7.28.2024

[music] The Pet Shop Boys +2

7月23日、火曜日の晩にRoyal Opera Houseで見ました。”DREAMWORLD – The Greatest Hits Live”と題された5 Daysの初日。

彼らのライブは2019年9月にHyde Parkで見ていて、風船とか飛びまくって夏の終わりのお祭りみたいな楽しさがあったのだが、やっぱり野外よりは閉じた屋内で見たいかも、と思っていて、発表されてからあーチケット取らなきゃ、と思っているうちにあったりまえにあっという間に売り切れて、こういう場合はどうするかというと当日にサイトを眺めているとちょこちょこ落ちてくるのがあるのでそれらを狙う。落ちてくるのはピンキリでよい席は高いし安いのは遠いし、ほうっておくと一瞬で釣られてしまうので賭けなのだが、今回はMetropolitan Opera HouseだとSecond Tierにあたるエリアの最前列が釣れて、日付が本当は木曜日がよかったのだが、もうこれでいいや、って。

この場所でバレエ以外のジャンルのを見るのも、幕の上にスピーカーやライティングが組まれているのも、バレエの時のオーケストラ・ピットがモッシュ・ピットになっているのを見るのも初めて。ここ、やればここまで変態できるのかー。

サポートなし、20時丁度に幕が厳かにあがるところからライティングも音もばっきばきのエレクトロ! なかんじで、最初は2人ともダフトパンクみたいなマスク姿でほぼ動かず、以降3〜4曲くらいおきに衣装とライティング&映像のセット - たぶんすごくお金かけてる - が一緒に変わっていって飽きない。バックは3人、主にコーラスと太鼓とその他。

客層は当然(自分も含め)じじばばの年寄りだらけなのだが、一階のモッシュ・ピットは勿論、Stallエリアの人々は開始と同時にほぼ全員が立ちあがりそのまま最後まで(だいたい2時間)たちあがって体を揺らしていて、一階席を取らなくてよかったわ - ずっと立ってみるのしんどい。

なにしろ”The Greatest Hits Live”なので知らない曲もほとんどなく、Neil Tennantもあれこれ喋りまくってくれて楽しい。のだが、結局いちばんクールにかっこよく鳴ったのはほぼ2人になってのアンコール - “West End Girl” (1984)〜 “Being Boring”だったかも。大学生の頃、大ヒットしている、って初めてこの曲を聴いたときはなーんてださい、しか思わなかったことを思いだす。いまも半分くらいそう思ってて、変に尖りすぎない鼻歌であるとこがなんとも言えずよいのだわ。


BBC Proms 8: Nick Drake an Orchestral Tribute

7月24日、水曜日の晩、Royal Albert Hallでみました。
文化系の人にとってはWimbledon よりも、これとRoyal Academy of ArtsのSummer Exhibition がエッセンシャルな夏の風物になるの。

ただ、チケットは↑と同様に割と取れないので当日になんとかする。ここのシートマップから空きの一席を見つけるのって視覚検査みたいに難しい。

オーケストラ・アレンジされたNick Drakeの楽曲をいろんな歌手のひとが順番に歌っていくという企画で、それだけならべつにあんまし、なのだがNick Drakeの曲ってオーケストラアレンジされると更によくなるかんじがしそうなのと、歌い手にMarika Hackmanさんがいたので。他の歌手はOlivia Chaney、BC Camplight、Scott Matthews、The Unthanks(二人組)。アレンジをしたのはこの日指揮をしたJules Buckleyの他に6人程 - その中にはKate St. Johnの名前もある。

結果は想像できるとおり、深い森の奥のざわめきに震えをもって応えるような、歌のうまい人の声と重なった時に初めてその正体を表わすかのような美しさがすごい。もちろんそれだけではない、サイケデリックやフォークが落書きした道端の風景をも雨で洗い流して塗りなおしてしまうかのような。

Marika Hackmanは後半にやった”Time Has Told Me”と”Voices”がとてもよかった。
オーケストラの隙間から聴こえてくるギターがすごく強くてよくて、誰かと思ったらNeill MacColl氏(Kirstyの異母兄ね)だった。


The Blue Aeroplanes

7月27日、土曜日の晩、King’s Crossの新しめのライブハウス - Lafayette で見ました。以下、知ってる人だけに向けて書く。

1990年に渋谷クアトロでライブをやったのを見て以来。ギターが3台いてダンサーもいてやたらせわしなく落ち着きのないやつだった記憶があるが、voでフロントのGerard LangleyもギターのJohn Langleyもまだやっているようだったので。そしてダンサーの人もたぶん同じひと - 振付け昔のから変わってないし - ただ外見がふつうのおじさんになっているので宴会で突然タコ踊りを始める迷惑上司のように見えなくもない。まあそれをいうなら客のほうだって(以下略)。

ギター3台がじゃぶじゃぶのうねりを作っていく構成は変わらず、リズムは多少もたつくところもあったがネオアコにもグランジにもいけなかったふつうによいバンドとして、とにかく続けていたのはえらいこと。

アンコールでは来日公演にも(確か)参加していたRodney Allen (! わーい)が一曲歌い、最後はギター6台くらいでTom Verlaineの”Breakin’ in My Heart”をぐあんぐあんに鳴らして去っていった。

暮れにはもうひとつの青系 - The Bluebellsのライブもあるよ!


あと、7月にみたライブでは、書けてないままだけど、7月2日、BarbicanでのANOHNI and The Johnsonsが圧倒的にすごかった。


明日から金曜日までNYに出張にでるのでしばらく止まりますー。 どこかでどうにか抜けれますようにー(祈)…

7.26.2024

[theatre] Skelton Crew

7月16日、火曜日の晩、Donmar Warehouseで見ました。

原作はデトロイトの作家、Dominique Morisseauによる”The Detroit Project”という3サイクルの作品群のなかで最後に書かれた作品。米国での初演は2016年、演出はMathew Xia。

グローバル経済の波にさらされ絶対苦境にさらされているデトロイトの工場の殺風景な、骨組みしかないような休憩室が舞台。古いコーヒーマシン、奥のほうに遺物が堆積されたままの冷蔵庫とかいろんな棚、誰がなんのために? のいろんな張り紙、ロッカー。工場のノイズが近くに遠くに頻繁に入ってきてやかましくて、「休憩」するための部屋なのだろうが、工場に来た時と去る時、作業の合間に通過するだけのうす暗いトンネルのようなイメージがある。

ここにやってくる3人の工場労働者 - 年長で経験もあって、みんなに慕われているがタバコを吸ったり態度はそんなによくないFaye (Pamela Nomvete)、妊娠していて明るい将来を夢見るShanita (Racheal Ofori)、不良あがりで将来のことなんてどうでもよさげなDez (Branden Cook) - と、せっせと張り紙をしては全員に口うるさくあたるのでそんなに好かれていないスーパーバイザーReggie (Tobi Bamtefa)の4人が登場人物で、彼ら4人だけ。

休憩室にやってきた彼らがどうでもよい世間話をだらだらしていると、そこにスーパーバイザーがやってきて、またタバコ吸っただろ? などがみがみ言って、みんなで肩をすくめて、彼がいなくなるとまた元に戻る。どの一日も生産ラインと同じくぜんぶ同じペースで動いていって、ある日だけ違っていたらやばい。

そういう中で、家に帰っていないこと - 実はホームレスになっていた - が判明するFayeとか、Fayeのかつての恋人のこととか、喧嘩して顔に傷を作ってきたDezと彼のバッグから見つかったピストルとか、彼をなだめている内に少しづつ近寄っていくShanitaとか、いろんな会話とエピソードが出てくるが、工場閉鎖で解雇とか、ストライキとか、そういう大きな波には向かわない。どこの職場にあってもおかしくない、どこかで聞いた気のする出口のない - そんなもの考えていない - やりとりが、ゆるい空気とリズムと共に描かれて、2幕目ではちょっとエモーショナルになったりもするのだが、それってこのばらばらな4人がいてはじめて生まれる奇跡、その時間のようななにかかもしれない、という気付きがやってくる。

というのと、ほとんどの職場がこんなふうなんだろうな、と思いつつ、いつか、場合によっては簡単に国や会社の都合でもって潰されたり壊されたりする関係 - その非情さや不条理が奥のほうから薄っすら浮かびあがってくるのだった。

音楽はFayeの時代のAretha FranklinとDezの聴くSlum Village → J Dillaがやたらかっこよく鳴る。

観客は9割以上が白人層で、これはしょうがないことなのだろうけど、いつもなんかなあ、ってなる。


Visit from Unknown Woman

7月20日、土曜日の晩、Hempstead Theatreで見ました。1時間10分の一幕もの - 20分くらいしたところで技術的な問題が出たらしく一度中断、10分後に再開。

原作はStefan Zweigの1922年の中編小説『未知の女の手紙』 - 映画化作品だとオフュルスの『忘れじの面影』(1948)(見ているはずだがどこかで忘れじでなくなっている)とか、中国でも2004年に映画化されている(未見)。 脚色はChristopher Hamptonでタイトルも”Letter from an Unknown Woman”から少し変更されている。演出はChelsea Walker。

舞台は1934年、中年作家のStefan (James Corrigan)がいて、ある晩、フラットにMarianne (Natalie Simpson)と名乗る女性を連れて帰ってきて、いろいろ会話してひと晩を過ごし、朝になって召使が現れたところで彼女は去っていく。別れ際、Stefanが彼女のパースに忍ばせたお金を彼女はそっと召使に返す。

そこからだいぶ時間が過ぎて、Marianneが再び彼のフラットに現れて、自分が幼い頃から、彼の隣の部屋に住んでいて彼のことをずっと見ていたのだとか驚くべきことを語り始める… そのセットの周りには彼女がStefanに送った白いバラ(の残骸)が積まれ、若い頃のMarianne (Jessie Gattward)がその山の周りをゆっくりとまわったり佇んだりしている。

オーストリア系ユダヤ人であるStefanにとって、ナチスの台頭が彼の足下を揺るがし活動を不安定にさせるその反対側というか思いもよらないところで、ひとりの女性がずっと彼のことを見つめて追っていた、と。今ならストーカーのお話し、で片付けてしまえるのかもしれないし、Stefanはそんなに気がつかないままでいられたのか、とか、Marianneは彼の姿を目で追うだけでそんなに恋をしてしまうものなのか、とか、いろいろ思うのだが、戦争の影が覆い始めた頃の社会不安など、うまく繋げれば”Unknown”のありようとその説得力も増したかもしれないのに、ちょっと弱くなってしまったかも。

でもその弱さもまた.. で、全体としてはとてもよい一枚の絵を見たかんじになった。

[film] Twisters (2024)

いろいろ書けていないのが溜まっていて泣きそうなのだが、書けるのからー。
7月19日、金曜日の晩、BFI IMAXで見ました。

繋がりはないけど最初の”Twister” (1996)を見たのはNYの(今はLoewsになっている)リンカーンセンターのSONYシアターで、当時はまだIMAXは自然史博物館のアトラクション施設でしかなかったので普通のでっかいスクリーンだったのだが、それでもとても楽しくて、TVで放映されるたびに必ず見たりしていた。牛が飛んでくるところがたまんないのだが、今回牛は飛んでくれないのでとてもがっかりする。鶏は落ちてくるけど。

タイトルが単数から複数になり、Alienみたいにうじゃうじゃ大量にやってくるのかというと、そんなでもないかも。監督は“Minari” (2020)のLee Isaac Chung。

オクラホマでストームの追っかけをしているKate (Daisy Edgar-Jones)とそのチームがいて、竜巻の真下に入って前作のにも出てきたDorothyから打ちあげていろいろやろうとしたところでいきなり敵がでっかいのに化けて彼女の恋人と他のメンバーたちはほぼ吹き飛ばされてしまう。

それでぼろぼろになったKateはNYの気象会社に就職して堅気の仕事をしていると、あの事故で生き残ったもうひとりのJavi (Anthony Ramos)が声をかけてきて、スタートアップのようなところで金払いのよいスポンサーがいるし、来てくれないか、と言われ、最初は断るのだが、結局そこに加わる。

