7月6日、土曜日の午後、National TheatreのOlivier theatreで見ました。
Simon McBurneyと彼のリードするComplicité theatre companyによる1999年の劇の再演。記憶がどう我々の将来を広げたり縛ったりするか、というテーマ故、単なる再演ではなく、911や Brexit、Covidやウクライナ戦争の件も盛りこんで再構築した新バージョンになっているという。イスラエルによるパレスチナの虐殺の件は格好の材料になったと思うのだが間に合わなかった? のは少し残念。
各シートには飛行機で配られるようなアイマスクと麻袋に入った木の葉(ほんもの。萎れてきたので押し葉にしてる)が一枚置いてある。
まず舞台にKhalid Abdallaが現れて、上演にあたっての注意事項などを語り始めた、と思ったら気がつくとテーマの核心のようなところに入り始めていて、以降、彼は俳優としてだけでなく語り部のような形で中心にいる。
記憶は歳をとって頭の奥のどこかにしまわれたまま消えてしまうのではなく、海馬とニューロンの機能 - 記憶のシナプス結合によって、過去と未来はダイナミックに結ばれて過去の記憶は常に更新されて今に作用する創造的なものなのだ、という説を「感じる」べく、アイマスクをして葉っぱの葉脈に触れながら自分の両親、彼らのそれぞれの両親、そのまた先の先祖まで辿ってみてください… って文脈をちょっとずらしたら宗教の方にいきそうなことを指示される。
という、過去から現在に流れていく(同時に絶えず変わっていく過去を傍らに抱えていく)時間のなかで我々はどこから来てどこに向かうのか(or 我々の記憶はどんなふうに更新され構成されていくのか)という問いをアルプスの山奥で発見された5000年前のアイスマン、失踪した父を探してヨーロッパを彷徨う娘Alice、どこかで見た気がする古い木の椅子、などのイメージと病院のベッド、駅のホームなどの場所 - これもまたイメージだが - を重ねたりしながら循環していく。そのめくるめく運動そのものが神経と記憶のそれに連なっていくような。
なんか90年代のポストモダンの頃にあったメタ演劇のようで懐かしかった。こういうのって世界観的な視座とか判断軸に万能薬的に割り込んでくるとうっとおしいし胡散臭い - 森羅万象なんにでも口を出してくる脳科学者みたいに - のだが、場面転換の鮮やかさなどで丸めこむ手前で次に切り替わったりするスピード感とか装置とかはよかったかも。軽すぎない? って少し思ったけど。
でもやっぱり今ならAIなどが、人々 - そこで想定されているのはどこの誰か - の記憶をどう解析して小さめの「歴史」として織りこんでいく - 社会のどこにどう? - のか、それがどうやって陰謀論とか歴史の捏造などに撚りあわされて拡散されていくのか、つまり人類はこんなふうに劣化→破滅に向かっていくのだ、というのをこの流れの中なら描けると思うので、ダーク・バージョンをやってほしいわ。
あと、例えば、「我々はどこから来たのか?」みたいな大風呂敷な問いの立て方から見直さないと、すぐ丸めこまれて都合いいように使われちゃってやばいよなー とかそういうのも思った。これらも90年代だったらそんな深く考える必要なかったやつかも。
あと、海馬くんなどが偉いことはわかるのだが、歳をとってものすごく思うのは自分の記憶ってなんでこんながらくたばっかしなのか、って。創造性なんてないしリサイクルできるとも思えないくらいのゴミとかカスみたいなやつばっかりで、肝心なことはいつもぜったい出てこないし。これでMnemonic、なんて言われてもきっとごめんなさい、になる。
サッカー、フラットの外が異様にやかましく、あんたらそこまで騒ぐのかー、だった。あんなふうに騒げるのっていいなー。明日の会社はお通夜だろうなー。
7.14.2024
[theatre] Mnemonic
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