8.29.2015

[log] August 29 2015

ここんとこの出張がことごとく後味わるいかんじで潰されてきたのであああったまきて休暇を取って、これから逃避の旅にでるの。いまの泥みたいな陽気も逃げだすのにはちょうどよいふうに萎れてやがるぜ。

この時期だともう欧州は寂しそうなので米国かなー、でもNYにすると歯止めなしの休暇どころじゃなくなってしまうしー、ポートランドも魅力的だけど4日間は長いかなー、そんなふうに見ていくとやっぱし西海岸かあ、としたとき、SFより北だとちょっと仕事くさくなっちゃうかあ、と、結局去年とおなじLAにしてしまった。 適度に気楽で映画館と本屋とレコード屋があるけど離れているので走り回る必要がなく諦めもきいて、そこそこ未開と発見の地があって、食べものはどうにでもなりそうなかんじ、となるとな。

と、いうわけで気分だけでも盛りあげようと、行きのNEXでは、iPodでJoni Mitchellの"California"きいて、Lunaの"California (All the Way)"きいて、Mazzy Starの”California”きいて、Rufus Wainwrightの”California”きいて、The Wedding Presentの”California”きいて、Beach Boysの"California Girls"きいて、The Magnetic Fieldsの"California Girls"きいて、Katy Perryの"California Gurls”をきいた。 結構あるもんだねえ。 そう盛りあがるもんでもなかったが。

こんかいのは誰がなんと言おうと断固ぜったい休暇なので、あんまし計画は立ててなくて、ライブがひとつくらい、映画は、みっつ見れればじゅうぶん、そんなもん。そんなもんですませたい。

唯一、ほんとに心残りで残念でならないのは30日のデモに参加できないことだよ。
この、くそみたいなさいてーの夏をなんとか乗り切れたのは毎週金曜日の国会前があったからで、その最大かつ最後の(最後にしたいよねいいかげん)大突撃に加勢してあいつらの息の根を止めるのをこの目で見届けられないのはくやしいけど、魂はつねに、あの場所に飛んでいくから。 帰ったときにはうっとおしかった夏も政権も終っていますようにー、という夢想。そしてこの夢を夢のままで終らせてはいけないの。

ではまた。

[art] Cy Twombly - Fifty Years of Works on Paper

やや順番は前後するが、こちらから。 22日の土曜日の昼、原美術館で見ました。
ここに来るのはなぜかいつも盛夏の頃で、これはむりだ、とタクシーに乗ってしまうので入場代とは別に1460円かかってしまうの。 だからどうした。

紙作品を中心に、ということなのだが、のぞむところだ、なの。
紙の肌理、でこぼこ、乾き、縁とか境目とか、紙の表面に亀裂や裂け目、白く平らな紙はこれらの痕跡や段差を必要とする、或いはこれら余白に向かう力のようなものが紙の表面を呼びこむ、というか。

そして例えば、こうしてどこかから呼びこまれた線の強弱や連なりのごにょごにょの果てに”Orpheus”とか”Adonais”とか”Pan”とか”Venus”とか”Apollo”といった固有名 - とくにギリシャの神とかの名が認められた瞬間、脳のはじっこに走る電気みたいなやつの不思議。 神って案外あんなふう?

或いは紙の上に現れて置かれたいろんなのが、「修道女の専門書のための研究」とか「理想的結婚の風景」といったタイトルに導かれて旅をする土地とか時間とか経験とか、それらはどんな線を描いてこの紙の上までやってきたのか、とか。

そして更に - 沢山の”Untitled”絵画が呼びこむ排気口のようなスプリンクラーのような渦と混沌の前に我々はなにをどうすることもできやしない。 猫が猫じゃらしに永遠に踊られてしまうように、我々の目はあの線や曲がりや滴りやくるくるの軌跡の虜となってまわり続けて、だれかとめて! なのだがなんか気持ちよいので止めることができない。なぜあんなものをずうっと凝視してしまうのだろう。

