9月19日、金曜日の晩、ICAで見ました。
ドイツの女性映画監督、Pia Frankenbergの特集で3日間で5本の上映がある、と。
彼女のことは殆ど知らなくて、Ulrike Ottingerの” Freak Orlando” (1981)にScript Supervisorとして参加していたり、写真家のElliott Erwittと結婚していたり、いろいろあるようなのだが、本人も来てトークをするようだし、見てみようかな、くらいで。
Der Anschlag (1984)
彼女の2番目の短編で、英語題は”The Assault”。 8分くらいのモノクロで、Pia Frankenberg自身も登場する。今回は35mmプリントでの上映。歩いている男性が、そこにいた女性を突然ビンタしてそのまますーっと立ち去って、女性はなんてこと? ってやり返せないまま絶句してしまうのだが、しばらくすると、彼女がそこらにいた人をビンタしていて、気がつくとその振る舞いが街中に伝播して、みんなでわーわー大変なことになってしまう。というのを遠くからとらえている。
これ、後のトークでも言われていたが、いまのSNSの状況がまさにこれなんだよね。物理的な痛みがこないだけで、ぜんぜん知らない通りすがりの人に文句言ったり傷つけたりを平気でする/やり返すようになってしまって、みんながそれに熱中して、そんなのが常態化してしまっている。
まだ映画を撮り始める前、ヴェネツィアの映画祭に行って、あまりに退屈でつまんないので友人とうだうだしている時に思いついた話だそう。
Nicht nichts ohne Dich (1985)
長編デビュー作で、英語題は”Ain’t Nothin’ Without You”、ヴェネツィアでプレミアされてMax Ophüls Prize for the best German-languageを受賞している。モノクロのThomas Mauchによる撮影が素敵。
映画監督のMartha (Pia Frankenberg)と建築を学んでいるAlfred (Klaus Bueb) - 天辺はげでメガネで無精ひげ - がいて、割と裕福なMarthaと貧乏なAlfredのそれぞれのいろんな人たち – ポルトガル移民とか - との出会いやいざこざと、他人はよいとして自分の明日はどっちだ、の政治やフェミニズムを巡る葛藤と彷徨いの日々を寒くてしんどそうなドイツの風景のなかに描いて、とてもおもしろかった。 80年代の最初の方、何をやっているのかよくわかんない人たちの、なんかできる、やれそう、っていうだけで転がっていって、気がつけばどこかに散ってしまってあれってなんだったのか... こんな話って、割とそこら中にあったような。
Sehnsucht nach dem ganz Anderen (1981)
19日の上映がおもしろかったので、23日の晩の上映にも行ってみた。
英語題は”Longing for Something Completely Different” – これが彼女の監督短編デビュー作。14分で、会話とかはなしで背後をジャズが流れていく。
ドイツのどこかの駅で、夜の列車に乗りこもうとしている若い女性がいて、掲示板を見たりしつつ、どれに乗ろうか決めかねているようで、でも決めて乗りこんで、何をするかと思ったら、寝込んでいる乗客の横に座って、そうっと荷物を開けて中にあるものを取り出して、を始める。盗んだり壊したり持ち主に何かしたりするわけではなく、単にかばんとかお弁当箱とか、なにが入っているのかを確かめて、その周りにブツを広げていくの。やがて、それを遠くから見ていた謎の女性(監督本人)が横に来て…
上の“Der Anschlag”もそうだったが、実際にあまり起こるとは思えないような出来事を描いて、でもそれが起こったとしたらどんなふうに見えるのか、どうなってしまうのかを想像力でもって捉えようとする、アート、パフォーマンス系の作家のアプローチなのだが、へんな臭みがなく、全体を俯瞰して斜め上から眺めているようなクールネスがある。 いまの作家だとMiranda Julyだろうか(なんとなく雰囲気も似ている)。
Nie wieder schlafen (1992)
これが現時点で彼女の最後の映画作品となっている(いまは執筆活動が主だそう)。英語題は”Never Sleep Again”。
Rita (Lisa Kreuzer – ヴェンダース映画の常連), Roberta (Gabi Herz), Lilian (Christiane Carstens)の3人の女性がベルリンに車で着いて、誰かの結婚式に参列して船の上のパーティのあたりからつまんなくなって、そこを抜けて、ベルリンの壁(崩壊)の痕がまだ残っている街を彷徨ったり語ったり呑んだりいろんな人と出会ったりしていくさま – だるいけど、いつまでも起きてこんなふうに喋ったりうろついたりしていたいんだ – の終わらない日を描いていて、とてもよかった。 このモードがNYに行くと例えば”Sex and the City”になっていったりしたのかも。
都市があって、あまり明確な目的はなさそうだけど、じたばた生きている人たちがいて、それぞれのこんがらがった像や事情をこんがらがったままに置いておもしろく見せるのって、結構むずかしい気がするのだが、彼女の90数分間はそれがうまく示せている気がした。
今回、特集の2日目に上映されて見れなかった”Brennende Betten” (1988)は、撮影がRaoul Coutardで、Piaの相手役としてIan Duryが登場するスクリューボール・コメディだと… 見たかったよう。
9.29.2025
[film] Der Anschlag (1984)
9.26.2025
[film] Anna May Wong: The Art of Reinvention
BFI Southbankの9月の(正確にはLFFが始まる10月頭までの)特集で、”Anna May Wong: The Art of Reinvention”をやっている。
1905年にアメリカ西海岸で中国系移民3世として生まれ、サイレントの頃からヨーロッパ、ハリウッドで活躍した彼女のことは何本かの映画で見てきたものの、彼女はいつも脇役だったり、時として悪役だったり、あまりセンターに置かれて朗らかで幸せな役を演じることはなくて、それらを通して見えてくるのは、当時の観客がどんなふうにアジアの若い移民の女性を見ていたのか、ストーリーにおける彼女の表情、振る舞いや役柄に何を求めていたのか、などで、それを見て感じるなにかは同じアジア人として心地よいものばかりではないのだが、でも彼女はそれらを自身の身体で演じることを通して、はっきりと何かと戦っていたのだ、ということが見えてくるのだし、これらを作ったりこれらに触れたりしてきた欧米人の感覚が当時からものすごく変わったようにも見えないので、彼女の戦いは今を生きる我々のそれにも通じてくるに違いない、と。
この特集で彼女の映画が上映されるホールの前にはだいたい”Content warning: Contains sexist and racist attitudes, language and images”という注意書きが貼ってある。
あと、今回の特集のすごいのは、最近リストアされたもの以外を除いて、ほぼBFIのアーカイブにある35mmフィルムで上映されて、サイレントの場合はライブのピアノ演奏が付くこと。
The Toll of the Sea (1922)
9月1日、月曜日の晩に見ました。サイレントで、テクニカラーのフィルム。テクニカラーの最初期の1本で、当時技術的に可能だった赤と緑の色素だけで作られたカラーなのだそう。よくわかんないけど。
Anna May Wongが17歳だった頃、最初期の主演作。監督はChester M. Franklin。
「マダム・バタフライ」の舞台を日本から中国に替えただけの、溺れていた白人を助けて恋仲になって結婚の約束までしたのに彼は帰国して、戻ってきた時には結婚していて、彼女は.. っていうありがちな悲恋もの。
Großstadtschmetterling: Ballade einer Liebe (1929)
9月6日、土曜日の昼に見ました。
ドイツで撮られた彼女の最後のサイレントフィルムで、監督はRichard Eichberg。英語題は”Pavement Buttefly”。これは前に見たことがあるやつだった。
見世物小屋のダンサーだった彼女がそこを抜けだして若い画家と出会って恋に落ちるのだが、彼は画商の娘と出会ったらそちらに行っちゃって、見世物小屋から粘着してくる奴もいて、以降は転落してぼろぼろになっていって、かわいそうったらないの。
パーティのシーンで日本の提灯がかかっていたりする。
Die Liebe eines armen Menschenkindes (1928)
9月7日、日曜日の午後に見ました。月1回のサイレント特集の日で、市民の携帯に警報のテストアラームが来る、ということで開始を5分遅らせていたのだが、めちゃくちゃやかましいのがわんわん鳴りだして、サイレントを上映するのになんてこと!ってみんなで怒っていた。
これも監督はRichard Eichberg – 彼と組んだ最初の作品で、彼女にとって最初のドイツ映画 - で、英語題は”Song” - 主演の彼女の名前。貰ったプログラムノートには、この映画の撮影でベルリンに滞在した時にベンヤミンと出会って、彼は彼女に魅了されて、とか書いてある。
イスタンブールの磯で生きた蟹を彼女が齧っていたら(...おいおい)、2人組の男に襲われて、それを救ってくれた通りすがりのナイフ投げ芸人のところに付いていって、彼と暮らし始めるのだが、彼は前に付きあっていた歌手のことをずっと想っていて。バカな男にとって極めて便利で都合のよい一途なアジア人女性の典型をこれでもか、っていう波乱万丈のメロのなかで見せられて、あーあ、ってなった。
Peter Pan (1924)
9月21日、日曜日の昼に見ました。
監督はHerbert Brenon。 サイレントで、(後から買われたものだと思うが)ディズニーのお城の上に星が降りそそぐオープニングのすごく古いのが。親子連れもいっぱい。
Anna May WongはTiger Lily役。 犬のNanaが着ぐるみだったり、ワニも着ぐるみでかわいいし(でも海にいるのか?)、引き込まれて見てしまった。
Tinker Bellが弱って死にそうになるところでは、Peter Panが客席に向かって「みんなの力が必要なんだ!力をくれ!」っていうので、日曜の昼間だし、みんなで懸命に拍手して、Tinker Bellを救ってあげたりした。
The Thief of Bagdad (1924)
9月21日、日曜日の午後に見ました。
監督は問答無用のRaoul Walsh、主演はDouglas Fairbanks。彼女はモンゴル人の奴隷役。 あっという間の154分。
彼女の扱いも含めて、典型的なオリエンタル、アジア描写が満載なのだが、全体がおとぎ話の大噓ホラ噺風味を豪快に貫いてあまりにバカバカしいので、しょうがないか(なにが?)になってしまう。それらを浮かびあがらせずに納得させてしまう、セットや演技の堂々として力強いこと。
Hai-Tang (1930)
9月23日、火曜日の晩に見ました。
別の英語題は”The Flame of Love”。彼女の最初のサウンド映画で、声だけ別テイクにすればよいのに、英語版、ドイツ語版、フランス語版、それぞれ別に男性の主役を置いて、言語別に撮影された - フランス語版は、英語/ドイツ語版のプレミアの後にパリに渡って撮られたのだそう。で、彼女はひとり特訓して、ドイツ語もフランス語もぜんぶ自分の声で喋って演じている、って。一番メジャーなのはドイツ版だそうだが、今回上映されたのは英語版。
ロシア人中尉が踊り子Hai-Tang (Anna May Wong)に恋をして部屋で会ったりしていて、でも彼の上官からHai-Tangと夜に食事をさせろ、って厳命がくだって… 今だとセクハラ、パワハラの教材ネタにしかならないくらいにしょうもないお話しなのだが、彼女のリアル歌声はすばらしかった。
まだ特集は続いていて、あと2本くらいは見ると思うので、また書くかも。続けて見ていった時に見えてくるものがメインストリームの大女優の特集のそれとはぜんぜんちがう。 ごくシンプルに、嫌な社会だ、って思う。
9.25.2025
[theatre] The Bride and The Goodnight Cinderella
9月18日、木曜日の晩、South BankのQueen Elizabeth Hallで見ました。2日間公演の2日目。
ブラジル生まれでアムステルダムで活動するアーティストCarolina Bianchiと彼女が率いるパフォーマンスグループthe Cara de Cavalo(馬の顔)による公演 - 演目は”Cadela ForçaTrilogy”のChapter-1で、18禁。休憩なしの2時間半。 2023年にアヴィニョンの演劇祭でプレミアされ、ヨーロッパ中をツアーしてきた舞台で、英国でも2023年にグラスゴーのフェスで上演されている。
“The Bride”というのは、イタリアの女性アーティスト/パフォーマーのPippa Baccaによるパフォーマンス”Brides on Tour”で、ウエディングドレスを着て花束を手にした彼女がヒッチハイクするのを記録していくパフォーマンスだったのだが、彼女は2008年の国際女性デーに、ミラノからエルサレムに向かう旅をしていた途中、イスタンブール近郊で、レイプされて殺されて道端に棄てられているのを発見された。
“Good Night, Cinderella”はブラジル人が使うお酒に入れて眠らせて.. のレイプドラッグの隠語で、Carolina Bianchi自身もこれの被害にあったことがあるという。
舞台上には簡素なデスクの上に書類の束、と背後にはプロジェクターがあり、前半はCarolina Bianchiがひとりで登場して客席に向けてレクチャーをしていく。最初がダンテの『神曲』からの引用、女性がどこまでも追われる姿を描いたボッティチェリの絵画たち、女性によるパフォーミングアートの歴史を踏まえつつ、特に”The Bride”のパフォーマンスについて、なんでこんなことになったのか、「女性側の落ち度」として片づけられがちであることを十分に承知したうえで、古来からずっと、揺るぎなくあって変わることのない男性による性加害やフェミサイドの歴史 – もうひとつピックアップされたのは、ブラジルのサッカー選手が恋人を仲間に殺させて、事件発覚後も選手を続けていた件 – などを紹介していくのと、ドラッグについてはMarina Abramović等によるパフォーマンスの例を示しつつ、自分で錠剤(たぶん本物じゃないだろうが)を砕いて飲んで、もし薬が効かなかったら数時間かけてレクチャーの残りをやりますが... と言ったりしているとぐったりして机の上に崩れ落ちて、ここから後半に移る。
前半のイメージは白で、BrideでもCinderellaでも祝福されたもの(白)としてあるはずだった女性のイメージは、男性の快楽のために消費され穢されるべきものとして初めからあったこと、女性によるアートがいかにそこに自覚的であったかを示して、後半は対照的に黒づくめの衣装(黒というだけで仕様は各自ばらばら)を纏った男女8人くらいが黒子のように出てきて、Carolinaを隅に運んで服を替えさせたりして、ぐったりしている彼女の脇でレイプドラッグがもたらす悪夢のような光景 - 外側だけでなく内側も - を本物の車を使ったりしつつ展開していって、前半のクリーンで整然としたレクチャーとは真逆の、リアルな地獄めぐりのような絵を見せてくれる。
ここで何度か言及されていたのがRoberto Bolañoの名前、特に”2666” (2004)で、なるほどいくらでも出てくる失踪者の件、それが至るところに埋められてうやむやになってきた歴史はあるかも。
2時間半で、ものすごくいろんなものが出てくるのでついていくのが大変だったが、それでも相手にしているものの始末に負えないどす黒いどうしようもなさ、その歴史も含めた巨大さは十分にわかってうんざりした(このパフォーマンスに対して、じゃないよ)。18禁でよいのかも。
性加害の罪がどこまでも軽くて、警察すらそこに加担して許してしまうような自分の国を見ても、容易にどうこうできるものではないことはわかる(いや、わからないよ - なんであんなに野放しで寛容なままで許されているのか) - が、だからこそ上演されてほしい。
9.24.2025
[film] Steve (2025)
9月17日、水曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
Previewで、上映後に監督、原作者とメインキャストとのQ&Aがあった。 Netflixなので日本でも見れるのかしら?
