8月18日、土曜日の晩、London Palladiumで見ました。
こういうミュージカル(例えばレ・ミゼラブルとかファントムとかライオンとかママミアとか)って、これまであまり.. どころかぜんぜん見てこなかったのだが、これはとても評判がよいのと歌って踊るImelda Stauntonさんを見てみたかったので。
原作はThornton Wilderの”The Merchant of Yonkers” (1938) – ただ起源はこれのずっと前1835年まで遡れるそう - そして1954年に”The Matchmaker”と改題。音楽はJerry Herman、演出はDominic Cooke。
Dolly Gallagher Levi (Imelda Staunton)はNYに暮らす未亡人で、お節介な仲介人というか縁結び屋でそのためならなんでも - みたいな稼業をずっとやっていて、NYという街がいかにそういうのに適したソサエティであるか、が流れていく街と湧いてくる人々の描写とともに冒頭に活写されて、それだけでうおおーってなる。ミュージカルすごい(単純)。
Dollyは堅物のお店オーナーで郊外のそこそこ金持ちであるHorace Vandergelder (Andy Nyman)からの依頼を受けて再婚相手を探しているのだが、自分の仕事のこともあり、金とコネにまみれたHoraceが自分にも彼にも適切なマッチングなのでは、と思うようになってて、でも彼はマンハッタンで帽子屋をやっているIrene Molloy (Jenna Russell)にプロポーズするのだと、これからマンハッタンに出かける、という。
Horaceのお店の店子で若いCornelius (Harry Hepple)とBarnaby (Tyrone Huntley)は、こんなところでくすぶっていないで都会に出てぱーっとやりたい、行こうぜ! ってHoraceが出て行った後を追うようにマンハッタンに向かって、帽子屋に入ったらそこにいたIreneと店員のMinnieと出会ってダンスをして - CorneliusとBarnabyにダンスを教えたのはDolly - みんなで14th streetのパレードを見て、そこで流れていた"Before the Parade Passes By" – よい曲! – を聴いてみんなそれぞれにパレードが行ってしまう前に! って勝手な決意をして、HoraceとIreneのお見合いの場であるはずの高級レストラン - Harmonia Gardens – にみんなが集結して、最後の修羅場.. じゃないすばらしくアクロバティックな – でも誰もがわかっていた – 大円団になだれこむの。
最初は、これは昔の映画を見てもよく思うことだが – なんでみんなそんなに無理して/意地でも結婚に向かおうとするのか、死別したのならそこで終わりにすればよいのに、狙っている相手がいるわけでもないのになんでわざわざ相手を探しだすまでして再婚したがるのか(Dollyは結婚生活の醍醐味は喧嘩だ、とまで言う – わかんない)、そこだけ引っかかるのだが、それはたぶん、当時はそういうものだったから、でしかなくて、結婚相手を「お友達」くらいに考えて、その点さえ乗りこえてしまれば、Dollyの仕事 –ぜったい誰かと誰かをくっつけるしそのためになんでもやる - も含めて納得がいって、みんながんばれーになるし、竜巻Dollyを起点としたちょっと変わったスクリューボール・コメディになるのだ、と思った。もちろんこんなのは誰がやってもできる芸当ではなく、Dollyじゃなきゃ無理だからー、と。 昔の邦画とかを見ても、こういうくっつけたがりのお節介おばさんは割とどこにでも顔を出してくるので、当時の社会がそういう人を介して広がったり階層も含めて維持されたりしていたのか。そんな熱と勢いを感じて、よいわるいは別として、これはこれでよいのかも。
あとはNew Yorkという都会の、なんでもありの様相 - ショッピングして、パレードに参加して、レストランでお食事して、のいろんな連なりが可能にする出会いだよねえ、と。
それにしてもImelda Stauntonさんがあんな素敵に歌える人だとは思わなかった。映画でもどこかで披露しているのかしら?
過去に舞台でDollyを演じてきたのは、Barbra Streisand (1969)、Bette Midler (2017)、 Betty Buckley (2018) など。並べてみるとすごいかも。
あと、舞台の下のフルオーケストラのどこまでも爽快な鳴りとノリと。
こうして昼に見た”Alien: Romulus”のこわいのは宇宙の果てに消えた。
8.28.2024
[theatre] Hello Dolly
8.27.2024
[film] Alien: Romulus (2024)
8月17日、土曜日の昼、BFI IMAXで見ました。
こういうのは金曜日の初日の晩に見るべきかも、と思いつつ、怖くて眠れなくなる可能性があったので土曜日の昼の回にする。 晩には”Hello Dolly”のチケットを取ったので怖いのはたぶん消えてくれる。
というくらいなので”Alien” (1979) も“Aliens” (1986)も映画館できちんと見ていない。なので今回のは”1”と”2”の間、とか言われてもわからない。("Prometheus”との繋がりはわかった) 最近のSNSで「xxを見ていない(本数も)くせにyyについて語るな」みたいな言い合いを見たが、ほんと日本の映画批評界って偉ぶりたい男中心に歪んでいて気持ちわるいねえ。
監督は”Don't Breathe” (2016)のFede Álvarez。
地球外のどこかの星のコロニーの採鉱現場で契約に縛られてほぼ奴隷としてどん底で生きているRain (Cailee Spaeny)とおどおどしてぱっとしないアンドロイド弟のAndy (David Jonsson)がいて、雇い主に次の契約を勝手に更新されてやる気も行き場も失い、元BFのTyler(Archie Renaux)に誘われて、廃船になって漂っている宇宙船から冷凍室を回収する旅に出ることにする。Tyler以外のメンバーは、彼の妹で妊娠しているKayと、あと恋人同士ぽいふたり、Andyまで入れると6人で、行ってみると廃船どころじゃないでっかい宇宙ステーションだったのだが、それでも貰うものは貰ってとんずらしちまえ、と。
ここから先は何かを頂戴するためにでっかい幽霊屋敷に入りこんだ若者たちのサバイバル・ホラーなって、誰から先にやられていくのかはなんとなくわかるし、敵がどんなやつかもわかっているので、いきなり食い破ってびっくり、以外のそんなに新たな面白みはないのかも、と思って見ていくのだが、思っていたよりもおもしろかったかも。
将来の希望を一切持てないまま自棄になっていた不良の若者たちに「生きろ!」みたいな臭いことを言わせたりドラマの方に向かわせようとしないで、ゴミ溜めから別のゴミ置き場のようなところに移っただけ、そこで自分たちを襲ってくる何かがうようよしているのがわかった時、彼らはそこに何を見てどう動こうとするのか。腐食金属と廃墟の暗がりを覆う粘液とか水とか、重力はあったりなかったり、敵は温度を感じて飛びかかってくるので冷たいまま、暖かさなんて許されない環境のなかでの食うか食われるか。 ”Alien”も“Aliens”も結構ちゃんとした宇宙飛行士たちがいたと思うのだが、今回のは湿気と粘り気たっぷりの、何が出てくるのかわからない、どっちみち明日のない廃墟/スラム街での生々しいドラマになっている。
あとは、弱っちく壊れかけのAndyを強くするのに、船内で朽ちていたアンドロイドのチップをAndyの頭にロードしたら見違えるようにシャープな動きを見せるようになったのだが、肝心なところで組織のミッションを優先する、とか言って助けてくれないのがなかなかしょうもなくて笑った。 だからAIなんてさー。
これまでのだと噛みついて寄生して殖えるしかない下等生物が人間さまに楯突くんじゃないよなめんな、だったのが、自分たちだって下層で見えない暗がりに吹き溜まるしかない存在で、でもここまで来たらやられないように戦うしかないのだ、という開き直ったシンプルなやり合い(通じあわないただの戦争)になっているのはこれでよいのか/どうなのか、とか。
主演のCailee Spaenyは、こないだの”Priscilla”のPriscilla役でも”Civil War”でも割とアメリカどまんなかを突っ切っていく役だったが、今回は人類をまたいでいくやつで、大変そうだけどかっこよい。
8.26.2024
[film] Notes on a Scandal (2006)
8月16日、曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
ここでは地味に映画音楽作家としてのPhilip Glass特集 - “Shifting Layers: The Film Scores of Philip Glass” - をやっていて、”Koyaanisqatsi” (1982)のIMAX上映とか、80〜90年代のとか、見たいのばかりなのだが時間が取れなくてぜんぜんだめで、でもそこからの一本。 邦題は『あるスキャンダルの覚え書き』。
監督はRichard Eyre、原作はZoë Hellerの小説 “What Was She Thinking: Notes on a Scandal”をPatrick Marberが脚色している英国映画。
ロンドンの保守的な総合学校で歴史の先生をしているBarbara (Judi Dench)がいて、生徒からは少し恐れられ避けられていて、教師仲間からも距離を置かれていて、老猫と暮らしてて独身で定年間近で、ずっと日記をつけている(とてもいそうな像)。彼女のナレーションが時々はいる。
Barbaraは新たに赴任してきたアートの先生のSheba (Cate Blanchett)に惹かれて近づいていく。 彼女にはずっと歳上の夫Richard (Bill Nighy)と娘と障害をもつ息子がいて、彼女の家に呼ばれたBarbaraはなにかと気苦労が多くて大変そうなので、自分は彼女の味方になろうと思って申しでて、彼女も頼って寄ってきてくれるようになるのだが、ある日彼女が教え子のSteven (Andrew Simpson) -15歳 - と関係をもっているのを発見してしまう。
BarbaraがShebaにそのことを告げると、Shebaは自分の家族のことでもあるのでクリスマスまでは誰にも言わないでほしいと懇願し、Barbaraはこれ以上彼と関わらないというのなら言うつもりはない、と約束しつつ、未成年の教え子と教師のスキャンダルの秘密を握ってしまった年長者がこれをネタにお気に入りを自分の支配下に置こうとするのだが…
ShebaはStevenにもうつきあえないから来ないで、と告げたのに彼の方は割と本気になっていて、彼女の方もすっぱり断ち切るのが難しいことはわかっていて、自分の思うように動いてくれないその様子を見たBarbaraは次の手として、Shebaに惹かれていた男性教師に生徒との関係についてこっそり告げると、炎はあっという間に燃え広がるしStevenの親は怒鳴りこんでくるし。
自分のお気に入りに自分の方だけ向いてずっと一緒にいて貰おうとする企てはBarbaraの姉により過去にもやらかした同様のコトが明らかになりつつ、家にいられなくなったShebaを自宅に匿うのだが、Shebaに過去からの日記を読まれてしまい、全部あんたか! って(激怒)。
家族の世話で疲れたShebaとずっと独りでいることに疲れているBarbara、それぞれが互いの秘密を暴きあって怖いねえ、というお話というよりは二人とも男系社会の被害者でちょっとかわいそうにも見えたり。ただ、Judi DenchもCate Blanchettもとてつもなく生々しい存在感で凝り固まってしまった「こわい人」を演じてしまっているのであまりかわいそうなかんじにはならない、そこだけ。日本のドラマにした方がよりこてこてに生々しくなるのでは(既に誰かがやっていそうだが)。
Shebaの部屋にやってきたStevenが、彼女の持っていたSiouxsie and the Bansheesの”Dizzy” (1995)をかけて、すごいなーとか言っていて、過去にバンドをやっていたというShebaのその頃の写真はまるでSlitsみたいで、その激情が最後に爆発するとこはすごいと思った。
もっといろんな人を出して、”Love Actually” (2003)のようにしてしまう、という手もあったかも(ねえよ)。
Philip Glassの音楽はゴージャスかつめくるめくメロドラマ感たっぷりだと思った。あとほんの少しだけ変態みがあっても、とか。
金曜日の晩だったので、この後にアルトマンの”3 Women” (1977) - 『三人の女』をはしごした。Shelley Duvall追悼で。ちょっと疲れたかも。
[film] Dìdi (2024)
8月12日、月曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。
中国語タイトルだと『弟弟』 - “Younger Brother”という意味 - だが、これはアメリカ映画。(Edward Yangのは”Yi yi” (2000) ね)
作・監督はSean Wang。今年のサンダンス映画祭のUSドラマ部門でAudience AwardとアンサンブルがSpecial Jury Awardを受賞している。
2008年に西海岸のフレスノで13才だったChris Wang (Izaac Wang)の、多分に監督のあの頃のことなどを反映しているであろうcoming-of-ageもの、というと”Superbad “ (2007)とか、Eighth Grade” (2018)とか、”Mid90s” (2018)とか、いくつか簡単に思い浮かんで、あれらって主人公の軽妙さと苦さと、それを乗り越えるか乗り越えられないかの線上に見え隠れするいろんな思いとかエモが結果としては爽やかななにかを運んでくれた気がするのだが、これはちょっと違って、ずっと苦いまま、なんかもやもやしている。
