11月15日、金曜日の晩、Curzon BloomsburyのDoc-Houseで見ました。
今年のベルリンでプレミアされ、Panorama Audience Award for Best Documentary Filmを受賞している。
その際にパレスチナのBasel AdraとイスラエルのYuval Abraham、共同監督のふたり(あともう2人クレジットされている)が同じテーブルで会見できないことが話題になったりしたのを憶えている。
監督のBaselが、子供の頃からずっと住んでいたWest BankのMasafer Yattaの家を軍の戦車によって潰され、家族親戚揃って問答無用で追い出される様子が描かれる。Baselはその様子をカメラで撮る。何度撮るのをやめろ、軍の訓練用に使うことになった土地だから、と執拗に陰険にやってきて彼らを追い払い、抵抗する住民に銃を向け - なんの躊躇もなく撃ったりするイスラエル軍の様子を、Baselは何度でも、カメラを取り上げられそうになっても逃げて、撮り続ける。
「ここからどけ、他に行け」というイスラエル軍に対して「他なんてない」 - “No Other Land”だ、というやり取りが延々繰り返されていく、それだけの映画である。
人は生きている限り住む場所を必要とする。どこそこに行け・移れ、と言うのではなく、その場所から出ていけ、というのは、お前なんて消えてなくなれ、と言っているのに等しくて、イスラエルのやっていることはそういうこと、彼らにこの地上から消えてほしい、と明確に告げていて、これは彼らがガザでやっている虐殺とも整合することなので驚きはない。
最後の方で軍の訓練で使う土地だから、とイスラエル側の理由づけも彼らのウソだったことがわかり、そんなウソをついてまで他者に向かって消えてくれ、と言う - なんでそんなことを言えるのか、は本当にわからないし、わかりたくもない。過去に同様のことをされて土地を追われた - そんなことが理由になってよいわけがない。
少しだけ救いなのはどれだけ追われても暴力をふるわれても、岩だらけの土地に住処を拵えて水や電気を引いてこれまでと変わらない暮らしを続けていく彼らの強さと、どこからどうしてやってきたのか彼らと寝食を共にして撮影に参加してくるイスラエルの若者Yuvalと、そんな彼がそこにいることを許すBaselたち、だろうか(日本人だったらみんなで袋叩きにするのではないか - 既に起こっているようだが)。
自分がこれまで見てきた映画の多くは、「ここではないどこか」へ移ること、移れることを自明の理として、その前提に立って展開されるものだった(拘束されたり閉じこめられたりの不条理・非現実も含めて)。この映画で描かれるリアルは本当に、実際にそういうことが起こるとどうなるかを淡々と示す。ポスターには岩場に寝転がっているBaselの姿があるが、本当にそれしかできないのだ、ということ。そうなった時に映像には何ができるのか、それでも何をすべきなのか、を問う。
いまの世の中は、どれだけ酷いことになっても誰も助けてくれない状態 - 司法は機能しないし正義や倫理が成り立たない状態 - が十分にありうる、ことを嫌と言うほど見せてくれる。自分の周囲で本当にこういうやばい状態になった時への備えも含めて、まずは異議を唱え続けるしかないのか…
11.30.2024
[film] No Other Land (2024)
11.29.2024
[film] Bird (2024)
11月17日、日曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
監督はドキュメンタリー”Cow” (2021) がよかった英国のAndrea Arnold - 他には”Wuthering Heights” (2011) とか - で、これはフィクション。
Barry KeoghanとFranz Rogowskiという、英独を代表する肉の痛みとうねり剥き出し系男優が一緒に出ているので、ものすごく肉体として痛そうな描写とかあったらやだな、だったのだがそれはなかった。 そんなことより、小さい作品だったけどすごく沁みてよかった。予告を見たときは、またこういうの(とは?)かー、って思ってしまったことを反省。