紙なのに、というか、紙であるからこそ、というかの異物感、存在の際立ちが圧倒的で、それははっきりと抽象表現主義の作家の流れ - 基本は線と色彩のせめぎ合い - から彼の作品を隔てているような気がした。 こないだのブリヂストン美術館でのWillem de Kooningとはまた異なる、印刷されたカタログでは見えない、なまものがそこにあるかんじ - グラフィティ / スクリブル。

帰ってからバルトの美術論集にあるCT論を読みなおした。 ゲームではなくプレイ、プレイではなくプレイイングである、と言い、これらは概念(トレース)ではなく活動(トレーシング)に属し、さらに活動が展開される限りでの場(紙面)に属するのだ、と。
なんかねえ、実物を見てから読むと腑におちまくりで、バルトの詐欺師っぷりを改めて強く認識したのだった。


このあと、怒濤の5週連続となってしまったアテネフランセに向かったの。

8.28.2015

[film] Dressing Up (2012)

20日の木曜日の晩、渋谷で見ました。

中学生の育美(祷キララ)が、父親とふたりでニュータウン(たぶん)の新居に越してくるところから始まる。
母親は既に亡く、父親はシングルで苦労して育ててきた/いるらしい。 引越し荷物のなかに育美は母親の遺したノートを見つけて興味を持って、母親はどんなひとだったのか父親に聞いてみるが余り答えてくれない。 育美は無口でとっつきにくくて、でも人なつこく寄ってくる近所の女子とか虐められっ子の男子とかと知り合って、彼らと一緒に過ごしていくうちに、彼女の牙とか爪とか凶暴さがだんだん顕わになってくるの。 

やがて彼女は過去にも同様の問題を起こしていたこと、そういうことをするのに躊躇いがないこと、などがわかってきて、それは母親の遺したノートに書かれた言葉やイメージを素直になぞっているので、母がそこにいるような、母が自分のなかにいるような気がしてくる。  そういう状態のときに現れた怪しげな男はどうやら母のことを知っているようで、これって自分の祖父なのか、だとしたら自分は何故この男のことを知らないのだろう、とか。

それは母親が彼女に遺したものだったのか、そもそも母親はなんでそんなふうになってしまったのか、自分もそれと同じ道を辿ることになるのか、それにしてもそれはほんとうに、どれくらい悪いことなのか?  などなど。  迷って苦しんで、救いや答えはどこかにあるのかないのか、たぶんないのだろうな、とか。

ここには青春映画の一途さと刹那があり、青春映画だから答えは得られないし、なにかが停止することもないし、見晴らしのよい出口もない。
唯一あるとすれば、自分は母の娘なのだという確信、というよりは、自分は自分の親なんだ、という確信と決意で、映画はその一点に向かうトンネルを抜けていく旅だから、ホラーみたいな描写があっても、施設に送られたとしても、あまり凄惨さや悲惨さはない。 母親が怪物なのだとしたら、自分にもその血ははっきりと流れていて、自分の手にはナイフがあって、でもだからどうしろと言うのか、と。

これらの想念すべてが育美の表情と眼差しに収斂していくラスト、あそこですべての謎も不安も恐怖も悲しみもフラットになる。 解決はしないけど、頭のなかは風や嵐でぼうぼうかもしれないけど、少なくとも地面に立っていられることがわかる。
という低めに腰の据わったラストの描き方が本当にすばらしくて、ここを描きたかったのだろうなー、とか。

上映後には真魚八重子さんと監督のふたりのトークがあった。
男性の「映画関係者」が「女性監督」(日本ほど女性の映画監督が「女性監督」て言われる国はないよ)をいじる、みたいな場になりそうだったら帰ろうと思っていたのだが、全てが腑におちてすーっと入ってくる見事なまでに爽やかな内容で、映画の印象をちっとも壊さない - この映画の場合それがなにより - デザートでしたの。

8.27.2015

[film] Terminator Genisys (2015)