家にはいつもご機嫌でかしましく、なにかとDidiと子供っぽい姉弟喧嘩を繰り広げる姉Vivian (Shirley Chen) と画家になるのが夢でいまも描き続けているママ(Joan Chen)と、なんにでも口を出してくるおばあちゃん (Chang Li Hua - 監督の実の祖母だそう)/ママにとっては義母(姑)- がいて、父は海の向こう台湾に出稼ぎに出ていて帰ってこない。英語ができないおばあちゃんとママの会話は中国語で、姉弟も中国語ができないことはないみたいだが、ほぼ英語。
学校にはいろんな人種の子達がいて、それぞれで固まるわけでもばらけているわけでもないのだが、結果的にそうなって束ねられる集まりの外観がなんか嫌で、別のグループや子達と付き合ってみて、その流れでMadi (Mahaela Park) っていう女の子に惹かれて彼女と会ってみたりするのだが彼女からは「アジア系にしては」魅力的、とか言われてそれって… と微妙な空気になって関係を切っちゃったり、それらの関係が吹き溜まってくる箱がFacebookが出てくる前にあった(まだあるのかな?)MySpaceで、彼はそこにバカでガキっぽいビデオをアップして得意になっていたのだが、いい加減そういうのも恥ずかしくてやめたくなってくる年頃で、なのでちょっとかっこよく見えたスケーターの輪に入ってビデオを撮ってみたりするのだが、クールな彼らからするとぜんぜんいけてる映像にはなっていなくて自己嫌悪がきたり。
他にもつまんないことで友達を殴っちゃったり、いろいろあって母親ともぶつかって家に帰ってこなくなり、でも母親はそんな事態にもぜんぜん動じないでお姉ちゃんの時にもあったのよ、とか。
結局誰ひとりDidiを受け容れてくれる人や集団は現れず、じゃあ”Quadrophenia” (1979)みたいに海に向かって突っ走るかというとそれもできず、これまでのcoming-of-ageものとは結構ちがう方 - 主人公がもやもやを抱えこんだまま蹲ってこちらを向いていて、なにかのきっかけで弾けたり開けたり変わったりすることもなく、ひとり内に篭って悶々としてばかり - そこにアジア人的な家族や集まりのありようが絡んでくるのでどうしようもなくどん詰まりなかんじが漂い、でもそれがよいのかも、ってしばらく経ってから思うようになった。
そんな彼の居場所から少し離れて最強なのがママで、あの家でひとり一番苦労して疲れているであろう彼女が最後に媚びることも同調もしないであの調子なのはえらいなー、ってDidiよりも印象に残ってしまうのだった。
[theatre] I Want Absolute Beauty
8月24日、土曜日の晩、ドイツのBochumで開かれているRuhrtriennaleっていうアート・フェスティバルの会場 - Jahrhunderthalle Bochumで見ました。
公演が発表になってチケット発売直後の4月に衝動で取ってしまってからどうするんだよBochum行くのか? って400回くらい自問自答を繰り返し、だらだら飛行機とらねばホテルをとらねば、これの他にどこで何するのか、などを考えたり - するのが面倒でいつも直前でばたばたして泣いたりする。フェス行く時にも思ったりするが自分は旅人ではないのかも。
作・演出は同フェスティバルのアート・ディレクターであるIvo van Hove(IvH)、音楽はPJ Harvey (PJH)、主演はSandra Hüller、事前の情報としてはこれくらいで、当日会場に着いて無料の冊子を見ておおよそのことを知る。
PJHはIvHの舞台”All About Eve” (2019)や、こないだのNational Theatreでの”London Tide”でも音楽を担当しているのだが、これらは全部その劇作用に書き下ろしたものだったのに対して、今度のはPJHの既存の曲を26曲、IvHが選んで、それを並べてストーリーを作って、タイトルの”I Want Absolute Beauty”もIvHが考えた、と。
PJHの曲を全て聴き直して浮かんだタイトルが”I Want Absolute Beauty”だった、というIvHに対して「そうかも/よいかも」程度の軽さでPJHは冊子の対談で返しているのだが、そうかなー? くらいのことは思うし(まだ考えている)。
会場はでっかい倉庫のようなとこで、ゆるやかに見下ろす形の客席の最前から舞台の奥まで20mくらい? 茶色の土がべったり敷きつめられていて、一番奥に4人編成バンドの機材が組まれていて、その奥の壁はミラーなのだが、客席からは遠すぎて映っている姿までは見えない。左右の端には舞台から繋がるかたちで椅子が等間隔で置かれて出番のない俳優/ダンサーたちの着替え/控えスペースになっている(これはIvHの標準)。
この舞台でSandra Hüllerの傍らにいるのはフランスのダンス・コレクティブ - (LA)HORDEで、LvHとPJHはSouthbank Centreでの彼らの公演を一緒に見て今回の共演をオファーしたそう。多い時で9人が舞台のあちこちを動きまわって絡みあって土まみれになる。
舞台の上部には横に長いディスプレイがあり、曲やシーンによっては演者が持つスマホやカメラの映像がライブで映し出される。その上には字幕用のスクリーンがふたつ - 左が英語用、右がドイツ語用。台詞がドイツ語だったら、の心配はいらなかった。PJHの曲を繋いで歌っていくだけなので、言葉は彼女の歌の詞のみ。
ポーズや区切りはないものの、全部で4 partに分かれていて、Part 1: Grow、Part 2: Love and Personal and Political Disappointments、Part 3: Big Exit、Part 4: Back Home - 1)なりあがって〜2)恋とか政治でごたごたいろいろあって〜3)とんずらして〜 4)おかえり、というかんじか。各partで5〜7曲、曲毎にダンスもディスプレイの映像もライティングも激しく変わっていく。
Sandra Hüllerは黒のパンツ以外のトップスはちょこちょこ変えて、ブラ一丁になったり、口紅も自分で塗ったりしているのだが、最後まで鼻の頭についた泥がとれていなくてかわいかった。
Sandra Hüllerは歌えるのか? についてはIvHもPJHもまったく心配していなくて、俳優としての彼女は自分のVoiceをもっている人だと自分も思うし、実際見事なものだった。金髪のざんばら髪で、ある時期のKim Gordonのようにも見えたが、ドスの効いた声もシャウトも堂々で、PJHの静かに内に向かって消えていくような曲は難しいかも、と思ったがそういう曲はリストにない。あるときはダンサーのひとりを娘のように抱き抱え、あるときはダンサーとべたべたに絡んで喧嘩・格闘したりその仲裁をしたり、1時間30分ノンストップ - ふつうのシンガーがライブで動く運動量の倍以上だったのでは。
Part 1の始まりが”Grow, Grow, Grow”、Part 1終わりの”Big Exit”から”Angelene” で始まるPart 2の”The Dancer” - “Meet Ze Monsta” - “Rub ‘til it Bleeds” “Rid of Me” “My Beautiful Leah”あたりのぐしゃぐしゃの展開〜居直り、その獰猛さが凄まじく、Part 3の入り口でディスプレイの画面がNew Yorkのそれ - “Stories from the City, Stories from the Sea” (2000)からの曲中心 - に変わり、舞台上の動きもやや穏やかになり、Part 4の“Desperate Kingdom of Love”ではディスプレイ上に現れたIsabelle Huppert - クレジットでは“Special appearance”となっていた - と同曲をデュエットする。Isabelleは「母親」という設定のようだが、彼女があの低い声で口ずさむように歌う”Desperate… “ - ものすごくよいったら。
現在の(過去も)PJHのライブで今回のようなグレーテスト・ヒッツぽいセットが組まれることはないので、これはこれで聴き応えあったのだが、それ故にタイトルも含めて考えさせられるところがいろいろあった。決して「総括」なんてところに向かわないのが彼女のよさでもあるし。そんな彼女に”I Want Absolute Beauty”と言わせようとしている勢力、のようななにかがある(という見方もできるか?)。
Land - 今回ではDorset, London, New Yorkなど、守り育ててくれる土地 - 反対に向こう側に抜ける・侵犯することを許さない土地の縛り・抑圧と、それを振り切って抜けようと、あなたに手を伸ばし支配しようとするDesireのせめぎ合い - ブルース - が彼女の曲の中心にあるテーマのひとつで、それがセット - 土、水、泥、煙、木、光なども含めて極めてわかりやすく示された舞台でもあった。 いちばんぐじゃぐじゃ混沌としている”Dry” (1992)からはひとつも選曲されていない - そういう分かりやすさこそが罠、という辺りも改めて。
終わった後のSandra Hüllerさんの笑顔がすばらしく輝いててよくてねえ(前から2列目だったのでしみた)
“Y” by Anne Teresa De Keersmaeker, Rosas
↑と同じ日の午後、これもRuhrtriennale Festivalの演目のひとつで、場所はEssenのMuseum Folkwang - ここは2017年 - Gerhard Richterの展覧会のときに来たことあった。
ここでこのパフォーマンスをやっているのを知ったのが来る前の日くらい、土日のチケットはとうにSold Outしてて、ばがばかばか、って。でも一応窓口に行ってみたらあなたラッキーね、と言われて入ることができた。14€。
マネの”Portrait of Faure as Hamlet” (1877) - シェイクスピアの「ハムレット」を演じるJean Baptiste Faureの像にインスパイアされて、役者が剣を構えて演じる姿から膨らませた”Why?” - タイトルの”Y”は”Why”の”Y”。もちろん答えなんてそこにはない。
土曜日の午後の会場にいたダンサー - 全員ギャラリーのところどころに散っていて誰かと組んで踊ることはない - は4人(女2男2)、9つくらいに仕切られたギャラリーにかけられたり置かれたりしていた絵画群は、マネの他には:
Mark Rothko, Barnett Newman, Paul Klee, Egon Schiele, Caspar David Friedrich, Carl Gustav Carus, Jean Renoir, Kathe Kollwitz, Josef Albers, Rineke Dijkstra, Max Ernst, Ulrike Rosenbach, Roni Horn など(他にもいっぱい)。 床にはダンサーたちの衣装がてきとーに放り投げてある(ダンサーは現れるとそこで着替える)。
マネの置いてある部屋でのパフォーマンスの他にも部屋にある絵画や彫刻や写真のテーマに応じたダンス - だけじゃなくて叫んだり怒鳴ったり喘いだりを含む - が複数用意されていて、どのダンサーもその部屋/絵画の(おそらく用意された)舞いをするのだが、我々客もランダムに移動していくのでその場の即興で作っていく部分も相当にあるような。
随分長いことAnne Teresa De Keersmaeker / Rosasの公演は見れていないのだが、わたしは彼女のコレオグラフが大好きなので、目の前でSynne Elve EnoksenやNina Godderisといったダンサーたちがソロのものすごい動きを見せてくれて、マネの絵のところでは、フェンシングの構えで客ひとりひとりに正面から迫ってくるので、ああこのまま刺して殺して、ってまじで思った。楽しくて1.5時間くらいそこにいた。
この日の午後から晩で今年後半のパフォーマンス運はぜんぶ使い切ってしまった気がする/した。
8.23.2024
[theatre] Slave Play
8月13日、火曜日の晩、Noël Coward theatreで見ました。原作はJeremy O Harris、演出はRobert O’Hara。休憩なしで3幕、約2時間。
2018年、NYのオフ・ブロードウェイ公演から翌年にブロードウェイに行って、トニー賞12部門にノミネートされたのがWest Endに来た、と。入場待ちの列に並んでいるときに撮影禁止だから、ということで”Starbucks!”と印刷された丸いシールをスマホのカメラレンズに貼られる。
舞台の背後はきらきらのミラー張りで、いくつかの扉にもなっていて、それが奥の方に開いて向こうから登場人物たちが現れる。ミラー張りの上には、これもきらきらで”NUH BODY TOUCH ME YOU NUH RIGHTEOUS”と掲げてある。あと、Rihannaの曲 - “Work”がいくつかの場面で象徴的な使われかたをしている。
第一幕は、前世紀のヴァージニアのプランテーションで異人種、かつ異なる階級を跨いだ3組のカップルが描かれる。性格の歪んだ白人の主人Jim (Kit Harington) となんでも言われるがままされるがままの黒人娘のKaneisha(Olivia Washington)、白人の傲慢ちきな娘Alana (Annie McNamara)とマッチョで彼女の言いなりになるPhillip (Aaron Heffernan) 、黒人のGary (Fisayo Akinade)と白人のDustin (James Cusati-Moyer)のゲイカップルと。彼らはどれも自分たちの関係の間に差別/被差別、偏見に見下し、当時の規範上で明らかに許されない何かが挟まっていることを十分に理解しており、その上で愛欲に溺れ、それを「プレイ」として楽しんでいるかのようにも見える。
