5.28.2024

[theatre] People, Places and Things

5月20日、月曜日の晩、Trafalgar Theatreで見ました。

原作の戯曲はDuncan Macmillan、演出はJeremy Herrin。初演は2015年のNational Theatreで、その後すぐにWest Endに行って、2017年にはNYのSt. Ann's Warehouseでも上演されて、今回のは14週間のリバイバル公演となる。

主演のDenise Goughは初演の際に数々の賞を受賞して有名になり、Star Warsの”Andor” (2022)でのサディスティックな官吏役が強い印象を残して更にメジャーになってしまったが、この人の出発点はここなのか、と。

舞台は奥に向かって狭まった診療所のような白が眩しいタイル模様 – こないだ見た“Machinal”を少し思わせる – で、舞台上の向こう側にも客席がある全方位監視型で、開幕を告げる場内アナウンスも途中でバグってこの世界に畳まれていく。舞台でチェーホフの『かもめ』を演じたりしている俳優のEmma (Denise Gough) - 但し”Emma”が本名かどうかは不明 – はアルコールと薬物の依存症でぼろぼろになった状態で診療所に送られて or 自分で入って、母に似ている気がするセラピスト(Sinéad Cusack)とか患者たちとの間で、12-step programmeなど、セラピーセッションをメインとした「治療」を受けていく。

他のキャラクターを演じることが仕事である彼女にとって、こんなセッションで他人ロールを演じるなんてバカみたいな話だし、そんなので治るんなら苦労ないし、そもそもなんでこんなところにいるのか、やってらんない、しかないし、この問いのループは常に起点に戻っていって終点がない - 自分は何者なのか? どうしてここにいるのか? なにをしているのか? そしてこの不条理 – ところどころコメディ - はどかどかうるさいインダストリアル系の音と共に見ている我々もその中に引き摺りこんで離そうとしない。「なにやってんだろ自分?」の問いは環境なのかノイズなのか。

常に人々と場所と物事(People, Places and Things)が我々を縛りにくるし、我々はまずそれらに無意識に縛られるかたちで社会のなかにある/あらされるのだし、だから、そこに徹底して意識的になれば、とりあえず出口は見つかるはずだ、ってとりあえずの出口を見つけたかに見えた第一幕の終わり。

二幕目はクリーンになって落ち着いて自宅に戻ってきたEmmaを母(Sinéad Cusack – 二役)と父(Kevin McMonagle)が迎えるのだが、ここで我々は彼女の問題の根(おそらく)に直面することになって、彼らの抑圧のありよう – 「だって親だから」に集約されるあれこれと過去に起こっていまだに苦しみの根となる兄弟の死の件 - と共にEmmaは元の状態に戻ってしまうのではないか、ってはらはらするのだがー。

これは不条理劇、というよりも我々が日々関わってなんとか見ないようにしたりやり過ごしたりしている現実のある断面を切り取ってみたらこうなる、というもので、悲劇にも喜劇にも簡単に転がるし時間が経てばそれだけのこと、に思えてしまうものもあるのだろうが、この集中力とテンションで引き摺りこまれて振り回されるという経験はそうできるものでもないので、見たほうがよいのかも。 (辛くなりそうな人はもちろん無理する必要なんてないけど - 隣の席のひとが最後の方ずっと泣いてて心配になった)

ただ抑圧のありようって、男性女性で当然異なるし、今だと本当にいろいろなPlacesやThingsがあると思うので、その的の絞り方や力点をどこに置くのかとか、どこまで逃げ道があるのかとか、あと今作に関してはDenise Goughひとりの圧倒的な演技がすべてをドライブしているので、それはこのテーマを扱う舞台として、本当にそれでよいの? とか少しだけ。

[film] The Vagabond Queen (1929)

5月18日、日曜日の昼、BFI Southbankの日曜日のサイレント映画特集で見ました。
ずーっとやってて、まだやっているシアターの改修、NFT3のがおわり、意味不明の階段をのぼって中に入る必要がなくなり、足元が少し広くなって、ドリンクホルダーがついた。NFT1も早くして。

上映前、いつものようにBFIのBryony Dixonさんによる解説がある。

英国がサイレント末期に立ちあげたBritish International Pictures (BIP)による制作で、海外から映画人を呼び寄せて映画産業に本腰をいれようとしていた流れで作られて、本作の監督Géza von Bolváryもハンガリー - ドイツから呼ばれて、撮影のCharles RosherもハリウッドでMary Pickfordの全盛期を支えて、F. W. Murnauの”Sunrise: A Song of Two Humans” (1927)を撮った大御所で、この作品で呼ばれて英国に渡った際に、噂ではあるがAnna May Wongの渡欧にも関わったと言われる、など。 書いていないけど、これの一つ前のサイレント特集で見たのが彼女の主演でものすごくかわいそうな”Pavement Butterfly” (1929) だった。

あと、主演のBetty Balfourは「英国のMary Pickford」と呼ばれていたくらい有名だったって。
下宿屋から王室までぶち抜いて突っ走るどたばたコメディで、彼女の何が起きてもへっちゃらで飄々とした振るまいは確かにMary Pickfordぽいかも。とにかく楽しくて痛快。

元のフィルムには伴奏音楽が付いているのだが、その音は使わずにいつものピアノの人 - Stephen Horne - に演奏してもらう。 あ、邦題は、自分がWebで調べた範囲では見当たらなかったのだが『放浪の女王』、というのがケヴィン先生の『サイレント映画の黄金時代』本にはあった。

ロンドンのぼろい下宿屋で小間使いをしているSally (Betty Balfour)はそこの一部屋に下宿している貧乏学生Jimmyと仲がよいのだが、がみがみ大家からは目をつけられて怒られてばかりで、そんなある日、バルカン半島の小国Boloniaから偉そうなシルクハットを被ったおじさんLidoff (Ernest Thesiger)が現れて、戴冠式を控えていて、でもどこからか暗殺の企てが噂として聞こえてくるPrincess Zoniaの替え玉としてパレードに出てほしい、無事生き残ることができたらご褒美にお金をあげる、と。 Jimmyの滞納家賃と彼が取り組んでいるブラウン管の発明のためにお金が必要だったのであまり考えずにやるよ、って返事をして、Jimmyと一緒に現地に行ってみると王室に潜りこんでいるいかにも悪そうなのとか、見るからにバカ王子は気持ち悪くよだれ垂らして迫ってくるしで、いろいろ大変。

パレード当日も王家転覆を企む一味がルートの要所要所に爆弾とか刀とかそれぞれの得意技を仕込んだ殺し屋たちが配置されて暗雲どろどろなのだが、お転婆Sallyはへっちゃらですり抜けたり、向こうが勝手に自滅してくれたり、地下に潜ったり、ゲームをクリアするみたいにクリアしていってようやく民の待つバルコニーにたどり着くと…

使命感も危機感もそんなにないまま、自分とJimmyのためにがんばるから見てて! くらいの無責任モードでMissionをすいすい渡っていくSallyがいかにもいそうだしかっこよくて素敵。ロンドンの下宿屋の小娘が小国の危機をまるごと救う、って当時の英国の狙いもちゃんと見えるし。 キートンやロイドほどぶっとんではいないけど、こういうサイレントもよいなー、って。

5.27.2024

[film] Catching Fire: The Story of Anita Pallenberg (2023)

5月19日、日曜日の夕方、Curzon Bloomsbury のDocHouseで見ました。
Dogwoofの制作で、監督はAlexis BloomとSvetlana Zill - ふたりの女性によるAnita Pallenberg (1942-2017)の評伝ドキュメンタリー。

1時間53分と結構長いのだが、これでも相当カットしたのではないか、というくらい伝説も含めたあの時代のあれこれが詰まっていてあっという間。

彼女はもうこの世にいないので、彼女の声は出版されることのなかった彼女のメモワールの文章から(AIではない)Scarlett Johanssonがあてていて、当たり前のようにはまっている。

Brian Jones (1942 ‑ 1969)の恋人でその後にKeith Richardsと一緒になって .. くらいしか知らなかった、というかその辺のファム・ファタール(悪)とか泥沼話の典型みたいのが嫌でStonesとかClaptonとかはあんま聴かないくらいだったのだが、印象として180度ひっくり返るかんじ(でもないか? ) - そう、だらしない男たちと彼らにやりたい放題やらせたり調子づかせていた男の業界がぜんぶー。

イタリアでドイツ系イタリア人の両親のもとに生まれ(画家のArnold Böcklin (1827 ‑ 1901)は曽祖父だって)、ドイツの寄宿学校時代からモデルをするようになり、そこからNYに渡ってJasper Jonesのスタジオに入り、WarholのFactoryに行って有名になり、アメリカにツアーでやってきたRolling StonesのBrian Jonesと出会い、ここから先はもうー。

寄宿学校時代の友人からNY時代の知り合いから、音楽関係者はもちろん、なかでもMarianne Faithfullが、映画界からはVolker Schlöndorffが、2人の子供達から、最後の方は(どうでもよさげな)Keith Richardsまで、メモワールを中心として、その周りにひと通りの証言は集まっているような。(そしてやはりMick Jaggerはぜったい何も言わない)

ドラッグに溺れて乱暴になっていくBrianとそれを隣で見ていたKeithが彼女を連れ出すようになり、その頻度と長さがのびて船旅とかになり、それがずるずる固定になって子供が生まれて、ぜんぶどうすることもできなかった.. みたいなトーンで、フランスのお屋敷で延々続けられた飲んだくれのパーティー(子供連れ)まで、どこからも、どこへも抜けだせなかった日々が語られるのだが、そこでのホームムービーみたいな映像って、ふたりきりの逃避行、みたいに言ってもああいうの撮る人 - お付きがいたのだとしたらなんとまあ.. だなあとか。

AnitaとBrianの、あるいはKeithとの結びつきがどんなだったか、はわかるわけないしどうでもよいのだが、その関係のありようをうまくスター(重みづけあり)の物語に仕立てて子供まで巻き込んで囃したてみんなで酔っ払ってすげえだろ、って威張ったり彼女を「魔女」呼ばわりするあの時代の空気感などは、やはりぜんぜん好きになれないし地獄におちろ、って。それでもそこから出てきたアート作品は、切り離して別でよいのか、カッコ付きで見るべきなのか、悩まなくたって勝手に流れてくるし止められないからー。

彼女を取り巻いていた環境がどんなだったにせよ、子供たちにはずっとよいママだったみたいだし、最後の方にでてくるKate Mossの心酔ぶりを見ると、サバイバーとしていつまでもいてほしかったな。(反対側のMickとかKeithの妖怪みたいな気持ちわるさよ - 魔女どころじゃねえだろ)


英国はBank Holidayの三連休なのだが、今週の後半はバルセロナがあるのでどこにもいかずにおとなしくしている。 昼間にQueen Elizabeth HallでのTiffany Poon(ピアノ)のロンドンデビュー公演、曲がシューマン、ラヴェル、バッハ、ショパン、と好みの方だったので行ってみたらすばらしかった。

5.25.2024

[theatre] The Cherry Orchard

5月18日、土曜日の午後、Donmar Warehouseで見ました。
この朝にシンガポールから戻ってきて、洗濯屋いって、洗濯して、30分寝て、Tate Britainに行ってから。ずっとチケット取れない状態で、シンガポールで転がって見ていたら取れたやつで、ここしかなくて、しょうがない。あの湿気もわもわをクールダウンさせる効果はあったか - なんてものではなく、すばらしかった。

Donmar Warehouseって割とよく通うNeil’s Yardのすぐ隣にあった。

原作はチェーホフの最後の戯曲『桜の園』(1903)、演出はBenedict Andrews。

シアターは小さくて、2階もあるけどStallは客席が舞台の四方をぐるりと囲んで(各辺4〜5列くらい)段差もそんなになくて、床と壁には素敵な暖色模様の絨毯が敷かれて掛かっている。

開演時間が近づくと、どこからか俳優たち(なんとなくわかる)数名がやってきてふつうに最前列の席に座って澄まして隣の人と話したり、時間になると掃除婦役の女性が舞台の床に掃除機をかけだして、掃除がおわると始まる。観客もこの家のなかの調度品としてあるようで、舞台が進んでいくと俳優にテーブルセットとか本棚とか勝手に呼ばれて指さされて好きなように扱われる。ずっと家の中なので暗転することもない。

Ranevskaya (Nina Hoss)と娘Anya (Sadie Soverall)がパリから戻ってくるが屋敷が抱える負債のことで頭が痛くて、その反対側で成りあがり商人のLopakhin (Adeel Akhtar)は威勢よく調子よくあれこれ絡んで言ってくる。というせめぎ合いのなか、ずっとここにあった自分の家、その前に広がる桜の園への、過去への思いと自分の力ではもはやどうすることもできない悔しさが彼女だけじゃなく、家族全体にいろんな波、揺さぶりをかけたり起こしたりしていく。

