9.12.2025

[film] Highest 2 Lowest (2025)

9月5日、金曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。

Spike Leeが、黒澤明の『天国と地獄』 (1963) - 英語題は”High and Low” - を現代のNYを舞台にリメイクした結構な話題作だと思うのだが、UKでの公開も宣伝もものすごく地味でどうみてもやるきないっぽい(初日なのでスクリーンだけはでっかくしてくれた)。

日本の若者たちが黒澤のオリジナル版を見ていないことについて、Spike Leeが日本のジャーナリストを責めた(彼のいつものあれよ)そうだが、だって日本で黒澤を見ろ、って言ってくるおやじって、ぜったい上から目線の黒澤の映画に出てくる脂ぎった悪役みたいなじじいばっかりだったんだもの。(だから見てないよ。お金も時間も限りがあるんだよ)

原作はEd McBainの小説” King's Ransom” (1959) – これがそもそもNYをモデルにした架空の都市が舞台だったのだが、冒頭、イーストリバーを中心にブルックリン側から映しだされるダイナミックなNYのスカイラインも、自分にとってはあんまリアルには見えない(変わりすぎてしまって)。そういうところまで含めた嘘っぽさ、絵空事のかんじがでかでかと。

主人公は音楽業界の伝説的なプロデューサーDavid King (Denzel Washington)で、冒頭のシーンは彼のWilliamsburgあたりの高層アパートのペントハウスから、その内部は高そうなアートとかレコードコレクションとか、彼にとってのアイコンとか、自分が表紙になった雑誌のカバーとかで覆われている。妻のPam (Ilfenesh Hadera)はブラックカルチャーを支援する慈善家で、息子のTrey (Aubrey Joseph)はバスケットボール選手で、問答無用で今の過剰な富裕層の典型。

Treyを車で学校に送っていったその晩に彼が誘拐されたという報が入り、アパートに捜査本部が置かれ、何をしても、どれだけ払ってもいいから彼を取り戻せ、と伝えてしばらくしたら、Treyは戻ってきて誘拐されたのはKyleではなくDavidの親友で運転手のPaul (Jeffrey Wright)の息子Kyle (Elijah Wright) であることがわかる。

自分の息子じゃなくても親友のKyleを救ってくれるよね? とTreyはパパにお願いするのだが、ビジネスでも岐路に立たされて迷っている最中に膨大な身代金の出費は痛くて、でもすぐに返事を出せないDavidにSNSはざわざわし始めるし、警察はPaul自身が仕組んでいる可能性も視野に入れていたり、いろんなことが立ちあがって出口が見えなくなる。

結局Davidは取引に応じることにして、自ら身代金を担いで④の地下鉄でBorough Hallから試合で人々がごったがえすYankee Studiumまで乗っていって(停車駅にいちいち思い出が)、更におそろしいことに球場の外ではPuerto Rican Day Paradeが行われててごった返す、なんてもんじゃない修羅場になっている。人混みが嫌いな人だったら秒で失神してもおかしくない、NYが一年で一番やかましくなる一日に、いくら荷物にGPSを仕込んでいたからと言って、犯人を捕まえることなんてできるだろうか? - いやぜったいむり。(これ、単独犯のように描かれているけど組織で動いているよね?)

でもDenselだから。 “The Taking of Pelham 123” (2009)でも、”Unstoppable” (2010)でも、やってきたことなのでまたしても、はあるけど、彼が電車に乗りこんだら解決しないことなんてないから。無敵だから。

そして今回もまた、なのだが、最後は結局Yung Felon(ASAP Rocky)とのラップ対決で - 殴りあいでも銃でもなく – 負かしちゃって、伝説上の人物なのでそういうもんなのかもしれないけど、すべてを取り戻してしまって、お手あげになる。

Spike Leeはたぶんこれを過去から連なるNYのドラマ(音楽、野球、移民、ダンス、アート等) – Highest/Lowestも社会階層に加えてNYの地理 - マンハッタンだとUpper/Lowerだけど – にしようと思っていたのかもしれないが、とにかくDenselがでっかすぎてどうしようもない。 ここはもういっかいマンハッタンにゴジラを上陸させるくらいしかないのではないか。

[film] Railway 200: Reels and Rails

9月2日、火曜日の晩、BFI Southbankで見ました。

映画上映もあるが、どちらかというとお祝いイベントで、英国の鉄道200周年を記念して、この200年の間、130年くらい前に出てきた映画がどんなふうに関わってきたのか、いろんな短編やプロモーションフィルムを見ながら、歴史家のTim Dunn、BFIアーカイブのドキュメンタリー部門キュレイターのSteven Foxonのふたりがいろいろ掛け合いしながら解説してくれる。約2時間とあったが、実際には2時間半くらいやっていた。

列車も車も飛行機も、乗り物には特に興味があるわけではなくて、型とか技術とかもどうでもよくて、ただそれがレールの上を走っていく映像を見るのは好き(酔わないから?)で、走っているだけでなんかおもしろいぞ! ってなったのはJames Benningの”RR” (2007)あたりからだと思うが、英国にきて、この国の映画最初期のアーカイブを見ていくなかにも列車の映像が結構あったので、列車を撮ったり見たりが好きな人は多いんだろうな、と思って、そういう映像をまとめて見れるよい機会になった。 で、実際ものすごくおもしろかった。

最初はクリップのように短いフィルムを沢山、なにかのお祭りで当時の蒸気で動く列車が山車のように列をなして、いろんな格好の人がそれに乗っているのとか。すべての列車が外観も含めてまるで違っていて、解説の人は結構興奮していたが、あれだけいろいろあったのが/のに、どうやって今の形になっていったのか、とか。

一通りの初期鉄道を紹介した後に、いろんな短編を見ていった。

Night Mail (1936)

24分のドキュメンタリー。
General Post Office (GPO)のFilmユニットが制作したもので、客を乗せずに夜の間に郵便の集配信をする列車とそこで働く人たちの姿を追っていく。もうこの世界では有名な古典らしいのだが、ロンドンのユーストンを出て、グラスゴーを抜けてエジンバラの方に向かう列車が、どんなふうに各地の郵便袋を拾って、車内で人が仕分けして、どんなふうに袋ごと配って置いていくのか、を走りながら見せてくれておもしろいったらない。電子メールの前にはここまで人力でやる仕組みが出来あがっていたのかー (オフィス内にはシューターとかあったしな)、とか。