”Starbucks!”という合言葉? - と共に第二幕の舞台は現代になって、Teá (Chalia La Tour)とPatricia (Irene Sofia Lucio)の若い女性2人組が主宰するセラピー・ワークショップの場となり - というか、第一幕の芝居は第二幕で展開していくワークショップで参加者によって実施されたロール・プレイだった、と。 前幕に登場した3組はかつての関係を持ち越すような形で登場し、ただ現代であるから、明確に差別なんてあってはならないことであり、自分たちの関係はそういうのを乗り越え、周囲の目も跳ねのける勢いで成り立っていることに意識的であり、でも恋愛関係はそれだけではないところから来ていたりもするのでより面倒くさく、そういうのも含めてみんな疲れているように見える。幸せだったらこんなとこには来ないだろうし。そしてそんなダークサイドに踏み入ってはいかん、とセラピーの場を懸命にドライブしていくTeáとPatriciaのコミカルなやりとりがおかしい。それは彼らのようなカップルを前に、”correct”に振る舞おうとすればするほど、ドツボにはまって硬直していく我々自身のようでもある。
第3幕は、前幕で夫のJimがひたすら斜に構えてしらーっとしていたJimとKaneishaのふたりが再び登場し、双方に溜まっていた何かをぶちまけるかのような、開き直ったセックスシーンを叩きつけて終わる。
決して許されてはならない人種差別や白人至上主義の下で今だに悲惨な事件が起こり、そのチェインリアクションが社会の至るところで連なるのが常態化しているなか、この劇で描かれたような関係のありようを「プレイ」として、ややおもしろおかしい「ネタ」のような形で提示してしまうことについては賛否あると思う反面、この劇が露わにしたような内面化された性や階層に対する意識が親密なシーンや場でどんなふうにそれぞれの目の前に現れてくるのか、ステージの奥に貼られたミラーを通して(実際に観客が映っている)ひとりひとり見るがよいのだ、と。
あーそうかー、となる場面があれこれ押し寄せてきて、おもしろかった。
今朝の6:30にシンガポールから戻ってきて、夕方の6:30にドイツに向かう。こんどは舞台を見に。
[theatre] The Grapes of Wrath
8月10日、土曜日の晩、National TheatreのLyttelton theatreで見ました。
John Steinbeckの原作 - 『怒りの葡萄』(1939) をFrank Galatiが脚色して、Carrie Cracknellが演出している。
この原作については、まずは(と太字で書きたくなる)John Fordによる映画化作品 - “The Grapes of Wrath” (1940)があって、ここでのGregg Tolandが作り出したランドスケープ、その印影の強度と恐ろしいほどの確かさ - 幽霊も含めて彼らがそこにいるかんじ - に敵うものはないと思うことを傍に置きつつ、原作の天災と恐慌の両方で土地もお家も全てを奪われ、失い、立ち尽くしながらも別の土地に移ろうとして、その途上でひっそりと風の向こうに消えていった人々の像、その無念や怒りが舞台上でどんなふうに描かれるのか、その風景が大恐慌時代のアメリカの荒涼 - 想像するしかないのだが - にどれくらい迫って見えるものか、を見てみたいな、と。
刑務所を仮出所してきたTom Joad (Harry Treadaway)が知り合いで元説教師のJim Casy (Natey Jones)と道端で再会して、カリフォルニアの方に移住しようとしている家族 - Ma (Cherry Jones)とPa (Greg Hicks)、Grampa (Christopher Godwin)、Rose of Sharon (Mirren Mack)、その他大勢 - にも合流することができて、車の荷台に人も荷物も積めるだけ積んでよれよれと走りだす。積まれた荷物が揺れのなかでゆっくりと壊れていくのと同じようにGranpaが亡くなり、Granmaも亡くなり、辛くて自分からいなくなったり逃げだしたり殺されたりで人数が減っていくのと、それを流し去るというか押し流すというか大嵐とか洪水が彼らを襲って - 見えなかったけど、舞台の真ん中に水が張られているらしい - 誰も悪くない(ことはなくて悪いのはいる。けど見えない)のに誰かのせいにしたがる人々も現れ、舞台の右手から左手に向かっていろんなのがごとごと流れては消えていく、その流れに抗うように人々は左手から右手に - 西の方を目指していく。 終点は見えない。誰も示してくれない。
これらは自然現象として起こったわけでは勿論なくて、ほぼ政策の失敗であり人災であるわけだが、大波にのまれ流されていく人々に立ちあがって抵抗したり一揆したりする勢いも余力もなく、静かにその灯りが消えていく様をぽつぽつと描いていって、場面切り替えとか転換の際 - これからどうなることやら(ため息)の時 - には、ギターを抱えたMaimuna Memon(音楽も彼女が担当)が2〜4人の楽隊を従え、一緒にブルース/フォーク調の歌をしんみり歌いながら通りを横切っていく。
日本だったら琵琶とか三味線を叩きながら世の儚さを切々と歌い流していくかんじで切なく枯れてて悪くないのだが、この伴奏の置かれ方が、ストーリーの大きな流れを断ち切って、個々のエピソードを個々に小さく閉じさせて、結果として彼らの悲嘆と悲惨を、その喪失感を、やや小さく見せてしまってはいないだろうか、というのは少しだけ思った。全体としては歴史的な大惨事だと思うし、次から次への大変さは伝わってくるものの、なんとなく報道されないまま放置されている日本の災害の現場を思い起こして怒りが。
その救われなさ、いろんな無念が集約されたRose of Sharonが這っていって母乳を飲ませるシーン、原作のラストにもあったような(←あった)。
[film] Trap (2024)
8月11日、日曜日の夕方、Curzon Aldgateで見ました。
M Night Shyamalanの新作。彼の新しいのは随分と長いこと見ていなくて、でもそこにそんなに深い理由はない。いつもあんまがんばって見なくていいかー、くらいで済ましてしまっていた。
以下、ネタバレしていると思うが、今回、犯人はすぐわかっちゃうと思うのでー。 いやわかりたくないのだ!の人は読まないほうが。
よきパパっぽいCooper (Josh Hartnett)が娘のRiley (Ariel Donoghue)を連れて彼女のお気に入りの歌手Lady Raven (Saleka Shyamalan)のアリーナ(Tanaka Arenaだって)でのコンサートにやってくる。 ノリノリでずーっと楽しくてたまらなそうな娘に対して、パパにはあくまで義務で連れてきたっぽい真面目さが漂っていて、それもあるのかセキュリティのやや過剰にみえる厳重感が気になるようで、席についてライブが始まってからも盛りあがりについていけるかいけないかの線上であんまし落ちついていない。歌も音楽もどうでもよくて娘さえ楽しんでくれるのであればー、と。
付近にいる中年男がセキュリティに囲まれたり肩を叩かれてどこかに連れていかれる姿を何度か見るうちに、この会場で明らかに何かが起ころうとしていることを察知したCooperは物販売り場の人のよさそうな男と仲良くなって、会場関係者間の合言葉を聞きだしたり、関係者窓口に出入りできるセキュリティパスをくすねたり、その手口の鮮やかさから彼はなんかのプロでアリーナで起こりそうなテロなり事件なりに備えるか立ち向かおうとしているかに見える、のだが、M Night Shyamalanであるしそんな簡単なわけねーじゃん、と思ったのに実はそんな複雑でもなかったかも…
要はこのコンサート会場全体が凶悪犯ほいほいのトラップになっていて、その戒厳令状態 - 中年男性は会場から外に出すな - をどう突破するのか、がテーマなのだが、持っていき方がなんか雑で乱暴で、ライブの最中に何度も頻繁に抜け出して通路や物販のところに行くし、出たところではライブの最中なのに人々でひしめいているし(落ち着きのないアメリカのライブでもライブ中は場外にあそこまで人いっぱいいないと思う)、やがては歌手のLady Ravenまで巻き込んであんなふうに使ってしまうとはー - 大スターなのにあんな手薄でよいものなの?など。
ライブが始まってから会場内で捕まえようとするのではなく、入り口のチケットのQRを読み込む段階でそれなりの絞り込みはできる + その場で確認していった方が確実だと思うし、チケットを買ってそこに来なかったとしてそれも特定の材料になると思うしー。
後半はその輪郭が明らかになった犯人側 - 通称”Butcher”との知恵比べみたいな駆け引きに移っていくのだが、ここは意外性というより明らかに警察側の手落ちで転がっていく(ようにしか見えない)ので、あらあらびっくり! よりも、なにやってんの… ? の方が先に来てしまう。逆サイドからのも含めて「トラップ」が必要なのはこの後半部のほうだったのではないか。
先日Taylor Swiftの会場に爆破予告があってキャンセルになったし、過去にはテロも起こっているし、熱狂を引きおこすコンサートイベントは歓喜の奇跡みたいのも含めて何が起こってもおかしくないの坩堝なので、そこをうまく使えばいくらでもおもしろくできそうなのにー。 宇宙人でも地底人でも呼んでくればよいのに。それかこの晩のコンサート会場の客にはすべてある共通項があった、とか…
単なる親バカ噺でもあるのだが、主人公たちの他に監督とその娘もどっちも出演しているのでよかったねえ.. でよいのか。
あと、Lady Ravenの曲が弱すぎて、引きこまれない。これでよくアリーナまで行けたなと思うし、これじゃパパは途中で抜けたくなっちゃうわけだ、とか。
8.18.2024
[film] ParaNorman (3D→2D) (2012)
8月10日、土曜日の午後、BFI Southbankで見ました。改装後、最初のNFT1(シアター)。
ここでは10月くらいまでかけて”Stop Motion: Celebrating Handmade Animation on the Big Screen”というなかなかの規模の特集上映 - Ray HarryhausenからKarel Zeman, The Quay Brothers, Peter Lord, Nick Park, Guillermo del Toro, Tim Burton, Wes Anderson, dwarf studios, もちろんLAIKA - などなど、トークもいっぱい、16歳以下は無料だって - と、ギャラリーでは”LAIKA: Frame x Frame”っていう企画展示をやっている。
ストップモーションアニメは全体としては好きも嫌いもなくて作品によるので、見たいと思って見れたら見る、くらい。その辺はふつうのアニメと同じ、かなあ。
“ParaNorman”は公開時に見ているのだが、writer-directorのChris ButlerとdirectorのSam FellのQ&Aつきだし、3D版は見たことなかったし。
最初の挨拶で出てきた2人がこの映画はScooby-Dooに80年代のJohn Carpenterと80年代のJohn Hughesを合体させたやつです、と軽く紹介してしまったので、あーそうかーそうかもなー、で変に納得して終わってしまったかも。
死んだ人が見える奴、って家族を含めみんなから気味悪がられてひとりぼっちのNormanが魔女の呪いを巡る町の騒動に巻き込まれてほんの少しの友達たちとどうにかしていくお話。亡くなったおばあちゃんが見えるのよいな。
正義とかよいこが勝つ/勝ったふうに落着させるのではなく、どちらの側もそれなりの事情を抱えていてどいつもこいつもみんなcreepyで誰ひとり(魔女すらも)まともな子なんていなくて傷だらけで、でもねだからね.. って控えめにこうあったらよいのに.. っていう。
Jon Brionの音楽もすばらしいの。
上映開始して30分くらいで3Dメガネの不具合が(確かにちょっと変だった)あるから、ということで上映を中断して2Dに切り替えたり、があった。
上映後のQ&Aで印象深かったのは、1作仕上げるのにだいたい5年くらいかけて、出来あがったものは上映が終わった後も今やっているような展示で世界をまわることになるので息が長い、とか。
LAIKAにはゲゲゲの鬼太郎をやってほしいんだけどなー。おどろおどろしいほうの。
Tonari no Totoro (1988)
8月11日、日曜日の昼、BFI IMAXで見ました。
英語題は”My Neighborhood Totoro”。
事情は知らぬが全英でリバイバルされていて、字幕版(subbed)と吹替版(dubbed)がある。どうせならIMAXで見たいと思ったのだが、子供向けだからか昼の時間帯しか上映してくれてなくて、週末の昼では吹替版のみだった。字幕版(音声日本語 - 字幕英語)は何度も見ているので吹替版にした。姉妹の声はDakota FanningとElle Fanningがあてていて、主題歌もメロは同じで歌詞だけ英語なの。
宮崎アニメのなかで一番好きで、これ以外のはもうあまり積極的には見たくないかんじ。
日本の昭和の農村風景のなか、アジア人顔の彼らが礼儀のこもった英語でやりとりするのはなかなか変なかんじがしたが、洋画の日本語吹替だってそんなふうに見えているのかもね、とか。
筋を追うのはもうよいので改めて思ったことなど。
▪️ああいう日本の家屋で子供にとって恐怖なのは、まっ黒くろすけ的な暗がりよりもくみ取り式のトイレの方だったと思う(あそこにもなんかいた)のだが、それは描かれない。
▪️お父さんのお弁当にのせられたピンク色のは桜でんぶだと思うのだが、説明が面倒かも。あれとか小魚もあったので冷蔵庫はどこかに置いてあるのかしら?