服装は現代ので、Ranevskayaの方は多少くたびれてはいるがクラシックだったり、どうでもよく半端なカジュアルふうで、下男を含めた若い成りあがり勢は、あまり趣味のよろしくないぎらぎらブランドものとか、Lopakhinの態度物腰もRanevskayaからすれば無礼極まりないかんじなのだが言ってもしょうがないし。あまり革命を前にした空気もムーブもなく、両勢力の中間地帯にいる学生のTrofimov (Daniel Monks)は格差やヘルスケアについてぶつぶつ言うけど、これもどうすることができよう、って諦めているような。

休憩を挟んだ後半の最初は、客席の後方でおとなしめに音を出していたバンド(ドラム、ベース、キーボード)の機材がキャスト全員によって舞台に運びこまれ、スモークが焚かれてやけくそのようなパーティが始まり、それがでっかく弾けることなくしんみりと終わって彼らひとりひとりの疲弊と喪失感が改めてクローズアップされ、競売の結果も含めてすべてがとうに遅かったことがこの後に明らかになるし、もう誰もがその結末をわかっていたかのような。そしてわかっていたのになにも見ようと、聞こうとしなかったことがー.. でもやっぱりどうすることもできなかったろうし。

最後は、桜の木を切り倒すチェンソーの音が遠くに聞こえる中、まず全員で絨毯や壁をべりべり剥がして丸めて中央にゴミとして積みあげ、あーあ、っていうRanevskayaたちのちっとも明るくない旅立ち。最後まで家族の、その歴史の内側と外側で、燻ぶっては消えを繰り返す希望というのか見栄みたいなものなのかの、どちらかというと内側の攻防を悲劇・喜劇両面から自在に描いて目が離せない。それはあの時代の、あの土地のものでは全くない – その距離の置き方は客席、観客の並びも含めて極めて適切なものに思われた。チェーホフがどう、はあるのかも知れないけど、それとあまり関係なく迫ってくるものがあって。

こないだの”Tár” (2022)での助演も見事だったNina HossとLopakhin役のAdeel Akhtarは言うまでもなく、他のてんでばらばら勝手な方角を向いた俳優たちも、バンドメンバーすらもよくて、みんなすぐ目の前の近いところにいてなんかやって動いてて、そういうのって場合によってはうっとおしくなることもあるのに、それがなかった。

音楽はバンドの音が背後で控えめになったり、たまに演者がギターを抱えたり、ひとりぼそぼそ一節歌ったりするのだが、その曲ときたら、Canの”She Brings the Rain”だったり、Nick Caveの”Easy Money”だったり、Will Oldhamだったり、PJ Harveyの”When Under Ether"だったり、これらを並べただけで、どんな舞台なのかわかってしまうよね(よいこと)。

木を切り倒して、そうすることでなんか威張ろうとしている劣化したどっかの国のこともすんなり思いうかぶ。逃げられるとこがあればよいけどそれすらもー。

5.23.2024

[art] Expressionists: Kandinsky, Münter and The Blue Rider ..他

アート関係のを(べつに義務はないけど)あまり書いていなかったので、よかったのを中心にメモ程度で。見た順で。

Francesca Woodman and Julia Margaret Cameron: Portraits to Dream In

4月20日、National Portrait Galleryで。ヴィクトリア朝時代の肖像写真のパイオニアだったJulia Margaret Cameron(1815-79)と70年代アメリカの挑発的な写真家 - 22歳で自死した Francesca Woodman (1958-81)を並べてみる試み。

ふつうこの二人を並べると聞いただけで、えー(なんで?) になると思うのだが、例えば肖像写真において対象を正確に写し取るというより、手刷りの加工するその肌理のかんじ、その背景やストーリーも含めて作りこめる何か、宗教的だったり寓意的だったり、作品を”Dream In”しうる何かとして世間に訴えようとしていた、という点は共通しているのでは? という仮説に基づいて”Picture Making”, “Nature and Femininity”, “Models and Muses”といったテーマ別にふたりの写真を対置していっておもしろい。

彼女たちの写真って、どちらもすぐに彼女たちのだ、とすぐわかる強さがあり、それはいったい何なのかを考える手掛かりにもなるかも。もう一回行きたい。 6月にこれに関連した“Women's representation and the female gaze”というレクチャーがあるのだが、平日の昼間なのよね..


Out Shopping: The Dresses of Marion and Maud Sambourne(1880-1910)

4月21日、High Kensingtonのご近所 Leighton HouseとSambourne Houseの共催企画。どちらも個人邸宅なのでそんなに大きなものではなく、Sambourne Houseの方の展示は少しだけ。当時の貴族の御婦人たちはお買い物にどんな服と格好で出かけていたのか、とかロンドンお買い物マップ – Libertyはこの頃から既に - とか、小規模だけど楽しかった。


Expressionists: Kandinsky, Münter and The Blue Rider

4月27日、Tate Modernで見ました。わたしはこの時代のが大好物なので涎まみれになって見た。
青騎士、Kandinsky, Münter, Franz Marc, Jawlensky, Werefkin.. これらはNYのNeue Galerieでも何度も見てきて、何度見てもその形象、色彩-温度感の多彩さ、彼らがExpressしようとした何か、それらが「抽象」へと変容していく-せざるを得なかった錯誤に曲折、痛みがどれほどのものだったのか、などいくら見ても尽きない。

この展示ではGabriele Münter(の写真作品)、Marianne Werefkinといった女性アーティストへのフォーカス、シェーンベルクやゲーテを巻きこんだ総合芸術的な知覚への探求など、リアルであることと色彩、フォルムのせめぎ合い、第一次大戦前夜の社会、写真表現を経由したアートのありように対する目線などが結構意識されていて、ここまで広げるかー、など賛否あるところかもしれない。一回見ただけでどうこう言えるものでもないのでもう一回(何度でも)見るけど。なんか、うっとりするばかりなのよね。


Michelangelo: the last decades

5月10日、British Museumで見ました。
素描作品を中心にMichelangeloの晩年がどんなだったかを示す。最初の方にシスティーナ礼拝堂の誰もが知っている大作『最後の審判』(1536-41)のパーツの習作や素描があって、それが『最後の審判』のどこにどうトランスフォームしていったのかがプロジェクションされていておもしろい。

素描で描かれる対象、もりもりした男性の肉体は展示の終わりの方で枯れたキリストや建物に変わっていくのだが、本当にそんなふうに大人しく静かに枯れていったのだろうか? というのが少しだけ。だってミケランジェロだよ?

National Galleryではちょうど”The Last Caravaggio” - 並ぶけど無料 - をやっていて、ほんの少しだけど、彼の最後の方がどれだけ陰惨で暗いものだったかがわかって、比べてみるのも。


Now You See Us : Women Artists in Britain 1520–1920

5月18日、Tate Britainで見ました。ここの同じ展示エリア、ひとつ前にやっていた企画展示 - “Women in Revolt ! Art and Activism in the UK 1970-1990”の前日譚のような、追い打ちをかけるような勢いがたまらなくよい。

英国Royal Academyの共同創設者でもあるAngelica Kauffman – 丁度Royal Academy of Artでも企画展示している – から入って、Mary Delany (1700-88)なども含め具象を中心に知らない人ばかりだが、いろんな人がいておもしろい。メインのビジュアルはGwen Johnの1902年の小さな自画像で、この彼女の醒めた目がぜんぶ、というような。英国の女性の絵画史を追う、というよりも絵画のテーマ別にどれだけ彼女たちの作品が多彩かつ多様だったか、どれだけ多くのアーティストがいたか、を知ってもらうことに集中しているよう。社会史、文化史とのリンクは意図的に省いたのかも。

20世紀に入ってくるとさすがに知っている人も増えて、画学校時代のLaura Knightの習作とかすごくかっこよいし。

英国であれば、女性抽象画家の系譜、というところでもういっこ企画ができるはず、これはまたの機会、になるのかしら? (やって)

A Room of One's Own 1890-1915

19世紀末から20世紀初にいろいろ起こった変革のなか、サフラジェットをはじめ女性のありようも変わって、彼女たちのいる場所、やっていること、絵で描かれる背景等も変わってきて、その大きなひとつが「部屋」の登場ではないか、という視点に立った無料の展示。点数は20もなくサイズも小さいものばかりだが、フレームと色みと人物の落ち着きようがとてもしっくり美しく、部屋にいるかんじになる。

Edouard Vuillard, Duncan Grant, Walter Richard Sickert, Harold Gilman - ↑の展示にもあったGwen Johnは2点、こちらに掛けられた作品もすばらしくよくて。


Fragile Beauty: Photographs from the Sir Elton John and David Furnish Collection

5月19日、Victoria and Albert Museumで。思っていた以上に規模のでっかい展示で、近代 – 戦後あたりからの有名な写真 – 写真史本に出てくるようなの - はファッションからジャーナリズムまで、ほぼ網羅されているのではないか、くらい。Eltonすごいー、と思うと同時にやはり欧米白人目線となってしまうのはしかたないのか。日本のだと、Hiro (若林 康宏)の「新宿駅」 (1962)の大判 - 通勤電車のなかからこちら側を見つめる人たち、と抽象コーナーの杉本博司(いつもの)くらいか。新宿駅のあの電車に乗ってこちらを見つめていた人たちは今どこでなにを… はいつも思うこと。

“Fragile Beauty”というタイトルなので、Ryan McGinleyはもちろん、一部屋をスナップでびっちり覆っているNan Goldinもよいのだが、他の作品の圧倒的なセレブ臭というか圧がすごすぎて全体としてはFragileなとこなんてない…

[film] The Beekeeper (2024)

5月13日、月曜日の晩だか、14日火曜日の深夜か、ロンドンからシンガポールに向かう機内で見ました。
シンガポールは出張だったので書くことない。湿気がだめなのでしんどいー しかなかった。

監督はDavid Ayerで、主演はJason Statham。Jason Statham版の”John Wick”で、犬のかわりが蜂で、でもそれだけじゃなくて、向かってくる連中を皆殺しにするところはおなじで、アクションも彼のいつもの無骨に黙って殺しまくるやつ。

最初に思っていたのは自分の蜂たちを殺されて沸騰したJasonがひとり敵に向かっていって蜂と一緒に刺して殴って蜂の巣にして、そこに大量の蜂の子たちが… っていうものだったが、ややちがったか。

彼が養蜂の敷地を借りていたおばあさんが悪徳コールセンターに騙されて全財産を失って自殺してしまったので、復讐でひとり乗りこんで端から叩きのめしていくと、そのコールセンターの巻きあげたお金は悪徳バカ息子(Josh Hutcherson)を通じて大統領選の資金にまで繋がっていて、最後はアメリカ合衆国大統領(Jemma Redgrave)にまでいくの。

その過程で彼はただの養蜂家ではなくて、”The Beekeeper”っていう国が抱える闇エージェントとして、女王蜂–大統領の下で働く蜂(CIAとか)を守る役割の男だったことが明らかになったり、そういう構造は不思議なミツバチの世界、を見るようでなるほどー、だったのだが女王蜂って民に選ばれてなるわけじゃないよね。

あと、Jeremy Ironsをあんな使い方しかしないなんて、もったいないー。

今後の流れとしてはやはり彼にはSuicide Squadに入ってもらうことになるのかしら?


She Came to Me (2023)


5月17日深夜か18日の朝か、シンガポールからロンドンに戻る機内で見ました。フライト14時間て長すぎ。 邦題は『ブルックリンでオペラを』 - となると場所はBAMくらいだと思うけど、映画に出てくるとこはちょっと違う..