デジタルのいろんなのよか、例えば走行中の列車から郵便袋を引っかける仕掛けを最初に考えた人たちの方がよっぽどイノベーティブな職人だったのではないか、って思ったり。

これの最後の方に詩のようなものが朗読されて、それがバックの音楽も含めて見事に韻を踏むまるでラップのようなやつで、なにこれ? と思ったら詩を依頼されて書いたのはW.H. Audenで、音楽は当時22歳だったBenjamin Brittenが注文をうけて作ったそうな。映像に合わせるべく相当細かく言葉を切ったり貼ったりしていったその苦労の経緯がWikiにあった。えらく渋くてかっこよくてびっくりした。

あと、この映画に出てくるユーストンの駅の構内には、まだメール配送をしていたこの頃の名残りが残っているって。

Locomotion (1975)

続いて鉄道誕生150年の記念に作られたGeoffrey Jonesによる15分の短編。
蒸気機関(Locomotion)の発明から当時の先端電車まで、フォルムの不思議を追いつつ、どうやって技術の革新を成し遂げ、エリアと乗客のベースを広げて発展していったのか、を実験映画ふうに描いて、かっこよい。あまりにかっこよすぎて、今のぼろぼろの地下鉄のイメージとのギャップをどう見たらよいのか、とか。音楽はやはりぜんぜんそう聴こえないSteeleye Spanが。

Overture: One-Two-Five (1978)

時速125mph(時速201キロ)で走る(当時)最新鋭の都市間高速鉄道を宣伝したフィルム。台詞はなくてDavid Gowの音楽のみ。繰り返しになるけどこの問答無用の落ち着きはなんなのだろうか。進化とか発展を素朴に信じることができた時代の - ?

British Rail Corporate (1988)


“Chariots of Fire” (1981) - 『炎のランナー』で、英国にオスカーをもたらしたHugh HudsonとVangelisのコンビが作ったCM作品。 これもきらきらしすぎていて冗談にしか… 

日本の鉄道もそれなりの伝統はあるのでこういうドキュメンタリーはあるのだろうが、日本のってどうしても「思いを乗せて」、みたいな情緒的なものになりがちな気がする。今回見たのはどれもこの機械すごいだろー、でしかなくて、さすが産業革命の国(よくもわるくも)、って思った。

あと、よくわかんないのだが、英国ではOvergroundとUnderground (地下鉄)って別扱いなのだろうか? とか、ストにやられた4日間を振り返りつつ。


911の日でした。忘れないように。
ここ数年思うのだが、あの時と比べて、はっきりと世界は悪くなっているよね。規模とか件数の話ではなくて。

9.10.2025

[music] St. Vincent

9月3日、水曜日の晩、Royal Albert HallのBBC Promsで見て聴いた。
クラシックがメインのBBC Promsだが、毎年数組はRockやPopular系の人の枠があって、今年は彼女が。
前座なしで20:00きっかりのスタート。

彼女がクラシックの方に寄って何かやるとなると、2018年にピアノのThomas BartlettとふたりでCadgan Hallでやった彼女の歌にフォーカスしたライブを思い起こしたが、今回会場にはフルオーケストラがセットされていて、パーカッションの並びと装備が壮観。パーカッションは3名、コーラスも3名(女2、男1)、彼女のバンドのベース、ドラムス、ギターもその森のなかに埋もれ、指揮はJules Buckley。 オーケストラが配置についた後、最初に彼と、今回の編曲を担当したキーボードのRachel Eckrothが現れて配置につき、ゴージャスなインストゥルメンタルの”We Put A Pearl In The Ground”から。一聴して、ものすごくふかふかで分厚くて滑らかで、7月に見た”All Born Screaming”ツアーのごりごりばきばきのサウンドスケープからすれば笑っちゃうくらい、ものすごく違う。 

2曲目からSt. Vincent – Anne Erin Clarkが黒のスーツで現れて、”Hell is Near”から歌いはじめる。彼女の声の肌理って、David Byrneとやった頃からどんなアレンジにも楽器たちにも負けない、背景がどんなに変で分厚くとも、分厚いほど活きて飴のように伸びる艶を持っていることが明らかになったと思うのだが、今回のは本当にバックの音の海に全てを委ねて気持ちよく渡っていくような。

3曲目くらいからエレクトリックギターを下げて、でもオーケストラがいるので自在に動きまわり弾きまくることもできず、でもだんだんその箍が外れていって、終盤の”New York”ではマイク片手にピットに降りていって、(自分の席からは見えなかったけど)観客と一緒に飛び跳ねていた。

曲構成としては初期の”Marry Me” (2007)や”Actor” (2009)からの曲が - 久々に聴いたからかも知れないけど、ものすごくよく響いていた。曲の作り方とか、この頃は少し違っていたのではないか。

今回のに関してはアレンジのRachel Eckrothの功績がものすごく大きいと思って、メンバー紹介でも、「彼女をパーティに誘ってもラップトップを持ってフロアの隅で編曲していた」というくらいにすばらしく重厚な、ところどころポップで軽やかな絨毯を編みあげていた。彼女、過去にはRufus WainwrightやAimee Mannのキーボードやアレンジもやっていたそうで、なるほどー、しかないわ。


Throwing Muses

9月9日、火曜日の晩、Village Undergroundというライブハウスで見ました。

NYにも同名のコメディをやっている小屋があるが関係はないと思う。Villageではなく町の外れにあって、Undergroundではなくただの倉庫スペースのようなところ。 客は自分も含めて老人ばかりなので立っているのがきつそうだった(し、帰りはストのおかげでバスが来ないし)。

Kristin Hershのソロは、2018年、Robert SmithがキュレーションしたMeltdownのフェスで見ていて、その時にもMusesの曲はやっていたので、バンドでライブをやるとは思っていなかった。(そういえば丁度いま、Tanya DonellyもBellyでツアーをしている)

前座はforgetting you is like breathing waterというトランペットとギターの二人組で、名前だけだとリリカルふうだが、音はギターの轟音の上にトランペットが雲のように覆いかぶさるインストゥルメンタルで、やかましいけど気持ちよかった。

今回のライブは今年3月にリリースされた新譜”Moonlight Concessions” (2025)をフォローしたもので、バンドの3人+チェロで、最初から最後までずっとこの構成を崩さず、殆ど喋らずにひたすら演奏を重ねていくだけ。

彼女のソロの時のライブは座ってリラックスして、いろんなことを喋りながら演奏していった記憶があるが、バンドだとやはり違うのか、口元はミューズの微笑みを湛えていても目が笑っていないし、音の荒れようときたら30年前のバンドのそれではない。ギターをアコギに変えても、チェロとドラムスのアタックがぶつかりあってよりやかましく聞こえるし。