▪️考古学者らしいお父さんの書斎の本棚は本や紙束の置かれ方も含めてずっとそこにあり、使いこまれたかんじたっぷりなのだが、冒頭に描かれる引越しの前から隠れ家的にそこにあったのか?
▪️カンタがやりかけていた紙と木で組み立てる式の模型飛行機、あれいつも途中でぐだぐだになってきちんとできあがって飛んでくれたことなんてなかった。
▪️猫バスはふだんどこで待機しているのか? トトロが寝ているのはあそこってわかるけど、猫バスもどっかに潜んでいるはずよね?
▪️どっちにしても、気候も含めて今やぜんぶ失われてしまった夏の景色。こういうアートでかつての風景を懐古して愛してるとか言いながらなにもかもぜんぶぶっ壊してしまったのが今のクソ政治。これらにお父さんも村人も結局みんな加担していたのだと思う。
これから少し仕事の旅にでるのでしばらく更新は止まります。
8.17.2024
[film] Time of the Heathen (1961)
8月6日、火曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
UCLA Film & Television Archiveで4Kリストアされた版のUKプレミア。 NYのリンカーンセンターでも先の5月にリバイバルされている。日本公開はされていない模様。モノクロで一部カラーが入る。76分。
NYでAmos Vogelの主宰するCinema 16でRobert Frankの“The Sin of Jesus”(1962)と併映され、英国ではAndrei Tarkovskyの“My Name is Ivan” (1962)と併映された。監督のPeter Kassはこの後映画を撮ることはなく、上映前に配られた解説には、映画を作った時の彼の話が載っている(割とめちゃくちゃですごい)。
アメリカが広島に原爆を落としてから4年後(そしてこれを見た日はそこから丁度79年後)、Gaunt (John Heffernan)と名乗る白人男性がひとり、聖書をポケットに入れて山のなかを彷徨っている。男は憔悴したように見えて病的なふうで、なんか怪しいのだが途中で出くわした警察の尋問にもちゃんと答えている。
そこから少し離れた農家で、父にバカにされ虐待されている若い白人青年が、父の出て行ったあとに、洗濯ものを干していた黒人の家政婦をレイプして殺してしまう。
それを遠くで見ていた彼女の聾唖の息子Jesse (Barry Collins)が現場に近寄ってきて、Jesseを見て追っていたGauntも寄ってくるのだが、戻ってきた父親が息子をぶん殴ったあとで、罪をGauntにひっ被せて撃ち殺そうとしたので、GauntはJesseの手を引いて山中に逃げ出す。
警察が来て、父は白人の男と黒人の子供が逃げたことを告げて、山の中を逃げる二人とそれを追う警察の追跡劇になり、ふたりは途中で農家の納屋に隠れたりするのだが… (結末はものすごく暗い)
逃げていくGauntの脳裏には広島の町を一瞬で消し去った映像が去来し、アメリカ人として自身の負った罪と傲慢な白人親子のレイシズムと身勝手な仕打ち、それを受けて自分を殺しにくる警察などが対比され繋がって渦を巻いていく。なぜ、こんなことになってしまったのか、なにをすれば許され救われるのか、いろんな罪のありようを叩きつけてきて、これからどこに向かうのか、と。 American New Cinema前夜にはこんな内省の時があったのか。
映画は監督とカメラのEd Emshwillerのほぼふたりと俳優(プロの俳優は3人)だけ、ロングアイランドの奥地で1日5時間 x 12日で撮ったらしいが、シンプルながら重く、すばらしい。
Bigger Than Life (1956)
8月7日の晩、BFI Southbankで見ました。
BFIではずっと”Big Screen Classics”という所謂名画(いろんな名画あり)をスクリーンで見よう、という企画をやっていて、とても勉強になるのだが、そのシリーズでの1本。 イントロでプログラマーのGeoff Andrewさんが喋って、この人の解説ってわかりやすくて大好きだったのだが、今回ので彼は最後になるって。えーん。
監督はNicholas Ray(上映された日が誕生日)、邦題は『黒の報酬』 - クラシックなのに見たことなかった。原作はNew Yorker誌に載った記事"Ten Feet Tall”で、主演のJames Masonがプロデュースもしている。
学校教師のEd Avery (James Mason)は妻と息子と幸せに暮らしているのだが、裏ではタクシー会社で配車のバイトをしてがんばっていて、でも体の痛みが酷くなって失神し、医者によると不治の難病で治療は難しいがコルチゾンを投与すれば治るかも、というので同意して薬を飲み始めて、最初は快調で、やがて効かなくなった時の恐怖から多めに摂取をするようになると、彼の挙動がおかしくなって妻の買い物ではやたらでっかいことを言い、息子の教育には厳しくなって、やがてこいつはだめだから、って息子を殺してしまおうとする…
不治の病の薬を飲んだら自分が10フィートくらいの万能男に見えてきて、怖いものなしになって周囲を恐怖に陥れる、という恐怖。それは自身の停止~死の恐怖の裏返しで、それってアメリカのこんな市民社会がふつうに抱え込んでしまった病理そのものなのだ、と。 今のネットの広告を並べてみれば、或いはネットのインフルエンサーが言っていることなんて全部Ed Averyのそれみたいだし、最近はやりの高齢者は不要だからいなくなれ、もそうだし、というのを1956年の時点でこんなドラマに落としこんでいたのがすごい。それが教師と配車屋という職業に妻と息子という家庭役割のガチ典型の描写を通して、これは他でもない自分の話だ、となりそうなところのぎりぎりを刺してくるのがNicholas Rayだなー、って。
この延命と奉仕と自己犠牲を強いる勢力の不気味でわかんないこと、赤狩り以上だわ。
BFIについては、ずっと改装のため閉まっていた一番大きいシアター: NFT1がリオープンしてくれて嬉しい。会社の次に長く過ごしている場所なので快適であってくれないと。あとは上映前にかかるLloyds BankのCMだけだわ。以上、わかる人にしかわからない情報でしたー。
Taylor Swiftのチケットを取れないかやってみたのだが、リセールの一番安いのでステージ裏の£500くらいからなので諦めた。
8.15.2024
[film] It Ends with Us (2024)
8月10日、土曜日の昼、Curzon Mayfairで見ました。
Colleen Hooverによる同名ベストセラー小説(2016)- 未読 - の映画化、ということで宣伝も含めて結構話題になっていた。どんな話かぜんぜん知らずに見る。130分と結構長い。
監督は - 後で知って少しびっくりしたのだが - Blake Livelyの相手役で出演しているJustin Baldoni。
冒頭、Lily Bloom (Blake Lively)はメイン州の実家を訪ねて母と会い、実父の葬儀に参列する。市長を務めた地元の名士だったらしい父の葬儀なのだが、父のよかったところ5つを称えるように言われていたのだが、どうしてもできずに泣きながら壇上を去る。理由はわからない。
ボストンに戻った彼女は、一軒のぼろぼろの空き店舗に目を付けて、それをリノベーションして自分の花屋をオープンしようとする。
リノベの途中で店を訪ねてきたAllysa (Jenny Slate)と気が合って彼女を店員にして、それと同じ頃、Lilyがビルの屋上でひとり佇んでいたらそこの椅子を蹴っ飛ばして現れた外科医のRyle (Justin Baldoni)と出会って、少し惹かれて、しばらくして再会したら彼はAllysaの弟であることがわかる。
Ryleと少し親密になってきた頃に、Lilyの高校生の頃の記憶が蘇り – なんの導入もなくいきなりそっちの時代に飛ぶ – Lily (Isabela Ferrer)は隣の廃屋でひとり寝泊まりしているらしいAtlas (Alex Neustaedter)を見て食べ物を置いてあげたり洗濯をさせてあげたり、通学バスで会話して、やがて自分の部屋にも入れるようになって、という過去の話と、父が母に暴行をしていた、という記憶が蘇り、どうしてそうなっていくのか、というと一緒になったRyleのやたらすぐに上半身裸になったり突発的に暴力が噴きだしたりするさまに、何かを感じたからなのだ、というのが見えてくるのだが、全体として彼はやさしいし、暴れたあとには特にやさしくしてくれるし、それ以外は申し分なさそうなので彼のプロポーズを受けいれてしまう。
でも、やっぱりそうやっていながらRyleのDVから逃げたくなった頃に、人気レストランのオーナーシェフになっていたAtlas (Brandon Sklenar)と再会し、Lilyの様子から何かを感じたAtlas – ずっと彼女を想っていたらしい - は彼女を守らねばって傍につこうとするのだが、Ryleは嫉妬からますます狂ったようになり、Lilyがもうこりゃあかん、となった頃に妊娠していることがわかり… “It Ends with Us” - それを言うのは誰なのか、”Us”とは誰と誰のことを指すのか… など。
あと、DVをやらかす男のやり口みたいなのが結構明らかにされていて、最初は君のことが忘れられないんだ… ってしつこく近づいて、いったん自分の手の内に落ちると、自分のことをもっと見ろ考えろ、って怒ったり暴れたりして、コトを起こして反省モードになると変わるから/変わった自分を見ておくれ、って懇願して、要は自分を見て構ってほしい欲求だけで世界を回してて相手のことなんてどうでもよいの。
犬も喰うのか喰わないのかの際どい昼メロ展開でありながら、人が出入りしたり入れ替わったりしていくのではなく、限られた登場人物と過去の記憶のなかでDVの恐ろしさと忌まわしさがゆっくりと立ちあがって人々の関係をぐさぐさと蝕んでいく、その見せ方は悪くなかったかも。 容赦も余裕も与えず、RyleとLilyの父について生きていようが死んでいようがあんたら絶対、決定的にだめでしょ、にしているし。
LilyのワードローブとかSATC並みにおしゃれで豪華で、花屋のオーナーになれるくらいなのでお金は十分にあるのだろうが、彼女のこの経済的余裕が可能にしている展開でもあるよね。 それがなかったらきつくて見ていられなかったかも、というのもあるし、でもこのシチュエーションなら自分には関係ない〜無理、になってしまう人もいるだろうし。
Blake Livelyはすばらしい。その気高さと強さと。
RIP Gena Rowlands..
ある程度覚悟はしていましたが、やはり残念で悲しい..
こないだBFIでUCLAで新たに焼いた“A Woman Under the Influence” (1974) - 『こわれゆく女』 のフィルム上映をやっていたの、行けばよかった..