こうしてストームを追っかけだすと、YouTubeとかの中継しながらやっているちゃらくて威勢のいいTyler (Glen Powell)のチームが視界に入ってきて、互いに張り合いながら追っていくのだが竜巻の発生や行方についてはKateの予測のほうが当たったりするのでTylerからすれば面白くなくて、でもこうしてふたりは近寄っていって、どちらも気象学をちゃんと勉強していたのでKateの実家でずっと議論していたり。(ふつうすぎてややつまんないかも)

前回のテーマだった竜巻内部の動きをその中に入ってヴィジュアライズせねば、というところから、竜巻内部に薬品とかをぶちこんで水やら圧力やらの化学反応とかによる内部爆発で威力を軽減してやっつける - 被害を食いとめることはできないか、という方に狙いは移ってきていて、そうなるとこれは限りなく怪獣映画 – 怪獣退治のそれに近寄っていく – だからJurassic Worldのスタッフが関わっているのかー。

しかしこの竜巻が怪獣なのだとしたら、この突然変異や双子を生んだりする要因はなんなのか – 既にいろんな方面から突っこまれているように気候変動危機や地球温暖化に対する目線や指摘が完全に消えている。まんなかのふたりは科学者なのにそんなもんでよいの?政治には興味ないの? 企業がスポンサーにつくのにこんなにおいしいネタはないのに、KateとJaviのチームのそれは地上げ屋のおやじだし – それを知ったKateはここを去る – べつに不自然とは言わない。はっきりとどっかの筋からの圧力があったのだろうな、とふつうに思う。

真ん中のふたり、悪くはないけど、96年版のHelen HuntとBill Paxtonに比べるとやっぱり弱いかなー。Daisy Edgar-Jonesさんはうまいけど、どうしてもUS南部の女性には見えないのよね(←偏見)。あと音楽も間延びしたカントリーぽいのばっかりだし。 ちゃんとVan Halen をがんがん流してPhilip Seymour Hoffmanくらい出してみろ! 牛も飛ばせ! など、そんな文句ばかり浮かんでしまう。竜巻なんて、こんな正面に据えておもしろい相手ないのになー。

これの続きがあるとしたら、竜巻内部になんか仕掛けて巨大化させて近隣一帯を全滅させてしまう悪の組織が現れて、そいつらとGlen Powellが戦うことになるのだと思う。そこまでやらないでなんでGlen Powellなのか。

7.24.2024

[film] Zielona granica (2023)

7月14日、日曜日の昼、Institut Français内のCiné Lumièreで見ました。

英語題は”Green Border”、邦題は『人間の境界』。ポーランド/チェコ/フランス/ベルギー合作映画。 モノクロの4章からなる147分。

監督はポーランドのAgnieszka Holland。ポーランドとベラルーシの国境にある立入禁止区域 – “Green Border”を中心にそのどちら側にも行けなくなった人々 - 所謂難民が、「難民」とされてしまう悲劇を描く。

欧州(ではなくなったけど、でも)に暮らす人間として、きつい内容であることはわかっていたが見ないわけにはいかない。
2021年に国境で実際にあったことだし、今でもおそらく続いている。

冒頭、飛行機に乗ってベラルーシに降りたつ難民たちがいる。シリアのISISから逃れてきた3世代の家族(老いた祖父、夫婦、幼い姉弟に赤ん坊)に兄に会いに行こうとしているアフガニスタンから逃れてきた女性ひとりが加わり、事前に手配してあった車に乗りこむ。子供らは無邪気にここからスウェーデンに行けるのだ、と思っている。

ところが車がポーランド国境付近の森にきて、向こうに警備隊がいるのを見た運転手はここで降りろ、って彼らをおろすと逃げるように消えて、おそるおそるポーランドに入ることはできたものの、すぐに国境のガードに捕らえられてベラルーシの方に送り返される。...というやりとりが罰ゲームのような不条理さで繰り返され、ライフラインだったスマホのバッテリーもお金もなくなり、難民たちは寒さと沼地の湿気と空腹と不衛生で雑巾のようにぼろぼろになっていく - 見ていて本当につらい。

ベラルーシの大統領Lukashenko – 独裁者の卑怯な政治駆引きと、それに乗っかる形で都合よく難民排除をしたいポーランドの思惑の狭間で、ここなら抜けられるかもと思って自国から逃れてきた彼らが動物以下の扱いを受けているのを見て少しだけ動いてくれる国境警備隊の若者とか、国境付近で支援を行う活動家たち - 3章では彼らの苛立ちが描かれる - とか、森でシリアの子の死体を見て、難民の実情を知り震えながら立ちあがるセラピストのJulia (Maja Ostaszewska)とか、よい人たちの行動も描かれるのだが、正義感や使命感なんかより、まずその虚しさと絶望がまず先にきているような。どんなに、どれだけ手を尽くしても救えない人々の数が余りに多すぎるし絶えないし。救うにしたってまずは国境と法が立ちはだかって動きようがないことばかりだし。

タイトルの”Green Border”への皮肉も含め、難民の、彼らの扱いに対する容赦のない、希望なんて欠片もない描かれ方には監督の強い怒りが見える。これがひとつの国ではなく(ひとつの国だってだめけど)、ふたりの国を跨いで互いをカバーする(≒責任とらなくてよい)政策のような形で実行され放置され、それを周辺国 – どこも難民政策には苦慮している - が傍観し、結果容認している、という構図に。直接的に戦争をしているわけではないので殺し合ったりする絵は出てこないものの、難民を人間と思うな、飛んでくる弾丸だと思え、という言葉が出てくる。イスラエルのガザに対する扱いもそうだけど、こういうことを考えて実行に移しても構わない、それで仕方ない、と片付けてしまえる頭の中が恐ろしい – なにも考えていないとしか思えない。

他国のことだから、はこういう場合は言っちゃいけない。あたりまえのこととして。
そして自国のことは、これと同じくらいクソ酷いので、どっちに対してもトサカを立てて文句を言い続けるしかないわ。

ベラルーシでLukashenkoの後に大統領になったSviatlana Tsikhanouskayaを追ったドキュメンタリー”The Accidental President” (2023)が丁度公開されていて、これを見てから、と思ったのだがいろいろあってまだ行けていない。

7.23.2024

[theatre] Kathy & Stella Solve a Murder!

7月13日、Ambassadors Theatreで土曜日のマチネ―のを見ました。

2022年のEdinburgh fringeで評判となり英国各地をまわってきたコメディ・ミュージカルの再演。舞台の両袖の上の棚に各2、計4名のバンドがいる。原作はJon Brittain、共同演出は、Jon Brittain & FabianAloise、音楽はMatthew Floyd Jones。

ハルに暮らす殺人事件マニアのKathy (Bronté Barbé)とStella (Rebekah Hinds)は小学校の頃からの親友で、一緒に未解決事件の記録を読んだり集めたり犯人像を推理したり、大きくなってからは一緒にPodキャストをやったり、あまりぱっとしないけどふたりで楽しくやっている。

ある日、ふたりにとってはアイドルの犯罪マニアでセレブ作家のFelicia Taylor (Sorelle Marsh) - でも性格よくない - が町にツアーでやってきて、熱狂的なサイン会のあったその晩に殺害されてしまう。ふたりがずっと追ってきたハルの連続殺人鬼のと同じような手口で…

警察がやる気なしでてきとーに処理して幕引きしようとしているのを見たふたりは、ここはあたしらの出番ではないか! って遺体が置かれた病院とか鑑識とかにうまく取りいって独自に勝手に捜査を進めていくとー。

もしゃもしゃ髪にメガネのがり勉ふうKathyと、たぶんゴスをやりたいけど体型が - で中途半端にNirvanaのTシャツを着たりしているStellaのでこぼこの組合せがよくて、でもこのふたりがオタク的に籠ってなんかやりあっていくのかと思いきやその逆で、歌いあげるかんじの典型的なミュージカルナンバーをカラフルに歌ったり踊ったりしつつ – でも決して鮮やかに華やかに豹変するわけでもないところがよい - いろんな場面や人と会ったりして自分たちが勝手に招いた危機や落とし穴を、辛かった過去を振り返ったりしながら一緒に乗り越えていく。

やがてそれらしき犯人がいかにもなふうで逮捕されたりするのだが、当然それだけでは終わらないで、第二第三の事件が起こって彼らのPodキャストの評判も地に落ちて、ふたりの関係も危うくなったりしてー。

子供の頃、ひとりぼっちで病気がちのKathyを救ったのは「殺人」だったし、ふたりを結び付けたのも「殺人」に対する興味関心が一致していたからだし、ふたりを有名にしたのも「殺人」だし、でもひょっとしたらその流れのなかでFeliciaは殺されたのかもだし、でもとにかく「殺人」は数にしろ手口にしろ動機にしろ、多くの人々を惹きつけてエンタメのように消費する/されるものとして社会のなかで「機能」しているような - 人が殺されるってものすごく大変なことなのにー。 そういう「殺人」を巡る社会心理のありようを明るみに出すわけではなく(いや、少しはしているか)、事件の謎を推理して解決に導くこと(Solve a Murder!)が中心にあるわけでもなく、KathyとStellaの友情物語が真ん中にあるのは、それでよいのかしら? このストーリーに関しては脇役も含めてふたりを中心にうまく配置されていて - 現場のスターは最初に殺されちゃって - そのアンサンブルもよくもわるくも機能しているっぽいのでよいのか… なあ。 殺人なんて起こらない平和な社会なんて、彼女たちからすればありえない、ってことなの? とか。

でも日々のニュースでみる英国の殺人事件てほんと陰惨で怖いのばっかりの気がして、ああいうのに没入して熱狂できるのってやっぱり切り裂きジャックのお国だからだろうか。

7.22.2024

[art] Paris 1874. Inventing Impressionism

7月10日、水曜日の晩から12日、金曜日の晩からパリに出張があって、仕事は金曜日の午後に終わるので戻りのユーロスターを夜遅めのにしてもらって少しだけ展覧会の方に。

オリンピックに向けた交通規制は既に始まっていて至るところにいろんな柵とか、機関銃を抱えた軍の人達とか、ぜんぜんやるきなさそうな広告に溢れていて、こういう普段と違うモードになっている時のパリであちこち動こうとしてもぜんぶ想定が外れて徒労におわる、というのは数年前の地下鉄ストの時にイヤというほど味わったので今回はオルセーとルーブルだけ。金曜日のルーブルは21:00まで開いている。

まずはオルセー美術館のほう。 150年前、印象派が誕生した当時のパリとその爆心地で展示されていたもの、描かれていた風景などを振り返る展覧会の最終週。個人的に印象派の展覧会というと1994年、Metropolitan Museum of Artでの”Origins of Impressionism”が決定版で、あれに匹敵するくらいの…  ではなかったかも。

絵の展示会場の隣で、VRツアーみたいのもやっていたが、こういうので当たり! ってなったことはないのでパスした。絵は実物があるんだからそれを見ればいいじゃん。

印象派誕生のきっかけ・起源とされる1874年4月、アカデミーのサロン選考に落ちたアーティストたちが写真家ナダールのアトリエで開いた展覧会 - 後に「印象派」の画家と呼ばれることになる彼ら(ただの寄せ集め)の最初の展示がどんなだったか、その時のサロンに合格した作品たちと拒絶された作品の両方を持ってきて並べて、当時の展示の様子から絵に描かれたテーマまでを比較概観していく。

最初のほうのパート、サロンに合格した作品たちの展示はきらきらのアクセサリのように壁一面に、並べるというより張り紙のようにびっちり、クラシックで写実的で、個々の作品や作家より、サロンとしての場の風格を際立たせるような並び - 選ばれただけで光栄にござりまする、と。

これに続く後の「印象派」作家たちの展示はやはり相当にてんでばらけて見えて、今では有名なのばかりだし、「印象派」のネーミングの元となったモネの『印象・日の出』 (1872)も特別扱いになっているものの、サロンの壁をぬけてこちらに来てみると、銭湯の絵みたいな、批評家がおちょくりたくなるのもわかる散漫な「印象」しかないような薄味のが。

ここから全てが、というような張りとか強さを感じさせるものなんてカケラもなくて、普仏戦争の負けとか国内で続く内戦とか社会の疲弊がゆっくり沁みていく反対側で、オペラ座ができて都市として大きく変わろうとしていたパリの空気 - オリンピック直前の今とちょっと似てる? - を反映しているかのように凡庸で輪郭のボヤけた風景画の陽光と膨らみ、野外で寛ぐ家族 - 最近流行っているのかBerthe Morisot - など見るところは多い。