新譜と今世紀に入ってからの作品がほぼだったので、知らない曲も多かったが、“Counting Backwards”とかはやはり盛りあがる。それ以上に、この曲がまったく浮きあがってこないくらいに、どの曲もおなじ粒の硬さ粗さで磨かれていたのがすばらしいと思った。明るくも暗くもない、歌いあげることも、はぐらかすこともない、少し下を向いてちょっと不機嫌にひたすら地面を蹴り続けるミューズの姿があって、それはそれは素敵ったらなかったの。

[film] The Woman in the Hall (1947)

9月4日、木曜日の晩、BFI Southbankのシリーズ”Projecting the Archive”のお蔵出し35mmフィルム上映で見ました。
原作はG.B. Sternによる1939年の同名小説、監督はJack Lee。

イントロで、この作品が映画デビューとなった女優のSusan Hampshireさんが出てきて、当時のオーディションの様子などをお話ししてくれた。現在88歳になる彼女は完成されたこの映画を見ていないそうで、このトークの後に見るのだと。 9歳のデビュー当時の自分の姿を初めてスクリーンで見る、ってどんなかんじなのだろうか?

戦後の苦しい時期、家族の絆やよき父や母の像が求められ描かれていた頃に、こんな毒母モノがあったのか、と。 未亡人のLorna (Ursula Jeans)はプロの物乞いで、きちんとした身なりで娘を連れて、お金持ちぽい邸宅を訪ねていく。タイトルの”The Woman in the Hall”は、執事が主人に彼女が来ていることを伝える時の言葉で、そうして客間に通された彼女は娘と一緒に偽りの身分ででっちあげのかわいそうな話をすると、それは大変ですね、といくらかを恵んでもらう。身なりもきちんとしたLornaの揺るぎない語りもあって彼女の不幸物語を疑うお金持ちは殆どいないし、彼女も自分の行いをまったく悪いことだとは思っていない。

かわるがわる母に連れられて騙しの道具として使われていた娘たち – Jay (Susan Hampshire)とMolly (Tania Tipping)も大きくなって手を離れたので、次の大博打 - 富豪のSir Halmar (Cecil Parker)に近づいて彼と結婚することにして、計画は着実にしめしめと進んでいったのだが、ある日Jay (Jean Simmons)が窃盗で捕まった、という連絡が入って、裁判所に出頭することになる。

法廷では当然証人としてLornaの素性が明らかにされてしまうので、もう全ては終わりか、になるのだが、それ以上に衝撃だったのは、Jayにとって窃盗したり人を騙したりすることは、小さい頃からずっとその現場にいてやりとりを見てきたので、まったく悪いと思っていなかった、ということであった…(そしてそんなキャラクターにJean Simmonsのあの表情が見事にはまる)

ジェットコースターのような法廷の場面は目を離せないのだが、なによりも戦後のイギリスにはこんな毒母 - 本人未公認 - もあった/いた(のだろうな、というのは感覚としてわかる)、というのをドライに切り取って見せていて、とてもおもしろかった。


A Place to Go (1963)

8月19日、火曜日の晩、BFI Southbankの同じプロジェクトで見ました。こんなのがいったいあと何本あるのか、底なしではないか…

監督はBasil Dearden、原作はMichael Fisherによる1961年の小説”Bethnal Green”。Bethnal Greenはロンドンの東の外れの下町で、映画に出てくる建物のなかには今もまだ残っているものがあるそう(そういうの、本当に素敵だと思わない?)

Ricky (Mike Sarne)はそこのタバコ工場で働きながらいつか金持ちになってどん底から抜けだすことを考えている労働者階級のあんちゃんで、思いを実行に移すべく強盗を計画して地元のギャングのJack (John Slater)とつるんで、ついでにCharlie (William Marlowe)の彼女のCat (Rita Tushingham)と付きあい始めて。他にも道端で鎖抜け芸人をやっているRickyの父(Bernard Lee)とか、印象に残る下町の人たちがいっぱい出てくる。

犯罪ドラマ(成功するか失敗するか)、というよりはそういうのが湧いて出てしまう(そこから脱出して”A Place to go”に向かいたいと願う)界隈の人間関係などにフォーカスしたドラマで”A Taste of Honey”(1961)で既にスターになっていたRita Tushinghamが出ていることからもKitchen sink realismの方に分類されることもあるようだが、とにかくごちゃごちゃと落ち着かず、全体としてはしょぼくれていてなんかよいの。

本当にこういうの、TVドラマも含めて今でもいっぱいあるので、みんな好きなんだろうなー、と思って、Kitchen sinkについては本を買って見始めたりしたところ。なぜ、例えばアメリカがノワールで塗りつぶしてしまったようなあんなことこんなことを、イギリスは律儀に表に出して並べてみせるのか、という辺りに興味があるの。


今日は10月のLondon Film Festival (LFF)のチケットのBFIメンバー向け発売日だった。
10時にサイトオープンで、でもすっかり忘れていて10:30に入ったらキューが約3万.. やっと入ることができたのは12:50頃で、もうめぼしいところはほぼ売り切れていた。

少し待てば一般公開されるので高いチケットを買う理由があるとしたらゲストに会う/を見るため、でしかなくて、その欲もあんまなくなってきているので、チケットを買ったのはほんの少しだけになった。始まったらどうせ当日のを狙ってしまうのだろうがー。

9.09.2025

[film] Kaj ti je deklica (2025)

8月31日、日曜日の昼、BFI Southbankで見ました。

英語題は”Little Trouble Girls”。原題は「彼女どうしちゃったの?」くらいの意味らしいが、英語題は最後に流れてくるSonic Youthの同名曲(”Girl”の単数複数の違いはあるが)から。あの曲がこんなかたちではまってしまうとは。

監督はスロベニアのUrška Djukić(脚本にも共同参加)。 彼女にとってはこれが長編デビュー作となる。
今年のベルリン国際映画祭で、FIPRESCI Prize(Perspectives)を受賞している。

16歳のLucija (Jara Sofija Ostan) はカトリックの学校で女性合唱団(の部活?)に所属していて、冒頭から厳しめの男性コーチに鍛えられている。彼女はすっぴんでおとなしく、目はぼーっと宙を眺めつ内側に篭っていて、彼女の隣にはメイクもしていてLucija から見ればとても大人なAna-Marija (Mina Švajger)がいて、面白半分にいろいろ教えてくれる。