2005年、BAMでJohn Cassavetesの回顧上映があった際、彼女とPeter Bogdanovichによるトークがあって – 『こわれゆく女』の上映の時で、この映画の公開時のプロモーションがめちゃくちゃで客も入らなくて、どうしようもなかったという話とか、資金繰りも適当すぎて見ていられなかったとか、そんな昔話をする彼女は本当に楽しそうで彼に会いたそうで、あっちで無事会えているとよいなあ、って。
ここには何度も書いているが、その時に語られていた 『こわれゆく女』の4時間バージョン、早く見つけて上映して。
ありがとうございました。
8.14.2024
[film] Kneecap (2024)
8月8日、木曜日の晩、Curzon Bloomsburyで見ました。
本公開はまだ先らしいがCurzonの会員向けのプレビューがあった。
今年のサンダンスで、アイルランド語の映画として初めてNEXT Audience Awardというのを受賞している。BFIとCurzonが制作に関わっている。
映画の予告の(本編でも)冒頭、「ベルファストといえば...」で、テロとか軍とか戒厳令みたいな荒れた紛争国家の映像がお馴染みになっているけど、このお話はそういうのとは違うよ、って。でも極めて政治的な映画ではあり、でもものすごくぶっとばしてて楽しいから。
Kneecapは2017年に結成されたアイルランド語でラップをする3人組で、映画にはメンバーの3人が真ん中に出て来て自分たちのこれまでを - どこまでほんとかどうかは知らんが - 演じる。それならドキュメンタリーでもよいのでは? かもしれないが、ヒップホップ的なはったりとかおれらすげーぞ、みたいのをアートっぽく入れたかったのだと思う。ところどころつんのめったりずっこけたりしながらも、なんで彼らがラップに向かったのか、こういう映画を作りたかったのか、は伝わってくる。長尺かつやや冗長なPVであり、これは抵抗運動の一環なのだ、ドキュメンタリーなんかの適温で総括されてたまるか、と。
Liam Ó HannaidhとNaoise Ó Cairealláinのふたりはラップをやりつつ闇でドラッグを売ったりしていて、ある日Liamがパーティの騒ぎで警察にしょっぴかれ、取り調べで英語を喋るのを頑なに拒んだので、アイルランド語学校で音楽を教えているJJ Ó Dochartaighがアイルランド語の通訳として呼ばれ、Liamを助けつつそこにあった彼のノートをこっそり持ち帰ったら、そこに殴り書きしてあった内容がどう詠んでもラップの詞だったので、こいつらいいかも、って自分でトラックを作って2MCs + 1DJのバンドを組もう、って”Kneecap” – JJが頭に被る毛糸のキャップは北アイルランドで行われていた拷問の名前でもある - を結成する。自国語であるはずのアイルランド語を喋るだけで、それが政治的行為とみなされてしまう世界で、彼らはそのふざけんな! の怒りをアイルランド語のラップとしてぶちまけて、その炎は勢いよく広がっていく。
その快進撃の横でアイルランド語の普及をまじめに考えている人たちは、ドラッグで酔っぱらった若者たちのこの勢いに眉をひそめるし、他にもRadical Republicans Against Drugs (RRAD)とか、マフィアのような連中が立ちはだかって会場や道端での脅迫、発砲、爆破なんか茶飯事、やばい北アイルランド情勢そのものになっていくのだが、彼らはぼこぼこにされながらも“Trainspotting” (1996)のテンションとノリでなんも考えずに突っ切っていって止まらない。
Naoiseの父でNaoiseとLiamが子供の頃、彼らにアイルランド語を教え、警察の追っ手から逃れるために10年以上死んだことになって蒸発しているArlo (Michael Fassbender)がところどころで(見ていられなくて、か)現れて彼らの危機を救ったり、Liamの恋人として傍にいるプロテスタントのGeorgia (Jessica Reynolds)とか、彼らの背後に見え隠れする人たちも印象に残る。
のめりこんで見てしまうことは確かなのだが、やっぱり衝撃なのは(公用語は英語だから)アイルランド語をふつーに喋っちゃいけないという屈辱としか言いようのない事態で、そんなの強制されたらこうなるよなー、と。他方で、画面は音楽のノリに合わせたかったのか、相当とっちらかって崩しまくりのずたずたで、もうちょっと抑えて整えたほうが伝わったのでは、とか。 本当にめちゃくちゃをやって騒ぎたいだけなら、こんな映画を作らずに音楽だけやって身内でパーティをしていればよかったのにそうはしなかった。彼らはラップで言葉を吐きだして伝えること、それを彼らの抵抗として組織して世界に広げて、何かを変えようとしている。 「表現の自由」ってこういう局面で使うんだよ。
昔のアイルランドのフォークとかを聞くと、節回しとか音楽的な言葉だなーってよく思うが、それはラップになっても変わらず、ふしぎな爽快感があってぶちまけたら気持ちよいだろうなーって。
あと、Michael Fassbender - お母さんが北アイルランドの人 - ひとりが異様にかっこよく立っている。あの後そのまま”Hunger” (2008)に行くのか、と。
8.13.2024
[film] Borderlands (2024)
8月9日、金曜日の晩、BFI IMAXで見ました。
ここのとこ、金曜の夕方~晩は、IMAXでブロックバスターの頭使わなくていいのを見ることにしていて、これもそういう一本。(来週の”Alien: Romulus”はものすごく怖そうなので悩んでいる)
金曜の夕方だと、特に夏だと、みーんなパブに行ってしまうのでチケットはとても取りやすいの。 であるとしてもこの晩のは公開ほぼ初日なのにあまりにがらがらすぎてびっくり。
レビューがじゅうぶんぼろぼろだからだろうか。 でも別に期待していかなければふつうのB級SFアクションで、そんな悪くないかも、と思った。監督はEli Rothだし、Cate Blanchettが主演だしGina Gershonだって出ているし。
なんかさー、MarvelとかDCが繰りだしてくるコミック原作作品の完成度(というのとは違うと思うけど)とかスケールがあたりまえになっていない? もっとジャンクで適当でいいかげんなのがあってもよい気がしない? とか。
これの原作はビデオゲームだそうで、もちろんプレイしたことはないのだが、コミック原作だと言われてもわからない – それくらい世界観 - というほどのものではない持ち駒 - みたいなところは繋がっているというかいろんなのの雑種みたいになっているというか。”Guardians of the Galaxy”と”Suicide Squad”のばったもん、でそれがなにか?
ゴミが溜まった惑星パンドラのどこかに、全宇宙を統括する全能の叡智を束ねたなんかが埋まっていて、それを開く鍵を持った少女Tina (Ariana Greenblatt)がさらわれて、彼女の父親だという会社の重役みたいに悪そうなAtlas (Edgar Ramírez)が賞金稼ぎのLilith (Cate Blanchett)に捜索を依頼して、そこにやかましいロボットClaptrap (Jack Black) – なんでサイレントモードにしないのか – とか怪力男Krieg (Florian Munteanu)とか軍人Roland (Kevin Hart)とか、後からLilithの養母で母の親友(恋人?)だったPatricia (Jamie Lee Curtis)が加わり、言い争ったりなすりつけあったりしながら、Tinaの奪還と、宝ものを探すゲーム – としか言いようのないどたばたが繰り広げられていく。
時間までにその場所にたどり着く、そこに適切かつ正しい鍵をもっていって何かを解き放つ、それを妨害してくる勢力と戦う、というゲームの原則みたいなのって、これまでRothが得意にして追及してきたどんな飛び道具を使ってどんなふうに相手の息の根を止めるか、みたいなのとは別の汗とアタマを使うやつの気がして、そこのところが少し。接近戦はよいけど、一挙に大量にどーん、ていう爽快感みたいのがあまりないとか。でもどちらも狂った連中が真ん中にいて騒々しく渦巻いているところは同じとか。でもなんといっても痛いのはとてつもなく悪くて強い奴がいないところかも。
結局こうしてすべての期待はCate Blanchettさまが背負うことになり、ここでの彼女は”Eternals”の誰かであり”Captain Marvel”であり”Guardians …”のStar-Lordであり、もちろん”Tár”であり、要は申し分なく最強なのだが、なんでそうなったかの説明がまったくなく、でも最強なことは見ればわかるので、誰も手出しできずに遠巻きに見ているうちになんだか解決していた、と。 あんなゴミにまみれた世界なので問答無用、で別によいのだが、もうちょっとなんとかなったのではないか – あれなら集団でどんぱちやらなくても彼女ひとりいればよかったのでは、とか。
結局、ものすごく雑な話(というかゲーム)を雑に作って放りだしているふうで、国境上の紛争地帯だしなんでもありだから気にしない、をそのまま垂れ流していて、よかったねえ、にはならず、ラッキーだったねえ、で終わってしまうの。
あと、ロボットじゃなくて動物にすればよかったのに…
[film] Janet Planet (2023)
7月30日、火曜日の晩、NYのCinema Villageで見ました。のだが、この時は後半ところどころで脳死して記憶がとんでいて、昨日(8/11)の午後にBarbican Cinemaで改めて見直した。こういうことはあんまりしないのだが、なにかが気になったのかも。
Cinema VillageはUnion Squareの近くの随分昔からあるシアター3つのぼろい2番館で、マンハッタンにある同様の小さい映画館がどんどん潰れて、ここのすぐ近所のRegalチェーンのシネコンも灯りが落ちたりしているなか、謎に生き延びている。おおむかし、Wilcoのドキュメンタリーとかを見たのはここだったなー。
作・監督はAnnie Baker – 劇作品の”The Flick” (2014)でピュリッツァー賞を受賞した彼女の監督デビュー作となる。
どうでもよいけど、彼女の夫はNico Baumbachで、Noah Baumbachの実弟で、彼の作品いくつかに出演している。
制作と配給はA24、あと制作にBBC Filmsも関わっている。
91年の夏、マサチューセッツの田舎で、コオロギが鳴く夏の晩、サマーキャンプに来ている11歳のLucy (Zoe Ziegler)はベッドを抜けだして公衆電話のところに向かって電話をしてここにいたら自殺するから出して、と静かに訴えてそこを出る。
彼女を迎えに来た母のJanet (Julianne Nicholson)は鍼治療師をしながらパートナーをちょこちょこ変えたりしているやや変わった人で、母の横にやってきた3人 - Wayne (Will Patton)、Regina (Sophie Okonedo)、Avi (Elias Koteas)、それぞれとの関わりの(昔から知っている仲のようなのでこの夏の)初めからその終わりまで、それを母娘で他人事のように眺めつつ過ぎていった夏の日々を描く。
世にあるComing-of-ageものとはちょっと風味が違って、父親的な何かは登場しないし、母も娘も誰ひとり学ばないし成長しない、そんなつもりは微塵もないからほっとけ、ふうに見えるのが心強くておもしろい。
Lucyは眼鏡をかけていて笑ったり泣いたり叫んだりしない。いつもほぼ不愛想で無表情で何かを考えているように見え、突然動けなくなったり吐いてしまったり。画面上に出ている時間はJanetよりも多いが、彼女の視線の先には常にJanetがいて、Lucyの行動に見えない制御や引力をかけたり影響を及ぼしたりしているのが惑星Janetの軌道で、たまに彼女の持っている関係について助言を求められたりもする(→Lucyは別れちゃえば、と返す)。 どうでもいいふうにピアノを習っていたり、あとは隠している小さな箱のなかにいろんな不揃いの、あんまかわいくない人形たちを並べてお供えをしたり。 監督自身が91年に11歳で離婚した母親とマサチューセッツの田舎で暮らしていた、そうなのでLucyの像ときたら揺るがなくて強い。彼女がすたすた歩いていくシーンを横から撮ったシーンだけで、とてもよいの。
最初のWayneはひどい頭痛持ちであまり喋らず - 彼が家にいることを知った時、これならキャンプで我慢すればよかった、と呟く - でも彼の(先妻の?)娘のSequoia(Edie Moon Kearns)とLucyは笑いながらショッピングモールを駆け回る - 映画で唯一子供「らしい」描写が見られるところ。 Lucyはこの後もSequoiaについて言及し、彼女に会いたい、彼女が好きなのかも、と言うがJanetからはほぼ相手にされない。そんなのふつうだ、くらいの。
Wayneと付きあった期間は、頭に字幕で”Wayne”と出て、関係が終わると”Wayne Ends”とでる。カルト劇団員から逸れてきたReginaも、その劇団のリーダーで教祖っぽく枯れたAviも同様で、でも彼らが何を求めてJanetのところにやってきて一緒にいようと思ったのか、その”Ends”のきっかけやそこに至る経緯や事件の描写はない。Lucyから見て、彼らは虫のように夜の闇に消えた、それだけのこと。自分がその気になれば誰でもいちころなのだ、とJanetは静かに語り、それが大人の関係というものなのか、それを持続させるために何が不足していたのか、等については触れられることなく、Lucyも聞いたりしない。別に関係の持続なんて誰も求めていなさそうだ – それはLucyとJanetのそれにもやがてやってくるのかも… くらい。
Janetはこれからもずっとこんなふうに暮らしていくのか、Lucyは「ちゃんとした」大人になれるのか、そんなの別にどうでもよいけど、少なくともこの夏はこんなふうでした、と。そのさばさばした切り取りがとても素敵ったらない。
[film] Il cassetto segreto (2024)
7月21日、日曜日の午後、Curzon BloomsburyのDocHouseで見ました。
ぜんぜん知らなかったのだが、Italian Doc Seasonというイタリアのドキュメンタリー映画特集を3日間ここでやっていて、この日は今年で3年目になるそれの最終日の最後の上映作品。
今年の2月に完成して直後にベルリンでプレミアされたそう。上映後に監督Costanza QuatriglioとのQ&Aがあった。 英語題は”The Secret Drawer”。
監督の実父でシチリアのジャーナリストで作家のGiuseppe Quatriglio(1922-2017)の姿を撮り始めたのが2010年、それを一旦短編として纏めた後も撮り続け、2017年に彼が亡くなった後も彼の書斎の本やフィルムやテープをシチリアの中央図書館に寄贈するためのお片付けと整理をしながら撮影は続けられていった。
約70年間、世界中を旅したジャーナリストだからこんなにいろいろ溜まっちゃいました、見て! ではなく、中からものすごいお宝や発見がでてきたよ、でもなく、父はなんであんな大量の紙とか本の山に埋もれてあの中でいったい何をしていたのだろう、という幼時の疑問から始まって、最初は老いた父の姿、書斎で働く姿をフィルムに残しておきたい、あたりから始まった撮影は、父の像と活動の周辺から彼がひとりで向かっていた紙や本の山の方へと向かい、それらをかき分けていく中で彼の最初の妻との手紙のやりとり、監督の母である次の妻との出会い、シチリアへの思い、娘である自分が生まれた時のこと、などが出てきて、更には手紙、メモ、原稿、8mmフィルム、数万枚に及ぶ写真ネガ、などなどの束から、50年代、パレルモからの特派員としてアメリカやヨーロッパを飛び回っていた彼の姿が現れる。 Carlo LeviやJean Paul Sartreといった知識人へのインタビュー、Cary Grant、地震や火山のレポート、60年代(?)の東京を写した8mm(これもっと見たい!)まで、その活動は目が回るくらいに全方位で、でもそれがジャーナリストとしての彼が目指した仕事だったのだ、と。
パブリックもプライベートも、太古の過去も現在もすべてがパレルモのこの机から広がって、人がある場所で、ある時間と歴史を捕獲するように記録してきた、それらのぜんぶが彼の書斎の箱や棚や引き出しに積まれたり並べられたりしている、そのありようの濃さと広がりに圧倒されていく彼女(監督)の語り口は、後半になってより深くアーカイブすることの意義とか大切さの方に話が移っていって、それよかもっといろんなの見せて! に少しなっていくのがやや残念なのだが、それでもだから人は紙束を溜めたり積んだりしてしまうのだし、それをアーカイブすることは必要なのだ、というのが正論というよりは実感レベルで伝わってくる。 溜めたり積んだり、その束にその人の生を吹きこんでいくような営みが、ある時点から逆転して、その紙束の山がその人の像を生かして膨らませていく方にひっくり返っていくような。
監督とのトークで、最初は撮られるのを嫌がっていた父が後半になるにつれて、より積極的に関わるようになり、彼女が撮る姿を眺めて撮影に参加したりするようになった、というあたりが興味深かった。 “The Secret Drawer” - 秘密の引き出しは、いつも必ずどこかにあって、引きだされるのを待っている。
こちらで暮らし始めてからレコードを買うのはほぼ諦めて、その熱がぜんぶ古本の方に向かっており、別の場所に引越しを考え始めて本棚はそれまで待とうと思っているのだが、すでに床がやばくなり始めている。どうするんだこれ... って、そういう状態に対して、もちろんなんのヘルプにもなりやしないのだった..
