょっとクラシックぽくなる。Berioが前妻のために書いた曲だそうで、リサイタルにやってきても伴奏者が不在でだんだんおかしくなっていく歌手の姿を描いた曲、ということだが、どこがおかしくなっていくのかわからないスリリングな演奏だった。

スイスに出かける前の晩だったので家に帰ってからがちょっと大変だった。


Late Night Proms: Arvo Pärt at 90


7月31日、木曜日の22:15から聴きました。↑のBerio vs. Boulezよりも客は入っている。

Arvo Pärtの90歳を祝ってTõnu Kaljusteの指揮によるEstonian Philharmonic Chamber Choirがひたすら静かに歌う。ほぼ人声による合唱のみ、曲によって少しだけオルガンや太鼓やドラがはいる程度。プログラムは3〜10分くらいの短い曲ばかり、全12曲で構成され、PärtだけでなくRachmaninovやJ.S.Bachも、あとエストニアのVeljo Tormis (1930-2017)の”Curse upon Iron”というヴォーカルと手持ち太鼓が暴れまわる曲が見事だった。

Arvo Pärtというとたまに映画で裏の闇とか狂ったシーンの際に挿入される音のイメージがあったが、今回のような合唱中心だと、ものすごく静かに畝って捻じ曲がっていくかんじというか、重ねられた声のもつ異物感、異様さが際だっていて、そこにわかりやすく「祈り」のような何かを貼ってしまうのもどこか違うような。

今年のPromsは(今のところ)あと2回。

8.02.2025

[film] Friendship (2024)

7月21日の夕方、ペンギンを見に行く前、CurzonのSohoで見ました。

アメリカ映画の新作(アメリカではA24が配給している)で、作・監督はこれが長編デビューとなるAndrew DeYoung。Paul Ruddが出ているのと、あとタイトルからブロマンス系のどたばたコメディかと思っていたら、そうでもない、なんとも言えず不気味で変な感触のやつだった。

郊外の住宅街でCraig (Tim Robinson)はPR会社の幹部 –と思えないくらい間抜けでだいじょうぶ?なのだが –で、妻のTami (Kate Mara)は花の宅配業をやっていて、癌の治療から生還したばかり、元カレとの関係も隠すことなく、ふたりの関係は微妙なものになっていて、そんなある日、地元TVの天気予報キャスターのAustin (Paul Rudd)から軽い招待を受けたCraigは彼の家に行って、仕事のこととか音楽のこととかいろいろ話して、Austinのフレンドリーな話しぶりや暖かさにCraigはすっかり魅了されて、その後も市庁舎の地下通路に連れていってもらったり、Austinのバンドのライブに行ったりして、かけがえのない親友ができた、彼ってすごいんだから! と子供のようにはしゃいでそれが仕事とか家族とか、いろんなところに困った影響をもたらすようになって、Austinからもいい加減にしろ、って怒られるのだが止まらない。

Craigを演じるTim Robinsonが短髪で間抜けのぼんくらの、ちょっとAdam Sandlerのように見えなくもない奴で、彼がいろんなことをしでかしてスクリューボールで引っ掻き回すコメディのようなところに着地するのかと思ったらそちらには行かないし、そういえばPaul Ruddがニュースキャスターをやっていた”Anchorman: The Legend of Ron Burgundy” (2004)みたいな支離滅裂な方にも延焼していかない。どちらもそれぞれの家庭と仕事と生活を大切にしなきゃいけないんだから、って踏み外すことからは遠ざかる… かに見えたのにCraigはストーカーのようにAustinにつきまとって、Austinからは出禁をくらうのだが、それでも…

すっとこどっこいコメディにいく手前、ストーカーホラーにいく手前で、Austinのある秘密が明らかになり、それがふたりの立ち位置を微妙に転換させて、しかし本当にそこ? そんなんでよいの? ってなりつつ、どこか生々しくどこか気持ちわるく、居心地がよくない。このなんとも言えない気持ち悪さがどこからくるのか - オトコの愚かさ? “Friendship”なんてだいたいそんなもの、というとこまで狙って作っているならたいしたもんかも。


Nueve reinas (2000)

7月19日、土曜日の午後、Heavenlyのライブに行く前、Curzon Bloomsburyで見ました。
これもふたりの男のお話だったかも。

アルゼンチン映画で、4Kリストア版がカンヌでのお披露目の後にリバイバル公開されている。英語題は”Nine Queens”、日本でも公開されていたのか、邦題は『華麗なる詐欺師たち』だって。
あと、アメリカでは”Criminal” (2004)としてリメイクされている。出演はJohn C. Reilly, Diego Luna, Maggie Gyllenhaalだって。 -未見。見たい。