Claire Keegan原作の”Small Things Like These” (2024)の監督Tim Mielantsと主演のCillian Murphyが再び組んだ(あと、Emily Watsonも再び)作品。原作はMax Porterの小説”Shy” (2023)で、彼はExecutive Producerとして制作にも関わり、映画化にあたりタイトルを”Shy”(登場人物の名前)から”Steve”(Cillianが演じる登場人物の名前)に変更している。
音楽は“Ex Machina” (2014)を担当したBen SalisburyとGeoff Barrow組。(つまり)
Steve (Cillian Murphy)は攻撃的な行動や言動で周囲に適応できない問題を抱える児童- といっても中高生くらいの男子を全寮制で収容・教育している田舎の施設の校長をしていて、他には副校長のAmanda (Tracey Ullman)、セラピストのJenny (Emily Watson)、新米教師役でLittle Simzがいたりする。
生徒たちは凶暴、といってよいくらいにみんな強そうでずっと興奮してイキっていて、校内では野放しなので、互いに脅しあったりとか、喧嘩とかラップバトルみたいのばかりやってて、殴りあいも茶飯事で、仕事とはいえよくこんなところで... と思っているとSteveはしょっちゅう建物の奥とか裏に行ってよくわからない薬とかドリンクとか明らかに酒をあおったりしていて、周囲もそれを黙認しているような。
映画はその施設の撮影と生徒を含む関係者にインタビュー – 6歳下の自分に、今なら何を言いますか?とか - にきた地元TV局のクルーとそこで撮影された映像、映画の冒頭 はSteveへのインタビュー映像で、なにかに堪えきれずに泣きだしてしまう場面から遡り、他方でそんなの構わずやりたい放題言いたい放題の生徒たちの様子、たまたま視察にきた地元の議員もいじられて憮然としていたり、生徒の中でもおとなしめのShy (Jay Lycurgo)の様子、そして、突然施設の売却に伴う閉鎖を言い渡された日の出来事を、画面の隅にタイムスタンプを表示したりしつつ追っていく。
”Small Things Like These”でも全体に漂う不穏できつくて暗いイメージがあったが、ここではそれに手持ちカメラがもたらすホラーっぽい揺れが加わり、更にSteveの挙動も表情もよりとろんとして怪しくなり、タイムスタンプもあるので、そうやって過ぎていく時間と、次になにが起こるのか、なにが待っているのか、わからないことだらけで怖い。特に終盤、不可避に広がって消火しようがなくなっていく暴力の連鎖の描写はどうやって撮っているのかもわからないくらいの混沌のなかを抜けていく。なによりも怖いのはなんのためにこんなことになっているのか誰も考えていないことではないか。
やがて施設の売却に伴う閉鎖を一歩的に通告されてしまうSteveと、母からもう連絡してくるな、と電話で一方的に言われてしまったShy、それぞれの絶望とテンションが最大になったところで…
教訓とか救いとか庇護者のない世界で、自分ひとりでなんとかやってきたふたりの男 - 中年と青年が、その最後の拠り所を失ってしまう、しまいそうになった時、どうなってしまうのか。ああいう場所と土地で、恒常的な暴力や怒号にずっと晒されてきた人が、その糸が切れてひとりになる、というのはどういうことなのか、等。
最後のほうで、AmandaがSteveを押さえこむように抱きしめて「あなたは悪くない」って何度も何度も繰り返していう場面がとてもよい。(後のトークで、あれはアドリブだったって) あと、これも終わりのほうで、Tracey UllmanとEmily WatsonがCillian Murphyを挟んで立っているシーン。このふたりが同じ画面内に一緒にいる絵って、たまんない人にはたまんないのではないか。
上映後のトークは、監督のTim Mielants、原作者+Executive ProducerのMax Porter、真ん中にいたCillian Murphy, Tracey Ullman, Jay Lycurgoが参加して、予想はしていたが、一番落ち着いて理知的に返していたのは、やはりCillian MurphyとJay Lycurgoだった。この後全員がBarbican Cinemaの同じイベントの方に移動していた。
こういうどこまでも閉じた学園ものって苦手だった(だって知らんし関係ないし)のだが、これは割とすんなりと見ることができたのはなんでだったのか。
どうでもよいけど、無精ひげぼうぼうのCillian MurphyってRufus Wainwrightにそっくりになるよね。
9.23.2025
[film] Spinal Tap II: The End Continues (2025)
9月16日、火曜日の晩、Curzon Aldgateで見ました。
“This Is Spinal Tap” (1984)から、監督Rob Reinerも中心のバンドメンバー3人も進行役のMarty(Rob Reiner)もすべて引き継がれ、全員がプロデュースにも関わっていて、準備段階から世界の片隅でいろいろ囁かれていた待望の続編。 と言いつつ誰もそんなにものすごく待望しているわけでも、というところまで含めてすべて計算に入っている。
パート1が登場した当時、ロックはもうとっくに脳死していて、メタルはただの冗談でしかなかった。冗談として冗談をやっている、という点でこの作品はタチが悪いやと思って、なので公開当時には見ていない(見たのは00年代に入ってからだったかも)。 ただ不思議なことに、この作品の評価はどんどん上がって伝説のような神話のようなものになり、DVDはCriterion Collectionからリリースされ、National Film Registryに登録(2002)までされる問答無用のクラシックになってしまった。
そして今日、メタルは収益でいうとライブ産業(コンテンツ)のメインストリームとなり、先のOzzyのライブでもはっきりしたように感動などを呼んでしまうものにもなって、リブートもフランチャイズもあって当たり前の世界なので、すべてはSpinal Tapのために、くらいの凱旋リリースとなってもおかしくないくらいなのだが、そこまで堂々としていなくて、あえて外しているように見えて/見せてしまうところがいかにもこのバンドの世界らしい。
冒頭、今世紀の伝説となること間違いなしの再結成&ファイナルライブのカウントダウンが始まったバックステージでのメンバーの表情をとらえて、全員が浮かない顔をしていて、そこから遡ってバンドにあと1回ライブする契約が残っていたことを確認した監督/語り部のMartyが、生き残った伝説のメンバー3人を訪ねていくところから。
Nigel (Christopher Guest)は妻と一緒にギターとチーズのお店 - ギターとチーズを交換もできる – をやっているし、David (Michael McKean)はpodcast用の音楽を作ったりしているし、Derek (Harry Shearer)は接着剤博物館を運営していて、それぞれ音楽とは細々と関わりを続けているものの、典型的な元セレブの「余生」を送っていて、でもたぶんできるかもやれるかも、って周囲を睨み合いながら最後となるライブに合意する。
こうして音楽をまったく理解できないプロモーター(Chris Addison) - あの、韓国の踊るボーイズみたいのはできないのか?とか言う - と契約し、会場はStormy Danielsがキャンセルしたので空いていたニューオーリンズのアリーナに決まり、空いていたドラムスにはQuestlove, Chad Smith, Lars Ulrichらにオファーが行く - 画面で彼らとちゃんとやり取りしたりする - ものの「残念ながら」、って断られて若い女性のDidi (Valerie Franco)に決まって、リハーサルが始まると、Paul McCartneyやElton Johnが顔を出したり、復活に向けたよい雰囲気は確実に作られていくのだが、もちろん、メンバー全員は浮かない顔をしてメンバー間とスタッフと小競り合いのようなことばかりしている…
モキュメンタリーなので、こういう復活劇にありがちなこと全部が隅々まで盛られていて、それをわかった上で楽しむ、のが正しいことはわかっているのだが、すべてがあまりにどこかで見てきた馴れ合い、倦怠、失望などにリンクしていて、メンバーはずっと冴えない表情で、でもライブの演奏シーンのところだけほんの少し神が降りてきて、その神が次なる惨劇を呼んで、” The End Continues”と… 作品としては40年を費やして彼らとおなじように萎れてしまった前作からのファンの思いにもきちんと応えるものになっている、とは思うものの、その間のドキュメンタリー/モキュメンタリーの多様化とか深化も踏まえると、とてつもなくばかばかしいことだねえ… って返すのが正しい反応、でよいのか。
彼らのことを一切知らない若者たちが見たらどう見えるのかしら? とか。
9.22.2025
[film] The Golden Spurtle (2025)
9月12日、金曜日の晩、ダウントンを見た後に、そのまま隣にあるCurzonのDocHouseで見ました。
ポリッジ(porridge)の世界選手権についてのドキュメンタリー。監督はオーストラリアのConstantine Costi、英国/オーストラリア映画で配給はDogwoof。
Spurtleというのはポリッジをかき混ぜるのに使う木製の匙で、優勝者にはこれをかたどった黄金のトロフィーが贈られる。たぶん本物の金ではないと思うが、外したら武器にするくらいはできるかも。
イギリスの朝食メニューとしてあるポリッジは日本だと「オートミール」と呼ばれてしまうのかも知れないが、お米とお粥くらいの違いがある。朝のBAの飛行機に乗るののなにがよいかというと、ここのラウンジにはポリッジがあるからで、これに蜂蜜をかけて食べるとああ飛行機に乗るんだわ、ってなるくらい脳はポリッジ状に腐りはじめている気がする。
スコットランドのCarrbridgeという小さな町で毎年行われているポリッジチャンピオンシップのある年の様子、特に世界中から集まってくる選手たちを追っていく。で、今年のはずっとこのイベントを主宰して引っ張ってきたCharlie Millerの最後の年になるのだと。 この人がどんなにすごい人かというと... 割とそこらにいそうなただのおじさんで、それがまたよいの。
世界にはいろんな料理があるので、なんの料理を対象としたどんな選手権があってもよいとは思うが、ポリッジにしたのはうまいな、って思った。「パン」みたいに汎用性があるように見える反面、朝のぼーっとした頭と身体にしみるようなシンプルさ、かつ微妙な匙加減が求められて、作り込みすぎても素(す)すぎてもだめだと思うし、プリンと同じように硬め柔めの議論だってあるし、どんな蜂蜜かメープルシロップかとか、あとは供される温度だって重要な要素になるだろうし ← うるさいよ。
映画はCarrbridgeの町並み – ほんとにただのふつうのスコットランドの地方都市 - を紹介してから過去2回優勝している地元の女性とか、参加してくるオーストラリアの人、ニューヨークの人、などを紹介する。ふだんはタコスを作ったりしているが、ポリッジを専門にやっているわけではない人たち。 というかパン屋があるみたいにポリッジ屋があるかというとそうではないし、どちらかというとグラノーラあたりに近いのかも。(もちろん、グラノーラにもなめてはいけない世界のようなもの、はある)
選手権の日は豪雨で、審査員の紹介もそんなになくて、審査の基準も調理の際のルールもあんまわかんなくて(たぶんてきとーなんだと思う)、優勝したポリッジも、どこにどんな秘密やこだわりがあったのかはわからなくて、おいしいポリッジの秘密を探りたい人にはううーってなるのだが、世界の果て、というほどでもないほどほどの田舎で、毎年こんな変なチャンピオンシップをやっているんだよ、というドキュメンタリー映像の纏まりとしてはよくできていたかも。
日本からも秘伝のタレとか味噌とか麹とかを持参して参加すればそこそこのところには行けるのではないか。
Istanbul
で、これの翌朝にフラットを出て、9月13日から15日まで、トルコのイスタンブールに行った。