合唱団は毎年恒例らしいトリエステ近郊の修道院での強化合宿にバスで向かって、川が流れていたりきれいな田舎なのだが、バスの窓から河原に全裸の男性が立っているのを見てしまったり、それくらい周りにひとのいない田舎で、中庭のある修道院は工事中で昼間は工事の音がやかましく、さっきの全裸男はそこの作業員のひとりであることがわかる。

コーラスの練習は厳しくてコーチは何度も繰り返しLucijaに「目を覚ませ」と言い続け、彼女ひとりで歌わせて、でも彼女はずっと目を覚ましているし、でも音楽よりもAna-Marijaと川べりに行って川辺で裸になっている作業員たちを見たり中庭のオリーブの木を眺めたりする方に興味があったりする(ように見える。表情などから)。

ただこの作品は、世の薄汚れた男たちが期待するような少女の所謂「性の目覚め」(ってそもそもなに?)を描いたような作品とはちょっと違っていて、Lucijaの内面の声や葛藤が描かれたり、それが何かをキックして具体的な行動や発言として表に現れたりすることは殆どない。彼女のクローズアップは何度も出てくるが泣いたり怒ったりといった感情が露わになることもなくて、ほぼ何を考えているのかわからないまま – そしておそらくそれが男性コーチの苛立ちの根にもある - そんなLittle Trouble Girl。

なぜ合唱の声はあんなに美しく、その雲が教会にある聖女の像などと結びついて聖なるイメージを形作るのか、なぜAna-Marijaの誘いはなんでもかんでも性的なものに導いているように見えるのか、Ana-Marijaがかっさらってきた作業員のシャツをわざわざ彼のところに返しに行ったLucijaは一体なにを考えていたのか、そういったところに目線や考えを導いていって、それは謎のまま謎としてなんだか心地よい。そして聖なるものとは、性的なものとは、なんであれらは我々を虫のように惹きつけてしまうのか、についてシンプルに映像で結んで語ろうとする。

最後のコーチが強いてくる対決、のような場面の描き方もはらはらするけど、それに続く場面でLucijaはあれでよかったのだ、と思わされる。彼女はあの後どうしていくのか、はあるけど、とりあえずよくあるところには着地していないような。

JLGが生きていたら絶対Lucija - Jara Sofija Ostanをキャスティングして何か作っただろうな、そんなわかりやすい透明感があって、そこは悪くない気がした。

9.08.2025

[theatre] Till the Stars Come Down

8月30日、土曜日の晩、Theatre Royal Haymarketで見ました。
もとはNational Theatreのプロダクションで、評判よかったのでWest Endで再演になったもの。原作はBeth Steel、演出はBijan Sheibani。
ステージ上にも客席が設けられていて、彼らは披露宴の賓客扱い、なのだと思う。

ある家族の結婚式〜披露宴の一日のあれこれを花嫁側の家族 - 女性が多く & みんな強い - を中心に追っていく。お葬式と並んで下世話でしょうもない内輪の愚痴や醜聞ネタに溢れかえり、でも思い当たるところもいっぱいなので、そうだよねー、とか場合によってはもらい泣きしてしまったりする(作る側としては)安全ネタでもあるのだろうが、この舞台はあれこれ豪快にぶちまけつつも、タイトルが指し示すような宇宙的なスケールで迫ったり飛ばしてくれたりする。翌日にはきれいさっぱり忘れてしまうのかもしれんが。

舞台は炭鉱のある(あった、なので生活は楽ではない)マンスフィールドの町で、Sylvia (Sinéad Matthews)がポーランド人のMarek (Julian Kostov)と結婚する蒸し暑い夏の日。Sylviaは三姉妹で、姉妹のMaggie (Aisling Loftus)とHazel (Lucy Black)と一緒に朝から身支度だなんだのてんやわんやで、こんなんでどうすんのよまったくもう! になったあたりで真打ちのように叔母のCarol (Dorothy Atkinson) - なんでも首つっこむのが大好物 - も登場して、とにかくこの暑さはなんなのよ! って朝からパンツが飛ぶような - ほんとに履いてたやつが飛んでくる - 大騒ぎになっている。

でもそういう喧騒から少し離れて、スペースシャトルの模型を手にして宇宙を夢見ている小さい姪っ子もいる。結婚するのなんかより宇宙に行ってみたいな、って。

女性たちのグチや軽口、噂話あれこれはかつてどこかで聞いたことがあるような、具体的な家族・親族構成を知らなくてもどの辺のあれか、想像がつくようなインターナショナルなものばかりで、ここに新郎がポーランド人であることからくる移民の話、さすがにヘイトまではいかないものの格差や階級起因の差別の話も絡まってバラ色の、夢の結婚生活、明るい将来について語るのは注意深く避けているような。

それでも真ん中のふたりは好きになったから、そういうのを一緒に乗り越えるのだ、ってことで結婚するのだし、だからとにかくめでたいじゃないかみんなで祝ってあげようよ、って感動的に盛りあがったそのピークで、上からばっしやーん、ってタライぶちまけの雨がきてずぶ濡れになって1幕目が終わる。

2幕目は最初からミラーボールにディスコのどぅどぅの耳鳴りが夜通しずっと鳴っているパーティーで、もう聖なるセレモニーは終わったので後は呑んで歌って踊って騒ぐ、というより恥も欲もまるだしで各自やりたいようにやる… ってなるとこれまで背後で割と地味でおとなしめだった男性側の方からもあれこれやばいのが出てきて罵り合いいがみ合いどーすんのこれ… になっていく。

ここまでくるとさすがに婚姻の意味とか、家族であることの理由とかまで考えてしまわないでもないが、そういう謎や神秘が、星が降ってくるくらい空に溢れかえっていること、そのなかを毎日毎日くるくる自転しながら抜けていっている地球のことなどを考えておくと、割とどうでもよくなれるのかも - わからんけどしらんけど - みたいな突き放した目線もあったりしてよいかんじ。 少なくともよかったよかった幸せになりいな、みたいな押し付けがましい年長者の嫌らしい落着感からは距離を置こうとしているような。

結婚モノ、というより家族ドラマとしてよくできていると思ったので、彼らの1年後とかを見てみたいな、って思った。

あと、これを毎日毎晩ずっと演じている女性たち、すごいなー、って思った。


皆既月食の時間はBFIで映画見ていて見れなかった。どっちみち雲で見れなかったらしいが。
それより帰ろうとしたら地下鉄のストが始まっていて、とってもめんどうくさかった。
 

9.06.2025

[film] Drømmer (2024)