これらはやはり今から150年の歴史と時間、その間に積み重ねられたいろんなのを振り返ってようやく見渡すことができるあれよね、というのが確認できるのと、これができるのはオルセーだからだねえ、というのと。展示はこの後にワシントンのナショナル・ギャラリーに巡回するそうな。

この後に5階の印象派の常設展示の方も見て、下の特別展にあれだけ持っていってもまだこんなにあるのかー、とか。

1874 Dessin !  Que dessinait-on en 1874 ?

5階でやっていた関連の小企画で、1874年の素描はどんなだったか、と。Manetのすごく小さい”Portrait de Nina de Callias”がすごくよかったが、それ以外は、風景とかのラフなスケッチとか落書きみたいのばっかしで、やっぱこんなもんだったのかも、と。

あとは、いつものようにボナールの猫たちを見てから出る。


Chefs-d'œuvre de la collection Torlonia - Masterpieces from the Torlonia Collection

ルーブルではこれだけ見ておきたくてー。
ローマ古代彫刻の世界最大級の個人コレクション - トルロニア家(財団)のそれがブルガリのスポンサーのもとでの修復を終えてローマで公開されたのが2020年、それが初めてイタリアの外にでた、と。石の彫刻って日本の昔の木造仏像などを見るのと同じで、詳しくないし見る目もないのでなに見てもわぁー、ばっかりなのだが、とにかくトルロニアの大理石の艶 – 乳白色ぴっかぴかなの - とそれが波や襞となってひとや動物を覆ったり被さったりしているさまが本当に美しくて、いくらでも見ていられる。椅子の下の犬とか、腹を開かれて干物になっている獣たちとか、すごいなーしかない。できればもう一回みたい。

ここで時間使いすぎて帰りの電車が間に合わなくなりそうだったので、常設展示の方は見ないで – ありえない - 外に。 食材店も行く時間なし。オリンピックのばか。

7.21.2024

[film] Fly Me to the Moon (2024)

7月13日の晩、Curzon Aldgateで見ました。
監督は”Love, Simon” (2018) - ❤️ - を撮ったGreg Berlanti。

1960年代のアポロ計画のbehind the sceneもの、というと最近では”Hidden Figures” (2016)などがあり、なんか清々しいやつだったがこれもそうで暗くなくて、でもこっちは実話ではなくフィクションの恋愛もの。だけど戦争パイロットあがりの指揮官とか、フェイク映像作成を依頼される映画監督 - Stanley Kubrickは依頼されたそう - とか、実在のモデルがいないこともないそうな。

NYの広告業界でクライアントの男共をがっちり掴んでお金と共にディールの底に落っことす名人Kelly Jones (Scarlett Johansson)のところに大統領直轄の怪しげなWoody Harrelsonが寄ってきて、失敗が危ぶまれて各方面から評判のよろしくないアポロ計画 - 特に11号の月面着陸 - をパブリシティを駆使して成功にもっていってほしい、と依頼がくる。USAとしてはここで失敗して宇宙をソ連に持っていかれるわけにはいかないのだ、と。

彼女と助手のRuby (Anna Garcia)が現地に赴いて、技術統括のCole Davis (Channing Tatum)となんだあいつは? 割り込んでくんな! ってぶつかったり口論したりしながらもKellyたちは反対派の政治家を順に味方にしていったり、時計やシリアルの派手な広告キャンペーンを打ったり、上からの指令で着陸シーンを撮影すべく強引にカメラを搭載させたり、更には月面着陸が失敗した時に備えて差し替え用の着陸シーンを撮るべく極秘で映画監督(Jim Rash)とクルーとセット一式を揃えたり - こればかりはColeに言えるわけないことなのでごめんね、って思いつつ…

アポロ11号発射から月面着陸までがクライマックスであることは確かなのだが、ストーリーの肝は小競り合いしながら互いに惹かれていって止まらなくなるふたりにあって、政府からの依頼とはいえ、自分の目標達成のためにColeたちを好きに利用しまくってだんだん後ろめたくなっていくKellyと、1号の事故で犠牲者を出してから真剣に取り組んでいるとこに広告なんてどうでもいいのにこの娘らときたら… のColeが、互いに好きになっちゃったものをどうしてくれよう… っておかしくなっていく様が素敵ったらない。

Scarlett JohanssonもChanning Tatumも、こんなふうにどこかになにかが引っかかって手に負えなくなっていくときのやるせなさやりきれなさ、いやでもそれでも…. といった切なさが滲んでくる繊細な演技のできる人たちなのでたまんなくよいの。このふたりが横に並んでいるだけで、になる恋愛映画、最近そんなになかったかも。

彼らの仕事、ミッションは、優先順位は、ロケットを無事飛ばして飛行士たちを月面に立たせてマーキングして地球に帰ってこさせることにあるのに、USA万歳! なのに、そんなことよりまずわたしをこのいろんな縛りと重力から解いて月までふっとばしてくれないだろうかー、と。

発射直前になって搭載したカメラがうまく動作しないことがわかったり、予備のはずだったフェイクを成功失敗関係なく流す、と政府側が勝手に決定しちゃったり、どうなるどうする? のはらはらの連続も楽しくて、そこに基地周辺をうろついていた不吉な黒猫がやはり….

そして世紀の大仕事が片付いたらKellyはそこでさようなら、になるしかないのでー。

Aretha Franklinの”Moon River”とかSam CookeとかDinah Washingtonとか、流れてくる音もふんわかと月に飛ばしてくれそうなやつばかりの素敵なのばかりで。

次はメインでがんばる人達よりも、雑用とか使いっ走りばかりでひいこら走らされてばかりの若者たち - ”Hidden Figures”にもいたよね - を真ん中に据えたドラマをみたいかも。

7.20.2024

[film] Despicable Me 4 (2024)

7月13日、土曜日の午前、BFI IMAXの2Dで見ました。邦題は... なくてもいいか。

IlluminationのGru (Steve Carell)ものとしては4つめ、Minionsも含めたフランチャイズとしては6作目めの、となる。

基本的には自称悪い奴らだった連中がやってきて、それを更に自称悪い奴らが悪いやり方でやっつけたり懲らしめたりしてやれ、と絡んできて、なんかわけわかんなくなるけどみんな幸せならいいわ、になる。そういうのも含めたスケールがでっかいんだか狭いんだか不明な世界の小競り合いとナンセンスと変態のパレードが楽しい – 悪を極めようとすればするほどなんでか幸せの底に落ちてしまう(悪と幸せは両立する) - のだが、ここ数作はさすがに詰めこみすぎて飽きてきたかも。ひとつ前の”Despicable Me 3” (2017)でGruの弟を出してきたあたりから。

今回のはGruが高校の同窓会でかつてのライバルMaxime Le Mal (Will Ferrell)と会って、MaximeはタレントショーでBoy GeorgeネタをGruに先にやられたことをずっと根にもっていて、ゴキブリ人間に変身しておまえに復讐して世界も征服する! って燃えあがるのだが突入してきたAnti-Villain League (AVL)に逮捕されて牢獄に入れられる - ものの、簡単に脱獄してしまう。みんなの嫌われ者のゴキブリをメインの悪役にしたのはわかるけど、ゴキブリだめな人にはきついかも。

Gruのとこにはこれまでの娘3人に加えてGru Jr.が生まれていて幸せそうなのだが、Maxime脱獄の件を知らせにきたAVLの勧告でメイフラワーという郊外の裕福な住宅街の谷間に建つセーフハウスに送られ、置き場のない大量のミニオンズはAVLの本部に送られる。

Gruの隣家の金持ち娘Poppy (Joey King)はずっと悪党に憧れていて、隣にそれっぽく怪しいGruが来たので彼に頼んで悪党学校に空から侵入して変なアナグマを手に入れるのだがその騒ぎでGruの居所がわかってしまい、Maximeが現れてGru Jr.をさらっていくのと、AVL本部のミニオンズの方は志願者を募って変態させたFantastic FourとかX-Menみたいなメガミニオンの5匹 – ほぼ妖怪みたいであんまかわいくない - が登場して暴れたら被害が大きくなりすぎたので退かせたのを再び呼びだしてみんなで追っかけて … こんな具合で、わかりにくい… というのではないのだが、いろんなのがわらわらいっぱいやってきてやや飽和状態になっているような。もちろん、ミニオンズがそうであるようにいろいろ湧きまくってみんな勝手なことをやらかすので収拾がつかなくなる、というカオスが魅力のシリーズではあるのだが、それにしてもあまりに散漫すぎはしないか、と。

もっとシンプルにDr. Nefarioがゴキブリ撃退の薬を作って撒いたら失敗してかえって大増殖して、そいつらとミニオンズが関ケ原で正面衝突をする、そんなのでよかったのになー - 作画は大変だろうけど。今回三人娘とLucyとDr. Nefarioがあんまり活躍しないのもつまんなかったかも。家族みんなしてがんばると”The Incredibles”みたいになっちゃうから?

今回ミニオンズはバナーナに執着しないのもなー。ポップコーンのはおもしろかったけど。今回はポモドーロー、とか、パストラミー、とか、アンティパストー、とか、これ前から言ってたっけ? (極めてどうでもよい)

最後にMaximeだけじゃなくて過去の悪役も含めてみんなで"Everybody Wants to Rule the World"を大合唱するのだが、こんなふうに肩組んで笑って歌えたらいいよね。あたしゃ大統領選が心配で心配で - 意識混濁しそう。

7.18.2024

[theatre] Alma Mater

7月9日、火曜日の晩、Almeida Theatreで見ました。
作はKendall Feaver、演出はPolly Findlay。

“Alma Mater” – アルマ・マーテルっていうのは「母校」のことよね、かつてどこかの学校の校歌にあった気が.. した。

舞台は四角でベンチくらいの寄りかかって座れる高さの台で囲われていて、学校のピロティのようでもあるし、戦いのリングのようにも見えるし、奥には創設者だろうか - 女性の肖像画が掛かっていて、劇が始まる前にはそこで俳優/登場人物たちが寛いで談笑している。

英国のどこかの全寮制の(たぶん)カトリックの大学で、最初に80年代、ここに女子学生が入りだした頃のセクハラ系のいたずら(女子の部屋に卑猥ななにかがー)が笑いと共に軽く振り返られて、時代はいま – より少し前かな。

その最初の頃に入学した女子学生のひとりであるJo (Justine Mitchell)が同学で最初の女性学長をしているカレッジの寮で、新入生歓迎パーティーの晩、新入生のPaige (Liv Hill)が同学年のGerald (Liam Lau-Fernandez)にレイプされた、と3年生のNikki (Phoebe Campbell)に告げる。Nikkiはあってはならないことだから学校本部に言いに行こう、とPaigeを引っ張るのだが、彼女はいやだできない、とうずくまってしまうので、NikkiがJoのところに行って報告すると、Joは動揺しつつも学校の規定にある通り、本人にここに来て報告させるよう返すと、Nikkiは傷ついている本人にそんなことできるわけないでしょ、と怒って、埒があかないので掲示板サイトにレイプ被害を報告する – と同様の#MeTooポストが山のように連なってしまい…

JoはChairmanのMichael (Nathaniel Parker)とその妻でJoの親友でもあるLeila (Nathaniel Parker)とこの件の対応方針を巡って議論するのだが、学校として対応しなければいけないこと/すべきこと、その外側で一人歩きを始めて膨らんでいく事件のこと、これまでの学校の伝統とかカルチャーとこれから、などがぐじゃぐじゃになってJoの態度も対応も二転三転してしまう。

そこに例えば80年代はもっと大らかだったのに、みたいなMichaelのにやけたコメント - 冒頭の事件も参照 – もあり。更に加害者の母親(強め)も現れて彼の将来もあるんだから投稿を消すように言ってきたり…. そして被害者に対するケアも加害者への追求も舞台上には一切出てこない。