フライトが朝6:15発で、ラウンジが開いたのが5:00だったので今回のポリッジは駆けこみでかっこむこととなった。
トルコは初めてで、見たいところはいろいろあるものの、カッパドキアとか考えだしたらきりがなくなりそうなので、まずはイスタンブール2泊から。いつものように美術館・博物館、というより街とか建物を見よう、の方で、グランバザール、地下宮殿、アヤソフィア、トプカプ宮殿、ブルーモスク、くらいを回れればいいや、くらいで。
天気もよくて、これらはどれもすばらしかったの – 特にトプカプのカリグラフィーと衣装展示、考古学博物館 – だが、街を歩いていくなかで想定していなかったのが、にゃんこだった。あんなにうじゃうじゃいて、手を出したら寄ってきたりして転がってくれたり(噛んでも引っ掻いても許す)してくれるので、全然次のに行けない。みんなあの寄ってくる猫たちをどうにかしながらあんな建物を建てたり街を作ったりしていったのだろうか。いやそもそも戦争なんかできんよね(猫のために戦ったとか)。
美術館だと、Istanbul ModernでAli Kazmaと塩田千春を見た程度で終わってしまった。屋上のテラスも気持ちよいし、ここの地下の映画館、なかなかよい特集をやっているみたい。
グランバザールの古書店は、英語と仏語の古本もふつうにあって、でも古本は今の自分のとこをいい加減にしないと状態になっているので目を逸らして掘らないことにした。
サバサンド(Fish Wrap - Balık Dürüm)はもちろん、今回の旅の大きな目的のひとつであった。サバとイワシをそれなりに食べてきた者として、サバの可能性がどのような形で、しかも「ストリート・フード」としてどう実現されるのか。サバのやや尖った風味はスパイスやハーブ系の野菜によく合って馴染む、ただ問題は断片として散らばりがちなこれらをどう口内でまとめあげるか – なのでサバカレーのアプローチはわかる – だったわけだが、ここではこれらをトルティーヤの皮で包んで、巻かれたそいつを転がして焼きあげる、というすごいこと - 内側は蒸されるし外側はかりっとなるし – をやっていてこんなのをストリートでやっちゃうのは反則ではないか、って思った。骨とってくれるのはいいけど、皮はつけておいてくれても、とか。 トッピングのたれには醤油とかコチュジャンとかカレーとか.. だーかーらーストリート・フードなんだって。 野良になって食ってろ。
あと、一瞬思ったのだが、ロブスターロールって… 以下略。
ポリッジよりもこれの選手権やっているのであれば見たい。
というわけでまた行きたいよう。
9.21.2025
[film] Downton Abbey: The Grand Finale (2025)
9月12日、金曜日の夕方、Curzon Bloomsburyで見ました。
公開初日だがそんなに入っていないし、すごい宣伝をしているわけでもない。そのうち入ってくるだろうから気にしない、なかんじで堂々としてる。
“The Grand Finale”というタイトルからもわかるように、たぶんこれで終わりの。これまでもずっと「もうこれで終わり」を言い続けてきた気もするが、Dame Maggie Smithの死があり、戦争の時代に入ったらムリ、というのもあったのか。サザエさんみたいに永遠に続くもんだと思っていたのに。
監督は前作の”Downton Abbey: A New Era” (2022)と同じくSimon Curtis。しかし”A New Era”って言った3年後に“The Grand Finale”って。パチンコ屋じゃないんだから。
冒頭、1930年のロンドンでGuy Dexter (Dominic West)主演でNoël Coward (Arty Froushan)作の”Bitter Sweet” (1929)を上演していて、バックステージでRobertたちはNoël Cowardと会ったりする。前作ではサイレント映画の制作がサイドストーリーとしてあったが、今回はそれがミュージカル、というかNoël Cowardになっている。後半、彼があんなに前に出てくるとは思わなかった。
それに続けて、王室のメンバーが来るような格式の舞踏会に来ていたLady Mary (Michelle Dockery)、the Earl of Grantham - Robert (Hugh Bonneville)、the Countess of Grantham - Cora (Elizabeth McGovern)は法的に離婚したLady Maryが王族のやってくる宴に同席することは許されない、といきなり退場を命じられて社交界がざわざわするのと、ダウントンの方にはLady Granthamの弟のHarold (Paul Giamatti)と彼の財務アドバイザーというGus (Alessandro Nivola)がアメリカからやってきて、大恐慌は乗り切ったとか言っているのだがどうにも怪しい。
Maryは滞在していたGusと酔っ払って寝てしまったりするのだが、その辺から雲行きが怪しくなり、やがてHaroldがGusに騙されてダウントンの資産の大部分を投資で失ってしまったこととか、そのためにロンドンの屋敷を売るしかないかもとか、Noël CowardとGuy Dexterがダウントンにやって来るというのでみんなで張り切ったりとか、郡のお祭りで堅物のSir Hector Moreland (Simon Russell Beale)と女性たちが対立したりとか、Daisy (Sophie McShera)が料理長に昇格したりとか、四方八方てんこ盛りで、結末は代が替わってMaryがダウントンの新たな当主になって、Violet (Maggie Smith)の肖像がそれを見守る、というそれだけなのだが、ものすごくいろいろ詰めこんであって、危機が訪れてもぜったいどこかから誰かが現れてどうにかしてくれる、という魔法の館。 Maggie Smithが生前何度も語っていた「長すぎるのよ… 自分がなにをやっているかぜんぜんわからないのよ…」と途方に暮れていた状態は正しく維持されている、というべきか。
こういう家族一族を描いたドラマで、みんなで一丸となって歯をくいしばってがんばって生きた、みたいのが死ぬほど嫌いなので、ダウントンの各自が自分の持ち分をこなしてたらどうにかなったよ、っていうのがよくて、それは究極には家父長制か階級制か、みたいなところに行くのかも知れず、どっちも嫌だけどドラマとして見るなら断然こっちかも。ほぼ関係ないし。
おもしろかったのはロンドンのお屋敷を売るというのでRoyal Albert Hallの近くのフラットを見にきたRobertとCoraが屋内の物音を聞いて、「あの音はなんだ? ひとつの建物の中に別の知らない家族がいるということか?」ってびっくりしたように言うところ。
でもやっぱりこれで終わりって勿体なくない? この一家がどうやって戦争の時代を乗り切ったのかって、やっぱ見たいよねえ。
9.20.2025
[film] Drama 1: The Entertaining Mr Orton
9月7日、日曜日の夕方、BFI Southbankで見ました。
ここの9月の特集、でっかいのは”Ridley Scott: Building Cinematic Worlds”で、これは割とどうでもよくて、もうひとつは”Anna May Wong: The Art of Reinvention”で、がんばって見ているけどここに書けていなくて、あとひとつ、日程がぜんぜん合わずに泣いているのが”Associated-Rediffusion: The UK’s First Groundbreaking TV Franchise”という特集。
最初は何なのかわからなかったのだが、英国で商用TV放送は1955年、Associated-RediffusionとABCの2局による夜間番組の放送から始まって、国営のBBCとは別にドラマ、時事番組、討論番組、ドキュメンタリー、子供向け番組、コメディなどをかけて、TV CMの導入も含めて後の商用TV放送の先駆となったそう。Associated-Rediffusionが存続したのは1955年から1968年までで、その中からBFI National Archiveに保存されているものを紹介していく特集で、ComedyだとComedy1, Comedy2, Comedy3のようにオムニバスとして組み合わせたり、人気のあった連続ドラマだと数エピソードを纏めたり。
このDrama1は、Joe Ortonの書いた劇作をドラマ化したもの3本を束ねていて、Drama2は、Harold Pinter特集、Drama3は、Oscar WildeとAnton Chekhov。2は終わっちゃって3は予定があって見れない。 あーくやしいったら。
3本のトータルの上映時間は191分で、途中1回休憩が入った。しかしこんなのをTVで見れていたなんて。
Entertaining Mr Sloane (1968)
80分で、月曜の22:30に放映されたそうで、3幕の合間にはCMが入ったという。原作は1963年で1970年にはDouglas Hickox監督により映画化もされている。
若者Sloane (Clive Francis)が下宿先を探して中年女性Kath (Sheila Hancock)の家を訪ねてきて、同居している彼女の父Kemp (Arthur Lovegrove)は噛みついて、兄のEd (Edward Woodward)も眉をひそめるのだが、若いSloaneのことを気にいってしまったKathは、なんとしても彼に住んでほしくて1幕の終わりにはセクシーな寝間着姿で現れて。 2幕以降、出ていこうとするSloneと妊娠をほのめかしてなだめたり留めようとするKath、ろくなもんじゃない奴だ、って追い出そうとするKempとEdとの攻防が続いて、留守の隙にSloneはKempを殺してしまうのだが、その死の扱い/報告を巡ってKathと事実を握るEdが対立して…
まずは誰かの欲望とか野望があって、その後に続く終わりのないせめぎ合いと駆け引きをすごく狭いスペースと関係 - 「英国」的な? - のなかで描きながら、セクシャリティとか老いとか普遍的な、時として宇宙的に広がるなにか(の端っこ)を見せてくれる、というのが自分にとってのJoe Ortonで、モノクロで、小さな家のダイニングから断固として外に出ていかないカメラは、これだなー、というものだった。
いまYoung Vicで本作を上演しているので、そのうち見にいく。
The Erpingham Camp (1966)
“Seven Deadly Sins”という全7話からなるシリーズの一篇。Deadly Sinsは”Pride”, “Gluttony”, “Sloth”, “Avarice”, “Lust”, “Envy”, “Wrath”で、その回がこのうちの何をテーマにしていたのかは最後に明かされる。監督はJames Ormerod。 53分。
いつもきちんとして威厳たっぷりのMr. Erpingham(Reginald Marsh)が経営する伝統あるHoliday Campがあって、そこの従業員も彼の指揮下で軍隊のように教育され統率されているのだが、その晩のパーティの責任者に任命された若者がちょっと間抜けで張り切り過ぎたら何かのタガが外れ、客が暴走を始めて止められなくなって…
この日のテーマは”Pride”でした。
エウリピデスによる『バッコスの信女』 - The Bacchaeのペンテウスの悲劇を元にしているそうだが、あまりよくわからなかった。けど暴動のシーンの転がりかたはすごいと思った。 “Bacchae”もNational Theatreで上演が始まったのでそのうち行きたい。
The Good and Faithful Servant (1967)
“Seven Deadly Virtues”のシリーズからの一篇。書かれたのは1964年。これも監督はJames Ormerod。 53分。ここでテーマとなっているVirtueは”Faith”。
工場のドアマンとして50年間勤めてそこを退職することになったGeorge (Donald Pleasance)がいて、辞めることになっても自分のことなんて誰も気にしていないし覚えていないし贈り物もつまんないものだし、でも最後の日にそこで掃除婦をしていたかつての恋人Edith (Hermione Baddeley)と再会して、彼女の家で孫だという子供とも会うのだが...