8月17日、日曜日の夕方、BFI Southbankで見ました。

日本でも公開が始まっているノルウェーのDag Johan Haugerudによるオスロ三部作。日本に行ったりしている間に上映が終わって、”Love”だけ見逃してしまい、とりあえず見た2本についてだけ書いておく。Joachim TrierのOslo trilogyと混同していて、あんま乗れないでいたら別物だったことに気づいた。

こちらではKrzysztof Kieslowskiのトリコロール3部作に匹敵する、みたいな宣伝文句もあったが、そこまではー。

Drømmer (2024)


こちらでのタイトルは”Oslo Stories Trilogy: Dreams”。
3部作を順番通りに見ようとすると、これが最後にくるらしいが、知らないで最初に見てしまった。

17歳の高校生Johanne (Ella Øverbye)がいて、シングルマザーのKristin(Ane Dahl Torp)と暮らし、祖母のKarin (Anne Marit Jacobsen)がいて、特に不満も問題もなさそうだが、なんか抱えていそうな。
そんな彼女のクラスに新任教師でテキスタイルのアーティストでもあるJohanna (Selome Emnetu)が来てから、一目で恋におちたJohanneは落ち着かなくなり、彼女の姿を目で追うようになってどうしようもなくなり、夜の街を彼女の家まで追っていってドアをノックしたら泣きだしてしまい、Johannaは彼女を抱きしめて家に入れてあげる。

後半は、JohanneがJohannaとの親密な時間について書いたものを出版経験のある祖母に見せて、祖母はその大胆で脆くて熱い孫の書いた内容を母にも共有して、これは事実なのかJohanneの夢とか妄想みたいなものなのか、それはそうとしてテキストとして出版してもよいくらいよく書けているけど、どうしようか、みたいなことを自問したり会話したり、母はどうしようもなくなってJohannaのところに行ってみたりする。

JohanneがJohannaのフラット(すごくすてきな部屋よね)で過ごした(実際に起ころうが起こるまいがの)夢の時間、そこから紡がれた夢の織物を巡って、それぞれがいろんなことを思ったり言ったりして、決して理解したり共感しあったりするものではない、ただ17歳の娘/孫の夢に巻かれてあうあう右往左往する、その3代がなんかよいの。これが例えば男性中心の(3代)だったらどんなドラマになっただろうか - ぜんぜん見たくないや - とか。


Sex (2024)

8月24日、日曜日の夕方、BFI Southbankで見ました。“Oslo Stories Trilogy: Sex”。
タイトルでなにかを期待してきてしまった人はかわいそうに。

これが3部作の最初の1本だそう。
煙突掃除を仕事にしているふたりの男が休憩時間か終業後なのか、見晴らしのよい屋根の上に座って話をしている。男A (Jan Gunnar Røise) が男B (Thorbjørn Harr)に、自分がDavid Bowieに女性として見られている変な夢を見る – しかもそれが悪くないかんじのでー、という話をしてから唐突に、こないだ男性とセックスをした、と告白 – というシリアスなトーンではなく、お菓子を食べました、みたいな軽い調子で、向こうから誘われて、一旦断って外に出たけど戻ってついやってしまった、みたいな調子で言う。男Aとってはこんなふうに話してもどうってことない、ってかんじで、やったからといって自分はゲイではないと思う、なんて言う。晴れた日、屋根の上で煙突掃除のおじさんふたりがそんな話をしているのがなんかおかしい。

その場は、へえおもしろいねえー、くらいのかんじで終わるのだが、男Aはそれを妻 (Siri Forberg)にも同じ調子で話しちゃって、そうしたらその内容は妻にとってはえらい衝撃で、あなたにとってセックスはそういう「程度」のものなのか、それは大切な人とするものではないのか、って彼の方は言葉に詰まったり謝ったりしてみるのだが、そもそもそんなに悪いと思っていないから喋ってしまったものなので予想していなかった(それはどうか、だけど)彼女の反応に当惑して、ふたりの関係は気まずいものになっていく。

これも↑の”Dream”と同じように、当事者によって語られたことが当人の意図とか事実なのかどうなのか、を超えて親しい人になにかを投げかける、その波紋がもたらす困惑や混乱を追っていて、それが実際に起こったことであるかどうか、ではなく、その宙に浮いて当人が思ってもいなかった空気を作りだしてしまう、その波模様がおもしろい。 彼にとっては女性として見られている夢の方が注視すべきことなのだろうが、そっちの方は誰も相手にしてくれなかったり。

この2作、おもしろいなー、と思いつつも、これのどこがおもしろいんだろうか? というのを考えさせるところもあって、まだ考えたりしている。愛でも夢でもセックスでも、行為そのものを描こうとしないその立っている位置、だろうか。

あと、機内で見たら気持ちよく眠れそうな映画かも。

9.05.2025

[film] The Roses (2025)

8月30日、土曜日の午後、Picturehouse Centralで見ました。

原作はWarren Adlerによる“The War of the Roses” (1981)、これを元にしたMichael Douglas & Kathleen Turner主演、監督Danny DeVitoの同名映画(1989)のリメイク、だとしたらおもしろくなるかも、と思った。

監督はJay Roach、なのだが脚本がYorgos Lanthimosと仕事をしてきたTony McNamara、ということでこの取り合わせも含めてだいじょうぶか... にはなったが。

Ivy (Olivia Colman)は駆け出しのシェフで、Theo (Benedict Cumberbatch)は新進の建築家だった頃にイギリスで出会って恋におちて結婚して、ふたりでアメリカ西海岸に渡って子供たちも育って、Ivyは浜辺に小さなシーフード(蟹)レストランを開いて、Theoは彼のシグネチャーとなるMuseumの建立を見届けたところ、まではすべてがきらきら輝いていたのだが、でっかい台風が来て、彼の建物はみんなの見ている前で粉々に崩れ落ち、他方で同じ頃Ivyのレストランにたまたま避難していた高名なフードクリティックが彼女の料理を絶賛したことから、彼女はたちまちスターシェフの仲間入りをしてしまう。自身の建築が崩れていく前で罵詈雑言を吐いて地団駄を踏む動画を世界に拡散されたTheoは一瞬ですべてのキャリアを失い、翌日からは家事とふたりの子供の教育に専念することになる。

最初のうちは互いを思いやったり手伝ったりしていくものの、明らかに不健康に腐っていきそうなTheoと、彼が体育会系のばきばきに鍛えあげてしまった子供たちの姿を見たIvyは、海が見える高台に自分たちの夢の家を作ろうって彼に設計を任せて、彼は建築家としての夢を存分に発揮してすべては元に戻ったかに見えたのに、友人たち - Andy SambergとかKate McKinnonとか明らかにやばい面々 – とのパーティで改めて壊され崩されて、ふたりの仲は修復不能な地点にまで行ってしまう…