8.10.2024
[film] Thelma (2024)
8月4日、日曜日の昼にCurzon Mayfairで見ました。
今年のサンダンスでプレミアされた作品。 軽く素敵なコメディだった。作・監督・編集はJosh Margolin。
LAにひとりで暮らすThelma (June Squibb ..94歳だって)はあまりできのよくない孫のDanny (Fred Hechinger)をかわいがっていて、でもその流れでまんまとDannyを語るオレオレ詐欺 - 事故を起こして逮捕されちゃったよう助けて - に引っかかって自宅内でかき集めた現金一万ドルをポストに放り入れちゃって、しばらくしてがーん … てなる。
お金を取られてとても困る、ということではないものの、その前にDannyと一緒に”Mission Impossible 6” (2018)でTomがBlackfriarsの橋を走り抜けていくシーン – これ何度見ても絶対むりなやつだから – を見て彼すごいねえ、なんて言っていたThelmaは、改めて手元の新聞に書いてあった”Mission Impossible”の大見出しを見るとなにかがめらめらと燃えあがるのを感じ、ひとりで現金を取り戻すべく立ちあがる。
のだが、頼りになりそうな知り合いに電話してもみんな死んじゃっていて、仕方なくそんなに仲よくなかった、いまは介護施設にいるBen (Richard Roundtree)に会って、彼のスクーターを半ばひったくるように盗んで、でも彼も追いかけてきたので一緒に行くことにして、それから知り合いのMonaのところに行って彼女の寝室にあった拳銃を盗んで、いろんな点でものすごく危なっかしい旅が始まる。
他方で突然糸を切るように出ていかれた側の家族、孫のDannyと娘のGail (Parker Posey)と彼女の夫のAlan (Clark Gregg)は、パニックと後悔とやつ当たりを繰り返し、言い争ってはぐしゃぐしゃになりながらThelmaの行方を追っかける。Dannyの自分はなんにもできない役立たずだ、という嘆きと、どうせ病弱の老人だからとタカを括る娘夫婦の見下しが心地よくひっくり返されていくのがたまらない。ものすごく心配しているが故の、であるとは言え、この辺は縮図としか言いようがない。
そして現金が送られた先の私書箱の前にBenとふたりで張りこんで、そこに現れた青年の後をつけて悪の巣窟であるしょぼい骨董品屋に乗りこんだら、そこにいたのがよれよれのHarvey (Malcolm McDowell)とその孫の男子で、ThelmaとDannyの関係とどこか似たような行き場も捨て場もないダメなふたり - 彼らのお店はもう潰れそう - を見て、ああ、ってなるのだがそれはそれとして彼の口座から金を戻そうとする(のだがPCからの振込だと当然うまくいかなくて..)。
全体としてはしょんぼり澱んでいたおばあちゃんが事件をきっかけに目覚めてめちゃくちゃをして周囲を振り回す.. という昔からある痛快家族コメディなのだが、おばあちゃんの年代の方に近くなっている身としては笑えるところでそんなに笑えず、自分がそういう事態になったらどうするか.. ばかりを考えてしまうのだった。孫なんていないけど。
そして、最後にすべてがおばあちゃんと孫の話に落ちてくると、それが見えてしまうと、それはそれで泣いてしまうのだった(孫はどれだけ歳をとっても孫であるからー)。 Dannyの像は監督自身の投影だと聞くと余計になんか…
反対側の悪役に典型的な悪漢タイプを持ってこないで、そちらにも孤立したおじいちゃんと孫をぽつんと置いたのも出来すぎのようでたぶん考えたのではないか。
中心にいる3人の老人たちがみんなすばらしい。June Squibbはもちろん、Richard RoundtreeもMalcolm McDowellも、迷いなくそのままそこらを彷徨っていそうな佇まいで、あの格のようなものはどこから滲んでくるのか。
そしてParker PoseyとClark Gregg夫婦のなんでもいちいち間に挟まってきてうざくどうでもよくかき回してくれる絶妙な距離感とか。
MIみたいにシリーズ化すればよいのに。
地震、起こりませんようにー。
8.09.2024
[film] I Saw the TV Glow (2024)
7月27日、土曜日の午後、”About Dry Grasses” (2023)の後にBFI Southbankで見ました。
A24配給で、作・監督はJane Schoenbrun、音楽はAlex G。主人公の父役でFred Durst。 ホラーっぽい扱いをされているが、ぜんぜんホラーには見えない。
1996年の、インターネットが出始めた頃のアメリカで、7grade (中2)のOwen(子供の頃はIan Foreman→Justice Smith)は不安にまみれたどうしようもない男子で、TVぐらいにしか興味をもてなくて、学校の隅で9grade (高1)のMaddy (Brigette Lundy-Paine)が床に転がって自分が好きなTV番組 “The Pink Opaque”の本を読んでいるのを見て、思いきって声を掛けてみる。
“The Pink Opaque”はIsabel (Helena Howard)とTara (Lindsey Jordan)の仲良し二人組が力をあわせて悪の首領Mr. Melancholyが送りこんでくる都会のモンスターたちと戦う、というもので、戦闘モードに入るとふたりの首のうしろには蛍光ピンクのタコマークが浮かびあがるの。
土曜日の深夜に”The Pink Opaque”を見ているというMaddyの家までOwenは家族にうそをついて見にいって、見た後に寝てしまって起きたら朝で、少しだけ成長した気分になるのだが、やがてOwenは病気だった母を失い、クイアで行き場のない(90年代だし)Maddyは家を出ることにしてOwenを誘うのだが、彼は思いきることができない。
“The Pink Opaque”の物語の詳細について詳しく語られることはなく、OwenとMaddyがその内容やキャラクターについてオタク的に議論を重ねることもない - そういうのが登場する前夜だし、あれこれ掘って検索できるほどインターネットは育っていなかった。ただ、このTVプログラムで描かれたすぐそこにある危機と何かにやられている感覚は、自分たちの日常よりも断然リアルで、そこに没入すればするほど、抜けられなくなっていくものだった。Owenの終始どんよりぼーっとした眼差しと、Maddyの全世界を敵に回す覚悟をした目の対照はなんだかとてもよくわかる。そしてなんの根拠があるわけでもないのだが、世界はもう終わってしまうのだ or 壊れてしまったのだ、という感覚が追ってきて、ここから8年後、“The Pink Opaque”の突然の終了とその悲惨な最終話をみて、Owenはブラウン管に頭を突っ込んで死にそうになる。
これだけならそんなこともあったね、のお話しなのだがこれだけでは終わらず、MaddyとOwenはそれぞれの道というのか末路というのか – Owenは魂の抜けた、体を壊した状態でだらだらと大規模スーパーかなんかの店員になってふつうの家庭を築いていたり - を辿りつつ終わって、今なら配信で全話見ることができる“The Pink Opaque”はかつてのバージョンから明らかに漂白されて改変されていたり、そういうのも含めて”I Saw the TV Glow”としか言いようがないことになっているのだが、呪いのTV(に食べられた)とか単純なものではなく、そこに抜けて行く夜道があって、彼らは癒しというよりもどこかにある傷とその修復を求めてそこに追いこまれるしかなくて、でもそこが棲み処だった、と。いまもどこかで。
ここから約10年前の設定だった“Donnie Darko” (2001)を少し思いだした。世界の終わりがセットされてしまった世界でどうやってやり過ごすのか。”I Saw..”の方がより閉塞してより切ないところで世界をどうにかしようとしている、というか。
主人公ふたりのぜんぜん噛み合わないやりとりも素敵で、「わたしは女の子が好きなんだ」というMaddyにおどおどしつつ「ぼくは.. TVが好きだ」って返すOwenとか。
ライブハウスのシーンでPhoebe Bridgersが、彼女のバンドと一緒にでてくる。
8.08.2024
[film] Kuru Otlar Üstüne (2023)
7月27日、土曜日の午後、BFI Southbankで見ました。 英語題は”About Dry Grasses”。
監督は『昔々、アナトリアで』 (2011)、『雪の轍』 (2014) のトルコのNuri Bilge Ceylan。 3時間17分 – 緊張が解けないのであっという間。
舞台はほぼ雪に覆われた原野のアナトリアの東のなにもないところで、そこに赴任している中年の教師Samet (Deniz Celiloglu)が休暇を終えて雪の原野を延々歩いて戻ってくる。
お気に入りの女生徒Sevim (Ece Bagci) - 14歳 - にお土産を渡して、一緒の下宿に暮らす同僚のKenan (Musab Ekici)と喋って、これだけだとごく普通の教師で、教室での生徒に対する接し方も特に乱暴だったり、変なところとかもない。
ある日突然生徒の荷物検査があり、Sevimの荷物から手紙が抜きとられたことを見たSametは、後でその手紙を手に入れて、それが自分宛のものであることを知るのだが、それを感知したSevimは彼のところにやって来て手紙を返してほしい、と懇願する。けど、それを拒否した彼はKenanと共に理不尽な虐待があったと通報されてしまう - 生徒の誰が通報したのか、学校は当然教えてくれないのだが、Sametは彼女に違いないと思って、他の生徒に対する態度も粗暴になっていく。
この件とは別に、SametとKenanは隣村の女教師Nuray (Merve Dizdar)と出会う。彼女はテロで片足の膝下を失っていて義足で、でも淡々とした正義感の強さから「左だね」って揶揄されるくらいで、徐々にKenanと仲良くなっていくようだったのだが、それを横目でみていたSametは3人で会おうと予定していた日にKenanが来れなくなった、と嘘をついて彼女とふたりで会って、割と強引に彼女の部屋までついていって、ひと晩を過ごしてしまう。
次に3人で会った時、Sametはわざと彼とNurayがひと晩一緒に過ごしたことをKenanにわからせ、空気を微妙に濁らせてふたりの破局を狙うのだが..
