6.30.2019

[log] June 2019

6月も終わりなので他に見たり行ったりしたあれこれを少しだけ書いておく。

Harald Sohlberg: Painting Norway

Dulwich Picture Galleryでの展示。Harald Sohlberg (1869 - 1935)はノルウェーの風景画家で、白く浮かびあがった雪山とか星空の下のお墓とか、あまり信仰に寄らないようなところで神々しく広がる風景をドライにぺったんこに切り取っている。特に空の色と壁の色がすばらし。

PBFA Book Fair → Firsts - London's Rare Book Fair

7日の金曜日にホテルの宴会場みたいなところでBook Fair - 古本市があって、Second Shelfも出店するというので行った。金曜の午後、会場内はものすごく穏やかで緩い空気で価格もそんなでもないのが多いのでだらだらしているとEvelynWaughのサイン本とかにぶつかったり(買わない)。

がんばってなんとか持ちこたえて外にでたら別のBook Fairの会場に向かうシャトルバスがあったので乗ってしまった(ふたつのFairの関係はわからず。なんで同じ日にやってるのかも不明)。こっちの会場のは昨年も来たことがある、ヨーロッパ中とかアメリカとかからも古書店がやってくる来るお金持ち収集家向けのFairで、みんな本を買うというより取引商談しているかんじなので、ここではほぼ鑑賞のみ。

こないだ4月にフランスの田舎のトマト箱からVirginia Woolfの最初の小説”The Voyage Out”のVanessa Bell所有本(たぶん)が発見された、ってSecond Shelf界隈でちょっとした騒ぎになったのだが、あれの値段(車買うより安いわよ)を遥かに超えて高額な本とかプリントとかごろごろしている。 Virginia Woolfの古本もやはり”Mrs Dalloway”とか”The Waves”とか”To the Lighthouse”とかの美本になると途端にすごく高額になることを知る。こないだSecond Shelfで”Flush: A Biography”を飛びおりるかんじで買ったのだがそんなのぜんぜん甘いのだった。(でもその後あの店ではFlushが立て続けに売れて在庫なくなる、という珍現象が)

日本では神田の古本祭りくらいしか行ったことなかったのになんでこっちで古本屋に通うようになってしまったのだか。今はレコード屋にいるより新刊本屋にいるより長くなってしまったかも。

Open Garden Squares Weekend

8-9日の週末。 ロンドンの町から名所旧跡と公園を除いたら何が残るかというとほぼお庭と建物で、でもどちらも近隣の住民にしか公開していないのも多くて、普段町を歩いてもいつも柵の外から眺めるしかないのだが、そういうお庭(ぜんぶではない)を2日間だけオープンにするよ、ていうイベントで、建物の方は9月に同様の”Open House”ていうイベントがある。お庭によって土曜日のみ公開、日曜日のみ公開、両日とも、とかあって、£20のチケットで両日の開いているところに入ることができる。

Tate Modernの近所のとかEnnismore Gardenとかほんとに素敵で。普段外から見えなくしているその裏でいろんなお花とかいっぱい育ていて水場とかもあるし、これだからキツネなんかもいるわけね、と。
Ennismore Gardenの正面にAva Gardnerがロンドンで住んでいた邸宅があって貸しに出ているみたいなのだがすごくて。

Writing: Making Your Mark

British Libraryの展示で、象形文字から入ってアルファベットの起源とか印刷の木版、活版とかカリグラフィに墨書きに、なん千年続いてきた人の「書く」という行為に纏わる道具とその進歩とかその結果とかいろいろ、その裾野の広さと広がりも含めて「アート」の営みなんだなあ、と。 James Joyceの” Ulysses”のノートとして記された紙の色付きぐしゃぐしゃがたまんなかった。