天災をきっかけに運命が二分されて一方は天に昇って一方は底に転がり落ちていく、のはわかるのだが、このドラマでは明らかにTheoの方が病んでいって、Ivyがそれに我慢できなくなったような描かれ方で、それでよいのか。互いの関係の根深いところに許しがたい要因が芽吹いて、それはふたりがふたりでいる以上どうすることもできない致命的なやつだった(ので殺しあう。しかない)というのがオリジナル版の孕んでいた凄みだったと思うのだが、そこが仕事 - 家事と育児のバランスの崩壊、という現代的なテーマの下で再構成されてしまった結果、つまんなく薄められちゃったのではないか。

なのであの最後はがっかりだったかも。Olivia ColmanとBenedict Cumberbatchが殺し合うなんて、絶対すごいところ、行きつくところまで行ってくれると思ったのになー。


Another Simple Favor (2025)

8月23日、土曜日の何時頃だろ、日本に向かう機内で見ました。
“A Simple Favor” (2018)からの、監督もメインキャストもストーリーも引き継いでの真っ当な続編。

あれから5年、Stephanie (Anna Kendrick)は人気vlogger & 素人探偵として本まで出す人気者になっていたが、彼女がネタにしていたEmily (Blake Lively)が控訴審でなぜか仮釈放され、イタリアの大金持ちの一家 – なかみはたぶんマフィア - と結婚する、カプリ島で式をあげるのでメイド・オブ・オナーとして来てほしい、という。これが”Another” Simple Favorなのだが、こんなの誰がどうみても憎たらしいStephanieを島に呼んで殺してやるからね、っていう誘い以外の何ものでもないのに、なんでStephanieはのこのこ寄っていっちゃうのか。そしてやっぱりばたばたと殺されていく大勢の人たちと、容疑者として追われることになるStephanieと。やがて明らかになるEmilyの家族の謎、というか不思議.. まだまだ出てきそうな気がする。 次は”Alternate Simple Favor” だろうな。


Love in the Big City (2024)


8月27日、水曜日の何時頃だろ、ロンドンに戻る機内で見ました。

自由で強くてかっこいい女の子Jae-hee (Kim Go-eun)と寡黙で何かを抱え込んでいる男の子Heung-soo (Noh Sang-hyun)の長い歳月に渡る友情の物語で、Heung-sooはゲイなのでJae-heeとの間で恋愛関係には発展しないのだが、常にお互いのことを気にしている。 昔からずっと続いていく(とそれぞれが勝手に思っている)ふたりの(面構えがすてきで)無頼な関係に対する、流れていってしまう時間、変わっていってしまうあれこれに対する切ないところも含めた年代記をBig Cityの物語として置いて、ちょっと長いし(でも長さが必要なことはわかる)、漫画みたいにくさい台詞もいっぱいあるのだが、なんか悪くなかった。 

9.03.2025

[theatre] A Man for All Seasons

8月20日、水曜日の晩、Harold Pinter Theatreで見ました。

原作はRobert Boltの同名戯曲 (1960)、1966年に、Fred Zinnemann監督、原作者自身の脚色、Paul Scofield主演で同タイトルで映画化され(邦題は『わが命つきるとも』)、作品賞を含む6部門でオスカーを受賞している(未見)。

これはTheatre Royal Bathのプロダクションで、今年の初めにバースで上演されて英国をツアーしている(なので1カ月しかやらない)ものがロンドンに来た。演出はJonathan Church。

英国の歴史もの、歴史上の人物が出てくる演劇は勉強になるので見るようにしている。人物像や歴史(ストーリー)を学ぶ、というのもあるし、出てきた人物に対する客席の反応 – Cromwellにブー、とか – を見るとなるほど、ってなったりもするし。

1520年代の終わりから1530年代にかけての英国で、Anne Boleynと結婚したいためにHenry VIIIはCatherine of Aragonとの結婚無効(離婚)を教皇から認めて貰いたいのだが、法を守る者として断固反対して意を曲げずに斬首されてしまったThomas Moreの像を、当時の政治・宗教だけでなく、彼を支えた家族も含めて描く評伝ドラマ。

舞台はチューダー朝ふうの重く荘厳な建物の内部で薄暗く、本棚にはびっしりの本の影があって、そういう中を(ほぼ)男たちが難しい顔で歩き回ったり怒鳴ったり密談したりしている。衣装も同様に法衣とか、家の中にいてもがっちりと重そうなのを纏っていて偉い人たちは大変そう。

主人公はThomas More (Martin Shaw)だが、他の重要な登場人物としてthe Common Man (Gary Wilmot)というのがいて、彼は召使いや船頭や看守、最後は死刑執行人などの顔をして常に現場(舞台袖)で聞き耳を立てていて、場面が切り替わるところで客席に向かってコメント(いまならtweet)したり、今の会話や動きが庶民の目や耳にはどんなふうに入っていったのか、を語り部のように教えてくれる。なかなか勉強にはなる。

Thomas Moreは最後まで落ち着いた人格者として描かれて、彼と正面から敵対するThomas Cromwell (Edward Bennett)にも、直接頼みにくるHenry VIII (Orlando James)にもブレることなく、激しい論戦を戦わせることもあれば沈黙こそが安全、って何も言わずに返すこともあり、相手側は戦術を変えてあれこれ噛みついてくるものの、日照りになろうが大嵐が吹こうが依って立つところ、正しいと思う軸はぶれないし動じない – そんな“A Man for All Seasons”であるMoreの姿の反対側で、妻Alice (Abigail Cruttenden)と娘Margaret (Annie Kingsnorth)にとってはよき夫でよき父で、彼の優秀さと正しさは十分に理解しつつも、そんなに曲げないでいると始末されてしまう、だからもういいから妥協して逃げましょう、って請うのだが彼がそう簡単に折れる人ではないこともわかっている。

なので、ここまで善悪と白黒がはっきりしたドラマであるのだから、Cromwellを中心とした悪玉の方にどこまでもゲスに悪どくなって貰いたいところで、実際彼は憎らしいくらいに狡猾で嫌らしいのだが、もっとひどくても、って思った。舞台セットがあそこまでずっと暗くて重いのだし。

この頃から約500年が過ぎて、自分の私利私欲のためには規律も法律もどうでもよい、なんならそっちを変えてしまえばよい、という政治家(+それに群がる官僚)がグローバルに溢れだした昨今(なんなんだろうね?) - “A Man for All Seasons”の意味も逆転したりして - もっとリアルに嫌らしくどす黒い政治ドラマにしちゃってもよかったのに、などと思いながらThomas Moreが斬首された建物の方に帰るのだった。