深夜のコンビニで軽く釣銭詐欺をして捕まりそうになったJuan (Gastón Pauls)を遠くから見ていたMarcos (Ricardo Darín)が助けて、どっちも詐欺のフィールドでやってきたらしく、防犯ビデオに出てきそうな典型的なオレオレ詐欺とか、互いの腕を見せあったり仲間を紹介したりしていくなかで、それぞれの家族とか事情があって大金が必要であることがわかったので、ひとつでかいヤマでも当てようじゃないかと、ワイマール共和国時代の貴重な切手セット”Nine Queens”を狙うことにして…

ふんわりぼーっとしてて何を考えているのかわからないJuanと、一見ワルそうで実際によくないMarcosのコンビと全体に漂うしらじらとすっとぼけたふたりの空気感と、なにがどうなったってしらないよ、のカメラの距離感がなんとも絶妙で、それがあのラストにはまった時の <!> ときたらたまんない。

それにしてもアルゼンチンて、”Los delincuentes” (2023) - 『犯罪者たち』とか、どうしてどこかふつうと違ってなんかおもしろい犯罪者グループの映画が多いのかしら? “La Flor” (2016)なんかもそう? 

[theatre] Garry Starr Classic Penguins

7月21日、月曜日の晩、21:00からSoho Theatreで見ました。
演劇というよりネタがぱんぱんのコメディ。21時~と遅めの開始で、約60分一本勝負。理由は始まってからわかる。

Garry Starr, またの名をDamien Warren-Smithは、43歳になるオーストラリアの俳優、コメディアンで、この出しものは昨年のEdinburgh fringeで評判になったものらしい。爆裂にくだんなくて下品で、最高に楽しかった。

会場に入ると、背の高い椅子に背を向けて座って葉巻だかパイプをくゆらせている男の影があって、彼が向かっているディスプレイはジョン・エヴァレット・ミレーの「オフィーリア」の流れていくオフィーリアがペンギンになっている絵を映しだしている。右手には中くらいの本棚があって、オレンジ色のペンギン・クラシックスの本が棚の上下に詰まっていて、本棚の上にはOHPがある。

開始時間がきて、男 - この人がGarry Starr、たぶん - が立ちあがってこちらを向くと、下半身はすっぽんぽんで、首の周りにカラーを巻いて、燕尾服の上だけ羽織って、足にはオレンジの足ヒレ付けてて、要はこいつはペンギンなのでそういう格好なのか、客は当然大喜びだし、これは最初のツカミでやっているだけなのかも、と思ったら終わりの方はカラーだけのほぼ素っ裸になっていた。

このペンギン男がなにをするのかと言うと、横の本棚からオレンジのペンギン・クラシックスの本を端から順番に取り出して、表紙をOHPの下に置いて映し出すと、その内容を寸劇のように一発芸のように説明、表現していくの。それを20数冊はやったのではないか。もちろん彼ひとりでやるのではなく客を巻き込んだり、強引に客席にのりこんできたり。後方の席だったのでセーフだったがあの格好でサーフしにくるし… あと、客席に裸になってくれる人〜? って募ったりしてた(手をあげる女性とかいて、ほんとに裸になっているのでびっくり)。

『ガリバー旅行記』だと舞台にあげた客をガムテープではりつけにしたり、『怒りの葡萄』だとスーパーで買ってきたブドウのパックを開けてぶつけあったり、『ドラキュラ』はトマトジュースの大瓶を一気飲みして、お腹がぱんぱんになったところで『侍女の物語』、って繋いだり、これだけ聞けば、しょうもなー、とまあよく考えるねーの間を行ったり来たりなのだが、これを嬉々としてやっているのが半裸ぶらぶらのペンギン男である、という辺りでわけがわからなくなる。ペンギンの宣伝になるとも啓蒙になるとも、或いは反知性のようななにかをぶつけてくるとも思えず、ただひたすらバカらしくてお下劣なだけ(褒めてる)。

他にはウォーの『ブライヅヘッドふたたび』 - もじもじするだけ - とか、ウルフの『波』とか、ブロンテの『嵐が丘』とか、クライマックスは『ハムレット』だろうか、ペンギンの頭だけ被り物をした裸の男女数名が出てきて、踊りながら"Bohemian Rhapsody”をみんなで合唱するの。ラストはR. C. Sherriffの“Journey's End”。

ペンギン・クラシックスなので、登場するのはみんなが知っているクラシックばかりなのだが、何冊かは知らないのがあって、まだまだだな、って思った。

これ、日本でも誰か岩波文庫でやらないかしら?(もう既にやってる? あんなふうに裸になったら捕まっちゃうか..)