そういえば見るの忘れていた、と、18日の晩、日比谷でみました。 割とどうでもよかったのだけど。

おそらくパート1の冒頭にあったのと同じ未来から始まって、John Connor (Jason Clarke)が率いる戦いも終盤、Skynetは壊滅寸前で、あと一歩てとこで、Skynetは最終兵器としてのTerminator - パート1と同じくぴちぴちの - を送りこんだことがわかり、反乱軍もKyle Reeseを後から追っかけで派遣し、とにかくSarah Connor (Emilia Clarke)を守るように指令をだす。 ここまではパート1とおなじ。 でも、過去に送られる直前にKyleはJohn Connorの背後になんか悪い影を見かけて、更に80年代のLAにたどり着いてみると、Sarah Connorの横には既にぽんこつになりかけの旧型ターミネーター(T1: Arnold Schwarzenegger)が侍っていて、Sarahはとっくにいろんな事情を承知していた、と。

つまり物語は、一回目のタイムトラベルを経由したあとの、二巡目か三巡目かのサイクルにはいっていて、その流れで、あの金属飴みたいな新型の(T2)も早速現れて(おなじ顔にしとけや)、それに対する策も既にあって、どうせなら全部予定調和でいいじゃん、なのだが映画としては過去からの積み重ねを踏まえつつ、びっくりさせたりしないといけないから大変だなあ、とかおもった。
結局のところ、未来ていうのは、そういう延々続くループのなかにあって、それが終らない限りにおいては確かに予測できないし、閉じないし、ただそういうところも含めてお先まっくらであることは確かなのだった。

でもさあ、それやりだしたらなんだってありだよね、ていうのはT1の頃からみんなが言っていたことだと思うがそんなこと今更言ってもしょうがないので、T1のすっとぼけた劣化(あんな説明あるもんか)とか、気持ちわるい笑い顔とか、T1への教育と学習とか、わりとどうでもいいことに突っ込んでてきとーに納得するしかない。 世界が突然まっくらになったりしていない以上、まだ人類は負けていないらしいね、とか。

でもさあ、2017年に世界規模のシェアを持つOSだかなんかが現れてそこから一挙にあの状態になだれ込む、みたいな話はないよ("The Circle"とかも、みんなそういう枠組みがだいすきみたいだけど)。

考えるのがめんどくさいので、どうせだから、未来からやってきたフランケン執事 = ドラえもん、が未来から次々やってくる敵と戦う、みたいにしちゃえばよいし、実質そんなもんでしょ。
ほんとうは、フランケンが未来から落ちてきて、Sarahと出会って教えたり教わったり、のあたりから描くべきだったと思うし、そっちのほうが見たいかも。

Kyleは最初のときのMichael Biehnと比べるとずいぶん... 足が短くなったかも(フランケンもいるから彼とは恋には落ちないとおもう)。Sarah役のEmilia ClarkeはLinda Hamiltonよりはいいかも、とか。

T1のときの訳のわかんない奴に訳わからず延々追い回される悪夢と恐怖(ほんとpureな恐怖)からは随分遠いところに来たもんだねえ、て思った。 (自分が殺されるかも、ていう恐怖から逃げるところは同じかも知れないが、そこに人類とか未来とかが挟まることで変わってくる意味、とか)

8.25.2015

[film] '71 (2014)

16日のごご、幽霊にうっとりしたあとで、新宿に移動して見ました。
幽霊は怖くなかったけど、こっちはとっても怖かった。

『ベルファスト71』

英国軍で黙々と訓練をしていて、施設にいる弟の面倒も見ているGary (Jack O'Connell)が紛争地帯のベルファストに駐留する英国軍のひとりとして派遣される。

そこは普通の住宅街であるが、近隣住民の英国(軍であれなんであれ)に対する敵意や殺意はそこらのガキのも含めて半端じゃなくて、結構うんざりしょんぼりになる。
翌日、家宅捜索の後方警護に行くことになり、上官は戦闘にはならないはずだからヘルメットは不要、ていうのだが案の定一触即発になってふざけんじゃねえ、て住民達に囲まれて止むを得ず防戦しているとどこからか銃を持ってきたガキが目の前で発砲、一緒に訓練を受けていた相棒は即死してしまう。 動転しつつもなんとか逃げだして、追手を撒くのだが、右も左もわからない町で、誰が敵か味方かもわからない状態(敵対するカトリックとプロテスタントが通りを隔てて隣接している)で、逃げる、かくまわれる、爆破される、怪我をする、かくまわれる、逃げる、隠れる、がぐるぐる続いていく、そんな明けないひと晩のお話し。 90分台がちょうどよい。