作・監督は”Maggie's Plan” (2015) – だいすきだった - のRebecca Miller、撮影はSam Levy、音楽はBryce Dessner。こんなの悪いわけがない。映画館で見たかった。

有名なオペラ作曲家のSteven (Peter Dinklage)は偏屈で人嫌いで妻のPatricia (Anne Hathaway)はそんな彼をケアするセレブ系のセラピストで、彼女の連れ子のJulian (Evan Ellison)が付きあっているTereza (Harlow Jane)のママ - Magdalena (Joanna Kulig)はStevenの家の掃除婦をしている - 構成としては”Normal People”そっくり。

昼間に犬を連れて散歩していたStevenは港でタグボートの船長のKatrina (Marisa Tomei)と会い恋愛依存症だという彼女と話しているうちなりゆきで寝てしまい、その経験が彼になにかをもたらしたのか、新しいオペラ – やった後で男の首をぶった切る女船長の話 - を書いてお披露目すると喝采されて、それを見たKatrinaはわたしは彼のMuseなんだわ、って思いこんだり、TerezaとJulianの親密なポラロイド写真がTerezaの強権的で時代劇好きのしょうもない義父 - 勝手に養子縁組した - Trey (Brian d’Arcy James)の逆鱗にふれて、未成年交際で訴えることができるぞ、って騒ぐのでふたりと一部の大人たちは16歳でも結婚できるデラウェアに行こう、ってみんなでKatrinaの船に乗りこんで…

疲れて汚れて行き場を失って右往左往する中年のカップル複数の隙間にきちんと未来を見据えた若いカップルがいて、中年たちは彼らを救おうとするじたばたするのだが、それが救っているのは実は中年たちの方だったりして、その脇でひとりPatriciaは尼さんになったり、でもとりあえず幸せそうだからよいの。

ストーリー展開はめちゃくちゃ(割とどうでもよく雑なふう)に転がり、登場人物たちも大人はみんないろいろ破綻しててどうしようもない – どこかにいそうではあるが - ので、どうなるんだ? ってかんじなのだが、最後に”She Came to Me”というフレーズがすんなりはまってこちらにやってくる。彼女がきたらきっとなんとかなる、くらいでー。

すでにいろいろ絶賛されているように首をぶったぎるMarisa Tomeiがすばらしいのだが、そういえば大昔の00年代に Al PacinoがHerodで彼女がSalomeをやった舞台を見たのを思い出した。

”Maggie's Plan”ではBruce Springsteenの”Dancing in the Dark”が印象的に使われていたが、今回は最後に彼の”Addicted to Romance”が流れてくる。よいかんじ。

5.22.2024

[theatre] Mary Said What She Said

5月12日、日曜日の午後、Barbicanのシアターの方で見ました。

ここでは金・土・日の3日間の公演のみの最後の回、危うく見逃すところだった。シアターというよりどちらかというとライブパフォーマンスの強さとテンションがあって、長期公演できるものではないような。

制作はThéâtre de la Ville–Paris、演出はRobert Wilson - セットとライティングのデザインも彼、脚本はDarryl Pinckney、舞台上に影のようなかたちでもう一人が一瞬登場したりするが、ほぼIsabelle Huppertのひとり芝居 – なんらかのキャラクターを演じている、というより憑依した何かが彼女のなかで暴れまわっているかのような。90分、休憩なし。

会場に入ると濃い赤の緞帳が下りていてその真ん中にそんなに大きくないディスプレイがひとつ掛かっていて、その画面上では白黒のブルテリアが自分の尻尾を追いかけてぐるぐる回っている動画と、字幕で“You Fool me I’m not too smart” - バカにするのもいいかげんにして – がずっとリピートされている。

映画化もたくさんされているMary Stuart - Queen of Scotsの波乱の生涯 - 生後6日で父を亡くして王位を継承し、5歳でフランスに密航して一時はフランス王妃となり3人の夫がやってきて云々 – を経て、19年間の軟禁状態の果て、処刑の前夜の独白を彼女が遺した手紙を抜粋して繋いでいくかたちで語る - というよりどこにもいない聞き手に向かって吐きだしていく。原作の戯曲は全3章、82の断片からなるが、各章立てやその構成を意識させる語りにはなっていないような。

黒のきらきらのきっちりしたドレスで首元まで固めて、顔は白塗りの口元は紅で、手を組んで動くもんですか - この状態で最初の30分くらいはものすごい勢いで言葉を並べていって止まらない。 フランス語なので左右と舞台の上に英語字幕が出るのだが、ラップの勢いでたたみかけるあまりの早口なので、(当然、そのスピードで流れていく)字幕を追うのは諦めて彼女を見ることに集中する。ただまあ、まったく動きのない – その状態を強制された - お喋りロボットを見ているようで、やはり驚嘆してしまうのは、これを彼女が一切途切れることなく平気な顔 - 無表情だけど - でこなしてしまうことだろうか。年齢を持ちだしたくはないけど、71歳だよ。

舞台が進むと彼女も前に出てきて自身の身体を確かめるようにダンスのような動きをしたりするようになるものの、どう動いても途切れることなく延々吐きだされていく喋りのトーンと速さ、強さは変わらず、刑の執行の時が近づいてくる。

Ludovico Einaudiの音楽が絶えることのない波を作って時間の流れをつくるなか、Robert Wilsonの演出は、ほぼなにも置いていない舞台とのっぺらとしたシンプルな照明を貫いてどこまでもミニマルに俳優を空っぽのマリオネットとして扱い、一切のドラマ性を排除した機械的な反復の果てに周囲への呪詛や諦めや苦悶がうにゃうにゃと四方から滲んで湧いてくる、彼のいつもので、 やや前世紀ふうではなかろうか、と思い始めた頃、唐突に爆発事故のようなとてつもない轟音が三つ鳴り響いて - うとうとしていた客たちがびくっとなる - ああ彼女は解放されたのか、と。

演出云々というよりやはりこれはIsabelle Huppertの舞台で、すごいのは彼女がこれまで映画で演じてきた - 例えば”Elle” (2016)でもなんでも - 決して屈しない女性たちの像にすんなりそのまま連なってしまうことで、終わってホールが総立ちで喝采するなか、彼女はあのいつもの笑みを浮かべて悠然としてて、女王さまああー ってひれ伏すしかないのだった。

5.20.2024

[film] La chimera (2023)

5月12日、日曜日の昼、Curzon SOHOで見ました。上映後に主演のJosh O'ConnorとのQ&Aつき。

監督は”Happy As Lazzaro” (2019)のAlice Rohrwacher。変わらず大昔と現代、夢とリアルの間を軽々と渡っていく魔法のような世界 - 幸せとか希望とかはそんなにないし、なくてよいのだが - を見せてくれる。

舞台は80年代のトスカーナの田舎のほう、無精ひげで汚れてくたびれた英国人Arthur (Josh O’Connor)が列車でうとうとしてその脳裏だか夢だかに女性の像を浮かべたりしていると車掌に起こされ、彼はどこかに帰ろうとしていて、やがて彼を迎えた連中から、彼が刑務所から出所したばかりで、元考古学者の墓荒らし~泥棒グループの一員であることがわかる。

彼は丘の上の掘っ立て小屋のような住処に戻ってから古い邸宅に暮らすFlora (Isabella Rossellini)を訪ねて、彼が彼女の娘のBeniaminaと結婚していたこと – それが冒頭の夢に出てきた女性であることがわかるのだが彼女はいない – やがて彼女が亡くなったこと、それが彼の失意と凋落の根源にあることを知るのだが、やかましい窃盗団の連中は次をやろう、ってうるさいので、先が二又の木の枝を手に地表をうろうろして、ここだ って宝のありかを告げる – どこかしら“El sur” (1983)の半分魂のぬけたパパっぽい。

Floraの歌の教え子で、彼女のところで子供のケアとメイドをしているItalia (Carol Duarte)のことが気になりだした頃、まったく新しい - 既に誰かが掘っていたりしない穴を見つけて掘ってみると、エトルリア文化の頃のすばらしい女神像が出てきて、息をのんでいたら仲間がその首をガンって切り落としちゃって(なんてことを..)こうすれば外に運び出せるし、って言う。

そうやって運び出された宝物は別の窃盗団に奪われて、そこから謎めいたSpartaco (Alba Rohrwacher)の主宰するクルーザー上の闇の美術関係者お披露目会で開陳されて…

エトルリアの頃からの文化の遺物が地面の下のどこか見えないところにあって、それを探してお金にしようとする現代の我々がいて、でもその中間で大切な人を失ったりどうでもよくなっている迷い人もいて、古代のロマンとか美なんて言ったって工場の脇に埋められたその程度のものなんだけど、でも待て.. そこにはなにかが? 一体なにが? という語りの独特さとその良いのか悪いのか見えない渦に引きこもうとする力の強さ。その全体像をキメラ – キマイラ – つぎはぎ異質同体の怪物とするのは間違っていないかも。存在自体が怪しいものだが、いったん姿を現すと強く根を張って天地を倒立させて我々を振り回し、なにをどうすればよいのか - なすすべもない。

登場人物たちはどれもみんなその所属がどこか半端で怪しくて贋物っぽくて、列車で車掌が起こした後に倒立して現れた夢かもしれなくて、でもそこにあった過去の遺物や亡くなった人たち – こっちの方が本物っぽい - を中心にみんなじたばた動きまわっていて、その状態で愛とか永続するなにかなんてどうやったらありうるのか、どうやってそこに昇ったり始めたりすることができるのだろうか? 怪物キメラはそこで何をしようというのか、って。

まったく知らない異国の、設定として今から40年くらい昔、宝物の起源まで含めたら想像もつかないくらい遠い昔のなにかもひっくるめられた彼岸の世界のことのはずなのに、なんでこんなに近くに見えたりするのか、という驚き。彼らの - 向こう側の方がこちらを呼びこもうとしているから?

トスカーナと美術、というとキアロスタミの”Copie conforme” (2010) - 『トスカーナの贋作』が思い浮かんだりするが、あれとは異なるスケールの、中心でかき回すのはキメラ - それ自体がまがいものぽくて、でもそうやってかき回され振り回されたあげくに、お手あげで委ねてしまいたくなる甘い気持ちよさ、みたいなのはあるかも。

上映後のQ&AはJosh O’Connorの他にプロデューサーの人(名前わすれた)も参加して行われた。Joshは彼の映画の登場人物そのままのつんのめった喋りをする素敵なひとで、彼は『幸福なラザロ』を見てすぐにAlice Rohrwacherに手紙を書いたくらい感動した、と。印象に残っているのは今作の主人公のコアにある”Grief”について、Nick Caveの曲 – どの曲だったかは出てこないって - と彼が語っていたGriefをどう乗り越えるか、の話がとても参考になった、と。
あと、俳優を志しているという人には、できるだけ沢山の、いろんな映画を見たほうがいい、って。

5.18.2024

[film] Hoard (2023)

5月11日、土曜日の夕方、BFI Southbankで見ました。 ふつうの新作のPreview公開。

作・監督はこれが長編デビューとなる英国のLuna Carmoon。 BFIとBBCがバックについていて、まあ、ぜーったい日本での公開はないと思う - くらいに地味で、血みどろ残虐シーンとかはまったくないものの、じんわり生理的・感覚的なところに訴えてくるなにかがあり、なので入り口には「不快感を与えるかもしれない描写があります」とか貼ってあったりするのだが、すばらしくよかったの。

80〜90年代にかけての南東ロンドンの下町で、母Cynthia (Hayley Squires)と幼い娘のMaria (Lily-Beau Leach)がショッピング・カートをがらがら転がしながら遊ぶように落ちているモノを拾ったり漁ったりしてそのまま家(自分たちのなのか不明)に戻るとそこにはゴミ屋敷のように拾ってきたりしたいろんなものが吹き溜まっていて、他の家族はいなくて、ふたりで散らかしまくったりしながらもお風呂に入ったりTVを見たり - 『ブリキの太鼓』 (1979)でのあるシーンが印象的に映し出され、それを食い入るように見つめるMaria - 母娘でおおむね仲良く楽しんでやっているのだが、ある晩、崩れてきたゴミの下敷きになったママは動けなくなり、救急車が呼ばれて命は助かったものの、Mariaはそのまま里親のところに保護されることになる。

そこから時間が過ぎて高校生くらいになったMaria (Saura Lightfoot-Leon) - 服に”1994”とある - はふつうによい子でもないが酷くわるい子でもなく、そんな状態で里親のMichelle (Samantha Spiro)のところにいて、そこにMichelleが育てた別の里子のMichael (Joseph Quinn)がやってきて同じ家のなかで暮らすようになって、ある日突然母Cynthiaの遺灰が届けられた辺りからMariaの挙動ふるまいがだんだんおかしくなっていって、お腹の大きなガールフレンドがいるMichael と変な関係になったり自分の部屋に溜めこみはじめたり…

おそらく心理学的に説明できる何かは沢山あるのだろうが、医師や警察が呼ばれるような方と事態には向かわず、Mariaが執着してしまうもの、彼女が見つめてしまうものの先にあるひとつひとつがなんとなく、でも確かな切実さと説得力でもってこちらに伝わってくる - それってなんなのだろう? - ので、監督の実体験に近いところもあるのかも、と思うのだがそこは別に知らなくても。

子供の頃にママとの間で、ママと一緒に築いていったお城 - Hoard - ある時一瞬で奪われるように消えてしまったその礎やパーツのひとつひとつは他の人から見ればゴミかも知れなくても、人によっては「トラウマ」って片付けてしまうだけかもしれないし、わかってもらおうなんてこれぽっちも思わないけど、子供の頃の秘密の大切ななにかで、他者が決して取り上げたり葬ったりすることはできないし、なにかで解消したり代替できたりするものではないし - だからあたしも含めてどこかに散らして放っておいて。

大人になることをやめた『ブリキの太鼓』 のOskarと、すべてを捨てて大人にならざるを得なかったMariaと。そして彼女はもう一度拾いなおそうとする - なんのために?(は問わない)

Mariaを演じたSaura Lightfoot-Leonを始め、俳優のアンサンブルもすばらしくよくて、みんなそこにいて暮らしているかんじがした。最近の日本の映画で描かれる貧困家庭とかにはなんでか余りのれないのだが、この作品のはとてもわかるかんじがした。

ラストの夜の町にEBTGの”Missing”が流れてきて、それが泣いてしまうくらいによくて、泣いてしまった。

[film] IF (2024)

