6月30日、日曜日のごご、Curzon BloomsburyのDocHouseで見ました。
英語題は”Youth (Spring)”。王兵(ワン・ビン)の新作、6年以上かけたという215分、France-Luxembourg-Netherlandsの合作映画、漸く英国で公開されて見れるー、と思ったのだがこの回以降のスケジュールは設定されていないようで、でも日曜の午後ぜんぶ潰して見たの。
長江の下流に広がる大経済域 - 長江デルタ地域、ここの織里 - Zhili Cityという町で子供服などを作っている衣料品工場 - というより小さい工房のイメージ - で奴隷のように働く若者たちの「青春」を追っていく。日本のサイトには20分程のエピソードが9つ、とあったが各章の切れ目はくっきりしていないように見えた。
男女いろんな若者 - 10代から30代も少し - が出てくる。最初に名前と年齢と出身地が字幕で出るが、名前と各自の映像が結びつくような強いエピソードがあるわけではなく、各自それぞれがすごいスピードでミシンと布を操って製品を仕上げていって、それをしながら/それの合間に噂話をしたりふざけたり、仕事のほかにはみんなで屋台にご飯を買いに行ったり、仕事場にくっついていると思われる寮のような宿舎で転がっておしゃべりしたり、ずっと携帯をいじっていたり、朝から晩までの日々のあれこれぜんぶ、写される彼らは当然撮影しているカメラの存在も意識している。
エピソードは妊娠したので親を呼んで相談、とか、返品対応とか、賃上げを巡ってものすごく細かいレンジの駆け引きとか、これもびっくりするような、胸のすくような結末が現れるようなことはなく、誰もがそう思っているのだろう、数年ここで辛抱してどこかに移っていくからあと少し - そんな待ちの時間と場所が示される。
誰もが思い浮かべるであろうFrederick Wisemanの長編ドキュメンタリーと明らかに異なるのは、これは名のある工場や産業施設といった場所を描いたものではなく - ここのは初めからほぼ「世界」とほぼ同義の揺るぎない or どうでもよいものとして置かれていて、中心にあるのは登場人物たちの「青春」 - この言葉の示すところが我々のイメージするものと同じかどうか、とりあえずは同じと置いて - である、という辺りだろうか。
自分(自我)が世界の真ん中に据えられるその反対側で、自分の願望や志向やふるまいを縛ったり教育したり抑えこみにやってくる世界との確執とか服従とかふざけんじゃねえよくそったれをくぐり抜けたりすり抜けたりやり過ごしたりしつつ、全体としてはそういう自分が思い描いていた自分じゃなく見えてしまうことに苛立ってたまんない我慢と忍耐の時間、その時間の束を「青春」と括ってみれば、ここで描かれた「青春」は、確かにそんなものなのかも。
というのと、でもやはりこのオンもオフも正義もない労働・労使のありようは、窓の外に広がる荒んだ工業団地のような光景は、家畜並みに酷すぎはしないだろうか - 彼らの元締めのような大人は出てくるが責任者はどこにもおらず - ここもWisemanのそれとは異なる - 「改善」なんてほんの少しの賃上げ程度で、その最後まで描かれた世界の終端も全体もその先も示されることはない。世界の外れの処理工場で「処理」される消費財と若者たちの生と - でもそれが彼らにとっての「世界」であり「すべて」なのだ、と。
こんなことがあってよいのか? ここは自分のいる場所なのか? が青春において絶えず繰り返される問いであるとすれば、この映画はまちがいなく「青春」の救いのないある断面、もしくはそのど真ん中を描くことに成功はしていて、でもそれはこんなかたちであってよいものではないよね、ということも示されるものの、いまの世界の半分くらいは既にこういうふうに成型されて抜けられなくなってしまっているのではないか、という危惧とか居心地の悪さがー。
というのを声高に訴えるのではなく、こうなっているのだこれでよいのか? と淡々と示していてこわい。
今の日本も外国人労働者が入ってこなくなって(なるよね、稼げないもん)、少子化が進んでいくと間違いなくこうなっていく.. か、もうなっているのかも知れず、王兵もいないから「青春」なんて言ってられなくなる。それが見えているのに選挙ではー。
絶望はしない。けどめちゃくちゃあたまにきている(以下略)。
7.07.2024
[film] 青春 (2023)
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