伝統を重んじたり対面を気にする傾向の強い組織が、こういう事態になった時にいかにその脆さやみっともなさを露わにするのか、という内側の政治劇が中心で、毅然と立ちあがるNikkiや被害者のPaigeの影がやや薄められてしまうなー、と思っていると加害者の親がかき混ぜに来て、結果としてはやや焦点のぼけた、コメディに見えなくもないものになってしまったのは、これでよいのか? 学校関係者の会話にクローズアップして緊迫した法廷劇のようにした方が伝わったのでは、と思う他方で、ここに描かれたような全体像がはっきりといまの学校の現実を反映しているのだとしたら…  というその先に「母校」が。ここは人を育てる機関で、ここで育ったというのはこの先ずっとついてまわるわけでー。劇のポスターは女性が創設者の肖像画に真っ赤なスプレーを吹きつけているイメージなのだが、でもこのシーンは劇中では描かれない。

80年代~90年代のバブリーで大らかな時代を過ごした当時の若者がじじいとなって今の社会の中枢のほうに寄って、割としょうもないことをしたりやったりが(もうとうに)始まっているという感覚がすごくあり、同時に被害者の人権はぜったいに守られるべきというその線の周りでなんでこうなるかな?(怒)という事態は続いている。これは時代や世代のせいにできるものではないし、許されることではないしー。

7.17.2024

[film] Simple comme Sylvain (2023)

7月8日、月曜日の晩、Curzon Bloomsburyで見ました。

英語題は”The Nature of Love”、2023年のカンヌの「ある視点」部門で上映され、今年のセザール賞でBest Foreign Film(カナダ映画)を受賞している – というとすごくシリアスな映画を想像してしまったのだが、ものすごくほんわかしたrom-comだった。

作・監督はカナダのMonia Chokriで、映画の舞台もケベックなのでフランス語。
市民講座のようなところで哲学 - プラトンとか古典よりっぽい – を教えているSophia (Magalie Lépine Blondeau)は十年以上一緒にいる夫のXavier (Francis-William Rhéaume)とそこそこ裕福な暮らしを送っていて、友人たちのサークルも同様、そこそこ知的に楽しくだらだら日々を過ごしていて特に不満もない – という不満が少し顔に出ていたり。

ある日、Sophiaが古くなっているのでリノベーションを考えている彼らの山小屋に行ったときに、地元の大工のSylvain (Pierre-Yves Cardinal)と会って、彼の粗野だけど力強いものの言い方や動作に惹かれて、彼もSophiaに惹かれて、あっというまに燃え広がり、要はふたりは一瞬で劇的に恋におちてひと晩一緒に過ごして、夜が明けて冷静になってみれば夢だったのかも熱病だったのかも、とか思うのだがどうもそうではなくて、Sylvainからは君のことを忘れることができない、と電話がくる。

ふつうに『チャタレイ夫人の恋人』とか、映画だと“All That Heaven Allows” (1955)などのまじめかつシリアスな階級格差モノの展開を想像してしまうのだが、そちらには向かわずに、TVみたいに極端なズーミングとか、所々に明るい(ややわざとらしい)ずっこけを盛りこんで、SophiaとSylvainの間のギャップ – これまでの生活環境、お互いの家族やサークルの違いからくる態度や指向のそれ - を明らかにしつつ、なんでこんなことになっているのか、それでも一緒になりたいのか、いまの関係をどうするのか、などを大きな渦巻や事件を持ちこまずに静かに考えさせていくような内容になっている。

それはSophiaが哲学の講師をやっている、というのもあるのだろうが、「愛とは」をずっと考えたり問いたりしてきたであろう彼女の惑いと決断、難しいことはわかんねえけど、と言いながらそれをちゃんと受けとめて自分の考えや想いを返すSylvainと、Sophiaとずっと一緒にいるので彼女の考えとその先が十分にわかっているXavierと、そういう人達の間でこうなってしまった愛がどこに向かうのか - 結論はこうなるしかないよね、というものになっている。大きな破綻も破局もない、誰も泣いたり死んだりしない、という点ではつまんない、のかも知れない。でも横たわるギャップはどこから来るのか、とかそれらをどう乗り越えるのか、を真ん中に置かずに、英語題の「愛の本質」とは? に静かに沿っていくとこうなるのよ、ってSophiaは確信に満ちて語るだろう。

ただ、このストーリー展開もキャラクター設定も、このテーマを軸に考えられて置かれているので、こんなうまくいくかよ、っていうのは誰もが思うところ - 本当にSylvainみたいなよいこがいたとしたらとっくに誰かと一緒になっているはず、とか – で、でもファンタジーとかSFと思えばいいんじゃないの、とか。

これ、男女の設定が逆で、男性側がSophiaで、女性側がSylvainだったら割と誰の目にもすんなり... に見えてしまうのだとしたら、それもまたThe Nature of Loveのありようを問うなにか – Natureとは? としてやってくるのではないか? とか。


7.16.2024

[film] The Conversation (1974)

7月7日、日曜日の昼、BFI Southbankで見ました。
50周年記念のリストア版がここだけじゃなくて英国中でリバイバルされている。邦題は『カンバセーション…盗聴…』。

丁度Francis Ford Coppolaの新作 - ”Megalopolis”の予告がIMAXとかでかかり始めていて、この爆裂感(はったり)はこの作品あたりから繋がっているのではないか、とか。

“The Godfather” (1972)と”The Godfather Part II” (1974)の間に撮られて、やがて”Apocalypse Now” (1979)へとなだれ込む彼の70年代作品群のなかで唯一参照する原作のない、パーソナルかつ最も生々しく見える一本。

冒頭、サンフランシスコのユニオンスクエアを俯瞰する構図からカメラが下りていって、やがていろんな角度からのカメラ… ではないマイクロホンがそこを歩いていく若いカップル(Frederic Forrest, Cindy Williams)の会話を追おうとしていることがわかる。

そのチームを指揮しているのがHarry Caul (Gene Hackman)で、彼はそうやって録られた素材を仕事部屋に持ち帰るとメンバーのStan (John Cazale)らと一緒に、3台のオープンリールデッキを使ってフィルターして補正して重ねたり解像度をあげていって、なんとか彼らが話している内容を聞き取ろうとする – オープニングからここまでだけでめちゃくちゃスリリングでおもしろくて何度でも見たくなる。

盗聴のプロの世界では実績もありスター扱いされている彼はどこかの組織に依頼されてその結果をRobert DuvallとHarrison Fordのいるオフィスに届けにいくのだが、きな臭い、ハラスメントぽいなにかを感じて報酬を受け取らずにその場から去る。

ここから先は、カップルの周辺に起こるかもしれない危機と、それに対する罪の意識 – そこにこれまで自分がやってきたことが全部重なって、近寄ってくる女性たち(Teri Garr, Elizabeth MacRae)も信じられなくなって、教会に告解しにいったりしてもだめで、やがてカップルの会話にでてきたホテルの部屋に行ってみると… というのと、その探索の過程で自身の行動も含めすべて盗聴されていることを知った彼は…

仕事人としての自分の経験や感度が研ぎ澄まされていけばいくほど、自分の足元が崩され(or 自分で崩して)身動きがとれなくなっていく恐怖を44歳の誕生日を迎えるHarryの姿 – よれよれではっきりとかっこよくない - を追いながら極めてリアルに描いていて、なにかに憑りつかれて暴走していく個とそこに立ち塞がって潰しにくる集団組織、というのはコッポラ作品のテーマのひとつではあるが、それにしてもなにもかも静かに怒涛すぎる。

ここから50年経って、人々の会話はSNSでもチャットでもスーパーで簡単に買える技術の組合せで誰でもなんでもいくらでも「共感」や「Like」を理由に晒したり掘ったり探ったりができるようになり、どう守るかよりも何を守るか - 晒されて騙されたり攻撃されないようにするかが重要で、その反対側で、やたら上からは「解像度」みたいのを要求されてうるさいし、「陰謀」なんていくらでも作られちゃうし、結局なにもかも上の方の思う壺の世界になってしまったよ – 壁や床板はがして剥きだしにしても、なにしたってムダだよ、と。

そして、この状態になった世界でコッポラが繰りだしてくる”Megalopolis”の像がどんなものになるか、楽しみでしょうがない。


Interstellar (2014)

7月7日、七夕の日曜日の晩、BFI IMAXで見ました。IMAX 70mmでの上映。

BFI IMAXができて25周年かなんかで、過去のIMAXで当たったヒット作などを単発でリバイバルしていて、この作品も他のChristopher Nolan作品と並べて上映されているのだが、これだけはなんか人気らしく、発売日にチケットを取りにいってもすぐ売り切れている状態が何回か続いていてようやく。

IMAXではない70mm版は、前回いた時の2017年にPrince Charles Cinemaで見て、この時もたしか満員になっていた。

わたしもChristopher Nolan作品のなかではこれが一番好きで、たぶんもう4回くらい見てて、飛行機でも見るのがなくなった時はついぼーっと見てしまったりする。

何回みても隅から隅までなにがなんだかわかんないのに、なんとかなるじゃんー、とか、これはわかんなくてもいいやー、みたいになる清々しいいいかげんさに溢れている。

地球が危機になって、NASAの移住計画のために宇宙探査の旅に出るのと、当然いろんな危機や困難がやってくるのだがMatthew McConaugheyがあの調子で乗り切っていく - 歳をとらないのもその一部 - のと、結果としては二組の白人父娘と数式と詩だけでほぼぜんぶ解決しちゃうの。パイプオルガンがきらきらと降り注いできて。とんでもなく傲慢だし強引だし適当に見えるしなんなのこれ? なのに最後の方はなんでか泣きたくなってしまったりする。人類が救われたから泣くのではなく、ずっとひとりで待っているAnne Hathawayのこととか。

本棚から本を落っことしてモールス信号とか、縦の重力(?)前提で成り立っているのもふざけんな、のひとつで、本棚がなかったりしたら棚の外に、横にして積んでいたら破滅しちゃうのかよ、とか、鈍器本を落として床が抜けたらどうするのか、とか、腕時計持っていなかったら - 持ってないよ - だめなのか、とか。

7.15.2024

[film] Àma Gloria (2023)

7月6日、土曜日の晩、BFI Southbankで見ました。気がつけば上映が終わりそうになっていた。

邦題は『クレオの夏休み』。日本でも公開が始まっている?
子供が辛そうな顔で泣いたりする映画って、辛くなるので見たくないのだがー。

監督はMarie Amachoukeli-Barsacq、プロデュースは“Portrait of a Lady on Fire” (2019) - 『燃ゆる女の肖像』や“Petite maman” (2021) - 『秘密の森の、その向こう』 を手掛けたBénédicte Couvreurが - というのが見ることにした理由。

パリにシングルファーザーのArnaudと暮らす6歳のCléo(Louise Mauroy-Panzani)が眼医者に行って自分用の眼鏡を作ってもらうのが冒頭で、これからはいろんなことがもっとよく見えるようになるから、と。

家ではナニーのGloria (Ilça Moreno Zego)が家事とCléoの世話をぜんぶ仕切っていて、Cléoも朝から晩まで彼女にべったりなのだが、ある日突然Gloriaのママが亡くなったので彼女の国 - アフリカのカーボベルデに戻らなければいけなくなる。Cléoが戻ってくるの? と聞くともう戻れない、というのでCléoはお先まっくらになって見送りの後も塞ぎこんでしまうのだが、パパが夏休みの間Gloriaのところに行っておいで、というのでCléoは喜んで飛行機のひとり旅にでて、Gloriaと再会する。

Gloriaは前とおなじくやさしいGloriaだったが、家には彼女の娘でお腹が大きいFernanda (Abnara Gomes Varela)とその弟ではっきりとCléoに敵意を示してくるCésar (Fredy Gomes Tavares)がいる。GloriaはもうCléoのことだけを見て遊んでくれる人ではなく、母が亡くなった後は彼女の子供たちの面倒も家事もぜんぶやる必要があってそんな余裕なんてなさそうだし、その子供たちからすれば、Cléoがなんでこんなところに現れてGloriaにくっつこうとするのかまったく理解できないだろう。

島の言葉や人々、漁でとれた魚とか火山とか海とか、Cléoにとって初めてのびっくりすることも多いのだが、これまで一緒に遊んでくれるママに近い位置にいたGloriaのまったく異なる側面を見ることになった – それによって独りで考えこむことの方が多くなるのと、忙しそうなGloria以外には誰も話しかけてきたり遊んでくれたりしないので、自分はこんなところになにしに来たんだろ? なにやってるんだろ? になる。(そんなふうに泣きたくなるかんじは、ものすごくよくわかるよ。いまだに)