5月11日、土曜日の昼、CurzonのAldgate で見ました。

作、監督はJohn Krasinskiで出演もしていて、”A Quiet Place” (2018)のシリーズのあとによくこんなの作れたもんだわ。 どこかで聞いたような話だけどなんだか泣かせやがって。

撮影はJanusz Kaminskiだし、かわいいコレオグラフはMandy Mooreだし。

“IF”は”IT”に近いけど少しだけ違って、”Imaginary Friend”のこと。

最初に女の子Bea (Cailey Fleming)の子供の頃からの家族アルバム(ホームビデオ)の映像が流れて、パパ(John Krasinski)とママ(Catharine Daddario)と3人でとても幸せそうなのだが、Beaが大きくなってきた最後の方で、微笑んでいるママは頭に布を被って何かの治療をしていることがわかる。

Beaがブルックリンハイツにあるおばあちゃん(Fiona Shaw)のエレベーターもない古いアパートにやってきてそこにしばらくの間滞在して、入院していて大手術を受けるパパの病院にお見舞いにいく。 ママはもういなくてパパまでいなくなったらどうしよう、って不安でたまらないのだがBeaを元気づけたいのかパパは悪ふざけばかりしていて、Beaもパパにそんな気遣いはさせたくないので適当に相手をしている。

そんなある日、アパートにハチみたいなツノが生えて棒の足をした変な影がBeaの目に入るようになり、気になってそれを追っていくと上のフロアの部屋に消えたので、そこに入ってみると夜中に遭ったらぜったいこわい蜂の精みたいなBlossom (声: Phoebe Waller-Bridge)と人間の格好をしているが得体の知れないCal (Ryan Reynolds)がいて、やがて紫のでっかいもふもふ - Blue (声: Steve Carell)もどかすかと現れて、こいつらなんなの? になるし、向こうは向こうであなたには私たちの姿が見えるの? って驚いている。

Calの説明によると、あのお化けみたいな連中はIF .. “Imaginary Friend”で、かつてどこかの子供のIFとしてずっとその子の傍にいたのだが、子供が成長すると、成長したからなのか見えなくなることが成長なのか - 用なしとされて子供の視界からは消えて見えなくなって、でも彼らの存在まで消えることはなくてその辺をお化けや妖怪のように彷徨っている - のだがそんな彼らがどうしてBeaには見えるのかはCalにもわからない。

CalとBlossomはそうして用なしとされたIFと子供をマッチングするサービスをしている、と聞いたBaeは暇だしおもしろそうなので彼らを手伝うことにして、コニーアイランド - あんなきれいじゃないよ - にあるIFの養老院 - ただのお化け屋敷みたい - を訪問してIFたちと面接した上でパパの病院に入院している子などに試してみるのだがなかなかうまくいかない。マッチングがうまくいくとその子にはIFがみえるようになって彼らは柔らかく暖かそうな光に包まれるの。

でも変てこなのばっかしのIFたちに気づいてくれる子供はなかなかいなくて、そうしているうちにパパの手術の日が近づいてきて… この先どうなるかは書かない。

IFの代表格といったらWinnie-the-Poohとか、あと他にはトトロとか? って”Christopher Robin” (2018)などを思い出したり、トトロも親が入院している設定だったなー、とか思って、でも最後のほうはああそうだったんだね、ってやられてしまう。

姿が見えなくなっても(見えなくされても)IFたちはずっと近くにいてこっちのことをずっと気にして憶えていてくれるんだよ - そこも含めてのImaginaryなのかもだけど、やっぱりいるんだ、って思う - 思わせてくれるシンプルなストーリーで、これはこれでよいのかも。

ちょっとずついろんなIFが出てくるのだがその声をやる人たちが異様に豪華で、Louis Gossett Jr. - R.I.P , Emily Blunt, George Clooney, Bradley Cooper, Matt Damon, Brad Pitt, Bill Hader, Richard Jenkins, Blake Lively, Sam Rockwell, Amy Schumer などなど。

続編があるとしたらIFしか見えなくなってしまった大人たちの話(笑えない)とか、狂ったIFが人を殺し始めるホラーとか(割とふつう)。

[film] The Idea of You (2024)

5月7日、火曜日の晩、EVERYMAN King’s Crossっていう映画館で見ました。

配信でも見れるようなのだがめんどくさいので上映館を探してみるとロンドン中心部の映画館やシネコンではやっていなくて、近めでいったことのないここ - 一応チェーン展開しているみたい - にした。

受付にもシアター内にも誰も人がいなくて勝手に中に入ると椅子はソファになっていたりクッションがあったりゆったりめ、上映時間近くになるとウェイターのような人が食べ物飲み物のオーダーを聞きにくる - アメリカのAlamo Drafthouse 形式のとこだった。チケットの値段が高めだったのはそういうことかー。(なんもオーダーはしない)

Anne Hathawayさんが主演の新作で上映がこういうことになっている - 配信メインでも内容がよければ中心部の映画館で上映されるはず - ことから察するに、なんかやばい内容のあれかもしれないが、彼女のそういうのには慣れているのでだいじょうぶ。むかし、”One Day”とかもあったしー。

40を過ぎてシルバーレイクでギャラリーを経営していて、既に離婚して高校生の娘がいるSolène (Anne Hathaway)がいて、娘はボーイズヴォーカルグループのAugust Moonっていうののファン - “Moon Head”と呼ばれる - で、パパ/Solèneの元夫が、娘とその仲間のためにコーチェラのVIPチケットをとってあげた (いいなー)のだが直前に行けなくなってしまいSolèneに現地までの車の運転とガキ共の引率を頼む。

なんとか現地に着いてひとりになってトイレに行きたくなって、女性が出てきたトレーラーがあったのであれだと思って中に入って用を足して出たらそこにAugust MoonのリードヴォーカルのHayes (Nicholas Galitzine)がいて、よく知らないままなによあんた? みたいな会話をするとそれはコーチェラに出演する彼のトレーラーでした、と。そんなはなしあるかー

その会話で彼の方が彼女のことが引っかかってしまったらしく、ライブ前のMeet & Greet(ファンの集い)でも熱狂する娘たちを置いて、Hayesの方がSolèneに気づいて話しかけてきて、あーでもわたしはちがうから、って彼女は距離を置くのだが、その後のライブで彼の歌に触れるとなんかいいかもな、になる。

普段の生活に戻ったSolèneであったが、ある日彼女のギャラリーにHayesがひとりで訪ねてきて、アートに興味があるんだ、などと言いつつ展示されている作品をぜんぶ買いあげてくれて(いいなー)、実はあの後ずっと気になって君のことを調べてここに来た、とか言うのでいやいやちょっと待って、とか返して押して引いてなんだかんだもうわかったから以下略。

後半はファンとメディアの両方からすさまじい誹謗中傷の大嵐(Yoko Ono 2.0には笑った)に見舞われて家族は壊れ、擦り切れていくふたりの恋の行方はいかにー…

見るひとのジェンダーや年齢によってその反応が分かれるであろうことは想定済みで、でも真ん中のふたりがよいのであればいいじゃん、に落ちることも見えているのだが、最近の誹謗中傷の底なしのえげつなさとか年齢差を都合よく曲解する気持ちの悪い中年男などが浮かんできてしまってあんま楽しいかんじにはなれないのはこちらの問題なのかー。

あとやはり、どうしても残念なのがふたりを結びつけたはずの音楽があまりに弱すぎて引っかかってこないことで、若い頃にボーイズグループを多少は聞いたにちがいない - 耳に入ってくるからさ - Solèneからみて、Hayesの曲ってそんなによいと思える? って。

[film] Dancing on the Edge of a Volcano (2023)

5月4日、土曜日の晩、Curzon BloomsburyのDocHouseで見ました。

この日はStar Warsの日だったのでお昼は当然、公開25周年となる“Star Wars: Episode I - The Phantom Menace” (1999)を見た。最後の殺陣のとこ(だけ)は、映画史に残るくらいすごいと改めて思った。

レバノンのドキュメンタリー映画で、まだ記憶に新しい2020年8月、レバノンの港で起こって街全体を吹き飛ばした大爆発事故の直後、ちょうど現地では女性映画監督Mounia Aklが劇映画“Costa Brava”を撮る準備を進めていて、彼らの撮影を前に進めるか止めるかどうする? の日々の奮闘の記録を”Costa Brava”の編集を担当したCyril Arisがドキュメンタリーとして纏めたもの。

プロダクション開始までの秒読みもそうだし、制作が始まってからもほんとにいろんなことが起こって、なんというか…

まず爆発でオフィスの殆どが吹き飛んで、撮影担当は片目を失い、通貨が暴落して制作資金が紙切れ同然となり、ガソリンも入手困難になり、パレスチナ人の主演男優はコロナもあって入国ルートが限られてしまい、トルコ経由でようやくたどり着いても空港から出ることを許されない。娘役の女の子ふたりはコロナに罹って隔離されることになったり、毎日のように何か危機的なことに直面させられる。

これらは爆発の惨事からの連鎖として予測できなかったことでもないので、はじめにやめる・あきらめる、という選択肢もあったはずだが、彼女たちは撮影するほうを選んで - その理由も決意も明確には語られなくて、でもそれでも十分だし、そう決めた以上は断固完成させようとして負けないし強いし。

そこには理不尽な爆発の原因究明も含めて、政府側の対応の拙さ、責任の取らなさに対する怒りもあって、同じようにしょうもない(あれだけの事故を起こしておきながら責任を有耶無耶にして再稼働とかさせようとする)政府を身近に見ている者としてはがんばれー、しかない。

よくわかんない闇雲な映画愛とか執念みたいなのをちらつかせないのもなんかよくて、みんなでびっくりしたり笑ったりしながら一緒にやっていくMounia Aklさんの姿と彼女を支える女性たちも素敵でさー。街角の様子もあんな酷いダメージを受けたのになんとなくほのぼのしている。そういうお国なのか。

レバノンと言えばおいしいお菓子とお料理で、その上でこの映画を見るともっとレバノンが好きになる。そのうち行ってみたいな。


Celluloid Underground (2023)

5月4日の土曜日、↑の前に、Barbican Cinemaで見ました。これもドキュメンタリー。
上映後に作・監督のEhsan KhoshbakhtとのQ&Aがあった。

ドキュメンタリーというより個人的な映画エッセイで、現在イランから逃れて亡命状態でロンドンに暮らすKhoshbakhtが、ヒチコックの生まれたロンドンのLeytonstoneの街 - モザイクとかヒチコック関連のが街中に沢山 – を見渡したりしながら、イラン革命の前まではイランも(そこにいた自分も)みんな映画を愛していたと回想していく。

町中にふつうに映画館があって、家族で映画を楽しむことのできた時代が革命と共にどこかにいって町から、町の記憶から映画館が消えていこうとした頃、KhoshbakhtはAhmad Jorghanianという変な人と会う。この人は映画に関するものは35mmフィルムからポスターからなんでもかんでも自分の家に大量に貯め込んでゴミ屋敷をつくっていて超然としていた - 映画が好きらしい。

あの国では見つかったら犯罪として牢屋にぶちこまれる可能性があるなか、このおじさんはそれでも集める、って穴倉に運んでいてかっこいいなー、なのだがKhoshbakhtは突然彼が自動車事故で亡くなった、と聞いて…

他の国のいろんな事情を見ても、映画ってその人の人生を変えてしまうくらい強いものなんだ… というのと同じく、国による取り締まりとかを見ても劇物なんだなあ、と改めて思って。貯めこむ/貯めこんでしまうのはわかるけど、どうしようもないし。

今もどこかに埋もれていて誰かに発見されるかもしれない映画のこと、それが投影されるのを待っている映画館のことを思うと、ほんとに映画ってなんか…

こないだの”Kim’s Video”にもKim’s Underground ってあったし、映画は表象としてあるものだが、その獲得や確保をめぐる活動はいつもUndergroundでどこか犯罪ぽくもあり孤独で…. というそのありようについて考えさせられるのだった。

5.13.2024

[log] Assisi May 05-06

5月5日から6日、英国Bank Holidayの3連休の後ろの2日間を使ってアッシジに行ってきた。はじめは土日で行こうと思っていたのだが現地にたどり着くまでに1日かかることがわかり、日曜日の教会はミサなどがあるので日/月の2日とした。 その後、月曜日も午前11時には現地を出ないと夕方の飛行機に間に合わないことがわかって泣いて、これなら二泊にすればよかったのに… になるのはいつものこと。 以下、簡単なメモ程度で。

アッシジは元々行きたくてバケットリストにはずっとあったのだが98年の地震でもう無理か.. になって頭から外していて、でも2020年の秋にパドヴァでジョットを見てあーやっぱり行きたいかも! になったところでコロナ & 帰国が来てだめになり、でもこないだのクリスマスイブに見た映画は(わざと)『聖なる道化師 フランチェスコ』(1950) だったし、最近(でもないが顕著に)転んだりぶつかったり挫いたり流血したりしているのはただしくパワーを授かっていないから、お祈りが足らないからでは? と勝手に思いこんで、なら行こうか(ならもっと滞在しろよ)と。