12歳の女の子のBailey (Nykiya Adams)が主人公で、郊外の廃屋のような集合住宅に父親のBug (Barry Keoghan)と暮らしていて、彼のタトゥーだらけの上半身はいつも裸で、近所をスクーターですっとばしていてご機嫌に変なダンスを踊ったり歌ったり、とっても機嫌がよいのでなぜ?と聞いたら、ここんとこ一緒にいるKayleyと結婚するんだおまえも式にでろ、衣装も買ってきたからほれ、って。頭にきた彼女が家に戻らず、異母兄で自警団をやっているというHunterと会ったりしていると、草っ原の真ん中で浮浪者みたいに怪しげなBird (Franz Rogowski)と名乗る男と出会う。彼はかつて住んでいた家とそこにいた母親を探している、というのだがそれらしいアパートに行ってみてもいなくて…
Birdの持っていた住所が自分の生母のいるところと同じアパートだったので、彼女なら何か知っているかも、と訪ねてみると幼子たちを連れた彼女はしょうもないDV男と暮らしていて、どいつもこいつもー になる。「家族」が嫌で、そこから弾かれたひとりの少女が日々表情を明るくしたり暗くしたりしながら家を、家族を探して彷徨うお話しなのだが、どこに行っても解決できそうな状態なんてなくて、みんな家畜や鳥や虫と同じようにそこらを移ろいながらどうにかしていくしかない。でもよく見てみれば鳥だって虫だってふつうに強いし。
どうやって生計を立てているのか謎のBugもちんぴら稼業のHunterも、まあ雑な、政治とかどうでもよいし金が入って日々楽しく過ごせればの、今の典型的なうざくて厄介で関わりたくない男性像そのもので、誰もBaileyのことをわかってくれない状態だったところにきょとんとした鳥顔で現れたBirdは、そのぽつんとビルの屋上に立つ姿も含めてBaileyに鳥の目の高さと自由を示してくれるようで、でもBirdは最後まで鳥の気高さを失わずになんかかっこよいの。
カメラはずっとひとりぼっちのBaileyに寄り添い、ゴミ箱に捨てたくなるどーでもよいゴミ男たちをてきとーに流して、Birdの、彼の家族に対する思いとBaileyのそれを並べてみせる。どれだけ酷く扱われて棄てられても、「彼ら」と自分らがいることは動かしようがなくて、そこから飛ぶことも渡ることも還ることもできる。
Barry Keoghanは相変わらず余裕ですばらし - この人の幅の広さって独特 - いのだが、やはりFranz Rogowskiのすごさ。Michael Keatonの”Birdman or (The Unexpected Virtue of Ignorance)” (2014)を軽く超えて鳥にしか見えなくなる。
音楽は監督がPVを撮ったりしているFontaines D.C.の鳴りっぷりがパンクでかっこよくて、こいつらよいかも、って今更…
というわけで、おうちに飛んで帰ります。
ばたばたすぎてぜんぶだめだった…
11.28.2024
[dance] Exit Above - after the Tempest
11月12日、火曜日の晩、Sadler’s Wellsで見ました。
8月にEssenのMuseum Folkwangでのインスタレーション”Y”を見て以来となるAnne Teresa De Keersmaeker / Rosas作品。Folkwangのは絵画の展示スペースで演者も見る方もランダムに動きまわっていく通常のとは違うやつだったが、これはステージ上で客席と会い対するやつ。初演は2023年の5月。どこかしら”Bagavond”ふう - マンガじゃなくて映画のほう - の衣装はAouatifBoulaich。休憩なしで80分くらい。
がらんとした舞台の隅にはギターが数本立ててある、だけ。最初に男性のダンサーによるストリートダンスぽいソロの後、ギターを弾く坊主頭のCarlos Garbin、それに合わせて歌を歌う小柄なMeskerem Mees、彼らもダンスには加わって計13名がこちら側に向かって直線的な集合離散を繰り返していく。
