5月20日、月曜日の晩、Trafalgar Theatreで見ました。
原作の戯曲はDuncan Macmillan、演出はJeremy Herrin。初演は2015年のNational Theatreで、その後すぐにWest Endに行って、2017年にはNYのSt. Ann's Warehouseでも上演されて、今回のは14週間のリバイバル公演となる。
主演のDenise Goughは初演の際に数々の賞を受賞して有名になり、Star Warsの”Andor” (2022)でのサディスティックな官吏役が強い印象を残して更にメジャーになってしまったが、この人の出発点はここなのか、と。
舞台は奥に向かって狭まった診療所のような白が眩しいタイル模様 – こないだ見た“Machinal”を少し思わせる – で、舞台上の向こう側にも客席がある全方位監視型で、開幕を告げる場内アナウンスも途中でバグってこの世界に畳まれていく。舞台でチェーホフの『かもめ』を演じたりしている俳優のEmma (Denise Gough) - 但し”Emma”が本名かどうかは不明 – はアルコールと薬物の依存症でぼろぼろになった状態で診療所に送られて or 自分で入って、母に似ている気がするセラピスト(Sinéad Cusack)とか患者たちとの間で、12-step programmeなど、セラピーセッションをメインとした「治療」を受けていく。
他のキャラクターを演じることが仕事である彼女にとって、こんなセッションで他人ロールを演じるなんてバカみたいな話だし、そんなので治るんなら苦労ないし、そもそもなんでこんなところにいるのか、やってらんない、しかないし、この問いのループは常に起点に戻っていって終点がない - 自分は何者なのか? どうしてここにいるのか? なにをしているのか? そしてこの不条理 – ところどころコメディ - はどかどかうるさいインダストリアル系の音と共に見ている我々もその中に引き摺りこんで離そうとしない。「なにやってんだろ自分?」の問いは環境なのかノイズなのか。
常に人々と場所と物事(People, Places and Things)が我々を縛りにくるし、我々はまずそれらに無意識に縛られるかたちで社会のなかにある/あらされるのだし、だから、そこに徹底して意識的になれば、とりあえず出口は見つかるはずだ、ってとりあえずの出口を見つけたかに見えた第一幕の終わり。
二幕目はクリーンになって落ち着いて自宅に戻ってきたEmmaを母(Sinéad Cusack – 二役)と父(Kevin McMonagle)が迎えるのだが、ここで我々は彼女の問題の根(おそらく)に直面することになって、彼らの抑圧のありよう – 「だって親だから」に集約されるあれこれと過去に起こっていまだに苦しみの根となる兄弟の死の件 - と共にEmmaは元の状態に戻ってしまうのではないか、ってはらはらするのだがー。
これは不条理劇、というよりも我々が日々関わってなんとか見ないようにしたりやり過ごしたりしている現実のある断面を切り取ってみたらこうなる、というもので、悲劇にも喜劇にも簡単に転がるし時間が経てばそれだけのこと、に思えてしまうものもあるのだろうが、この集中力とテンションで引き摺りこまれて振り回されるという経験はそうできるものでもないので、見たほうがよいのかも。 (辛くなりそうな人はもちろん無理する必要なんてないけど - 隣の席のひとが最後の方ずっと泣いてて心配になった)
ただ抑圧のありようって、男性女性で当然異なるし、今だと本当にいろいろなPlacesやThingsがあると思うので、その的の絞り方や力点をどこに置くのかとか、どこまで逃げ道があるのかとか、あと今作に関してはDenise Goughひとりの圧倒的な演技がすべてをドライブしているので、それはこのテーマを扱う舞台として、本当にそれでよいの? とか少しだけ。
5.28.2024
[theatre] People, Places and Things
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