まず朝6:30の飛行機でローマまで飛んで、空港から電車でローマの中央の駅に行って、そこから北に行ってTerontola-Cortonaの駅で乗り換えて、斜め右の南に下りていく。直線距離だとたぶん3時間掛からないと思うのだが、乗り換えで1時間以上待ったり、タイミングでこうするしかないのか、他にもっとよいルートがあるのか、わかんなくて、でもフランチェスコなら無理しないことです、とかいうよきっと。← たんに旅の企画ができないだけ。

こうしてアッシジの駅に着いたのが16:50くらい、山というか丘の上の中心近くに向かう前に駅の近くのポルチウンクラのサンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会に行った。19:30まで開いている、とあったので。中の小聖堂は工事中で足場が組んであったりしたが、すでに十分な史跡でたまんなかった。キリスト教の人だったらそれだけで泣いちゃうであろうような。

着いた時間が遅かったからかホテルの人は帰宅してて不在で、置いてあった自分宛の封筒にあったメッセージを読んで鍵と部屋(三つ並んでいる真ん中、とか)を発見して中に入り、まだ充分に明るいし見れるところは見ないと、と外にでる。

アッシジの中心部って、横に細長くてその一番奥の端に聖フランチェスコ聖堂があり、端から端まで歩いても30分くらいか。車も走ってはいるが狭く入り組んだ階段と坂だらけで、そこに大量の関連教会がひしめく全体が世界遺産になっていて、筋肉の疲労さえ考えなければ(筋肉なんてないと思えば)とっても楽しい。

こうしてまだ入ることができたサン・ルフィーノ大聖堂を見て、開いているお堂などに端から入って、日が沈む前に聖フランチェスコ聖堂も外から見ておこう、と思って行ってみる。聳え立つ、とかヴァチカンみたいにものすごく屹立して圧倒的な存在感を示す、というより桂離宮的な景色との調和のなかに建っていて、中に入れなくても夕陽のなかにあるのを見ているだけで時間が過ぎて暗くなった。

翌朝、下のお堂は6:00に開くというので、6:20くらいに中に入ると朝のお祈りが始まるところで、何を言っているのか勿論わからないし宗教的な人でもないのだが、じーっと聞くのは好きなので聞いて、終えてからお堂の下のフランチェスコのお墓にいって、一旦外に出て、でも上のお堂が開くのは8:30だったのでそれまで近辺を歩いたり、もう一回下のお堂で(お祈り中には見れなかった)奥の方にあった絵を見たりして、上のお堂が開いた後にも一通り見る。何回見ても初めて見たように入ってくるフレスコのくすんだ色のすばらしさ、なんで人が本当に浮いているように飛んでいるように見えるのか、とか。2時間以上眺めていてもぜんぜん飽きなかった。そしてイタリアにはまだこういうのが山ほどあるのね…

この後はサンタ・キァーラ修道院にも行って下のお墓も拝んで、周囲を歩いて、でもサン・ダミアノ教会はちょっと遠かったので諦めた。とにかく聖フランチェスコ聖堂がよすぎる。

食べ物は、ずっと歩いていたしそんなに。何食べてもおいしいしかないし。Umbriaの名産のSpelt strangozziっていうパスタとか。行きのローマ中央駅にあったMercato Centraleっていうフードコートは楽しかった。

帰りの電車は、乗り換えのとこで軽く30分遅れてくれて、でもだいじょうぶだった。ドイツの電車よかぜんぜん。イタリアの駅、ホームが低いのがたまんない。これが映画で映しだされるときに効くのよね。

当然また行きたい。イタリア、行っていないところが多すぎる。

5.11.2024

[film] The Fall Guy (2024)

5月3日、金曜日の晩、BFI IMAXで見ました。

これの上映が20:30からで、17時からはRough Trade Eastで新譜が出たばかりのCamera Obscuraのインストアライブがあったので、早めに会社を抜けて行った。ライブは2部構成で最初の早い時間のはサイン入りのレコードがついてて、後のはライブ後のサイン会がついている。客がみっしりであまりよく見えなかったけど、新譜からの曲も含めて元気そうに歌ってくれてよかった。”Let's get out of this country”と”Lloyd, I’m ready to be heartbroken”もやってくれた。英国に来る前、嫌なことがあると”Let's get out of this country”を頭のなかで流してがんばったことだよ。

さて”The Fall Guy”。いちおう、バンドのThe Fallとは関係ないから。 監督は”Bullet Train”(2022)の、スタントマン出身のDavid Leitch。わたしは”Bullet Train”のどこがおもしろいのかちっともわからなかったので、どうかなあ、だったのだがこれはおもしろいと思った。あれ、たぶんブラピが主演だったのが… ではないか。CGバックが当たり前でその虚構にくるまれ、そのプレゼンスが申し分ないので、それらをバックにいくらでも深刻かつ大仰な大ドラマ製作が可能となった最近の重厚長大作傾向のなか、スタントマンはこんなにもすごいんだから、を改めて打ち出しつつ – というかそれ故にか - 内容的にもB級のすかすかで燃えたり飛ばされたり落ちたり、たまんないバックステージもの。

人気俳優Tom Ryder (Aaron Taylor-Johnson)のダブルをやったりしているスタントマンのColt (Ryan Gosling)とカメラオペレーターのJody (Emily Blunt)は恋人同士だったが撮影中にColtが高いところから落下して背中を痛めて現場から遠ざかってからは疎遠のまま、やがて映画監督にまで昇りつめたJodyは変てこSF西部劇”Metal Storm”を撮ろうとしていて、主演がTom RyderなのでプロデューサーのGail (Hannah Waddingham)はColtにスタントに戻ってきてほしい、と引退状態だった彼にコンタクトしてきて、でも現場に戻ってみたら偉くなったJodyは冷めてつんけんしてて、やがてどこに消えてしまったのか現れないTomを探しに出たColtは、行く先々で理不尽に襲われて、浴室で死体を発見して、はじめのうちは調子よくスタントの技で捌いていったりするのだが、なにかがおかしいことに気付く – のだがそもそもスタントの世界は何が起こってもおかしくない世界でアクションによってそれらしく見せたり切り抜けたりするのが仕事なので簡単には終わってくれそうにない。

Jodyがカラオケで”Against All Odds (Take a Look at Me Now)”を熱唱するのと並行して走行中の車のなかでColtとStephanie Hsuと犬がくんずほぐれつのじたばたを繰り広げていくとことか、ところどころおもしろいとこはある、のだが、見せ場①、見せ場②、③.. みたいに見せるために見せてます、みたいなところがちょっと。あと、これは狙ったのだろうけど、悪役がだれだか、最初からわかっちゃうのよね。

後半は、だれかの代替としてアクションを可能な限り本物ぽく見せるだけ、という影の存在のスタントマン故の不条理なありようが滲んできたり、Jodyの恋もどれだけ叩いても虐めても絶対に死なない非現実を生きる男Coltとの間で変てこなSMのようになっていって、そこにKissの“I Was Made for Lovin’ You”のメロが何度も被さったりして、ぜったい大丈夫に決まっているけどなんか気を抜けない – 目を離せない、というむずむずした状態を維持しつつなんとなく能天気に最後まで走ってしまう。これを痛快!ってみるか、なんか騙されたかも… ってなるか、によって分かれるのかしら。

でもEmily BluntとRyan Goslingが一緒にいる絵はなんかわるくないのでよいかも。

映画の現場におけるインティマシー・コーディネーターがクローズアップされてきた流れと同じで、映画的な「おもしろさ」の背後にはこれだけのメンタル・フィジカルへのダメージを引き受ける人たちがいるのだ、という、そこをひっくり返してみたドラマで、興行として当たってほしいし、光が当たってほしいな、とエンドロールの撮影風景を見ると余計しみじみ。

第二弾も用意されているそうで、それならぜひTomCと対決してもらいたいものだ、と。

5.09.2024

[theatre] Underdog: The Other Other Brontë

4月29日、月曜日の晩、National TheatreのDorfman Theatreで見ました。
原作はSarah Gordon、演出はNatalie Ibu。Brontë三姉妹のお話で、ポスターではお揃いの紅いドレスの3人がヒップホップのレコードジャケットみたいにこちらを睨んでいる。

Brontë姉妹はふつうに好きで、前回赴任の帰国前(2021年4月)にはハワースに行って一日歩いて風に吹かれておおー、ってやってきた、くらい。

舞台の中心にはヒースの丘なのか、お花や草がきれいに、ではなく割とごちゃっと適当なかんじで植わっていて、それを囲むかたちで通路がぐるりと回転してその上を人とか馬車とかが流れていく – こちらに見えるのは半円部分のみ、というセット。

上演前に座っていたら(端の席)、いきなり肩をぐいって掴まれたので誰? って振り返ったら「あたしよあたし、Charlotteよ!」って酔っぱらいのようなCharlotte (Gemma Whelan)がそこにいて、他の客や反対側の方にも行ってちょっかいだしたり啖呵をきったりしながらステージにあがる。

この劇の3姉妹のなかで一番元気で威勢がよいのが紺のドレスの彼女で、Anne (Rhiannon Clements)もEmily (Adele James)も色違いだがシェイプはおなじで、どた靴を履いている。 あと、評判の悪い飲んだくれの長男Branwell (James Phoon)も出てくるが汚れ役のようなかんじで顔を出す程度。

先に書いたように一番元気で喋りまくり全体をドライブするCharlotteがいて、少し控えめでやさしそうな(でも書いてみたら彼女が一番XXXだった)Anneがいて、ちょっと浮世離れしたようなEmilyがいる。3人がそれぞれに夢と希望をもって自分の小説を書いて、それがそれぞれに当たったりして、男であるだけでまず認められてしまうような社会で、自分たちに対する世の中の評判や扱いが変化していって、その変化を受けるかたちで姉妹それぞれの愛や関係はどう変わっていったのか、変わらなかったのか、を特にCharlotteとAnneの関係を軸に描く。タイトルにある”The Other Other.. ”の”The Other”が誰で、”The Other Other”は誰なのか、どうとでもとれるような – というか、”Underdog”も含めてそういうことを言うのは姉妹を外から見ている世間のほうで、彼女たちはずっとこんなふうに …  という描きかた。

姉妹それぞれの代表作とか、その内容、それが世に出て評価されたタイミングや順番を知らなくても…とはやはり言い切れなくて、たぶん英国の19世紀の田舎の牧師の家に生まれた女性たち、というあたりも含めて彼女たちが小説に向かった - 小説を書いて出版するというのがどういうことだったのか – 背景のようなことを知っていた方がもっとおもしろくなったに違いない。3人のばらばらなやりとりとその反対側の粗野でバカで画一的でしょうもない当時の男たちの対比はコミカルで十分笑えたりするのだけど。

『ジェイン・エア』の作者であるCharlotteについてはなんとなくわかるけど、『嵐が丘』の作者であるEmilyについては作品世界も含めてあまり触れられていない(静かで謎めいているところで止まっている)のはしょうがないか.. というか、彼女たちの振る舞いとかお行儀とかじゃなくて、なんでこの三姉妹があんなにもすばらしい作品を - 世界中で読み継がれたり映画化されたりし続けている古典を創ることができたのか、(断片でなんとなく、はあるけど)その創作の謎と秘密にちょっとでも迫ることができていたらなー というのは望みすぎだろうか…

どうせなら全三部作にして、これはCharlotte篇、とかにしてもよかったかも。


R.I.P. Steve Albini..