自分が知っているRosasのダンスはダンサーの束がひたすら流れを作ってその流れに乗って乗られてという滑らかな流線の縁に沿って進んでいくものだったが、この作品のテーマはRobert Johnsonのブルースを起点とした歩くこと、彷徨うことにあるという。ギターの人が琵琶法師のようにじりじりとアーシーなギターを鳴らし、そこに小さな女性がよく届く澄んだ歌声を乗せ、それにのっかるダンスはてんでばらばらのようで垂直方向(Exit Above)への突破というか抜け道を探しているような動きを見せる。 “after the Tempest” – すべてがなぎ倒されてしまった嵐の後に人が向かうのは、動くのはあんな角度の、あんな速度の群れ - になるのだろうか。やはりどこかしらコロナの後、という印象が強く、まとまった全体・総体を見せる、というよりはこれからこっちの方、という予兆のようなもの見せているような舞台だった。
上演後、Anne Teresa De Keersmaekerを交えたQ&Aがあり、彼女が喋る姿をはじめて見たかも。
これまで約45年間で65作品を作ってきて、コロナもグループ内の虐め問題も経て、落ち着いて今とこれからを見据えている、そんな印象を受けた。
MaddAddam
11月14日、木曜日の晩、Royal Opera Houseで見ました。
翌週の出張の日程を考えると、この日を逃したら見れなくなることがわかったので、当日にチケットを取って見にいった。
原作はMargaret Atwood - 本舞台のコンサルタントとしても参加している - のMaddAddamトリロジー (2003-2009-2013) - 未読、振付はWayne McGregor、音楽はMax Richter(のオリジナル)、ナレーションで声をあてるのはTilda Swinton。初演は2020年のカナダで、これがヨーロッパでの初演となる。
スクリーンがあり、プロジェクションがあり、ライティングは滑らかに制御されていて、人の倍くらいの大きさの被り物クリーチャーが出てきて、衣装(by Gareth Pugh)はやや近未来風で、まずは↑のと比べると(比べるな)ものすごいお金がかかっていることはすぐにわかる。 パンデミック後の荒廃したディストピアで、でっかい組織のコントロールとそこからの遺棄や逃走~再生、生物・非生物をめぐる壮大な愛と絶望(と希望?)の物語 – らしきものが展開されていることはわかるのだが、自分がダンスに求めているのはその種のでっかい物語的な何かではないので、ちょっとううーむ、になった。Oryx役のFumi Kaneko、Crake役のWilliam Bracewell、Jimmy役のJoseph Sissensなど、個々のダンサーもダンスもアンサンブルも申し分ないレベルなので、ややもったいなかったかも。この原作が表そうとしていたのかも知れぬ権力やコントロール、ひとに対する制御のありようと、コンテンポラリーダンスの(おそらく自分が求める)向かうところがなんか噛みあっていないような。
Wayne McGregor & Max Richterだと、”Woolf Works”がすばらしくよかったので、ここで示された過剰さ、てんこ盛りのかんじってなんなのだろうか、って少しだけ。
11.25.2024
[theatre] OEDIPUS
11月11日、月曜日の晩、Wyndham's Theatreで見ました。
古代ギリシャ悲劇をRobert Ickeが翻案し、演出もしていて、2018年にオランダで初演され、2019年にエジンバラの演劇祭でも再演されたもの。休憩なしで約2時間。
冒頭、幕が下りた状態で選挙キャンペーン中のOedipus (Mark Strong)のプロモーション映像が流れる。結構長めに有権者の発言から彼自身の揺るぎのない言葉と自信に満ちた立ち姿、そんな彼を支える妻Jocasta (Lesley Manville)まで、出生証明書? 勿論ちゃんと出しますよとか、どこの代理店が作ったのか政治家として申し分なさそうな好い印象を与えて、幕が開くと選挙戦が終わって後は開票結果を待つばかりの彼の事務所になる。