やがて(産みたくないって泣いたりしていた)Fernandaには赤ん坊が生まれてGloriaは更に忙しくなってしまうのと、Gloriaが留守の隙に彼女のお金をくすねたCésarのことでGloriaに怒られてしまったCléoは泣きながら海のほうに…

監督自身がナニーのいる家庭で育ち、大人になった今でも彼女との関係は続いているそうなのだが、母娘関係とはまた別に、ナニーと子の、ふたりだけの - 単にお金で雇われただけではない関係というのがあって、そういうのを描いてみたかった、と。あとはナニーの側の事情 - 国に家族を置いて出稼ぎで先進国に来ている - などについても。

Coming-of-ageものとして、Cléoの辛さもGloriaの家族ひとりひとりの大変さも等しく描かれているので無理がないのと、ここに出てくる全員に父も母もいないんだな、って。Cléoのママはいないし、Gloriaもママを失うし、姉弟にはママがいない状態だったし、Cléoのパパは飛行機を手配するだけでなんもしないし、Gloriaに夫はいないし、Fernandaの赤ん坊の父親は誰だか示されないし。父母が、家族がいればすべて解決するとは思わないが、いなくてもこんなふうになんとかなるもの、というのを悲観も楽観もなく描いた - 帰りの空港でのCléoの顔がすべてを語っていて、よかったねCléoもGloriaも他のみんなも、になるの。

あとは、Cléoの眼鏡とほっぺたと髪の毛が漫画みたいに素敵で、監督は彼女を事務所の近所の道端で見つけたらしいのだが、80歳くらいの老婆にみえた、って。

7.14.2024

[theatre] Mnemonic

7月6日、土曜日の午後、National TheatreのOlivier theatreで見ました。

Simon McBurneyと彼のリードするComplicité theatre companyによる1999年の劇の再演。記憶がどう我々の将来を広げたり縛ったりするか、というテーマ故、単なる再演ではなく、911や Brexit、Covidやウクライナ戦争の件も盛りこんで再構築した新バージョンになっているという。イスラエルによるパレスチナの虐殺の件は格好の材料になったと思うのだが間に合わなかった? のは少し残念。

各シートには飛行機で配られるようなアイマスクと麻袋に入った木の葉(ほんもの。萎れてきたので押し葉にしてる)が一枚置いてある。

まず舞台にKhalid Abdallaが現れて、上演にあたっての注意事項などを語り始めた、と思ったら気がつくとテーマの核心のようなところに入り始めていて、以降、彼は俳優としてだけでなく語り部のような形で中心にいる。

記憶は歳をとって頭の奥のどこかにしまわれたまま消えてしまうのではなく、海馬とニューロンの機能 - 記憶のシナプス結合によって、過去と未来はダイナミックに結ばれて過去の記憶は常に更新されて今に作用する創造的なものなのだ、という説を「感じる」べく、アイマスクをして葉っぱの葉脈に触れながら自分の両親、彼らのそれぞれの両親、そのまた先の先祖まで辿ってみてください… って文脈をちょっとずらしたら宗教の方にいきそうなことを指示される。

という、過去から現在に流れていく(同時に絶えず変わっていく過去を傍らに抱えていく)時間のなかで我々はどこから来てどこに向かうのか(or 我々の記憶はどんなふうに更新され構成されていくのか)という問いをアルプスの山奥で発見された5000年前のアイスマン、失踪した父を探してヨーロッパを彷徨う娘Alice、どこかで見た気がする古い木の椅子、などのイメージと病院のベッド、駅のホームなどの場所 - これもまたイメージだが - を重ねたりしながら循環していく。そのめくるめく運動そのものが神経と記憶のそれに連なっていくような。

なんか90年代のポストモダンの頃にあったメタ演劇のようで懐かしかった。こういうのって世界観的な視座とか判断軸に万能薬的に割り込んでくるとうっとおしいし胡散臭い - 森羅万象なんにでも口を出してくる脳科学者みたいに - のだが、場面転換の鮮やかさなどで丸めこむ手前で次に切り替わったりするスピード感とか装置とかはよかったかも。軽すぎない? って少し思ったけど。

でもやっぱり今ならAIなどが、人々 - そこで想定されているのはどこの誰か - の記憶をどう解析して小さめの「歴史」として織りこんでいく - 社会のどこにどう? - のか、それがどうやって陰謀論とか歴史の捏造などに撚りあわされて拡散されていくのか、つまり人類はこんなふうに劣化→破滅に向かっていくのだ、というのをこの流れの中なら描けると思うので、ダーク・バージョンをやってほしいわ。

あと、例えば、「我々はどこから来たのか?」みたいな大風呂敷な問いの立て方から見直さないと、すぐ丸めこまれて都合いいように使われちゃってやばいよなー とかそういうのも思った。これらも90年代だったらそんな深く考える必要なかったやつかも。

あと、海馬くんなどが偉いことはわかるのだが、歳をとってものすごく思うのは自分の記憶ってなんでこんながらくたばっかしなのか、って。創造性なんてないしリサイクルできるとも思えないくらいのゴミとかカスみたいなやつばっかりで、肝心なことはいつもぜったい出てこないし。これでMnemonic、なんて言われてもきっとごめんなさい、になる。


サッカー、フラットの外が異様にやかましく、あんたらそこまで騒ぐのかー、だった。あんなふうに騒げるのっていいなー。明日の会社はお通夜だろうなー。

7.13.2024

[film] Jam (2023)

7月6日、土曜日の午前11時にCurzonのAldgateで見ました。
英語題は”Sleep”。 週末の11:00開始って結構早い時間帯なのだが、コーヒーがついていた。

監督はこれが長編デビュー作となるBong Joon-hoの弟子らしいJason Yu。ホラーのようだが眠りがテーマらしいのでやかましくなさそうだし、そんな血まみれになることもなさそうだし、くらい。 以下、たぶん少しネタバレしているかも。

昨年スキャンダルで自殺してしまった(のは見た後で知った。痛ましい)Lee Sun-kyunがなんかの賞を貰ったこともある俳優のHyun-suを演じていて、妊娠している妻のSoo-jin (Jung Yu-mi)とポメラニアンのペッパーと暮らしていて、アパートの壁にかかっている板には「どんなことでも2人で一緒に乗りこえよう」みたいな標語が書いてあり、Soo-jinがHyun-suをやや引っ張っているかんじがするものの仲はよさそう。

ある晩寝ていたHyun-suがむっくりと起きあがり「自分の中に何かいる… 」と呟いたあたりから就寝中の彼の挙動がおかしくなり、自分の首をがりがり引っ掻いて血まみれにしていたり、窓の方に歩いていって開けて飛び降りようとしたり、冷蔵庫を開けて生肉生魚を食べていたり、そしてペッパーが …. どう見てもおかしくなってきたので一緒に医者に行ってみると睡眠障害と診断されて薬を貰って寝袋に入って動けないようにしたり、生まれてきた子供に手を出されるのだけはなんとかしないと、とか。

それとは別に最近住む人が変わった真下の部屋に暮らすおばさんと少年が訪ねてきて、おふたりおさかんなのは結構なことざんすがもう少し音量を、とか言われ、そういえば、と彼らの前に下に住んでいたおじいさんもよく文句を言いにきた、というのがわかる。

あと、Soo-jinが実家に暮らす母に相談したらお札とか曼荼羅みたいなシートとかを持ってきて、祈祷師まで連れてきたりするので、これは自分達ふたりで解決することなのだ! ってきれたり。で、きれつつも最後はそこにすがるようになってしまったり。

流れとしては、幸せで健康な夫婦、明るい家庭を目指すふたりのうちのひとりに眠りの闇の向こうから何かがやってきて、それはSoo-jinの強迫観念に近い「よい夫婦」へと向かうエコーがもたらしたなにかだった… という辺りがじりじり湧いて形になっていくのではないか、と思っていた。で、それが浮かびあがったところでSoo-jinは何とどう対峙するのか、それに勝つ、あるいは負けた時、ふたりの身に、或いは赤ん坊に何が起こってしまうのか、など。

その可能性を引き摺って維持しつつ、結局はオーソドックスでトラディショナルな憑きものモノになってしまったのはちょっとつまんなかったかも。自分の中にいた何かは自分や妻が生み出した観念的な何かではなく、本当に外にいた邪悪なやつだった、と。あれならHyun-suが自分だけ別のアパートに引っ越そうか、と言ったときにそうしておけばなんとかなったかもしれない、とか。あの時間が来てしまったとき、いったい家族に何が起こったのか、を見たかったかも。

あと、なんでSoo-jin ではなくHyun-suの眠る頭の中ででこれが起こったのか、ジェンダーの役割観点で考えてみるとなかなか識閾下の厄介なあれこれが見えてくるのかもしれない。眠るHyun-suの頭に巣くっていたのはごりごりの…  Hyun-suのあののっぺらとした声とか。

最小限の出演者で、限られた場所設定で、ここまでいろんな可能性や矢印を示してはらはら、はあまりしないけど考えさせてくれたのは楽しかったかも。それが眠り、という毎日起こっているのに自分ではあまり制御したり、どうしたりすることのできない何かに根ざしている、というあたりも。だからあの当たり前のオチはなー。

7.12.2024

[film] MaXXXine (2024)

7月5日、金曜日の晩、CurzonのAldgateで見ました。

前の晩に続いてのR18映画で、ふつうこういう血みどろスラッシャーは見ない見れないのだが、これは予告がかっこよかったので大丈夫かも、と思って見た。そしてじっさいだいじょうぶだった。80年代B級カルトの風味たっぷり。

Ti West監督、Mia Goth主演による“X”シリーズの、X (2022)/未見 – “Pearl” (2023)/みた - に続く三番目となる最新作。Mia Gothがかっこよければよいやつで、実際とってもかっこいいから。

昔の家庭用モノクロフィルムで、オーディションごっこ(か本物のか)をやっている女の子 – Maxineの幼時の姿が映されてから、舞台は1985年のLAにとんで、映画のオーディションに現れたMaxine Minx (Mia Goth)はアダルトフィルム業界でのキャリアについて聞かれ、それが何か? って堂々と返してElizabeth Bender (Elizabeth Debicki)が監督する新作”The Puritan II”の役を得る。

その頃のLAでは”Night Stalker”と呼ばれる連続殺人鬼が話題になっていてきな臭いのだが、Maxineが前からやっている覗き部屋のバイトをしていると、それを覗く黒手袋の客がわなわなしていたり、彼女が出演していた昔のビデオが送られてきたり、いろいろ不吉で変なことが起こって、やがて一緒につるんでパーティに行っていた友人がひどい状態 – 頬に悪魔の刻印つき – の死体で発見されて、なんなのこれは? になって来た頃に見るからに怪しくてきな臭い私立探偵(Kevin Bacon)に付きまとわれるようになり…

LAのシーンは埃っぽいネオンで常に照らされて浮かびあがっていて、ダウンタウンも貸しビデオ屋もHollywoodの看板も80年代のかんじ(映画やPVに見られるあれ)に統一されていて、ZZ Topの”Gimme All Your Lovin'”から始まる80’sの音楽たちがそれらに反射して眩しくつっかかってきて、”Psycho”(1960)のBates Motelのセットには怪しい人影があり、そういう中で善いも悪いもどんなのもやばい目をしてうろついている。ぜんぶあやしい。

そのうち付きまとってくる私立探偵とMaxineの対決の時がきて、いいかげんにしろよなんなんだよベーコン野郎!(実際こいつなんなのかよくわからず) てかんじで焼きいれて潰して、その後、最後に現れたのは... ここも大変80年代っぽい - てきとーなやり口満載で、気がつけば束になっての銃撃戦でクイックにばたばた撃たれたりえぐられたりくりぬかれたりミンチになったり。隅々まで考えてなくて血なまぐさいばかりなのに、こんなところに感じてしまう親しみや清々しさってなんなのか。