しょぼくれの、失われた生の究極を描いたような作品で、自分のことに照らしてもしゃれになっていなくてうぅ、しかないのだが、Joe Ortonにとってはもっとも自伝的な作品でもあるそうで、これが放映されてしばらくして、彼は殺されてしまった、と…
9.19.2025
[film] Dead of Winter (2025)
9月8日、月曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。
主演のEmma ThompsonとGaia Wiseのトーク付きのPreviewで、Emma Thompsonを見たくて取った。
監督はBrian Kirkで、今年のロカルノでプレミアされている。
上映前の挨拶でEmma Thompsonと娘のGaia Wise(映画で若い頃のEmma Thompson/主人公を演じている)が登場。母娘の共演は初めてだが、Emma Thompsonが初めて母のPhyllida Law(この晩の客席にいたそう)と共演した“The Winter Guest” (1997)でもタイトルに”Winter”が入っていたのはなにか因縁めいたものを感じる、と。 Gaia WiseはこないだRe-releaseで見た”Sense and Sensibility” (1995)のJohn Willoughby (Greg Wise)とElinorとの間にできた娘ってことね。
でも映画はコメディではなく、凍てつく氷の上でのアクション・スリラーだった。
“Fargo”の舞台となった(要するにめちゃくちゃ寒い)ミネソタの山奥で、Barb (Emma Thompson)がひとり、車で凍った湖にやってきて、氷の上に小さな小屋とかを設営して穴をあけて釣りをしたりする。そこに蘇る若い頃の記憶 - 若い頃のBarb (Gaia Wise)とやがて結婚することになるKarl (Cúán Hosty-Blaney)との最初のデートの場所がここで、後のほうで彼女はここにKarlの遺灰を撒きにきたことがわかる。
その湖に向かう途中で、道を尋ねようと車を停めたところで薪を割っている怪しい男(Marc Menchaca)がいて、道に血痕があったりして(鹿のだ、って男は返す)、なんか気になった彼女が帰りに寄ってみると、声が聞こえて若い女性(Laurel Marsden)が地下に監禁されているのを見つけ、なんとかしなきゃ/助けるからね、になったところでさっきの男より更に凶暴な女(Judy Greer)が突然現れて銃をぶっ放してきて、撃たれて怪我をしたBarbはいったん引っ込んで、傷口を釣り針で縫ったりしつつ、まちがいなく自分を殺しにきそうな連中とどう対峙すべきかを考える。
ここまでで、いろんな思い出を抱えたBarbが凍った湖にわざわざやってきた理由はなんとなくわかったが、ヒルビリーぽく荒れた男女 - 夫婦らしい - がなんでこんなところにいて、なんで若い女性を誘拐・監禁して、なにをしようとしているのか、はちっともわからない。中盤の湖の氷の上と監禁されている山小屋、その中間にある自分の車などを行ったり来たりの闘い - 手近にある使えそうなものを全部使って若い女性を救いだし、自分を殺しにくる敵との闘い、敵側からすれば知られてはならない自分たちがやろうとしていることを邪魔しようとするBarbを片付けないことには前に進めないのだ、という闘い - はとにかく寒そうで辛そうで、なのだが目を離すことができない。
そのきつい闘いのなかで、きつい闘いのなかだからこそ、なのか都度蘇ってくる彼女とKarlのいろんな思い出、流産したり彼が痴呆症になったり、その後の死別まで、それらを思い起こした時にEmma Thompsonが見せる表情はこれまでのおしゃべりで相手をきりきりさせるそれとは全く異なっていて、ぎすぎすした中でもなにかを包みこもうとするような暖かさがある。
そして、彼女の反対側に立つ悪漢Judy Greer、彼女も割とrom-com系に多く出ていたイメージがあったのだが、ここでの鬼婆っぷりときたら、なんでそこまで… というくらいすり切れて毛羽だっててものすごくて、夢に出てきそうなくらい。
クライマックスは書きませんが、スタントなし(だったそう)で結構すごいことをやっているので日本で公開されたら(地味すぎるので配信かなー)、見てあげて。
上映後のトークで印象に残ったのは、Emma Thompsonが語っていた、この映画には男性中心のこういうアクションもので描かれる闘いのマナー(怒りとか義憤とかがトリガー)とは全く異なる、何も持っていないところから知恵と近くにあるものを総動員して闘っていく、フェミニンなそれがある、ってとこ。 簡単にできることではなさそうだけど。
9.18.2025
[theatre] Juniper Blood
9月6日の晩、Barbicanで”Good Night, Oscar”を見て、そこのギャラリーでGiacomettiなどを見たあとの晩、Donmar Warehouseで見ました。
演劇を昼と夜ではしごする、というのは映画のそれとも音楽のそれとも違って、ちょっと疲れるけどものすごくおもしろい経験だなあ、と改めて思った。
原作はMike Bartlett、演出はJames Macdonald。
場内に入るとものすごく明るい照明で昼間のようで、ステージがあるところには本物の盛り土がしてあって本物の草が雑に生えていて、鳥とか虫の声が響いていて – 鳥はいないが実際に虫が湧いたりしたらしい - 要は日が照っている昼間、畑がある一帯、のようなところらしい。土と草の匂いがなんだか新鮮。
そこに農作業をしているらしいLip (Sam Troughton) – 髪も髭も手入れしてない無表情で浮浪者一歩手前に見える- がぼーっと現れて、虚ろな目でタバコを手で巻いてどんより吸っていると、その光景とは明らかに場違いなバカンスの恰好をした若者男女ふたり - Femi (Terique Jarrett)とMilly (Nadia Parkes) – が現れる。あまりのギャップにお呼びでない、になるかと思ったら、MillyはLipのパートナーRuth (Hattie Morahan)のex連れ子で、Femiはオックスフォードで現代農村経済みたいのを学んでて、口だけは達者でぺらぺらぺらずっと喋っている。Z世代の若いふたりは休暇ついで&手伝いでやってきて、そんなに深く考えずに農業しんどいーむりー、とか好き勝手にいう。
Lip(とRuth)はRuthの相続した土地があったのでNYの北の方にオーガニック&サステイナブルな農業の実現を求めてやってきて、日々土を耕したりしてはいるものの、Lipの顔と態度、あと舞台上に散らばった土の山とか掘られた穴とかを見る限りうまく回っているようには見えない。隣家のお気軽な農家のおっさんTony (Jonathan Slinger)は、オーガニック農業なんて金持ちの道楽でできっこない、とか言うし、若者たちも横から勝手な適当なことばかり言うのでLipは宴のテーブルの上から土を落としたりする。それでも時間は経つし日は暮れていくし。(照明は幕の終わり頃には夕暮れの明るさ程度まで落ちてくる)
弁のたつFemiがサッチャー政権当時に生まれたLip達の世代が、どんな文化的バックグラウンドを背負ってどんな思想傾向を持つに至ったか、他方でグローバル経済の進展がいかに都市と農村の地域間、国家間の経済格差を生んで結果的に誰も儲からない、おいしくない仕組みを組みあげてしまったか、この世代が正面からぶつかってこんなふうな総どん詰まり状態を生んでしまった今について爽やかに得意げに語り、だがしかーし、AIをはじめとするテクノロジーの進展がどうにかしてくれるに違いないのだ、みたいなお子様の議論を展開して(結果、泥ざばーん)、この辺はなかなかおもしろかった。
真面目にやろうとした正直者がバカを見る、儲けるのだけは得意なバカばかりがデカい顔をする、こんなのは農業だけじゃなく世界の至る所で見ることができて、どう生きるべきか、みたいな話はするだけ無駄、みたいになってしまった今の世の中で、でも生きないわけにはいかないのでー、ってなにもかもうんざりの今の中高年にははまるところも多かったのではないか。
こういうドラマだとは思っていなかったので、ややびっくりした。職業格差に関わる話なのか世代間のそれなのか、それらの複合でどっちにしたって相容れないまま滅んでいくしかないのか。
もちろん解決策なんかなくて、最後はチェーホフみたいな黄昏がやってきてどんよりするしかないのだが、でもあのラストはどうだろうか? ちょっと甘すぎやしないか、とか。
9.17.2025
[theatre] Good Night, Oscar
9月6日、土曜日のマチネをBarbican Theatreで見ました。
原作はDoug Wright、2022年にシカゴで初演され、翌年ブロードウェイに来て当たって、主演のSean HayesはTONY AwardsでBest Leading Actor in a Playを受賞して、今回のLondon公演でも彼がそのまま主演している。演出はLisa Peterson。 休憩なしの1時間40分。
1958年、NBCで放映されていたThe Tonight Showで、ホストのJack PaarがゲストにOscar Levantを呼んだ際に裏で起こっていたどたばた(とても本物ぽいがこのエピソードはフィクション)を描いたバックステージもの。
アメリカのトークショー – 今だとCBS (はもうじきなくなっちゃうみたいだけど)やNBCで夜の23:30頃から1時間くらい、ホストは今だとStephen ColbertとJimmy Fallon、ひとつ前だとDavid LettermanとJay Lenoとか、この舞台の時代だとJohnny CarsonやDavid Frostなどがいて、ゲストが2~3、アトラクションみたいのがあって、最後に音楽ゲストが歌ったり演奏したり、ハウスバンドもいて、寝る前のだらだらした時間に丁度よい娯楽を提供してくれるもので、番組によってはホストとの相性がよくて常連になるゲストとか企画もあって、これって十分にアメリカン・カルチャーの一翼だと思う(イギリスにもあるけど、あまりおもしろいと思ったことはない。のはなぜ?)。 TVがこのような番組の可能性を模索していた最初期に起こった - 起こっていてもおかしくなかったエピソードを綴ったもの。
Oscar Levant (1906-1972)については、”An American in Paris” (1951)でも”The Band Wagon” (1953)でも、脇にいるけどなんだか目について離れなくなるピアニストとして、名前は知らなくてもあああの!ってなる人、だと思う。
舞台は50年代のモダンな家具で整えられたTV局のドレッシングルームで、これが後半になると放送スタジオやステージに伸び縮みしたりして変わっていく。 NBCがLAで(西海岸発として最初に)放映するショーで、Jack Paar (Ben Rappaport)はOscar Levant (Sean Hayes)をゲストに呼ぼうと準備を進めていたが、オンエア直前になって彼が精神病院に入院していて薬を飲んでいることを知る。(生前Oscarは病気があることを公言していた)
それを知ったJackの上にいるNBCの幹部はOscarの出演をなんとしても阻止しようとして – 視聴者が寝る前に落ち着いた時間を過ごしてもらうのが番組のコンセプトなのにそんな病人を – って結構危ういことを言ったりする - でもどうにかして出演させたいJackと、Oscarを精神病院に入れて、でも心配になって見にきた妻June (Rosalie Craig)、使いっ走りの番組のAD(なのかな?)の若者、そして薬の飲み過ぎでぐったり動けなくなったOscarを診る医師などが絡んで騒ぎの輪が広がっていく。
後半、見切りで番組が始まって、明らかに具合がよくない、よれよれして綱渡りで、でもそれなりに笑えてしまうOscarとJackのトークを観客全員が見守るようにして見た後に披露されるSean Hayes自身によるスタンウェイ(舞台のスポンサー)のグランドピアノの爆発的な演奏 & すばらしくよい鳴りで大喝采になって、確かに演奏は見事なのでうおぉぉーってなるのだが。
結果おもしろければ(事故さえ起きなければ)、と芸と芸人を消費しようとするTVの傾向はこの頃からすでにあったのだなー、と思って、これはお芝居なのでわからないでもないけど、それでも終わったあと、ここにタイトルの”Good Night, Oscar”を被せてみると、ちょっと複雑なかんじにはなるかも。あと、舞台セットも含めてとても西海岸的な、よい意味での寛容さとわるい意味での放置する冷たさが同居していて、そこら辺も狙ったものなのだろうなー、って。
9.15.2025
[film] The Thursday Murder Club (2025)
9月5日、金曜日の晩、”Highest 2 Lowest”を見る前にPicturehouse Centralで見ました。
Netflixに入っていれば見れるやつなのかも知れないが、今のフラットに引っ越した際に契約するのを忘れてしまって、別に困っていない - 他に見るのがいくらでもあるのでそれでいいや、になっている。
原作は2020年のRichard Osmanによるベストセラー、監督はChris Columbus。
田舎に建つ引退した裕福な高齢者向けの養老施設Coopers Chaseに暮らす過去に輝かしい経歴をもって恥じることがない元MI6の諜報員Elizabeth (Helen Mirren), 元組合運動のリーダーRon (Pierce Brosnan), 元精神科医のIbrahim (Ben Kingsley)の3人(他に昏睡状態の女性ひとり)の老人たちが、新聞記事などから実際に起こった殺人事件をピックアップしていろんな角度から推理していく「木曜殺人クラブ」を作って、そこには医学の素養がある人が必要だ、って入居してきたばかりの元ナースのJoyce (Celia Imrie)を引き入れて興味深い事件を、ってなったところでCoopers Chaseの地権者のリアル殺人事件がすぐ近くで起こり、これは出番だっ、て警察から内部情報を入手すべく若い警官Donna de Freitas (Naomi Ackie)を仲間に加えて捜査を進めていくのと、殺人事件が自分たちの住処を中心とした一帯の再開発計画に絡んでいそうなので住民たちの間で反対運動が起こり、そんななか第二の殺人が.. とか。
老人たちは癖のある4人とその周辺(Elizabethの夫役のJonathan Pryceとか)も含めてよい人生を送ってきた善良な人たちばかりで、かたや悪い方はDavid TennantとかRichard E Grantとか見るからにー の連中で、その間でじたばたする警察は冴えない上司にしっかり者のDonnaという凸凹コンビで、登場人物すべてがこちらの期待した通りの役割と振る舞いをしてくれる、という点ではベストセラーになるのも納得だし、お年寄りを中心とした主役陣はみんな上手いし、すべてにおいてなんのひねりもないったらない。もっと老人達が悪い奴らを物理的にこてんぱんにする - Helen Mirrenの”Red”(2010) にあったような - のも期待したのだが、それもないし。
最初にタイトルだけ聞いた時は引退した老人達が完全犯罪を計画するようなドラマかと思ったのたが、そっちの方がおもしろくなったのではないか。
あと、お菓子作りが趣味のJoyceが焼くVictoria sponge(ケーキ)がおいしそうでー。
Honey Don’t! (2025)
9月7日、日曜日の昼、Curzon Soho で見ました。
Ethan Coenが妻のTricia Cookeと組んで、昨年の“Drive-Away Dolls” (2024)に続けて放つB級犯罪もの。Carter Burwellの音楽が冒頭からすばらしい。その音楽にのったタイトルバックで、カリフォルニアの寂れた町を車で抜けていくと、そのネオンとか落書きとか曲がりくねったパイプなどにスタッフやキャストの名前が浮かびあがってきておもしろい。
Honey O’Donahue (Margaret Qualley)はそんな町でひとりで私立探偵をしていて、ものすごく儲かっているわけでもかつかつでもなく、人探しの依頼が来ればふつうに警察なども使いながらクールに対応していって隙がない。
冒頭、崖下に落ちた車に乗っていた男女 - 当然怪我をして動けない - が誰かに車ごと焼かれて、以降その町できな臭い殺人事件が続いていくのと、その横でカルトっぽい新興宗教の牧師Drew (Chris Evans) - PTAの”Magnolia”(1999)のTom Cruiseぽい - がいつも信者の女性とやっていて、その周辺でどうも殺しは起こっているらしいぞ、なのだが、Honeyがその件に脚を突っ込んで冴えた推理や機転のきいた捜査を繰り広げていくようなやつかというと、そんなでもなく、そのカルトの中身に触れるか触れないかくらいのところでころころ簡単に人がいなくなったり殺されたりしていって、推理や捜査よりもとにかく数として溢れてくるきな臭いなにかにぶつかった、というくらいの描き方。