舞台の右手には開票結果が出る迄の時間だろうか、デジタルの文字盤が舞台上で経過する時間とシンクロしてカウントダウンしていって、頭の切れる実践者としてのOedipusと現実を見て漏れなくカバーしていく庇護者としてのJocastaのコンビは勿論、彼の子供達にずっと一緒のスタッフたちからキャンペーンを仕切っていた義兄のCreon (Michael Gould)まで、人々が慌しくざわざわ行ったり来たり、事務所を片付けたり宴をしたりしつつも最後まで感触が悪くなかったせいか皆一様に明るく騒がしく既に緩やかなお祝いムードで、それでもこれまでとこれからについてCreonとの間でちょっとした波風が出ては消え、ひとりぽつんとやってきたOedipusの母Merope (June Watson)がどうしてもあなたに言っておきたいことが、と何度か出てきて、いまちょっとバタバタだからごめん、と脇にどいてもらっていた彼女が最後に…
開票直前のこんなタイミングになんでどうしてそんなことを?というドラマとしての強引さのようなものはあるものの、これがいろんなレベルで「政治」の根幹を揺るがすスキャンダル - どころではない大ごとであることは確かなので客席のほうは「ひぃ」って固まって悲劇が転がっていくのを見ていることしかできない。
全くだれることなく張り詰めた状態のままに(選挙)戦の熱狂からどん底の最後までじりじり持続させていく構成は見事だし、ギリシャ悲劇のテーマをこんなふうに現代の選挙戦に織りこんで見せるのっておもしろいと思いつつも、これを現代の選挙/政治のありように接続して語るのであれば、あのエンディングの後を見たいし、見せるべきではないのか、とか。せっかくあれだけの俳優を揃えたのだからさー
Lesley Manville は、2018年にJeremy Ironsと共演したRichard Eyre演出の”Long Day's Journey into Night”の舞台を見て、ただそこに立っているだけ、その背中だけでも.. のすさまじい存在感に圧倒されたし、Mark StrongはNTLの”A View from the Bridge” (Arthur Miller)でやはりすばらしい輪郭線だったし、そんなふたりの激突なのでなにが起きたって大抵のことは、でだから猶のこと、あと少し… これが演劇だ、みたいな瞬間はいっぱいあるけど。
悲惨な結末であることは確かで、でも他方でこれがなんで現代の悲劇として成立しうるのか、については人によっていろんなことを言えたり考えたりする余白、のようなものを与えてくれたりもする、という点では、よい意味で開かれている気もして、いろんな人に見られてほしいな、って。
11.23.2024
[film] Red One (2024)
11月10日、日曜日の午後、Leicester Squareのシネコンで見ました。
クリスマス映画で、ポスターの真ん中にあんなようなでっかい白熊がいて、Dwayne JohnsonとChris EvansとLucy Liuが並んでいたら、これぜったい見なきゃ、ってふつうなるよね。
“Red One”と呼ばれる超人のようなハイパフォーマーであるサンタクロース(J. K. Simmons)がいて、Dwayne Johnsonは彼のガードを含む警備隊長をずっとやってきたのだがもう引退することを考えていて、でもクリスマスイブを控えたある日、Chris Evansのチンピラハッカーが厳重に管理されていたサンタの場所を漏らしてしまったので、悪の組織がサンタクロースを誘拐・監禁して、世界中のクリスマスを混乱させて真っ暗にしようとして、Dwayne JohnsonとChris Evansがどつきあいながら救出作戦に乗りだすの。サンタはプレゼントをイブの晩に配達することができるのか? って。 設定もストーリーもぜんぜん悪くなさそうなのに、ぜんぜんしまらない展開になってしまったのは、白熊がフロントに出てこないのと、巨大トナカイ戦隊を自在に働かせなかったのと、Lucy Liuにちょっとしかアクションさせなかったからではないか。 どうせならFast & Furiousのシリーズみたいに、だいじなのは家族と筋肉と車、みたいに吹っ切ってぶっ飛んだどんぱちにすればよかったのに。
というか、サンタがあんなマッチョな超人で、あれだけ厳重装備と組織で守られているのに、なんでプレゼント配りしかしないの? 子供たちの願いをかなえてあげるのが、仕事なんじゃないの? って、“Elf” (2003)に出てきたサンタのすばらしさを改めて思った。
『ダイ・ハード』の約10倍の予算を使った作品だそうで、あーなんてもったいない、そのお金で子供たちになんかしてあげた方がどんなにか、っていうアンチ・クリスマスの方に行ってしまう危惧すら。