全体を通じてやはり突出しているのはMaxine = Mia Gothの一貫してざっけんじゃねえよの不機嫌かつ不遜な顔と態度で、それを後ろから氷のようにクールなElizabeth Debicki - かつてのSharon Stoneのイメージかな – が支えていて、あの時代にかっこよかった女性たちの像が並ぶ映画のようにも見える。

ポルノ女優だろうが親がどうだろうがドラッグやってようがあんたには関係ないし、上っ面がすべてなんだ覚えとけぼけー、っていうのが80年代なのだが、ここまで正面から全開でやられるとたまんない。New Orderの”Shellshock”のイントロが鳴り始めたたとこで鳥肌がたったわ。

もう続編は”MaXXXXine”でいいし、Elizabeth Debickiになんかやらせてほしいし。劇中で作られていた”The Puritan II”を見せてくれるのでもいいかも。

7.09.2024

[film] Kind of Kindness (2024)

7月4日、木曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。35mmでの上映だった。英国ではR18指定。

邦題は『憐れみの3章』。Yorgos Lanthimosの”Poor Things”(2023) に続く新作。予告を見てもぜんぜんおもしろそうじゃなかったところに164分、と聞いて引いて、どうしようか… だったのだが前作がオスカーを獲ったりしている有名なやつなので見ておいたほうがよいかー くらい。(見なくてもよかった)

3章に分かれていて、いつもの(なぜか馴染みのように見えてしまう不思議)Emma StoneとJesse PlemonsとWillem Dafoeと他にもいるけど、それぞれが異なるシチュエーションで異なる役柄で出てくる。各章のタイトルは"The Death of R.M.F."、"R.M.F. is Flying"、"R.M.F. Eats a Sandwich"で、Yorgos Stefanakosの演じる”R.M.F.” – この人物の役名だけは3章通して固定されている – が少しだけ登場するがパイロットだったり死体だったり、単なるなにかの象徴としているような。

Robert Fletcher (Jesse Plemons)は妻から読む本から何からなにまで豪邸に暮らす経営者のRaymond (Willem Dafoe)の意向に沿ってきちんと調達されコントロールされていて、両者はそれに従って生きることに快楽を感じてきたのだが、交差点で車に乗ったR.M.F.に車ごとぶつかって殺せ、というのだけは応えられないでいたら、すべてを失って途方にくれて… "The Death of R.M.F."

警察官のDaniel (Jesse Plemons)は海洋生物学者の妻Liz(Emma Stone)の失踪を嘆いていたが、彼女はヘリコプターに乗ったR.M.F.によって救出されて戻ってきて、でも彼女は別人のようになってしまっていたので挙動不審になったDanielは停職処分をくらって、Lizが父に語った夢の世界では犬が人間を支配していて、LizはDanielの言うことになんでも従うので.. "R.M.F. is Flying"

カルト教団の信者であるEmily (Emma Stone)とAndrew(Jesse Plemons)は、すべてを癒して死者を生き返らせたりできる能力を持つ女性を探したり試したりしていて、Emilyは別居中の夫に会ったりして、彼に薬を飲まされてレイプされた後で「汚れている」って教団を追われて… "R.M.F. Eats a Sandwich"

こんなふうにあらすじを書いているだけでわけわかんない、というかどうでもよくなってしまうのだが、既にある/あった関係 - その最初からなんか変 - の、支配したりされたりの糸が捩れたり壊れたりして、その周辺で疑念と不信が渦を巻いて被虐(M)と加虐(S)の快楽をめぐるピンポンが始まって… 「まとも」な人はひとりもいなくて、でも「まとも」とか「普通」なんてないのだ、ということを今さら言いたいわけではないし、もちろんそこに「憐れみ」も”Kindness”も欠片もあるようには思えない。

ある特定の、特殊な関係 - 使役とか服従とか動物とかカルトとか - のなかに第三者的ななにか - 「死」もそうかも - が挟み込まれたり持ち込まれたりすることで、変な方角 - その人は本当にその人なのか、その人でよいのか、なにを以て証明するのか、等 - に揺れたりブレたりこじれたりするさまとかその報いとかを描こうとしているようなのだが、”The Favourite” (2018)や”Poor Things”にあったデザインされたそれなりの外壁がないので、ただ非道でなんか気持ち悪いなにかが晒されているだけ、のように見えて、そこに”Kindness”とか言ってみたところでなんになるのか。たんに悪趣味ねえ、で終わってしまうのではないか。 もちろん悪趣味を晒すのがいけない、とは言わない、けど悪趣味を悪趣味たらしめる何か - それが例えば、”Kind of Kindness”だと思うのだが - が明示されないのでただのげろげろ漫画みたいになっているような。

音楽はピアノをヒステリックにカンカン引っ叩くのと荘厳ぽいコーラスのが交互にやってきて、でも結局一番残るのは(予告でも流れる)Eurythmicsの”Sweet Dreams”だったり。

全体としてはモダンアートのすごい外れたのに当たってしまった時のかんじというかー。

[film] An American Werewolf in London (1981) +

7月3日、水曜日の晩のBFI Southbankは、まず”Griffin Dunne in conversation”というトークイベントがあり、その後に彼の名を有名にした”An American Werewolf in London”の上映があった。

”Griffin Dunne in conversation”

最近出版された彼の家族のメモワール本 – “The Friday Afternoon Club: A Family Memoir”の表紙は彼の家族写真(12人いて、やや合成っぽい)で、その中でまず目に留まるのは彼の叔父の妻であるJoan Didion - Griffin Dunne自身の監督によるドキュメンタリー - ”Joan Didion: The Center Will Not Hold” (2017)もある – の姿なのだが、恋人に殺されてしまった妹のDominique Dunneの死から始まるこの本 – まだぱらぱら程度 - を紹介する形でいろんなエピソードを語ってくれた。日本でも翻訳されないかしら。

“The Friday Afternoon Club”はDominiqueがLAの自宅のプールハウスで開いていた集まりで、彼の父はTina Brown時代のVanity Fair誌(問答無用)の花形記者だったし母はNatalie Woodの親友だったし、自宅で開かれるパーティにはハリウッドの映画関係者とか作家 - Billy Wilder, Truman Capote, Tennessee Williamsなどがふつうにうろうろしていたとか、NYのEast Villageで暮らし始めた頃にDebbie Reynoldsに頼まれてCarrie Fisherのとこに同居して面倒を見ていたとか、本にはもっといろいろ出てくるのかしら。

わたしが彼を知ったのは学生の頃、昨年リストア版が公開されていた”After Hours” (1985)なのだが、あの映画のキャラクターそのままにあちこち玉突きされてどつかれて憮然としつつも見るものは見て言うことは言うから、というドライな芯の強さみたいのはあるなー、とか。

彼が最初に監督した短編“Duke of Groove” (1995)の抜粋も上映されたのだがTobey MaguireもUma Thurmanもまだぴちぴちの子供で、その背後では誰が見たってAllen Ginsbergが踊っていたり、彼の家のパーティはだいたいあんなふうだったと。これ全編みたいな。

Joan Didionのドキュメンタリーを作った背景は、彼女を含む少人数で海に行ったときにカメラをまわしていたらそこに映っていた彼女がとてもリラックスしていて素敵だったので許可を得て少しずつ撮っていったのだそう。彼女がどんなにチャーミングに笑う人かを見てほしくて、とそのシーンの抜粋が流れる。ほんとに子供みたいにくすくす笑うの。


An American Werewolf in London (1981)

上映前にGriffin Dunneによるイントロがあった。これの前のトークではオーディションの時の様子が語られたが、それに加えて、公開当時の動員はいけてなくてさっぱりで、”National Lampoon's Animal House” (1978)のJohn Landisの新作としては評判もそんなでもなかったのだが、時間が経ったらカルトクラシックになっていた、など。 自分はこういうのはだめだったので、今回はじめて見る。

NYから来たふたりのバックパッカーがヨークシャーの原野に降りたち、パブに入ったけどあまりに不気味で不愛想なのでそこを出て、満月の下を歩いていったら道がなくなり、何かに囲まれている気配があって、走って逃げるのだがJack (Griffin Dunne)は毛むくじゃらに襲われて亡くなり、David (David Naughton)も襲われてあと少しのところで助かってロンドンの病院に送られて、大きな獣に襲われたというのだが誰にも信じて貰えず、でもゾンビと化したJackが現れて俺らを襲ったのは狼男だから満月の晩に気をつけろ、という。

退院した彼は看護婦のAlexのフラットに滞在して恋仲になるが満月の晩になると…

アメリカ人男がヨークシャーの狼男に噛まれてロンドンの町で大暴れする、というとってもシンプルな、それだけのお話しで、公開当時話題になったのはRick Bakerによる特殊メイクとその変身シーンだった気がするが、いま見るとやはりアナログで、それが – あんま恐くなくて - 腕の甲がぐおおーって伸びるとことか、なんかよいの。

あとは狼男/Davidがロンドンの町を彷徨っていくとこ - 動物園、トラファルガー広場、Tottenham Court Roadの地下鉄の駅、ピカデリーのポルノ映画館、狼男としてどんなふうに見えるのか、Davidとしてはどうか、あるいはゾンビとして擦り切れていくJackの目ではどうか? こんなふうにいろんな目線や視点がこんがらがってぐしゃぐしゃになって、ホラーとしての結末? とかそもそもなぜ狼男? とかどうでもよくなっていくのはJohn Landisだなあ、って。

7.07.2024

[film] 青春 (2023)

6月30日、日曜日のごご、Curzon BloomsburyのDocHouseで見ました。

英語題は”Youth (Spring)”。王兵(ワン・ビン)の新作、6年以上かけたという215分、France-Luxembourg-Netherlandsの合作映画、漸く英国で公開されて見れるー、と思ったのだがこの回以降のスケジュールは設定されていないようで、でも日曜の午後ぜんぶ潰して見たの。

長江の下流に広がる大経済域 - 長江デルタ地域、ここの織里 - Zhili Cityという町で子供服などを作っている衣料品工場 - というより小さい工房のイメージ - で奴隷のように働く若者たちの「青春」を追っていく。日本のサイトには20分程のエピソードが9つ、とあったが各章の切れ目はくっきりしていないように見えた。

男女いろんな若者 - 10代から30代も少し - が出てくる。最初に名前と年齢と出身地が字幕で出るが、名前と各自の映像が結びつくような強いエピソードがあるわけではなく、各自それぞれがすごいスピードでミシンと布を操って製品を仕上げていって、それをしながら/それの合間に噂話をしたりふざけたり、仕事のほかにはみんなで屋台にご飯を買いに行ったり、仕事場にくっついていると思われる寮のような宿舎で転がっておしゃべりしたり、ずっと携帯をいじっていたり、朝から晩までの日々のあれこれぜんぶ、写される彼らは当然撮影しているカメラの存在も意識している。

エピソードは妊娠したので親を呼んで相談、とか、返品対応とか、賃上げを巡ってものすごく細かいレンジの駆け引きとか、これもびっくりするような、胸のすくような結末が現れるようなことはなく、誰もがそう思っているのだろう、数年ここで辛抱してどこかに移っていくからあと少し - そんな待ちの時間と場所が示される。

誰もが思い浮かべるであろうFrederick Wisemanの長編ドキュメンタリーと明らかに異なるのは、これは名のある工場や産業施設といった場所を描いたものではなく - ここのは初めからほぼ「世界」とほぼ同義の揺るぎない or どうでもよいものとして置かれていて、中心にあるのは登場人物たちの「青春」 - この言葉の示すところが我々のイメージするものと同じかどうか、とりあえずは同じと置いて - である、という辺りだろうか。

自分(自我)が世界の真ん中に据えられるその反対側で、自分の願望や志向やふるまいを縛ったり教育したり抑えこみにやってくる世界との確執とか服従とかふざけんじゃねえよくそったれをくぐり抜けたりすり抜けたりやり過ごしたりしつつ、全体としてはそういう自分が思い描いていた自分じゃなく見えてしまうことに苛立ってたまんない我慢と忍耐の時間、その時間の束を「青春」と括ってみれば、ここで描かれた「青春」は、確かにそんなものなのかも。