ナンバープレートが”Honey Dont”の車に乗って足取り軽く町を抜けていく彼女の内面に入りこんでいくような場面はそんなになくて、レズビアンの彼女がAubrey Plaza演じる不機嫌で不穏な警察官MGと恋仲になったりするくらいで、スタイリッシュではあるが、その反対側、町はずれで起こった陰惨なことを並べて、クールな女性探偵はそれにどう対応 - ほぼしてない - をしたのか、を淡々と追っていくだけ。怒りとか慟哭とか、そういうのに突き動かされて動いていくようなキャラではない。
唐突な残酷さとか喜劇的なくらいの救いのなさ、という点ではCoen兄弟の諸作っぽいかんじもなくはないのだが、すべてのピースが繋がって奇怪なランドスケープを描きだすようなところまでは行かず、いろんな一発芸を脈絡なく繋いでいくしまりのない、腑抜けた印象が残る。その腑抜け感 - ここはどうせそんな土地なのさ、のような投げやり感で転がっていくタンブルウィードの。
“The Substance”(2024)でのMargaret QualleyとDemi Moore との喧嘩はなかなかすごかったが、ここでのAubrey Plazaとの喧嘩もなかなかだったかも。
9.12.2025
[film] Highest 2 Lowest (2025)
9月5日、金曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。
Spike Leeが、黒澤明の『天国と地獄』 (1963) - 英語題は”High and Low” - を現代のNYを舞台にリメイクした結構な話題作だと思うのだが、UKでの公開も宣伝もものすごく地味でどうみてもやるきないっぽい(初日なのでスクリーンだけはでっかくしてくれた)。
日本の若者たちが黒澤のオリジナル版を見ていないことについて、Spike Leeが日本のジャーナリストを責めた(彼のいつものあれよ)そうだが、だって日本で黒澤を見ろ、って言ってくるおやじって、ぜったい上から目線の黒澤の映画に出てくる脂ぎった悪役みたいなじじいばっかりだったんだもの。(だから見てないよ。お金も時間も限りがあるんだよ)
原作はEd McBainの小説” King's Ransom” (1959) – これがそもそもNYをモデルにした架空の都市が舞台だったのだが、冒頭、イーストリバーを中心にブルックリン側から映しだされるダイナミックなNYのスカイラインも、自分にとってはあんまリアルには見えない(変わりすぎてしまって)。そういうところまで含めた嘘っぽさ、絵空事のかんじがでかでかと。
主人公は音楽業界の伝説的なプロデューサーDavid King (Denzel Washington)で、冒頭のシーンは彼のWilliamsburgあたりの高層アパートのペントハウスから、その内部は高そうなアートとかレコードコレクションとか、彼にとってのアイコンとか、自分が表紙になった雑誌のカバーとかで覆われている。妻のPam (Ilfenesh Hadera)はブラックカルチャーを支援する慈善家で、息子のTrey (Aubrey Joseph)はバスケットボール選手で、問答無用で今の過剰な富裕層の典型。
Treyを車で学校に送っていったその晩に彼が誘拐されたという報が入り、アパートに捜査本部が置かれ、何をしても、どれだけ払ってもいいから彼を取り戻せ、と伝えてしばらくしたら、Treyは戻ってきて誘拐されたのはKyleではなくDavidの親友で運転手のPaul (Jeffrey Wright)の息子Kyle (Elijah Wright) であることがわかる。
自分の息子じゃなくても親友のKyleを救ってくれるよね? とTreyはパパにお願いするのだが、ビジネスでも岐路に立たされて迷っている最中に膨大な身代金の出費は痛くて、でもすぐに返事を出せないDavidにSNSはざわざわし始めるし、警察はPaul自身が仕組んでいる可能性も視野に入れていたり、いろんなことが立ちあがって出口が見えなくなる。
結局Davidは取引に応じることにして、自ら身代金を担いで④の地下鉄でBorough Hallから試合で人々がごったがえすYankee Studiumまで乗っていって(停車駅にいちいち思い出が)、更におそろしいことに球場の外ではPuerto Rican Day Paradeが行われててごった返す、なんてもんじゃない修羅場になっている。人混みが嫌いな人だったら秒で失神してもおかしくない、NYが一年で一番やかましくなる一日に、いくら荷物にGPSを仕込んでいたからと言って、犯人を捕まえることなんてできるだろうか? - いやぜったいむり。(これ、単独犯のように描かれているけど組織で動いているよね?)
でもDenselだから。 “The Taking of Pelham 123” (2009)でも、”Unstoppable” (2010)でも、やってきたことなのでまたしても、はあるけど、彼が電車に乗りこんだら解決しないことなんてないから。無敵だから。
そして今回もまた、なのだが、最後は結局Yung Felon(ASAP Rocky)とのラップ対決で - 殴りあいでも銃でもなく – 負かしちゃって、伝説上の人物なのでそういうもんなのかもしれないけど、すべてを取り戻してしまって、お手あげになる。
Spike Leeはたぶんこれを過去から連なるNYのドラマ(音楽、野球、移民、ダンス、アート等) – Highest/Lowestも社会階層に加えてNYの地理 - マンハッタンだとUpper/Lowerだけど – にしようと思っていたのかもしれないが、とにかくDenselがでっかすぎてどうしようもない。 ここはもういっかいマンハッタンにゴジラを上陸させるくらいしかないのではないか。
[film] Railway 200: Reels and Rails
9月2日、火曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
映画上映もあるが、どちらかというとお祝いイベントで、英国の鉄道200周年を記念して、この200年の間、130年くらい前に出てきた映画がどんなふうに関わってきたのか、いろんな短編やプロモーションフィルムを見ながら、歴史家のTim Dunn、BFIアーカイブのドキュメンタリー部門キュレイターのSteven Foxonのふたりがいろいろ掛け合いしながら解説してくれる。約2時間とあったが、実際には2時間半くらいやっていた。
列車も車も飛行機も、乗り物には特に興味があるわけではなくて、型とか技術とかもどうでもよくて、ただそれがレールの上を走っていく映像を見るのは好き(酔わないから?)で、走っているだけでなんかおもしろいぞ! ってなったのはJames Benningの”RR” (2007)あたりからだと思うが、英国にきて、この国の映画最初期のアーカイブを見ていくなかにも列車の映像が結構あったので、列車を撮ったり見たりが好きな人は多いんだろうな、と思って、そういう映像をまとめて見れるよい機会になった。 で、実際ものすごくおもしろかった。
最初はクリップのように短いフィルムを沢山、なにかのお祭りで当時の蒸気で動く列車が山車のように列をなして、いろんな格好の人がそれに乗っているのとか。すべての列車が外観も含めてまるで違っていて、解説の人は結構興奮していたが、あれだけいろいろあったのが/のに、どうやって今の形になっていったのか、とか。
一通りの初期鉄道を紹介した後に、いろんな短編を見ていった。
Night Mail (1936)
24分のドキュメンタリー。
General Post Office (GPO)のFilmユニットが制作したもので、客を乗せずに夜の間に郵便の集配信をする列車とそこで働く人たちの姿を追っていく。もうこの世界では有名な古典らしいのだが、ロンドンのユーストンを出て、グラスゴーを抜けてエジンバラの方に向かう列車が、どんなふうに各地の郵便袋を拾って、車内で人が仕分けして、どんなふうに袋ごと配って置いていくのか、を走りながら見せてくれておもしろいったらない。電子メールの前にはここまで人力でやる仕組みが出来あがっていたのかー (オフィス内にはシューターとかあったしな)、とか。
デジタルのいろんなのよか、例えば走行中の列車から郵便袋を引っかける仕掛けを最初に考えた人たちの方がよっぽどイノベーティブな職人だったのではないか、って思ったり。
これの最後の方に詩のようなものが朗読されて、それがバックの音楽も含めて見事に韻を踏むまるでラップのようなやつで、なにこれ? と思ったら詩を依頼されて書いたのはW.H. Audenで、音楽は当時22歳だったBenjamin Brittenが注文をうけて作ったそうな。映像に合わせるべく相当細かく言葉を切ったり貼ったりしていったその苦労の経緯がWikiにあった。えらく渋くてかっこよくてびっくりした。
あと、この映画に出てくるユーストンの駅の構内には、まだメール配送をしていたこの頃の名残りが残っているって。
Locomotion (1975)
続いて鉄道誕生150年の記念に作られたGeoffrey Jonesによる15分の短編。
蒸気機関(Locomotion)の発明から当時の先端電車まで、フォルムの不思議を追いつつ、どうやって技術の革新を成し遂げ、エリアと乗客のベースを広げて発展していったのか、を実験映画ふうに描いて、かっこよい。あまりにかっこよすぎて、今のぼろぼろの地下鉄のイメージとのギャップをどう見たらよいのか、とか。音楽はやはりぜんぜんそう聴こえないSteeleye Spanが。
Overture: One-Two-Five (1978)
時速125mph(時速201キロ)で走る(当時)最新鋭の都市間高速鉄道を宣伝したフィルム。台詞はなくてDavid Gowの音楽のみ。繰り返しになるけどこの問答無用の落ち着きはなんなのだろうか。進化とか発展を素朴に信じることができた時代の - ?
British Rail Corporate (1988)
“Chariots of Fire” (1981) - 『炎のランナー』で、英国にオスカーをもたらしたHugh HudsonとVangelisのコンビが作ったCM作品。 これもきらきらしすぎていて冗談にしか…
日本の鉄道もそれなりの伝統はあるのでこういうドキュメンタリーはあるのだろうが、日本のってどうしても「思いを乗せて」、みたいな情緒的なものになりがちな気がする。今回見たのはどれもこの機械すごいだろー、でしかなくて、さすが産業革命の国(よくもわるくも)、って思った。
あと、よくわかんないのだが、英国ではOvergroundとUnderground (地下鉄)って別扱いなのだろうか? とか、ストにやられた4日間を振り返りつつ。
911の日でした。忘れないように。
ここ数年思うのだが、あの時と比べて、はっきりと世界は悪くなっているよね。規模とか件数の話ではなくて。
9.10.2025
[music] St. Vincent
9月3日、水曜日の晩、Royal Albert HallのBBC Promsで見て聴いた。
クラシックがメインのBBC Promsだが、毎年数組はRockやPopular系の人の枠があって、今年は彼女が。
前座なしで20:00きっかりのスタート。
彼女がクラシックの方に寄って何かやるとなると、2018年にピアノのThomas BartlettとふたりでCadgan Hallでやった彼女の歌にフォーカスしたライブを思い起こしたが、今回会場にはフルオーケストラがセットされていて、パーカッションの並びと装備が壮観。パーカッションは3名、コーラスも3名(女2、男1)、彼女のバンドのベース、ドラムス、ギターもその森のなかに埋もれ、指揮はJules Buckley。 オーケストラが配置についた後、最初に彼と、今回の編曲を担当したキーボードのRachel Eckrothが現れて配置につき、ゴージャスなインストゥルメンタルの”We Put A Pearl In The Ground”から。一聴して、ものすごくふかふかで分厚くて滑らかで、7月に見た”All Born Screaming”ツアーのごりごりばきばきのサウンドスケープからすれば笑っちゃうくらい、ものすごく違う。
2曲目からSt. Vincent – Anne Erin Clarkが黒のスーツで現れて、”Hell is Near”から歌いはじめる。彼女の声の肌理って、David Byrneとやった頃からどんなアレンジにも楽器たちにも負けない、背景がどんなに変で分厚くとも、分厚いほど活きて飴のように伸びる艶を持っていることが明らかになったと思うのだが、今回のは本当にバックの音の海に全てを委ねて気持ちよく渡っていくような。
3曲目くらいからエレクトリックギターを下げて、でもオーケストラがいるので自在に動きまわり弾きまくることもできず、でもだんだんその箍が外れていって、終盤の”New York”ではマイク片手にピットに降りていって、(自分の席からは見えなかったけど)観客と一緒に飛び跳ねていた。
曲構成としては初期の”Marry Me” (2007)や”Actor” (2009)からの曲が - 久々に聴いたからかも知れないけど、ものすごくよく響いていた。曲の作り方とか、この頃は少し違っていたのではないか。
今回のに関してはアレンジのRachel Eckrothの功績がものすごく大きいと思って、メンバー紹介でも、「彼女をパーティに誘ってもラップトップを持ってフロアの隅で編曲していた」というくらいにすばらしく重厚な、ところどころポップで軽やかな絨毯を編みあげていた。彼女、過去にはRufus WainwrightやAimee Mannのキーボードやアレンジもやっていたそうで、なるほどー、しかないわ。
Throwing Muses
9月9日、火曜日の晩、Village Undergroundというライブハウスで見ました。
NYにも同名のコメディをやっている小屋があるが関係はないと思う。Villageではなく町の外れにあって、Undergroundではなくただの倉庫スペースのようなところ。 客は自分も含めて老人ばかりなので立っているのがきつそうだった(し、帰りはストのおかげでバスが来ないし)。
Kristin Hershのソロは、2018年、Robert SmithがキュレーションしたMeltdownのフェスで見ていて、その時にもMusesの曲はやっていたので、バンドでライブをやるとは思っていなかった。(そういえば丁度いま、Tanya DonellyもBellyでツアーをしている)
前座はforgetting you is like breathing waterというトランペットとギターの二人組で、名前だけだとリリカルふうだが、音はギターの轟音の上にトランペットが雲のように覆いかぶさるインストゥルメンタルで、やかましいけど気持ちよかった。
今回のライブは今年3月にリリースされた新譜”Moonlight Concessions” (2025)をフォローしたもので、バンドの3人+チェロで、最初から最後までずっとこの構成を崩さず、殆ど喋らずにひたすら演奏を重ねていくだけ。
彼女のソロの時のライブは座ってリラックスして、いろんなことを喋りながら演奏していった記憶があるが、バンドだとやはり違うのか、口元はミューズの微笑みを湛えていても目が笑っていないし、音の荒れようときたら30年前のバンドのそれではない。ギターをアコギに変えても、チェロとドラムスのアタックがぶつかりあってよりやかましく聞こえるし。
新譜と今世紀に入ってからの作品がほぼだったので、知らない曲も多かったが、“Counting Backwards”とかはやはり盛りあがる。それ以上に、この曲がまったく浮きあがってこないくらいに、どの曲もおなじ粒の硬さ粗さで磨かれていたのがすばらしいと思った。明るくも暗くもない、歌いあげることも、はぐらかすこともない、少し下を向いてちょっと不機嫌にひたすら地面を蹴り続けるミューズの姿があって、それはそれは素敵ったらなかったの。
[film] The Woman in the Hall (1947)
9月4日、木曜日の晩、BFI Southbankのシリーズ”Projecting the Archive”のお蔵出し35mmフィルム上映で見ました。
原作はG.B. Sternによる1939年の同名小説、監督はJack Lee。
イントロで、この作品が映画デビューとなった女優のSusan Hampshireさんが出てきて、当時のオーディションの様子などをお話ししてくれた。現在88歳になる彼女は完成されたこの映画を見ていないそうで、このトークの後に見るのだと。 9歳のデビュー当時の自分の姿を初めてスクリーンで見る、ってどんなかんじなのだろうか?