あまりに突然すぎて、昨晩地下鉄のホームで声が出てしまった。 あと20日を切ったこの月末、バルセロナで会えるはずだったのに。
ギターの弦を引っかくノイズ、声帯を抜けるスクラッチ、打突の鳴りと震え、世界と空気の間に必ず現れるあらゆる摩擦音をそのままアナログのテープに傷として精緻に正確に刻んでかさぶたにする。そうやってできる音のみがマスターで、それを作ることのみに注力したエンジニア - アーキテクトでもコンポーザーでもプロデューサーでもない - すばらしい腕をもつ大工で、彼の仕事はすぐにそれとわかるしいつまでも劣化しない。その仕上げ - 触感と食感にうっとりしてしまうのでメロとか詞とかはどうでもよくなる - というのは言い過ぎか。 

ありがとうございました。

[film] Das Lehrerzimmer (2023)

4月28日、日曜日の夕方、BFI Southbankで見ました。

これの前には月1回のBFIのサイレント特集があって、4Kリストアされた”Großstadtschmetterling” (1929) –“Pavement Butterfly”を見た。Anna May Wong主演のドイツ-イギリス映画で、とっても悲しいお話しでよかった。この日はお昼に見た”There's Still Tomorrow”から女性が主人公の辛いお話しが3本続いたの。

英語題は”The Teacher's Lounge” - 邦題は『ありふれた教室』- 日本でももうじき公開されるのね。
監督はÌlker Çatak。昨年のアカデミー賞の外国語映画賞にドイツからエントリーされている。緊張感が途絶えない99分。

小学校で担任クラスをもって算数と体育を教えているCarla (Leonie Benesch)がいて、朝の挨拶(おもしろいねえ、楽しそう)から普通の授業風景になるのだが、そこに窃盗の疑いの告発があったらしく全員の財布を置いて教室を出て、とかきな臭い空気が漂い始める。トルコ人の子の財布に余分なお金が入っていることが確認されるのだが、それは親がコンピューターを買うために渡したものであることがわかったり、校長から学校としてはこういう犯罪に対してはゼロ・トレランスポリシーで対処します、という宣言があったり、ああなんかきつそう.. って。

そんなある日、Carlaは職員室の机にかけた自分の上着に入れておいた財布から現金がなくなっているのに気づいて、今度は財布を残してPCの監視カメラをONにした状態で置いておくことにする。すると、やはり現金はなくなっていて再生したビデオに映りこんでいたブラウスの模様から、同僚の総務担当のFriederike (Eva Löbau)ではないかと確信して彼女に詰め寄ると、彼女は激怒して、その場を飛びだしてしまう。後で校長がFriederikeに会っても同様、やっていないというので警察に通報するのだが、無断でビデオを撮っていたことが別の問題になる可能性もある、と。とにかくCarlaがひとり勝手に動いたのはまずかったよね、と同僚の間でも敵味方に分かれてしまう。

更によくないことに、シングルマザーのFriederikeの息子はCarlaの教室の優秀な生徒で、保護者会では先の窃盗事件の際に生徒に尋問が為されたことなどに不信感が出て、そこにFriederikeが現れて勝手にビデオ撮影をされたので警察が捜査をしている、と訴えたのでどういうことか? とざわざわしてしまう。

教室ではCarlaに対してなんでお母さんが(彼女はやっていないって言っているのに)? って問うOskarが彼女のPCを持ちだして川に投げ入れたりしたので暴力行為で謹慎処分となって、それを横で見ていた生徒たちは何が起こっているのか何か隠しているのではないか、真実を教えろ! 知る権利がある! って学校新聞で騒ぎたてて別の問題が立ちあがって…

一般的な話として、ビデオを確認した直後に直接被疑者のところに押しかけるのはまずい、とかあるのはわかるし、カメラに映っていたのは顔ではなくブラウスの柄だけだったので、本当に彼女だったのか、というのもあるし、場合によっては全員が悪くない可能性もあったりする中で、これだけの(終着点から見てみれば)軋轢と苦痛が生まれて解けない、というのはわかるようでわかんなくて、大変だなあ、しかない。

今頃日本で公開になった(のでびっくりしている)”System Crasher“ (2019)でも厳格にロジカルに主人公たちを追い詰めていく内外の規範とやればやるほどそこからはみ出て制御しようがなくなる何かの衝突があったが、ドイツという国なのか国民性なのか「システム」なのか、の大変さ – これらが自分に降りかかってきたらきっとCarlaみたいにトイレでビニール袋をくわえて泣いてしまう - がすごくよくわかる。

でも、緊張感がずっと続いて引っぱる割に、ドラマとしての決着はやや弱いかんじがあって、そこだけ。現実はこんなもんなのかもしれないし、決着はこれ - Done. ってそれを見せたらそれはそれでつまんなくなってしまうのかも知れないけど。

教育現場の教材 – こういうことが起こったらそもそもどう対処すべきなのか、を議論する材料としてはとてもよいのではないか(← 他人事)とか。

でもこれと同様のことって、教育の現場以外のところでも簡単に起こりそうな気がするし、特に真ん中に立つのがそんなに強そうでない、生真面目で叩きやすそうな女性だった場合とかに - という角度も。

主演のLeonie Beneschさんの現場の教師の緊張感と大変さ、それでも生徒と動いている時の楽しそうなかんじが残って、こういう先生は世界中にいるんだろうなー、がんばってほしいなー、しかなかった。 たまにロンドンの映画館でかかるCMに教師になろう、っていうのがあったり(軍隊に入ろう、もあるけど)。

5.08.2024

[film] C'è ancora domani (2023)

4月28日、日曜日の昼、Picturehouse Centralで見ました。
英語題は”There's Still Tomorrow”、邦題は『まだ明日がある』- 日本でも先週のイタリア映画祭で上映されたのね。

監督は主演もしている歌手で女優のPaola Cortellesiで、2023年のイタリアの映画興行収入で一位を記録した、と。 DVの描写が頻繁に出てくるのでそういうのが辛くなる人は要注意かも(という注意書きを付けてほしい)。

画面はモノクロ、第二次大戦後、アメリカのG.I.が駐留して街角に立っているローマの下町で、主婦のDelia (Paola Cortellesi)は朝起きると横で既に目覚めていた夫のIvano (Valerio Mastandrea)から有無を言わさずビンタを一発くらう、そんな一日の始まり。

他にも寝たきりで動けず、ベッドに固定されて部屋から罵詈雑言をまきちらす義父(Giorgio Colangeli)の面倒をみたり大変で、ティーンの長女Marcella (Romana Maggiora Vergano)にはそんなみっともないところを見せたくないと、彼女はやかましい猿のような弟二人と一緒の相部屋で一緒に寝てもらっている。

起きぬけのビンタだけでなく、Ivanoは何か気に食わないことがあると殴ってくるので、その兆候を確認すると子供たちを別部屋に移して扉を閉めてから黙って殴られて、その一連の動作はもうふたりのダンスのように定型の呼吸とステップになっていて、その後の謝罪も弁解もなく、何事もなかったかのように日常の動作に戻るとか、とにかくしょうもない。

長女Marcellaが近所のガキみたいにちゃらい若者と結婚することになり、自分ちより少しはお金がありそうな彼の家族を家に招いた時の一連の憤懣とじたばた – そしていまはやさしそうに見える結婚相手にもDVをしそうな兆候があることを見てしまう、とか、今はすっかり枯れて車の修理工をやっている昔の恋人からのさりげない誘いとか、井戸端会議が大好きな近所の女性たちとのあれこれとか、拾った写真を渡してあげたら感謝されてチョコをくれたりするG.I.がDeliaの顔の殴られたアザに気づいて… とか、いろんなエピソードを絡めつつ、彼女がある日に向かって決意を固めて紙をもって何かをしようとしている、その実行の時を巡ってのはらはらどきどきが…

”There's Still Tomorrow”というそのほんの少し手前、その反対側で理不尽な夫の暴力や煩わしい義父や煩い子供たちがいる日々、彼らのためにすべてを捧げなければならなくなっている日々の自分は、どこまでも底なしで終わりのない地獄としてネオレアリズモのタッチ - と言われているがどうなのか? - で描かれ、でも… というめくるめくコントラストのなかで描かれる女性たちの姿 – 特に主人公と娘の間に最後に訪れるドラマのオペラみたいな盛りあがりが楽しくて、その挫けない強さはAnna MagnaniやGiulietta Masinaがかつて演じた女性たちを思い起こさせる(及んではいないよ)のだが、なにかが足らない気がずっとしていて、なんだろうか。これで(あんなもんで)明日に向けた元気が出たりするもの?

やっぱりさー、あの夫とかしょうもないDV男どもを最後にはどうにかすべきだったのではないか – G.I.がふっ飛ばすべきだったのはあっちではなくこっちだったのでは、とか。 諸悪の根源があの辺、ってみーんなわかっていたわけでしょ? なのになんで? そしてこれだけ興行的に当たったということは、男たちも見たはずよね。- というこの辺りなんだろうな。男も女もみんなわかっているの。まだ明日がある、って。 だからまだ続いているのー。

どっちが勝った負けたとか、明日になれば、とかそういうのって、あの時代は戦争もあったしどうしようもなかったのかもしれないけど、本当は人を殴ったりひっぱたいたりするのはよくないこと - なぜなら… というところに持っていくべきではなかったのか、とか。

日本国内では映画祭なんかじゃなくて、九州地方で強制的に上映すべき。(あたったりして…)

5.06.2024

[film] The Sweet East (2023)

4月27日、土曜日の昼、BFI Southbankで見ました。なんかの特集ではなく普通の新作アメリカ映画。

Safdie brothersの”Heaven Knows What”(2014)や”Good Time”(2017)、Alex Ross Perryの”Her Smell”(2018)などで撮影を担当していたSean Price Williamsの監督デビュー作。

South Carolinaの高校生Lillian (Talia Ryder)がWashington DCへの遠足の途中のピザ屋にいたところ武装した連中に襲撃され、友達とはぐれてスマホも失くしていろんな変な人たちと出会って旅をしていくロードムービー。監督の過去の撮影作品にあった匂ってきそうなくらいにリアルで透明で、そうあろうとしすぎて見たくないものまで写りこんでしまうような印影の強さはそのまま、明るく希望に満ちたものでないが、救いようのないものにもなっていない。そういうのに対する無関心、みたいのも含めてSafdie brothersのには少し似ているかも。

最初に出会うのがアート集団のようなアナーキストのような連中を率いて威勢のいいCaleb (Earl Cave - Nickの子)で、豪快で表も裏もなさそうだったが金玉のびっちりピアス - あれ本物かなあ? - を見せられてこいつはムリ、ってそっと離脱して、お腹を空かして彷徨っていると野外でやっていた極右ネオナチ団体みたいなのの集会で、地元で教師をしているというLawrence (Simon Rex)と会って、ひとり大きな邸宅でEdgar Allan Poeを信奉しつつ静かな暮らしをしている(でも極右の)彼はLillianに服と部屋を与えてずっとここにいていいから、と言う。

でも彼と集会の準備でNYに行った際、スキンヘッドの男が持ってきた極右団体の運営資金なのか大量の札束の入ったバッグを手にとんずらして、さて、となったところで映画監督のMolly (Ayo Edebiri)とプロデューサーのMatthew (Jeremy O. Harris)に声を掛けられて彼らが撮ろうとしている映画のスクリーンテストを受けてみたらふたりの大絶賛と共に採用されて、相手役となる人気俳優のIan (Jacob Elordi - “Priscilla”のElvisの彼)にも引き合わされ、撮影が始まる。

撮影が進んでスターのIanと素人Lillianが仲良くなるとパパラッチに撮られたふたりの写真がタブロイド紙にのって、それをみた極右のスキンヘッドたちが夜の撮影現場に乗りこんできて、映画さながら - コスチューム時代劇 - の襲撃の修羅場となり、LillianはスタッフのMo (Rish Shah)に助けられて彼の家の物置に匿われるのだが、厳格なイスラム教徒である彼の家では結婚しない限りこれ以上ここには置いておけない、と言われて…

こんなふうに波瀾万丈にアメリカの東側に暮らすいろんな人たちが現れて出会っては転がされの放浪を繰り返し、周りでばたばた人が死んだり見えなくなったりしていくのだが、Lillian本人はしらーっと未練もなんもない平気な顔で切り抜けていって、でもそれらは「成長」とか「学び」なんかとも「生き延びる」みたいなこととも、「出会いが人をつくる」みたいなのともちっとも関係なさそうで、どこにも帰属しなくたってへっちゃら、よくわかんないけどみんなありがと、みたいなところに留まって、べつにいいかー、っていうお話しで、映画そのものもべつにいいかー、になってしまう。

主演のTalia Ryderのすべてがどうでもいいや、の目線と態度 - 周りを動かすわけでも呪うわけでもなくただそこにいる - って80年代的な自棄 - “Vagabond” (1985) -  『冬の旅』とか - のそれに似ているようでいて、でもどこかではっきりと他者に見られている自分をSNS的に意識している - してしまう、という辺りがおもしろいかも、おもしろくない人にはただのなんだこいつ? でしかないかもだけど。


さっきAssisiから帰ってきました。1泊だけ、夕方5時に着いてから翌日朝11時に発つまでしか滞在できなかったけど、すばらしくよかった。あそこに暮らしたら美術館いらない。 来世はお願いですからここで、って聖フランチェスコさまにお願いしてきた。


5.04.2024

[music] Cat Power Sings Dylan: The 1966 Royal Albert Hall Concert

5月1日、水曜日の晩、London Palladiumで見ました。
クラシック以外で、ホールで座って見るライブは久々で、London Palladiumに最後に来たのは2018年3月のMorrisseyだった.. すごく遠い昔の気がする。

“Bob Dylan Live 1966, The "Royal Albert Hall" Concert” (1998) - 彼のThe Bootleg Series Vol. 4としてリリースされた、マンチェスターのFree Trade Hallで録音されたのに"Royal Albert Hall”とラベルされてずうずうしく出回ったライブを2022年、ほんもんのRoyal Albert Hallで、このライブの順番通りにまるごと再現演奏したライブ盤を、更にそのままに演奏していく(だけの)ライブ。