FOOD: Bigger than the Plate

V&Aで上の"Writing"と同じようなかんじで始まった「食」に関する展示。 Compostからはじまって蒔いて育てて刈って食べての食にまつわるプロセス全般をアートはどう扱ってきたか、というよりも、これまでいろんな会社や産業がやりたい放題やってきたそれぞれのプロセスをSustainabilityの観点からアートとしてとらえ直してみてはどうかしら? ていう試み。 なんかどっかのコンサル屋の仕事臭みたいのがぷんぷん、でもあるのだが、言ってることはわかる。 一皿の上に乗っかって出てきたものを単においしー、って食べて終わるだけでなく、その皿の外側と背後に広がる時間と空間を想像してみること。 お皿を絵画のフレームのように捉え直して考察してみること。 そういうことが求められているの、とっくに。

Mary Quant

V&Aの”Christian Dior: Designer of Dreams”はいまだに大人気みたいだが、いつものファッションコーナーでやっているこちらの展示もよいの。 自分の昔のMary Quantを着た年配のご婦人が娘とか孫と一緒に来て、展示物を指して、ほらこれでしょ? とかって写真撮っているの(数回みた)。

Canterbury Cathedral

22日の土曜日、東方の町、カンタベリーに行ってみた。電車で1時間強(通勤圏?)。ここを含めて世界遺産3つ。
映画 - ”A Canterbury Tale” (1944)のかんじを求めて行ったのだが、大聖堂は改修中だったし陽射しが強すぎてあんまかんじ出なかったかも。 でもSt Augustine's Abbeyの廃墟感とかSt Martin's Churchのお墓とか、たまんないねえ。
川とかきれいでカモがいっぱいいた。 カンタベリーのロックとの関連は、やっぱしないわよ。

Fred Frith + Steve Beresford + David Toop


29日、土曜日の晩、Cafe OTOで。 Fred Frith先生の生誕70周年お祝いで3日間連続ライブが行われていて、共演者は毎日違うのだが、この日のこれが一番年寄り向けぽかったので。
先生を最後に見たのは00年代のKnitting FactoryでのMassacreか、中野かどこかでのSoloだったか、どっちだったかしら。

真ん中に大学の先生みたいにFred Frith、左手に西洋の聖職者みたいなSteve Beresford、右手に東洋のお坊さんみたいなDavid Toop。 Frithさんはいつものようにギターを寝かせて立たせて上から金物圧したりじゃらじゃら鳴らしたり、Steve Beresfordさんはエレクトロニクスとプリペアドピアノ、David Toopさんは、小さいエレクトリックギターと管楽器と。 たまにふつうにギターを抱えていると変なかんじに見えたり。 休憩を挟んでたっぷり1時間半、年寄りの耳をやさしく包んでくれるがりがりノイズだった。


一年のはんぶんおわりかあー。

6.28.2019

[theatre] Les Damnés

24日、月曜日の晩、Barbican Theatreで見ました。 “The Damned”。

バンドのThe Damnedのライブではなくて、Luchino Viscontiの”The Damned” (1969) - 『地獄に堕ちた勇者ども』 - この邦題さあ…  の舞台化。 演出のIvo van HoveはこれまでViscontiの”Rocco and His Brothers” (1960), “Ludwig” (1973), “Obsession” (1943) -『郵便配達は二度ベルを鳴らす』– Jude Law主演のこれは2017年にBarbicanで見た – を舞台化してきていて、これが4つめとなる。

演じるのはComédie-Françaiseで、2016年のアヴィニョン演劇祭で初演されたもの。 ロンドンに彼らが来るのは20年ぶりだって。 Comédie-Françaiseは96年にBAMで見て以来の。

むきだしでがらんと殺風景なステージは後ろに大きなスクリーンがあって、全体にリハーサルスペースのよう(Ivo van Hoveのいつもの)で、少し高くなった左側には衣装コーナーとか化粧台とか長椅子があって、同様に少し高くなった右側には蓋の開いた棺桶が6つ、ステージ中央の一番前には骨壺と蒸気の笛(誰かが亡くなるたびに遺灰がここにくべられてピィーって鳴り響く)があり、最初に登場人物たち、彼らをライブカメラでシューティングする人たちも含めて軍隊のように勢揃いする。背後では耳奥を圧する重轟音が。