同じ英国軍のなかでも軍と警察と工作部隊がいて、地元の支援組織のなかでもそれらのどこかに接点があったり、地元は地元としてまるっきり敵、まるっきり味方というわけではなく、当然顔を知ったりしているので、ソーシャルの線は単純ではない。 そういうなかで迷子になるなんて想像しただけで頭と胃がいっぺんに痛くなるのだが、とにかく逃げて、生き延びて自軍の、自分の顔を知っている人たちのところに行かないとやばい。 3m先は闇の状態。

"Die Hard"みたいな「ついてない」系のノリではなく、自分の周囲はとりあえずぜんぶ敵と思え、気を抜いたら殺される、殺さなければ殺される、の切迫感と、始終止まないとてつもない殺気の総量がすごくて、怖くて、ふるえるしかない。

最後にくるのは、すべてがなし崩しの、やはりそうなるしかなかったか、としか言いようのない凄絶な殺し合いで、これも誰しもが思うであろう「なんでここまで...」 の非情さと無力感がびっちり。

後始末の軍法会議みたいな場で、片方は「戦争だ」といい、片方は「治安活動だ」という (ほらな)。

最後の撃ち合いなんて敵の縄張りに迷い込んでしまったやくざ同士の抗争、のようにも見えるのだが、これはどんな国の紛争にも、戦争にも、治安活動にも、後方支援にも、71年とは言わずどの年号にも置換可能なそれで、それはつまり動いているののとどめを刺す、人が人を殺す、ということでしかないの。 わかってるよな。

というようなところで、「野火」と並んでいま見ておいたほうがいい映画だと思ったの。

音楽は、David Holmesさんで、ささくれに塩をすりこんで紙の端でつーってやるようなギターがしみて痛いよう。

8.24.2015

[film] The Ghost and Mrs. Muir (1947)

16日の日曜日の昼間、シネマヴェーラの特集『映画史上の名作13』で見ました。

『幽霊と未亡人』
Joseph L. Mankiewiczのやつだから当然みるの。 さめざめしんみりしたい夏、と。

夫を早くに亡くし、意地悪そうな義母と義姉と一緒に暮らしていたルーシー (Gene Tierney)が、一人娘 (Natalie Wood ..まだ8歳くらい)とメイドと3人で決然と家を出て自分たちの家を借りるところから始まる。 一軒、不動産屋がここはやめたほうがいいですよ、ていう海辺のコテージがあったのだが、見に行ってみると彼女は気に入ってそこを借りることにしたら、やっぱしそこに住んでいたという男の船乗り - グレッグ船長 (Rex Harrison)の幽霊がでてくる。 こいつは海の男だもんだからミソジニーぷんぷんで、でも気丈な彼女はぜんぜん負けないで、なにが幽霊よちっとも怖くないしこっちは生活かかってるのよ、とかやり返しているうちに、だんだん二人は仲良くなっていくの。

やがて亡夫の残した遺産が紙切れ同然になって生活できなくなった、と彼女は泣いて、そしたらグレッグ船長は、俺の船乗り生活を本にして出版しようぜったいにおもしろいから、と言って彼女は彼の語りをして原稿に纏めて、そうしてふたりの時間を過ごしているうちに更に仲良くなっていくの。

で、その原稿を持って行った出版社で知り合った人懐こい男 (George Sanders)と彼女は仲良くなって、船長はあいつはよくないぞやめとけ、て忠告するのだがルーシーは聞かなくて、そいつとの再婚まで考えるようになったあたりで船長は彼女の幸せのために消えることにするの。 もともと消えてるんだけどさ。

ここですんなり終わると思ったら更に長い長い時間をかけて物語は転がっていって、とっても素敵な終わりかたをするの。 幽霊にとって愛は永遠なんだわ(うっとり...)