Christmas Eve in Miller's Point (2024)
11月17日、日曜日の昼、ICAで見ました。
これもクリスマス・イブを描いたコメディで、↑のの100倍くらいよかったかも。
作(は共同)・監督・プロデュースはTyler Thomas Taormina、今年のカンヌでプレミアされている。
出演もしているMichael Ceraはプロデューサーとしても参加している。
クリスマス・イブの晩、Balsano familyの夫婦や子供たちが代々から続く一軒家にどこからか集まってきて、Michael Ceraは車の中でスピード違反とかを監視している警官(この後も何度か出てくるがほぼむっつり何もしない)で、家では料理作るのが大好きなおじさん(よくいる)が大量の料理を作っては盛大に並べていて、仲良い親戚 - よくない親戚 - 知らない親戚たちはとにかく朗らかにキスしてハグして子供たちは床とか隅とかにわらわら散っては固まり、とにかく意外な光景は何ひとつない。お正月、盆暮れで見慣れた動物たちの群れを見事な編集で繋いでいくなか、誰が誰なのか、どういう関係や過去があったりするのか、などがぼんやりと浮かびあがってくる。飽きずにいくらでも見ていられる絶妙な滑らかさ。
いつの間にか宴が始まってからも老人、夫たち、妻たち、子供たちのサークルは群れては解れを繰り返し、小さな波風は立つものの見知らぬ誰かのとんでもない狼藉が何かをぶち壊すことはなく、寧ろその輪郭を強く温かく固めていって、そのうちみんなで恒例らしいイブの晩の消防車のパレードを見に行って、そのうち女子ふたり - Matilda Fleming & Francesca Scorseseがそこを抜け出して車で夜遊びにでて行ったり、大人たちはおばあちゃんが亡くなった後のこの家をどうするかについて議論していたり、それでも… (以下延々)
みんなの定番”Love Actually” (2003)や、こないだの”That Christmas” (2024)のように無理しなくても、誰かが誰かを抱きしめたいと思ったり願ったりする、それさえあれば、その兆しが見えるのであれば、クリスマス映画なんてこんな金太郎飴でよいのだ、というのを確信させられてしまう。そしてそこに魔法も筋肉もいらない。
そして、ラストにThe Ronettesの”Baby, I Love You”が大音量で流れるので、それだけでもう何も。
11.22.2024
[art] Paris -
今回は(前回も、か)主要美術館など、いくつかを走り抜け。
Figures du Fou - From the Middle Ages to the Romantics
Musée du Louvreでの「愚者の形象」展。中世の写本から始まって、愚者や道化や狂気はどんなふうに表象されてきたのか、彫刻から絵画からいろんなシンボルまでExpo的に並べてある。日本のお化けや妖怪に近い - 日常の言葉やコードが通用しないなにか、非日常への畏れと誘い、と落としていくと民俗学的な展示になりがちなところをうまく絵を繋いで見せていったような。
映画”Joker: Folie à Deux” (2024)とコラボしたと聞いて、えーあれとはぜんぜん違うんじゃねえの? とか。
ボッシュがあって、ブリューゲル(父子)はもちろん、ロマン派~ゴヤまで。彼らが描いていた当時、こんなふうなバカ博覧会でネタ化されて並べられるなんて思いもしなかっただろうなー。そして出口のところにぽつりとあったクールベのなんとも言えない不気味な孤独さ - この辺が転換点だったのか。
Revoir Watteau - An actor with no lines Pierrot, know as Gilles
同じくルーブルで、↑のと関連しているのかもだが、ヴァトーの『ピエロ (ジル)』(1718-1719) がその修復を完了して、その記念で古今のピエロや道化を描いた作品を特集展示している。ピカソとかフラゴナールのピエロとか、写真だとピエロに扮したガルボやサラ・ベルナールの肖像なども。
それにしてもヴァトーのピエロ、見れば見るほど不思議で哀しそうで引き込まれる。 あのロバさんとか。