背後のスクリーンには時折30年代のドイツの世相や情景を映したフィルムが投影され、そこにステージ上で俳優たちが演技する姿をライブカメラで捕えた映像が被さり、さらにこれにAR的なエフェクトも加わり、時折カメラは俳優たちだけでなく客席にいる我々も映しだす。 上映言語はほぼフランス語なのでスクリーンの上には字幕スクリーンもあり、客席の我々は俳優の演技、スクリーン、字幕、少なくともこれらを追うし、ステージ上の俳優は客席に向かう演技とカメラに向かう演技のふたつを選り分けたり慌ただしい。他にも本来ナチス台頭期のドイツの一族のドラマをフランス人俳優たちがフランス語で演じるとか、半狂乱のSophieが客席の上の方から劇場の外(まだ明るい)にまで飛びだしていくところを延々追っかけるカメラとか、舞台のありようを異化して脱臼させるいつもの仕掛けは、こないだの”All About Eve”よりも”Obsession”よりも派手で大掛かりなかんじ。

ドラマはナチスドイツの勢いが増してきた頃、鉄鋼で財をなした富豪のEssenbeck家が家の存続と権益の確保のために(嫌々ながら or 企みをもって)親族の深いところまでナチスとの関わりを強めていって、結果としてひとりまたひとりと裏切りや密告や脅しなどなどにより圧殺、自壊、自滅していくどろどろをノンストップで描いていく。 特に女帝として一族を操るSophie (Elsa Lepoivre)の底なしの情念と堕ちるところまで堕ちていく息子のMartin (Christophe Montenez)の悶えっぷりあがきっぷりは凄まじく、最後にMartinは血まみれ素っ裸になって一族全員の遺灰を頭からかぶって仁王立ち、機関銃をこちらに向けてくる。

幕間はないのだがストーリー区切りの手前で処刑されたり自殺したりで棺桶に入る人々は、入るときはおとなしく死んでいるのだが、その蓋が閉じられて笛が鳴ったあと、しばらく棺桶のなかで苦悶し絶叫する(当然誰にも聞こえない)さまが棺桶内カメラで映しだされて恐ろしいったらない。それがライブであることも。

あとは長いナイフの夜事件での男たちの裸踊りとか、フィルム上の焚書のシーンで読みあげられる作家たちの名前 - ジィド、プルースト、ジョイス、ドストエフスキー、トルストイ、カフカ、ブレヒト、ベンヤミン、等々(他にもいっぱい、好きな作家ばかり)とか、全体として凄惨で情けも救いもどこにもなくて、身も凍るような場面の数々も、この舞台がまだリハーサル現場のような建てつけであることによって、かろうじて救われている。他方でこれを「リハーサル」であり、だから「救われている」とする根拠なんてじつはどこにもありゃしない、と。

独裁・寡頭化と密室政治が横行して気がつけば棺桶の傍とか自分が掘った穴の底にいて、手に取るようにわかるレミングの、破滅の構図、って歴史絵巻でもなんでもなく、いまのにっぽんそのものだわ、って。 われわれはEssenbeck家じゃないから、ってみんな言うかもだけど、その時点でもうしんでるんだから。

Comédie-Françaiseの役者さんたちは、ほんとにすごい。字幕を追わなくても声の出し方や抑揚でそれがどこに向かう誰の(虚偽の、真の)言葉なのかがすぐにわかるし、それに反射する動作の速くて滑らかなこと、そのエネルギーの総量ときたら。

音楽はシュトラウスとか当時のがかかったりする反対側で、Rammsteinがばりばりの大音量で、ここで鳴らなくてどうするの勢いでぶちまけられる。Comédie-FrançaiseでRammstein、なんてかっこよいことだろう。

また見たい、けどもう終わっちゃったのか。

6.27.2019

[film] Toy Story 4 (2019)

