8.28.2015

[film] Dressing Up (2012)

20日の木曜日の晩、渋谷で見ました。

中学生の育美(祷キララ)が、父親とふたりでニュータウン(たぶん)の新居に越してくるところから始まる。
母親は既に亡く、父親はシングルで苦労して育ててきた/いるらしい。 引越し荷物のなかに育美は母親の遺したノートを見つけて興味を持って、母親はどんなひとだったのか父親に聞いてみるが余り答えてくれない。 育美は無口でとっつきにくくて、でも人なつこく寄ってくる近所の女子とか虐められっ子の男子とかと知り合って、彼らと一緒に過ごしていくうちに、彼女の牙とか爪とか凶暴さがだんだん顕わになってくるの。 

やがて彼女は過去にも同様の問題を起こしていたこと、そういうことをするのに躊躇いがないこと、などがわかってきて、それは母親の遺したノートに書かれた言葉やイメージを素直になぞっているので、母がそこにいるような、母が自分のなかにいるような気がしてくる。  そういう状態のときに現れた怪しげな男はどうやら母のことを知っているようで、これって自分の祖父なのか、だとしたら自分は何故この男のことを知らないのだろう、とか。

それは母親が彼女に遺したものだったのか、そもそも母親はなんでそんなふうになってしまったのか、自分もそれと同じ道を辿ることになるのか、それにしてもそれはほんとうに、どれくらい悪いことなのか?  などなど。  迷って苦しんで、救いや答えはどこかにあるのかないのか、たぶんないのだろうな、とか。

ここには青春映画の一途さと刹那があり、青春映画だから答えは得られないし、なにかが停止することもないし、見晴らしのよい出口もない。
唯一あるとすれば、自分は母の娘なのだという確信、というよりは、自分は自分の親なんだ、という確信と決意で、映画はその一点に向かうトンネルを抜けていく旅だから、ホラーみたいな描写があっても、施設に送られたとしても、あまり凄惨さや悲惨さはない。 母親が怪物なのだとしたら、自分にもその血ははっきりと流れていて、自分の手にはナイフがあって、でもだからどうしろと言うのか、と。

これらの想念すべてが育美の表情と眼差しに収斂していくラスト、あそこですべての謎も不安も恐怖も悲しみもフラットになる。 解決はしないけど、頭のなかは風や嵐でぼうぼうかもしれないけど、少なくとも地面に立っていられることがわかる。
という低めに腰の据わったラストの描き方が本当にすばらしくて、ここを描きたかったのだろうなー、とか。

上映後には真魚八重子さんと監督のふたりのトークがあった。
男性の「映画関係者」が「女性監督」(日本ほど女性の映画監督が「女性監督」て言われる国はないよ)をいじる、みたいな場になりそうだったら帰ろうと思っていたのだが、全てが腑におちてすーっと入ってくる見事なまでに爽やかな内容で、映画の印象をちっとも壊さない - この映画の場合それがなにより - デザートでしたの。

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