これだけじゃなくてピエロのイメージって、↑の愚者のとは別に、エモに訴えてくる不思議なところがあるよね。
Apichatpong Weerasethakul - Particules de nuit
Centre Pompidouに移動してこれ。Apichatpongのインスタレーションは恵比寿や清澄白河で他の作家の作品と混ざった状態で見たことはあったのだが彼の作品のみ、しかも隔離された別館で開催されていて、ほぼお化け屋敷状態ではないか、と。
小部屋が7〜8つくらい? 座って見れるのも歩いて変化を見るのも、こちらが見る・見ていくというより向こう側がこちらを捕捉してくるような妖怪の不穏な動きでやってくるイメージとか光の粒たち。そこに人が写っていたとしてもそれはもう人ではない何かになっている。それがTilda Swintonさんであっても。
光が消滅していく夕暮れや消滅した状態の夜にカメラを持ち込んで、そこに写りこんでくるものを定置網みたいに好きに放っておくとあんなふうになる、の? そこから光とか闇とか陰って、一体なんなのか、何でできているのか、と。
Surrealism
Centre Pompidouでのでっかい展示。本拠地はここパリだから忘れんな、というめちゃくちゃ気合いの入った展示だった(えらく混んでいたが)。
シュールレアリズムというと、小学生の時に坂崎乙郎の新書の説明を - 教科書の他に家にあったのはあれくらいだったの - 何度も読んだものだったが、あれに掲載されていた作品の殆どが並んでいたのではないか、というくらいのてんこ盛り。Leonor Fini、Remedios Varo、Leonora Carringtonなど、女性作家も沢山。物量で歪んで圧倒されていく現実など。
カタログ、これは買ってよいかもと思って手にとったのだがガラス棚にあった重いやつの方を欲しくなり、そっちにしたらその後も重すぎてしんだ。
Chantal Akerman: Travelling
今回はJeu de Paumeでのこれを見に来たの。セクションごとに代表的な作品とその関連資料を並べてあるのだが、昨年のシネマテークでのアニエスの展示と比べるとそんなでもない気がしてしまったのは、Chantalは作品にぜんぶ出てて、出してあって、それで最初に街をぶっ飛ばしてしまっているので補足の説明とか経緯とかそんなにいらないのかも。他方で、アニエスは猫なので、猫の足跡はぜんぶ追いたくなる、というか。
カタログもJoanna HoggらによるRetrospective Handbookも既にロンドンで買ってあったので、ポストカードとトートを買った。
Harriet Backer (1845-1932) The music of colors
オルセー、カイユボット展は予約いっぱいで入れずー でもこれがよさそうだったので入る。
ノルウェーを代表する女性画家で、ピアニストだった妹がいたりピアノを弾いていたりする室内の情景を多く描いていて、それは同じく部屋にいる女性を描いたデンマークのVilhelm Hammershøi (1864-1916)ともフィンランドのHelene Schjerfbeck (1862−1946)とも微妙にあたりまえに違っていて、展示スペースにピアノ曲が流れていたように、音楽が聞こえてきて部屋の空気がうっすらと膨らんでいるように見えなくもない。
あと、最後に本がいっぱいになった本棚の絵があって、それだけですばらしいではないか(積んであったらもっとよいな)、とか。
Céline Laguarde (1873-1961) Photographer
20世紀初フランスの女性写真家の特集展示 - ”Étude”とだけ題された女性の肖像写真たちがただただ美しく、ピクトリアリズムとはこういうものかー、と。
Paris Photo
Grand Palaisでの展覧会 - ではなく、写真に関する見本市の初日。これまでLondon Photoには行ったことあったが、パリのは初めて。こんなにでっかい規模のものだとは思わなかった。みんな豪勢に商談などをしている異世界で、せいぜい上のフロアで出版社や書店の展示を見ていく程度。Spector BooksのブースでJonas MekasのNew York Diariesなどを買った(← 写真とあんま関係ない)。 あとTwin Palms Publishersで、”Fifty Books: 1981–2024”ていう記念冊子をただでもらった(彼らのサイトで$45で売ってる..)。