23日、日曜日の昼、CurzonのVictoriaで、元気いっぱいの多様なガキ共にまみれて見ました。

Toy Storyの1は未見、2は部分部分をTVで見ただけ、3は飛行機で見てぼろ泣かされて覚えてろよ、だった。子供たちの思い出そぼろにまみれて、彼らを喜ばせるために存在するおもちゃと愛されることに失敗したおもちゃの衝突を軸に、変わっていく愛と変わらずに残る愛や思い出、家族と巣立ちとかが壊れたり捨てられたりしたら終わりのおもちゃ目線の切なさやりきれなさたっぷりと共に描かれていた。あんなのずるい。

前作の最後に持ち主はAndyからBonnieに変わって、幼稚園に行くことになったBonnieなのだが、人見知りの激しい彼女をToyのみんなは心配していて、そしたら彼女はプラスティックのフォークスプーン(sporkっていう)で”Forky”ていう友だちを作ってきて、でもこいつは自分のことをゴミだと思っているのですぐに自分からゴミ箱に飛んでいく(他のゴミもみんな彼を見習えばいいのに)し、Bonnieに愛されるということがよくわからない、慣れていないらしい。

WoodyとかみんなはBonnieにとってなくてはならない存在のForky – でもこいつにとってBonnieはそうじゃない - のことが心配で、家族旅行の途中でForkyはどっかに飛んでいっちゃったので、Woodyは彼を探しに出て、そこで昔の仲間だったBoと三頭羊とか射的の屋台で吊るされていたDucky(黄色)とBunny(緑)とか、アンチーク屋で人形のGabby Gabbyとかと出会って..

ストーリーの展開とか決着のつけ方についてはあんなもんかなあ(3 ほどごりごり泣きながら絞めてくるかんじはない)なのだが、Toy – おもちゃの概念をこじ広げようとしているようなとこって、すごいな、と。 つまり、これまで出てきた”Toy”って基本はおもちゃ屋で売られていたある程度完成された商品だったわけだが、子供が自分で作ったようなやつ - 今回のForkyはわかりやすいけど、場合によっては石ころとか缶からとか、しょうもないのもいっぱいあるだろうし、Ducky & Bunnyみたいに遊園地にいるみんなのためのやつ - これ、かぶりモノとかは入るの? とか、決定的なのは持ち主からはぐれてノラになったようなToyって、それでもToyなのか? 答えはYesで、子供たちを癒したり喜ばせたりすることができて、そこに自分たちが自覚的になった以上、彼らは”Toy”で、”Toy Story”を語る資格があるのだ、と。

これ、こないだの”Pet 2”にも同様の傾向はあって、サーカスにいた奴とか農場にいる奴とか、人間 – 特に子供の周りにいて彼らと一緒に思い出作りに加担するようなあれこれは、なんでも取りこんで包囲網を作って拡大再生産して売るよ、みたいなDisney根性ときたらすごい。 あとついでに、そいつらを受けとめる子供の頭のなかはどうなってるの? っていうと ”Inside Out” (2015)が既にあったりする。

こういうのを見て育った子供たち、こういうのを見て感動してきちゃった親たちが育てる子供たちがどんな大人になっていくのか、ぜんぜんわからないし興味もないのだが、彼らが次の世界を担っていく(←こういうのすごくやだ)のであれば、世界はこういうのだけじゃないとっても悲惨で野蛮で残酷で無意味でしょうもないのもいっぱいある、ということをわかって貰えるとは思えないけどわからせるにはどうしたらよいのかなあ、って。 既にとっくに自分たちの見たいものしか見ない見たくない、それがなにか?  になっちゃっている子達に対して。 まあいいや、だけど。

で、Randy Newmanの音楽は今回もそういう地点で冷たく暖かく鳴っているの。

Ducky & Bunnyで、スピンオフやってくれないかなあー。

[film] Thunder Road (2018)

20日木曜日の晩、Prince Charles Cinemaで見ました。 なぜか35mmでの上映なのだが、ものすごく陰影がきれいに撮られているのでよいかんじだった。

監督/主演はJim Cummings、この名前をふつうにサーチすると『くまのプーさん』の声優さんが出てくるのだが、この人とは別人で、2016年に撮った同名の短編映画がSXSWでShort Film Grand Jury Prizeに輝いて、この作品はそれをベースに長編として引き伸ばしたものだという。