チケットはSold Outしないまま後ろの方はずっと空いた状態が続いて、でもじりじり辛抱強く待って当日の1週間をきったところで前から6列目の正面を取ることができた。

Cat Power - Chan Marshallを最後に見たのは2014年6月、新木場のSTUDIO COASTで、その前は2013年の1月にNYで”Sun” (2012)のツアーのときので、最初に見たのは”You Are Free” (2003)のときのNYで、たしかKnitting Factoryかどこかで、すんごくだらだら勝手なペースで3時間くらいやってくれてびっくりした。最初に出会ってから20年、最後に見てから10年、みたいなのって、最近そんなのばっかりなのでよいけど(よくない)、ぜったい地球の回転おかしい。

彼女はこれの前にもすばらしいカバー集 - “Covers” (2022)をリリースしていて、その流れでのこれなのかと思って、それは単に元の作者やその曲が好きだから、というのはもちろんあるのだろうが、その際に曲の解釈やアレンジをこうして、とか自分だったら(自分だから)こうする、というのはそんなになくて、単に歌って、その声とか息遣いがその場の空気を震わせる、そのかんじが気持ちよくて好きなのではないか、今回のについて言えばあのBootleg全編を包みこんでいる空気感まるごとがよくて通しでやってみた、くらいではないか。おやじ評論家が偉ぶって言いそうな「Dylanを自分のものにしている」みたいなのとはぜーんぜん違う次元のことなので念のため。

このステージでも譜面台の歌詞を見ながら歌っているし、演奏についてはバンド任せで、歌うだけ声をだして響かせることだけに注力しているかのようだったし、しかしそれはとにかくすばらしく響いていたの。

最初のアコースティックセットはギターのHenry Munsonとハーモニカの(ピアノ担当だけどピアノは弾かない)Aaron Embryを傍に歌う。オリジナルのDylanはこの3パートをひとりで、ひとつに統合させてやっていたわけで、それをバラしてどうする? なのだがそれがせめぎ合うトライアングルの緊張を生んで、そこに放たれて、こちらにとんでくる彼女の声の強いこと。10数分以上張りつめてまったく弛まない”Desolation Row”とか、”Mr. Tambourine Man”の”Hey! Mr. Tambourine Man, play a song for me”は彼女の目の先にいるTambourine Manを探して追ってしまうのだった。

後半のエレクトリックセットのバックは6人、DylanのオリジナルはThe Hawks (もちろん後のThe Band)の5人なのだが、Dylanのギターも入れると楽器の台数としては合っているのか。 若い子たちだったが演奏はギターの彼を中心に見事に硬く固まっていて、オリジナルが醸しだしていたエレクトリックでこんなふうに鳴らしてしまってよいの? - “How Does It Feel ?” - の生意気に前のめるとこと気持ちよさが裏に表に絡まっていく緊張感はそのまま、そうやって膨らんだ空気のなかで気持ちよさそうに歌う - 声を響かせていっぱいにする。オリジナルが15曲だったから15曲だったけど30曲あったらそのままやっていてもおかしくない。

アンコールなんてもちろんない。ついでに自分の曲も、なんてのもなくて、ここではそれが圧倒的に正しいように思えて、あーんよかったよううー、って半泣きで帰ったの。


こちらもBank Holiday の三連休で、明日の朝から一泊でアッシジの聖フランチェスコに会ってくるの。会えますように。

5.03.2024

[film] Víctor Erice Short

4月22日の月曜日の晩、BFI SouthbankのVíctor Erice特集で見ました。彼の短編作品特集。

今回の特集で見れなかったのはひとつ - “Erice-Kiarostami: Correspondencias” (2005-2007) -EriceとKiarostamiの間のビデオレターで、これはまたいつか。

EriceのWikiを見ると、学生時代も含めて14本の短編を撮っているのだがそのうちの5本を。 以下、かかった順で。

Alumbramiento (2002)  12分

英語題は”Lifeline” – オムニバス映画“Ten Minutes Older”(2002)の”The Trumpet”のセグメントより。

モノクロで、1940年、バスクの農家の落ち着いた、鶏とか猫もいるのどかな風景が映しだされて、そこですやすや寝ている赤ん坊のお腹のところに血のような(カラーでも撮影してみたが、血のイメージがわかりやすすぎたのでモノクロにしたそう - )しみが浮かんで、それが少しづつ – 場面が替わって戻ってくると大きくなっている。別のところにいるらしいお母さんと思われる女性も寝ていて動かないので、死んじゃうよ大変だよ、ってはらはらしていると、誰かが見つけて大声で叫び、やがてそのしみはへその緒からのだったことがわかり(すぐに切らないの?)ほっとする。静かで穏やかな農家の光景と、そのなかに突然現れるしみとの対比、その違和が見事で、”Lifeline”というタイトルにもなるほどー って。


La Morte Rouge (2006)   33分

Ericeが5歳の時、姉に付き添われて初めて見たシャーロック・ホームズの映画 - “The Scarlet Claw” (1944)、タイトルはこの映画の舞台となるケベック州の架空の町の名前だそう - この時の決定的だった映画との出会い - 6歳のAnnaがフランケンシュタインに出会ったような? - を軸に、San Sebastiánという栄えた町、港があり大きなカジノがあって、やがてカジノは劇場になり、といった町の旧いの新しいの、そこにいた人々、映画館などの古い写真が呼び覚ます幼年期の記憶と、歳を重ねてそこから離れること、などについて彼自身のナレーションで追っていく。映画~写真~記憶という『瞳をとじて』でも繰り返されるテーマとモチーフをこの頃から、いや『ミツバチのささやき』の頃からか - 練っていたのだと思った。


Ana, tres minutos (2011)  - “Ana, Three Minutes”  5分

アンソロジーフィルム“3.11 A Sense of Home”からの一篇。ドレッシングルームで、女優としてステージに向かう手前のAna Torrentが東日本大震災の被害者に追悼のメッセージを送る。Ana – 『ミツバチのささやき』で、傷ついて小屋に逃れた兵士 - やがて包囲されて撃たれてしまう彼を看病してあげたAnaが。


Vidros partidos (2012) - “Broken Windows”  34分

オムニバス映画 - “Centro histórico” -『ポルトガル、ここに誕生す ギマランイス歴史地区』からの1本。閉鎖された巨大な繊維工場で働いていた人々の肖像 - 実際の労働者たちがカメラに向かって振りかえるそこでの日々と生活 - 彼らと家族にとっては今より若かった頃 - がどんなだったかと、かつての食堂(?)を捉えた大きな全体写真(の細部)を交互に映しだしながら、そこにあって切りとられた時間と場所、そしてそこから連続して流れている今という時間、について考えさせられる。

あとこういう形で実現されていた大量生産という仕組みについても。なんだったんだろうあれは? というあたりも。

ああいう全体写真を前にするとつい固まって見入ってしまうのだが、なにを見たいの? なにを見るの? ってつい自分に問いてしまう – すごくよいので見ちゃうだけなんだけど。


Plegaria (2018)
  - “Prayer” 7分

初めはゴミのように打ち棄てられた古い写真たちがどこかに挟まったり引っかかったりしているのだと思って、カメラは引いたり寄ったりを繰り返しながらそれらをいろんな角度、距離でゆっくり少しづつ捉えていって、やがて挟まっているのは黒い岩の割れ目や隙間で、自然にではなく人為的に挟んでいることがわかって、そこは多くの人々がやってきて宗教的なお祈りを捧げる場であることがわかって、ああ、ゴミだなんて思ってしまってごめんね、という場面ていくらでもあるなあ、って。少し離れて全体を見てみることでがらりと、場のありようも含めてひっくり返る。 空間だけじゃなくて、記憶の欠片にもそういう瞬間はあるかも。

本来は地上でも水のなかでもどこでも、そういう場 - そうじゃない場所とか土地なんて、ないはずなんだよー ぜんぶ人間の都合でさー。とまでは行かずに、お祈りというのは外から見るとこんなふうに見えたりもするのかも、って。

[film] Challengers (2024)

4月26日、金曜日の晩、Curzon Mayfairで見ました。

Luca Guadagninoの新作で、映画館でかかるこれの予告がずーっとうるさかったので早く見てしまいたくて初日に行ったのだが、客席は半分埋まっていなかったかも。

テニスもエロもあんまし興味はなくて音楽が”Bones and All” (2022) に続いてTrent Reznor & Atticus Ross組だったから、くらい。

脚本はJustin Kuritzkes – “Past Lives” (2023)の監督Celine Songの夫で、これもまた長めのレンジで描かれる三角関係のお話し、ではあったか。

冒頭、2019年、New Rochelleの”Challenger” – というテニス大会でPatrick Zweig (Josh O'Connor)とArt Donaldson(Mike Faist)のふたりがテニスコートでにらみ合いながら試合をしていて、それを客席からTashi Duncan(Zendaya)が眺めている、その試合の成り行きと2006年、仲良し高校生だったPatrickとArtがダブルスでUS Openでタイトルを取って意気揚々となり、当時からセレブとしても昇り龍だったTashiと知り合ってからの10年以上に渡る3人のあれこれを、テニスボールを打ち合うみたいに時代を行ったり来たりしながら描いていく。

メインとなるのは冒頭のゲーム、結婚して広告等でもパワーカップルになっているTashiとArtがグランドスラムまであと1歩のところで怪我などで疲れが見えているArtに自信をつけさせるべくNew Rochelle(NY郊外ローカル)の大会にエントリーしてみたら、すっかり落ちぶれて車中で寝たりしているPatrickと決勝でぶつかって、どっちもここでこいつに負けるわけにはいかない、って苛立ったり挑発しあったりしながら一進一退の試合をしていくふたりの様子とそれを客席からクールに見つめる彼女、それぞれの脳裏に去来する愛憎のあれこれが… というそれだけ。

テニスというスポーツの特性とその勝負におけるドラマ性を追う、というよりは、ぴかぴかのプリンセスにやられてしまったふたりの王子が競い合ってひとりが彼女を射止めるのだが、ずっと水面下でどろどろは続いていたのでした、という(だけの)お話しで、別にテニスじゃなくてもボクシングでも柔道でも対面でぶつかり合うゲームなら適用できそうな気がした。(あーでも、ダブルスで組んでいたふたりがシングルで別々になってとか、ひたすらテニスボールを追っかける、いうのはあるのか。追っているのはボールなのあたしなの?とか)

Tashi=Zendayaも怪我で引退する前はテニスプレイヤーで、その獰猛でかっこよいパワープレイにふたりはまずやられて、夜中、ふたりの相部屋に現れたTashiのふるまいで呪文をかけられたようになって(既にいろんな人が指摘しているように”Y tu mamá también” (2001)よね)以降のふたりの視野は決定的に変わってしまい、それくらいTashiが突出してかっこよく無敵ですごい - 夫のArtが犬のように懇願するように言う”I love you”にTashiが冷たくそっけなく”I know.”って返すシーンの飼い主の強さとか – こういうのから、ある種のサイコホラーのようなのに向かうのではと思わせ - 人と人がくっついてなめあったりキスしたり人肉食べたりする際の変態ぽい描写 – “Call Me by Your Name” (2017)の頃からそこは一貫している – はあるので、最後はラケットとネットでばりばりと、みたいなのも妄想したのだが、最後があんな方に行っちゃうのは、ふうん、て。

ラストの方、ゲームの一進一退は果てのないセックスのような反復運動を延々繰り返し、カメラがラケットの傍からボールの中にまで入ったりする変態ぶりで、そのバカみたいな機械的な運動にTrent Reznor & Atticus Ross組の軽めでコミカルな律動がうまくはまっていて楽しいったら。彼らの音の殆どは気持ちよいくらいの飛び道具機能のみ。 他の音楽だと、エモーショナルな夜のシーンでCaetano Velosoの”Pecado”がフルで流れて、それはそれは。

Luca Guadagninoは、次の(もうpost production に入っている)”Queer”(原作William S. Burroughs)- 音楽担当も変わらず -を期待したい。変にかっこつけてないで、ど変態B級サイケみたいのを垂れ流してくれればいいのに。

日本での宣伝、そうとうやかましくてうざいのになりそうだな、と思って、宣伝といえば最近映画館で流れてくるMagnumのアイスクリームのCMのばかばかしいやつ – アイスクリームが列車なの... - があって、”The Passenger”のふやけたカバーみたいのが聞こえてきたのでどこのどいつだ? って後できいてみると..(驚)

5.01.2024

[theatre] Machinal

4月25日、木曜日の晩、Old Vicで見ました。

前日には”London Tide”を見ていて、演劇を2日連続で見るのは初めてかも。ライブハウスに通うようなものだと思えばいいのか(でも演劇って、高いよね。高くなるのはわかるけど)。休憩なしの1時間50分。とてつもないテンションで一気に。

1928年にNYのSing Sing刑務所で夫を殺した罪で電気椅子で処刑されたRuth Snyder (1895-1928)を主人公としたSophie Treadwellの同名戯曲(1928)を元にしたもの。ブロードウェイでの初演時の演出はArthur Hopkins、Clark Gableの初舞台もこの劇だったと。 今回の演出はRichard Jones。

主人公のモデルとなったRuth Snyderについてはこの戯曲に留まらずJames M. Cainによる小説-”Double Indemnity” (1936)~これを原作としたBilly Wilderの同名映画(1944) - 映画とはぜんぜん違うけど - とか、Guns N' Rosesのジャケットアートとか、いろんなところに登場して、近代アメリカにおける荒れた「悪女」、「ビッチ」の原型のように扱われているような。(日本だと阿部定みたいな?)