戦後の苦しい時期、家族の絆やよき父や母の像が求められ描かれていた頃に、こんな毒母モノがあったのか、と。 未亡人のLorna (Ursula Jeans)はプロの物乞いで、きちんとした身なりで娘を連れて、お金持ちぽい邸宅を訪ねていく。タイトルの”The Woman in the Hall”は、執事が主人に彼女が来ていることを伝える時の言葉で、そうして客間に通された彼女は娘と一緒に偽りの身分ででっちあげのかわいそうな話をすると、それは大変ですね、といくらかを恵んでもらう。身なりもきちんとしたLornaの揺るぎない語りもあって彼女の不幸物語を疑うお金持ちは殆どいないし、彼女も自分の行いをまったく悪いことだとは思っていない。
かわるがわる母に連れられて騙しの道具として使われていた娘たち – Jay (Susan Hampshire)とMolly (Tania Tipping)も大きくなって手を離れたので、次の大博打 - 富豪のSir Halmar (Cecil Parker)に近づいて彼と結婚することにして、計画は着実にしめしめと進んでいったのだが、ある日Jay (Jean Simmons)が窃盗で捕まった、という連絡が入って、裁判所に出頭することになる。
法廷では当然証人としてLornaの素性が明らかにされてしまうので、もう全ては終わりか、になるのだが、それ以上に衝撃だったのは、Jayにとって窃盗したり人を騙したりすることは、小さい頃からずっとその現場にいてやりとりを見てきたので、まったく悪いと思っていなかった、ということであった…(そしてそんなキャラクターにJean Simmonsのあの表情が見事にはまる)
ジェットコースターのような法廷の場面は目を離せないのだが、なによりも戦後のイギリスにはこんな毒母 - 本人未公認 - もあった/いた(のだろうな、というのは感覚としてわかる)、というのをドライに切り取って見せていて、とてもおもしろかった。
A Place to Go (1963)
8月19日、火曜日の晩、BFI Southbankの同じプロジェクトで見ました。こんなのがいったいあと何本あるのか、底なしではないか…
監督はBasil Dearden、原作はMichael Fisherによる1961年の小説”Bethnal Green”。Bethnal Greenはロンドンの東の外れの下町で、映画に出てくる建物のなかには今もまだ残っているものがあるそう(そういうの、本当に素敵だと思わない?)
Ricky (Mike Sarne)はそこのタバコ工場で働きながらいつか金持ちになってどん底から抜けだすことを考えている労働者階級のあんちゃんで、思いを実行に移すべく強盗を計画して地元のギャングのJack (John Slater)とつるんで、ついでにCharlie (William Marlowe)の彼女のCat (Rita Tushingham)と付きあい始めて。他にも道端で鎖抜け芸人をやっているRickyの父(Bernard Lee)とか、印象に残る下町の人たちがいっぱい出てくる。
犯罪ドラマ(成功するか失敗するか)、というよりはそういうのが湧いて出てしまう(そこから脱出して”A Place to go”に向かいたいと願う)界隈の人間関係などにフォーカスしたドラマで”A Taste of Honey”(1961)で既にスターになっていたRita Tushinghamが出ていることからもKitchen sink realismの方に分類されることもあるようだが、とにかくごちゃごちゃと落ち着かず、全体としてはしょぼくれていてなんかよいの。
本当にこういうの、TVドラマも含めて今でもいっぱいあるので、みんな好きなんだろうなー、と思って、Kitchen sinkについては本を買って見始めたりしたところ。なぜ、例えばアメリカがノワールで塗りつぶしてしまったようなあんなことこんなことを、イギリスは律儀に表に出して並べてみせるのか、という辺りに興味があるの。
今日は10月のLondon Film Festival (LFF)のチケットのBFIメンバー向け発売日だった。
10時にサイトオープンで、でもすっかり忘れていて10:30に入ったらキューが約3万.. やっと入ることができたのは12:50頃で、もうめぼしいところはほぼ売り切れていた。
少し待てば一般公開されるので高いチケットを買う理由があるとしたらゲストに会う/を見るため、でしかなくて、その欲もあんまなくなってきているので、チケットを買ったのはほんの少しだけになった。始まったらどうせ当日のを狙ってしまうのだろうがー。
9.09.2025
[film] Kaj ti je deklica (2025)
8月31日、日曜日の昼、BFI Southbankで見ました。
英語題は”Little Trouble Girls”。原題は「彼女どうしちゃったの?」くらいの意味らしいが、英語題は最後に流れてくるSonic Youthの同名曲(”Girl”の単数複数の違いはあるが)から。あの曲がこんなかたちではまってしまうとは。
監督はスロベニアのUrška Djukić(脚本にも共同参加)。 彼女にとってはこれが長編デビュー作となる。
今年のベルリン国際映画祭で、FIPRESCI Prize(Perspectives)を受賞している。
16歳のLucija (Jara Sofija Ostan) はカトリックの学校で女性合唱団(の部活?)に所属していて、冒頭から厳しめの男性コーチに鍛えられている。彼女はすっぴんでおとなしく、目はぼーっと宙を眺めつ内側に篭っていて、彼女の隣にはメイクもしていてLucija から見ればとても大人なAna-Marija (Mina Švajger)がいて、面白半分にいろいろ教えてくれる。
合唱団は毎年恒例らしいトリエステ近郊の修道院での強化合宿にバスで向かって、川が流れていたりきれいな田舎なのだが、バスの窓から河原に全裸の男性が立っているのを見てしまったり、それくらい周りにひとのいない田舎で、中庭のある修道院は工事中で昼間は工事の音がやかましく、さっきの全裸男はそこの作業員のひとりであることがわかる。
コーラスの練習は厳しくてコーチは何度も繰り返しLucijaに「目を覚ませ」と言い続け、彼女ひとりで歌わせて、でも彼女はずっと目を覚ましているし、でも音楽よりもAna-Marijaと川べりに行って川辺で裸になっている作業員たちを見たり中庭のオリーブの木を眺めたりする方に興味があったりする(ように見える。表情などから)。
ただこの作品は、世の薄汚れた男たちが期待するような少女の所謂「性の目覚め」(ってそもそもなに?)を描いたような作品とはちょっと違っていて、Lucijaの内面の声や葛藤が描かれたり、それが何かをキックして具体的な行動や発言として表に現れたりすることは殆どない。彼女のクローズアップは何度も出てくるが泣いたり怒ったりといった感情が露わになることもなくて、ほぼ何を考えているのかわからないまま – そしておそらくそれが男性コーチの苛立ちの根にもある - そんなLittle Trouble Girl。
なぜ合唱の声はあんなに美しく、その雲が教会にある聖女の像などと結びついて聖なるイメージを形作るのか、なぜAna-Marijaの誘いはなんでもかんでも性的なものに導いているように見えるのか、Ana-Marijaがかっさらってきた作業員のシャツをわざわざ彼のところに返しに行ったLucijaは一体なにを考えていたのか、そういったところに目線や考えを導いていって、それは謎のまま謎としてなんだか心地よい。そして聖なるものとは、性的なものとは、なんであれらは我々を虫のように惹きつけてしまうのか、についてシンプルに映像で結んで語ろうとする。
最後のコーチが強いてくる対決、のような場面の描き方もはらはらするけど、それに続く場面でLucijaはあれでよかったのだ、と思わされる。彼女はあの後どうしていくのか、はあるけど、とりあえずよくあるところには着地していないような。
JLGが生きていたら絶対Lucija - Jara Sofija Ostanをキャスティングして何か作っただろうな、そんなわかりやすい透明感があって、そこは悪くない気がした。
9.08.2025
[theatre] Till the Stars Come Down
8月30日、土曜日の晩、Theatre Royal Haymarketで見ました。
もとはNational Theatreのプロダクションで、評判よかったのでWest Endで再演になったもの。原作はBeth Steel、演出はBijan Sheibani。
ステージ上にも客席が設けられていて、彼らは披露宴の賓客扱い、なのだと思う。
ある家族の結婚式〜披露宴の一日のあれこれを花嫁側の家族 - 女性が多く & みんな強い - を中心に追っていく。お葬式と並んで下世話でしょうもない内輪の愚痴や醜聞ネタに溢れかえり、でも思い当たるところもいっぱいなので、そうだよねー、とか場合によってはもらい泣きしてしまったりする(作る側としては)安全ネタでもあるのだろうが、この舞台はあれこれ豪快にぶちまけつつも、タイトルが指し示すような宇宙的なスケールで迫ったり飛ばしてくれたりする。翌日にはきれいさっぱり忘れてしまうのかもしれんが。
舞台は炭鉱のある(あった、なので生活は楽ではない)マンスフィールドの町で、Sylvia (Sinéad Matthews)がポーランド人のMarek (Julian Kostov)と結婚する蒸し暑い夏の日。Sylviaは三姉妹で、姉妹のMaggie (Aisling Loftus)とHazel (Lucy Black)と一緒に朝から身支度だなんだのてんやわんやで、こんなんでどうすんのよまったくもう! になったあたりで真打ちのように叔母のCarol (Dorothy Atkinson) - なんでも首つっこむのが大好物 - も登場して、とにかくこの暑さはなんなのよ! って朝からパンツが飛ぶような - ほんとに履いてたやつが飛んでくる - 大騒ぎになっている。
でもそういう喧騒から少し離れて、スペースシャトルの模型を手にして宇宙を夢見ている小さい姪っ子もいる。結婚するのなんかより宇宙に行ってみたいな、って。
女性たちのグチや軽口、噂話あれこれはかつてどこかで聞いたことがあるような、具体的な家族・親族構成を知らなくてもどの辺のあれか、想像がつくようなインターナショナルなものばかりで、ここに新郎がポーランド人であることからくる移民の話、さすがにヘイトまではいかないものの格差や階級起因の差別の話も絡まってバラ色の、夢の結婚生活、明るい将来について語るのは注意深く避けているような。
それでも真ん中のふたりは好きになったから、そういうのを一緒に乗り越えるのだ、ってことで結婚するのだし、だからとにかくめでたいじゃないかみんなで祝ってあげようよ、って感動的に盛りあがったそのピークで、上からばっしやーん、ってタライぶちまけの雨がきてずぶ濡れになって1幕目が終わる。
2幕目は最初からミラーボールにディスコのどぅどぅの耳鳴りが夜通しずっと鳴っているパーティーで、もう聖なるセレモニーは終わったので後は呑んで歌って踊って騒ぐ、というより恥も欲もまるだしで各自やりたいようにやる… ってなるとこれまで背後で割と地味でおとなしめだった男性側の方からもあれこれやばいのが出てきて罵り合いいがみ合いどーすんのこれ… になっていく。
ここまでくるとさすがに婚姻の意味とか、家族であることの理由とかまで考えてしまわないでもないが、そういう謎や神秘が、星が降ってくるくらい空に溢れかえっていること、そのなかを毎日毎日くるくる自転しながら抜けていっている地球のことなどを考えておくと、割とどうでもよくなれるのかも - わからんけどしらんけど - みたいな突き放した目線もあったりしてよいかんじ。 少なくともよかったよかった幸せになりいな、みたいな押し付けがましい年長者の嫌らしい落着感からは距離を置こうとしているような。
結婚モノ、というより家族ドラマとしてよくできていると思ったので、彼らの1年後とかを見てみたいな、って思った。
あと、これを毎日毎晩ずっと演じている女性たち、すごいなー、って思った。
皆既月食の時間はBFIで映画見ていて見れなかった。どっちみち雲で見れなかったらしいが。
それより帰ろうとしたら地下鉄のストが始まっていて、とってもめんどうくさかった。
9.06.2025
[film] Drømmer (2024)
8月17日、日曜日の夕方、BFI Southbankで見ました。
日本でも公開が始まっているノルウェーのDag Johan Haugerudによるオスロ三部作。日本に行ったりしている間に上映が終わって、”Love”だけ見逃してしまい、とりあえず見た2本についてだけ書いておく。Joachim TrierのOslo trilogyと混同していて、あんま乗れないでいたら別物だったことに気づいた。
こちらではKrzysztof Kieslowskiのトリコロール3部作に匹敵する、みたいな宣伝文句もあったが、そこまではー。
Drømmer (2024)
こちらでのタイトルは”Oslo Stories Trilogy: Dreams”。
3部作を順番通りに見ようとすると、これが最後にくるらしいが、知らないで最初に見てしまった。
17歳の高校生Johanne (Ella Øverbye)がいて、シングルマザーのKristin(Ane Dahl Torp)と暮らし、祖母のKarin (Anne Marit Jacobsen)がいて、特に不満も問題もなさそうだが、なんか抱えていそうな。