冒頭、警官のJim (Jim Cummings)は、自分の母親の葬儀でめそめそ泣き虫まみれの弔辞をして、そのなかで母親が大好きだったBruce Springsteenの"Thunder Road"を彼女が自分にどんなふうに歌って踊ってみせたかを再現しようとするのだが、ラジカセが壊れて動かないので癇癪起こして大惨事になり、それを動画に撮られて娘のCrystalと別居している妻のRosalind (Jocelyn DeBoer)は困惑するしかない。(元の短編はこの部分を撮ったものらしい)

母親の死によって加速されたのか元々そうだったのか不明だが、子供みたいにあたまに血がのぼると自分でなにやっているのかわからなくなって自爆していくJimの勤務先での同僚とのやりとり、現場で思いっきり踏みこんだら犯人が自殺しちゃったり、離れて暮らしていて何されても痛くないCrystalとのやりとり、Crystalの教師とのどこまでも噛みあわない変な議論、これらの一見笑えそうで、でもほんとうに笑ってよいのかよくわからない微妙な温度感のあれこれが、勤務中の挙動が問題になって警察をクビになり、同僚の友達からは呆れられ、Rosalindからは離婚を切り出され、法廷ではJimを暴力的性向ありとする判事との間でへまして全てを失っていったり、Jimはどうなっちゃうのか。

予告も宣伝もどたばたコメディふう(ちょっとだけ涙)なかんじだったのだが、あんまし笑えなくて引き攣ってしまうようなのばかりで、単に「大人になりきれない大人子供」のギャグ集で済ませてしまってよいのか、ひょっとしたら”First Reformed” (2017) - 『魂のゆくえ』のような果てのない彷徨いを描いたもの、くらいの重さをもったものではないのか、とか。

終盤、Jimは葬儀には来れなかった姉に会いにいって、生前の母のエピソードを聞いたりして、それで放心して戻ってみたらRosalindがドラッグで突然死んでしまって… ていう激しいアップダウンが最後まで。

“Thunder Road”の歌詞の世界、なのかもしれないがこの曲をカバーしたBadly Drawn Boyがサントラをつけた”About a Boy” (2002)のことも思いだしたりして、歌詞でいうとこの辺あたりかしら?;

    - Show a little faith there's magic in the night
    - You ain't a beauty but hey you're alright
    - Oh and that's alright with me

最後まで“Thunder Road”の曲そのものが流れることはないのだが、アメリカ南部にいくらでも転がっていそうなあんまぱっとしない人たちの間に星空のように降り注ぐイメージがこのタイトルを置くだけで素敵にやってきて、笑ってじーんとして、みんながんばろ、になる、今どき珍しいかんじのドラマだった。

ところで、主演のJim Cummingsと妻を演じたJocelyn DeBoerさんは別のコメディドラマでも夫婦役をやっているのだが、そいつはまだ書くことができないの。

6.26.2019

[film] Death Becomes Her (1992) : Drag Show Bitch-along

BFIで進行中の6月の企画”Playing the Bitch”、特集されている映画の方はぜんぜん見れていないのだがBitchってなんなのかしら? ていうのをぼーっと考えている。時間があったらちゃんとリサーチして纏めてみたいくらい。なんでか? - はあんま考えてないけど。
その関連でふたつ。

An Attempted History of the On-screen Bitch

15日の土曜日、BFIであった60分くらいのトークで、今回の企画のプログラマーのAnna Bogutskayaさん(ホラー映画を紹介するThe Final Girlsのメンバーで、この人のセレクションは信頼できるの)がいくつかの映画のシーンを上映しながらBitchが起動するtypicalな瞬間を紹介していく、というもの。

クリップとして紹介されたのは、“Baby Face” (1933) ~“The Women” (1939)  ~ “Dangerous Liaisons” (1988) ~ “The Last Seduction” (1994) ~ TVドラマの”Dynasty” (1981-)  ~ 同様にTVから”American Horror Story” (2011–)。 言及があったのは “Carmen Jones” (1954), “All About Eve”(1950)  “Body Heat” (1981),  “Cruel Intentions” (1999),  “Heathers” (1988) とか。