あと、この幽霊はひとを怖がらせるだけで、決して呪ったりポルターガイストしたり邪悪なことをしたりしないの(ルーシーは最初に娘の前には姿を見せないでね、て彼に頼む)。 海の男として海の見える部屋にぽつん、ているだけなの。 Rex Harrisonのがっちりした佇まいがそこにはまって、よくてねえ。

Mrs. Muirの”Muir”って、ゲール語の「海」なんだって。

幽霊いてもいい、海辺であんな暮らしがしたいなあー。

[film] Jurassic World (2015)

15日の21時過ぎ、MI5のあとにそのままフロアをひとつ上って、見ました。
これ、昼間だとガキがうるさくて嫌かも、と思ったので夜中の回にした。

普通の3Dで、MX4Dとかいうのはどうかなあ、と、まだなんか試す気にはなれない。
映画をアトラクションとしてわーわー楽しむ、ていうのは別にやってれば、て思うけど、アトラクションの楽しみと映画の楽しみって別のものだよね。 自分が映画に求めるのって、同じものをモノクロのサイレントにしても迫ってくるなにか、なのだろうなー、とか。 

たしか”Jurassic Park III” (2001)のラストで、翼手竜が悠然と島の外に飛んでいったので、そのあたりから繋がるかと思ったのだが、どちらかというと93年の最初のからの地続きらしい。

両親の関係が微妙になっている兄弟がふたり、バケーションで恐竜の島に送られて、弟ははしゃいでいるものの兄はどうでもいいかんじで、島で彼らを受け入れる叔母 (Bryce Dallas Howard) はJurassic Worldの会社の重役で忙しくてそれどころじゃないので、VIPパス渡すからあとは好きにしといて、で済ませたい。

オリジナルのお話しが恐竜を現出させて彼らの生息圏 - Jurassic Park - を作る、というところで発生したいろんな問題を科学者と一緒に乗り越えよう、ていうのだったのに対し、こんどのは恐竜の世界 - Jurassic World - としてはビジネスも含めて出来上がっていて、恐竜のこわさとかリスクも十分わかった上で、その世界をどうやってまわして収益を出していくのか、というのがテーマのひとつになっている。対応しなければいけない問題も、科学者がなんとかする領域から軍人が統治する方向に質が変わってきている。

で、ビジネスの要請もあって遺伝子操作で「設計」されたすごく凶暴で知能も優れた恐竜を作りあげたらそいつが脱走して園内大パニック、ていう筋書きも、周囲から都合よく放置された子供たちがそこに取り残されて、それをなんとかするために、地道に小型恐竜の訓練を仕込んでいた元軍人 (Chris Pratt)が動き出す、ていう流れもすごくお馴染みでわかりやすくて、その流れのなかで腹黒い連中がガブガブやられていくところも、まるで意外なところはないの。

そういうなかで、どこまでおもしろくできるんじゃろ、て思わないでもないのだが、なんかおもしろいのよ。
80年代によくあった、初期インディ・ジョーンズとかもそうだけど、おおらかで無責任でご都合主義てんこもりの冒険 - 二社択一の過酷なサバイバルゲームではない、やったらできちゃったじゃん、みたいなてきとーなノリが、なに考えてるのかわからない恐竜相手にうまく機能している。

で、そういう予測不能な恐竜の動きがだんだんに加速して制御しきれなくなったところで一気にパニック映画から怪獣映画に変貌するあたりの、それどころじゃないジェットコースター感も見事だと思った。 あれじゃゴジラの「南海の大決闘」だし。 子供にとっては最高の夏休み映画だよね。

嫌な奴がやられてしかるべき、の掟から外れて唯一へんな動きをしたBryce Dallas Howardさんの位置もおもしろい。 見境なくなってでも懲りずにだんだんパワーを増していく謎の女。 あんなハイヒールで走り回るところも含めて。
でも続編あるとしたら、どうするんだろ。生き残りの責任とらされて当然クビだと思うけど。

監督は、"Safety Not Guaranteed" (2012)のひとで、あれ、変な映画だったけどおもしろかったもんね。

あと、子供のころ恐竜図鑑が友達だった子にとっては、すべてが驚異的で、夢みたいな映画だとおもった。アンキロサウルス(のしっぽ)とモササウルス(ばっしゃーん)が見れただけでいいの。