5.25.2024

[theatre] The Cherry Orchard

5月18日、土曜日の午後、Donmar Warehouseで見ました。
この朝にシンガポールから戻ってきて、洗濯屋いって、洗濯して、30分寝て、Tate Britainに行ってから。ずっとチケット取れない状態で、シンガポールで転がって見ていたら取れたやつで、ここしかなくて、しょうがない。あの湿気もわもわをクールダウンさせる効果はあったか - なんてものではなく、すばらしかった。

Donmar Warehouseって割とよく通うNeil’s Yardのすぐ隣にあった。

原作はチェーホフの最後の戯曲『桜の園』(1903)、演出はBenedict Andrews。

シアターは小さくて、2階もあるけどStallは客席が舞台の四方をぐるりと囲んで(各辺4〜5列くらい)段差もそんなになくて、床と壁には素敵な暖色模様の絨毯が敷かれて掛かっている。

開演時間が近づくと、どこからか俳優たち(なんとなくわかる)数名がやってきてふつうに最前列の席に座って澄まして隣の人と話したり、時間になると掃除婦役の女性が舞台の床に掃除機をかけだして、掃除がおわると始まる。観客もこの家のなかの調度品としてあるようで、舞台が進んでいくと俳優にテーブルセットとか本棚とか勝手に呼ばれて指さされて好きなように扱われる。ずっと家の中なので暗転することもない。

Ranevskaya (Nina Hoss)と娘Anya (Sadie Soverall)がパリから戻ってくるが屋敷が抱える負債のことで頭が痛くて、その反対側で成りあがり商人のLopakhin (Adeel Akhtar)は威勢よく調子よくあれこれ絡んで言ってくる。というせめぎ合いのなか、ずっとここにあった自分の家、その前に広がる桜の園への、過去への思いと自分の力ではもはやどうすることもできない悔しさが彼女だけじゃなく、家族全体にいろんな波、揺さぶりをかけたり起こしたりしていく。

服装は現代ので、Ranevskayaの方は多少くたびれてはいるがクラシックだったり、どうでもよく半端なカジュアルふうで、下男を含めた若い成りあがり勢は、あまり趣味のよろしくないぎらぎらブランドものとか、Lopakhinの態度物腰もRanevskayaからすれば無礼極まりないかんじなのだが言ってもしょうがないし。あまり革命を前にした空気もムーブもなく、両勢力の中間地帯にいる学生のTrofimov (Daniel Monks)は格差やヘルスケアについてぶつぶつ言うけど、これもどうすることができよう、って諦めているような。

休憩を挟んだ後半の最初は、客席の後方でおとなしめに音を出していたバンド(ドラム、ベース、キーボード)の機材がキャスト全員によって舞台に運びこまれ、スモークが焚かれてやけくそのようなパーティが始まり、それがでっかく弾けることなくしんみりと終わって彼らひとりひとりの疲弊と喪失感が改めてクローズアップされ、競売の結果も含めてすべてがとうに遅かったことがこの後に明らかになるし、もう誰もがその結末をわかっていたかのような。そしてわかっていたのになにも見ようと、聞こうとしなかったことがー.. でもやっぱりどうすることもできなかったろうし。

最後は、桜の木を切り倒すチェンソーの音が遠くに聞こえる中、まず全員で絨毯や壁をべりべり剥がして丸めて中央にゴミとして積みあげ、あーあ、っていうRanevskayaたちのちっとも明るくない旅立ち。最後まで家族の、その歴史の内側と外側で、燻ぶっては消えを繰り返す希望というのか見栄みたいなものなのかの、どちらかというと内側の攻防を悲劇・喜劇両面から自在に描いて目が離せない。それはあの時代の、あの土地のものでは全くない – その距離の置き方は客席、観客の並びも含めて極めて適切なものに思われた。チェーホフがどう、はあるのかも知れないけど、それとあまり関係なく迫ってくるものがあって。

こないだの”Tár” (2022)での助演も見事だったNina HossとLopakhin役のAdeel Akhtarは言うまでもなく、他のてんでばらばら勝手な方角を向いた俳優たちも、バンドメンバーすらもよくて、みんなすぐ目の前の近いところにいてなんかやって動いてて、そういうのって場合によってはうっとおしくなることもあるのに、それがなかった。

音楽はバンドの音が背後で控えめになったり、たまに演者がギターを抱えたり、ひとりぼそぼそ一節歌ったりするのだが、その曲ときたら、Canの”She Brings the Rain”だったり、Nick Caveの”Easy Money”だったり、Will Oldhamだったり、PJ Harveyの”When Under Ether"だったり、これらを並べただけで、どんな舞台なのかわかってしまうよね(よいこと)。

木を切り倒して、そうすることでなんか威張ろうとしている劣化したどっかの国のこともすんなり思いうかぶ。逃げられるとこがあればよいけどそれすらもー。

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