映画の中で適正にBitchを位置づけるのってなかなか単純じゃないかんじなのだが、いっこ印象に残ったのは、映画のなかで「正しい」ものとして描かれた「女性像」の反対側 - 男からすれば複雑でわかりにくいところ - にBitchはいる、っていうのと、例として出てきたクリップの中だと、”Baby Face”でBarbara Stanwyckが都会に出るときにニーチェを読み聞かせるおじさんから言われる “Exploit yourself! Go to some big city where you will find opportunities. Use men! Be Strong! Defiant! ..” ていうあたりが正にそれ、って。

Death Becomes Her (1992) : Drag Show Bitch-along

21日、金曜日の晩にBFIのBitch特集でみました。
“Bitch-along”とあって、”Sing-along”は「みんなで歌おう」上映会だから、これは「みんなでビッチしたれ」ていう主旨の普通ではない上映なのだが、映画も見たことなかったし、どんなのか知っておいてよいかも、とチケット取ってみた。他に同様のBitch-along”をやっている映画としては、Prince Charles Cinemaでやっている”Mean Girls” (2004)があったりする。

入口でMeryl Streepの顔がついてる厚紙のお面 – “Team Mad”とGoldie Hawnの顔がついてるお面 – “Team Hel”のどちらかを貰う。お面の裏側には映画の中でのそれぞれの立場での攻めどころとかつっこみどころが書いてある(でも結局誰もその通りには動かなかった)。客層は女性ばっかり、というほどではなくて男性も結構いて埋まっている。

最初にプログラマーのAnna Bogutskayaさんが映画の紹介をしようと檀上にあがっていつものように喋り始めると「ちょっとまておらあー」と割れ鐘のような怒号が響いてMCのドラァグクイーンのBaby Lameさんが現れ、なあに気取ってんのよあんたBFIがなんぼのもんよ、みたいにどつきまくってAnnaさんをステージから追いやり、自分のテーマ曲みたいのを歌いあげて、客席を少しいじって(この映画見たことない子〜?  あらあらほんと救いようないわねあんた、とか)、ルールの説明にはいる。ルールは3つ。 1. Make Noise! 2. Have Fun! 3. Don’t Be an Actual Bitch!! で、Team MadのよいこはGoldie Hawnが出てくるシーンで彼女をくそみそ言っていいし、Team HelのよいこはMeryl Streepを野次りまくっていいのよ、って。 こいつ、ドラァグクイーンていうよりナマハゲだよな、て思う。

あとは、今宵はMerylの70歳の誕生日だから彼女にお誕生日のプレゼントとしてメッセージ送りつけてやりましょ、ってみんなしてスマホでお祝いメッセージ撮って、みんな知らないと思うけどこの映画は93年のオスカー獲ってるのよ、でも主演女優賞はなんでか”Howards End”のEmma Thompsonに行っちゃったので視覚効果賞で。”Alien3”と”Batman Returns”を抑えて。でもやってることといったらMerylが若返るシーンで彼女の乳を後ろから付き人の子がUpするとかそんなもんなのよ。とか… (実際のシーン、たしかに..)

映画のほう、邦題は『永遠に美しく…』。上映が始まってからも、Baby Lameさんはずっとステージの隅でマイクを抱えてつっこみ入れまくってて、激しいシーンになるとばたばた走り回って煽って、客も負けずにすごいことを言いまくる。

78年に女優のMadeline (Meryl Streep)と作家のHelen (Goldie Hawn)の友達同士がいて、Helenの婚約者で美容外科医のDr. Ernest (Bruce Willis) をMadelineが落として横取りして、Helenは落ちこんでぶくぶくになって、92年、”Forever Young”ていう本を出したHelenはぴかぴかに蘇って復讐モードで、落ち目のMadelineはなんで? って追ってみるとLisle (Isabella Rossellini)の怪しいお屋敷にたどり着いて、そこで小切手を切って彼女のクスリを飲んでみるとHelenと同じように若返って、でもErnestに近づいたHelenはMadelineを殺すように仕向けて..

