8.14.2024

[film] Kneecap (2024)

8月8日、木曜日の晩、Curzon Bloomsburyで見ました。
本公開はまだ先らしいがCurzonの会員向けのプレビューがあった。

今年のサンダンスで、アイルランド語の映画として初めてNEXT Audience Awardというのを受賞している。BFIとCurzonが制作に関わっている。

映画の予告の(本編でも)冒頭、「ベルファストといえば...」で、テロとか軍とか戒厳令みたいな荒れた紛争国家の映像がお馴染みになっているけど、このお話はそういうのとは違うよ、って。でも極めて政治的な映画ではあり、でもものすごくぶっとばしてて楽しいから。

Kneecapは2017年に結成されたアイルランド語でラップをする3人組で、映画にはメンバーの3人が真ん中に出て来て自分たちのこれまでを - どこまでほんとかどうかは知らんが - 演じる。それならドキュメンタリーでもよいのでは? かもしれないが、ヒップホップ的なはったりとかおれらすげーぞ、みたいのをアートっぽく入れたかったのだと思う。ところどころつんのめったりずっこけたりしながらも、なんで彼らがラップに向かったのか、こういう映画を作りたかったのか、は伝わってくる。長尺かつやや冗長なPVであり、これは抵抗運動の一環なのだ、ドキュメンタリーなんかの適温で総括されてたまるか、と。

Liam Ó HannaidhとNaoise Ó Cairealláinのふたりはラップをやりつつ闇でドラッグを売ったりしていて、ある日Liamがパーティの騒ぎで警察にしょっぴかれ、取り調べで英語を喋るのを頑なに拒んだので、アイルランド語学校で音楽を教えているJJ Ó Dochartaighがアイルランド語の通訳として呼ばれ、Liamを助けつつそこにあった彼のノートをこっそり持ち帰ったら、そこに殴り書きしてあった内容がどう詠んでもラップの詞だったので、こいつらいいかも、って自分でトラックを作って2MCs + 1DJのバンドを組もう、って”Kneecap” – JJが頭に被る毛糸のキャップは北アイルランドで行われていた拷問の名前でもある - を結成する。自国語であるはずのアイルランド語を喋るだけで、それが政治的行為とみなされてしまう世界で、彼らはそのふざけんな! の怒りをアイルランド語のラップとしてぶちまけて、その炎は勢いよく広がっていく。

その快進撃の横でアイルランド語の普及をまじめに考えている人たちは、ドラッグで酔っぱらった若者たちのこの勢いに眉をひそめるし、他にもRadical Republicans Against Drugs (RRAD)とか、マフィアのような連中が立ちはだかって会場や道端での脅迫、発砲、爆破なんか茶飯事、やばい北アイルランド情勢そのものになっていくのだが、彼らはぼこぼこにされながらも“Trainspotting” (1996)のテンションとノリでなんも考えずに突っ切っていって止まらない。

Naoiseの父でNaoiseとLiamが子供の頃、彼らにアイルランド語を教え、警察の追っ手から逃れるために10年以上死んだことになって蒸発しているArlo (Michael Fassbender)がところどころで(見ていられなくて、か)現れて彼らの危機を救ったり、Liamの恋人として傍にいるプロテスタントのGeorgia (Jessica Reynolds)とか、彼らの背後に見え隠れする人たちも印象に残る。

のめりこんで見てしまうことは確かなのだが、やっぱり衝撃なのは(公用語は英語だから)アイルランド語をふつーに喋っちゃいけないという屈辱としか言いようのない事態で、そんなの強制されたらこうなるよなー、と。他方で、画面は音楽のノリに合わせたかったのか、相当とっちらかって崩しまくりのずたずたで、もうちょっと抑えて整えたほうが伝わったのでは、とか。 本当にめちゃくちゃをやって騒ぎたいだけなら、こんな映画を作らずに音楽だけやって身内でパーティをしていればよかったのにそうはしなかった。彼らはラップで言葉を吐きだして伝えること、それを彼らの抵抗として組織して世界に広げて、何かを変えようとしている。 「表現の自由」ってこういう局面で使うんだよ。

昔のアイルランドのフォークとかを聞くと、節回しとか音楽的な言葉だなーってよく思うが、それはラップになっても変わらず、ふしぎな爽快感があってぶちまけたら気持ちよいだろうなーって。

あと、Michael Fassbender - お母さんが北アイルランドの人 - ひとりが異様にかっこよく立っている。あの後そのまま”Hunger” (2008)に行くのか、と。

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