8.23.2024

[theatre] The Grapes of Wrath

8月10日、土曜日の晩、National TheatreのLyttelton theatreで見ました。

John Steinbeckの原作 - 『怒りの葡萄』(1939) をFrank Galatiが脚色して、Carrie Cracknellが演出している。

この原作については、まずは(と太字で書きたくなる)John Fordによる映画化作品 - “The Grapes of Wrath” (1940)があって、ここでのGregg Tolandが作り出したランドスケープ、その印影の強度と恐ろしいほどの確かさ - 幽霊も含めて彼らがそこにいるかんじ - に敵うものはないと思うことを傍に置きつつ、原作の天災と恐慌の両方で土地もお家も全てを奪われ、失い、立ち尽くしながらも別の土地に移ろうとして、その途上でひっそりと風の向こうに消えていった人々の像、その無念や怒りが舞台上でどんなふうに描かれるのか、その風景が大恐慌時代のアメリカの荒涼 - 想像するしかないのだが - にどれくらい迫って見えるものか、を見てみたいな、と。

刑務所を仮出所してきたTom Joad (Harry Treadaway)が知り合いで元説教師のJim Casy (Natey Jones)と道端で再会して、カリフォルニアの方に移住しようとしている家族 - Ma (Cherry Jones)とPa (Greg Hicks)、Grampa (Christopher Godwin)、Rose of Sharon (Mirren Mack)、その他大勢 - にも合流することができて、車の荷台に人も荷物も積めるだけ積んでよれよれと走りだす。積まれた荷物が揺れのなかでゆっくりと壊れていくのと同じようにGranpaが亡くなり、Granmaも亡くなり、辛くて自分からいなくなったり逃げだしたり殺されたりで人数が減っていくのと、それを流し去るというか押し流すというか大嵐とか洪水が彼らを襲って - 見えなかったけど、舞台の真ん中に水が張られているらしい - 誰も悪くない(ことはなくて悪いのはいる。けど見えない)のに誰かのせいにしたがる人々も現れ、舞台の右手から左手に向かっていろんなのがごとごと流れては消えていく、その流れに抗うように人々は左手から右手に - 西の方を目指していく。 終点は見えない。誰も示してくれない。

これらは自然現象として起こったわけでは勿論なくて、ほぼ政策の失敗であり人災であるわけだが、大波にのまれ流されていく人々に立ちあがって抵抗したり一揆したりする勢いも余力もなく、静かにその灯りが消えていく様をぽつぽつと描いていって、場面切り替えとか転換の際 - これからどうなることやら(ため息)の時 - には、ギターを抱えたMaimuna Memon(音楽も彼女が担当)が2〜4人の楽隊を従え、一緒にブルース/フォーク調の歌をしんみり歌いながら通りを横切っていく。

日本だったら琵琶とか三味線を叩きながら世の儚さを切々と歌い流していくかんじで切なく枯れてて悪くないのだが、この伴奏の置かれ方が、ストーリーの大きな流れを断ち切って、個々のエピソードを個々に小さく閉じさせて、結果として彼らの悲嘆と悲惨を、その喪失感を、やや小さく見せてしまってはいないだろうか、というのは少しだけ思った。全体としては歴史的な大惨事だと思うし、次から次への大変さは伝わってくるものの、なんとなく報道されないまま放置されている日本の災害の現場を思い起こして怒りが。

その救われなさ、いろんな無念が集約されたRose of Sharonが這っていって母乳を飲ませるシーン、原作のラストにもあったような(←あった)。

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