若さと美への執着が生き残りをかけたどろどろの争いにまで広がっていくのだが、永遠の、死なないボディに行きついてしまうと 今度はなんかすべてどうでもよくなって.. 
たしかに憎悪むきだしで殺し合おうとするふたりのサマはBitch全開なのだが、ふたりの間にいるBruce Willisが無傷で逃げ切るのは許せないし、ちがうんじゃないか、って。 今の世だったら案外アウトかも。

監督はRobert Zemeckisなのだが、彼の女性の体パーツ – バラバラ - に対する拘りって、最近の”Welcome to Marwen” (2018)にも出てきたような..

という、なかなかたのしい金曜の晩だった。

6.25.2019

[film] Men in Black: International (2019)

16日、日曜日の夕方にPicturehouse Centralで見ました。

Will Smithがランプの精になっちゃったので再起動されたやつ? 最初はエッフェル塔でHenry - H (Chris Hemsworth)とHigh T (Liam Neeson)がなにかに向かって突撃しようとしているその瞬間とBrooklynの自宅で小さい頃のMolly (Tessa Thompson)がエイリアンに遭遇するところが描かれて、そこから20年くらい経ってMollyはFBIに優秀な成績でパスしてMIBの部署に行かせろっていうのにシラを切られたのであたまきて本部の建物に潜りこんだら捕まって、HeadのEmma Thompsonに試用してやるからまずロンドンに行け、って言われて、電車に乗ったらもうロンドンでHenryとかに引きあわされる。

Henryにいろいろ手ほどきを受けつつエイリアン友達のいるクラブに行ったら怪しい双子にそいつを殺されてなんかを奪われちゃったのでそのブツを追ってマラケシュ行ったり海辺の武器商人のとこ行ったりインターナショナルに動きまわるの。そうやって掘っていくうちに明らかになってくるHとTの過去とか、やっぱし最後にやってくる地球の危機とか。

タイトルも宣伝もいかにも消化試合みたいにてきとーなかんじがしたらやっぱしそんなふうで、元のシリーズが持っていた宇宙から落ちてくるいろんな脅威を迎え撃つわくわく – どんな変なのやばいのがくるんだろ - はあんまなくて、インターナショナルていうくせに狭い身内組織のごたごた - 怪しいのはどこの誰? - みたいのに終始してて、これじゃ”Fantastic Beasts”シリーズとかこないだの”Pokémon Detective Pikachu”とか既存のご当地化け物シリーズとあんま変わらないかも。謎解きみたいなとこに関していうと、最初の方でなんとなく怪しいやつわかっちゃうし。

じゃあ少なくとも”Thor: Ragnarok” (2017)でなかなかのコンビネーションをみせてくれたChris HemsworthとTessa Thompsonのふたりはどうかというと、確かに悪くないけど、ふたりが揃ってかっこよくどんぱちやる絵があんまないのと、”Thor”のときは彼女が上に立って堂々と仕切っていた、あれがよかったのになー。なんかとっても惜しいの。せっかく素敵なふたりなのにさ。

黒のスーツと秘密兵器で星空の彼方からやってきた魑魅魍魎をクールに始末して後には何も残さない、っていう基本形が、人知れず懐に忍びこんでいた何かとの戦いってなった途端にクールじゃなくなっちゃう、だってそんなの普段の生活にだっていくらでもあるしいるし戦ってるんだもの。

しかし、こないだの”Late Night”でもEmma Thompson の部下の女子の名前は”Molly”だったねえ。偶然かしらねえ。

もうじきのSpider-Manといいこれといい、無理してロンドンに来なくていいよ。しかもBrooklynとかQueensとかの奥地からさー。

あと、決定的なところを言うと、パグが足らない。もっとパグ盛って。

6.24.2019

[film] You Can Count On Me (2000)