というのと、でもやはりこのオンもオフも正義もない労働・労使のありようは、窓の外に広がる荒んだ工業団地のような光景は、家畜並みに酷すぎはしないだろうか - 彼らの元締めのような大人は出てくるが責任者はどこにもおらず - ここもWisemanのそれとは異なる - 「改善」なんてほんの少しの賃上げ程度で、その最後まで描かれた世界の終端も全体もその先も示されることはない。世界の外れの処理工場で「処理」される消費財と若者たちの生と - でもそれが彼らにとっての「世界」であり「すべて」なのだ、と。

こんなことがあってよいのか? ここは自分のいる場所なのか? が青春において絶えず繰り返される問いであるとすれば、この映画はまちがいなく「青春」の救いのないある断面、もしくはそのど真ん中を描くことに成功はしていて、でもそれはこんなかたちであってよいものではないよね、ということも示されるものの、いまの世界の半分くらいは既にこういうふうに成型されて抜けられなくなってしまっているのではないか、という危惧とか居心地の悪さがー。

というのを声高に訴えるのではなく、こうなっているのだこれでよいのか? と淡々と示していてこわい。

今の日本も外国人労働者が入ってこなくなって(なるよね、稼げないもん)、少子化が進んでいくと間違いなくこうなっていく.. か、もうなっているのかも知れず、王兵もいないから「青春」なんて言ってられなくなる。それが見えているのに選挙ではー。


絶望はしない。けどめちゃくちゃあたまにきている(以下略)。

7.06.2024

[theatre] The Constituent

6月29日、土曜日の晩にOld Vicで見ました。

Joe Penhallによる新作戯曲をMatthew Warchusが演出した休憩なしの1時間半ドラマ。
出てくるのはAnna Maxwell MartinとJames Cordenのほぼ二人芝居にあとひとり、の計三人のみ。

James CordenというとLate Late ShowのホストでCarpool Karaokeなどでゲストと楽しそうに歌ったり笑わせたりしてくれるおじさん、くらいのイメージだったのだが、”Ocean's 8” (2018)でちょっと陰険な保険調査員役を演じてて、こんなのもやるんだー、と思ったら、今回のはそのダークサイドが全開になる。

選挙の季節にものすごくはまって考えさせられる会話劇 - 少しアクションもあるか - で、おもしろい。

Monica (Anna Maxwell Martin)は子供がいて忙しいけど夜遅くまで事務所でがんばる地方の国会議員で、セキュリティアラームの設置に来たベンダーのAlex (James Corden)と地元の小学校が同じだったりで意気投合して話し込む。彼はアフガンから戻ってきた帰還兵で、いまは家庭裁判所が絡んだ離婚調停で子供と引き離されていて、どうにかできないか/してもらえないか、って話が進んでいくにつれて、暗くて粘着質なところが徐々に現れてくる。彼の丸っこい身体、人懐こい笑顔と喋り方がゆっくりと恐ろしいものに変わっていく緊迫感がすごい。

Alexは頻繁にMonicaのオフィス - 舞台はずっと彼女のデスクがあるオフィスのみ - に訪ねてくるようになり、裁判所に掛けあってどうにかしてくれないか、政治家なんだからできるだろ?と懇願し、Monicaはまず地元のソーシャルワーカーのとこに行って相談するように、自分にできることには限りがあるし、できないものはできないのだから、と説明するのだが、Alexの耳には届かない。自分は有権者だし税金払っているんだからその分仕事をしろよ! みたいに人格ごと変わってしまったようで、夜中にオフィスが荒らされたりすることもあり、警備員 (Zachary Hart)に来て貰ったりするのだがAlexのほうも必死で…

すこし昔だったらこういう政治家を主人公に置いたドラマは、彼らがいかに蚊帳の向こうであくどいことをやったり考えたりしているか、その欺瞞とか密室での変態ぶりを炙りだすものだった気がするが、このドラマはそうではなくて、(我々がよくない印象を抱きがちな)政治家たちはなんであんなふうになってしまったのか、も含めて別の角度から描いて、それは我々が日々直面している差別や抑圧や社会に対する違和や目線と直結しているのだ、と。(そりゃそうだ、の話でもある)

英国でJo Cox議員が殺された事件を参照しているというが、世界が変わっていくなかで政治のありようも政治家に対する意識、政治家になろうとする人の意識も当然変わってきているので、当然軋轢はあるし衝突は起こるかもしれない – そもそも上下のハラスメントが起こりやすい土壌のうえに、双方がなんで自分ばかりがこんな.. になりがちな、その危惧と構図を非常にわかりやすい例と形で示している。若い女性議員なら言いやすいしわかって貰えるかも、という甘え、戦場で大変な思いをしてきたのに十分に報われていない、という被害者意識、Monicaにしてみればこんなの小学校で習えよ、かもしれない。そして、これらは突然こうなったわけでは当然なく、過去の政治(やそれがもたらした教育)のありようが直接・間接にもたらしたなにかの歪みとその帰結でもあると思う。

とかいろいろ考えたりするものの、大前提としては互いに対するリスペクトがあるべきだし、言葉も含めて暴力だけはぜったいだめだし。それすら守られないのだとしたら戦場とおなじただの地獄だわ。

だからとにかく選挙は本当に大事なんだ、と。自分は行けないけど都知事選、行ける人は行ってね。

音楽は冒頭からThe Smithsの"Last Night I Dreamt That Somebody Loved Me" (1987)の歌唱部分が爆音で流れてびっくりして、場面転換で暗くなるとまたMorrisseyの歌が続いて、やがて演奏パートのみになる。この曲って、進行と共によりダークに、地獄絵図が浮かびあがるかのように推移していくのだが舞台上の流れとうまくリンクしていた。そして最後のところだけBilly Braggの"Between the Wars" (1985)が流れる。 The SmithsとBilly Bragg… “Jeane”も鳴らしてくれたらー。


それにしても労働党政権下の英国に暮らすことができるようになるなんて。 Keir StarmerはLeedsの大学なので、お気に入りはThe Wedding Presentの”My Favorite Dress” (1987)だそうで、そんな人が首相って、素敵よね。

7.04.2024

[film] Bye Bye Tibériade (2023)

6月29日、土曜日の昼、BFI Southbankで見ました。
France-Belgium-Palestine-Qatar共同制作のドキュメンタリーで、英語題は”Bye Bye Tiberias”。

HBOのTVドラマ“Succession”は見たいなーと思いつついつも時間がどこかに消えてしまうので全然見れていないのだが、そこに出演しているフランス系パレスチナ人俳優のHiam Abbassがフランスで生まれ育った娘Lina Soualemの監督するドキュメンタリーで、自分(Hiam)が生まれて出ていった国、彼女の母、祖母の、戦争で追われて出なければならなかった土地を旅して自分の、家族の過去を再訪していく。

最初に出てくる色褪せたホームビデオの映像には、HiamとLinaの母娘がイスラエルの都市ティベリアにあるティベリアス湖で水浴する姿があって、この時はLinaを母や親戚に見せるために里帰りしたようだったが、Linaにはあまり記憶として残っておらず、Hiamは母娘の話題以外は語りたがらないように見える。湖をバックに向こうがシリア、向こうがレバノン、向こうがヨルダン、とHaimが指し示すと、指し示せる距離の間にあるこの土地がいかに地政的に面倒かつ厄介なところであるかが一目瞭然で示され、過去のニュース映像や写真、母娘が壁に貼りだすLinaの母の祖母、母の母、母、それぞれの女性たちの、それぞれの家族や親戚の写真、結婚式のお祭り、幼いLinaを含む四代の女性たちが写った一枚の写真から、1948年のパレスチナ戦争の前と後で、先祖からの土地を奪われ、ティベリアを追われて転々としながらも懸命に生きた、家族を生かそうとした彼女たちの物語が語られていく。それは本に書かれるような、映画で描かれるような大きな歴史ではなく、例えば家族みなで楽しく暮らしていた家はあそこに建っていたんだよ(もうないけど…) - というふうに。

そして、当たり前だけど、そうして語られる家族の、母や叔母たちのお話しは遠い彼方のパレスチナのお話しではなく、とても近しく親密なものに見えてきて、20代の初めに俳優になるべく国を出て最初にイギリス人と結婚して別れて、フランス人と再婚してLinaを生んだHiamにとっても単に懐かしい以上のもどかしく複雑なものになっていることが見えてくる。自分のあのときのあんなふるまいを祖母は、母はどう見ていたのか、許してくれるのだろうか、取り戻すことはできないものか、会いにくることができなくてごめんね、など…(言葉には出さないけど – “Bye Bye Tibériade”が精一杯の...)。

Hiamの母の妹でシリアにいるので絶対に会えないと思っていた叔母と、通常であれば国交がないので行くことはできないはずなのにHiamのフランスのパスポートがあったので、こいつで会いに行けたときの話がよくて、ふたりで近寄って、叔母が肩を抱いてHiamの体の匂いをくんくん嗅いで、これがうちの家族の匂いだよ!って。そんな家族なのに散り散りにされてしまうなんて、どれだけ辛かったことだろう。

パレスチナ問題 – いまのイスラエルが「浄化」しようとしている人たちは、女性や子供たちを含むこういう人達で、これはこの間から始まったことではなく、1940年代からずっとあって世代を超えてこんなふうに連なっているのだ、って。でも80年以上やったって、これらは絶対瓦礫にできるものではないのだ。ってわからないのか。

と、改めて抵抗に向かう決意を新たにするのだった。


渡英して半年が過ぎてしまった… どうしようなんもしてない

7.03.2024

[film] A Quiet Place: Day One (2024)

6月28日、金曜日の晩、BFI IMAXで見ました。

音をたてたらやられてしまう静かでこわいパニックホラー“A Quiet Place” (2018) ~ “A Quiet Place Part II” (2020)の前日譚で、世界で一番やかましい都会 - NYのマンハッタンを舞台にしている – ここの平均音量は70dBだとか。

監督は最初Jeff Nicholsで動いていたらしいが、途中で“Pig” (2021) のMichael Sarnoskiになって、脚本も彼とJohn Krasinskiの共同。

最初にすごいネタバレをしておくと猫はぶじなので、だいじょうぶ。ひょっとしたら一番がんばって偉くて主人公は猫でよいのかもしれないくらい。

Sam (Lupita Nyong’o)はNY郊外(Queensのほう?)のホスピスに猫のFrodoと暮らす末期ガンを患う詩人で、そこのイベントでチャイナタウンに人形劇を見に行く、というので嫌々参加して見ていたらシアターの外ですごい音がして外に出てみると空から何かが降ってきてあちこちで爆発が起こって人は何かでっかいのに襲われて、音をたてたら襲われるみたいなので(でもその習性がそんなに早くわかるものかしら? 水に弱いのとかも)、そうっと逃げていると戦闘機がマンハッタンにかかる橋を爆破しているので、この島に閉じこめられてしまったらしい - さてどうする?

