23日、日曜日の昼、CurzonのVictoriaで、元気いっぱいの多様なガキ共にまみれて見ました。
Toy Storyの1は未見、2は部分部分をTVで見ただけ、3は飛行機で見てぼろ泣かされて覚えてろよ、だった。子供たちの思い出そぼろにまみれて、彼らを喜ばせるために存在するおもちゃと愛されることに失敗したおもちゃの衝突を軸に、変わっていく愛と変わらずに残る愛や思い出、家族と巣立ちとかが壊れたり捨てられたりしたら終わりのおもちゃ目線の切なさやりきれなさたっぷりと共に描かれていた。あんなのずるい。
前作の最後に持ち主はAndyからBonnieに変わって、幼稚園に行くことになったBonnieなのだが、人見知りの激しい彼女をToyのみんなは心配していて、そしたら彼女はプラスティックのフォークスプーン(sporkっていう)で”Forky”ていう友だちを作ってきて、でもこいつは自分のことをゴミだと思っているのですぐに自分からゴミ箱に飛んでいく(他のゴミもみんな彼を見習えばいいのに)し、Bonnieに愛されるということがよくわからない、慣れていないらしい。
WoodyとかみんなはBonnieにとってなくてはならない存在のForky – でもこいつにとってBonnieはそうじゃない - のことが心配で、家族旅行の途中でForkyはどっかに飛んでいっちゃったので、Woodyは彼を探しに出て、そこで昔の仲間だったBoと三頭羊とか射的の屋台で吊るされていたDucky(黄色)とBunny(緑)とか、アンチーク屋で人形のGabby Gabbyとかと出会って..
ストーリーの展開とか決着のつけ方についてはあんなもんかなあ(3 ほどごりごり泣きながら絞めてくるかんじはない)なのだが、Toy – おもちゃの概念をこじ広げようとしているようなとこって、すごいな、と。 つまり、これまで出てきた”Toy”って基本はおもちゃ屋で売られていたある程度完成された商品だったわけだが、子供が自分で作ったようなやつ - 今回のForkyはわかりやすいけど、場合によっては石ころとか缶からとか、しょうもないのもいっぱいあるだろうし、Ducky & Bunnyみたいに遊園地にいるみんなのためのやつ - これ、かぶりモノとかは入るの? とか、決定的なのは持ち主からはぐれてノラになったようなToyって、それでもToyなのか? 答えはYesで、子供たちを癒したり喜ばせたりすることができて、そこに自分たちが自覚的になった以上、彼らは”Toy”で、”Toy Story”を語る資格があるのだ、と。
これ、こないだの”Pet 2”にも同様の傾向はあって、サーカスにいた奴とか農場にいる奴とか、人間 – 特に子供の周りにいて彼らと一緒に思い出作りに加担するようなあれこれは、なんでも取りこんで包囲網を作って拡大再生産して売るよ、みたいなDisney根性ときたらすごい。 あとついでに、そいつらを受けとめる子供の頭のなかはどうなってるの? っていうと ”Inside Out” (2015)が既にあったりする。
こういうのを見て育った子供たち、こういうのを見て感動してきちゃった親たちが育てる子供たちがどんな大人になっていくのか、ぜんぜんわからないし興味もないのだが、彼らが次の世界を担っていく(←こういうのすごくやだ)のであれば、世界はこういうのだけじゃないとっても悲惨で野蛮で残酷で無意味でしょうもないのもいっぱいある、ということをわかって貰えるとは思えないけどわからせるにはどうしたらよいのかなあ、って。 既にとっくに自分たちの見たいものしか見ない見たくない、それがなにか? になっちゃっている子達に対して。 まあいいや、だけど。
で、Randy Newmanの音楽は今回もそういう地点で冷たく暖かく鳴っているの。
Ducky & Bunnyで、スピンオフやってくれないかなあー。
6.27.2019
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