そんな彼女のクラスに新任教師でテキスタイルのアーティストでもあるJohanna (Selome Emnetu)が来てから、一目で恋におちたJohanneは落ち着かなくなり、彼女の姿を目で追うようになってどうしようもなくなり、夜の街を彼女の家まで追っていってドアをノックしたら泣きだしてしまい、Johannaは彼女を抱きしめて家に入れてあげる。
後半は、JohanneがJohannaとの親密な時間について書いたものを出版経験のある祖母に見せて、祖母はその大胆で脆くて熱い孫の書いた内容を母にも共有して、これは事実なのかJohanneの夢とか妄想みたいなものなのか、それはそうとしてテキストとして出版してもよいくらいよく書けているけど、どうしようか、みたいなことを自問したり会話したり、母はどうしようもなくなってJohannaのところに行ってみたりする。
JohanneがJohannaのフラット(すごくすてきな部屋よね)で過ごした(実際に起ころうが起こるまいがの)夢の時間、そこから紡がれた夢の織物を巡って、それぞれがいろんなことを思ったり言ったりして、決して理解したり共感しあったりするものではない、ただ17歳の娘/孫の夢に巻かれてあうあう右往左往する、その3代がなんかよいの。これが例えば男性中心の(3代)だったらどんなドラマになっただろうか - ぜんぜん見たくないや - とか。
Sex (2024)
8月24日、日曜日の夕方、BFI Southbankで見ました。“Oslo Stories Trilogy: Sex”。
タイトルでなにかを期待してきてしまった人はかわいそうに。
これが3部作の最初の1本だそう。
煙突掃除を仕事にしているふたりの男が休憩時間か終業後なのか、見晴らしのよい屋根の上に座って話をしている。男A (Jan Gunnar Røise) が男B (Thorbjørn Harr)に、自分がDavid Bowieに女性として見られている変な夢を見る – しかもそれが悪くないかんじのでー、という話をしてから唐突に、こないだ男性とセックスをした、と告白 – というシリアスなトーンではなく、お菓子を食べました、みたいな軽い調子で、向こうから誘われて、一旦断って外に出たけど戻ってついやってしまった、みたいな調子で言う。男Aとってはこんなふうに話してもどうってことない、ってかんじで、やったからといって自分はゲイではないと思う、なんて言う。晴れた日、屋根の上で煙突掃除のおじさんふたりがそんな話をしているのがなんかおかしい。
その場は、へえおもしろいねえー、くらいのかんじで終わるのだが、男Aはそれを妻 (Siri Forberg)にも同じ調子で話しちゃって、そうしたらその内容は妻にとってはえらい衝撃で、あなたにとってセックスはそういう「程度」のものなのか、それは大切な人とするものではないのか、って彼の方は言葉に詰まったり謝ったりしてみるのだが、そもそもそんなに悪いと思っていないから喋ってしまったものなので予想していなかった(それはどうか、だけど)彼女の反応に当惑して、ふたりの関係は気まずいものになっていく。
これも↑の”Dream”と同じように、当事者によって語られたことが当人の意図とか事実なのかどうなのか、を超えて親しい人になにかを投げかける、その波紋がもたらす困惑や混乱を追っていて、それが実際に起こったことであるかどうか、ではなく、その宙に浮いて当人が思ってもいなかった空気を作りだしてしまう、その波模様がおもしろい。 彼にとっては女性として見られている夢の方が注視すべきことなのだろうが、そっちの方は誰も相手にしてくれなかったり。
この2作、おもしろいなー、と思いつつも、これのどこがおもしろいんだろうか? というのを考えさせるところもあって、まだ考えたりしている。愛でも夢でもセックスでも、行為そのものを描こうとしないその立っている位置、だろうか。
あと、機内で見たら気持ちよく眠れそうな映画かも。
9.05.2025
[film] The Roses (2025)
8月30日、土曜日の午後、Picturehouse Centralで見ました。
原作はWarren Adlerによる“The War of the Roses” (1981)、これを元にしたMichael Douglas & Kathleen Turner主演、監督Danny DeVitoの同名映画(1989)のリメイク、だとしたらおもしろくなるかも、と思った。
監督はJay Roach、なのだが脚本がYorgos Lanthimosと仕事をしてきたTony McNamara、ということでこの取り合わせも含めてだいじょうぶか... にはなったが。
Ivy (Olivia Colman)は駆け出しのシェフで、Theo (Benedict Cumberbatch)は新進の建築家だった頃にイギリスで出会って恋におちて結婚して、ふたりでアメリカ西海岸に渡って子供たちも育って、Ivyは浜辺に小さなシーフード(蟹)レストランを開いて、Theoは彼のシグネチャーとなるMuseumの建立を見届けたところ、まではすべてがきらきら輝いていたのだが、でっかい台風が来て、彼の建物はみんなの見ている前で粉々に崩れ落ち、他方で同じ頃Ivyのレストランにたまたま避難していた高名なフードクリティックが彼女の料理を絶賛したことから、彼女はたちまちスターシェフの仲間入りをしてしまう。自身の建築が崩れていく前で罵詈雑言を吐いて地団駄を踏む動画を世界に拡散されたTheoは一瞬ですべてのキャリアを失い、翌日からは家事とふたりの子供の教育に専念することになる。
最初のうちは互いを思いやったり手伝ったりしていくものの、明らかに不健康に腐っていきそうなTheoと、彼が体育会系のばきばきに鍛えあげてしまった子供たちの姿を見たIvyは、海が見える高台に自分たちの夢の家を作ろうって彼に設計を任せて、彼は建築家としての夢を存分に発揮してすべては元に戻ったかに見えたのに、友人たち - Andy SambergとかKate McKinnonとか明らかにやばい面々 – とのパーティで改めて壊され崩されて、ふたりの仲は修復不能な地点にまで行ってしまう…
天災をきっかけに運命が二分されて一方は天に昇って一方は底に転がり落ちていく、のはわかるのだが、このドラマでは明らかにTheoの方が病んでいって、Ivyがそれに我慢できなくなったような描かれ方で、それでよいのか。互いの関係の根深いところに許しがたい要因が芽吹いて、それはふたりがふたりでいる以上どうすることもできない致命的なやつだった(ので殺しあう。しかない)というのがオリジナル版の孕んでいた凄みだったと思うのだが、そこが仕事 - 家事と育児のバランスの崩壊、という現代的なテーマの下で再構成されてしまった結果、つまんなく薄められちゃったのではないか。
なのであの最後はがっかりだったかも。Olivia ColmanとBenedict Cumberbatchが殺し合うなんて、絶対すごいところ、行きつくところまで行ってくれると思ったのになー。
Another Simple Favor (2025)
8月23日、土曜日の何時頃だろ、日本に向かう機内で見ました。
“A Simple Favor” (2018)からの、監督もメインキャストもストーリーも引き継いでの真っ当な続編。
あれから5年、Stephanie (Anna Kendrick)は人気vlogger & 素人探偵として本まで出す人気者になっていたが、彼女がネタにしていたEmily (Blake Lively)が控訴審でなぜか仮釈放され、イタリアの大金持ちの一家 – なかみはたぶんマフィア - と結婚する、カプリ島で式をあげるのでメイド・オブ・オナーとして来てほしい、という。これが”Another” Simple Favorなのだが、こんなの誰がどうみても憎たらしいStephanieを島に呼んで殺してやるからね、っていう誘い以外の何ものでもないのに、なんでStephanieはのこのこ寄っていっちゃうのか。そしてやっぱりばたばたと殺されていく大勢の人たちと、容疑者として追われることになるStephanieと。やがて明らかになるEmilyの家族の謎、というか不思議.. まだまだ出てきそうな気がする。 次は”Alternate Simple Favor” だろうな。
Love in the Big City (2024)
8月27日、水曜日の何時頃だろ、ロンドンに戻る機内で見ました。
自由で強くてかっこいい女の子Jae-hee (Kim Go-eun)と寡黙で何かを抱え込んでいる男の子Heung-soo (Noh Sang-hyun)の長い歳月に渡る友情の物語で、Heung-sooはゲイなのでJae-heeとの間で恋愛関係には発展しないのだが、常にお互いのことを気にしている。 昔からずっと続いていく(とそれぞれが勝手に思っている)ふたりの(面構えがすてきで)無頼な関係に対する、流れていってしまう時間、変わっていってしまうあれこれに対する切ないところも含めた年代記をBig Cityの物語として置いて、ちょっと長いし(でも長さが必要なことはわかる)、漫画みたいにくさい台詞もいっぱいあるのだが、なんか悪くなかった。
9.03.2025
[theatre] A Man for All Seasons
8月20日、水曜日の晩、Harold Pinter Theatreで見ました。
原作はRobert Boltの同名戯曲 (1960)、1966年に、Fred Zinnemann監督、原作者自身の脚色、Paul Scofield主演で同タイトルで映画化され(邦題は『わが命つきるとも』)、作品賞を含む6部門でオスカーを受賞している(未見)。
これはTheatre Royal Bathのプロダクションで、今年の初めにバースで上演されて英国をツアーしている(なので1カ月しかやらない)ものがロンドンに来た。演出はJonathan Church。
英国の歴史もの、歴史上の人物が出てくる演劇は勉強になるので見るようにしている。人物像や歴史(ストーリー)を学ぶ、というのもあるし、出てきた人物に対する客席の反応 – Cromwellにブー、とか – を見るとなるほど、ってなったりもするし。
1520年代の終わりから1530年代にかけての英国で、Anne Boleynと結婚したいためにHenry VIIIはCatherine of Aragonとの結婚無効(離婚)を教皇から認めて貰いたいのだが、法を守る者として断固反対して意を曲げずに斬首されてしまったThomas Moreの像を、当時の政治・宗教だけでなく、彼を支えた家族も含めて描く評伝ドラマ。
舞台はチューダー朝ふうの重く荘厳な建物の内部で薄暗く、本棚にはびっしりの本の影があって、そういう中を(ほぼ)男たちが難しい顔で歩き回ったり怒鳴ったり密談したりしている。衣装も同様に法衣とか、家の中にいてもがっちりと重そうなのを纏っていて偉い人たちは大変そう。
主人公はThomas More (Martin Shaw)だが、他の重要な登場人物としてthe Common Man (Gary Wilmot)というのがいて、彼は召使いや船頭や看守、最後は死刑執行人などの顔をして常に現場(舞台袖)で聞き耳を立てていて、場面が切り替わるところで客席に向かってコメント(いまならtweet)したり、今の会話や動きが庶民の目や耳にはどんなふうに入っていったのか、を語り部のように教えてくれる。なかなか勉強にはなる。
Thomas Moreは最後まで落ち着いた人格者として描かれて、彼と正面から敵対するThomas Cromwell (Edward Bennett)にも、直接頼みにくるHenry VIII (Orlando James)にもブレることなく、激しい論戦を戦わせることもあれば沈黙こそが安全、って何も言わずに返すこともあり、相手側は戦術を変えてあれこれ噛みついてくるものの、日照りになろうが大嵐が吹こうが依って立つところ、正しいと思う軸はぶれないし動じない – そんな“A Man for All Seasons”であるMoreの姿の反対側で、妻Alice (Abigail Cruttenden)と娘Margaret (Annie Kingsnorth)にとってはよき夫でよき父で、彼の優秀さと正しさは十分に理解しつつも、そんなに曲げないでいると始末されてしまう、だからもういいから妥協して逃げましょう、って請うのだが彼がそう簡単に折れる人ではないこともわかっている。
なので、ここまで善悪と白黒がはっきりしたドラマであるのだから、Cromwellを中心とした悪玉の方にどこまでもゲスに悪どくなって貰いたいところで、実際彼は憎らしいくらいに狡猾で嫌らしいのだが、もっとひどくても、って思った。舞台セットがあそこまでずっと暗くて重いのだし。
この頃から約500年が過ぎて、自分の私利私欲のためには規律も法律もどうでもよい、なんならそっちを変えてしまえばよい、という政治家(+それに群がる官僚)がグローバルに溢れだした昨今(なんなんだろうね?) - “A Man for All Seasons”の意味も逆転したりして - もっとリアルに嫌らしくどす黒い政治ドラマにしちゃってもよかったのに、などと思いながらThomas Moreが斬首された建物の方に帰るのだった。
9.02.2025
[film] Shakespeare by Lubitsch
こないだ日本にいって、一番残念無念だったのはシネマヴェーラの特集『ルビッチ・タッチのすべて』のうち、たったの1本しか見れないことだった。1本見れただけでも、とすべきなのだろうが…