SevimとSametの件も、NurayとSametの件も、男女ふたりが正面から向き合いにらみ合うシーンがあり、女性の方は、「あなたが何を考えているか知っている」と言葉に出さずに言い、Sametは、「上等、言えるもんなら言ってみろ」と不動の表情で返す。 そして、女性がそれを言葉にした途端になにが起こるのか、女性にはわかっている(ので言えない)。
Sevimとの間で起こったことも、Nurayのも、彼女たちの涙を浮かべた、怒りに満ちた目線は男のSametからすれば取るに足らない、「なめんな」程度のものであることは彼の不遜かつ揺るがない表情から窺えるのだが、それが閉塞的で未来のない村の空気、更には彼が軽く批判する政府の政治姿勢とも連続したものであることが見えてきて、そこにふたつしかないというこの地方の季節、雪に覆われた冬と、少しだけ緑がでてすぐに乾いた草に覆われる地面の夏に重ねられてしまうと、ものすごくどんより、うんざりする。女性からしたらあんなのばかりが目の前に立ち塞がって巡っていくのだとしたら、なにもかも嫌になって出ていくしかなくなるだろう。
SametやNurayが村人の日常をカメラで撮って、そのほのぼのとしたスチールが映しだされたり、ある場面では撮影現場までカメラが移動していったり、フィクションぽい舞台設定が露わにされるのだが、そんなことをしたからどうなるというものでもない。枯草はそれ以上に伸びていって森を作ることはない、そういう土地なのだ、と。
外の人から見れば過酷な、閉じた土地でなんとかそれなりにがんばって生きる人々の像、になるのだろうが、その内側ではこれだけの嫌な体液のようなものが流れているのだ – だから人と関わりたくなくなる – だから田舎はいやだ – というわからない人(くそじじいと呼ばれる)には一生ぜったいにわからない構造の地獄。 日本もまったく同じだし、無意識の同調を強いる勢力は無用に無意識にでっかく、至るところに罠のように置かれているねえ、って改めて。
真ん中の3人の俳優がそれぞれにすばらしくよかった。
8.07.2024
[art] Sleeping Beauties: Reawakening Fashion
8月2日、金曜日の午後、Metropolitan Museum of Artで見ました。
飛行機が発つのは23時過ぎ(結局ここから更に2時間遅れやがって)で、そこを目がけて行けるところまで行く。
14時くらいに入ったのだが、この展示は館内で別の予約(無料)が必要で、QRコードを読んでキューに入ると、75分待ちと出たのでううう、ってなる。この時間のない時に1時間がどれだけ貴重かわかってほしい、ってぶつぶつ言いつつも1時間なら簡単に潰せてしまうのがMetのおそろしいところで、どこになにがあるかだいたいわかっているので、それらを回っているうちに1時間が過ぎる。他の展示でおもしろかったのは” Ink and Ivory: Indian Drawings and Photographs Selected with James Ivory”。 4月にここで見た展示 - ”Indian Skies: The Howard Hodgkin Collection of Indian Court Painting”と並べて、英国の文化人にインドのアートがどんな影響を与えたのか、を見る。
展示品は約250、うち75が新規収蔵品。展示会場の経路は腸のイメージ(ぐるぐる)になっていて、ここで体験したことは体外のトイレに排泄されるだけでなく養分については美術館とか業界の方に吸い取られるのだよ、と。
通常のファッションの展示にあるような人型に嵌められて植木のように直立しているものばかりではなく、デリケートすぎるからかふわりと横に寝かせて置かれているものもある。ガラスで隔てられているものもあればそうでないものもあり、近寄りすぎないように、って人工音声のアラームが頻繁に聞こえてくる。
目で見て眼福、のものだけでなく触覚、嗅覚、聴覚に訴えるものもあるし、素材観点では糸と布だけでなく海のもの、空のもの、石に花に虫に鳥に、ヴァーチャルのも含めて森羅万象の生物無生物あらゆるものが並べられ、従来のわーきれいー から先にというのか奥にというのか、踏みこんだものになっている。
服やアクセサリーとして人の手で縒り合されたものは、それだけでファッションとして立ちあがるわけではなく、まずは眠れる美としてあって、それをファッションとして呼び覚ますのは自然と感覚のインターアクションであり秘儀とか魔法のようななにかなのだ - ブランドでもSNSでもなく – というあたりまえのことを語ろうとしていて、更にはそれを引き起こす場所としての美術館や今回のような展覧会、あるいはMet Galaのような社交イベントの果たす機能、についても忘れずに強調されていたような。あとデジタルがもたらした精緻化と解像度の深化もあるか。
それはそれでよくわかるし、ストーリーとしてちゃんとしたものだとは思うけど、結局社交界とかハイブランドとか、それを支える富裕層のもんよね、ってなってしまう。自然が、とかいうのならまずちゃんと護ってから言えよ、って。
あと、2011年のここでの展示 – “Alexander McQueen: Savage Beauty”からの繋がりを強く感じた。野生からの転生とか。
カタログは函入りのえらくちゃんとしたやつで、これも結局は富裕層向けの記念品よね、って買うのやめてしまった。
Paula Modersohn-Becker: ICH BIN ICH / I AM ME
いつもは逆のルートで行くのだが、今回はMet → Neue Galerie New Yorkの順で見ました。
ドイツの初期表現主義の画家Paula Modersohn-Becker (1876-1907)の特集展示。
31歳で最初の子を産んでその18日後に亡くなってしまった彼女の家族との絵画、リルケとクララの肖像、いろんな子供達に猫、等もよいが、沢山のセルフポートレートが目をひく。それぞれの肖像は顔立ちや手法もひとりひとりが随分違って見えて、でもそれぞれが「わたしはわたしだよ」と静かに、確かに言ってくる。
女性画家で初めてヌードの自画像を描いた有名な“Self-Portrait at 6th Wedding Anniversary” (1906)もあって、その穏やかさ、静けさにうたれる。絵の中の彼女はお腹が大きいのだが、描いた時点で彼女は妊娠していなかったって…
これはカタログを買った。Neue Galerieのカタログは時間をかけて集めていて、そういえば前回の展示“Klimt Landscapes”のは買っていなかったのだが、重いのでまた今度。
いまTate Modernでやっている”Expressionists”の展覧会でもGabriele MünterやMarianne Werefkinといった女性画家の作品が多くあって、いろいろ見てみたくなったかも。
時間があったらWhitneyにも行きたかったのだが、湿気がいっぱいで疲れたので無理しないことにして、の本屋のRizzoliに行って、散々楽しく悩んで、一冊だけ - Julie Satow の”When Women Ran Fifth Avenue”のサイン本買った - デパート好きだから。
行きのフライトでは”Disenchanted” (2022)を見て、戻りのフライトでは”Turtles All the Way Down” (2024)を見た。後者はなかなかよい青春映画 - 原作はJohn Green - だと思ったが、前者は1作目があんな楽しかったのに比べるとDisenchanted、としか言いようがなかったかも。
8.06.2024
[theatre] Illinoise
8月31日、水曜日の晩、NYのSt. James Theaterで見ました。
Sufjan Stevensの2005年のコンセプトアルバム“Illinois”をテーマにしたミュージカルで、ブロードウェイに来る前はPark Avenue Armoryでやっていたそう。
ミュージカルの方はタイトル末尾に”e”が追加されて”Illinoise”になっている。
今回は出張があったのでひと晩だけ抜けて(許されていいに決まってる)、見にいった。出張がなかったらプライベートで休暇を取って見にいくつもりだった(というくらいの)。
しかしブロードウェイ、チケット高いよね。
Sufjan Stevensの“Illinois”がリリースされた後の彼のライブはNYのBowery Ballroomで見て、衝撃を受けてその後の彼のクリスマス・ショーも見て、その後のリンカーンセンターでのAmerican Songbookのショーも見て、渋谷クアトロのも見て、結構見てきた方なので、今回のはなにがなんでも、だった。
“Illinois”は個人的には生涯ベストに入ってくるくらいの作品 – The Whoのいくつかと同じくらい少年の思春期(のぐちゃぐちゃ)を描いた名作だと思っている。 なんで今? というのはあったが。
演出と振付はNY City BalletのResident ChoreographerであるJustin Peck(本作でTony AwardのBest Choreographyを受賞)、ストーリーは共同でJackie Sibblies Druryが加わる。90分、休憩なし。
ステージの上の棚に配置されたバンドは歌い手3人を含む14人編成、ダンサーは12人。”Illinois”からの曲はバンドによって演奏され歌われるが、追加の台詞やダンサーたちが歌を口にすることはない。元の楽曲の世界がもっていた純度のようなものは維持されたまま、その境界線上で、ダンサーたちがイメージを広げていくような – “e”の追加により、Illi-noiseになった - よいノイズとして。
シンガーたちは羽を背に背負って高いところから歌うのだが、そういえば元のSufjanのライブでもバンドの他にチアリーディングの恰好(全員まっしろ)をして羽をつけた男女がコーラスをしたり踊ってチアしていたのを思い出す。
ダンサーたちは、いろんな普段着を多く着てて、曲によって扮装や役割やメイクをとっかえひっかえしつつ、主人公たちの周囲をずっと舞ったり組んで踊ったり。
彼のアルバム”Illinois”については、当初アメリカの50州ぜんぶをテーマにして州別に作っていくと宣言していて(その後撤回)、今作はイリノイの歴史や文学や暮らしについてリサーチをした上で作っているのだが、制作(作詞作曲、演奏、編集など)は彼ひとりで、アストリアとブルックリンで行っていて、スタイルはフォークからゴスペルから現代音楽まで、とてもパーソナルな個の内省をうながす – 彼の作品はぜんぶそうだけど – 作品になっている。
1893年にシカゴで開催された万国博覧会に象徴される明るい都市の未来と連続殺人鬼John Wayne Gacy, Jr.が露わにした都市の闇、主人公であるHenry (Ricky Ubeda) 個人の記憶 - サマーキャンプとか、宗教的体験など – を重ねて並べたりしつつ、彼の身に起こる別れと出会い、孤独と再会、復活と啓示など、誰もが辿っていく成長の断片を連ねて、そこには度々ランタン(蛍?)を手にしたダンサーたちが虫のように寄ってきたりする。その渦に感応して開いたり閉じたりしていく花びらの動きが、このアルバムを貫くエモーションの明滅をうまく表現できていたように思う。配られたPlaybillにはHenryが劇中で書いていたイラスト入り手書きのJournalの抜粋が挟まっていて、この辺もたまんない。
ヴォーカルは全員とても、本人よりも上手かも、と思ったけど、男性の声はやや滑らかにうますぎてSufjanの声の寂しいひとりぼっちのかんじがもう少しあれば、とか。
“Illinois”のアルバム世界を緻密に申し分なく再構築したこの舞台と、Sufjan Stevensのライブとどっちがよいかというと、どっちもすばらしいのだが、みっともなく恥ずかしいとこも含めてぜんぶ素で晒してしまってうまくいったらわーってなるライブも捨てがたいのよね、になるのだった。
あと振付はTwyla TharpとかMark MorrisとかNew Yorkのモダンダンスを見てきた者からするとなんだかとてもクラシックで懐かしい動きのがたくさんあったかも。
Sufjan作品でいうと、2007年にBAMで一度だけ上演/上映されたThe BQE (Brooklyn–Queens Expressway)をリバイバルしてくれないだろうかー。
8.04.2024
[film] Deadpool & Wolverine (2024)
7月26日、金曜日の晩、BFI IMAXで見ました。上映回によって2Dのと3Dのがあったのだが3Dのにした。
どうでもいいことだけど最初の頃に流れていた予告でHugh Jackmanは”Let’s Fxxxing Go!”って言っていたのに公開間近になってただの”Let’s Go!”に変えられていた。