9.02.2025

[film] Shakespeare by Lubitsch

こないだ日本にいって、一番残念無念だったのはシネマヴェーラの特集『ルビッチ・タッチのすべて』のうち、たったの1本しか見れないことだった。1本見れただけでも、とすべきなのだろうが…

でも戻ってすぐ、BFI Southbankで月1回のサイレント映画特集で、ルビッチをやってくれた。
“Shakespeare by Lubitsch”と題して、2本立て。ライブのピアノ伴奏つき。

シネマヴェーラのプログラムでは “Meyer aus Berlin” (1919) - 『ベルリンのマイヤー氏』と”Romeo und Julia im Schnee”(1920) - 『田舎ロメオとジュリエット』の2本を束ねていたが、こちらはシェイクスピア由来(+バイエルン舞台)というこの2本立て。しかし、ルビッチって、”To Be or Not To Be” (1942)といいこれらといい、シェイクスピア(のコメディが?)好きだったのだろうなー、って。

Kohlhiesels Töchter (1920)  

8月31日、日曜日の午後に見ました。
2023年に修復を終えた4Kリマスター版で、上映時間は65分だったので、日本の(60分)とはバージョンが少し違うのかも。 英語題は“Kohlhiesel's Daughters”、邦題は『白黒姉妹』。
原作はシェイクスピアの”The Taming of the Shrew” (1590-92) - 『じゃじゃ馬ならし』。
ルビッチのドイツ時代のコメディで最も人気を博した作品で、でも第一次大戦があって、英国に入ってきたのはずっと後だったのだそう。

バイエルンに姉のLiesel (Henny Porten)と妹のGretel (同じくHenny Porten)の姉妹がいて、似てはいるけど性格も振る舞いも正反対で、Lieselは男勝りで力持ちで睨みを効かせてこわくて、Gretelはその真逆で所謂女性らしく、行商人への対応にしても旅人Xaver (Emil Jannings)とSeppl (Gustav von Wangenheim)への対応にしてもぜんぜん違って、Lieselが現れると場が凍りついてモノが壊れて惨劇となり、Gretelが来ると場が和らいで男達はめろめろになり、そうしてXaverはGretelにやられて結婚を申し込むのだが、彼女の父(Jakob Tiedtke)はまずLieselの結婚が先だからだめ、という。それなら、とXaverはLieselと結婚して、すぐ離婚してGretelと一緒になればいいんだ、ってLieselに近づいていって、その反対側でひとりになったGretelのところにはSepplが…

というのを一目瞭然のアクションと白黒の表情でぐいぐい引っ張りこんで笑わせて、なんかどこか変だけど、ま、いっか、とすべてを納得させてしまうすばらしさ。

Henny PortenとEmil JanningsがAnna Boleynとヘンリー8世をやった” Anna Boleyn” (1920) - 『デセプション』も見たいよう。

Romeo und Julia im Schnee (1920)

英語題は“Romeo and Juliet in the Snow”、邦題は『田舎ロメオとジュリエット』。原作はいうまでもなくあれ。

↑と同じバイエルンの山の民を舞台にした「ロメオとジュリエット」で、バイエルン人はナポリ人だから – ってよくわからないことが『ルビッチ・タッチ』の本には書いてある。

雪のなか、両家の対立がわかりやすく描かれて、結婚相手が決まっているジュリエット(Lotte Neumann)がロメオ(Gustav von Wangenheim)と出会って結婚したくなってもだめらしいから毒薬くださいー、ってふたりで薬局に行って、薬局もあいよ毒薬ねー って簡単にだしてくれて、一緒に飲んで横になって、それを見た両家はこんなことなら、って嘆くのだが毒がぜんぜん効かないので起きあがったらよかったよかった、になるの。すべてがどうでもよくてバカバカしくて、学生の自主映画みたいにいい加減なノリなのに何が来ても笑えてしまう。あと、ジュリエットの許嫁のバカ息子(Julius Falkenstein)が昔のビートたけしそっくりだった。


Design for Living (1933)

8月25日、月曜日の午後にシネマヴェーラ渋谷で見ました。 『生活の設計』。

原作はNoël Cowardの同名戯曲(1932)をBen Hechtが脚色している。
これに主演の3人だけで、5時間でも6時間でも見ていられる。(実際には91分)

パリに向かう列車の客室で広告イラストを描いているGilda (Miriam Hopkins)と画家のGeorge (Gary Cooper)と劇作家のTom (Fredric March)が一緒になって、3人は楽しく意気投合して、セックスしないという条件で共同生活を始めるが、やっぱりムリで、それぞれが不在の間にしちゃって、気まずくなること2回、Gildaは出て行って広告会社のボスでつまんない奴Max (Edward Everett Horton)と結婚するが、パーティに乱入してきたGeorgeとTomがめちゃくちゃにして、パリでまた元の生活に戻る。

まず元のデザインがてきとーでなんも考えていなかった、というか、デザインは割とちゃんとしていたがそこに暮らす人のことを考えていなかった、というか、そこで暮らす人々の挙動とかを想像したらそれらがなんか生々しすぎて笑えなかった、ということなのだろうか。それか、TomとGeorgeもやっておけばみんな平等で、破綻しなかったかもしれないな、とか。

こないだの”Materialists”の3人なら大丈夫だった(なにが?)のではないか、と思ったりもした。

「ルビッチ・タッチ」のおもしろいところって、映画としてうまくいっていない、とされる作品でも、何度でも見てしまえるところだろうか。俳優とか脚本のよさ、とは別の次元でついなんか。ちっとも名盤ではないけど、何度でも聴いてしまうレコードとおなじで。

9.01.2025

[film] Caught Stealing (2025)

8月29日、金曜日の晩、Curzon Bloomsburyで見ました。

これも見事な猫映画で、主人公はぼろぼろになりながらも猫のために生きようとする、そういう点でも似てい… 。

原作はCharlie Hustonの同名小説 (2004)で脚本も彼が、監督はDarren Aronofsky。キャストはなにげにすごい。

1998年、まだツインタワーが見えるNew YorkのLower East Sideで、Hank (Austin Butler)はお気楽なバーテンをしていて(当時あの辺にあったバーの再現度合いがすごい)、MLBのSF Giants - ボンズがいた頃の – の熱狂的なファンで、彼自身も野球選手だったが、痛ましい事故によりキャリアを断たれたことが後でわかる – 彼と電話(主に固定電話の留守電)でやりとりする母親とは最後に必ず”Go Giants!”でしめる。