でも戻ってすぐ、BFI Southbankで月1回のサイレント映画特集で、ルビッチをやってくれた。
“Shakespeare by Lubitsch”と題して、2本立て。ライブのピアノ伴奏つき。
シネマヴェーラのプログラムでは “Meyer aus Berlin” (1919) - 『ベルリンのマイヤー氏』と”Romeo und Julia im Schnee”(1920) - 『田舎ロメオとジュリエット』の2本を束ねていたが、こちらはシェイクスピア由来(+バイエルン舞台)というこの2本立て。しかし、ルビッチって、”To Be or Not To Be” (1942)といいこれらといい、シェイクスピア(のコメディが?)好きだったのだろうなー、って。
Kohlhiesels Töchter (1920)
8月31日、日曜日の午後に見ました。
2023年に修復を終えた4Kリマスター版で、上映時間は65分だったので、日本の(60分)とはバージョンが少し違うのかも。 英語題は“Kohlhiesel's Daughters”、邦題は『白黒姉妹』。
原作はシェイクスピアの”The Taming of the Shrew” (1590-92) - 『じゃじゃ馬ならし』。
ルビッチのドイツ時代のコメディで最も人気を博した作品で、でも第一次大戦があって、英国に入ってきたのはずっと後だったのだそう。
バイエルンに姉のLiesel (Henny Porten)と妹のGretel (同じくHenny Porten)の姉妹がいて、似てはいるけど性格も振る舞いも正反対で、Lieselは男勝りで力持ちで睨みを効かせてこわくて、Gretelはその真逆で所謂女性らしく、行商人への対応にしても旅人Xaver (Emil Jannings)とSeppl (Gustav von Wangenheim)への対応にしてもぜんぜん違って、Lieselが現れると場が凍りついてモノが壊れて惨劇となり、Gretelが来ると場が和らいで男達はめろめろになり、そうしてXaverはGretelにやられて結婚を申し込むのだが、彼女の父(Jakob Tiedtke)はまずLieselの結婚が先だからだめ、という。それなら、とXaverはLieselと結婚して、すぐ離婚してGretelと一緒になればいいんだ、ってLieselに近づいていって、その反対側でひとりになったGretelのところにはSepplが…
というのを一目瞭然のアクションと白黒の表情でぐいぐい引っ張りこんで笑わせて、なんかどこか変だけど、ま、いっか、とすべてを納得させてしまうすばらしさ。
Henny PortenとEmil JanningsがAnna Boleynとヘンリー8世をやった” Anna Boleyn” (1920) - 『デセプション』も見たいよう。
Romeo und Julia im Schnee (1920)
英語題は“Romeo and Juliet in the Snow”、邦題は『田舎ロメオとジュリエット』。原作はいうまでもなくあれ。
↑と同じバイエルンの山の民を舞台にした「ロメオとジュリエット」で、バイエルン人はナポリ人だから – ってよくわからないことが『ルビッチ・タッチ』の本には書いてある。
雪のなか、両家の対立がわかりやすく描かれて、結婚相手が決まっているジュリエット(Lotte Neumann)がロメオ(Gustav von Wangenheim)と出会って結婚したくなってもだめらしいから毒薬くださいー、ってふたりで薬局に行って、薬局もあいよ毒薬ねー って簡単にだしてくれて、一緒に飲んで横になって、それを見た両家はこんなことなら、って嘆くのだが毒がぜんぜん効かないので起きあがったらよかったよかった、になるの。すべてがどうでもよくてバカバカしくて、学生の自主映画みたいにいい加減なノリなのに何が来ても笑えてしまう。あと、ジュリエットの許嫁のバカ息子(Julius Falkenstein)が昔のビートたけしそっくりだった。
Design for Living (1933)
8月25日、月曜日の午後にシネマヴェーラ渋谷で見ました。 『生活の設計』。
原作はNoël Cowardの同名戯曲(1932)をBen Hechtが脚色している。
これに主演の3人だけで、5時間でも6時間でも見ていられる。(実際には91分)
パリに向かう列車の客室で広告イラストを描いているGilda (Miriam Hopkins)と画家のGeorge (Gary Cooper)と劇作家のTom (Fredric March)が一緒になって、3人は楽しく意気投合して、セックスしないという条件で共同生活を始めるが、やっぱりムリで、それぞれが不在の間にしちゃって、気まずくなること2回、Gildaは出て行って広告会社のボスでつまんない奴Max (Edward Everett Horton)と結婚するが、パーティに乱入してきたGeorgeとTomがめちゃくちゃにして、パリでまた元の生活に戻る。
まず元のデザインがてきとーでなんも考えていなかった、というか、デザインは割とちゃんとしていたがそこに暮らす人のことを考えていなかった、というか、そこで暮らす人々の挙動とかを想像したらそれらがなんか生々しすぎて笑えなかった、ということなのだろうか。それか、TomとGeorgeもやっておけばみんな平等で、破綻しなかったかもしれないな、とか。
こないだの”Materialists”の3人なら大丈夫だった(なにが?)のではないか、と思ったりもした。
「ルビッチ・タッチ」のおもしろいところって、映画としてうまくいっていない、とされる作品でも、何度でも見てしまえるところだろうか。俳優とか脚本のよさ、とは別の次元でついなんか。ちっとも名盤ではないけど、何度でも聴いてしまうレコードとおなじで。
9.01.2025
[film] Caught Stealing (2025)
8月29日、金曜日の晩、Curzon Bloomsburyで見ました。
これも見事な猫映画で、主人公はぼろぼろになりながらも猫のために生きようとする、そういう点でも似てい… 。
原作はCharlie Hustonの同名小説 (2004)で脚本も彼が、監督はDarren Aronofsky。キャストはなにげにすごい。
1998年、まだツインタワーが見えるNew YorkのLower East Sideで、Hank (Austin Butler)はお気楽なバーテンをしていて(当時あの辺にあったバーの再現度合いがすごい)、MLBのSF Giants - ボンズがいた頃の – の熱狂的なファンで、彼自身も野球選手だったが、痛ましい事故によりキャリアを断たれたことが後でわかる – 彼と電話(主に固定電話の留守電)でやりとりする母親とは最後に必ず”Go Giants!”でしめる。
彼がアパートに戻るとモヒカンパンクの友人Russ (Matt Smith – こないだのフォーク・ホラー”Starve Acre”ではゴス系の長髪だった) が父が倒れたのでロンドンに戻る、その間の猫の世話を任されて、軽く受けたらその後にロシア人のやくざたちがやってきて一方的にぼこぼこにされて気を失い、恋人の救急救命士のYvonne (Zoë Kravitz)に救われて病院のベッドで目を覚ますと腎臓を失っている。
なにがなんだかわからないままNY市警のRoman (Regina King)に連絡を取り、彼女にいろいろ教えて貰うと、Russはハシディズム(ユダヤ人)の悪名高い兄弟に絡む麻薬の売人をしていて、その金をどこかに隠してて、ロシア人たちが探しているのはその隠し場所の鍵であるらしい。 どうにか鍵を見つけてNYに戻ってきたRussと隠し場所を確認したら今後はHankがその鍵をどこかに失くして… と、全体としてはよくある巻きこまれて逃げ回って絶体絶命、味方だと思っていたら実はそうではなかったり、形勢が二転三転しつつも全体としては逃げても逃げても痛めつけられ散々な目にあっていく系ので、バイオレントな描写もいっぱい、彼のまわりの人々も容赦なくどんどん殺されたり死んだりしていって、Hankはその度にめそめそするのだが、一発逆転はあるのか、盗塁は成功するのか、みたいな。
容赦ない暴力が支配する世界に放り込まれ、悲惨な事故によってスポーツへの道を断たれた若者はどうやって突破口を見いだすことができるのか、やっぱりスポーツ的な機転とか反射神経の話になっちゃうのか。Austin Butlerがあまり体育会系の強さや獰猛さを持ち合わせているように見えない(←偏見)ところがちょっと。“The Bikeriders”(2023)の時にもそれは思ったのだがー。(子犬みたいにめそめそしているのが実にサマになる)
YankeesでもMetsでもなくSF Giantsである、という一点がどこかで効いてくるのか、と思ったがあまり関係なかった。ルーツを異にするギャングたちにとってはどうでもよく、そもそも通用するわけがない、というオチでよいのかしら。
NYのLESのぼろくてやばい佇まいに加えて、Flushing Meadows ~ Shea Stadium ~ Coney Islandまで、更にはユダヤ人コミュニティからロシアのサパークラブまで、地味できつめなNY暮らしの諸相を押さえたNYの裏通り映画としてはよくできているかも。憧れの高飛び先としての楽園(Tulum)まで込みで。
音楽はIdlesが全編を書いているが、Smash MouthとかSpin DoctorsとかSemisonicとか懐かしいのもちょこちょこ聞こえてくる。もっといろいろ流してくれてよかったのに。
しかし、最後に流れたあのバンドのあの曲には吹きだしてしまった。確かにその通りの曲ではあるのだが、これを荒れまくった犯罪映画のラストに持ってくるのかー、と。
[film] Sorry, Baby (2025)
8月28日、木曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
日本から戻って、早く戻さねば(なにからなにをどこへ?)、ということで夕方に”Escape from New York” (1981)を見て、その晩の2本め。ものすごくよかった。
作・監督・主演はEva Victor、これが彼女の長編デビュー作で、今年のサンダンスでプレミアされていて、グローバルの配給はA24。
“The Year With the Baby”から始まって”Sorry, Baby”で終わる4章からなり、時系列は少し行ったり来たりがある程度、びっくりするような段差はない。
マサチューセッツのそんなに田舎ではないところ、大学で近代文学を教えているAgnes (Eva Victor)がひとりで暮らす一軒家に友人でクラスメートだったLydie (Naomi Ackie)が車で訪ねてきて、いっぱいハグしていろいろ語りあう。Lydieはお腹が大きくてもうじき生まれそうで、後で彼女は同性結婚をして人工授精を選択したことがわかる。そういったことも含めてふたりは互いのことをとても大切な友人だと思っていることがわかる。
そこから話はふたりがその家に一緒に暮らしていた学生の頃に遡り、修士論文を書いていたAgnesが彼女の草稿を褒めてくれたり『灯台へ』の初版本(US版かUK版か?)を貸してくれたり好意をもってくれているらしい教諭のDecker (Louis Cancelmi)の指導を受けるべく彼の自宅を訪ねていったら性加害を受けてしまう - そのシーンの描写はなく、彼女が彼の家に入り、周囲が暗くなってからその家を出て硬ばった表情で放心状態で家に帰ってLydieのケアを受けるところで初めて明らかになる。
翌日医者に行っても、すぐに来てくれれば フォレンジックできたのにと言われ、Deckerは突然大学を辞めて別の学校に移り、彼女が性加害の件を大学に訴えでたのはその後だったので、学校として彼をどうにかすることはもうできない、後は警察に行きますか? と女性の職員たち(「私たちも女性ですから」って)に問われた彼女は彼には子供もいるしもういいです、と投げてしまう。
その後、Agnesはjury dutyを要請されても性加害を受けたのに相手を告発できないような自分に人を裁く資質はない、と辞退したり、Deckerの後任として非常勤から常勤職に昇格できたものの殻が抜けたようになってパニック障害に襲われ、サンドイッチ屋の主人(John Carroll Lynch)に救われたり、隣人のGavin (Lucas Hedges)とてきとーな(なにを求めているのか不明な)関係をもったり、事件から3年が過ぎても極めて不安定で落ち着かない。けど、自分では/自分でもどうすることもできない。
性加害の事実を掘り下げて、その罪や問題のありようを問う、あるいはその痛みやトラウマを共有する、そういう映画ではなく、それを受けてしまった人はこんなふうになってしまうのだ、それは共有したり癒されたりする/できるようなものではないのだ、ということを淡々と綴る。だから画面から受ける印象はユーモラスと言ってよいくらいに乾いていて軽く、”Sorry, Baby”という呟きにはその辺りも含まれていると思う。(もちろん、だからと言って許されてよいようなものではまったくない。むしろ、なぜ彼女にそう言わせてしまうのか、ということが... )
最後、Lydieが連れてきた赤ん坊を前にAgnesがひとり淡々と呟く”Sorry, Baby”は、殆ど大島弓子世界のあれで、ここか、と思った。自分も含めて世界はほんとうにクソでしかない、そんなとき、かろうじて口にすることができるのは…
あと、この言葉は彼女が拾った子猫のOlgaにも。