ここまでで十分よれよれになり、それでもLa Grande Épicerie de Parisで食材などを見たり買ったりしないと気が済まないので、カートを押してヨーグルトとかバゲットサンドとかハムとかを買いこんで、地下鉄で北駅に向かって、22時過ぎにおうちに戻ったの。
というわけで日本にきて、ようやく週末なのだがあれこれ苦手すぎてぜんぶしんどい。
11.17.2024
[film] Mediha (2023)
11月9日、土曜日の夕方、Curzon Sohoで見ました。
正式公開を前にしたドキュメンタリーのPreviewで、上映後に監督Hasan Oswald(とあと一名)とのQ&Aつき。Executive Producer はEmma Thompson。
昨年のDOC NYCでGrand Jury Prizeを獲っている。DOC NYCって、たまたまNYにいた時に第二回があって参加したけど、よい映画祭になってきたねえ。
2014年、ISISの侵攻〜虐殺によりYazidiの村が襲われ、父母、弟たちと平和に暮らしていたMedihaの一家は連れ去られ、家族は散り散りとなり、彼女は10歳で見知らぬ男に妻として買われ、そこから転売されて数年間、5年前に救出されて避難キャンプで別のところから戻ってきた双子の弟たち(末の弟は不明)と一緒に暮らし始めたところ。
監督がMedihaにカメラを渡し、カメラを手にした彼女は自分や弟たちにカメラを向けて自分たちが今いる場所について〜自分たち家族に起こったことを語り始める。なので、映画には監督がMedihaたちやISISの拠点から人々を救出するスタッフの姿を撮った映像、Medihaが弟たちやキャンプの生活を撮った映像、更には姉に教えられた弟たちが撮った映像の3種類があって、でもそれぞれに大きな段差はない。なんでこんなことになっているのか? の重い問いかけは3者に共通している。
話としてはとにかく酷くて陰惨で、父も祖父も行方不明のまま、母は後の方の調査で生きているらしいことはわかったが他の男の妻となり、その男の子供もいて名前も変わっているので救出/帰還の話を持ちかけても戻ってくるかどうか微妙、と言われるし、末の弟はトルコの方で別の家族に売られていて、買い戻した(!)あとにキャンプにやってくるのだが、ママがいないと寝れないなんで引き離した、って延々夜泣きがひどいし。
比較できるものではないが、やはり最もひどいのは現地で売られたMediha本人が語る自分の身の起こったことだろうか(注:具体的なところまでは語られない)。本人にそれを語らせるのって酷くない? と思ったが、上映後の監督の発言によるとMedihaの方からきちんと語りたいと言ってきたのだそう…
宗教とか原理主義とか見ている世界が違うとか第三者がいくらでも慮って言うことはできるだろう。けど普通に幸せに暮らしていた家族や一族や民族の生活をある日突然勝手に壊して潰してよいわけがない。許されてはならない。
ここだけじゃない、今の(いや、ずっとそうなのかも知れない)世界はこんなのばっかりで辛すぎて考えるのを止めたくなるけど、彼らが生きて晒されているのは考えたらどうなる、という世界ですらない。どうしたらよいのだろう…
終映後のQ&Aでも今のメディアはパレスチナとウクライナばかりで、現在の危機として重要であることは確かだけど、この問題もシリアのも、ずっと継続していて、なんの罪もない市民が理不尽に殺され続けている。報道の流行り廃りのようなことも問題、と。その通りではあるけど…
少しだけほっとした(でよいのか?)のは、Medihaは今はNYで暮らしていて、シティガールとして街にも馴染んで、人権問題の法律家になるべく勉強をしているのだそう。(アメリカの上映会には顔を出しているって)
地方選の結果を聞いて、ますます子供の頃に聞いた発展途上国の選挙みたいになってきたなーやだやだ、って思っているところに、少しだけ出張で帰国します。映画も音楽会もこっちで見たいのが山ほどあるのにー。
というわけで更新は少し止まる、か。