やや順番は前後するが、こちらから。 22日の土曜日の昼、原美術館で見ました。
ここに来るのはなぜかいつも盛夏の頃で、これはむりだ、とタクシーに乗ってしまうので入場代とは別に1460円かかってしまうの。 だからどうした。
紙作品を中心に、ということなのだが、のぞむところだ、なの。
紙の肌理、でこぼこ、乾き、縁とか境目とか、紙の表面に亀裂や裂け目、白く平らな紙はこれらの痕跡や段差を必要とする、或いはこれら余白に向かう力のようなものが紙の表面を呼びこむ、というか。
そして例えば、こうしてどこかから呼びこまれた線の強弱や連なりのごにょごにょの果てに”Orpheus”とか”Adonais”とか”Pan”とか”Venus”とか”Apollo”といった固有名 - とくにギリシャの神とかの名が認められた瞬間、脳のはじっこに走る電気みたいなやつの不思議。 神って案外あんなふう?
或いは紙の上に現れて置かれたいろんなのが、「修道女の専門書のための研究」とか「理想的結婚の風景」といったタイトルに導かれて旅をする土地とか時間とか経験とか、それらはどんな線を描いてこの紙の上までやってきたのか、とか。
そして更に - 沢山の”Untitled”絵画が呼びこむ排気口のようなスプリンクラーのような渦と混沌の前に我々はなにをどうすることもできやしない。 猫が猫じゃらしに永遠に踊られてしまうように、我々の目はあの線や曲がりや滴りやくるくるの軌跡の虜となってまわり続けて、だれかとめて! なのだがなんか気持ちよいので止めることができない。なぜあんなものをずうっと凝視してしまうのだろう。
紙なのに、というか、紙であるからこそ、というかの異物感、存在の際立ちが圧倒的で、それははっきりと抽象表現主義の作家の流れ - 基本は線と色彩のせめぎ合い - から彼の作品を隔てているような気がした。 こないだのブリヂストン美術館でのWillem de Kooningとはまた異なる、印刷されたカタログでは見えない、なまものがそこにあるかんじ - グラフィティ / スクリブル。
帰ってからバルトの美術論集にあるCT論を読みなおした。 ゲームではなくプレイ、プレイではなくプレイイングである、と言い、これらは概念(トレース)ではなく活動(トレーシング)に属し、さらに活動が展開される限りでの場(紙面)に属するのだ、と。
なんかねえ、実物を見てから読むと腑におちまくりで、バルトの詐欺師っぷりを改めて強く認識したのだった。
このあと、怒濤の5週連続となってしまったアテネフランセに向かったの。
8.28.2015
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