16日、日曜日の午後、BFIで見ました。日本ではビデオリリースのみ、だって。こんなにおもしろいのにさ。

上映前のイントロでMatthew Broderick本人が登場するというので、そりゃ行くわ、になった。なんで彼が突然現れたかというと、彼はいま(~8月迄)West Endで本作の監督Kenneth Lonergan原作の演劇 “The Starry Messenger”に主演しているから(演出はSam Yates、共演はElizabeth McGovern。そのうち行く)。  まあ日曜の午後にFerris Buellerがやってくるのであれば、会いに行くのは当然よね。

イントロというよりは座って少しお話ししてくれて、Kenneth Lonerganとは高校が一緒で15歳くらいのときから互いに知っていて、大学に進んだあともNYの演劇サークルで顔を合わすこともあって、だからこの、彼の長編監督デビュー作に出るのも二つ返事だったし、演技で彼が求めていることもだいたいわかるし、とか。 そうなんだー、しかない。

NY郊外の田舎 – Catskill – 昔一度だけ行ったことある – で冒頭、車に乗っている夫婦が交通事故にあうところと、自宅でふたりの帰りを待っている子供たち - 姉弟 - とそれに続く両親のお葬式があって、やがて子供たちは大きくなって姉のSammy (Laura Linney)はシングルマザーで、銀行に勤めながら一人息子のRudy (Rory Culkin – これがデビュー)を育てていて、ある日弟のTerry (Mark Ruffalo)が訪ねてくるのだが、彼はずっと不良でふらふらしていたのであまり歓迎されていなくて、近況を聞けば少し刑務所に入っていたとかいうので姉はあんたなにやってんのよ!てしばいて、でも女友達が自殺未遂したり悲惨で、他に行き場もないようなのでしばらく置いてあげることにする。

Sammyの勤める銀行には新しいマネージャーのBrian (Matthew Broderick)が来て、はじめ人あたりは良さそうだったのだが、Rudyの送り迎えでこれまで許されていた勤務時間の調整をぜったいダメ、って言ったりPC画面の色を勝手に変えるな、とかいちいちネチネチ絡んできてなんか面倒なかんじでやってられない。それとは別に昔から付きあっているBFのBob (Jon Tenney)と情事を重ねたりしているといきなりプロポーズされてびっくりしたり。

お話しはなかなかしっくりいかないSammyとTerryの姉弟仲と、ごろごろしつつ家の修繕したりプールバーに行ったりしているTerryとRudyのやりとりと、SammyとBobの関係に加えてなぜかいきなり関係が始まってしまった(ここ、おもしろ)SammyとBrianの間とを追いながら、悩んだSammyは教会に告解に行ったり(牧師役は監督本人)、ほぼみんないい大人なのになかなか互いに信頼されず・できずにずるずる悶々と同じサークルを回っている人々を描いてとってもおもしろい。

放蕩息子の帰還というテーマだと最近の”Manchester by the Sea” (2016)に近いかもだけど、あれよりはやや軽くて、笑えるところもいっぱいある。最後のほうでTerryはRudyに実の父親 - Rudy Sr. (Josh Lucas)を見せてやろう、って会いに行くのだが..

細かい会話を積み重ねていくなか、そこに突発的な事故や事件をねじ込んだりしたらその関係たちはどんなふうに影響を受けて、その前後でそれぞれの会話のありようはどう変わっていくのか、を少し離れて眺めているかんじのKenneth Lonerganタッチは既にあって、改めて”Margaret” (2011) – 3時間バージョンの方を改めてみたいよう。

俳優陣はこないだ見た”In the Cut” (2003)よりも更に若くて漲っていて、Rudyと一緒になって笑ったり泣いたりどっちが大人なんだか、のMark Ruffaloは既にじゅうぶん彼になっているし、Laura Linneyのひきつってとんちんかんでおろおろ勝手に転がっていってしまう挙動も素敵としか言いようがなし、Matthew BroderickのFerrisが180度暗転したかのような隙のない嫌な奴っぷりは彼ならでは、だと思った。

まったく同じキャストで20年後の彼ら、を撮ってくれないかしら?  “You Can Still Count On Me” って。