舞台は中心奥に向かって狭くなっていく三角形で、壁には神経症的な黄色がべったり、場面によって各辺に扉がついて人が出入りするが、中心人物以外は機械的かつ統制された動きと喋りに終始するロボットで、閉塞的で逃げ場のないさまをうまく表現していて、各場面は“To Business”~“At Home”~“Honeymoon”~“Maternal”~“Prohibited”~“Intimate”~“Domestic”~“The Law”~“A Machine”と刻まれたプレートが手動で上に掲げられる。(場面構成は原作通りみたい)

Young Woman (Rosie Sheehy)が地下鉄の通勤ラッシュで半死状態になりタイプライターの機械音と噂話がやかましい職場で、老いた母(Buffy Davis)とふたりきり、息の詰まる嫌味と小言しか言われない家庭で、そんな家庭から逃れるべく職場の25歳上のハゲ上司Mr. J (Tim Frances)と結婚した後の地獄のような新婚旅行で、ぜんぜん欲しくなんかない子供の出産で拷問のような思いをさせられる病院で、諸々のはけ口を求めて通うようになった闇酒場で、そこで出会った男(Pierro Niel-Mee)と親密になり、そこから振り返ってみた家庭は改めて地獄だったのでとうとうブチ切れて、魔女狩りの裁判にかけられて、みんなが見ている前で見せしめの電気椅子へと…

最初から最後までずっと、”Young Woman”にとってそこで展開されたり会話されたり付きあわされたりべたべたされたりする日々のあれこれがどれだけ虐待や拷問に近い苦痛をもたらすものであるかが、きわめてわかりやすい機械音と頭のなかにこだまするいろんな声の反響~ノイズ、ダンスのような振付(by Sarah Fahie)やSMぽいシルエットと共にえんえん表現されていって、実際の犯行はそれらの帰結でしかないのであっさりめに描かれて、刑の執行も機械の屠殺みたいに一瞬でやってしまう。 原作から100年経った今でもこれらが、彼女の痛みのありようがすんなり理解できてしまうことが何よりもやばいかも。まあ、拷問なのだからわかるか…

余裕たっぷりの白人男性目線による自家撞着〜自爆~死刑執行もの - カミュの『異邦人』(1942)のずっと前にこんなふうに晒されたものがあったのだ、と。

主演のRosie Sheehyは、花柄ゆったりめのワンピースを着てほぼすっぴん、髪も適当で、その状態でどこまでもいたぶられ、玉突きされ踊らされ、傷だらけになっていって、それでもうるせーよ、みたいな顔をしていてすごい。所謂悪女からもfemme fataleからも程遠い、どちらかというと子供の顔をしている。
(これを欧州的な静けさのなかで構成し直してみると、例えば”Jeanne Dielman…”になるのかも)

当時のアメリカで理想とされたであろう仕事を持って職場で結婚して子供を作って幸せな家庭を .. というレールに乗った黄金のコースのぜんぶ逆をいったりやったりするとこうなるのだ、というのがいったい何の戒めになるのか、なったのか。(日本なら時代遡らなくても即簡単に作れる)

彼女は何かに逆らおうとしたわけではなかったし、周囲も彼女に何かを強いたわけではなかったのだとしたら、彼女を電気椅子に導いたのはなんだったのか?  Machinalななにか? とは。

[theatre] London Tide

4月24日、水曜日の晩、National TheatreのLyttelton Theatreで見ました。

原作はCharles Dickensの最後の(未完ではない)小説 -“Our Mutual Friend” (1864-1865) - 『互いの友』。脚色はBen Power、演出はIan Rickson、音楽はPJ Harveyがこの舞台用に13曲を書きおろしている。 休憩1回の3時間10分。

Dickensの原作は読んだことがなかったので見る前にあらすじを頭に入れておこうと思ったのだが人が多すぎて複雑すぎて諦めた。Londonの地名(Limehouse, Holborn, Lambethとか)とそこに暮らす登場人物たち(の職業など)が絡みあっている。

舞台の右手奥にドラムスとキーボード2つ。3人のバンドの演奏をバックに登場人物それぞれ(とその組合せ)がこちらに向かって歌う(歌詞はPJ HarveyとBen Powerの共作)ミュージカル的な場面もあったりする。アコギがリズムを刻んでそこに声が乗っかり、ドラムスとキーボードがどんどこ後を追っていく - 明らかに最近のPJ Harvey節なのに声(特に男声の)が彼女ではない、だけで曲の印象ががらりと変わってしまうのがおもしろい。

客席の最前列と舞台の隙間から登場人物全員が水揚げされるようにべちゃべちゃと舞台上に這いあがり、”This is a story about London, and of death and resurrection- “と歌いだすオープニング (エンディングは”London, remembered. - London, forgiven”..と)照明はずっと低め暗めで、テムズ川の水面のゆらゆらと共に絶えず揺れて落ちつかないかんじ。

ロンドンに戻ってきたところで溺死体になりすまして別の名前で生きることにしたお金持ちの(相続権をもつ)青年John Rokesmith (Tom Mothersdale)と、彼の(親が決めた)許嫁だった女性Bella Wilfer (Bella Maclean)との間に起こるあれこれ、川辺で溺死体を発見したことから怪しまれつつ亡くなった水夫の子 - Lizzie (Ami Tredrea)とCharley (Brandon Grace)の姉弟と彼らを救おうとする法律家(善いの悪いの)とのあれこれ、ふたつの恋の成り行きを軸に当時のロンドンの下層から上層まで、善人と悪人がとっかえひっかえひしめき合うさまをテムズのうねる流れ、潮の満ち引きに沿って絵巻物のように描こうとしている。原作が狙ったであろうごった煮感をうまく料理しているようであるものの、ちょっとシリアスな方に単純化しすぎて重くなっちゃったかも、というのは思った。

自分のIDを(故意に)なくしてしまった者、親が亡くなって身寄りがなくなってしまった者、助けてくれる善きひと、弱みにつけこんでくる悪いやつ、頼みもしないのにいろんな人たちが寄ってたかって湧いてきて言い争いや暴力沙汰は茶飯事で、という終わらない状態をコミカルに皮肉たっぷりに描くのがDickensの世界、であるとしたらちょっと違ったものになってしまったかも。このドラマのカップルはハッピーエンディングでよかったね - かもだけど、明日にはまたきっと別の同じようなのが、というエンドレスのせわしなさと果てのなさにドラマとして決着をつけようとしたらこうならざるを得ないのか。いっそ踏みこんでどたばたRom-comにしちゃえばおもしろくなったのに。

ただ、Dickens的な世界には行かなかったかもだが、Londonってこんなふうだよね、というのは音楽の効果もあるのだろうか、うまく表現されていた気がする。原作から160年経っているけど。 同じ都市でもイーストリバーとハドソンリバーに挟まれた(その終端には自由の女神がいる)NYとはぜんぜんちがう、うねうねとくねってどん詰まりだらけで海のようで川のようで逃がしてくれない、そこで生きるしかないあーあーと、それでも… のなにかが。

そして、Dickensというより、思っていた以上にPJ Harveyの世界、になっていたのが興味深かった(そこが、それがよかった)。 水に浸かって溺れていくイメージは”To Bring You My Love” (1995)の頃のだし、でっかい都市を描く、という点では”Stories from the City, Stories from the Sea” (2000)があるし、ヒロインの着ていた衣装は”White Chalk” (2007)のジャケットのそれだし、言葉を探しながら異郷を旅してどこまでも踏みしめつつ歩いていく、というのは詩集を含めた最近の数作でずっとやっていることだし。彼女のヴォーカルの入った”London Tide”が早くリリースされますように。

この夏にあるPJ HarveyとIvo van HoveとSandra Hüllerの演劇? プロジェクト、なんとなくチケット取ってしまってから場所がドイツであることに気づいた。しらんぞ。

[film] Cerrar los ojos (2023)

4月21日、日曜日の午後、BFI SouthbankのVictor Erice特集 or ふつうの新作、で見ました。
英語題は”Close Your Eyes”、邦題は『瞳をとじて』。

169分、だいじょうぶだろうか?(←自分が)だったが、ぜんぜんだいじょうぶだった。 『ミツバチのささやき』(1973)~『エル・スール』(1983)~『マルメロの陽光』(1992)と、これらはどちらかというと散文詩的な形でこんな世界がある(あった)、というのを示していて、Ericeが今回のようにちゃんとした(ってなに?)ストーリーを語れる人だとは思っていなかったのだが、描かれた情景やそれらイメージの連なり以上のストーリーの転がり具合に引き込まれてしまったことにちょっと驚いたかも。

映画はいくつかのパートに分かれていて、最初はある映画の冒頭部 – 第二次大戦直後、フランスの田舎のうち棄てられたような邸宅に中国人の下男とひっそり暮らすSad King (Josep Maria Pou)が反フランコ主義者のスペイン人の男性を招いて、上海で行方不明になっている自分の娘を捜し出してここに連れてきてほしい、と依頼してその写真を渡す。(ここまで)

で、これが90年代初に、スペイン人男優Julio Arenas(José Coronado)の突然の失踪により制作が中断された映画”The Farewell Gaze”の冒頭部であることがわかり、時間は現代になって、その映画の監督をしていたMiguel (Manolo Solo)が、未解決事件を追うTVドキュメンタリー番組に出演してJulioの失踪についてわかっていること、思い当ることなどを話すべくマドリードにやってきて、倉庫からお蔵入りとなっていたあれこれを掘り起こして、当時映画の編集を担当していたMax (Mario Pardo)と会って当時の話をしたり、古本屋にあった自分の著作 – メッセージつきで献本したのが売られていた – からかつての恋人 / Julioの恋人でもあった - Lola (Soledad Villamil)と会ったり、Julioの娘のAna (Ana Torrent)と会って手がかりを探してみたりするのだが、もちろん何も出てこないし、出てくるとも思っていないぽい。どちらかというと自分の過去とか、なんで自分はこんなことをしているのか、を掘って向き合っていく作業となる。

最後のパートは放映されたTV番組を見た女性からあれは彼かも.. という知らせを受けたMiguelが彼の暮らす療養院を訪ね、間違いなく彼かもと思いつつ、いまは施設の修繕仕事をしながら過去の記憶すべてを失っている彼の扉を叩きはじめて。

身近にいた人がいなくなる、失踪することについての映画で、冒頭の映画も人探しの依頼からだし、中心となるMiguelのJulio探しもそうだし、Miguel自身が映画の世界から身を引いて半世捨て人状態だったし、Julioは自分の過去がどうだったのかを見出すことができず、そして娘のAnaにとっては – とくるとEriceの最初の2作で、娘から見た父の謎とその先にある失踪はあらかじめ用意されていたかのようだし、とにかくみんな(なにかを探しているのか忘れたいのか、事情はいろいろありつつも)どこかに失踪してしまう、それが生き(のび)るひとのふつうのありようではないか、と思えてきたり。

そしていなくなってしまった人を探す際のカギとなるのが目に訴える古い写真だったり、映画だったり、それにまつわるありかなしかの記憶の欠片だったり。記憶がそれらの映像を運んでくるのではなく、どこかに挟まれた写真や缶からに入ったフィルムから、それらの朧な記憶が引きだされて、そうしてかき集められた記憶がその人のかたち、イメージを改めて浮かびあがらせる、という順番・構図(?)。

その過程で”Close Your Eyes”という指令は(どこから?)どこにどんなふうにきいてくるのか?
この映画のポスターで、目を閉じたQiao Shuのアップの手前でMaxに映写を始めるように指示を出すMiguelのイメージが意味するところは? ひとはどうしてなにかを思いだそうとするときに目を閉じてしまうのだろうか?…など。

記憶はいっつもどこかに行ったり消えたりしてしょうもなくて、写真や映画はぼろぼろになったりしながらも、どこかに残ったり挟まったりしながら、突然発見されたりする。 古本もな.. だからよれよれと映画館に通うのだし、床に本を積んでしまうのじゃよ…

映画 -”The Farewell Gaze”をフルで見たい。絶対傑作だと思うし。実はもう作ってあるのではないか。

あと、Victor Erice本人がどこかに行ってしまいませんように。その予告となりませんように..

AnaとMiguelが会うプラド美術館のカフェ、こないだあの辺に座ってケーキを食べた。 すごく居心地のよい素敵なカフェなの。