彼がアパートに戻るとモヒカンパンクの友人Russ (Matt Smith – こないだのフォーク・ホラー”Starve Acre”ではゴス系の長髪だった) が父が倒れたのでロンドンに戻る、その間の猫の世話を任されて、軽く受けたらその後にロシア人のやくざたちがやってきて一方的にぼこぼこにされて気を失い、恋人の救急救命士のYvonne (Zoë Kravitz)に救われて病院のベッドで目を覚ますと腎臓を失っている。

なにがなんだかわからないままNY市警のRoman (Regina King)に連絡を取り、彼女にいろいろ教えて貰うと、Russはハシディズム(ユダヤ人)の悪名高い兄弟に絡む麻薬の売人をしていて、その金をどこかに隠してて、ロシア人たちが探しているのはその隠し場所の鍵であるらしい。 どうにか鍵を見つけてNYに戻ってきたRussと隠し場所を確認したら今後はHankがその鍵をどこかに失くして… と、全体としてはよくある巻きこまれて逃げ回って絶体絶命、味方だと思っていたら実はそうではなかったり、形勢が二転三転しつつも全体としては逃げても逃げても痛めつけられ散々な目にあっていく系ので、バイオレントな描写もいっぱい、彼のまわりの人々も容赦なくどんどん殺されたり死んだりしていって、Hankはその度にめそめそするのだが、一発逆転はあるのか、盗塁は成功するのか、みたいな。

容赦ない暴力が支配する世界に放り込まれ、悲惨な事故によってスポーツへの道を断たれた若者はどうやって突破口を見いだすことができるのか、やっぱりスポーツ的な機転とか反射神経の話になっちゃうのか。Austin Butlerがあまり体育会系の強さや獰猛さを持ち合わせているように見えない(←偏見)ところがちょっと。“The Bikeriders”(2023)の時にもそれは思ったのだがー。(子犬みたいにめそめそしているのが実にサマになる)

YankeesでもMetsでもなくSF Giantsである、という一点がどこかで効いてくるのか、と思ったがあまり関係なかった。ルーツを異にするギャングたちにとってはどうでもよく、そもそも通用するわけがない、というオチでよいのかしら。

NYのLESのぼろくてやばい佇まいに加えて、Flushing Meadows ~ Shea Stadium ~ Coney Islandまで、更にはユダヤ人コミュニティからロシアのサパークラブまで、地味できつめなNY暮らしの諸相を押さえたNYの裏通り映画としてはよくできているかも。憧れの高飛び先としての楽園(Tulum)まで込みで。

音楽はIdlesが全編を書いているが、Smash MouthとかSpin DoctorsとかSemisonicとか懐かしいのもちょこちょこ聞こえてくる。もっといろいろ流してくれてよかったのに。

しかし、最後に流れたあのバンドのあの曲には吹きだしてしまった。確かにその通りの曲ではあるのだが、これを荒れまくった犯罪映画のラストに持ってくるのかー、と。

[film] Sorry, Baby (2025)

8月28日、木曜日の晩、BFI Southbankで見ました。

日本から戻って、早く戻さねば(なにからなにをどこへ?)、ということで夕方に”Escape from New York” (1981)を見て、その晩の2本め。ものすごくよかった。

作・監督・主演はEva Victor、これが彼女の長編デビュー作で、今年のサンダンスでプレミアされていて、グローバルの配給はA24。

“The Year With the Baby”から始まって”Sorry, Baby”で終わる4章からなり、時系列は少し行ったり来たりがある程度、びっくりするような段差はない。

マサチューセッツのそんなに田舎ではないところ、大学で近代文学を教えているAgnes (Eva Victor)がひとりで暮らす一軒家に友人でクラスメートだったLydie (Naomi Ackie)が車で訪ねてきて、いっぱいハグしていろいろ語りあう。Lydieはお腹が大きくてもうじき生まれそうで、後で彼女は同性結婚をして人工授精を選択したことがわかる。そういったことも含めてふたりは互いのことをとても大切な友人だと思っていることがわかる。

そこから話はふたりがその家に一緒に暮らしていた学生の頃に遡り、修士論文を書いていたAgnesが彼女の草稿を褒めてくれたり『灯台へ』の初版本(US版かUK版か?)を貸してくれたり好意をもってくれているらしい教諭のDecker (Louis Cancelmi)の指導を受けるべく彼の自宅を訪ねていったら性加害を受けてしまう - そのシーンの描写はなく、彼女が彼の家に入り、周囲が暗くなってからその家を出て硬ばった表情で放心状態で家に帰ってLydieのケアを受けるところで初めて明らかになる。

翌日医者に行っても、すぐに来てくれれば フォレンジックできたのにと言われ、Deckerは突然大学を辞めて別の学校に移り、彼女が性加害の件を大学に訴えでたのはその後だったので、学校として彼をどうにかすることはもうできない、後は警察に行きますか? と女性の職員たち(「私たちも女性ですから」って)に問われた彼女は彼には子供もいるしもういいです、と投げてしまう。

その後、Agnesはjury dutyを要請されても性加害を受けたのに相手を告発できないような自分に人を裁く資質はない、と辞退したり、Deckerの後任として非常勤から常勤職に昇格できたものの殻が抜けたようになってパニック障害に襲われ、サンドイッチ屋の主人(John Carroll Lynch)に救われたり、隣人のGavin (Lucas Hedges)とてきとーな(なにを求めているのか不明な)関係をもったり、事件から3年が過ぎても極めて不安定で落ち着かない。けど、自分では/自分でもどうすることもできない。

性加害の事実を掘り下げて、その罪や問題のありようを問う、あるいはその痛みやトラウマを共有する、そういう映画ではなく、それを受けてしまった人はこんなふうになってしまうのだ、それは共有したり癒されたりする/できるようなものではないのだ、ということを淡々と綴る。だから画面から受ける印象はユーモラスと言ってよいくらいに乾いていて軽く、”Sorry, Baby”という呟きにはその辺りも含まれていると思う。(もちろん、だからと言って許されてよいようなものではまったくない。むしろ、なぜ彼女にそう言わせてしまうのか、ということが... )

最後、Lydieが連れてきた赤ん坊を前にAgnesがひとり淡々と呟く”Sorry, Baby”は、殆ど大島弓子世界のあれで、ここか、と思った。自分も含めて世界はほんとうにクソでしかない、そんなとき、かろうじて口にすることができるのは…

あと、この言葉は彼女が拾った子猫のOlgaにも。