マンハッタンだけに怪物が落ちてきたのなら封じ込めはわかるけど、あれだけいっぱい落ちてきてるのに橋を爆破した理由がわからなかったかも。やかましいマンハッタンに連中を呼び寄せて囲い込んでやっつけるならわかる(でもそれなら橋は必要だよね?)。

ホスピスの人たちとも逸れてSamの傍にいてくれるのは猫だけ – Part1の赤ん坊より難易度高い - になってしまい、案内でサウスストリート・シーポートから船が出るというので避難民は南に向かうのだが、みんなが一斉に動き出したもんだからそれなりの音が出て、そこに怪物が襲いかかって大パニックになり、でもSamはジャズミュージシャンだった亡父との思い出があるハーレム(北方)に向かう。そこでPatsy’sのピザを食べるのだと。

映画と関係ないし殆どの人にはどうでもいいことかもだけど、Patsy’sのピザとアルグラのサラダは本当においしくて大好きなので、SamがPatsy’sのピザを食べたいんだ、っていうのはよくわかったし、これと猫だけでこの映画はよいことにした。

で、途中で怯えた英国の法学生のEric (Joseph Quinn)と出会って、ふたりで何度かの危機一髪を切り抜けてハーレムにたどり着いて、かつて父が演奏していたジャズクラブに入って、ここから先は書かなくてもよいか。

都市が襲われるディザスター・ホラーとして、時間軸がよくわからない状態でさくさく対応策が練られているのは変だと思ったけど、静けさとぐしゃぐしゃの対比を経て、見ている側がへとへとになる手前でNina Simoneの"Feeling Good"に抜けていくところは悪くないかも、と思ったのと、主人公がこの騒乱を生きよう、生き抜こうとするのではなくひとり死に向かって、死と向き合っているところがよいの。詩人としてひとり静かに死にたい、のに音をたてると嬉々として殺しにくるやつらにその場面をかき乱されるのが忌々しい。

こないだ見た”Hoard” (2023)でも妙な存在感をだしていたJoseph Quinnがよい - 目に涙を浮かべるとことか - のだが、やはりLupita Nyong’oの今にも折れそうで、でも崩れないかんじがすばらしくうまい。

猫のFrodo、柄は同じだけど途中で顔つきが変わった(クレジットみたら2匹だった)ので、一旦逃げたあとで別の猫になったのだと思う。でもどちらもおとなしい猫でよかったね。

音をだしたら寄ってくることがわかっているのなら、轟音なんていくらでも出せる場所なのだからじゃんじゃか鳴らしておびき寄せて一網打尽にできたのでは、と思うのだがそういうのはやらないのね。

次は”Day minus One”で、宇宙であれが発見されて地球にくることになった経緯が陰謀論ふうに語られるのではないだろうか。

空から落ちてきて街中が真っ白の灰まみれになって戦闘機が飛んできて、というのは911のがまだ – 20年過ぎても - 生々しいのでどうだろうか(きついのではないか)、と。 あの日、再びAttackされる可能性があるって、戦闘機がずっと飛んでいたんだよ。

7.02.2024

[film] 野玫瑰之戀 (1960)

6月27日、木曜日の晩、BFI Southbankで見ました。

昔の(かな?)香港映画を紹介する小企画からの1本で、4Kリストア版のUKプレミアだそう。上映前のイントロでは、とにかく英国に持ってくる手続きが大変だった、とか。 英語題は”The Wild, Wild Rose”、日本公開はされていない模様。グレース・チャンの名前で検索してもほぼ歌手としてしか出てこないし。
 
監督は王天林 (Wong Tin-lam)、音楽にはRyōichi Hattori(服部良一)のクレジットがあった。 モノクロで128分のミュージカル。
 
ピアニストで婚約者のいるまじめなHanhua (Zhang Yang)が学校で教える仕事を諦めてキャバレーみたいなバーでのピアノ伴奏の仕事を始めようとしていて、それによって職を失う前任ピアニストのおじさんが妻は病気で子供も小さいのでお願いだから、って泣いて騒いで揉めているのを見てこんなところで仕事するのかー、とがっくりしていたら歌い手として登場したSijia (Grace Chang)の歌がすばらしくて - 実際に安定しないところはあるけど艶があって自在に伸びてすごく素敵 – ぽーっとなり、彼女の伴奏をしているうちにどんどん彼女に魅せられていくのだが、14歳から歌っている彼女には別れて刑務所に入っているやくざな夫がいたり、辞めさせられたピアノのおじさんの家族のために無理してお金をやりくりしてあげていたり、見えない影の部分が見えてきて、でもそういうところも含めて吸い寄せられるかのように動けなくなり、念願だった学校の音楽教師の職のオファーも来たのに蹴って、嘆き悲しむ婚約者と実母も棄てて、Sijiaのところに走ってしまう。
 
のだが、出所して嫌がらせにきた彼女の前夫を叩きのめしたHanhuaが別れた婚約者と実母の通報で刑務所に入れられたあたりから彼の様子がおかしくなって、出所してもずっと酒に溺れてSijiaを家に閉じこめ歌の仕事を一切断ってしまい、でもこのままじゃ生活できないし、わたしは歌が歌いたいの、って勝手に仕事を始めると…
 
原案はビゼーの「カルメン」だそうで、他にも着物を着て「蝶々夫人」を歌ったり、「リゴレット」のあれを歌ったり、スタンダードっぽいのもいっぱい歌うので、ストーリーも含めてわかりやすくて、最初のほうのファム・ファタルものっぽい展開から、Hanhuaの転落~汚れっぷりがものすごくなって、その生々しさの方から目が離せなくなる。ストーカーものを越えて、何かが憑りついてエクソシストみたいになっていくようで。
 
「カルメン」なので悲劇として終わるのだが、最後にみんなでアパートの扉を叩いて救出しようとするところとか、あまりにしょぼくてなにやってるの? の笑いが出てしまったり、全体としては珍品扱いされてしまうやつかも。もうちょっとちゃんと作ればよいメロドラマになったに違いないのに。 でもGrace Changの堂々とした歌いっぷりはずっと聴いていたくなる。「ジャ・ジャン・ボー!」って掛け声をかけるおもしろい曲(2回歌われる)があって、これが服部良一の作曲だったり。
 
モノクロの擦れたかんじが昔の邦画にもありそうなので同じストーリーと設定でやるとしたら - もう既にあるのかしら? - 誰が演じるのがよいか、とか考えるのも楽しいかも。 越路吹雪 & 森雅之かなあ、とか。

[film] Fancy Dance (2023)

6月26日、水曜日の晩、Barbican Cinemaで見ました。
少しだけ懸念された80年代にあったお坊さん漫画とは、もちろんまったく関係ないのだった。

監督は自身がnative Americanでドキュメンタリーを中心に撮ってきたErica Tremblayのフィクション映画デビュー作となる。プロデュースには主演のLily Gladstone の他にForest Whitakerの名前があった。昨年のサンダンスでプレミアされて、SXSWでも上映されて、配信だとApple TVで見れるの?

季節は夏で、Jax (Lily Gladstone)と13歳の姪のRoki(Isabel DeRoy-Olson)が川で水浴びをしているシーンからで、ここで気持ちよさそうに水浴びをして布で体をぬぐうLily Gladstoneがまずはすばらしいったら。”Killers of the Flower Moon” (2023)にこのシーンがあったらなあ..

オクラホマの居留地に暮らす彼らは、Rokiの母でJaxの姉のTawiが行方不明になってから一緒に暮らしつつ、JaxはRokiの面倒をずっと見てきて、Rokiは万引きから自動車泥棒から生きていくために必要な一通りのことはできるくらいにはなっていて、Rokiは年に一度遠くで開かれるダンスのお祭りpowwow – かつて母娘で賞を独占したという - になればTawiがきっと姿を現すと信じている。

それはもう難しいかも、とわかっていながら警察が動いてくれないのでJaxはひとりTawiが働いていたストリップクラブなどへの聞きこみなどを続けていて、脅されたり危ない目に会ったりしながらも、彼女自身もドラッグ売買とかそれなりにそういう修羅場を抜けてきているので強くてめげない。なのだがJaxの実父のFrank (Shea Whigham)とJaxの母の死別後に彼と再婚した義母Nancy (Audrey Wasilewski) - どちらも白人のふたりがRokiの置かれた生活環境を懸念して、そのうちJaxもTawiと同じ目(そのうち失踪)に遭ってしまうのではないかと児童相談所に通報してからRokiはJaxから切り離されて隔離され...

Tawiが見つかればすべてが元に戻る、RokiはTawiがpowwowの会場に現れると強く思っている – であればJaxが取るべき行動は、軟禁されたRokiをかっさらってpowpowに連れていくしかないのか、と。ここから先は想像できる通り、叔母と姪のぶつかったり逸れたりのロードムービーになって、TawiとJaxをどこまでもまっすぐに信じるRokiと実父も含めて周囲の誰も信じられなくなっているけどRokiを守るのは自分しかいない、のJaxとのせめぎ合いがすばらしい。FrankとNancyが誘拐事件として通報したので各地に捜査網が敷かれて、彼らはどこまで逃げきれるのか…

ネイティブ・アメリカンの不審死や失踪は”Killers of the Flower Moon”にもあったし、”Wind River” (2017)にもあったし、どれも道端に棄てられてしまうだけのような救われない暗いかんじが残って、このお話しもその悲惨さ・重さは変わらないかも知れないが、受ける印象はそんなにまっくらでもないかも。やはりLily Gladstoneの揺れない落ち着きと頼もしさ、姪を見守るすばらしいまなざしと、その先で不安定に揺れまくる姪の手を引っ張っていく叔母の強さ、このふたりが手を取りあう絵から目を離せなくなる。

タイトルにあるダンス、はラストにくるのだが、それがどんなものになるのかは、見てほしい。

この人が出ているのだったらぜったい見て外れない自分の映画リストにLily Gladstoneさんは入っている。そのうちrom-comとかやってくれないかしら。

[film] The Bikeriders (2023)

6月24日、月曜日の晩、Curzon Aldgateで見ました。

そういえばバイクって乗ったことないし、集団とかチームでつるんでなんか(スポーツとかけんかとか)やるのも、その反対のアウトローみたいのも嫌いだし、だからあんまし見る気にはなれなかったのだが、予告がなんかよくて、監督はJeff Nicholsなので見ようか、くらい。

写真家のDanny Lyon (映画ではMike Faistが演じている)が、1963年から67年にかけてバイカーやその周辺の人たちにインタビューしたのを写真と一緒に纏めた同名本が原作で、だからドキュメンタリーをフィクションとして再構成したようなもの、と見てよいのか。

シカゴのVandals Motorcycle Clubの取材で、まず話を聞く相手はKathy (Jodie Comer)で、なんとなく夜に遊びにいったバイカーたちのたむろするバーでBenny (Austin Butler)と出会って恋におちた経緯が語られる。スコティッシュみたいな舌足らずのべらんめえのアクセントで、それがビリヤード台の前で捨て犬の目をしたBennyとぶつかって、Bennyは犬みたいに寄ってきて声をかけてくるのだが、Kathyはわざと突っぱねたりして、それだけでこの映画いいわー になる。その後の経緯はすっとばして「結婚した」になったり。Kathyの語りはこの後も続いていくのだが、バイカーたちの内側に取り込まれるでもなく外側に立つのでもない、バイクの荷台に乗っかるけど「なにが楽しいんだか」みたいなしらーっとした目と態度がとてもよいの。

VandalsのリーダーはJohnny (Tom Hardy)で、自分の家も妻子もある大人なのに、なんでか子分たちの面倒をみる羽目になっていて少し困ったふうの鈍重な熊で、事故で亡くなったメンバーの葬式で親族に唾をはかれても我慢して、でも組を存続させなきゃいけないことについてははっきりと意識していて、自分のあとを継げるのはBennyしかいないと思っている。

話はよくある他の組との抗争が勃発して広がって出入りだ出入りだ敵討ちだー みたいな方に向かうのではなく、ソロでばこん、てやられたり小規模でやりかえしたり、やられたバーに行って(バーテンダーがWill Oldham)焼き討ちするとかその程度で、血圧のあがる少年漫画とかアクション映画ぽい場面や見せ場はまったくなくて、無愛想で不恰好な男たちの乗ったバイクが路面を擦りながら転がっていく、それだけでいいじゃん、て。実際それだけでじゅうぶんよいような。

チームのなかで一匹のBennyは別として、なに言ってるのかほぼ不明のMichael Shannonとか、同様に西から流れてきた得体の知れないNorman Reedusらのありようの方が印象に残り、チームに入れてほしい、って寄ってきたガキ(Toby Wallace)をJohnnyが突っぱねた頃から彼らバイカーの世界周辺がよりキナくさいやばいものに変わっていく。そういうのはもう誰にもどうすることができないものだった、ってしょんぼりと閉じてしまうある季節の終わりを。

マッチョな暴力やドラッグの導入とともに彼らの道路が煙って汚れていく、その少し手前の摩擦の断面を切り取って、その路面で彼らはどんなふうに動いたり風を感じたりしていたのか。 『断絶』 - ”Two-Lane Blacktop” (1971)にあった路面に反響していく不機嫌と居心地の悪さはここにも - 時代は少し前だけど。

真ん中の3人 - Austin Butler - Jodie Comer - Tom Hardyのぜんぜんあんたなんて頼ってないしひとりでやれるもん、だけどやっぱりいてほしいかも - いていいよ、のお互いに少しだけ寄っかかった関係がすごくよくて、Austin Butlerはこないだの”Elvis”よか好きかも。

音楽も深く考えないノリとしか思えないノリのガレージ系がやすりのように気持ちよく響いてきて、それだけでじゅうぶん。