今作は寂しがりのDeadpool (Ryan Reynolds)がなんとしてもWolverine (Hugh Jackman)と一緒に組んでやりたいよう、がまずあって、それを実現するためにフェイクや嘘八百を並べたてたやつなので、正義とか悪とかヒーローとかミュータントとかは遥か彼方のどーでもよいことで、”Doctor Strange”とか”Loki”のあたりから出始めたマルチバースでの時間泥棒みたいな話 - なんか苦手なので”Loki”も途中で見るのやめてしまった - を都合よく適用して、最初の方こそ”Logan” (2017)から律儀にWolverine の墓を掘り返したりしてみるものの、途中から面倒になったのかぜんぶDisneyによるCentury Foxの買収のせいにして、そっちに押しつけて押しこんでアクションがアクションしていればそれでいいのだ、って突っ走っている。うまくやれば今後のコミック界におけるメタフィクションのありようを考えさせるくらいのものになったかも知れないのに、なーんも考えていない/考えない。この商法ならいくらでも都合よく過去を含めて加工捏造していけるし、俳優が不祥事起こしてもどうにかできるのかしら。
今回の悪役はCharles Xavierの自称双子の妹だという - つるっぱげのCassandra Nova (Emma Corwin)で、マルチバースの掃き溜めのような砂漠地帯 - Voidを支配していてめちゃくちゃ強くて、ふたりはいがみ合いどつき合いながらも湧いてでた他のアメコミヒーローとかベロ犬とかと一緒に力を合わせて戦っていくの。
斬られても刺されても撃たれてもなにされても絶対に死なない彼らがかっこよく戦って悪いのをやっつけてくれればそれで元がとれた気になるシリーズなので別によいのだが、ほんとうにこれで、こんなんでいいの? を自問しているうちに最後までいってしまった。
他のバースにも何百人のDeadpoolとWolverineが湧いているなか、他のアメコミヒーローだのびっくりカメオだのがわんさか登場してくるなか、とにかくこのふたりじゃなきゃだめなんだ! ということをくどいくらいのおしゃべりと掛けあいで延々訴え続けるので最後の自己犠牲のとこも思ったとおりの展開になるし、予定調和とか都合悪そうなところはぜんぶ買収劇とライセンスのせいにしてしまえばよい。ふたりの見得とコレオグラフが決まる場面で決まってくれればそれでよいから、に徹している。
Hugh JackmanもRyan Reynoldsも嫌いではないし、彼らのキャラクター - こういうことをしても許される彼らではある - が活きて思いっきり動いて暴れてくれればよいのでそれなりに楽しめたけど、あーんまりにも中身がなさすぎたような。
でも、黄色のWolverineがマスクをしたところで館内では静かなどよめきが起こり、斜め前にいたおじさんはひっそり拍手しながら涙ぐんでいて、こういうのはよいかも、って少しだけ思った。コミックは読まずに映画だけずっと追ってきたけど、エンドロールのとこはちょっとだけじーんとした。ほんとに長いこと、延々バカみたいに戦ってきたのだなー、って。あのエンディングのだけ1時間くらいやればいいのに。
あと、予告でも流れていたMadonnaの”Like A Prayer”、この曲がリリースから35年を経てあんなにかっこよく鳴るなんて誰が想像しただろうかー。
8.03.2024
[film] Longlegs (2024)
7月25日、木曜日の晩、Curzon Aldgateで見ました。
ポスターだけでなにやら十分怖そうだし、予告は幽霊ばっかりみたいなもやもやでわけわかんないし、でも翌日はDeadpoolとWolverine を見ることになっていたので変なのが残っても洗い流してくれて大丈夫かも、と。
冒頭、T.Rexの”Get It On (Bang a Gong)”の歌詞の一部が字幕で映されて、エンディングには曲そのものが流れて、これが映画のテーマに近い何かを明確に指し示しているかというと、そんなでもない気がして、どちらかというとグラムの匂いたつような陽気さ、狂躁状態がもたらす不気味で解読不能な何かがじんわりとやってくるような。
最初のシーンは古いスライドのような真四角にちかいフレームの中、少女が家の前に停められた不審車に近寄ったらそこからお化けのように登場してわけのわかんない言葉を吐きちらすLonglegs (Nicolas Cage)と出会うところで、でもこの白塗りおばけみたいなのがNicolas Cageだったのかと知るのはエンドロールで、この段階ではトラウマとして残りそうな変な動物のきもち悪さばかりが貼りついてくる。
そこから時間が経って、おそらく冒頭の少女が成長してFBIのエージェントLee Harker (Maika Monroe)となって、不気味かつ気味の悪い連続殺人事件 - 突然家族を皆殺しにして自分も死んだり - を同僚 - 最初の彼はあっさり殺される - と組んで追っていくのだが、その過程でHarkerには不思議な能力があることがわかって、それを使って犯人もしくは犯人像に迫っていくと、そいつは、一連の事件の背後にいそうななにかはHarkerの幼時のあの記憶に深く根差したなにかであることがわかってきて…
ホラー仕立て、というほどホラーでもない(そんなに飛び散ったり切り裂かれたりしない)謎解き、呪い解きのミステリーで、見えない何かが伝播していって、それを追いかけて見ようとしたらその時には既にもう.. となるのがわかっているのになんで彼女はFBIなんかに入ったのかしら? という囚われの連鎖 - Longlegs - を描く。TailではなくLeg。
ぼさぼさの白髪に白塗りのしわしわで変なラメのジャケット羽織って部屋にはT.Rex “The Slider”のでっかいポスターが貼ってあるグラム・ロッカーで、捕まったら簡単に.. って、Nicolas Cageのいつもの「怪演」なのかも知れないが彼にとっては簡単すぎるし弱すぎると思うのでもっとめちゃくちゃやって暴れてほしかった。不死身設定にしてシリーズ化すればよいのに。
反対側でHarkerを演じたMaika Monroeさんの崩れない硬さがよくて、彼女、”It Follows” (2014)に出ていたひとかー。(今作と同じようなやつでは..)
黒沢清の”Cure”(1997)に似ているところは確かにあるのだが、あの映画にあった誰も責任とれないとらない風に吹かれろ、みたいな手放し状態がもたらす不可視の、底なしの怖さはこっちにはないかも。 ぎりぎりまで決着・白黒つけたいみたいだし、律儀にいろいろ言葉で説明してくれるし。でもなんか、すこし真面目にやり過ぎている気がした。怖いシンボルとか兆候はひと揃いあるのだから、もっと好きに動かせばもっと異様で異形ななにかが前面に出てきたと思うのに。
[film] Crossing (2024)
7月22日、月曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
監督はジョージア系スウェーデン人のLevan Akin - 彼の”And Then We Danced” (2019)が好きだったので。
今年のベルリンでプレミア上映され、LGBTQをテーマとしたフィルムに与えられるTeddy Awardを受賞している。あと、今年のBFI Flareでもかかっていた。配給はMUBIなのでそのうち配信で見れるようになるかも。
引退した歴史教師のLia (Mzia Arabuli)が地の果てのような村に現れて、かつて教え子だった男のドアを叩いて、この近辺に暮らしていた姪のTeklaの消息を訪ねる。
その教え子は知らない、と返すのだが、その弟で見るからに頼りなさげでお調子者のAchi (Lucas Kankava)が、自分は知ってる、と彼女が残していったというイスタンブールの住所をLiaに見せて、自分を一緒にイスタンブールに連れていってくれればガイドでも通訳でもなんでもするから、と頼んで、Liaはよいとも否とも返さないのだがAchiはひょこひょこ付いてきて一緒の船に乗る。
行方不明のLiaの姪はトランスジェンダーで、家族やコミュニティから弾きだされるようにして飛びだしていったのだが、彼女の母が死の床にあるので、Liaは必ずTeklaを見つけだして連れて帰るから、と妹に約束して出てきた。
のだが、イスタンブールの果てのなさそうな雑踏で、この地でもトランスに対する蔑み偏見はあるので、名前を変えているかもしれないひとりのトランス女性を捜しだすのは容易ではなく、後の方ででっちあげだったことがわかるAchiが示した住所 - 売春宿のようなところだった - に行っても彼女を知っている人はおらず、Achiがいるとはいえ十分に言葉の通じない場所で宿泊から何から手配して人探しをしていくのはしんどい。そのしんどさの奥深くに消えてしまったであろうTeklaを探しながら彼女と同じ立場のトランスの人たちと会って話して、Teklaが失踪した理由、消えてしまいたくなった経緯もじんわりと自分のものになっていくかのような流れ。イスタンブールは存在を消したくなった人たちがやってくる場所なのだ、と。
Lia役のMzia Arabuliの、硬く強い意思をうかがわせる表情 - Pedro Costaの映画に出てくるVenturaと同様の壊れない化石感 - がすばらしい。最後まで殆ど笑みを見せない彼女が、バーでダンスを求められ、村一番のダンサーだったのだ、とメイクをしてきりっと力強く踊るシーンがとてもよいの。そんな彼女に軽くてなにも考えていないふうのAchiが絡み、猫と同じようにどこにでも出没して歌って小銭を稼ぐ小さな浮浪児の兄妹とか、後半に入って彼女たちを助けることになるLGBTQ+の支援センターでボランティアをしているセックスワーカーの大らかなDeniz Dumanliが加わって旅先での出会いと失望~辛さを分厚く生々しいものにしている。最後に少しだけ見えてくる赦し - それはTeklaに対するものだけではなくてLia自身もまた… 一緒にいてあげられなくてごめんね、と。
お話としては暗く重いのだが、映画を見た後には軽く、でも力強くCrossingしていく感覚が残る。
存在を消したくなった幽霊のような人たちが吹き溜まる街角 - 夜の町の描写もすごくよい - の、至るところに湧いてでる猫たち、やはりイスタンブールは一度は行かねば、になった。
[film] Chuck Chuck Baby (2023)
7月21日、日曜日の午前、Westfieldのショッピングモールにあるシネコンで見ました。
なぜかセントラルロンドンではやっておらず、西の方まで遠出した。ここ、駐在日本人には人気のエリアらしいのだが、これまで足を踏み入れたことはなかった(でっかいスーパーマーケットとフードコートはいっぱいあるけど、それがどうした)。日曜の朝だと客は3人くらいしかいない。
作・監督はこれが長編デビューとなるJanis Pugh。ミュージカル・ラブコメ - フルにがんがん歌って踊って世界をアゲル、というより、ラジオでかかったりプレイヤーにのせたレコードとか頭のなかで再生される音楽 - Neil Diamond, Janis Ian, Minnie Ripertonなど - が主人公に火をつけたり目を開かせたり歌の、夢の世界へと誘って、これでいいのだ、と強くいう。現実逃避ばんざい。
北ウェールズの小さな町の鶏肉工場 - Chuck Chuck Baby (ロゴかわいい)の生産ラインで生丸鷄を袋詰めする仕事をしているHelen (Louise Brealey)はクズみたいなex-夫(Celyn Jones)と、彼が家に連れてきた20歳のGFとその赤ん坊と、末期ガンを患う義母のGwen (Sorcha Cusack)と暮らしていて、他に行くところもなくてGwenの世話をして彼女と話をすることくらいしか楽しく癒されることがない。職場の仲間たちは一緒にいて楽しいけど家に帰れば、の繰り返しでなにもかもどん詰まって死んだ目をしている。
そんなある日、町に - 隣の家に、かつての同窓生で町を飛び出していったきりだった伝説のJoanne (Annabel Scholey)が帰ってくる。Helenにとって彼女は憧れの存在で、実はJoanneにとってのHelenもそうだったのだが、再会の後のいろんな自問自答や振り返りや戸惑いがあり、互いの、ふたりの過去を巡りながらのJoanneとの浅かったり深かったり振り返ったりの対話もあり、でもそうやって想いを踏みしめて確かめれば確かめるほど、いまの自分の置かれた状態やその縛りとか溝とかどうしようもないあれこれが見えて溢れてきて、そうやっているうちにGwenが亡くなってしまう。
ストーリーとしてはこてこての、周囲近隣の偏見やあらゆるしがらみや今のこんなにしょうもない自分じゃ… をどうにか乗り越えて最後はここに落ちるしかないだろう、というところに落ちるだけなのだが、HelenやJoanneの歌をずっと聴いたりダンスする姿 - そんなにかっこよくない - を目で追っていくうちにHelenの声、彼女の惑いや苛立ちが自分のそれに重なって大きくなって離れられなくなっていく。そう、ほんとになんでこんなに嫌な奴らばっかし目に入ってくるのだろう、とか。
歌は彼女たちを結んだり繋いだりするような「みんなの歌」としての機能をあまり担ってはおらず、自分を今のありようからひっぺがしてひとりの状態に、それを口ずさんでいるのは自分だ… わかっているよね? という目覚めの地点に導いていくようで、その歌が伝播していくすべての登場人物の間にもなにかを引き起こし、まったくそういう事態でないしそれどころでもないのにほらね! って言いたくなる瞬間が重ねられていく。まるでばらばらのピースを紡いでひとつのバンドができあがっていくかのように。
とてもよい終わり方だと思うのだが、偏見まみれのHelenのくそ旦那とか近隣住民とか、最後に痛い目にあわせてやればよかったのに、って少しだけ。