ペンギンは丁度90周年で、Waterstones(書店)のピカデリー店で小展示をしていたり(もうじきムーミンの80周年も始まる)、Penguin Archive Collectionていう一冊一冊のデザインが素敵で薄めでセレクションがちょっとマニアックなシリーズ(日本からは清少納言と川端康成)が出ていたり – Webだと5冊で£25 – 最近はいろいろ楽しい。

個人的には、BFIの前、Waterloo橋の下で、天気のよい土日にオープンする古本市で、ペンギン・クラシックスの古本 - だいたい1940~60年代の、値段だと£4くらいからいろいろの – をいつの頃からかちょこちょこ買うようになって、それがだいぶ貯まって山になってきてどうしたものか、になりつつある。最初は知っている作家や作品を中心に、だったのが表紙やタイトルがおもしろそうなら、になって止まらない。 大昔、岩波文庫を集めていた頃よりも底が見えないのがとってもこわい。 ペンギンのくせに。

8.01.2025

[theatre] A Moon for the Misbegotten

7月19日、土曜日昼のマチネを、Almeida Theatreで見ました。

原作はEugene O'Neillの”Long Day's Journey into Night”(1941)の続編で、これが彼の遺作で、初演は彼が、亡くなった後の1947年。邦題は『日陰者に照る月』。演出はRebecca Frecknall。休憩1回の2時間50分。

”Long Day's Journey into Night”は2003年のBroadwayでBrian Dennehy - Vanessa Redgrave - Philip Seymour Hoffman - Robert Sean Leonardというキャスティングのを見て、これが自分のほぼ一番最初の演劇鑑賞の体験で、演劇で流れていく時間、それを作っていく俳優たちってすごいな、と思って、その後、2018年にWest EndでJeremy Irons - Lesley Manville - Rory Keenan - Matthew Beardのバージョンも見て、要はぐちゃぐちゃ暗くて大好きな作品なので、これの続編だったら見ないわけにはいかない。

続編というのはこの芝居のJim Tyrone (Michael Shannon)は “Long Day’s…”のJamie Tyrone Jr.の歳をとったバージョンだからで、いっこおもしろいのは、Michael Shannon、2016年の“Long Day’s…”のBroadwayのリバイバルで、Jamie Tyroneを演じているんだよね。

舞台は古い材木や梯子や農具が雑然と置かれて埃っぽい納屋のような、それが主人公たちの住処なのか、どちらにしても閉ざされた室内劇のように進んでいく。

20世紀初(“Long Day’s…”の設定が1912年、これが1923年なのであれから11年後)のコネチカットの田舎の農家に髪ぼうぼう髭ぼうぼうで浮浪者とあまり見分けのつかない飲んだくれで声のでっかい農夫のPhil Hogan (David Threlfall)とその娘のJosie (Ruth Wilson)がいて、冒頭に末息子のMike (Peter Corboy)が我慢できない、って家を出ていって、でもそんなの気にせず父と娘は元気にがみがみ言い合って、Josieはわたしは自由なんだから、と言いPhilは勿論わかってる、と返すのだが、実際には… というよくありがちな。

そうやって喧嘩しているところに隣人のT Steadman Harder (Akie Kotabe)がやってきて、こいつもうざいので追っ払って、そうしているところにJim Tyroneが現れ、彼が母親の死後、農場を売る計画があることを知るとPhilはJosieにあいつをぐでんぐでんにして誘惑して一緒になって農場を貰っちまおう、って吹きこむと元々Jimに気があったJosieはやってやらあ、って乗ってくる。

今もどこにでも転がっていそうな、酔っ払いが別の酔っ払いをどうにかしようと企んで、という与太話のような展開なのだが、Eugene O'Neillなので、そこに家族の支配関係 – Phil→Josieや、Jimと亡き母 – や男のしょうもない強がり、マザコンのJim、取引材料としての女性の身体、それらぜんぶを直視したり考えたりしないための飲酒に酩酊など、いろんなテーマが混然となって、結果だれもどこにもいけない長い旅路を描いて – 最後Jimは旅立とうとするけど – そのどんよりと腐って発酵していくかんじがよいの。(近寄りたくないけど)

ただ今回のは“Long Day’s…”と比べるとシンプルでわかりやすくて、劇としてはやや平板だったかも。もっとJosieが暴れたりどついたりしてくれるかと思ったし、思いきりコメディの方に転がったっておかしくないし、今ならそれをやっても.. とか。

クライマックス、朧月夜の晩にJimがJosieにもたれかかってよいかんじになるシーンはさすがに見事で、こんな月夜に狂いたくても狂えない、くっつきたくてもくっつけない/くっつきに行けないもどかしさと苦悩、そしていろんな諦めと沸騰寸前まで昇っていくテンションを「息子」であるMichael Shannonと「娘」であるRuth Wilsonは見事に粗く、しかし繊細に体現していた。ふたりのそもそもの仏頂面、笑顔をつくれなくなった顔がどんよりの月の光に映えること。

これって、日本の昔の(今もか)村とかにいくらでもありそうな話なので、日本で上演してもはまるし、わかってもらえるのではないか。あんま見たいとは思わないけど..